それは崩壊の音だった――それ以外の形容が見つからない。呆気なくもなにかの終わりを予感させる、あるいは無慈悲に宣告する、決定的な音。
その音は一瞬で鳴り終えるなどということはなかったが、しかしそれ以上長く聞けたものは限られていたに違いない。音に続いてその場にいた全員の元へ訪れたのは、より具体的な崩壊の兆しだった。つまりは、天井の崩落という目に見える形で。
理解が及んだ時というのは、結局のところ悟った瞬間でもある。自分でも信じられないほどあっさりと、菜緒はそれを受け止めていた。単なる、動かしようのない事実として。
(……助からない)
建物全体に亀裂が走る音の後に響いたのは、またもや轟音だった。とにかくひたすら圧倒的な音量の前に、思考のすべてが波濤に押し流される。なにも考えられない中で、それでも菜緒はその言葉だけを繰り返していた。
(あれじゃ、助からない)
思考を置き去りにしたまま、最後に目にした光景が過る。体育館の中で、為す術もなく落下してくる天井と壁を見上げるしかなかった大勢の人々の姿と、その中央にそびえ立つ巨人。
気がつくと、菜緒は仰向けに倒れて夜空を見上げていた。砂埃が辺りに立ち込めているため、空などほとんど見えなかったが。
幸いと言うべきか、鼓膜は無事なようだった。なので周囲の音は聞こえてくる。がらがらとなにかが崩れる音と、そして重いものが大地を叩く音。菜緒は顔を上げた。
――体育館は、ほぼ跡形なく崩れ落ちていた。
既に瓦礫の山と呼ぶしかなくなったその場所に、もうもうと砂埃が舞い上がっている。だが目を凝らすまでもなく、その向こうに巨大な人影が悠然と立っているのは見て取れた。倒れてすらいない。
振り向くと、自分と似たような恰好で倒れている四人の少年達の姿があった。隣には椎名が、更に前方には自衛隊員達が倒れている――五人だけだったが。
ちらりと視線をずらすと、倒れた自衛隊員達の更に向こう、瓦礫の中から、小銃を握ったままの腕が飛び出しているのが見えた。それ以外の部位は見えない。瓦礫に押し潰され、見ることができなくなっている。
ずん、と、再びなにかが地面を叩く音。見やると、それは巨人の足音だった。瓦礫の山となった周囲をまったくものともせずに、ゆっくりとこちらに向かって歩いている。
「……なんてことだ」
隊員の誰かがつぶやくのが聞こえた。短い一言だったが、それ以上を聞く必要はない。恐らく自分とまったく同じことを考えているはずだ。
(みんな……助からなかった)
助けられなかった。生き残ったのは、入口のところにいた自分達だけだ。こちらのやや前方にいた隊員達も、ぎりぎりのところで飛び出すことができたのだろう――ひとりを除いて。
瓦礫の山を見渡す。この下にどれだけの人数が埋められてしまったのか、見当もつかなかった。と言うよりは、考えたくない。それはつまり、自分達が助けられなかった人々の数なのだ。
「な、なんなんだよ、これ……なんで、オレたちがこんな目に……」
少年のひとりが目に涙を浮かべて呻く。他の三人も完全に腰が抜けているのか、立ち上がらずに呆然と瓦礫の山を眺めていた。
「…………クソがぁ!」
誰よりも早く、椎名が立ち上がった。巨人に向けて小銃を構えている。
「やりやがったな……やってくれやがったな、てめえ!」
叫び、躊躇なくトリガーを引く。三度では済まない断続的な発砲音が響いた。どうやらセレクターを連射に合わせているらしい。
すぐに隊員達も立ち上がり、巨人に向かって発砲を始めた。巨人の身体に無数の弾痕が見る見る刻まれていくが――それでも尚、ぐらつきもせずにこちらへと歩いてくる。
そこでようやく、菜緒は立ち上がった。自分でも不思議だったが、脚は震えていない。腕もだ。巨人に向けて小銃を構えても、銃口がぶれるようなことはなかった。
(あの悪魔が、みんなを……)
胸中でつぶやいてから、理解する。自分は今、恐怖を凌駕するなにかに衝き動かされているらしい。それが後悔なのか憤りなのか、はたまた恐怖から免れようとする本能的な逃避なのかはわからなかったが。
しかしその正体がなんであれ、菜緒はそれに逆らおうとは思わなかった。衝動に従い、セレクターを操作する。そして、トリガーを引いた。
身体全体を発砲の反動ががんがんと叩く。腕に力を込めたところで、銃口が徐々に逸れていくのを止めることができない。一旦指を放して狙いを付け直し、改めてトリガーを引く。しばし、大量の弾丸がばら撒かれる音だけが響き渡り――
全員が手を止めるまで、恐らく一分とかからなかっただろう。隊員達が慣れた手付きで弾倉を交換し、それを見た椎名が同じように弾倉を入れ替える。菜緒もまた見様見真似で空になった弾倉を外し、防弾チョッキから取り出した新たな弾倉を銃へと挿し込んだ。
と、そこで初めて、巨人が違う動きを見せた。それまで片手で持っていた斧を両手で持ち直し――こちらに向かって、瓦礫を蹴散らしながら一直線に走り寄ってくる。
「散ってください!」
隊員のひとりが叫ぶ。その言葉に菜緒は即座に反応できたし、それは椎名も同じようだったが。
「……え?」
座り込んだままだった少年達の反応が、明らかに遅れた。
(……まずい!)
自分と椎名は既にその場から離れるように動き出しているものの、対して少年達はようやく立ち上がったところだった。巨人の走る速度はその体躯からは信じられない程で、少年達が散開するのと巨人が斧を叩きつけるのではどちらが先になるか、まったくわからない――つまり、四人揃って叩き潰される可能性が大いにある、ということだ。
瞬時の判断を下したのは、巨人に最も近い位置にいた隊員だった。こちらに散るよう指示を出した張本人だ。
――巨人に向かって、駆け出している。
(……そんな!?)
それがなにを意図しての行動なのか、わからないはずもなかった。巨人が少年達の元へ踏み込むよりも先に、自分が接触してその足を止めようということだろう。少年達の遅れを察知してからその決断を下すまで、正しく一瞬だったに違いない。
だが、どう考えたところであの巨体の突撃をたったひとりで止められるはずはない。巨人にしたところで、立ち止まる必要性を感じることもなくそのまま跳ね飛ばすつもりだろう。
一瞬の差だった。先に巨人へと飛び出した隊員から一瞬だけ遅れて――一瞬しか遅れず、もうひとりの隊員が後に続いていた。
(待って!)
叫ぼうとしたが、遅かった。
恐らく時間にすれば、一秒にも満たなかったはずだ。しかしその間に、離れた場所の四つの標的よりも、わざわざ手前に移動してきた二つの標的へと、巨人が狙いを変えたのは明白だった。二人からの銃撃をものともせず、突進の勢いを存分に乗せた斧の一撃が――振り下ろされる。
(……っ!)
目は逸らさなかった。そんな余裕はなかった。
ほとんど爆発にも似た音を上げて、巨人の斧が大きく地面を抉る。その衝撃はこちらにも届いていたし、間近にいた少年達に至っては逃げ出そうとしていたところだったので、まともに吹き飛ばされていた。
そして。
飛び出していた隊員達の身体がまるで水風船かなにかのように呆気なく飛び散るのを、菜緒ははっきりと視界に捉えていた。巨人の一撃で地面に穿たれたちょっとしたクレーターに、原形を留めていない死体が散乱している。
(そんな……)
死んだ。また、死んだ。殺された。
「――うあああああああああああああっ!?」
誰かの叫びが聞こえた。自分や椎名と同じく、先程の指示に従って距離を取っていた隊員のひとりが、凄まじいまでに形相を歪めて巨人へと走り出している。
「畜生――! このバケモノが! 殺してやる! 絶対に殺してやるぞ!」
喚きながら、巨人に向かって撃ち続ける。その姿はどう見ても激昂しているようにしか見えず、正気を失っているのかと思ったが。
煩そうに巨人がそちらへと向き直り、無造作に斧を振る。その寸前で隊員の男は後方へと跳び、迫り来る鉄塊を避けた。どうやら完全に冷静さをかなぐり捨ててしまったわけではないらしい。
更に残った二人の隊員も巨人へと向かって行くのを見て、菜緒は少年達へと向き直った。声を張り上げる。
「あなたたちはこっちに来て! 早く!」
少年達が慌てて立ち上がり、こちらの背後へと移動してくる。それを見てから、菜緒は巨人へと銃口を向けた。
――隊員達の狙いは、なんとなくだが察知できた。相手の巨体故の小回りの利かなさを逆手に取り、複数で攪乱しつつ弾丸を埋め込んでいくつもりなのだろう。無論、小回りが利かないと言ったところで巨人の斧はただ振り回すだけでも接近を許さない代物であるため、肉薄することはできない。距離を潰されるほど深く踏み込まれないためには狙いを絞らせないようにするしかなく、当然それはひとりでは不可能な芸当だ。つまり、自分や椎名、少年達を守りながらでは、戦えないという判断なのだろう。それは正しいし、あの巨人を仕留めるにはその方法しかないのだともわかる。だが。
「うぐっ!?」
避けそこなったのか、巨人の斧に腕を掠められ、隊員のひとりが呻き声を上げた。見ると、二の腕から先がなくなっている。
――狙いを絞らせないよう攪乱するためとは言え、あの巨人に対して接近戦を挑むというのは、いくらなんでも無茶が過ぎる。直撃せずとも、軽く触れただけで頭が吹き飛んでもおかしくない威力なのだ。できることなら、斧が届かない位置から倒れるまで銃弾を浴びせるというのが理想的なのだが――
(…………あ!)
ふと。菜緒は振り返り、少年達の顔を見回していた。完全に怯えきった表情で、こちらを見返してきている。
菜緒は首の向きを戻した。こちらからやや離れた位置で同じように巨人へと銃口を向けている椎名に向かって、叫ぶ。
「椎名くん! 銃!」
「あ?」
この非常時になんだ、とでも言いたげな様子で椎名が聞き返してくる。
「銃! 拾って! 早く!」
「銃? 拾えってお前」
「いいから! 拾ってこっちに!」
「こっち?――あ」
はたと、椎名が言葉を切った。その場から素早く移動し、先程巨人が開けたクレーターの近くへと駆け寄ると、そこに転がっていた小銃を拾い上げる。どうやらこちらの意図を察してくれたらしい。
椎名は更に瓦礫と化した体育館の方へと向かい、腕だけを突き出していた隊員の死体からも銃を取り上げた。彼自身が持っているものも含めて、三丁の小銃を抱えてこちらへと駆け寄ってくる。
「ありがとう椎名くん、これで――」
「ああ。おい、受け取れ」
こちらの言葉に頷くと、椎名は少年達に向かって二丁の小銃を差し出した。
「…………へ?」
わけがわからないといった様子で、少年のひとりが声を上げる。
「黙って受け取れ。んで、あいつに向かって構えろ」
有無を言わせぬ口調で椎名が告げると、
「そ、そんなの、無理ですよ! 銃なんて撃ったこと――」
「うるせえ! 死にたくねえなら構えろ!」
少年の反論に、椎名が叫んだ。強引に銃を押し付け、そのままこちらから離れる。
菜緒は背中越しにちらりと少年達を見やり、
「……お互い、死にたくないでしょ? 文句なら後で聞くから、今は言う通りにして」
「でもよ! マジで銃なんて――!」
「わたしだって素人よ。でも、必要だから持ったの」
こちらの言葉に、少年達は僅かに押し黙った。が、すぐに言ってくる。
「……使い方がわからねえ。こんなもん渡されたって、どうしようもねえだろ」
「わたしが教えられる使い方は、ひとつだけ――合図したら、あの悪魔に向かって引き金を引く。引き金は、流石にわかるわよね?」
「ま、まあ、それくらいは――」
「なら大丈夫よ。わたしでも大丈夫なんだから」
言ってから、これでは慰めにも気休めにもならないかもしれないと思ったが、背後で銃を構える気配を感じ、菜緒は視線を巨人の方へと戻した。
――巨人の間合いへの出入りを繰り返しながら、しかし明らかに、隊員達は消耗しているようだった。それは殺人的な重量と間近で対峙して神経を擦り減らしているという意味でもあり、同時に言葉通りの意味でもある。何度も避け損ねているのだろう、誰も無傷ではなかった。そしてあの長大な斧を避け損ねるというのは、それだけで致命傷になりかねない傷を負うということだ。事実、先程片腕を吹き飛ばされた隊員のそれは明らかに致命傷であり、動きも鈍くなっている。
と、そこで。巨人が斧を手放した。
(…………!)
快哉を叫びそうになる。隊員達の決死の行動が、ようやく実を結んだのだ――と、一瞬だけ思ったのだが。
なにかの果実を思い切り地面に叩きつけたような、そんな音が聞こえた。
――なにが起こったのかは、距離を取って見ていたからだろう、すぐに理解できた。斧を手放して徒手になった巨人が、他の二人と比べて明らかに動きの鈍くなっていた隊員の顔面へと拳を振り抜いたのだ。尋常でない速さと質量をぶつけられ、隊員の頭は爆ぜ割れた。
「な……!?」
別の隊員が驚愕の声を上げるのが聞こえたが、菜緒も似たような心境だった。離れた位置にいる自分が辛うじて認識できた程度なのだ。間近にいる彼等からすれば、なにをされたのかわからなかったのかもしれない。それ程、斧を手放した巨人の動きは素早いものだった。
「逃げて!」
反射的に菜緒は叫んでいたが、遅かった。いや、たとえ間に合っていたとしても、隊員達がそれに応じていたかどうかはわからない。
巨人が身を翻し、別の隊員へと再び拳を突き出した。かわすのは間に合わないと瞬時に判断したのか、咄嗟に銃を持っていない方の腕で隊員が防ごうとするが。
「……かはっ!?」
冗談とも思える程の距離を、隊員の身体が飛んでいた。そのまま地面に叩きつけられ、盛大に咳き込む――いや、喀血する。防弾チョッキと腕で守っていたにも関わらず、あの様子では内臓や骨にまでダメージが浸透しているだろう。
「くそっ……くそおおおおおおおっ!」
その場に残された最後の隊員が、叫びながら巨人に向かって銃を乱射する。巨人は吹き飛ばした隊員にはそれ以上目もくれず、手の届く範囲に唯一残された標的に向き合い――
ぱんっ、と。
乾いた音が一度だけ響き、巨人の頭がぐらりと揺れた。
(…………え?)
思わず、間の抜けた声を上げる。
(もしかして……当たった?)
撃ったのは菜緒だった。せめて巨人の気を隊員から逸らすことはできないかと、援護のつもりで狙撃したのだが(先程までは他の隊員達もいたので、ここから迂闊に撃つことは躊躇われた)。
巨人の口から咆哮が漏れた。片手を顔――右目に当てて、凄まじい声量で叫び声を上げている。どうやら、巨人の目に命中したらしい。
(嘘……すごい、偶然)
偶然には違いないが、しかしそれが幸運であったのかどうか。どう見ても怒り狂っている様子の巨人が左腕を振り上げ、すぐ傍の隊員に向かって突き出す。
「くっ!」
片目だけになったとは言え、それで狙いを外すようなことはなかった。的確に振り抜かれたその拳を、隊員が危ういところで身を捩ってかわす。すぐさま体勢を戻し、巨人に向けて再び発砲を――しようとした、その眼前に。
右目に添えられていたはずの巨人の右腕が突き出されていた。一撃を全力で回避した直後に、それを避けるような動きができるはずもなく――巨人の拳が、隊員の胸へと叩き込まれる。
悲鳴もなく、放り投げられた人形のように、全身の関節をおかしな方へと伸ばした隊員の身体が宙を舞った。そのまま無抵抗に地面へと落下し、ぴくりとも動かなくなる――即死したのだとは、確認するまでもないだろう。
(あ……)
深呼吸でもするように肩を動かし、巨人が突き出していた拳を引き戻した。そして、ゆっくりと振り返る。
巨人の身体には、それこそ無数とも思えるほどの弾痕がなにかの模様でも描くように刻み込まれていた。右目は先程菜緒が撃った偶然の一発で塞がれており、常識的に考えるならおよそ無事であるはずがないほどの傷だ。
にも関わらず、巨人は平然と立っていた。息も上がっていない。まったくもって何事もなかったかのように、残った標的であるこちらを見据えている。
(……もう)
自分達しか、いない。屈強な自衛隊員達が、あの悪魔一体を相手に全滅してしまった。
いや、彼等だけではない。ここに避難していた全員がそうだ。そして間もなく、自分達もそこに名を連ねることになる。なるのだろうか?
(……嫌)
菜緒はトリガーを引いた。狙い違わず、弾丸が巨人の身体に新たな傷を穿つ。
(わたしは)
セレクターを切り替え、もう一度トリガーを引く。今度は三つ、巨人の傷が増える。
(わたしは、まだ)
撃つ。当たる。巨人の無数の傷が、ほんの僅かに増える。
(まだ……死にたく、ない!)
巨人は微動だにしていない。今更銃弾の数発を減り込ませたところで、巨人の身体を打ち倒すことはできない。それはわかっていた。
だが。
「撃って!」
菜緒は叫んでいた。少しだけ遅れて、背後の少年達がそれに反応する。
こちらへと向かってくる巨人の身体に、弾丸が殺到した。見ると、椎名も同じようにフルオートで発砲している。
すぐに弾倉が空になった。新しい弾倉と交換し、再び銃口を巨人へと向ける。すると。
「……椎名くん!?」
こちらと同じく弾丸を撃ち尽くした椎名が、どういうつもりか巨人の方へと駆け寄っていた。走りながら弾倉を交換したかと思うと、その銃をこちらへと放り投げてくる。
「使え!」
「え、ちょっと!?」
投げられた銃をどうにか受け取りつつ、椎名がベルトに繋いでいた刀を外すのが見えた。巻きつけられた布を剥ぎ取り、更に巨人へと接近する。
巨人に、肉薄するつもりなのだ。あの刀で巨人を傷つけようと思うならそうするしかない。だが、それは――
「撃って! 早く!」
椎名から受け取った銃を手の空いていた少年に押し付け、菜緒は再びトリガーを引いた。自衛隊員ですらどうにもならなかったというのに、更にリーチのない武器だけで接近を図るなど、正気の沙汰とは思えない。残されたすべての弾丸をつぎ込むつもりで、菜緒は撃ち続けた。が、間に合わない。
巨人の腕が届く範囲に、椎名が進入した。当然巨人の方も椎名に気付いており、躊躇なくその身体を押し潰すように拳を突き出す。
椎名が後ろに跳んだ。大きく距離を取り、続けて繰り出されたもう一方の手が届かない範囲へと移動する。が、紙一重だった。椎名のほぼ眼前を巨人の拳が通過し――
「――らぁっ!」
その拳へと、椎名が刀を叩きつけた。攻撃を避けながら尚且つ反撃に転じる辺り、彼の反射神経はおよそ尋常なものではない――のだが、巨人には大した痛痒を与えていないようだった。
(椎名くん、まさか……?)
先程隊員達がやっていたことを、彼ひとりでやるつもりなのだろうか。だとすれば、無謀としか言いようがない。隊員達が三人がかりだったのに対し、椎名はひとりなのだ。しかも巨人はあの重たい斧を持っておらず、動きの速さにも拍車がかかっている。
しかし椎名は信じられないほどの俊敏さで、巨人の間近にまとわりついていた――そうとしか表現のしようがない。体格の差を逆に利用して、必要以上に深く踏み込むことで巨人のリーチの内側へと進入している。先程隊員達が巨人と立ち回っていた時のそれより、更に近かった。
だが、どう考えても長く続くはずはない。巨人の腕が僅かにでも椎名に触れるようなことがあれば、それで終わりだ。そして、かわし続けるなど不可能に決まっている。
「……くっ!?」
案の定、拳を突き出した隙を狙ったのだろうが、踏み込んでいたところへと引き戻された肘が椎名の背中と接触した。巨人からすればただ体勢を戻しただけの挙動だったにも関わらず、椎名の身体は軽々と吹き飛ばされている。
「椎名くん!」
再び叫び声を上げ、菜緒はその場から駆け出していた。先程のような幸運がもう一度訪れないものかと、巨人の顔面を狙って発砲しつつ、巨人の方へと接近する。が、無論そうそう都合よく命中するはずもなく、どころか走りながらの発砲では掠めることすらできなかった。
とは言え、まったく無意味な行動だったわけでもない――片目を潰されたことを憶えていたのか、巨人が素早く顔面を手でガードし、こちらを向く。菜緒は立ち止まった。
まだ、巨人の腕が届く距離ではない――ように見える。しかし巨人がその気になれば、ほぼ一瞬で詰め寄ることのできる距離でもあるだろう。その一瞬に、自分は反応できるだろうか。
こちらが銃口を向けているからなのかどうかはわからないが、巨人は顔を、というか右目を押さえたままだった。警戒されている――相手がなんの心得もない小娘だからと、油断しているようなことはない。悪魔にそんな思考があれば、の話だが。
巨人が踏み込んできた。予想した通り、瞬時にこちらとの距離を詰めてくる。まったく当たってほしくなかった予想だが、それでも事前に把握していたメリットはあった――つまり、その一瞬に反応できたということ。
菜緒から見て左側、つまり巨人が顔を押さえている為に死角となっている方へと回り込む。と同時に、顔面へ向けて発砲。当然手に阻まれるが、むしろそれが目的だった。ここで右腕を振り下ろされてはどうしようもないのだから。
巨人がこちらを視界に収めるべく、身体ごと方向を変える。菜緒は足を止めず、更に銃撃を続けながら巨人の右側へと移動した。このままこれが続けば、巨人の周囲を一回りすることになるかもしれない――などとも思ったが、当然続かなかった。
こちらを狙い損ねたのか、あるいはそれが目的だったのかはわからないが、巨人の腕が地面を殴りつけた。振動が周囲を揺らし、こちらのバランスを奪う。転びこそしなかったものの、菜緒は立ち止まらざるを得なかった。
巨人は地面へと減り込ませた腕をすぐさま引き戻し、足を止めたこちらへと向き直っていた。まずい。後ろに下がらなければ――
と、思った瞬間。
(…………え?)
巨人の背後に、なにかが見えた。
いや、そんな馬鹿な。巨人の上背はこちらが見上げる程にあるのだ。その向こうになにがあったとしても、巨人に阻まれて見えるはずがない。もし見えるとしたら、それは巨人と同等に長大な――
(……!)
こちらの視線が巨人ではなくその背後にあるものに向いていると、果たして巨人が気付いたのかどうか。それはわからないが、巨人もまたその気配を察知したらしく、振り向こうとして。
「――おあああああああああああああっ!!」
聞こえたのは、椎名のものと思しき叫び。それと同時に。
振り下ろされた斧が、巨人の肩口から腰までを深々と断ち割っていた。
現実離れした光景だった。今更のような気もするが、しかしそうとしか言えない。
巨人の向こう側にいたのは椎名だった。まるで丸太でも抱えるように、先程巨人が手放したはずの斧の柄を両腕で支えている――いや、今はもう支えていないが。それを持ち上げたのだという事実がおよそ信じられない程長大なその斧の先端は、巨人の身体へと食い込んでいた。
(…………すごい)
ぼんやりと、これも今日だけで何度思ったかわからないことを胸中で漏らす。
巨人の背後で、椎名は巨人が手放した斧をどうにか振り上げ――そして、振り下ろした。起こったことと言えば、たったそれだけだ。
恐らく椎名が死にもの狂いで振り下ろしたのであろうそれは、狙い違わず巨人の身体を切り裂いた。ばっさりと、巨人の上半身が左右に分断されている。
だが、巨人は立っていた。無数の弾丸を浴び、片目を潰され、挙句背後から両断されても――倒れることなく、立ち尽くしている。最早どうすればこの巨人が地に膝をつくようなことがあるのか、さっぱりわからなかった。
どすん、と重い音が響く。見ると、椎名が斧の柄を手放し、地面に落としていた。洒落にならない重量だったのだろう、滝のような汗を流し、ぜえはあと荒い呼吸を繰り返している。膝も微かに震えていた。
巨人は動かなかった。斧を減り込ませた体勢のまま、ぴくりともしていない。菜緒はゆっくりと、巨人から距離を取った。やはり、巨人は追って来ない。
しばし、そのまま呆けたように巨人の姿を眺めていると。
「…………は、あ」
大きく深呼吸をして、椎名が身体を起こすのが見えた。そして巨人の身体から突き出した斧の柄に手を当て――ぐい、と力を込める。
巨人の身体が、ゆっくりと、スローモーションの映像でも見ているかのような挙動で――うつ伏せに倒れた。巨体が再び地面を揺らし、砂埃を巻き上げる。
(え……?)
倒れない、と思っていたはずのそれが、しかしあっさりと倒れ込んだのを見て、菜緒は小さく呻いていた。が、こちらが呆然としているのにはまったく構わず、椎名が倒れた巨人の頭の方へと回り込んでいく。刀を振り上げ――
巨人の頭部へと、思い切り突き立てた。
(……!?)
なにをしているのかわからなかった。というか、先程からなにが起こっているのか思考が追いつかない。
菜緒が状況を理解したのは、椎名のつぶやきが聞こえてからだった。
「……やっと、死んだか」
確認するような声音だった。椎名は数秒ほど巨人の顔を見つめていたが、やがて刀を引き抜いた。こちらへと振り返ってくる。
「……おい、どうした?」
菜緒は椎名の顔を見返した。先程の彼の言葉を、繰り返す。
「死んだ、って……?」
「見りゃわかるだろ」
なにを寝惚けてやがる、とでも言いたげに倒れた巨人の姿を示す。巨人は動かない。倒れたまま、指ひとつ動かしていない。
……死んだ? あの巨人が? 本当に?
実感が湧かないものの、しかし椎名の言葉を裏付けるように、巨人の死体が転がっている。
「やった、のか……?」
自分と同じように呆気に取られた様子で聞いてきたのは、こちらへと歩み寄ってきた少年達のひとりだった。他の三人も浮かべている表情は似たようなものだったが。
と、椎名が周囲を見渡しながら、
「……そうか、こいつがボスだったってわけか」
「え?」
聞き返すと、椎名は辺りを指し示した。
「見ろ、残ってた悪魔どもが逃げてったみてえだ」
「……あ」
言われてみれば確かに、先程から周辺に悪魔の姿が見当たらない。リーダーが倒れたことを悟って撤退した、ということなのだろうか。
と、そこで菜緒は気付いた。
「あ……! 大丈夫ですか!?」
巨人に殴り飛ばされて身動きが取れなくなっていたらしい自衛隊員の姿を見つけ、菜緒はそちらに駆け寄った。傍らに膝をつき、身体を抱き起こす。
「ごはっ!……み、見てましたよ……やりましたね」
盛大に血を吐き出してから、隊員の男は無理に笑顔を作って見せた。考えるまでもない――もう、助からないだろう。片腕と頭部を除いた上半身が、尋常でない圧力をかけられたようにひしゃげている。今こうして話せていること自体、なにかの奇跡か、そうでなければ巨人の遺した悪意のようにも思えた。
「いいですか? よく聞いてください」
男が腕を伸ばし、こちらの肩を掴んでくる。最後の力を振り絞っているのだろう。菜緒は彼の言葉を聞き逃さないよう、顔を近づけた。
「駐屯地です。そこに、他の隊員が残っているはず」
「駐屯地……? そこに避難すれば、いいんですね?」
「そこならば安全などと、確約はできません。ですが、もうそこしか……げはっ!」
再び口の端から血が溢れ出す。菜緒はそれを拭おうとしたが、男の手が静止した。
「ふ、ふふ……他の者には、申し訳ないのですが……私は、運が良かったようです」
「え?」
「もしまた、会うようなことがあったら……自慢してやりますよ。最期に少しだけ、いい目を見ることができた……と、ね」
かくん、と。男の手から力が抜け、こちらの肩から滑り落ちた。
「あ……」
思わず、声が漏れる。肩から落ちた手は、もう動かなかった。顔も、そして口も。もう、二度と動くことはない。
菜緒は抱えていた男の身体をそっと地面に下ろした。手を合わせるべきかとも思ったが、やめておく。その代わりに。
(ありがとう、ございます……守ってくれて)
胸中で感謝の言葉を述べる。菜緒は立ち上がった。
「……死んじまったか、そいつも」
と、近寄って来ていた椎名が背後から言ってくるのが聞こえた。振り向く。
「結局、ここに来た自衛隊の連中は、全滅……か。それに、避難してたやつらも……」
言って、椎名は完全に倒壊した体育館へと目を向けた。それにつられて、菜緒も視線をそちらへとやる。
「マジかよ……オレら以外、みんな死んじまったのかよ……」
「勘弁してくれよ……悪い冗談としか思えねえよ、ホントに」
少年達が嘆いている。無理もない、としか言えないが。
(……わたしたち、だけ)
たったの六人。あれだけ大勢いた避難民のうち、たったこれだけしか生き残らなかった。一夜のうちに、それだけ多くの人間が死んだのだ。悪魔に殺されたか、あるいは瓦礫の下敷きになって――
(…………あら?)
と。
なにかが動いたような気がした。
「おい……相澤?」
椎名が聞いてくる。菜緒は視線を瓦礫の方へと向けたまま、
「いえ、あそこ……なにか、動いたような」
告げると。
「ま、まだバケモンがいるのかよ!?」
少女が悲鳴を上げる。だが、菜緒はかぶりを振った。
「違う、あれは……悪魔じゃない!」
言うと、菜緒は走り出していた。瓦礫を踏み越えて、なにかが動いたように見えた場所へと駆け寄る。
(悪魔じゃない! きっと……)
降り積もった瓦礫を押しのける。その下に見えたのは、マットだった。恐らく体育倉庫に入れられていたものだろう。そして、そのマットの更に下で――なにかが、動いている。見間違いではない。
菜緒は顔を上げた。
「手伝って! 誰かいるの!」
「なに?」
「誰か、って……生きてるんですか!?」
椎名と少年達が慌てた様子でこちらへと駆け寄ってくる。手分けしてマットの上の瓦礫を掻き分け、そして。
「ぶはっ!」
マットが下側から押しやられた。そこから顔を出したのは――
「あー苦しかった! ったく、窒息するかと思ったよ」
見覚えのある、少年だった。
「亮! 早くどけよ! こっちが出られねえだろ!?」
と、更にマットの下から別の声が上がる。椎名が少年の襟首を掴んでひょいと持ち上げると、続けて別の少年が顔を出した。
「はあ……あーちくしょう、空気ってこんなにうまいものだったんだなー……」
こちらの少年も椎名が引っ張り上げる。その足元から、
「……正直、本当に死ぬかと思ったよ。有紗、怪我はない?」
ノートPCと少女を一緒くたに抱きかかえた格好で、やはり見覚えのある少年が這い出てきた。
既に両手が塞がっている椎名が少年を見下ろし、
「……おい。まだいるのか?」
尋ねると、少年はかぶりを振った。少女と共に穴から出つつ、
「いえ……僕たちだけです。他のひとは、たぶん……」
「あなたたち、どうして無事だったの?」
椎名の両手にぶら下がっている少年二人と、自力でマットの下から這い出してきた少年と少女。彼らの姿を見ながら、菜緒は尋ねた。
少年――悠介は視線を落とし、
「あの牛の悪魔が入って来た時に――倉庫の中に匿ってもらったんです。ここに隠れてろ、って」
「そうだったの……」
無論、だからと言って確実に助かったというわけでもない。単純に運が良かったのだろう。
「そーいや、あの牛野郎は?」
悠介に続いて、明が聞いてくる。椎名が掴んでいた襟首を離し、
「あそこでくたばってるぞ」
瓦礫の上に落下した亮と明が、倒れた巨人の方へと目を向ける。すげー、などと快哉を上げていた。
悠介が周囲を見渡し、
「もしかして……無事だったの、あなたたちだけなんですか?」
「見ての通りだ」
椎名が素っ気なく答える。それ以上を説明する気にはならなかったのだろう。
「……そう、ですか」
悠介が声のトーンを落として言ってくる。そんな彼と椎名とを、有紗が交互に眺めて不思議そうな表情を浮かべていた。
「おい……これから、どうすんだよ」
と、後ろの少年達から声が上がる。
「こんなんになっちまって、自衛隊のヤツらも死んで……オレらだけで、どうしろってんだよ!」
「うるせえ。喚いたところでなにも変わるかよ」
少年の悲鳴を、しかし椎名がばっさりと切り捨てる。
そのやり取りを見ながら、菜緒は。
(……わたしたち、だけで)
頼れる者はいない。守ってくれる者は、誰もいない。皆、死んでしまった。
今は姿が見えないとは言え、周囲には悪魔がいる。この辺りだけではない、日本中に現れている。安全な場所など、もうない。
だが。
やれることはある。やるべきことが、ある。誰にも頼れないのなら、自分達だけでやるしかない。他の選択肢など望めない。
だから。
(泣いてる暇なんて……きっと、ない)