鉄の塊が空を切る音が耳元を掠める。もしその音を聞き損ねていたとしたら――つまりは正面から受け止めていたとしたら、確実に頭蓋骨の中身を撒き散らす結果になっていただろう。
それが有用なことだとわかってはいても、スパイクのついた鉄棒を紙一重で避けるというのは神経の削られる行為だった。目測を誤っていれば軽く触れるだけでも致命傷になりかねない武器であり、万一直撃などすれば首から上と別れを告げることになるかもしれない。
だが盛大に肝を冷やしつつも、どうにか成功したようだった――鉄棒を振り下ろしたままがら空きになっている相手の背後に向かって、剣を振り抜く。
犬の頭をした怪人が、雄叫びともつかない絶叫を上げた。その場でぐらりと体勢を崩し――しかし鉄棒を支えにして、踏み止まる。椎名は舌打ちした。
(浅かったか)
一旦距離を取る。あの鉄棒は剣で受け止められない――そんなことをすれば間違いなくへし折られるだろう。まず相手の一撃をかわして、無防備になったところを仕留めるしかない。その為にはもう一度、凶悪な形状をしたあの鉄の塊を紙一重で避けなければならないのだが――
苦悶じみた唸り声を上げつつ、怪人が再び得物を持ち上げた。それを野球の打者のような姿勢で構え、踏み込んでくる。
(……横かよ!?)
先程の失敗を教訓にしたのか、振り下ろすのではなく薙ぎ払おうとしているようだった。上にも下にも避けられそうになく、後ろに跳ぶしかない。
再び重量のある風切り音が響く。ただし今度は紙一重とはいかなかった。着地した場所から即座に攻撃に転じるには距離があり過ぎる。
――と思っていたのだが、怪人の背中の傷は存外に深いようだった。振り抜いた鉄棒を制御しきれない様子で、たたらを踏んでいる。
(……なるほど。なら――)
椎名は大きく前方へと踏み込んだ。怪人がこちらの動きに反応し、再び鉄棒を振り回す――ただしやはり自身の武器に振り回されているのか、やや上向きの一撃だった。
その場に滑り込むような感覚で上体を思い切り落とす。殺人的な重量が頭上を通り過ぎていくのを確認する間もなく、椎名は構えた剣を全力で突き出していた。強烈な手応えと共に、刃が怪人の脇腹から背中にかけて一直線に貫通する。
再び怪人の絶叫が響く。だが椎名は勢いを殺すことなく、そのまま怪人を押し倒す程の勢いで突進していた。剣が一層深く突き刺さり、怪人の手から鉄棒が滑り落ちる。
それを見逃さず、椎名は腕を伸ばした。鉄棒の柄を空中で掴み、倒れかけている怪人の側頭部へと叩きつける。
ずん、と鈍い音が響き、怪人の口と言わず眼窩と言わず、顔の至るところから体液が飛び散るのが見えた。完全に糸の切れた人形のようにだらりと四肢を投げ出し、地面へと倒れ込む。
倒れた怪人が動かなくなったことを見届けてから、椎名は剣を引き抜いた。べっとりと刀身に付着した血を振り落とす。
(どうすっかな)
右手の剣と左手の鉄棒と。武器としてはどちらも有用と言えるのだが、流石に両方を同時には扱えそうにない。
(……ま、ようやく使い慣れてきたところだしな)
しばし考えてから、椎名は鉄棒の方を手放した。
――と。
(……まだいるのかよ)
前方に黄色い小さな人影を見つけて、椎名は再び剣を持ち上げた。今度は犬ではなく、豚の頭をしている。
(なんだ? さっきから急にバケモノ共が次々と――徒党を組んでやがるってのか?)
あちこちから聞こえてくる悲鳴を鑑みるに、襲われているのは自分だけではないようだった。複数で同時に学校の敷地内へ入り込んでいるらしい。
豚頭の人影が背負っていた幅広の刀を構えるのが見えた。だが向かってくる様子も飛びかかってくる様子もなく、じっとこちらを待ち構えているようにも思える――あるいは単に臆病なだけか。
だが椎名としてはどれでも良かった。剣を構え、一直線に駆け出――そうとした瞬間に。
不意に豚怪人の身体が揺れたかと思うと、そのまま真横に転倒した。持っていた刀も取り落とし、動かなくなる。
(…………あん?)
踏み出しかけていた足を止めて、椎名は疑問符を浮かべた。今のはまるで、側面から撃たれたような――
「椎名くん!」
聞き覚えのある声と、続いて複数の足音が聞こえてくる。そちらを見やると、女子生徒――相澤菜緒、だったか?――と迷彩服を着た男がこちらへと駆け寄っているところだった。
「椎名くん、無事?」
妙に覚束ない足取りで菜緒が近づいてくる。今にも倒れそうだった。が、椎名はそちらには答えず、もうひとりの男の方へと視線を向けていた。
「あんた……自衛隊の人間か?」
迷彩服にヘルメットという、軍人でなければサバイバルゲームに興じている輩としか思えない恰好のその男に向かって、椎名は尋ねていた。男は持っていた小銃の銃口をこちらから逸らしつつ、
「はい、陸上自衛隊の者です。到着が遅れてしまい、申し訳ありません。何分、人手が足りないもので――」
「…………なに?」
男の言葉に、椎名は思わず聞き返していた。
「どういうこった? あんたら、何人くらいで出張って来たんだよ?」
「それは、その……自分を含めて、この避難所に派遣されたのは十人になります」
言いにくそうな様子で答えてくる。椎名は眉をひそめた。
「……はあ? 十人って――」
「仕方ないのよ、椎名くん。あのね、信じられないことなんだけど……」
答えてきたのは菜緒だった。男と同じく、言い辛そうに視線を逸らしつつ、
「その、ここに回すことができたのは、一班だけで……他の隊員のひと達は、別の場所に当たってるらしいの」
「他だと? おい、まさか――」
「はい、お察しの通りです」
男が神妙な面持ちで頷く。
「あの謎の生物は……日本中に出現しています」
――流石に、返す言葉がなかった。
「そのせいか、我々の指揮系統も非常に混乱しておりまして……実を言えば、隊内にも少なからず被害が出ているのです。その為に出動が遅れてしまい――」
男が心底から申し訳なさそうな様子で言ってくるが、椎名はまだ言葉を返すことができなかった。
(……マジ、かよ)
建物ひとつではなく、街ひとつでもなく――国ひとつが、正体不明の怪物に蹂躙されている。最早災害か、天変地異の類だ。
(どうなってやがる……冗談抜きに、この世の終わりが来たってのか?)
こちらの沈黙をどう受け取ったのかはわからないが、男は声のトーンを上げて、
「ともかく、皆さんの身は我々がお守りします! ここは危険ですので、建物の中に避難していてください!」
言うと再び小銃を構え、走り去って行った。程なくして、あちこちから銃声が聞こえ始める。
「……椎名くん、とにかく建物の方に――椎名くん?」
まったく違う方向へ歩いているこちらを不審に思ったのか、菜緒が背後から声をかけてくる。しかし椎名は答えずにそのまま倒れている豚怪人のところまで歩くと、傍らに落ちている刀を拾い上げた。
(……ま、こいつなら似たような感覚で使えるだろ)
幅のある刀――確か、柳葉刀とかいう代物だ――を眺めつつ、剣の方をその場に投げ捨てる。どちらも片手で扱えるサイズではあるのだが、二刀流をする気にはなれなかった。
「……椎名くん? なにしてるの?」
「見てわかんねえのかよ。武器の調達だ」
菜緒の質問に適当に答えつつ、刀を軽く振って重さを確認してみる。さっきまで使っていたものとはバランスが違い、また重量もあるようだったが――悪くない。
菜緒はやはりふらふらとした足取りでこちらへと歩きながら、
「武器、って――もうそんなの、自衛隊のひとに任せるべきじゃない? わたしたちは素人なんだから、下手に手を出さない方が」
「連中の人数を考えろ。さっきから妙にバケモン共が多くなってるし、十人程度でここの敷地全部をカバーできるかよ」
周囲から聞こえる銃声は散発的なものだった。敷地ではなく建物だけに絞ったとしても、それでもその程度の人数で全てを守るには広すぎるのだ。どうしたところで目の行き届かない箇所というのは出てくるだろう。
と、椎名はふと思いつき、たったさっき捨てたばかりの剣を拾い上げた。菜緒の方へと向き直り、
「おい」
「え?」
彼女に向かって、剣を放り投げる。菜緒は呆けたようにそれを眺めていたが、
「――きゃっ!?」
慌てて身を捩り、避けた。剣がその場にあえなく落下する。
「い、いきなりなにするの!? 危ないじゃない!」
「…………使えって意味だ。なに勘違いしてやがる」
文句を言ってくる彼女に、半眼で言い返す。
菜緒は、え、と小さく唸り、
「こ、これを、わたしが? でも、危なくないかしら?」
「包丁くらい握ったことあんだろ。刃物の扱い方なんざ、大差ねえよ」
「そりゃ、あるけど……」
恐る恐るといった様子で、落ちた剣を拾い上げる。
「でも、一口に包丁って言ったって、種類は色々あるし……わたし、洋包丁は果物ナイフかパン切り包丁くらいしか、使ったことないんだけどな……」
なにやらぶつぶつとつぶやいているが、どうでもいい。
……先程の鉄棒という選択肢もあるにはあったのだが、どう考えても彼女にあれを振り回せるとは思えなかった。扱えないだけならまだしも、すっぽ抜けてこちらに飛んでくるようなことになってはたまったものではない。
菜緒は剣を片手で握ったり両手に握り替えたりしつつ、
「……ねえ椎名くん、言いたいことはわかるけど、やっぱり自衛隊のひとに――」
「もう遅いぞ」
最後まで聞かずに即答する。椎名は彼女の方を見ていなかった。
「……え?」
こちらの視線を追って、菜緒が振り返る。
ひっと、彼女が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。その気持ちは、わからなくもないが。
そこにいたのは、まあ人影と呼べなくもないものだった――頭部と四肢があり、そして二本の脚で直立しているのだから、人型には違いないだろう。ただし全身がまるで剥き出しの内臓のような色をしており、おまけに顎から股間まで、身体の前面をほぼ覆い尽くすように巨大な口が開いている。口というか、肋骨だけを残して体内の器官をすべて取り払ってしまったようにも見えるが。
そして何よりも異常だったのが、その目だ――眼窩があるはずの場所からは表皮と同じ色をした蔓のようなものが伸びており、その先端に黄色い眼球がくっついている。
「こいつはまた……」
既に色々な怪物を目にしてきたが、目の前のこれはグロテスクさにおいて格別なように思えた。菜緒が生理的な嫌悪感を抱くのも無理はないだろう。
顔面から触手を生やしたそれは――果たしてこちらが見えているのかどうかわからないが――ゆっくりと近づいていた。椎名は一歩、前へと進み出ると、
「おい、動けるか?」
「え……?」
背後の菜緒へと声をかける。
「お前、さっきからまともに動けてねえだろ。どっかおかしいんなら、さっさと逃げろ。邪魔だ」
きっぱりと言い放つ。菜緒は一瞬戸惑ったようだったが、
「だ、大丈夫。なんとか……動けるから」
「そうか。なら……自分の身は、自分で守れよ」
言って、椎名は刀を構えたまま怪物へと突進した。怪物の動きはひどくゆっくりとしており、そもそもこちらの動きに反応している様子も見受けられない。のそのそとした仕種で前進を続けている――と思った、次の瞬間。
(――!?)
顔面から生えている触手が、不自然な挙動を見せた。重力に逆らって浮き上がったかと思うと、先端にある眼球をこちらに突き付けるかのように伸びてくる。
意表を突かれて、椎名はブレーキをかけていた。だが触手の勢いは止まらない――鞭か、あるいは蛇のような動きでこちらを狙っている。椎名は慌てて後ろへと跳んだ。
触手の動きが止まる。元のそれより随分と細くなっているが、ゴムのような原理で伸縮しているのだろうか。しゅっという音すら立てて、伸びきった触手が元の長さまで戻っていった。
それを見計らって、椎名はもう一度踏み出したが――すぐに触手が伸びてきた。やはりこちらも同じように後退して、その一撃をかわす。どうやらこの辺りが伸ばせる距離の限度らしい。およそ五メートルほどか。
(……長えな、おい)
踏み込むには遠すぎる。こちらの刀の間合いを鑑みると、少なくとも二メートル程度までは距離を詰めなければどうにもなるまい。あの触手が本当にゴムのように伸縮するものなのであれば、伸びきった直後、元の長さに戻ろうとするのに合わせて踏み込むという手もあるのだが――触手は、二本あるのだ。
(なら……)
椎名は再び前方へと進み出た。間を置かず、またしても触手が伸びてくる。椎名は即座に後ろへ下がると、触手が動きを止めた瞬間を狙って刀を振り下ろした。まずはこの厄介な触手を斬り落とす――つもりだったのだが。
手応えは奇妙なものだった。なにか柔らかくも反動のある――正しくゴム紐にでも斬りつけたような。
叩きつけた勢いそのままに刀を押し返され、椎名は危うくバランスを崩しかけた。どうにか踏み止まって転倒することだけは免れたが。
(……斬れねえってのか)
少なくとも自分の腕では、あれほど弾力のあるものを斬るのは難しそうだった――伸びきった瞬間を狙っても駄目だったのだ。触手を無力化するという案は見送らざるを得ない。
――近づけず、その原因を取り除くこともできそうにない。そしてこちらの武器は、近づかなければ話にならないものだ。
「……こりゃ、ケツまくって逃げた方がよさそうだな。おい、合図したら走れ」
「え?」
背後の菜緒へ告げると、驚いたような声が返ってきた。
「校舎ん中に逃げる。あのグロ、幸い動きは鈍そうだからな。走って逃げりゃ追いつかれねえだろ」
「え、でも……わたしたちを追いかけて、校舎の中に入って来るんじゃ」
「だからどうした?」
菜緒の言葉に即座に切り返す。
「まさか、校舎にいる連中が危ないから、ここに釘付けにしとこうなんて言い出すつもりじゃねえだろうな」
「そ、それは……」
図星、とまではいかなくとも、似たようなことは考えていたのだろう、菜緒が言葉を詰まらせる。椎名ははっと鼻を鳴らし、
「さっきはさっさと中に逃げるべきだっつってただろ。バケモンは自衛隊の連中に任せようってよ」
「そ、そうだけど……今は、近くにいないし」
「うっぜえな。だったらお前ひとりで足止めしてろよ。俺はさっさと逃げる」
言った通りに刀を下ろし、椎名は踵を返した。尚も抗弁しようとしているらしい菜緒の隣をさっさと通り過ぎ、校舎へと向かう。
「……わかったわ。わたしだけで、なんとかしてみる」
背後から聞こえてきた声に、椎名は振り返った。見ると、彼女は引けた腰でそれでも剣を構え、怪物の方へと進み出ている。
(……本気か?)
正気すら疑って、椎名は一瞬だけ足を止めていた。怪物の方はと言えば、こちらの事情など一顧だにしていない様子で、近づこうとする菜緒に向かって再び触手を伸ばしている。
「きゃっ!?」
案の定と言うほかなかったが、悲鳴を上げて菜緒が後退する。剣を精一杯長く持ち、斬るのではなく突くような仕草で触手の先端辺りに向かって振っているが、当たるはずもなく。
(動いてる的に、そうそう当てられるかよ)
胸中で罵りの声を上げて、椎名は再び踵を返し――
(……待て)
足を止める。
椎名はもう一度振り返り、菜緒の隣まで駆け寄った。へ? と菜緒が呆気に取られた顔でこちらを見上げてくる。
「気が変わった」
「え……椎名くん?」
「気が変わったっつったんだよ。あのグロ野郎、ここで仕留めるぞ」
「……ええ?」
わけがわからないといった様子で聞いてくる菜緒には構わず、椎名は刀を構えて怪物の方へと踏み込んだ。今度は、先程までよりも深く。
間を置かず、触手が飛来する。椎名は更に踏み込み、触手に向かって刀を叩きつけた。再びなんとも言えない手応えが腕に跳ね返って来るが、それを腕力でどうにか抑え込み――触手が伸び切る寸前で、刀を捩じった。
「椎名くん!」
菜緒が声を張り上げる。その理由は恐らく、触手がこちらの刀に巻きつき、動きを封じられたように見えたからだろう。実際、それは間違っていない――一瞬でも力を抜けば刀を持っていかれるか、あるいは身体ごと引っこ抜かれかねない状態なのだ。怪物の方もそれを狙っているのか、触手を引き戻そうとしている。
だが、椎名は叫んだ。
「おい、目だ! 今なら動いてねえ!」
「え」
こちらの言葉に、菜緒は一瞬動きを止め――しかしすぐに、こちらの意図に気付いたらしかった。刀に巻きついて動きを止めている触手の先端、怪物の目に向かって、剣を突き出す。
怪物の方も同様に気付いたらしく、もう一方の触手を伸ばして来るが――それがこちらに届くよりも早く、菜緒の伸ばした剣の切っ先が怪物の目に突き刺さっていた。
怪物の巨大過ぎる口から、盛大な絶叫が上がる。と同時に、椎名は怪物に向かって地を蹴った。触手が元の長さに戻ろうとする勢いも利用して、数メートル程の距離を一足でゼロにする。
もう一方の触手を伸ばしかけていたのが、怪物にとっては失策だった――逆に怪物の方へと猛烈な勢いで踏み込んだ椎名の姿を完全に見失ったらしく、こちらへ伸びてくる様子はない。もっとも、その時には既に――
(表面は柔らかくても、中まではそうはいかねえよな?)
――踏込の勢いを存分に乗せて、怪物の身体の中央へと刀を突き刺していたのだが。更にそのまま刀を下へと振り抜き、怪物の腹から下をばっさりと切り開く。
再び絶叫が響いた。間近で聞くととんでもない音量であり、鼓膜がどうにかなるかとも思ったが。
刀に巻き付いていた触手がだらりと解け、同時に怪物自体も仰向けに倒れた。そのまま触手共々しばらく小刻みに痙攣していたが――やがて、動かなくなる。
「椎名くん! 大丈夫!?」
倒れた怪物を見下ろしていると、菜緒が駆け寄ってきた。椎名は肩越しに彼女の方をちらりと見やり、
「おう、なんとかな」
「よ、よかった……」
心底から安堵しているらしく、胸に手を当てて言ってくる。その姿を見ながら、椎名は。
(……なんだってこいつは、この状況で他人の心配なんぞするんだ?)
眉をひそめていた。
学校に戻ってくる途中も、ついさっきも――そして今も。自分に誰かを助けることなどできないと、そんな力はないのだと、知っているはずなのだが(少なくとも、その自覚はあるように見える)。それどころか、自分の身さえ満足に守れないにも関わらず、だ。
……普通の少女、に見える。異常な状況下にあって取り乱し、怪物の姿に怯え、武器の扱い方など当然知らない。どこにいてもおかしくない、当たり前の人間に思える。
(……普通だから、か?)
おかしいのは自分の方なのだろうか。確かに、自分が周囲の人間とは少しばかり違う考え方をしているのだとはわかる――その自覚がある。それはこうなる以前からも思い知っていたことだ。だがこんな状況に放り出されれば、誰だって自分の身の安全だけを考えるはずだ。それが当然だと、そう思っていたのだが――当然では、ないのだろうか。この余りにも当たり前すぎる少女を見ていると、少しばかり自信がなくなってくる。
なんとなく彼女の姿を眺めているのが嫌になり、視線を逸らす――頭上へと。
そこに。
(……本気で、どうなってやがる)
翼を持ったなにかが羽ばたいているのを認めて、椎名は言葉を失った。それも、複数。
(こいつはもう、間違いなさそうだな……連中、明らかに組んでやがる)
はっきりと、複数で攻め入って来ている。ならば、どこかにその指揮を執っているものがいてもおかしくないのだが――
「……椎名くん? どうしたの?」
空を仰いだまま動きを止めているこちらを見て、菜緒も同じように振り仰ぐ。そしてやはりこちらと同じように、硬直した。
「ま、また悪魔……? どうして急に、こんな沢山……」
呆然とつぶやく。
と、視線の先で、翼を持った人影が向きを変えるのが見えた。そのまま勢いをつけて直進し――
窓ガラスをぶち破り、校舎の中へと入っていった。
「…………!」
即座に視線を下ろし、菜緒と顔を見合わせる。彼女が何を言おうとしているのかは、すぐにわかった――恐らく自分もほぼ同じ表情をしているのだろう。
「校舎の、中に――!」
「……最悪だ」
悲鳴と喧騒は頭上からすぐに聞こえてきた。椎名はちっと舌打ちし、
「クソが、自衛隊の連中はどこに目ぇ付けてんだ!? 中に入り込まれてるじゃねえか!」
先程から周辺の銃声は止んでいないので、彼らがなにもしていないなどということはないのだとわかってはいたが、それでも罵らずにはいられなかった。菜緒もまたこれ以上ないくらいに慌てた様子で、悲鳴じみた声を上げてくる。
「と、とにかく、体育館の方に避難してもらわないと!」
言うと、菜緒は迷わず校舎に向かって駆け出した。その後ろ姿を見ながら、もう一度舌打ちする。
――他人を心配している余裕などない。自分の身を守るだけで精一杯のはずだ。そう、少なくとも自分は。
だが。
「……くそったれ!」
思い切り毒づいて、椎名は菜緒の後を追った。
校舎の中へ入ると、混乱の様子はすぐに伝わってきた。上階から逃げて来ているのだろう複数の足音と、そして悲鳴が聞こえてくる。
(……どうすべきかしら)
悪魔が入り込んだのは三階、つまり最上階だ。だが上から順に避難を促していたのでは全員がかち合ってしまうし、一階には保健室がある――恐らく避難に最も手間取るであろう怪我人も、多くがそこにいるはずだった。いや、そもそも自分と椎名だけで全員をスムーズに誘導するなど不可能だ。
時間がない。放っておけば悪魔は更に入って来るかもしれず、そうなれば益々体育館への移動は困難になるだろう。
「おい、どうすんだ!?」
焦った様子で椎名が聞いてくる。彼にしては珍しい気もしたが、こちらの判断を仰いでいるのだろうか。
決断しなければならない。この状況で、最善かあるいはそれに近い選択肢は――
意を決して、菜緒は口を開いた。
「椎名くん、上の階をお願いできる?」
その言葉の意味を、彼は即座に理解したようだった。まあわからないはずもないが。
「……足止めしろってか」
彼の口調に、こちらを非難するような色は含まれていなかった――というのは妄想だろうか。そうであってほしいという単なる願望だったかもしれない。
「二手にわかれた方がいいと思うの。それで、わたしよりあなたの方が……強い、から」
だから、明らかに危険な方の役割を負わせようとしている。理由をつけて、他人に押し付けようとしている。役割を分担するのならこれが合理的な答えだと判断はしたものの、それでも菜緒は苦いものを感じずにはいられなかった。祖母が知ったら叱られるに違いない。
しばしの沈黙の後。
「わかった」
椎名はそれだけ言うと、踵を返した。そのまま階段に向かって走り出す。
歯噛みしている余裕はない。菜緒は即座に廊下を駆け抜けると、最も手近な部屋である保健室へと飛び込んだ。
「皆さん、急いで体育館に避難してください! ここはもう危険です!」
「相澤さん!? じゃあやっぱり、さっきの音は――」
養護教諭がこちらの顔を見るや即座に聞いてくる。菜緒は頷いた。
「侵入されたのは三階ですけど、ここももう安全とは言えません。ですから早く!」
「どうなってるんだ!? 外の連中、自衛隊じゃないのか!?」
室内にいた誰かが悲鳴じみた声を上げる。更に別の場所からも声が上がった。
「自衛隊が来てくれたんじゃないの!? 一体なにやってるのよ!」
「体育館は安全なのかよ!?」
外からの銃声は当然聞こえていたはずだし、あるいは窓から彼らの姿が見えたのかもしれない。いずれにせよ、自衛隊の救助が来たのだからもう安心だと、ほとんどの者がそう思っていたのだろう。それは菜緒も同じだった。
だが、現実にはそうではない。そして時間的猶予もない。
「説明している暇はないんです! 他の教室にも伝えないと――とにかく、急いで避難してください! いいですね!?」
それだけ告げて、菜緒は保健室を飛び出した。更に人のいる教室を回り、同じように避難を呼びかける――返ってきた反応は、概ねどこも似たようなものだったが。
二階の教室を回り終えたところで、菜緒は上に続く階段へと目を向けた。悪魔はまだ下りて来ていない――椎名が食い止めてくれているのだろうか。
「落ち着いて! 押し合いにならないように、避難訓練の時と同じように避難して!」
教室から廊下へと出て来ている生徒達に向かって呼びかけてから、菜緒は階段を駆け上がった。上から下りてくる生徒が多く、その隙間を縫うのは骨の折れる作業だったが。
どうにか三階へと辿り着くと、やはり廊下には生徒達の姿が溢れていた。ただし下の階よりも混乱の様子がひどく、我先にと階段を目指している。
人の波に押し流されないようにしつつ目を凝らすと、どうにか悪魔が侵入したと思しき教室を見つけることができた。生徒達を掻き分けながら、そちらへと向かって走り出す。
「椎名くん!」
教室の中で悪魔――肘から先が翼になっている、全裸の女性だった――と向き合う彼の姿を見つけ、菜緒は声を張り上げた。が、聞こえているのかいないのか、椎名は悪魔と対峙したまま動きを見せない。菜緒は教室の中へと足を踏み入れ――そこでようやく、気付いた。
室内にいた悪魔の姿は、ひとつではなかった。翼の生えた女性の他に、肥大した耳を羽代わりにして飛ぶ生首のようなものがいる。新たに窓が割れた様子も見当たらないので、同じところから入って来たのだろう。
「……おい、下はどうなってる?」
やはりこちらに振り向くことなく、椎名が聞いてくる。菜緒は生首の方に視線を向けたまま、こちらも彼を見ずに答えた。
「なんとか、避難は呼びかけたけど……まだ、時間がかかると思う」
「さて、それまでにあと何体が入ってくっかな」
「……考えたくないわね」
答えつつ、ちらりと横目で窓の外を見やる――空中を舞う影が、いくつか確認できた。割れた窓を塞いでおきたかったが、そんな余裕はなく、またどれだけ効果があるのかも知れたものではない。
と、生首が動いた。両耳の角度を器用に変えて、こちらに向かって来る。横に跳んでそれを避けながら、菜緒は剣を振った。しかし生首は高度を取り、こちらの剣を軽々とかわす。
体勢を直しながら、菜緒は天井付近で羽ばたいている生首を見据えた。剣は届きそうにない。拳銃ならば話は違ったのかもしれないが、先程痺れた時に落としてしまったし、そもそもあの拳銃は既に撃ち尽くした後だ。二重の意味でないものねだりをしても仕方がない。
(当てられるとも思えないし)
ならばせめてなにかぶつけられないものかと、投げられそうなものを探す。チョーク、では当たったところでなんの痛痒も与えられそうにない。消しゴム、も同じだ。ならば椅子――これはそもそも自分の膂力では天井付近まで投げられまい。
考えているうちに、再び生首が高度を落とした。今度はこちらの頭上から落下するように下りてくる。菜緒は後ろに跳んでそれを避け――
どん、と、背中に何かがぶつかって来た。
(え!?)
焦り、思わず後ろを振り返ってしまう。誰かと目が合った。
――翼の生えた女性の顔が息も触れる程の距離からこちらを見返しており、心臓が跳ね上がった。だがそれは女性にとっても不意の出来事だったらしく、困惑した表情を浮かべている。
「伏せろ相澤!」
後方から椎名の声が響く。わけがわからないまま、菜緒はその場で身を屈めた。
「アアアアアアアアアッ!?」
女性の絶叫が響いた。続いてこちらのすぐ横に、ばさりとなにかが落ちる――女性の肘から先、つまり翼だった。
女性の身体がこちらの背中から離れた。思わずバランスを崩し、仰向けに転びそうになるが、どうにか堪えて立ち上がる。
振り返ると、片方の翼を失った女性が椎名から距離を取ろうとしてだろう、飛び上がろうとしているのが見えた。が、片翼ではうまくいくはずもなく、その場でバランスを崩し――椎名の刀に、首を刎ねられた。
ぶしゅうと体液を噴き出しながら、女性の首から下が崩れ落ちる。その様子を、言葉を失って見つめていると――
「ぼさっとしてんな!」
椎名の叱責が聞こえたかと思うと、同時に脇腹の辺りを思い切り突き飛ばされた。なんの抵抗もできずに床に転がる。
「いきなり――」
なにを、と文句を言おうとしたのだが。こちらに向かって突進していたらしい生首を椎名が真正面から両断するのが見えて、口を噤むしかなかった。
(……凄い、あっという間に……)
二つに分かれて床へと落下する生首の姿をぼんやりと眺めつつ、菜緒は胸中でつぶやいた。
自分とあの悪魔がぶつかった一瞬の隙を見逃さず、向かってくる相手に対しては逆に前へ出ることで不意を突く。自分が時間をかけてどうにか理解できることを、即時の判断でやってのけたのだ。それを可能にする運動神経も含めて、やはり自分とは決定的に違うのだと改めて思い知る。
「……どうした? 腰が抜けたのか?」
床に転がったままのこちらの姿を見て、椎名が声をかけてくる。大丈夫、と答えて菜緒は立ち上がった。スカートを軽く手で払い、教室内を見渡す。
「どうにかなったけど……」
廊下の方へ視線をやると、生徒の姿はほぼなくなっていた。ただし階下からはまだ声と足音が聞こえており、避難が済んでいないことは嫌でもわかる。
「避難の誘導を――」
言いかけた瞬間に。再びガラスの割れる音が聞こえた。
「椎名くん、今の!」
「近えぞ! この階だ!」
顔を見合わせて、即座に教室から飛び出す。そのまま廊下を走り――音の出処は、すぐに知れた。先程の教室から二つ隣、そこから翼の羽ばたくような音が聞こえてくる。中を覗き込むと、鳥のような姿をした悪魔が見えた――ただし、首から上は髭をたくわえた男性のそれだが。
「ちっ、またかよ!」
「やっぱり、このままじゃきりがない!」
教室の中へと踏み込みながら、揃って声を上げる。悪魔の方も当然こちらに気付いているらしく、顔をこちらへと向け――
たたたっ、という音が聞こえたかと思うと、その顔面に小さな穴が三つ穿たれた。がくりと頭を垂らし、床に倒れ込む。
一瞬、菜緒はなにが起こったのかわからなかったが。
「御無事ですか!?」
教室のもう一方の入口から聞こえた声に振り向くと、迷彩服姿の男が銃を構えた姿で立っていた。
「他の生徒の方から伺いました。体育館への避難を促して頂いたそうで――ご協力に感謝します」
「感謝します、じゃねえよ!」
男の言葉に、椎名が食って掛かった。
「てめえらなにやってやがる! 中に入られたら避難もクソもねえだろうが!」
「ちょ、ちょっと椎名くん!」
今にも男に掴みかかりそうな勢いの椎名の前へと回り、慌てて口を開く。
「落ち着いてよ! わたしたちを助けに来てくれたのに!」
「いえ、仰る通りです。もっと人員を用意できればよかったのですが……本当に、申し訳ありません」
こちらの言葉にかぶりを振って、男が詫びてくる。菜緒は彼の方へと振り返り、
「あの、他の隊員の方は?」
「今は校舎の内部と、体育館の方に回っております――二名ほど欠員が出てしまいましたが」
言われてみれば確かに、先程まで外から聞こえていた銃声が止んでいる。無論それは、外にいた悪魔がいなくなったことを意味するわけではない。
男の言葉に、椎名が顔をしかめた。
「残り八人かよ。それだけの人数で、どうするつもりだ?」
「心苦しいのですが……避難されている皆さんの力をお借りしなければ、守りきれないと思います」
気休めを言うつもりはないのだろう、男ははっきりとそう告げてきた――苦渋に満ちた表情だったが。
「必要なら、協力します」
菜緒は即答していた。
「あなたたちに全部を任せて、逃げようとは思いません。わたしでは、役に立てないかもしれませんけど――」
「……ありがとうございます」
男が頭を下げる。
ちっと、椎名の舌打ちが聞こえた。
「おい、欠員が出たって言ったな」
男の方へと進み出ながら、椎名が告げる。
「あるんなら、そいつらが使ってた武器を寄越せ。できれば使い方も教えろ」
「……それは」
男が言葉を詰まらせた。いくら緊急時とは言え、隊の装備を民間人に使わせるわけにはいかないのだろう。
「さっさとしろ! 迷ってる暇なんざねえんだよ!」
椎名が声を荒らげる。男は俯き、尚も数秒ほど考えあぐねている様子だったが――
やがて顔を上げ、こちらを見据えてきた。
「――わかりました。責任は、すべて自分が取ります」
言って踵を返し、教室を出て行く。菜緒は椎名と共に、その後を追った。