青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
ここまで読んでくれている読者の皆様的にもお待ちかねの回じゃないでしょうか?
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ゲヘナ自治区の一角で、地面の奥から鈍い振動が響いた。
最初に異変へ気づいたのは、避難誘導を行っていた生徒たちだった。
「……何? また揺れてない?」
「全員、道路から離れて!」
風紀委員の声が飛ぶ。
足元の小石が細かく跳ね、舗装された道路の中央へ亀裂が走った。ひび割れは瞬く間に広がり、その直後、地面そのものが内側から突き破られる。
轟音とともにアスファルトと土砂が舞い上がった。
「ヴァァァァァァァァァッ!!」
土煙の中から響いた咆哮に、周囲の生徒たちが耳を塞ぐ。
「またあいつ!?」
「早く逃げて!」
「こっち! 風紀委員の指示に従って!」
煙を押しのけるように、巨大な異形が身を起こした。
白目を剥いたティラノサウルスの頭部を上半身に持ち、そこから人間大の手足と脊椎のような尾が伸びている。爬虫類を思わせる左腕には鋭い爪が並び、身体の各所には血管めいた模様が浮かんでいた。
T-REXドーパント。
昨日、ゲヘナ風紀委員会と激突した怪物だった。
しかし、その姿には明らかな変化があった。
「ヴ……ァ……」
一歩踏み出した途端、巨体が大きく傾いた。
T-REXドーパントは身体を支えきれず、道路脇の建物へ肩からぶつかる。外壁が鈍い音を立てた。
昨日の風紀委員会との戦闘。空崎ヒナによる激しい攻撃。そして地中へ逃げ込んだ後にも続いた追跡。
異形の身体には無数の傷が刻まれ、呼吸のたびに巨大な頭部が不規則に上下している。
それでも、止まることはできないらしい。
「ヴ……ヴァァッ……!」
突然、何かを振り払おうとするように頭を激しく振ると、左腕を建物の壁へ叩きつけた。
轟音とともに壁面が陥没する。
もう一度。
今度は自ら肩をぶつける。
「ヴァァ……ッ!」
破壊した壁を見ることすらせず、苦しげな声を漏らす。
その直後、近くで倒れた看板が大きな音を立てた。
巨大な頭部が反射的にそちらを向く。
「ヴァァァァァァッ!!」
咆哮とともに放たれた衝撃波が看板を吹き飛ばし、無人の車両を揺らした。
何かを狙って破壊しているようには見えなかった。
音に反応し、動くものへ牙を剥き、身体だけが暴力を繰り返している。
ガイアメモリに侵され、暴走した身体。
その中に、変身者自身の意思がどれほど残されているのか。
それを知る者は、この場にはいなかった。
* * *
「対象、地上へ移動。現在、第三区画を北上」
T-REXドーパントから距離を取った建物の屋上で、一人の観測員が双眼鏡越しに市街地を見下ろしていた。
身につけているのは目立たない暗色の戦闘服。胸にも肩にも企業章はなく、携行している通信機器や観測装備にも所属を示すものは一切残されていない。
『第一回収班は?』
「予定地点まで後退中。対象が地上へ出た時点で直接追跡を中断しています」
『それでいい。あの班は既に対象と接触しすぎた』
観測員がレンズを横へ向ける。
別の通りから、風紀委員会の車両が次々と近づいていた。周辺では避難も続いており、人目は地下にいた時とは比較にならないほど多い。
「風紀委員会の到着まで、そう時間はありません」
『予想通りだ』
「こちらも撤収しますか?」
『いや。監視を続けろ』
返ってきた答えに、観測員が僅かに眉を動かす。
「しかし、この状況で実験体を捕獲するのは困難かと」
『誰が今すぐ捕獲しろと言った?』
通信の向こうの声には焦りがなかった。
『あれだけ派手に暴れれば、風紀委員会だけでは済まん。生徒、住民、それにクロノスが嗅ぎつける可能性もある。こちらから大人数を出せば、余計な疑いを招くだけだ』
「ゲヘナとの関係悪化を避ける、と」
『場合によっては連邦生徒会まで動く。実験体一体のために、その危険を冒す理由はない』
「……では、回収を断念しますか?」
短い沈黙があった。
『そんなことを言った覚えはない』
今度の声には、僅かな苛立ちが混じっていた。
『実戦環境であれだけの能力を発現した個体だ。メモリも含めて、可能な限り回収する』
「では?」
『方法を変えるだけだ。風紀委員会が対象を消耗させるなら利用しろ。動けなくなる機会を待つ』
「回収可能と判断した場合は?」
『実験体まで確保できるなら確保しろ。困難ならメモリを最優先する』
「了解」
『ただし、所属を知られるな。風紀委員会との交戦も避けろ。お前たちは最後まで表へ出るな』
通信が切れる。
観測員は再び双眼鏡を構えた。
傷だらけのT-REXドーパントが、ふらつきながら街を進んでいる。
自分たちから戦う必要はない。
風紀委員会が削るのなら削らせる。
最後に、最小限の損失で成果だけを持ち帰ればいい。
* * *
「はっ……はっ……!」
その頃、翔は市街地を走っていた。
ひだまりを飛び出してから、ずっと咆哮が聞こえた方向を目指している。
道路を走り抜ける風紀委員会の車両。遠くから上がる黒煙。街頭スピーカーからは、対象地区から離れるよう避難勧告が繰り返されていた。
そして時折、建物越しに腹の底まで響く声が聞こえる。
「ヴァァァァァァァァァッ!!」
「……っ」
近い。
そう感じるほど、翔の胸の奥で一つの疑問が大きくなっていった。
――行って、どうするんだ。
あれが何なのかは知っている。
ドーパントがガイアメモリによって変身した存在であることも、メモリを破壊できれば元の姿へ戻せる可能性があることも。
だが、それだけだった。
知識があったところで、翔自身には銃もなければ、あの怪物と渡り合える身体もない。
昨日見たヒナの戦いを思い出す。
あれほどの力を持つ相手が、真正面から撃ち続けてようやく押し返せた怪物だ。
自分が飛び込んだところで何ができるのか。
「……分かってるよ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
何もできないかもしれない。
それくらい、店を飛び出す前から理解していた。
それでも足は止まらなかった。
「誰か、手を貸して!」
「!」
横から聞こえた声に、翔は反射的に足を止めた。
道路脇で一人の生徒が座り込み、足首を押さえている。その傍では友人らしい生徒が、どうすればいいのか分からず周囲を見回していた。
「大丈夫?」
「逃げる途中で足を捻ったみたいで……」
「立てそう?」
「たぶん。でも、痛くて……」
翔はすぐに少女の横へしゃがみ込んだ。
「肩貸すよ。無理に歩かなくていいから」
「え、でも……」
「避難場所までならすぐだ。ほら」
少女の腕を肩へ回し、ゆっくりと身体を起こす。
昨日痛めた肩が少し疼いたが、歩けないほどではない。
「ご、ごめん……」
「謝らなくていいって。痛かったら言って」
三人で避難誘導を行っている風紀委員のもとまで進む。
途中で遠くから咆哮が聞こえると、少女の身体が強張った。
「……怖くないの?」
「怖いよ」
翔は即答した。
「昨日も見たけど、あんなの怖くない方がおかしいだろ」
「じゃあ、なんで……」
少女はそこで言葉を止めた。
翔は少し考えたものの、結局、大した答えは浮かばなかった。
「怪我してる奴が目の前にいたら、放っておけないから。それだけ」
やがて風紀委員へ少女を引き渡す。
「ありがとう」
「うん。今度はちゃんと安全なところまで離れて」
少女たちを見送った後、翔は自分の両手へ視線を落とした。
戦う力がないことは変わらない。
だが、だからといって誰一人助けられないわけでもなかった。
「……全部が全部、何もできないってわけじゃないか」
小さく呟き、顔を上げる。
遠くから再び咆哮が響いた。
翔はその方向へ走り出した。
* * *
翔が飛び出した後のひだまりには、普段と変わらない静けさが残っていた。
その静けさが、今のニャン次郎には妙に落ち着かなかった。
「……馬鹿が」
カウンターの奥で吐き捨てる。
風紀委員会がいる。
昨日はヒナまで出てきた。
何の戦う術も持たない翔が首を突っ込む必要など、本来どこにもない。
あいつに何ができるのか。
そう問えば、答えなど決まっている。
ほとんど何もできない。
翔自身も、それを分かっていた。
それでも。
『あいつをただの怪物だって決めつけて、見なかったことにはできない』
「…………」
出ていく直前の言葉が、どうしても頭から離れなかった。
ニャン次郎は厨房へ目を向ける。
使い慣れた調理器具。
並べられた食器。
何年も作り続けてきた料理の多くは、かつての友人が残してくれたものだった。
だが、あいつが残したのは料理だけではない。
しばらくその場に立っていたニャン次郎は、やがて店の奥へ向かった。
物置の棚をずらし、その後ろへ隠していた収納を開ける。
中から取り出したのは、一つのケースだった。
机の上へ置いてからも、すぐに蓋を開くことはできなかった。
これをここへ隠してから、もう何年になるのか。
自分から数えようとしたことはない。
それでも、必要がない限り触れず、視界にも入れないようにしてきた時間だけは、嫌というほど長かった。
捨てることはできなかった。
友人が最後に託したものだからだ。
だからといって、誰かへ渡す気にもなれなかった。
これを使う者を間違えれば、友人が恐れていたものとは別の形で、また同じ過ちを繰り返すことになるかもしれない。
留め具へ手をかける。
小さな音とともに蓋が開いた。
中に収められているのは、ロストドライバー。
その傍らには、中央に《J》を刻んだ黒いガイアメモリ。
ジョーカーメモリ。
そして、その下には友人が遺した研究資料が重ねられている。
ニャン次郎は一枚を手に取った。
余白に残された乱雑な書き込み。
何度も目にした筆跡。
指先でそれに触れた瞬間、記憶が蘇った。
* * *
『……持っていけ』
血の付いたケースが押しつけられる。
『何言ってる! 喋るな! 今、助けを――』
『無理だ』
その言葉だけは、不自然なほどはっきりしていた。
友人は荒い呼吸の合間に、それでも笑おうとした。
『自分の身体くらい……自分が一番分かってる』
『…………』
『研究を……進めすぎた』
咳き込み、身体が大きく震える。
『最初は……ただの未知の技術だと思ってた。解析できれば……何かに使えるって』
『もういい。喋るな』
『でも……違った』
友人の指がケースを強く掴む。
『メモリは……広めちゃいけない』
ニャン次郎は何も言えなかった。
『あいつらは止めない。危険でも……利益になるなら使う』
誰を指しているのかなど、聞くまでもなかった。
『だから、こいつは……もしあいつらがメモリを広めた時のための……抑止力だ』
『俺にどうしろっていうんだ』
友人は僅かに目を細めた。
『……分からん』
『おい』
『俺だって……全部分かってるわけじゃない』
それでも、その視線だけはニャン次郎から逸れなかった。
『ただ……誰でもいいわけじゃない』
『…………』
『使う奴を……間違えるなよ』
* * *
「……簡単に言いやがって」
ニャン次郎は資料を静かにケースへ戻した。
誰なら正しいのか。
何を基準に選べばいいのか。
答えが出なかったからこそ、何年も隠した。
誰にも使わせなければ、少なくとも間違った相手へ渡すことはない。
そのまま、このケースを必要とする日など来なければいいと思っていた。
だが昨日、ドーパントが現れた。
友人が恐れた未来は、もう始まっている。
そして今、その怪物のいる場所へ、何の力も持たない少年が向かっている。
ニャン次郎はジョーカーメモリを見つめた。
翔へ渡していいのか。
まだ答えは出ていない。
それでも、店に残ったまま答えを考え続ける気にはなれなかった。
ケースを閉じる。
今度は、それを隠し場所へ戻さなかった。
* * *
翔は現場へ近づく途中でも、避難経路が分からず立ち尽くす者へ道を教え、道路へ散らばった障害物をどけながら進んだ。
怪物を止める力はない。
それでも、今の自分にできることをやる。
そう考えながら通りへ足を踏み入れた時だった。
靴底から、微かな振動が伝わってきた。
「……?」
一度。
続けて、もう一度。
道路脇の小石が震え始める。
翔の表情が変わった。
「まさか……!」
数メートル先の地面が爆発した。
「うわっ!」
土砂と砕けたアスファルトが舞い上がり、翔は反射的に腕で顔を庇う。
その直後、何か巨大なものが着地した。
地面が揺れた。
「ヴ……ァ……」
驚くほど近くから聞こえた唸り声に、翔はゆっくり腕を下ろした。
土煙の向こうで、巨大な影が身を起こしていく。
白目を剥いたティラノサウルスの頭部。
牙の並んだ巨大な顎。
爬虫類状の腕。
T-REXドーパント。
「…………」
近い。
昨日、離れた場所から見た時とはまるで違う。
荒い呼吸の一つ一つが聞こえ、身体に刻まれた傷や、血管めいた模様まで嫌でも目に入る。
「ヴ……ッ」
T-REXドーパントが突然、激しく頭を振った。
左腕を建物の壁へ叩きつけ、続けて肩から身体をぶつける。
「ヴァ……ァ……!」
その動きを見て、翔は息を呑んだ。
――やっぱり。
ただ暴れてるだけじゃない。
苦しんでる。
「おい!」
気づけば声を出していた。
異形の動きが止まる。
巨大な頭部が、ゆっくり翔へ向いた。
全身に冷たいものが走った。
それでも声を止めない。
「聞こえるか!」
「ヴ……?」
「俺の言ってること、分かるか!」
数秒の静寂。
ほんの一瞬だけ、期待した。
だが次の瞬間。
「ヴァァァァァァァァァッ!!」
「っ!」
咆哮が空気を震わせた。
衝撃に押され、翔は数歩後退する。
やはり、まともに話ができる状態ではない。
分かっていたことだった。
それでも。
「お前が何なのか、俺は知らない!」
翔は叫ぶ。
「どうしてそんな姿になったのかも知らない! でも、元に戻れるかもしれないんだ!」
「ヴァァァァァァッ!!」
異形が地面を蹴った。
「――っ!」
巨大な身体からは想像できない速度で距離を詰めてくる。
避けろ。
頭ではそう思った。
だが巨大な顎が視界いっぱいに迫る方が早かった。
「うわっ!」
翔は無我夢中で横へ飛ぶ。
直後、T-REXドーパントが建物の外壁へ突っ込んだ。
轟音。
砕けた破片が道路へ降り注ぎ、衝撃に煽られた翔も地面を転がる。
「ぐっ……!」
昨日痛めた肩に鋭い痛みが走った。
歯を食いしばりながら身体を起こす。
たった一度、攻撃を避けただけ。
それだけなのに、呼吸が乱れている。
――やっぱり無理だ。
理解していたことが、身体を通して突きつけられる。
昨日ヒナはこんな相手を正面から押し返していた。
けれど自分は、一度噛みつきを避けるだけで精一杯だ。
反撃する手段さえない。
「ヴ……ァ……」
T-REXドーパントが、砕けた壁から巨大な頭部を引き抜く。
翔は立ち上がろうとした。
その時だった。
「ひっ……!」
別の声が響いた。
翔が振り向く。
路地の奥から、一人の獣人の住民が飛び出してきた。
避難の流れから取り残れていたのか、背後ばかりを気にしながら走ってきたらしい。通りへ出たところでようやく目の前の異形へ気づき、その場で足を止める。
「…………!」
同時に、T-REXドーパントの頭部が動いた。
「ヴ……」
翔ではない。
獣人の方を見ている。
「まずい……!」
「ひ、ひぃっ……!」
獣人もそれに気づき、慌てて路地へ戻ろうとした。
だが恐怖で足がもつれ、地面へ手をつく。
T-REXドーパントの身体が低く沈んだ。
翔はその構えを見た。
突進する。
「逃げろ!」
叫んでも、住民はすぐには立ち上がれない。
巨大な爪が地面を掻いた。
考える時間はなかった。
「おい!!」
翔は声の限り叫ぶ。
T-REXドーパントの頭部が僅かに揺れる。
まだ足りない。
すぐ傍に転がっていた金属製の看板を、翔は思い切り蹴り飛ばした。
甲高い金属音が通りに響く。
「こっちだ!」
「ヴ……?」
巨大な頭部が翔へ向く。
「そうだ! 俺を見ろ!」
T-REXドーパントの視線が完全に翔へ戻った。
背後で、ようやく獣人が立ち上がる音が聞こえる。
「早く行け!」
振り返らずに叫ぶ。
足音が遠ざかっていく。
翔も逃げればいい。
今ならまだ、横の路地へ飛び込めるかもしれない。
だが自分が動けば、またT-REXドーパントの注意が住民へ戻る可能性がある。
そして何より。
今、目の前の怪物から背中を向けることが怖かった。
「ヴ……ァ……」
巨大な顎。
並んだ牙。
道路を削る爪。
これまで遠くから見ていた怪物が、今は数歩先にいる。
キヴォトスの生徒たちとは違う。
翔にはヘイローもない。
銃弾や瓦礫を受けても立ち上がれる身体でもない。
あの爪をまともに受ければ、おそらく一度で終わる。
心臓が痛いほど脈打ち、口の中が乾く。
逃げたい。
身体はそう訴えている。
それでも、翔はその場から退かなかった。
「……ほら」
乾いた喉から声を絞り出す。
「お前が狙ってるのは、こっちだろ」
「ヴァァァァァァァァァッ!!」
咆哮とともに、爬虫類状の左腕が持ち上がった。
鋭い爪が陽光を反射する。
怖い。
足は今にも後ろへ下がりそうだった。
それでも。
自分へ向けられている間は、あの住民が逃げられる。
今できることが、それしかないのなら。
せめて、それだけはやる。
「翔……!」
通りへ駆け込んできたニャン次郎は、その光景を目にして足を止めた。
何の武器もない。
何の力もない。
それでも翔は、逃げ遅れた住民と怪物の間に立ち、わざと自分へ注意を向けている。
ニャン次郎の手には、店から持ち出したケースがあった。
『誰でもいいわけじゃない』
あの日の声が蘇る。
『使う奴を……間違えるなよ』
店を出た時点でも、まだ決めてはいなかった。
翔へ渡すのが正しいのか。
自分の選択が友人の望んだものなのか。
答えを持たないまま、ここまで追ってきた。
だが今、目の前にいる少年は。
力があるから誰かを助けようとしているのではない。
何も持っていないまま、それでも他人を逃がすために怪物の前へ立っている。
「……本当に」
ニャン次郎が小さく息を吐いた。
「とんでもない奴を拾ったもんだ」
その時。
「ヴ……ァァッ……!」
T-REXドーパントが苦しげに頭を振った。
振り上げた左腕が途中で止まり、巨体が大きく揺れる。
ほんの僅かな隙。
ニャン次郎はケースを開いた。
「翔!!」
「……マスター!?」
「受け取れ!」
何かが宙を飛ぶ。
翔は反射的に手を伸ばした。
ずしりとした重みが掌へ落ちる。
「……?」
それを見た瞬間、翔の思考が止まった。
アルファベットの『L』を思わせる形状。
右側にだけ設けられた、一本のガイアメモリを受け入れるためのスロット。
見覚えがある。
父と一緒に見た『仮面ライダーW』の中で、決して登場する機会の多かったものではない。
それでも、忘れるはずがなかった。
「――ロストドライバー」
その名とともに、いくつもの戦士の姿が記憶を過ぎる。
白い帽子を被り、街を背負って戦った髑髏の戦士――スカル。
純白の身体に青い炎を纏い、自らの信念を最後まで貫いた戦士――エターナル。
そして。
相棒が隣にいない時でさえ、一人で街を守るために立った漆黒の戦士――ジョーカー。
使う者も、背負ったものも、それぞれ違う。
ただ一つ共通していたのは、このドライバーが二人の力を重ねるためのものではないということだった。
一本のメモリ。
一人の変身者。
それだけで立つためのドライバー。
これは、一人で戦うための力だ。
「……嘘だろ」
翔の口から、掠れた声が漏れた。
「もう一つだ!」
ニャン次郎が再び腕を振る。
翔は空いていた手を伸ばし、二つ目の何かを受け止めた。
黒いガイアメモリ。
中央に刻まれた、紫色の《J》。
「…………」
画面越しではない。
玩具でもない。
本物が、手の中にある。
「……ジョーカー」
父の隣で見た、あの漆黒の仮面ライダー。
その力が今、自分の両手にある。
驚きが追いつかない。
なぜニャン次郎がこれを持っているのか。
どうして、キヴォトスに存在しているのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
「なんでマスターが、これを……」
「今は後だ」
「でも――」
「翔」
普段より低い声に、翔は口を閉じた。
「それが何なのか……お前なら分かるんだろ」
昨日から互いに気づいていた。
翔はガイアメモリについて何かを知っている。
ニャン次郎もまた、何かを隠している。
ここで誤魔化す意味はもうなかった。
「……ああ」
翔は頷いた。
「分かる」
「だったら説明はいらない」
ニャン次郎が視線をずらす。
T-REXドーパントは苦しげに頭を振りながらも、徐々にこちらへ身体を向け始めていた。
先ほど逃げた獣人の姿は、もう通りの向こうへ消えている。
時間はない。
それでもニャン次郎は、翔へ「使え」と命じなかった。
「一つだけ言っておく」
「…………」
「そいつを使えば、もう何も知らなかった頃には戻れない」
ニャン次郎の視線が、翔の手にあるロストドライバーとジョーカーメモリへ落ちる。
「この怪物だけの話じゃなくなる。今まで知らずに済んでいたものにも、嫌でも関わることになるかもしれない」
「…………」
「それに、安全だなんて俺には言えない。何が起きるか、全部分かっているわけでもない」
「…………」
「だから、最後に決めるのは俺じゃない」
ニャン次郎は真っ直ぐ翔を見た。
「それでも使うかどうかは、お前が決めろ」
翔は何も答えず、ジョーカーメモリを見つめた。
幼い頃なら、これを手にしただけで飛び上がって喜んだかもしれない。
父と一緒に見たヒーロー。
憧れた仮面ライダー。
だが、今手にしているのは画面の中の道具ではない。
この力を使うということは、自分が戦うということだ。
傷つくかもしれない。
もっと危険なものへ関わることになるかもしれない。
最悪の場合。
命を落とす可能性だってある。
そしてニャン次郎の言う通り、ここで踏み込めば二度と何も知らなかった自分には戻れない。
「ヴァァァァァァァッ!!」
T-REXドーパントの咆哮が響く。
翔は顔を上げた。
傷だらけの身体。
途切れ途切れの荒い呼吸。
暴れるたびに苦しそうに揺れる巨体。
その姿を見れば、もう一つのことも思い出す。
あれも最初から怪物だったわけではない。
ガイアメモリによって、あの姿に変えられた何者かだ。
そして、その可能性を知ってしまった。
知っているのに、何もしないで背を向けることは。
やっぱり、できない。
怖さが消えたわけではなかった。
迷いも残っている。
だが、迷いがなくなるまで待っていたら、目の前の誰かを助ける機会まで失ってしまう。
「マスター」
「何だ」
「……ありがとう」
ニャン次郎が何も答えないうちに、翔はロストドライバーを腰へ当てた。
直後、ドライバーからベルトが伸び、腰へ巻き付いて固定される。
「…………」
実際に装着された感触に、翔は一瞬だけ息を止めた。
本当に。
本物なんだ。
今さらながら、現実味が押し寄せる。
続いてジョーカーメモリを握り直す。
掌の中の黒いメモリへ親指をかける。
そして。
スイッチを押した。
《JOKER》
低く、力強い電子音が鳴る。
「……!」
その瞬間。
翔は、妙な感覚を覚えた。
本物のジョーカーメモリへ触れたのは、今が初めてのはずだった。
にもかかわらず、握った感触に不自然さがない。
重さも。
形も。
指を添える位置さえ。
最初から知っていたように手へ馴染む。
「……なんだ、これ」
初めて手にしたはずなのに。
初めてではないような。
長い間どこかへ置き忘れていたものが、ようやく自分のところへ戻ってきたような感覚。
理由は分からない。
けれど。
確かに何かが噛み合った。
* * *
少し離れた建物の屋上。
双眼鏡越しに現場を監視していた観測員が、少年の動きへ気づいた。
「……対象付近の少年が何かを装着しました」
『何だ?』
「確認します」
倍率を上げる。
少年の腰。
見たことのないベルト状の装置。
そして、その手に握られている黒い小型物体。
観測員の目が細くなった。
「……メモリ?」
『何だと?』
「形状が酷似しています。ただし、既知のものと一致するかは確認できません」
少年が黒い物体を持ち上げる。
しかし。
身体へは挿入しない。
「……待ってください」
『どうした』
「使用方法が違います」
『詳しく言え』
「生体コネクターへの挿入を確認できません。腰部の装置を介して使用するようです」
通信の向こうから返事が消える。
数秒後。
『記録を続けろ』
「了解」
『T-REXの回収方針は変更しない。ただし、その少年も記録対象へ追加する』
「接触は?」
『するな』
即答だった。
『そもそも何をする装置なのか分からん。未知のメモリ運用技術である可能性があるなら、なおさら不用意に近づくな』
「了解」
『映像を切るな。一つも見落とすな』
* * *
「ヴァァァァァァァァァッ!!」
T-REXドーパントが咆哮を上げる。
巨体が低く沈み。
地面を蹴った。
翔へ向かって、一気に迫る。
もう距離はほとんどない。
翔はジョーカーメモリを見つめた。
勝てるのか。
分からない。
そもそも、仮面ライダーの力を得たところで、自分にちゃんと扱えるのかも分からない。
戦った経験なんてない。
殴り合いすらまともにしたことはない。
それでも。
今やるべきことだけは分かっていた。
脳裏に、父の姿が浮かぶ。
休日。
隣に座って、一緒に仮面ライダーを見ていた。
人を助けることを教えてくれた。
そして最後には、自分の命を懸けてまで誰かを守った人。
――父さん。
翔はメモリを握る手に力を込める。
――俺にも。
迫るT-REXドーパントを見る。
――今度は。
ジョーカーメモリをロストドライバーへ差し込む。
硬質な音とともに、メモリがスロットへ収まった。
――助けられるかな。
翔は一度だけ、ゆっくり息を吸った。
怖い。
それでも。
恐怖がなくなるまで待つ必要なんてない。
右手をロストドライバーへ添える。
「変身」
ドライバーを展開した。
《JOKER!》
瞬間。
黒いエネルギーが翔の全身から噴き上がった。
「……!」
ニャン次郎が目を見開く。
巻き起こった風が周囲の土埃を吹き払い、黒い奔流が翔の身体を包み込む。
胸。
肩。
腕。
脚。
漆黒の装甲が次々と形作られ、その上を紫色のラインが走った。
最後に頭部が形成され。
複眼へ光が宿る。
「ヴ……?」
T-REXドーパントが足を止めた。
先ほどまで。
生身の少年が立っていた場所。
そこには今。
漆黒の戦士が立っている。
黒い装甲。
全身を走る紫色のライン。
紫色に輝く複眼。
翔はゆっくりと、自分の手へ視線を落とした。
黒く覆われた指を動かす。
拳を握る。
身体の感覚が、今までとはまるで違う。
軽い。
それなのに、内側から今まで感じたことのない力が溢れてくる。
どれほど強いのか。
何ができるのか。
どう戦えばいいのか。
まだ何一つ分からない。
それでも。
もう、何もできないまま立ち尽くしているだけではない。
「ヴァァァァァァァァァッ!!」
T-REXドーパントが再び咆哮を上げる。
翔はその正面で、ゆっくり顔を上げた。
赤色の複眼が、傷だらけの異形を見据える。
父と何度も見た、あの黒い戦士と同じ姿。
けれど。
これから拳を握るのは、左翔太郎ではない。
風間翔だ。
「……さぁ、行くぜ」
仮面ライダージョーカーとしての。
彼の最初の戦いが、始まろうとしていた。