・嘘と本音を書き分けることが難しかった
side 網倉麻子
4月、私は春風にスカートの裾を揺らしながら、新しい制服に身を包んで『東京都高度育成高等学校』の門をくぐった。
案内された1年Bクラス。その教室の自分の席で、私は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
さっきまで、一之瀬帆波ちゃんと話をしていたのだ。太陽のように明るく優しい帆波ちゃんとは、出会ってすぐに打ち解けることができた。お互いに下の名前で呼び合おうと約束したときは、不安だった高校生活のスタートが温かい希望に満たされた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなったのを覚えている。
ふと、まだ空いている自分の隣の席に視線をやった。
ホームルームが始まるまで、もうあまり時間がない。私の隣になるクラスメイトは、一体どんな人なんだろう。いつ来るのかな——そう胸の中で呟いた、まさにその瞬間だった。
ガラガラと音を立てて、教室の前扉が開く。
足を踏み入れてきた人物を見て、私は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、驚くほど整った容姿をした青年だった。少し長めの艶やかな黒髪に、吸い込まれそうな深い青色の瞳。まるで……幼い頃に読んだ絵本に出てくる、気品ある王子様そのものだった。
彼は迷いのない足取りでこちらへ歩いてくると、なんと私のすぐ隣の席へと腰を下ろした。あまりの美しさに毒気を抜かれ、私はほんの少しの間、言葉を失って彼に見惚れてしまっていた。
(——あっ、ちゃんと自己紹介しないと!)
ハッと正気に戻り、隣の王子様に視線を向ける。彼は冷ややかな瞳で周囲の様子を観察していたが、やがてふいに私の視線に気づき、目が合った。
急なことに喉が引きつり、すぐには言葉が出てこない。けれど彼もまた、口を開くことなく私をじっと見つめ返してくる。
(言葉を……待っていてくれているのかな?)
深く息を吸い込み、勇気を振り絞って笑みを作った。
「私、網倉麻子! お隣同士、これからよろしくね!」
無難で、ごく簡単な挨拶。だけど、最初の一歩としては悪くないはず。ほんのちょっと声が震えて緊張が伝わってしまっていないか心配になりながら、私は彼からの返事をワクワクした心地で待った。
彼は、すっと細められた瞳で静かに微笑んだ。
その笑みに期待を膨らませ、名前を聞くために身を乗り出す。
「俺は黒水竜也。よろしくはしないでおくよ」
「……えっ? ど、どうして?」
彼の綺麗な唇から紡がれたのは、名乗りと——あまりにも明確な「拒絶」の言葉だった。
思いもよらない返答に、私の頭の中は真っ白になる。不思議さと強烈な困惑に耐えかねて、つい理由を尋ねてしまっていた。
「くどいな。その質問に意味なんてないだろ。俺は既にお前が嫌いになりそうだ」
「えっ……あ、その……」
刃物のように鋭い言葉が突き刺さり、一瞬で言葉に詰まる。
なんて返せばいいのか分からない。頭がパニックを起こす。そもそも私、何か致命的な対応の違いを犯してしまったのだろうか。
動揺する私を見下ろしながら、黒水君は冷淡に口を開いた。絶望的な予感の中、彼が発した追い打ちの一言は——。
「気持ち悪い……」
「っ。……ご、ごめんなさい……」
あまりの衝撃に胸が強く締め付けられ、私は反射的に謝罪の言葉を零していた。
謝られた黒水君はもう私に興味を失ったかのように、つまらなそうに視線を外すと、一人窓の外の景色を眺め始めた。
私は溢れそうになる涙を必死に堪え、思わず深く俯いた。
帆波ちゃんとの自己紹介はあんなに上手くいったのに。どうして黒水君への自己紹介は失敗してしまったんだろう。どれだけ考えても、その理由は分からなかった。
ただ一つ分かったのは——自己紹介の失敗と、あまりにも単純で途切れ途切れの拒絶の言葉であっても、人間はこんなにも深く、息ができないほど傷つくことができるのだということだけだった。
side黒水竜也
またやってしまった。
深く胸の奥へと沈み込んでいく、何度目かも分からない諦めと後悔。「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で謝ったときにチラリと覗いた網倉の心には、一片の嘘もなかった。彼女は本当に、自分に非があると思い込んでいる。
網倉は何も悪くない。ただ隣席のクラスメイトに、ごく当たり前の挨拶をしただけなのだから。
俺の口から発せられる言葉は、まるで逃れられない呪いそのものだ。本心を伝えようとすれば言葉は反転して激しい嘘になり、その嘘を塗り重ねなければ会話すら成り立たない。そして本音を打ち明けられない。この呪われた体質のせいで、俺には中学3年生になるまで一人も友達がいなかった。
当然、この高度育成高等学校にも俺の友達など一人もいない。つまり、俺が吐き捨てる棘のある言葉のほとんどが嘘であるという真実を、ここでは誰も知らないのだ。……いや、そもそも高校でまで周囲と同じ関係性を保てると期待するほうが、どうかしているのかもしれないが。
この呪いの口は、真実のことだろうが些細な日常会話だろうが関係なく嘘へと変換してしまう。だからこそ俺は、自分の中の嘘に絶対に慣れないようにと強く心に決めている。世界中で俺自身だけは、己の本心を見失っちゃいけない気がするからだ。
それと俺には、最近になってようやく発動のオン・オフを調整できるようになった特殊な能力がある。まあ、こんな力がこの先の学校生活で本当に必要なのかどうかは、さっぱり分からないけれど。
緊張感が漂う教室に、始業を告げる甲高いチャイムが響き渡った。
ガラリと扉が開き、一人の女性教師が入ってくる。
俺はそっと隣の網倉へと視線を向けた。彼女は涙こそ流していなかったものの、唇を噛み締め、必死に溢れ出そうな感情を耐えているようだった。傷つきながらも、前を向こうと背筋を伸ばしている。
意外と、強い子なのかもしれないな。網倉は。
「はいみんな、席に付いているね、偉い! 私は星之宮知恵。クラス替えが存在しないから、3年間担任として接することになるわ。それと保健医だから、朝と帰りのHRしかいないかもしれないわ。よろしくね。それじゃあ今から学校の資料を配るわね」
3年間も同じ顔ぶれで過ごすのか。
果たして3年後、このクラスの誰かが一人でも俺という歪んだ存在を理解してくれているだろうか。……いや、ただ待つだけじゃダメだ。そうなるように、俺自身も努力をしないとな。
手際よく資料を配り、軽快な口調で説明を進めていく星之宮先生。
最初の説明は、事前に配られていた案内資料にも載っていた内容だった。要するに、生徒である俺たちはこの広大な敷地内から出ることなく生活する、ということだ。
「次は『Sシステム』について説明するわね」
その言葉を聞き、俺は意識的に己の能力のスイッチを入れた。
俺のこの能力を簡単に説明するなら、『相手の発言に含まれる嘘を見抜き、真実を映し出す目』といったところだ。先生の言葉に邪悪な嘘が含まれていないことを祈るばかりだが……。
「今から学生証を配るわね。それを使えば学校の敷地内にあるものは何でも購入可能よ。学校内で使えばこのポイントで買えないものは無いわ」
何でも買える、か。なるほどな。
何でもと言うからには、ポイント次第では遅刻や欠席の記録すら帳消しにする権利だって買い取れるのかもしれない。
「施設ではこの学生証を機械に通すか、提示することで使用可能よ。それから毎月1日にポイントが振り込まれるから。君達全員には平等に10万ポイントが支給されているからね。1ポイントは1円の価値がありますよ」
嘘を見抜く眼で見れば、確かに今、俺たちに10万ポイントが支給されているのは事実だ。
だが……彼女は毎月いくら振り込まれるかについては、一言も具体的に言及していない。来月以降も確定で10万ポイントが貰えるとは限らないのだ。
教師の発言に潜むこの決定的な違和感に気づいているのは……おそらく、この教室で俺くらいのものだろう。
「支給額に驚いたでしょ。この学校は実力を測るから、入学した君達の評価みたいなものよ。卒業後の現金には出来ないから遠慮なく使って。ポイントをどう使おうと好きにしていいよ。また誰かに譲渡することも出来るけど、カツアゲはやめてね。学校はいじめ問題だけは敏感だから」
露骨に物欲を煽っているな。これも生徒を試すための、学校側の計算されたやり方というわけか。
「何か質問あるかな?」
質問なら山ほどある。だが、この呪われた口でまともに伝わるはずもない。
……けれど、伝わらないからと言って、このままクラス全体が罠にハマるのを黙って野放しにしていい理由にもならない。
覚悟を決め、俺は静かに手を挙げた。
「おっ? 何かな黒水君」
俺はそっと立ち上がり、思考の中で本音を組み立ててから言葉を紡いだ。
「(はい。1月で支給されるポイントの額を教えて下さい)いや、本当に10万ポイント貰えるなら万々歳さ」
——言った瞬間、教室の空気があっという間に凍りついた。
……おいおい、俺は何を言っているんだ。いくら嘘に変換されるとはいえ、もう少しマシな言い回しはなかったのか。
「え、えぇっと、10万ポイントは支給されているよ」
星之宮先生も一瞬固まり、引きつった笑みを浮かべながら答える。俺の意図とはまったく噛み合っていない。
「(いや、俺は月額がどれだけ貰えるか知りたいんだが。クラスメイトの皆にも気付いて欲しいし)そうか。いや俺としてはクラスメイトがどれだけ散財しようが構いやしないんだ。俺には関係ないことだし」
脳内と口から出る言葉で、合っているのはクラスメイトという単語だけだ。
今日の呪いはとびっきり鋭く凶悪に尖っている。……いや、人を無差別に傷つけるという意味では、いつだって通常運転か。
「そ、そうだね。これで質問は以上かな?」
「(……時間的に無理だ。これ以上はやめよう)ああ、聞きたいことは聞けたからね。俺からは以上だ」
これ以上発言を重ねれば、完全にクラスの敵として孤立してしまう。俺は諦めて席に着いた。
「……じゃあ、私は一旦退室するね。また後でね(もしかして学校のシステムに気付いたと思ったけど勘違いだったみたい……)」
先生が去り際に胸中で呟いたその本音を、俺の目はしっかりと捉えていた。
ハッキリと確信できた。やっぱり、彼女の発言には重大な含みと罠が隠されていたのだ。
だが、その真実に気づけたのは、この空間で俺一人だけ。
星之宮先生が教室を出ていくと、周囲の生徒たちは浮き足立ったように歓声を上げ始めた。
「ねえ、みんな。ちょっとだけ時間貰えるかな? 入学式まで時間があるし、自己紹介しようよ」
ピンク色の華やかなロングヘアを揺らし、教壇の前に立った少女が一際明るい声で提案した。その呼びかけに、教室にいたほとんどのクラスメイトたちが賛同の声を上げ、乗り気な様子を見せる。
自己紹介、か。正直に言えば今すぐにでもこの場から抜け出したい。……けれど、いつまでも逃げてばかりいては何も始まりはしないんだ。周囲を無闇に傷つけないよう、できる限り穏やかで無難な言い回しを心がけよう。……今の俺に、そんな器用な真似ができるだろうか?
「私は一之瀬帆波! 今はクラスの皆と仲良くなることを目標にしてます。よろしくね!」
一之瀬のハキハキとした挨拶を皮切りに、順々に自己紹介が始まっていく。下手に口を開けば余計な嘘が飛び出して不審がられるため、俺はせめてもの意思表示として、周囲に合わせて静かに拍手を送ることに徹していた。……あくまで普通を装いながら。
「じゃあ最後の君、お願いね」
「はいはい」
一之瀬に促され、俺は静かに席を立った。
クラス中の視線が一斉に俺へと注がれる。好奇と期待の入り交じった眼差しの中で、先ほど拒絶してしまった網倉だけが、どこか不安げで痛々しい表情を浮かべて俺を見つめていた。
任せたまえ、網倉。今度こそ完璧で完璧な自己紹介を披露してみせる!
「俺は黒水竜也。好きなことは本を読むこと。そして嫌いなものは……何もかも、かな。いやぁ、皆と仲良くはなれそうにないな。よろしくはしないでおくよ」
……おい、どうして名前と好きなことまでは正常に言えたのに、嫌いなもののくだりから急激に悪質な嘘へと反転しているんだ。
見ろ、一気に教室の空気が凍りついてしまったじゃないか。紛れもなく俺自身の口から出た言葉なのだが、自分でも引くほどの冷やすぎる反応だ。
「ど、どうして仲良くなれないの?」
引きつった笑みを浮かべつつ、必死に場を繋ごうと一之瀬さんが食い下がってくる。
「だって仲良しごっことか反吐が出るからかな。俺は嫌いなものが多くてね。あっ……もう良いかな? 自己紹介も嫌いなんだ」
「えっ……う、うん……(どうしてそんなこと言うんだろう?)」
しまった、動揺のあまり能力のスイッチを切り忘れていた。相手の本音が透けて見えてしまうこの力は、本当に必要な局面以外ではなるべく使いたくないというのに。
あ、そうだ。気まずさに押し潰されそうになりながらも、俺はクラスメイトたちに警告として伝えておかなければならない重要な事実を思い出していた。
「あっ、もう一つ言いたいことあるんだった」
「な、なにかな?」
「精々この閉鎖的空間で平和を享受していれば良いさ」
……なぜだ。「この学校のシステムは普通じゃないから、軽率な行動は控えて注意してほしい」という至極真っ当な優しさが、どうしてこんな上から目線の見下した台詞に変換されてしまうのか。
だが、俺の呪われた発言は嘘でありながらも、どこか真実の核心を突いている……はずだ。
これで俺がクラス中から決定的に嫌われるのは確実だろう。嫌われること自体にはとうの昔に慣れ切っているから何の痛痒もないけれど、俺のこの攻撃的な言動のせいで、クラス全体の評価やポイント減少に直結するような事態に発展することだけは、なんとしても避けたいところなのだが。