「……それでここに合わせると単射、つまりセミオートに切り替わります。『ア』の方から直接は切り替えられませんので、注意してくださいね」
「あの、3点バースト……でしたっけ? それってなんですか?」
「一度トリガーを引くと、弾が三発出るモードのことです」
「それ、なにか意味があるんですか?」
「あー……色々あるんですが。主には射撃の正確性と威力の両立、それと弾薬の節約の為……ってところですかね」
「……よくわかりません」
「わかんなきゃとりあえず3にしとけよ。ってかこれ、セレクター片方だけじゃねえか」
「あー、うん。切り替える時は一度手を放してくださいね」
「あとチョッキもよこせ。あれマガジン入るだろ、確か」
「……きみ、詳しいね」
――緊急事態には違いないが、それでも他の人選があったのではないか。渡された小銃の扱い方を聞きながら、菜緒はそう思わずにはいられなかった。例えば警察官だとか、そうでなくとも自分よりもっと屈強そうな人物などだ。
「大して違わねえよ」
渡された防弾チョッキに袖を通し、椎名が言ってくる。どこから調達して来たのか、なにかの布を刀に巻き付け、その柄をベルトへと繋げていた。
「どっちにしろ、急場しのぎだ。陸自の連中みてえに訓練された行動なんて取れるわけがねえ。俺たちにできるのはあくまで遊撃だけだ」
まあそれはそうだろう。たとえこれが悪魔に対してすら有用な武器であろうと、できれば持ちたくなどないというのが本音だ。
「もちろん、あなた方がこの銃を撃たなければならないような事態は、全力でもって回避するつもりです」
隊員の男がはっきりと言ってくる。
「ですからあなた方も、必要でない限り撃たないで頂きたい」
それは無論、そのつもりでいるのだが。
ですが、と男は続けた。
「その必要があれば、それであなた方の命が助かるのなら――迷わずに、撃ってください。あなた方の責任が問われるようなことには、絶対にしません」
「……はい」
頷き、立ち上がる。隊員の男と椎名も同時に立ち上がり、振り返った。
廊下には体育館へと向かう人々が溢れている。自治体と警察に誘導を頼んではいるが、完了までにはまだ時間がかかるだろう。
階上には再び侵入して来た悪魔と、それを食い止めている数人の自衛隊員がいるはずだった。更に校舎の昇降口と体育館の警備にも当たってもらっているが、そのすべてが最低限の人員だ。そしてそれは減る可能性こそあれ、増える可能性はまず見込めないのだという。
「……あと、どれくらいかかりそうですか?」
近くに立っていた警官に尋ねる。その男はこちらの格好を見てぎょっとしたようだったが、
「怪我人もいるし、あと……三十分てところかな。しかし、体育館の方は本当に安全なのか?」
「絶対とは断言できませんけど……少なくとも、校舎よりは」
「避難が進み次第、こちらにいる隊員たちも体育館の警備に回ります。ですから、それまでは」
こちらの背後から進み出て、隊員の男が告げる。わかった、と警官が頷くのを見て、菜緒は視線を椎名と隊員の男へと戻した。
「では我々は、東側の階段にて待機。上階から下りてくる敵、及び下階への移動を試みる敵を迎撃します。よろしいですか?」
「ああ」
「……はい」
椎名と同時に答える。男が宣言通りに階段へ向かって駆け出し、こちらもその後に続いた。
階段に到着するや、上階から聞こえていた銃声が更に大きくなった。しかも、この様子からすると――
「こりゃ、二つや三つってところじゃねえな……上、二人しかいねえんだろ?」
椎名の言葉に、男は頷いた。
「ええ。我々の上にひとりと、西側の階段にもうひとりだけです。正直、厳しいものがあるかと」
「一階だって、安全なワケじゃねえ。もし連中が下の階に回ることを考えたら――くそ、せめて連中の頭を潰せればな」
「頭?」
椎名の放った一言に、菜緒は思わず聞き返していた。
「って、どういうこと、椎名くん?」
「……昼間と比べたらわかるだろ。襲撃が散発的じゃなくなってやがる。どっかに指揮する奴がいて、そいつに従ってんじゃねえかな」
悪魔にそんな知能というか知恵というか、判断力があるのだろうか、と菜緒は思ったが。
「ええ、それは十分考えられますね。あるいはひょっとしたら、その指揮を執っているものをなんとかすれば、光明が見えるかもしれません」
隊員の男が首肯する。
「ですが、そのリーダーがどこに……っと!」
言葉の途中で銃口を階段の上へと向け、素早く発砲する。何事かと思ってそちらを見やると、眉間を撃ち抜かれた悪魔――肌が黄色く、蝙蝠のような翼を持っている――が階上から転がり落ちてきたところだった。
それを見て、菜緒は息を飲んだ。
「これ、上から来たっていうことは――」
「突破された、ということですね」
神妙な面持ちで、男がこちらの後を継ぐ。彼はその場で立ち上がると、
「……申し訳ありませんが、ここをお願いできますか? 私は上の加勢に行きます」
なにか、覚悟を決めたような声音だった。それがどういった覚悟なのか、菜緒には推し量りようもなかったが。
「わかりました……その方が、いいと思います」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げてくる。そして顔を上げると、階段を上っていった。すぐに、階上から聞こえる銃声の数がそれまでよりも多くなる。
「……この階に連中が入り込んで来たら、俺たちともうひとりだけで対処しなきゃならないってか」
小銃の銃口を廊下の先へと向けながら、椎名がつぶやく。こちらとは反対側の階段にも自衛隊員が待機しているが、どちらがより危険ということはないだろう。つまり、撃つ必要性がより明確に迫ったということだ。
「おい、正直に答えろ……当てる自信はあるか?」
「いえ、まったく」
椎名の質問に、菜緒は即答した。見栄を張っても仕方がない。椎名もそれを予測していたのか、淡々と言ってくる。
「よし、じゃあお前は上から来るやつに注意してろ。俺は廊下だ」
「ええ。悪魔が来る気配があったら――」
「黙って撃つか、俺に言え」
頷いて、菜緒は椎名と背中合わせになるよう階段に膝をついた。長時間の待機には向いていないかもしれないが、座り込んでしまってはいざという時に撃つのが難しくなる。
と、椎名が肩越しにこちらへ振り向き、
「――ってか、さっきから気になってたんだけどよ」
「なに?」
「お前さっきから、連中のこと『悪魔』って呼んでるよな?」
「……あー、それは」
指摘されて思い当たる。そう言えばそうだった。どう答えたものか。
が、結局言い訳も説明もうまくできそうにないと判断し、そのまま答えることにした。
「体育館でね、そう教えてくれた子がいるの。あれは悪魔だって」
「なんだそりゃ?」
「聞かれても……わたしだってうまく説明できないし」
「悪魔、ねえ」
ふむ、と椎名が唸る。なにか感じ入るところでもあったのだろうか。
「……ま、違いねえかもな。馬鹿馬鹿しいが、しっくり来るっちゃしっくり来る呼び方だ」
「……悪魔が?」
「人類の敵ってこったろ? 日本中に出てやがるんだ、相応しいじゃねえか」
椎名の言葉に、菜緒はぎくりとした。
――そうだ、先程の自衛隊員から聞いた話が本当なのであれば。悪魔は日本中に発生しているのだ。そしてそれが椎名の言う通り、正しく人類の敵であるというのなら、悪魔と呼ぶには相応しいような気もする。
(国中に、悪魔が現れてる……?)
改めてその意味を考えて、菜緒は戦慄した。それはとどのつまり、この場をどうにか切り抜けたところで終わりではないということなのだ。原因を究明し、そして根絶するまで、この悪夢のような現実から醒めることはない。無論、それは自分の役目ではないだろうが――巻き添えを食っているという点においては、断じて他人事でもない。それは誰にとっても同じことだろう。
「……おい。下、見えるか?」
「え? え、ええ、なんとか」
椎名に聞かれて、階下の様子を覗く。避難は進んでいるようだが――
「まだ、かかると思う」
「そうか」
椎名が答え、そのまま沈黙が訪れた。といっても階上から銃声が響いているので、静寂などとは口が裂けても言えない状況だったが。
それから、数分程が経過しただろうか。
すぐ近くから、硝子の割れる音が聞こえた。ぎょっとして椎名の方を振り向く。
「……椎名くん!」
「近い! とうとう来やがったか!」
椎名が叫ぶと間を置かず、廊下の先に見える教室の扉が豪快な音を立てて倒れ、そこからなにかが飛び出して来た。いや、なにかではない――なんなのかはわかっている。悪魔だ。最早そう呼ぶしかない。
見えたのは、青い羽毛に包まれた鳥だった――人間の頭蓋骨をかぶっているのか、あるいはそういう形状の頭なのか、それは区別がつかなかったが。しかもその頭蓋骨からは、揺らめく炎のように逆立つ、赤い髪まで生えている。
立て続けに破裂音が三度響いた。椎名が発砲した音だ。悪魔はこれといって回避したようには見えなかったが、命中していない。
椎名の舌打ちが聞こえた。
「ちっ! 連射すると、こうなるってことかよ!」
なにがどうなったのか菜緒にはさっぱりわからなかったが、撃った椎名本人には当たらなかった理由がわかるのだろうか。
(向こうのひとは……!?)
反対側の階段へと視線を向ける。互いの射線に入ってしまわないよう当然見える位置にはいないはずだが、それでも向こうから撃ってくる様子はなかった。こちらの方が悪魔には近いので、任せるより他ないということだろうか。事実、悪魔は迷うことなくこちら側へと接近している。
椎名が再び発砲する。今度はそれほど狙いを外してはいなかったのか、悪魔が銃弾を避けるような動きを見せた。
「……なるほど」
椎名がなにかをつぶやく。にやりと、唇の端が歪んだようにも見えた。
「椎名くん! こっちに――!」
「お前は黙って上を見てろ」
椎名が告げてくるが、頭蓋骨の悪魔は既に数メートル程の距離にまで迫っていた。こちらに肉薄するまで、恐らくもう数秒もない――と思った、次の瞬間。
たたたんっ! と銃声が響いたかと思うと、こちらに向かって飛来していた悪魔の身体が不自然な挙動を見せた。少しだけ舞い上がり――直後、頭蓋骨に亀裂が走る。
(……当たった!?)
そのようだった。翼の動きを止めた悪魔が廊下へと落ちる。
「よし、ビンゴだ。こう撃てばいいワケだな」
「こう、って……」
どこか得意げな様子で言ってくる椎名に、菜緒はそれ以上言葉が続かなかった。三度目の正直、ではないが、たった二度の誤射とその誤差修正だけで、ものにしたというのだろうか。
「……なんで当たるの?」
不思議に思い、つい口にしてしまう。椎名はどうということもない様子で、
「当たりそうな距離まで引き付けただけだ。お前でも当たる」
そんなわけがない、と即答してしまいそうだったが、止めておいた。彼が自分と違うのだとは、既にわかっていたことだ。
しばらくして再び廊下に悪魔が姿を現したが、これも椎名が(今度は一度の誤射だけで)撃ち落とした。飲み込みが早すぎると、菜緒は誰にともなく文句を言いたい気分になったが、口には出さないでおく。
ともあれ、廊下側は椎名と向こうにいる自衛隊員に任せた方がいいと判断して、菜緒は視線を階段の上へと向けた。階上から聞こえる銃声は一向に止む気配がなく、そこにいるはずの自衛隊員たちも身動きがとれないでいるのだろう。
(まだなの!? まだ、避難は終わらないの!?)
ちらりと視線を下げる。人の数は大分減っているようだが――
更に何度か、椎名が発砲する音と硝子の割れる音を聞いたところで、階下から声が響いた。
「……おい、聞こえるか!? 今運んでいる怪我人でラストだ!」
(……!)
弾かれたように、菜緒は視線を椎名へと向けた。
「椎名くん!」
「聞こえた! 上の連中にゃ聞こえてねえかもしれねえから、伝えて来い!」
「うん!」
振り向かずに言ってくる椎名に菜緒は勢いよく頷き、階段を駆け上がった。三階へと上がると、どこかの教室から持ち出したのか机をバリケード代わりに並べ、その向こうに見える悪魔達に向かって発砲する自衛隊員の姿が見える。
その背中に向かって、菜緒は銃声に掻き消されないよう大声で叫んだ。
「避難が終わりました! 下に行きましょう!」
返事はなかったが、背中越しに手を上げるのが見えた。了解のサインだろう。更にこちらとは反対側、つまり西側の階段にいるはずの隊員に向けてなにかジェスチャーのようなものを送る。
悪魔達に銃口を向けたまま、隊員たちは後ずさるようにしてこちらへと近づいてきた。その邪魔にならないよう、こちらは階段を下りる。
こちらが下りてきたことを察知したのか、椎名が背中越しに言ってくる。
「よし。上の連中と合流して、俺も下りる。お前は先に下に行ってろ」
「わかったわ。急いでね」
「可能な限りな」
椎名の言葉を聞きつつ、一階へと下りる。廊下の向こうを見ると、恐らく最後なのだろう、二人掛かりで怪我人を運んで行くのが見えた。が、すぐに体育館へ続く通路へと消えて見えなくなる。
――ようやく、避難が終わった。後は隊員達と自分、椎名が体育館へと向かうだけだ。そしてその後は、体育館を守る。
(……いつまで守ればいいのかは、わからないけど)
それを考えるのは、まず体育館へと辿り着いてからだ。菜緒は階段の上へと視線を上げ――
刹那。
建物の外から、なにかが聞こえた。
(……え?)
甲高く響く――鳥か、あるいは獣の遠吠えのような。ここは建物の内部なのではっきりとは把握できないが、かなり高い位置から聞こえたような気がする。屋上か、それよりも更に上の方から。
「……椎名くん!? 今の、なに!?」
階上に向かって呼びかける。
「わからん! 別に新手も来てねえぞ!?」
既に一階への階段を隊員達と共に下り始めている椎名が言ってきた。彼等にも今聞こえた声のようなものがなんなのか、わかっていないらしい。
(一体、なにが――?)
疑問を持て余しつつ、とにかく椎名達が下りてくるのを待つ。気にはなるものの、その正体を確かめる術はない。
菜緒は廊下の窓に駆け寄り、外を覗こうとした――が、次の瞬間。
建物全体を、轟音が揺るがした。
なにが起こったのか、まったくわからなかった。わかったのは自分が平衡感覚を手放して転倒していること、そして間近から響いた凄まじい音と振動に耳と脳が盛大に揺さぶられ、頭がくらくらしていることだけだ。なにか金属的な破砕音も聞こえたような気がしたが、その直前の轟音で掻き消されてしまった。
(な、なに――!?)
立ち上がろうにも自力では立ち上がれず、なにか掴めそうなものを探す。やがて窓の縁に指がかかり、菜緒は腕に力を込めて身体を引き上げた。
どうにか身体を起こしたところで、既に音と振動が止んでいることに気付く。恐らくそれ自体は一瞬の出来事だったのだろう。ついでに視線を落として、後から聞こえた音の正体にも思い当たった。ベルトに繋げていた剣が転倒した時の衝撃で根本から折れた音だったのだ。
(刺さらなくてよかった……)
最早無用の長物になった剣の残骸をベルトから外しつつ、胸を撫で下ろす。が、安心などしている場合ではない。なにかが起こったのは間違いないのだ。それを確かめるべく、菜緒は視線を周囲へと這わせ――すぐに、見つかった。
(…………なに、これ?)
眉をひそめる。見えたのは廊下だった。いや、それは正確ではない――見えなかったのだから。いきなり現れた巨大ななにかが、廊下の端から端までを占拠している。
更に視線を動かすと、壁に大穴が開いていた。それは廊下を塞いでいるなにかとほぼ同じ大きさであり――つまりこの穴は、巨大な塊が突っ込んできた際に開いたものなのだろう。
と、そこでようやく全容を理解する。目の前で廊下を塞いでいるのは、車だった。見慣れない形なので教師や避難してきた誰かのものということはなさそうだが、それが外から壁を突き破って進入してきたのだ。
(一体、誰が……?)
運転席と思しき箇所を見やるが、誰も乗っていない。無人だった。
(……どういうこと?)
わけがわからない。誰も運転していないのなら、どうやってこの車はここへ突撃してきたというのだろうか。
「おい! なにがあった!?」
階段の方から椎名の声が聞こえ、菜緒はそちらへと振り向いた。見ると彼だけでなく、自衛隊員達も廊下の惨状を見て目を丸くしている。
――ただし、こちらとは若干理由が違うようだった。
「な……!? 高機がどうして!?」
隊員のひとりが放った言葉に、椎名が反応する。
「あれは……ひょっとして、あんたらが乗ってきた高機動車ってやつか?」
「は、はい。校門の前に止めていたはずなのですが……」
どうやら隊員達には見覚えのある、というか彼らが乗ってきた車らしい。菜緒は半壊した車を示しながら、
「この車、いきなり突っ込んできて……誰も乗ってないみたいなんですけど」
「誰かがこいつを後ろから押して、こうしたってか?」
誰か、と椎名は言ったが、そんなことが人間に可能なはずはない。つまり。
(悪魔が、これを……?)
誰かがレッカー車でも持ち出したというのでなければ、そうとしか考えられなかった。
「……あ!」
と、隊員のひとりが声を上げた。
「これでは、通路が!」
(……!)
その場にいた全員が顔を見合わせた。この廊下の先は、校舎から体育館へと続く唯一の通路だったのだ。
――直後、またしても轟音が響いた。と同時に、微かな揺れを感じる。
「今の、音……!」
聞こえてきたのは体育館からだった。更に――続けて、いくつもの悲鳴。
隊員のひとりが、即座に声を張り上げた。
「体育館へ向かいます! ついて来てください!」
こちらの返事を待たず、隊員達が駆け出した――まだ階段に残って上階へと銃口を向けていたもの達も、その後に続いている。菜緒も彼らの後を追った。
後ろを振り返ると上の階から下りてきた悪魔の姿が見えたが、このまま走れば振り切れるように思えた。それくらい、訓練された自衛隊員達の脚力は担いだ装備をものともしない速さを見せている。小銃と防弾チョッキしか身に着けていないにも関わらず、菜緒は追いすがるのがやっとだった。
数秒とかからずに昇降口に辿り着き、そのまま外に飛び出ると。
(嘘……さっきより、もっと増えてる!?)
校庭のあちこちに見える悪魔の姿に、菜緒は胸中で悲鳴を上げた。ここから視界に収められる範囲だけでも、十体はいる。当然、体育館の入口の方にもだ。
「強行突破します! 我々が周囲を固めますから、お二人は中央に!」
ひとりが指示すると他の隊員達が即座に反応し、菜緒と椎名を取り囲むように陣形を組んだ。
「では、行きます!」
先頭の男の合図と同時に、菜緒は駆け出した。椎名や他の隊員達が自分の歩幅に合わせてくれているのか、置いていかれるようなことも隊列が崩れるようなこともない速度だ。
体育館からの悲鳴は止んでいなかった――なにかを床に叩きつけているかのような振動も。なにが起きているのかはわからないが、なにかとんでもない事態になっていることは間違いない。
と。
「――止まれ!」
先頭の男が静止の声を上げ、菜緒達は立ち止まった。一体なにがあったのかと尋ねようとしたが、すぐにその意図を察する。
「あいつらは……」
声を上げたのは椎名だった。全員の視線の先、体育館のすぐ近くに、複数の人影が見える。菜緒は目を凝らし――
「……あ!」
それが炊き出しの列で揉めていた四人の少年達だとわかり、椎名と同じように声を上げていた。こちらに気付いているのかいないのかはわからないが、彼等はその場に座り込み、身を寄せ合っている――悪魔に取り囲まれていた。
「伏せて!」
誰よりも早く叫んだのは菜緒だった。少年達がびくりと身を震わせ、こちらに視線を向ける――その頃には、隊員達も駆け出していたが。
「伏せろっつってんだろ! 死にてえのかクソが!」
怯えた表情のままこちらを見返してきているだけの彼らに、椎名が罵声を浴びせる。それでようやく気付いたのか、少年達がさっとその場で上体を屈め――
即座に隊員達が発砲し、少年達の周辺にいた悪魔を撃ち抜いた。それなりに距離があったはずだが、少年達を避けて悪魔だけに命中させたのは、流石というしかない(しかも走りながらだ)。
駆け寄ると、即座に隊員達が周囲へと展開した。自分と椎名、そして座り込んでいる少年達を守る形だ。
「あ、あ……? あんた……」
こちらの姿を認めて、少年のひとりが怯えきった表情で口を開く――が、言葉にならないようだった。菜緒はその顔を見据え、
「どうしてここにいるの! 体育館に避難したんじゃなかったの!?」
問い質すと、答えてきたのは少女だった。
「避難したに決まってんだろ! だけど、あのバケモノが――」
「悪魔が入って来やがったのか!?」
椎名がずいと詰め寄る。少女はかくかくと首を振り、
「自衛隊のヤツらも、あのバケモノに殺されたんだ! だからアタシらは、そこから逃げて――」
ほとんど半狂乱に近い様子で捲し立てながら、すぐ近くに見える体育館の窓を指差す。彼女の言う通り、窓がいくつか開いているのが見えた。
だが、少女の言葉で気になったのは、そこだけではなかった。
「……殺されたんですか、隊員が」
聞き返したのは隊員のひとりだった。
「あんなバケモノ、どうしようもねえんだよ! 逃げるしかねえよ!」
「……畜生、なにが体育館に避難しろだよ! 全然安全じゃねえじゃねえか! ふざけんなよクソが!」
別の少年がこちらを睨みつけて叫んでくる。
……返す言葉もなかった。明らかに、自分の判断ミスだ。悪魔の狙いがわからない以上、あらゆる事態を想定しておくべきだったのに――
と。
「げふっ!?」
なんの前触れもなく、少年の顎を椎名が蹴り上げた。
「なに――」
なにか文句を言おうとしたのだろうが、即座に椎名に今度は頬を蹴り飛ばされ、地面に転がる。
彼の唐突過ぎる行動に、菜緒は一瞬呆気に取られてしまったが。
「ちょっ、椎名くん!?」
「ちょっときみ。気持ちはわかるけど、暴力はやめておいた方がいい」
こちらだけでなく、横目で見ていたらしい隊員までが椎名に声をかける。
が、椎名は彼にも自分にもまったく取り合わず、倒れた少年を見下ろしていた――汚物でも見るような目で。
「ウゼえんだよ。誰かに守ってもらうことしか頭にねえようなクソ虫が、いっちょまえに人間語喋ってんじゃねえ」
「な――」
「喋んな、っつってんだろ」
なにかを言いかけた少年のこめかみに、椎名が爪先を減り込ませる。少年がまたしても地面に転がった。
「ちょっと椎名くん! いい加減にしなさい!」
彼の前に立ちはだかり、精一杯の険相を作って睨みつける――が、やはり椎名はこちらなど見ていなかった。こちらを通り越して倒れた少年に視線を向けたまま、更に告げる。
「てめえみてえなクソが一匹死んだところで、誰も困りゃしねえんだよ。ふざけてんのはてめえの方だ。クソ虫の頭じゃそんなことも理解できねえか? クソしか詰まってねえか?」
「椎名くん!」
これ以上は出せないというくらいの大声で、菜緒は叫んだ。椎名が煩そうにこちらを見る。
……そのまましばし、視線が交錯した。互いに黙ったまま、相手の顔を見据える。
やがて、口を開いたのは菜緒の方だった。
「こんなことしてる場合じゃないでしょ……早く、体育館に行かないと」
「……わかってるよ」
小さくつぶやきながら、椎名が視線を逸らす。それを見てから、菜緒は少年達の方へと振り返った。
「あなたたちも、一緒に来て」
告げると、当然と言えば当然の反応だが、彼らは耳を疑ったようだった。
「じょ、冗談でしょう!? 中にはあの怪物がいるんですよ! わざわざあそこに戻るなんて……!」
先程から黙っていた少年のひとりが泡を食ったように言ってくる。
「……ですが、我々は向かわなければなりません。そしてあなた方を守るために人員を残していけるような余裕は、もうない」
周囲へと銃口を向けたまま、隊員のひとりが苦渋に満ちた声音を吐き出した。体育館にいたはずの隊員が殺されたのならば、もうここにいる六人しかいないということなのだ。たったこれだけで、体育館にいるという悪魔を退け、そして残された避難民達を守らなければならない。
「彼らは、わたしと椎名くんで守ります」
「あん!?」
菜緒の言葉に、椎名が即座に不満そうな声を上げた。が、この際それは無視する。
隊員の男はこちらと椎名をちらりと見やり、
「……お願い、します」
絞り出すような声で、それだけを言ってきた。
菜緒は少年達へと再び向き直り、
「ほら、立って。それとも、ここで死にたい?」
「本気かよ……あそこに戻んのかよ……」
ぶつぶつと泣き言を漏らしている少年達を立ち上がらせる。それを見て、隊員の男が頷いた。
「……突入します!」
合図と共に、菜緒達を取り囲んでいた隊員達がさっと駆け出した。その後を追う形で、菜緒達も走り出す。しかし少年達の足取りが明らかに重く、先を行く隊員達とは瞬く間に差が開いてしまった。
周囲に銃口を向けつつ、体育館の入口へ向かって駆け抜ける。体育館の壁際を走っているので、片側に注意を向ける必要がないのが幸いだった――ただしその分、体育館内からの悲鳴がはっきりと聞こえてしまうのが難点ではあるが。
威嚇の為に椎名が何度か発砲したものの、悪魔に近寄られることもなく、どうにか入口へと辿り着くことができた。先に到着していた隊員達の後ろから、館内を覗き込み――
そこに、それはいた。
(…………なに、あれ)
それはこれまで見たどの悪魔よりも、巨大な体躯をしていた。爪先から頭頂まで、少なく見積もっても三メートルは優に越えているだろう。悪魔ではなく、なにかオブジェのようなものがそびえ立っているのかと勘違いした程だ。
――全体像を把握すれば、それほど突拍子もない姿をしているわけでもなかった。異常なまでに筋骨逞しい体つきの男性がなにか被り物をしているだけなのだと言われたら、そう信じていたかもしれない――つまり頭部を除外すれば、人間と大して変わらない姿なのだと言い張ることもできる。そして首から上は、牛のそれだった。
左右の手には、それぞれ違うものを持っていた。右手には長い柄の先に刃が付けられた長大な斧を、そして左手には――迷彩服を着た男性の身体を、まるでペットボトルでも握り締めるかのように軽々と持ち上げている。
冗談じみた大きさの斧を持った、牛頭の巨人。端的に述べるなら、それはそういったものだった。
その巨人を取り囲むように――というよりは、逃げ場のない体育館内でそれでも巨人から距離を取ろうとした結果なのだろう――人が幾重にも折り重なっているのが見えた。そのほとんどが、動いていない。
どう見ても、明らかに、死んでいた。
(…………!)
最早言葉が見つからず、絶句するしかない。数えるのも馬鹿げているとしか思えない人数だったが、頭は勝手に大まかな人数を算出してしまう。十人や二十人では足りない。百人は越えているだろう。恐らくは悲鳴が聞こえたあの瞬間から、そして今この時まで。ほんの数分程度の時間しか経っていないはずなのだが、その僅かな間にこれほど多くの人間を――殺したのだ、あの巨人が。
巨人が頭を動かし、こちらへと視線を向けてきた。そして、にやりと口の端を歪める。笑った、のだろうか。
と、巨人が今度は腕を動かした。それに反応してか、隊員達がさっと銃を構える――が、巨人はその場から動かず、また手にした斧を振るう様子も見せなかった。もう一方の手で掴んでいた自衛隊員の身体――息をしていないのは明白だった――を顔の高さにまで持ち上げただけだ。
次の瞬間、菜緒はなにが起こったのかわからなかった。
巨人が隊員の身体を顔の近くまで寄せたのは見えていたし、理解できた。そして巨人が大きく口を開いたのも、見えた。だが、その後の光景は――
(…………っ!?)
これ以上なく不快な音を立て、巨人が隊員の身体を、噛み千切ったのだと。
そう理解した次の瞬間に、猛烈な吐き気が込み上げた。思わず手を口元に当てて、なんとか堪えようとするが。
巨人がなんら躊躇する様子もなく噛み千切った隊員の身体を咀嚼し、そして飲み下すのが見えたところで、菜緒はその場に膝を落とし、胃まで逆流してきたものを盛大に床へとぶちまけていた。
「う……あっ……!」
どうしようもなく湧き上がる嘔吐感に、涙すら溢れてくる。周りにいた誰からも文句のひとつも言われなかったのは幸いだったが、そんなことはどうでも良かった。
目の前にいる隊員達も、隣にいる椎名も、背後の少年達も、そして館内の避難民達も。誰もが巨人の行動に目を見張るか、あるいは菜緒と同じように口元に手を当ててその場にうずくまっていた。つい先程まで上がっていたはずの悲鳴すら、今はどこからも聞こえない。
巨人が残っていた隊員の腹から下を口の中に放り込み、再び嫌な音を立てて咀嚼し始めたところで――
やはりと言うべきか信じられないことにと言うべきか、真っ先に硬直から脱したのは眼前にいる自衛隊員達だった。巨人に向かって一斉に発砲する。
巨人は避けるような素振りを見せなかった。それどころか、微動だにしていない。
――撃たれたにも関わらず。
微かな穴が開いた自分の身体を空いた方の手でぽりぽりと掻いたのみで、のけ反りすらしなかった。意にも介していない、のだろうか。
菜緒は言葉を失ったままだったが――隊員達と巨人を除き、この場にいた全員がそうだったはずだ――隊員達もまた巨人と同じく、動揺らしい動揺は見せなかった。少なくとも表面上は。すぐに巨人に向かって再度発砲を始める。
が、今度は無反応ではなかった。巨人が片手で斧を――それ自体が途轍もない重量を持つはずの斧を軽々と振り上げ、その場で床に叩きつける。
体育館全体を揺るがすような轟音と、そして振動が響いた。目の前に車両が突っ込んできた時と比べても遜色のない、あるいはそれ以上のものだ。菜緒は既に膝をついていたが、立っていたもの達のほとんどがその場に転倒していた。あまりの振動に、天井もみしみしと音を立てている。
「……なんなんだよ、アイツは」
すぐ近くから、やはり立っていられなかったらしい椎名の声が聞こえてくる。彼にしては珍しく、うんざりしたような声音だった。
巨人が再び斧を振り上げるのが見え、ほぼ同時にまたしてもいくつもの銃弾がその身体に小さなを穴を穿つ。だが、巨人は止まらなかった。どころか、その挙動は微塵も鈍っていない。
斧の先端が床に叩きつけられ、激震が建物全体を強烈に揺さぶる。床に折り重なっている死体がまるでフライパンの上で飛び跳ねる具材のように跳ね回る様子は最早、異様を通り越して珍奇ですらあった。悪夢のように現実離れした光景を前に、そんな思考すら湧いてくる。
「クソが! あの牛野郎、一体なにを――」
するつもりなのか、と言おうとしたのだろう。しかしそこで言葉を切り、椎名が弾かれたように視線を真上へと向ける。つられて、菜緒も視線を上げ――
(……まさか)
はっと思い当たる。あの巨人の狙いは――
菜緒はすぐに視線を下ろし、叫んでいた。
「逃げて! 崩れる!」
こちらの言葉に、隊員達がぎょっとしたように天井を見上げ、その直後。
巨人の斧が、またしても体育館の床を躍らせた。