青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
次からは、後日談的な話を数話やってから第2章へ入ります。
ここまで読んで下さっている読者様方。有難うございます。
喫茶店「ひだまり」へ戻る頃には、夜のゲヘナを包んでいた騒ぎも、少しずつ遠ざかり始めていた。
T-REXドーパントが暴れていた一帯では、今も風紀委員会による現場の封鎖や負傷者の搬送が続いているはずだ。
地中を移動した影響で崩れた道路もある。
壊れた建物や車両も、一晩で片づくような被害ではない。
それでも、そこから何区画か離れれば、街は少しずつ普段の姿を取り戻しつつあった。
遠くから聞こえる生徒たちの騒ぎ声。
こんな時間でも営業を続けている店の明かり。
そして、どこかで一度だけ響いた小さな爆発音。
何があったところで、ゲヘナの夜は簡単には静かにならないらしい。
「…………」
翔はそんな街の中を、ニャン次郎と並んで歩いていた。
数歩進む。
「……っ」
脇腹に鈍い痛みが走り、思わず足が止まった。
変身を解いた直後ほどではない。
けれど、身体のあちこちが重かった。
肩も痛い。
背中も痛む。
脚に至っては、長距離を全力疾走した後のような怠さが抜けていない。
ニャン次郎が振り返る。
「大丈夫か?」
「大丈夫……とは言いづらいかな」
「だろうな」
「もう少し心配そうに言ってくれてもよくない?」
「何の力もない状態で怪物の前に飛び出した奴に言われたくない」
「…………」
何も返せなかった。
「それは……まあ」
「自覚はあるらしいな」
ニャン次郎はそれだけ言うと、再び歩き出した。
翔も苦笑しながら後を追う。
その途中。
ふと右手をポケットへ入れた。
指先に触れた、硬い感触。
それだけで、今まで現実感の薄かった出来事が一気に蘇ってくる。
翔は足を緩め、ポケットの中からそれを取り出した。
黒いガイアメモリ。
中央に刻まれた、紫色の『J』。
ジョーカーメモリ。
「…………」
街灯の下で、それを見つめる。
ほんの少し前まで。
自分はこれを使っていた。
ロストドライバーへ差し込み。
変身して。
あのT-REXドーパントと戦った。
漆黒の身体。
紫色の差し色。
黒い頭部に浮かび上がる、赤い複眼。
変身した瞬間、自分の身体とは思えないほどの力が全身に満ちた。
それなのに、その力をまるで扱えなかった。
跳べば跳びすぎる。
殴れば踏み込みすぎる。
相手の攻撃が見えているのに、どう身体を動かせばいいのか分からない。
街灯にぶつかったことまで思い出し、翔は少しだけ顔をしかめた。
けれど。
最後には。
T-REXの動きを見て。
待って。
必要な瞬間に。
拳を叩き込んだ。
『戻れぇぇぇぇっ!!』
ジョーカーメモリを握る指に、わずかに力が入る。
「……元に戻せた」
小さく呟いた。
勝った、ではない。
倒した、でもない。
あの獣人の男性を。
怪物になる前の姿へ。
元に戻せた。
チナツが、生きていると言っていた。
身体の状態は酷かった。
それでも。
命は残った。
その事実だけで、胸の奥に引っかかっていたものが少し軽くなった気がした。
「翔?」
「ん?」
「何か言ったか?」
「いや」
ジョーカーメモリをポケットへ戻す。
「何でもない」
「そうか」
ニャン次郎はそれ以上聞かなかった。
やがて、見慣れた看板が夜の中に見えてくる。
喫茶店「ひだまり」。
ニャン次郎が鍵を開けた。
「入れ」
「うん」
店内へ入る。
扉が閉じると、それまで聞こえていた街の音が遠ざかった。
「…………」
静かだった。
昼間なら生徒たちの話し声や、食器の触れ合う音。
コーヒーと料理の匂い。
そんなもので満たされている店内が、今は薄暗い静寂に包まれている。
数時間前まで怪物と戦っていたことが、まるで嘘のようだった。
「座ってろ」
「え?」
「いいから」
ニャン次郎はそのまま厨房の奥へ消えていく。
翔は言われた通りカウンター席へ腰を下ろした。
「――いっ……!」
座った瞬間。
腰から背中へ痛みが走った。
「うわ……これ、明日絶対酷くなるやつだ……」
「明日で済めばいいな」
声とともに、ニャン次郎が戻ってきた。
その手には救急箱。
「怖いこと言わないでくれよ」
「上着脱げ」
「はいはい」
翔は渋々上着を脱ぐ。
命に関わるような外傷はない。
それでも、身体のあちこちには赤くなった部分や打撲が残っていた。
特に、T-REXの尾をまともに受けた辺りは酷い。
ニャン次郎がそれを確認しながら眉を寄せる。
「随分派手にやられたな」
「変身したら、もう少し何とかなると思ってた」
「何とか?」
「いや……その」
翔は肩を回そうとして、痛みに顔をしかめる。
「あの姿になった瞬間、なんでもできそうな気がしたんだよ」
「それで街灯にぶつかったのか?」
「…………」
翔の動きが止まった。
「見てたの?」
「見てた」
「そこだけ忘れてくれない?」
「無理だな」
「即答かよ……」
ニャン次郎が消毒液を取り出す。
「力を持ったからって、使い方まで勝手についてくるわけじゃないってことだ」
「身をもって分かりました」
「なら上出来だ」
「上出来かなあ……」
消毒液が傷へ触れる。
「いっ!」
「動くな」
「いや、これは痛いって!」
「怪物に殴られるよりはましだろ」
「比較対象がおかしいだろ……」
そんなやり取りをしているうちに。
戦いの後からずっと張り詰めていたものが、少しずつ解けていった。
治療を終えると、ニャン次郎は救急箱を片づけ、そのまま厨房へ入る。
しばらくして。
翔の前へ温かな飲み物が置かれた。
「ほら」
「ありがとう」
両手でカップを包む。
じんわりとした熱が、冷えていた指先へ伝わってくる。
一口。
息を吐いた。
「……落ち着く」
「それは結構」
ニャン次郎も向かいへ座る。
そこで。
翔はカップを静かに置いた。
「……マスター」
「ああ」
声の調子だけで、ニャン次郎も分かったらしい。
先ほどまでの軽いやり取りが途切れる。
「聞かせてくれるんだよな」
「そのつもりで戻ってきた」
翔はまっすぐニャン次郎を見る。
「なら聞く」
一度。
息を整えた。
「マスターは、なんでガイアメモリのことを知ってる?」
そして。
「なんでロストドライバーとジョーカーを持ってた?」
ニャン次郎は何も言わない。
「それに――」
翔は続ける。
「どうして、あれを俺に渡したんだ?」
静かな店内。
微かな機械音だけが響いている。
やがて。
ニャン次郎が小さく息を吐いた。
「……どこから話したもんかな」
「長くなる?」
「少しな」
「なら大丈夫」
翔は再びカップを手に取った。
「今日はどうせ、すぐには寝られそうにないし」
「……そうか」
ニャン次郎は少しだけ目を伏せる。
「なら、昔話から始めるか」
* * *
「前に、一度話したことがあったな」
「前?」
「昔、一緒に仕事をしてた研究者の話だ」
翔は記憶を探る。
すぐに思い当たった。
「……料理が上手かった人?」
「ああ」
「『科学と料理は似てる』って言ってた」
「そいつだ」
ニャン次郎の口元が、ほんの僅かに緩む。
「変な奴だったよ。研究に夢中になると平気で徹夜するくせに、食事だけは妙に手を抜かなかった」
「マスターの店のレシピも、その人から教えてもらったんだよな」
「大半はな」
懐かしむような声音だった。
だが。
その表情は、すぐに静かなものへ変わる。
「あいつは……ガイアメモリを研究していた」
「…………」
翔の表情が変わった。
予想していなかったわけではない。
それでも。
実際に聞くと、胸に落ちる重さが違う。
「……やっぱり」
「ああ」
「じゃあ、マスターがT-REXのことを知ってたのも」
「あいつが残した資料を読んでいたからだ」
「資料……」
「それだけじゃない」
ニャン次郎が翔を見る。
「俺も当時、同じ場所にいた」
「……え?」
「カイザーだ」
翔の手が止まった。
「俺も、あいつも。当時はカイザーの研究部門にいた」
「マスターが……?」
「ああ」
初めて聞く話だった。
以前。
ニャン次郎は昔の友人について語った。
料理好きの研究者。
いつか研究を辞め、喫茶店を開きたいと話していた人物。
だが。
どこで研究していたのか。
何を研究していたのか。
そこだけは曖昧にしていた。
「……隠してたんだな」
「隠してた」
否定しない。
「言い訳するつもりもない」
「…………」
「ただ、お前に話すつもりがなかったわけでもない」
ニャン次郎はテーブルの上へ視線を落とす。
「話す必要が来ないなら、それが一番だった」
翔は何も言わなかった。
その意味は分かる。
ガイアメモリが再び表へ出なければ。
ロストドライバーを使うような日が来なければ。
ニャン次郎の過去も、ずっと過去のままでいられた。
「当時、カイザーは古い遺跡から大量の遺物を回収していた」
「その中に、ガイアメモリがあった?」
「ああ」
未知の技術。
現代キヴォトスの科学では説明のつかない構造。
そして。
小さな装置一つに封じ込められた、常識外れの力。
「最初は純粋な研究だった」
ニャン次郎が言う。
「あいつもそうだった。俺だってそうだ」
「……マスターも?」
「未知の技術が目の前にあるんだ。仕組みを知りたいと思う研究者がいても、不思議じゃないだろ」
「まあ……」
それ自体を責める気にはなれなかった。
知らないものを知りたい。
どういう仕組みなのか確かめたい。
研究する者なら、自然な感情なのだろう。
問題は。
その先だった。
「調べていくうちに、分かってきた」
ニャン次郎の声が低くなる。
「ガイアメモリは、ただ便利な力を与える道具じゃない」
身体を変える。
常識外れの能力を与える。
だが同時に。
使用者の身体へ強い負担を与える。
毒性もある。
精神にも影響する。
場合によっては、メモリの力そのものに使用者が飲み込まれる。
その話自体は。
翔にも理解できる。
かつて父と一緒に見た『仮面ライダーW』。
そこでも、ガイアメモリは決して安全なものとして描かれてはいなかった。
ただ。
今聞いているのは、物語の中の設定ではない。
実際に、このキヴォトスで研究されていたものの話だ。
「……あの人も」
翔が呟く。
脳裏に浮かんだのは。
T-REXドーパントの姿だった。
ただ暴れていたわけではない。
戦いの途中。
自分の身体すら満足に制御できないように動きを乱し。
苦しむように身を震わせ。
それでも、メモリの力に引きずられるように暴れ続けていた。
そして。
メモリが砕けた後に現れた獣人の男性。
傷だらけの身体。
チナツが不審に思っていた、戦闘による負傷だけでは説明できない皮膚の損傷。
「T-REXを使ってた人、最初からかなり危険な状態だったのか」
「可能性は高い」
ニャン次郎が答える。
「少なくとも、まともな使わせ方じゃない」
「そういえば……」
翔は記憶を探る。
「ドーパントに変身する時って、身体にあったよな」
「何がだ?」
「メモリを差し込むための……黒い刺青みたいなやつ」
腕。
首筋。
手の甲。
場所は人によって違っていた。
そこへ起動したガイアメモリを差し込み、異形の姿へ変身する。
見たこと自体は覚えている。
ただ。
「……名前なんだったっけ」
「生体コネクター」
「ああ、それだ」
名前を聞いた瞬間。
曖昧だった記憶が繋がる。
「生体コネクター」
「本来、ドーパントメモリを身体へ直接使う場合は、あれを介する」
「T-REXを使ってた人には、それがなかった?」
「少なくとも、俺が確認できた範囲ではな」
「じゃあ……」
翔の表情が曇る。
「生身に直接使ってたのか」
「ああ」
「そんなことしたら、どうなるかくらい……」
「メモリについて知識がある者なら分かっていたはずだ」
翔の指先に力が入った。
誰かが使わせた。
そう考える方が自然だった。
あれほど危険なものを。
まともな処置もせずに。
「……誰が」
翔が小さく呟く。
その問いに。
ニャン次郎は少しだけ沈黙した。
「翔」
「ん?」
「ここから先は、今までお前に話してこなかったことだ」
声が一段低くなる。
「あのT-REXメモリを研究していたのは――カイザーだ」
「……カイザー?」
翔の目が僅かに見開かれる。
その名前自体は知っている。
ブルーアーカイブのゲームをやっていた自分なら、知らないはずがない。
だが。
それをそのまま口にすることはできない。
「……あの企業の?」
「そうだ」
ニャン次郎が頷く。
「T-REXメモリは、俺たちがいた研究部門で調査されていた遺物の一つだった」
「じゃあ……あの人も」
「今のカイザーがどういう経緯であの男を使ったのか、俺は知らない」
そこで明確に線を引く。
「だが、T-REXメモリを持っていた以上、無関係とは考えにくい」
「…………」
翔は俯く。
カイザー。
ゲームの知識として知っていた巨大企業。
そのカイザーが。
今、このキヴォトスで。
ガイアメモリを研究している。
胸の奥に嫌なものが沈んだ。
「……それで、マスターの友達も」
「ああ」
ニャン次郎は静かに続ける。
「あいつがいたのも、同じ研究部門だ」
* * *
当初。
友人はガイアメモリの研究を楽しんでいたという。
未知の技術。
今までの科学体系では説明できない現象。
一つ調べるたび、さらに新しい疑問が生まれる。
研究者として。
それは、きっと抗いがたい魅力だった。
「でも」
ニャン次郎は続ける。
「研究が進むほど、あいつは変わっていった」
「どういうふうに?」
「口数が減った」
帰る時間も遅くなった。
以前なら料理の話をしていた休憩時間にも、資料ばかり読んでいた。
そして。
ある頃から。
研究結果を喜ばなくなった。
「……危険だって分かったから?」
「ああ」
力を与える。
生物を変える。
兵器にもなる。
それだけなら。
まだカイザーにとっては「価値」の話でしかなかった。
だが。
毒性。
精神への影響。
使用者が制御を失う危険。
そして何より。
それでもなお、その力を利用しようとする者がいること。
「あいつは言ってたよ」
ニャン次郎が目を伏せる。
「『開けちゃいけない箱を開けたのかもしれない』ってな」
翔は何も言えなかった。
「カイザーにとっては違った」
ニャン次郎の声に、僅かな苦味が混じる。
「危険なら制御すればいい。毒があるなら抑えればいい。扱いづらいなら、扱いやすくすればいい」
「……兵器として?」
「ああ」
その力そのものを理解することより。
どう利用するか。
どう利益へ変えるか。
どう支配へ使うか。
そちらへ研究の重心が移っていった。
「そこで、あいつは完全に止める側へ回った」
「研究を?」
「自分が関わった研究をな」
ニャン次郎は友人を美化しなかった。
「最初から止めようとしてたわけじゃない」
「…………」
「あいつ自身が研究を進めた。好奇心でな」
自分が調べた。
自分が理解を進めた。
その結果。
危険なものが、さらに利用しやすい形へ近づいてしまった。
「本人が一番後悔してたよ」
だから。
止めようとした。
自分の手で。
「……それで」
翔はポケットからジョーカーメモリを取り出した。
「これを持ち出した?」
ニャン次郎の視線がメモリへ落ちる。
「ああ」
「ロストドライバーも?」
「ああ」
「なんで、その二つを?」
しばらく。
ニャン次郎は答えなかった。
やがて。
「抑止力」
「え?」
「そう言ってた」
その瞳が。
今ではない遠い時間を見るように細められる。
* * *
雨の夜だった。
雨音だけは。
今でも耳の奥に残っている。
路地。
濡れた壁。
鉄の匂い。
そして。
血の匂い。
「おい……!」
倒れた男を抱き起こす。
身体は、驚くほど軽かった。
呼吸が浅い。
助からない。
そんなことは。
分かりたくなくても分かった。
「喋るな」
「……無理、だろ」
「いいから黙ってろ!」
男は。
薄く笑った。
「最後くらい……聞けよ」
「最後とか言うな!」
震える手が。
傍らに置かれたケースへ伸びる。
中にあったのは。
黒いドライバー。
そして。
一本の黒いガイアメモリ。
「こいつは……」
一度。
苦しそうに呼吸を整える。
「あいつらが……メモリを広めた時のための……抑止力だ」
「そんなこと今はどうでもいい!」
「よく……ない」
血に濡れた指が。
ニャン次郎の腕を掴んだ。
「でも……」
目だけが。
強くこちらを見ている。
「誰でもいいわけじゃない」
「…………」
「使う奴を……間違えるなよ」
それが。
最後だった。
* * *
「……それが、あいつの最後だ」
店内へ。
静かな声が落ちた。
翔は何も言えなかった。
いつもそこにいる。
料理を作り。
客と話し。
時々軽口を叩く黒猫。
その横顔が。
今だけは、ずっと遠くに見えた。
「……殺されたのか」
ようやく。
それだけ聞く。
「ああ」
ニャン次郎は否定しなかった。
「研究を止めようとしたから?」
「それだけじゃない」
少し間を置く。
「あいつは研究資料の一部を持ち出した」
ニャン次郎の視線が。
翔の手にあるジョーカーメモリへ向く。
「ロストドライバーとジョーカーメモリもな」
「…………」
「それだけじゃない」
「まだ?」
「あいつは、持ち出す前に可能な限り記録を消した」
「記録?」
「ロストドライバーとジョーカーメモリに関するものだ」
翔の目が僅かに大きくなる。
「存在そのものが追えないように?」
「そのつもりだったらしい」
「……じゃあ」
翔は腰から外したロストドライバーを見る。
「今のカイザーは、これが何なのか知らない?」
「少なくとも、俺が持っている資料を見る限りじゃな」
ニャン次郎は慎重に答えた。
「絶対とは言わん。あいつがどこまで完全に消せたのか、俺に確認する方法はない」
「うん」
「だが、あいつはそれくらい徹底してやった」
翔は。
黒いドライバーへ視線を落とした。
友人は。
ただ持ち出しただけではない。
その後、カイザーが追えないように。
存在そのものを消そうとした。
「……そこまでして残したんだ」
「ああ」
「ガイアメモリが広まった時のために」
「そういうことだ」
翔はジョーカーメモリを見つめる。
「……すごい人だったんだな」
ぽつりと。
そう言った。
だが。
ニャン次郎はすぐには頷かなかった。
「どうかな」
「え?」
「あいつも、最初から正しいことだけしてたわけじゃない」
「…………」
「研究を進めた側だ」
それを誤魔化すことだけは。
したくないらしい。
「もっと早く危険性に気づいてれば。もっと早く止めてれば。そう思ってたのは、俺じゃなくてあいつ自身だ」
翔はしばらく黙っていた。
そして。
「……それでもさ」
ニャン次郎が翔を見る。
「途中で気づいたんだろ」
「ああ」
「自分が間違ったって」
「ああ」
「それで、止めようとした」
「……そうだな」
「だったら」
翔は手の中のジョーカーメモリを見る。
「それまでやったことが消えるわけじゃなくても」
一度。
指で紫色の『J』をなぞる。
「最後にしたことまで、無かったことになるわけじゃないだろ」
「…………」
「少なくとも」
翔は続けた。
「これがなかったら、俺はあの人を元に戻せなかった」
ニャン次郎の目が僅かに細くなる。
「だから」
翔は静かに言った。
「残してくれて、よかったと思う」
長い沈黙。
やがて。
「……そうか」
ニャン次郎は。
それだけ答えた。
ほんの少しだけ。
肩から力が抜けたように見えた。
* * *
「でも」
翔が言う。
「まだ、一番分からないことが残ってる」
「何だ?」
「そもそも」
ジョーカーメモリ。
ロストドライバー。
二つを交互に見る。
「なんで、これがキヴォトスにある?」
そこだった。
ずっと。
頭のどこかに引っかかっていた疑問。
「俺のいた場所じゃ、ガイアメモリもロストドライバーも……知ってるものだった」
ニャン次郎が翔を見る。
「だから、あの時もすぐ分かったのか」
「うん」
「使い方も?」
「だいたいは」
「だいたいで変身したのか、お前」
「……あの状況で細かく確認してる暇なかっただろ」
「今考えると結構怖いことしてるぞ」
「それは俺も今ちょっと思ってる」
二人の間に。
一瞬だけ、軽い空気が戻る。
だが。
翔の疑問は消えない。
「俺が知ってるものと、ほとんど同じなんだ」
「…………」
「偶然じゃ説明できないくらいに」
ニャン次郎は少し黙る。
「その答えなら」
「知ってる?」
「全部じゃない」
「……またそれ?」
「分からんものを分かるとは言えん」
「それはそうだけど」
ニャン次郎は一度立ち上がった。
店の奥へ消える。
数分後。
一冊の古びたファイルを持って戻ってきた。
紙の資料。
ところどころ黄ばんでいる。
「これは?」
「あいつが残した資料の一部だ」
翔の前へ置く。
「ガイアメモリが発掘された遺跡について調べた記録だ」
「……古いな」
「古いどころじゃない」
ニャン次郎が答える。
「現代のカイザーが作ったものじゃない」
「それは……なんとなく分かってたけど」
「もっと昔だ」
翔が顔を上げる。
「キヴォトスの古い時代に、ガイアメモリを知っていた研究者がいたらしい」
「研究者?」
「ああ」
ニャン次郎は続ける。
「しかも、その人物は元々キヴォトスの者じゃなかった」
翔の動きが止まった。
「……外から?」
「資料にはそう残ってる」
胸の奥がざわつく。
自分と。
同じように。
外から来た者。
「その人がガイアメモリを作った?」
「少なくとも、遺跡から出てきたメモリやドライバーの多くは、そいつが作ったものだと考えられてる」
「…………」
「詳しいことはほとんど残ってない」
「名前は?」
「個人名は分からん」
だが。
ニャン次郎が指で資料の一角を示す。
「所属していたらしい組織の名前なら残ってる」
「組織?」
「ああ」
一拍。
「――財団X」
「…………!」
翔は。
今度こそ。
表情を隠せなかった。
財団X。
知っている。
その名前は。
父と一緒に見ていた『仮面ライダーW』の記憶の中にもある。
様々な超常的技術へ投資し。
ガイアメモリにも深く関わっていた組織。
その研究員が。
古代のキヴォトスに?
「知ってるのか?」
ニャン次郎の問い。
「……名前は」
翔は答える。
「かなり驚いてるけど」
「そう見える」
「なんで……」
思わず呟く。
どうして。
財団Xの研究員が。
このキヴォトスに来た。
そして。
なぜガイアメモリやドライバーを作り、残したのか。
「そこまでは分からん」
ニャン次郎が言う。
「どうやって来たのか」
「…………」
「何のために作ったのか」
「…………」
「どれだけのメモリや装置を残したのか」
一つ一つ。
答えのない疑問だけが積み上がる。
「今分かってるのは」
ニャン次郎が資料を閉じた。
「昔、このキヴォトスに財団Xの研究員がいた」
「……うん」
「そいつが、ガイアメモリに関わる技術を残した」
「うん」
「それが長い時間を経て、遺物として発掘されてる」
「……そっか」
翔は椅子へ深く座り直した。
「謎が一個減ったと思ったら、三個くらい増えた」
「世の中そんなもんだ」
「さっきからそれ便利に使ってない?」
「便利な言葉だからな」
「認めるんだ……」
小さく苦笑する。
それでも。
胸の奥にある疑問は消えなかった。
自分がキヴォトスへ来たこと。
古代に財団Xの研究員が来ていたこと。
この二つに何か関係があるのか。
それすら。
今は分からない。
* * *
翔は。
テーブルの上へロストドライバーを置いた。
その隣に。
ジョーカーメモリも。
「……マスター」
「何だ?」
「これ」
ロストドライバーへ手を添える。
「返した方がいいんじゃないか?」
ニャン次郎が眉を寄せた。
「何でだ?」
「だって」
翔はドライバーを見る。
「マスターの友達が命懸けで残したものなんだろ」
「だから?」
「だからって……」
うまく言葉にできない。
自分は。
その友人のことを知らない。
一度会ったことすらない。
「俺が、このまま持ってていいのかなって」
「…………」
「一回使っただけだし」
「それで?」
「いや……」
翔は苦笑する。
「なんか、重いだろ」
ただの道具ではない。
一人の男が。
命を懸けて残したものだ。
ニャン次郎が。
長い間隠し続けたものだ。
「俺が持ってていいのかなって、ちょっと思っただけ」
ロストドライバーを差し出す。
だが。
ニャン次郎は受け取らなかった。
「翔」
「ん?」
「勘違いするな」
「何を?」
「俺は、それをお前に預けたんじゃない」
翔が目を上げる。
「託したんだ」
「…………」
「だから返す必要はない」
「でも」
「使いたくないのか?」
その問いだけは。
すぐに答えられた。
「……違う」
「なら持ってろ」
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃない」
ニャン次郎の声が少しだけ強くなった。
「簡単じゃないから、渡すまで迷った」
翔は。
何も言えなくなる。
「……そっか」
「ああ」
そこで。
ずっと聞きたかったことを。
翔はようやく口にした。
「じゃあ」
「何だ?」
「なんで俺だった?」
ニャン次郎の耳が僅かに動く。
「あの時は聞く余裕なかったけど」
翔はロストドライバーを見つめる。
「なんで、俺にこれを渡した?」
自分より強い者はいくらでもいる。
ヒナ。
イオリ。
それ以外にも。
このキヴォトスには、恐ろしいほどの力を持った生徒たちがいる。
「ジョーカーと相性が良かったから?」
「違う」
即答だった。
「え?」
「それは使った後に分かったことだ」
「じゃあ……」
ニャン次郎は。
静かに翔を見る。
「お前が、何も持ってなかったからだ」
「……何も?」
「あの時のお前は、T-REXと戦える力なんて何一つ持ってなかった」
「…………」
「自分でも分かってたはずだ」
「……うん」
分かっていた。
あの怪物に殴られれば。
噛みつかれれば。
吹き飛ばされれば。
生身の自分では。
それだけで終わる。
「それでも逃げなかった」
あの時の光景が。
翔の脳裏に蘇る。
逃げ遅れた獣人。
そちらへ顔を向けたT-REX。
考えるより先に。
金属板を蹴り飛ばした。
音を立てた。
こちらを見ろと。
自分を狙えと。
「お前は、自分が勝てるかなんて考えてなかった」
「…………」
「ただ、あの人を助けようとした」
ニャン次郎の声は。
静かだった。
「だから渡した」
「……それだけ?」
「それだけで十分だった」
翔は。
言葉を失った。
「強い奴に渡そうと思ってたんじゃない」
「…………」
「戦いが上手い奴を探してたわけでもない」
ニャン次郎は。
ジョーカーメモリへ視線を向ける。
「あいつが言ったんだ」
使う奴を間違えるな。
「だったら見るべきなのは、力を手に入れた後じゃない」
「……力を持つ前」
「ああ」
ニャン次郎が頷く。
「何も持ってない時に、何をする奴なのかだ」
その言葉が。
ゆっくりと。
胸の奥へ沈んでいく。
「ジョーカーが使えたから選んだんじゃない」
「うん」
「仮面ライダーになれそうだったからでもない」
「うん」
「何も持ってないお前を見て、俺が決めた」
「…………」
翔は俯いた。
自分では。
特別なことをしたつもりなんてなかった。
ただ。
助けたかった。
それだけだ。
昔。
父から教えられたように。
誰かが危ないなら。
手を伸ばしたかった。
それだけだった。
そして。
その先に。
この力があった。
翔はロストドライバーへ手を触れる。
胸の奥に。
父の姿が浮かんだ。
――父さん。
あの時。
俺、ちゃんとできたかな。
答えはない。
けれど。
今は。
ほんの少しだけ。
胸を張ってもいいような気がした。
* * *
「ただし」
ニャン次郎の声で、翔は顔を上げた。
「一つ、俺にも分からないことがある」
「まだあるの?」
「ジョーカーメモリだ」
テーブルの上。
黒いメモリ。
「お前、最初に触った時、何か感じなかったか?」
「……感じた」
「どんな?」
翔は。
あの瞬間を思い出す。
初めて手に取った。
はずだった。
なのに。
「妙に馴染んだ」
「…………」
「知ってるメモリだからってだけじゃなくて」
うまく表現できない。
「最初から、ここにあるのが普通みたいな」
自分の手の中。
そこへ収まることが。
まるで当然だったような。
「……変かな」
「少なくとも普通ではない」
「やっぱり?」
「初めて使った奴とは思えないくらい、メモリの側が自然に馴染んでる」
「でも俺、戦い方は滅茶苦茶だったけど」
「それとこれとは別だ」
「あ」
「むしろ、そこは酷かった」
「そこまで言わなくていいだろ」
「街灯」
「マスター」
「何だ」
「一回忘れよう?」
「無理だな」
「絶対楽しんでるだろ……」
翔が顔をしかめる。
ニャン次郎が小さく笑った。
ほんの少し。
店内の空気が和らぐ。
「でも」
ニャン次郎が再びジョーカーメモリを見る。
「相性については、あいつの残した記録と比べても妙だ」
「理由は?」
「分からん」
「そこまで言っておいて?」
「分からんものは分からん」
「またそれか」
「便利だろ」
「気に入ったな、その言葉」
翔も小さく笑った。
「……まあ」
ジョーカーメモリを手に取る。
「今すぐ分からないなら、仕方ないか」
「ああ」
「そのうち分かればいい」
そう言って。
翔はメモリを握った。
* * *
話が終わった頃には。
夜もかなり深くなっていた。
「今日はもう寝ろ」
「うん」
「明日は休んでもいいぞ」
「え?」
「その身体じゃまともに動けんだろ」
「仕事くらいするよ」
「無理するな」
「皿運ぶくらいならできるって」
「落としたら給料から引くぞ」
「急に現実的だな」
翔も立ち上がる。
身体が軋む。
「……いっ」
「ほら見ろ」
「これは明日の俺に任せる」
「明日のお前もお前だ」
「そうだった」
ロストドライバーを手に取る。
続けて。
ジョーカーメモリも。
もう。
返そうとはしなかった。
「マスター」
「何だ?」
「……ありがとう」
ニャン次郎が振り返る。
「何の礼だ」
「これを渡してくれたこと」
「…………」
「俺に託してくれたこと」
ジョーカーメモリを見る。
「あの人を元に戻せた」
勝てたからではない。
強くなれたからでもない。
「だから」
翔はニャン次郎を見る。
「ありがとう」
ニャン次郎は。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「なら」
静かに答える。
「使い方を間違えるな」
翔は。
まっすぐ頷いた。
「うん」
軽い返事ではなかった。
「分かってる」
* * *
翌朝。
「いっ……!」
「だから休めと言っただろ」
「昨日より痛くなるとか聞いてないんだけど……!」
ひだまりの店内に。
翔の情けない声が響いた。
腰を押さえながら、ゆっくりテーブルを拭いていく。
肩が痛い。
背中も痛い。
脚も。
昨日より重い。
「変身して怪物倒した次の日が全身筋肉痛って……」
厨房からニャン次郎の声がする。
「随分庶民的なヒーローだな」
「マスター絶対楽しんでるだろ」
「少しな」
「認めた」
翔は苦笑しながら布巾を置いた。
窓の外を見る。
朝のゲヘナ。
制服姿の生徒たちが通りを歩いている。
友人と話しながら。
眠そうに欠伸をしながら。
急いで走りながら。
昨日。
あれだけのことがあった。
それでも。
朝は来る。
街は動き出す。
壊れた道路もある。
怪我をした者もいる。
T-REXへ変わっていたあの獣人の男性も。
まだ治療を受けているだろう。
全部が元通りになったわけではない。
何もかも解決したわけでもない。
むしろ。
知らなかったことを知ったせいで。
分からないことは増えた。
カイザー。
ガイアメモリ。
古代のキヴォトス。
財団Xの研究員。
そして。
ジョーカーメモリと自分の、不思議なほどの相性。
「…………」
翔は。
エプロンのポケットへ手を入れる。
指先に。
硬い感触が触れた。
ジョーカーメモリ。
昨日まで。
自分にはなかった力。
戦うための力。
守るために使える力。
でも。
『何も持ってないお前を見て、俺が決めた』
昨夜の言葉を思い出す。
力があったから。
誰かを助けようと思ったわけじゃない。
これを手に入れたから。
今の自分になったわけでもない。
その逆だった。
何も持っていなかった。
何もできないかもしれなかった。
それでも。
手を伸ばした。
だから。
この力を託された。
「……そっか」
小さく呟く。
なら。
きっと。
これからも変わらない。
困っている誰かがいたら。
自分にできることをする。
料理でも。
掃除でも。
肩を貸すことでも。
それで足りない時。
誰かを守るために戦わなければならない時。
その時は。
今の自分には。
もう一つ。
できることがある。
「翔」
「ん?」
「看板」
「あ」
ニャン次郎の声で我に返る。
入口横に置いた看板を持ち上げた。
少し腰が痛む。
「……っ」
「無理するなよ」
「分かってる」
扉を開く。
朝の光が。
ひだまりの中へ差し込んだ。
外へ出て。
看板をいつもの場所へ置く。
目の前には。
昨日までと変わらないように見える街が広がっている。
けれど。
翔にとっては。
もう、昨日までとまったく同じ景色ではなかった。
ここへ来た時。
自分には何もなかった。
知らない街。
知らない世界。
帰る方法も分からず。
ただ一人。
歩くしかなかった。
それから。
この店へ来た。
マスターと出会った。
キララやエリカと知り合った。
いろいろな人と出会った。
誰かを助けた。
誰かに助けられた。
そして。
戦う理由を見つけた。
翔は。
ポケットの上から。
ジョーカーメモリへ軽く触れる。
「……よし」
振り返る。
「今日もやるか」
「早く入れ。開店するぞ」
「今行くよ、マスター」
いつものやり取り。
いつもの店。
いつもの朝。
けれど。
昨日までとは少しだけ違う。
風間翔は。
まだ、この世界のことを何も知らない。
自分がどうしてここへ来たのかも。
この先、何が待っているのかも。
分からない。
それでも。
ここには。
今の自分が帰ってこられる場所がある。
守りたいと思える日常がある。
そして。
その日常へ手を伸ばす何かが現れた時。
今度は。
ただ見ているだけではない。
翔は扉をくぐった。
その背後で。
朝の光を受けた看板が、小さく揺れる。
――喫茶店「ひだまり」。
この街で始まった翔の新しい日々は。
ようやく。
本当の意味で、動き始めたのだった。