青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
身体の奥へ重い鉛でも流し込まれたような感覚があり、腕も脚も、自分のものではないほど重い。指先を僅かに動かしただけで、筋肉の深いところから鈍い痛みがじわりと返ってくる。
「……ぅ……」
掠れた声が喉から漏れた。
ひどく乾いている。唾を飲み込むだけでも喉の奥がひりついた。
男はしばらく、自分が目を開けているのかさえ分からなかった。白い光が滲み、ぼやけた視界が少しずつ形を持っていく。
白い天井。
淡い光を落とす照明。
腕から伸びる透明な点滴の管。
鼻をつく消毒薬の匂い。
それから、自分の胸や腕に巻かれた包帯。
規則正しい電子音が、静かな室内に一定の間隔で響いていた。
知らない場所だった。
「目が覚めましたか?」
不意に聞こえた声に、男はゆっくり顔を向けた。
ベッドの傍らに、椅子へ腰掛けた少女がいた。
橙がかった茶髪に眼鏡。膝の上には記録用の端末が置かれている。制服を見れば、それがゲヘナ風紀委員会の生徒であることは男にも分かった。
火宮チナツは、男の意識が戻ったことを確かめると、慌てて質問を始めることもなく、まず脈拍と機器の表示へ視線を走らせた。
「……風紀委員会……?」
「はい」
答えながら、チナツは立ち上がる。
男が反射的に身体を起こそうとしたため、すぐに片手を軽く上げた。
「ただ、今は事情聴取のために来たわけではありません。無理に起きないでください」
「…………」
その言葉に従うように、男は再び枕へ頭を沈めた。
実際、一度肩へ力を入れただけで全身へ痛みが走っている。
「俺は……」
乾いた唇を動かす。
「何があった?」
チナツはすぐには答えなかった。
本人がどこまで覚えているかを確かめる方が先だと判断したのだろう。
「何か覚えていますか?」
「…………」
男は目を閉じた。
記憶を探ろうとする。
しかし、頭の中にあるのは一本に繋がった出来事ではなく、切れ切れになった映像ばかりだった。
薄暗い室内。
顔の輪郭さえ曖昧な誰か。
机の上に置かれた書類。
短時間で終わる仕事だと説明された。
少し変わった試験に付き合うだけ。
危険はない。
身体への影響もない。
終われば金が入る。
「……試験」
「試験?」
「仕事で紹介されたんだ」
男は途切れ途切れに言葉を探した。
「すぐ終わるって……身体にも害はないって言われて」
「誰にですか?」
「分からない」
眉間へ皺が寄る。
「顔は……見たはずなんだ。でも」
無理に記憶を辿ろうとした瞬間、頭の奥を針で刺されたような痛みが走った。
「っ……!」
男が額へ手を伸ばしかける。
「無理に思い出さなくて大丈夫です」
チナツの声がすぐに制した。
「今は、覚えているところまでで構いません」
「……何か」
男は浅く呼吸を整えた。
「渡された」
「どんなものでしたか?」
「細長くて……手に持てるくらいの……」
そこまで口にした瞬間だった。
曖昧だった記憶の一部だけが、唐突にはっきりと蘇った。
身体を内側から焼かれるような痛み。
何かが皮膚を突き破り、その奥へ入り込んでくる感覚。
骨が軋む音。
自分の意思とは関係なく膨れ上がっていく身体。
巨大な顎。
白い眼。
道路が砕ける。
周囲から聞こえる悲鳴。
「……っ!」
男の呼吸が一気に速くなった。
心拍を示す機器の音も、それに合わせて間隔を縮める。
「大丈夫ですか?」
チナツは無理に身体へ触れず、まず声を掛けた。
「ゆっくり呼吸してください。今は安全です」
「俺……」
男は震える目で自分の手を見た。
包帯に覆われている。
その先には五本の指がある。
「……何になってた?」
チナツは少しだけ間を置いた。
曖昧に誤魔化すべきではない。
けれど、不必要に刺激する必要もない。
そう判断したように、声を抑えて答える。
「あなたは、私たちが街で遭遇した怪物の姿になっていました」
「…………」
「今は元の姿に戻っています」
「怪物……」
男の唇が僅かに動いた。
そこから先。
残っている記憶は、ほとんど音だった。
銃声。
何かを引き裂く音。
建物か道路か、硬いものが砕ける音。
誰かが叫んでいる。
自分は止まりたかった。
そう思った気がする。
けれど、身体はまるで自分のものではなかった。
「……誰か」
男の声が低く震えた。
「俺が……誰か殺したのか?」
チナツの表情から柔らかさが消える。
けれど、目を逸らすことはなかった。
「負傷者は出ています」
男の顔が固まる。
握ろうとした手が、包帯の上で僅かに震えた。
「ですが、現在確認されている範囲では、あなた自身の攻撃による死者はいません」
「…………そうか」
長い時間をかけて、息を吐く。
一瞬だけ、肩から力が抜けた。
しかし、それで全てが済んだわけではない。
「怪我した奴は……いるんだな」
「はい」
「……そうか」
男は天井へ目を向けた。
安堵することさえ許されないと思っているような顔だった。
チナツも、無理に言葉を足そうとはしなかった。
今必要なのは慰めではないと分かっている。
しばらく。
室内には、医療機器の音だけが続いた。
「……なんで」
男がぽつりと言う。
「俺は戻ってる?」
「あなたを元の姿へ戻した人がいます」
「風紀委員会が?」
「いいえ」
チナツは僅かに目を伏せた。
あの戦場。
瓦礫の間に立っていた黒い姿が脳裏へ浮かぶ。
「私たちにも正体は分かっていません。全身が黒い、正体不明の人物です」
「……黒い……」
男の目が僅かに見開かれた。
その言葉だけは。
記憶の深いところへ触れたらしい。
黒い身体。
暗闇の中でもはっきり見えた、赤い眼。
自分より遥かに小さな身体。
それでも。
何度吹き飛ばしても。
何度地面へ叩きつけても。
向かってきた。
そして最後に。
『戻れぇぇぇぇっ!!』
「……あいつ」
「覚えているんですか?」
「少しだけ」
男は額へ手を当てる。
「俺を……止めたのか?」
「少なくとも、私には」
チナツは慎重に答えた。
「あなたを倒そうとしていたようには見えませんでした」
「…………」
「元の姿へ戻そうとしていました」
男は何も言わなくなった。
何故。
自分を。
助けた。
その三つの言葉を頭の中で何度も繰り返しているようだった。
やがて。
「もし……また会うことがあったら」
男が小さく口を開く。
その先。
言葉は続かなかった。
礼を言いたいのか。
謝りたいのか。
どうして自分なんかを助けたのかと聞きたいのか。
本人にも、まだ答えはない。
「……いや」
視線を逸らす。
「何でもない」
チナツも追及しなかった。
「分かりました」
端末を閉じる。
「今は身体を休めてください。何か思い出したことがあっても、無理に整理しようとしなくて構いません」
「ああ……」
男はもう一度。
自分の手を見る。
包帯。
傷。
鈍い痛み。
けれど。
そこにあるのは怪物の爪ではない。
紛れもなく。
自分自身の手だった。
* * *
病室の扉が静かに閉まる。
チナツは廊下へ出ると、小さく息を吐いた。
室内にいる間は表へ出さなかった疲労が、そこでようやく肩へ乗ったようだった。
医療施設の廊下は静かだった。
遠くから運ばれていくワゴンの車輪が床を転がる音と、別の病室から聞こえる小さな話し声だけが響いている。
「……その顔を見る限り、簡単な患者ではなさそうですね」
すぐ近くから声がした。
壁際で記録に目を通していた氷室セナが、手元の端末から視線を上げている。
チナツは僅かに目を丸くした。
「分かりますか?」
「昔から、難しい患者を診た後はそういう顔をしていましたから」
「…………」
言われて。
チナツは無意識に眉間へ指を当てた。
「そんなに分かりやすかったでしょうか」
「少なくとも、私には」
「部長には敵いませんね……」
小さく息を吐く。
救急医学部にいた頃。
現場から戻った直後に、何も言わないうちから似たようなことを指摘された記憶がいくつもある。
所属が変わってから、それなりに時間は経った。
それでも。
医療の話になれば。
昔の先輩と後輩だった頃の距離は、意外なほど簡単に戻ってくる。
「容体は?」
「意識ははっきりしています。会話にも問題ありません。ただ、記憶にはかなり混乱が見られます」
チナツは端末の検査記録を開き、セナの見やすい位置へ向けた。
「身体の状態も、あまり良いとは言えません」
二人並んで画面を見る。
まず目につくのは戦闘による外傷。
広範囲の打撲。
筋肉への負荷。
骨にもいくつか異常が確認されている。
あの巨体で激しく動き回った以上、その程度の損傷はむしろ予想の範囲だった。
「問題はこちらです」
チナツが表示を切り替える。
「本人が、あの器具を直接使用したと思われる部位」
撮影された患部。
皮膚はただ傷ついただけではない。
火傷とも腐食とも違う形で爛れ、その周囲まで不自然な炎症が広がっている。
「表面だけではありません。内部の組織にも異常が出ています」
セナの視線が僅かに鋭くなる。
「何かが傷口から侵入した?」
「私もそう考えています」
「毒物でしょうか」
「可能性はあります。ただ、既知の毒物とは反応が一致しません」
「血液中にも?」
「微量ですが異常値が出ています。ただ、それが原因なのか、変化した結果なのかまでは」
「まだ判断できない」
「はい」
セナはしばらく黙って検査結果を追った。
数字。
画像。
傷の位置。
複数の記録を見比べる。
「では」
やがて口を開く。
「怪物になった後、戦闘で傷ついたというだけではない」
「はい」
チナツも頷いた。
「変化することそのものが、身体を傷つけていた可能性が高いです」
「私も同意見です」
返答に迷いはなかった。
チナツが少し顔を上げる。
「……やっぱり、そう思いますか」
「自信がなかったんですか?」
「いえ」
そこで少しだけ言葉を選ぶ。
「ただ、今まで診たことのない症例なので。断定していいのかと」
「未知の症例だからこそ、観察した事実から判断する」
「…………」
「救急医学部にいた頃にも言ったはずですが」
チナツの表情が僅かに緩んだ。
「覚えていますよ、セナ部長」
「なら、その判断でいいと思います」
「……ありがとうございます」
短い言葉だった。
けれど。
自分の見立てを、医療に関して最も信頼している一人から肯定されたことで、チナツの肩から僅かに力が抜ける。
セナは病室の扉へ目を向けた。
「本人は?」
「危険はないと説明されたそうです。短時間の試験だと」
「これを?」
珍しく。
セナの声に、ごく薄い呆れが混じった。
「本人の記憶が正しければ」
「なるほど」
「少なくとも、自分があの姿になることも、これほど身体を損傷することも理解していたとは思えません」
セナは病室の扉をしばらく見ていた。
その向こうにいる患者を思い浮かべているのだろう。
「それなら」
静かに言う。
「私たちが診るべきなのは怪物ではありませんね」
「……はい」
「患者です」
それだけだった。
街で見た姿がどれほど異常であっても。
今。
病室にいるのは。
何者かに利用された可能性が高い、傷だらけの一人の患者。
それがセナの判断だった。
「ところで」
「はい?」
「判断が早くなりましたね」
「……何の話です?」
「救急医学部にいた頃なら、もう少し迷っていました」
「昔の話ですよ」
「そんなに昔ではありません」
「部長……」
「戻ってくるなら歓迎しますよ」
「またそれですか?」
「一応」
「今の風紀委員会で手一杯です」
「残念です」
「全然残念そうに聞こえませんけど」
「そうですか?」
表情は相変わらずほとんど変わっていない。
チナツは呆れたように眉を下げ、それでも小さく笑った。
「それに、今の私は風紀委員会の救護担当ですから」
「そうでしたね」
セナは素直に頷く。
「では、そちらで必要なくなった時はいつでも」
「その条件なら、多分ずっと戻れませんよ」
「それは困りました」
「困るんですか……」
僅かな時間だけ。
昔の救急医学部にいた頃の空気が戻った。
けれど。
チナツはすぐに仕事の顔へ戻る。
「この件は、私からヒナ委員長たちへ報告します」
「分かりました」
「患者の方は――」
「こちらで診ます」
セナの返事は早かった。
もう一度記録へ視線を落とす。
「内部への影響がどこまで残っているか、まだ分かりません。表面の傷が治ったからといって安心はできませんから」
「はい」
「少なくとも、しばらくは経過を見る必要があります」
「お願いします」
チナツは頭を下げた。
そのまま数歩進む。
けれど。
ふと立ち止まり。
振り返った。
「部長」
「何でしょう」
「……あの人を、お願いします」
セナは。
何か気の利いた言葉を返すこともなく。
ただ。
「はい」
昔と変わらない調子で頷いた。
それだけで。
チナツには十分だった。
* * *
「……なんで事件が終わった後の方が書類増えてるんだよ」
同じ頃。
ゲヘナ風紀委員会本部では。
イオリが机の上に積み上げられた紙束を前に、心底うんざりした声を漏らしていた。
現場報告。
被害区域の確認。
部隊運用記録。
負傷者一覧。
地下空洞の安全調査。
避難区域の解除申請。
復旧作業中の警備計画。
市民から提供された映像や目撃証言の整理。
山の一つを崩しても。
その向こうから、別の山が顔を出す。
「事件が終わったから、今度はその後始末が必要になるんです」
向かいの机。
アコは複数の書類を見比べながら答えた。
視線は手元へ向いたまま。
こちらはこちらで、朝から休む暇がなかったらしい。
「分かってるけどさ……」
イオリは一枚を持ち上げる。
目を通す。
置く。
次。
「多すぎるだろ」
「それについては同意します」
イオリの手が止まった。
「……アコちゃんが同意した」
「私だって好きで増やしているわけではありませんよ」
アコは呆れたように息を吐く。
少し離れた机では。
ヒナが復旧区域の地図を広げていた。
被害を受けた道路。
地下へ続いていた穴。
仮設の封鎖線。
一つ一つを確認している。
「アコ」
「はい、ヒナ委員長」
「第三地区の封鎖。まだ解除しないで」
「地盤調査が終わっていませんので、その予定です」
「近道だからって入る生徒が出ると思う」
「すでに三人確保しています」
「……そう」
ヒナの目が僅かに細くなる。
「増えそう」
「私もそう思います」
「……ゲヘナだな」
イオリが思わず漏らした。
アコは書類から目を上げない。
「ちなみにイオリも、制止を聞かず現場へ飛び込むことに関しては人のことを言えませんからね」
「任務の時だろ」
「そういうことにしておきます」
「なんだよそれ」
多少不満そうではあるが。
イオリの手は止まらない。
現場で何が起きたかを書き込んでいく。
やがて。
机の端。
他とは分けて置かれた書類の束に気づいた。
「……こっちは万魔殿に出す分か」
「はい」
「同じ報告じゃ駄目なの?」
「必要な書式と項目が違います」
「面倒だな……」
「行政というのは、そういうものです」
言いながら。
アコ自身も、少し疲れているようだった。
「アコちゃんも大変だね」
「他人事のように言わないでください」
ようやく顔を上げる。
「あなたの現場所見も添付します」
「分かってるって」
再びイオリがペンを動かす。
アコはこめかみを軽く押さえた。
「それ以上に面倒なのは、今回、どう書いても内容そのものがおかしな報告書になることなんですよ」
「実際おかしな事件だったんだから仕方ないだろ」
「では」
アコが作成途中の文書を持ち上げる。
「読みますよ」
「うん」
「『市街地に巨大な怪物が出現。風紀委員会と交戦中、正体不明の黒色戦闘対象が介入。その後、黒色戦闘対象の攻撃を受けた怪物は獣人男性の姿へ戻った』」
「…………」
イオリの耳が僅かに下がる。
「どうです?」
「……文章だけ読むと余計に変だね」
「でしょう?」
「でも他に書きようもない」
「そこなんですよ……」
二人とも。
しばらくその文章を眺めた。
怪物が人へ戻った。
事実はそれだけなのに。
文章へすると。
どう見ても説明不足にしか見えない。
その時。
本部の扉がノックされた。
「失礼します。万魔殿から追加照会です」
風紀委員が新しい書類を抱えて入ってくる。
アコは一瞬だけ。
本当に僅かに。
嫌そうな顔をした。
「ありがとうございます」
それでも受け取る。
部下が退室した後。
イオリが横から覗き込んだ。
「また増えた」
「今それを言わないでください」
「ごめん」
最初の項目へ目を通す。
『黒色不明対象について、確認されている出現地点および戦闘記録を提出されたし』
「まあ、そこは普通だね」
「ええ」
次。
『変身前と推定される人物が記録された映像の有無』
「ないんだよね?」
「今のところは」
さらに。
『戦闘終了後に接近した黒猫の獣人について、確認可能な映像および音声記録を添付されたし』
イオリが少し眉を上げた。
「そこまで見えてたのか」
「複数の市民映像に映っていますから」
アコは資料を横へ置く。
「ただし、距離が遠すぎます。顔も判別できません」
「音は?」
「一応あります」
別の端末を操作する。
戦闘終了直後。
遠く。
黒い姿へ近づく黒猫の獣人。
そして。
何かを叫んだような音。
『――……!』
次の瞬間には崩れる瓦礫の音と、周囲の声にかき消される。
イオリが耳を澄ませた。
「……何か呼んでるのか?」
「その可能性はあります」
「名前?」
「分かりません」
アコが音量を調整する。
もう一度。
『――……!』
やはり。
聞き取れない。
「これ以上は難しいですね」
「だね」
「原本は提出します」
アコが次の項目へ進む。
そこで。
僅かに動きが止まった。
「…………」
「どうした?」
「いえ」
アコは一度瞬きをする。
「続けます」
『なお、当該対象が風紀委員会によって秘密裏に準備された戦力ではないことを明確に回答すること』
「…………」
イオリが数秒黙る。
「……急に話が飛んだ」
「この部分は、マコト議長の意向が強そうですね」
「委員長が隠してるって疑ってるのか?」
「その可能性も確認したいのでしょう」
イオリは少し離れたヒナへ顔を向けた。
「委員長」
「何?」
「隠してないよな?」
「隠してないよ」
ヒナは即答した。
「だよな」
イオリの中では。
そこで問題は終わったらしい。
「じゃあ、違うって返せばいいな」
「もう少し公的な書き方をします」
「そこは任せるよ」
「最初からそのつもりです」
次。
『また、当該対象がいずれの組織にも所属していない場合、ゲヘナ自治区の秩序と発展のため、万魔殿がその能力を――』
途中から。
文章全体へ豪快な訂正線が引かれていた。
欄外には。
別の筆跡。
『マコト先輩、これは照会事項ではありません』
「…………」
「…………」
イオリが少しだけ眉を上げる。
「……向こうでも止められてるんだな」
「そのようですね」
アコは目を閉じた。
「できれば提出前に完全に削除していただけるとありがたかったのですが」
「答えなくていいんでしょ?」
「照会事項ではありませんから」
その会話を聞いていたヒナが。
地図から目を離さないまま言う。
「無視でいいと思う」
「そうします、ヒナ委員長」
アコも迷わない。
イオリが別紙を取る。
「こっちは?」
「市民間での情報拡散状況ですね」
「『事件発生以降、正体不明の黒色人物について複数の呼称を確認』……」
その下。
いくつもの俗称が並んでいる。
「黒い戦士」
「まあ普通だな」
「黒仮面」
「少し怪しいですね」
「ゲヘナブラック」
「それはないだろ」
イオリが即答した。
ヒナも。
今度は資料から顔を上げる。
「……うん。それはない」
「委員長もそう思う?」
「何となく」
アコが一覧へ目を通す。
「公的呼称に採用する予定はありません。当面はこちらで『黒色不明戦闘対象』に統一します」
「長いな」
「公文書ですから」
ヒナは。
資料の端に印刷された。
遠くから撮られた黒い姿を見る。
しばらく眺めた後。
「……たぶん」
「はい?」
「別の名前があると思う」
アコが少し首を傾げる。
「根拠はありますか?」
「ない」
「ヒナ委員長……」
「何となく」
イオリが。
小さく笑った。
* * *
一方。
同じ資料を前に。
万魔殿でも別の議論が続いていた。
「納得がいかん!」
机を叩く音が部屋に響いた。
マコトは椅子から身を乗り出し。
目の前へ並べられた資料を睨みつけている。
「これほどの戦闘力を持つ者が突然ゲヘナに現れ、しかも風紀委員会の所属ですらないというのか!」
「まだ正式回答は来てませんけどね」
少し離れたソファ。
イロハは深く身体を預けたまま、手元の資料をめくっている。
マコトの大声にも。
特に驚いた様子はない。
「だから確認しているのだ、イロハ!」
「確認するのはいいんですけど」
一枚めくる。
「最初から風紀委員会が隠している前提みたいな書き方はどうかと思いますよ、マコト先輩」
「前提ではない!」
マコトは胸を張る。
「あらゆる可能性を検討しているのだ!」
「そういうことにしておきます」
「その言い方は何だ!」
その横。
サツキは一連のやり取りにはほとんど参加せず。
机いっぱいに広げた画像と地図を見比べていた。
黒い人物が映った場所。
怪物の移動経路。
風紀委員会が展開していた位置。
一つずつ。
指先で辿っていく。
「でも」
やがて。
のんびりとした声を上げる。
「風紀委員会が事前に用意していた可能性は低そうねぇ、マコトちゃん」
「なぜだ、サツキ!」
「この人」
サツキが地図の一点を指す。
「出てくるまでの動線がほとんど追えないのよ」
次に。
別の映像。
「それに最初の動きも、風紀委員会と示し合わせているようには見えないわね」
「む……」
「市民から集めた映像も見たけれど」
映像を少し戻す。
黒い人物が怪物へ向かい。
風紀委員会側が一瞬反応している場面。
「むしろ途中までは、風紀委員会の方も相手が何者なのか分かっていなかったんじゃないかしら」
マコトは。
少し不満そうではあったものの。
その分析自体には反論しなかった。
「では、現時点では」
横から。
チアキが画像を覗き込む。
「本当に、突然現れた正体不明の人物ということですか?」
「そうなるわね、チアキちゃん」
「なるほど……」
チアキは興味深そうに画面を見る。
すぐに。
表情が明るくなった。
「これはかなり気になりますね。『週刊万魔殿』でも取り上げたら、注目されそうです!」
「チアキ」
ソファからイロハの声。
「まだ記事にはしないでくださいよ」
「分かってますよ、イロハちゃん」
チアキは振り返り。
明るく笑った。
「確認できていないことを、勝手に事実として書いたりはしません」
「それならいいんですけど」
「ただ」
チアキは端末を取り出す。
「街では、もうかなり話題になっていますよ」
いくつかの投稿。
遠くから撮られた映像。
不鮮明な写真。
「『黒い戦士』、『黒仮面』……それから『ゲヘナブラック』という呼び方も確認できますね」
「ゲヘナブラックだと!」
マコトが身を乗り出した。
「我がゲヘナの名を冠するとは、なかなか分かっているではないか!」
「でもマコト先輩」
イロハが淡々と返す。
「それ、あまり評判良くないですよ」
「何っ!?」
「呼び名の評判が、です」
「なぜだ!」
「本人がゲヘナ所属かどうかも分からないのに、勝手にゲヘナを付けてますからね」
「むむ……」
マコトが腕を組む。
チアキは端末を操作し続ける。
「一番よく使われているのは、普通に『黒い戦士』みたいですね」
投稿をいくつか見比べる。
「怪物から風紀委員を助けたとか、最後には怪物になっていた人を元へ戻したとか……そういう話が中心です」
一つの映像を拡大する。
「どれも鮮明とは言えませんけど、この赤い目はかなり目立ちますね」
「チアキちゃん」
サツキが声をかけた。
「その映像、私にも送ってもらえる?」
「はい、サツキ先輩」
すぐに操作する。
「今送りました」
「ありがとう」
サツキは受信した映像を開き。
再び仕事へ戻る。
その間。
イブキは。
先ほどから黙って。
黒い人物の写真を眺めていた。
「ねえ、マコト先輩」
「何だ、イブキ!」
それまでとは比べものにならない速度で。
マコトが振り返った。
「その黒い人って」
「うむ!」
「怪物になっちゃった人を助けてくれたんだよね?」
「む……」
一瞬。
マコトの勢いが止まる。
「風紀委員会の人も助けたんでしょ?」
「今ある報告を見る限りでは、そうみたいですね」
イロハが代わりに答える。
「そっか」
イブキはもう一度。
写真を見る。
そして。
素直に笑った。
「じゃあイブキ、会えたらありがとうって言いたいな」
「…………!」
マコトが勢いよく立ち上がる。
「よし!」
「何がです?」
イロハが。
既に嫌な予感を覚えているような目を向ける。
「発見した暁には、特別にイブキへの謁見を許可してやろう!」
「どうしてそうなるんですか、マコト先輩」
「イブキが会いたいと言っているのだぞ!」
「イブキ、謁見したいなんて言ってないよ?」
「ぐっ……!」
「マコトちゃん」
サツキがのんびりと笑う。
「先走りすぎよぉ」
チアキも。
楽しそうに口元を緩めた。
イロハは一つ息を吐き。
手元の資料を閉じる。
「とにかく」
少しだけ姿勢を直す。
「風紀委員会から正式回答が来るまでは、余計な指示を追加しないでくださいね」
「余計とは何だ、余計とは!」
「私が照会文書から消した部分です」
「なぜ消した、イロハ!」
「照会文書に『万魔殿で確保する』なんて書かないでください」
「優秀な者を迎え入れるのは、議長として当然の――」
「相手にも選ぶ権利がありますよ」
「ぐぬぬ……!」
イロハは。
マコトの反応を特に気にすることなく。
再び資料を開いた。
「それに」
少しだけ目を細める。
「少なくとも今ある情報だけなら、無理に敵へ回す理由もないでしょう」
今度は。
マコトもすぐには反論しなかった。
「こちらへ攻撃した記録はありませんし」
「そうねぇ」
サツキも画面を見ながら頷く。
「行動だけを見るなら、助けた側ではあるわね」
「街の反応も」
チアキが端末を確認する。
「今のところは好意的なものが多いです。もちろん、正体が分からないことを不安に思っている人もいますけど」
「ふむ……」
マコトが腕を組む。
その隣。
イブキはまだ写真を見ていた。
黒い身体。
赤い眼。
それ以外は。
ほとんど何も分からない。
「でも」
「どうした、イブキ!」
「この人にも」
イブキは写真を見ながら。
「ちゃんと名前があるといいね」
「名前?」
「うん」
少しだけ考えて。
「ずっと『黒い人』じゃ、かわいそうだから」
その言葉に。
ほんの一瞬。
部屋が静かになった。
「……まあ」
イロハが。
僅かに口元を緩める。
「本人が名乗ってくれれば、一番楽なんですけどね」
* * *
チナツが風紀委員会本部へ戻った頃には。
万魔殿への返答も、ようやく形になり始めていた。
「失礼します」
扉を開ける。
「チナツ」
ヒナが顔を上げた。
「例の怪物の姿になっていた男性について、報告があります」
それまで。
書類や復旧作業へ向いていた空気が。
僅かに変わる。
「目を覚ました?」
「はい」
「状態は?」
「意識は清明です。ただ、身体への損傷がかなり残っています」
チナツは端末を開き。
病室で聞いた内容を。
必要な部分だけ整理して伝えていった。
短時間の試験だと説明されたこと。
危険はないと言われていたこと。
細長い器具のようなものを身体へ直接使用したこと。
そして。
激しい苦痛とともに怪物へ変化したこと。
「本人は」
イオリが口を開く。
「自分からあの姿になろうとしたわけじゃないってことか?」
「本人の証言が正しければ」
チナツは頷く。
「少なくとも、何が起こるのか理解した上で参加したとは思えません」
「……最悪だな」
イオリの声が低くなった。
先ほどまで。
書類の多さに文句を言っていた時とは。
まるで違う。
アコも表情を険しくする。
「相手の組織名は?」
「分かりません」
「勧誘した人物については?」
「記憶が混乱しています」
チナツは一度だけ。
病室の男の様子を思い出す。
「現時点では、これ以上追及するべきではないと判断しました」
「……そうですね」
アコも。
そこへ異論は挟まなかった。
「身体の方は?」
ヒナが尋ねる。
「通常の外傷だけでは説明できない損傷があります」
チナツが検査資料を表示する。
「特に、本人が器具を直接使用したと思われる部位です。皮膚だけでなく、内部組織にも異常反応が出ています」
「毒?」
ヒナが短く聞く。
「可能性はあります。ただ、既知のものとは一致しません」
アコが資料へ目を通す。
「つまり」
患部の記録。
異常値。
それぞれ確認する。
「あの姿へ変化すること自体が、使用者の身体を蝕んでいた可能性がある」
「はい」
イオリの眉間に皺が寄る。
「それを安全だって言って使わせたのか……」
誰も。
その言葉には答えなかった。
けれど。
室内の空気だけで。
十分だった。
「それと」
チナツが。
少し間を置く。
「黒い人物についても、本人に断片的な記憶がありました」
イオリの耳が僅かに動いた。
「あの黒いの?」
アコが横目を向ける。
イオリは少し考え。
「……黒色不明戦闘対象、だったっけ?」
「覚えたんですね」
「長いけどね」
「それは私も少し思います」
「アコちゃんが決めたんじゃないのか?」
「公文書上の便宜です」
「なるほど」
それで納得したらしい。
「それで?」
ヒナが続きを促す。
「本人は」
チナツが答える。
「黒い姿と赤い目。それから、自分を元の姿へ戻そうとしていた声を覚えていました」
「…………」
「あの場で」
チナツ自身も。
記憶を辿る。
怪物を仕留める機会はいくつもあった。
それでも。
「あの人が目指していたのは、怪物を排除することではなく」
静かに。
「変身していた人を、元へ戻すことだったように見えます」
イオリが少し考え込んだ。
「……やっぱり」
「?」
「少なくとも、あの時は敵じゃなかったってことでいいんじゃないか?」
「そう簡単に結論づけることはできません」
アコの答えは。
冷たいというより。
慎重だった。
「……まあ、それは分かるけど」
イオリもすぐには反発しない。
「あいつが来なかったら、もっと被害が出てたのも事実だろ」
「ええ」
アコは頷いた。
「それは否定していません」
「だったら」
「今回、善意のある行動を取ったことと」
アコが言葉を続ける。
「身元を確認する必要がないことは別です」
「……それなら分かる」
イオリも素直に頷いた。
「次に会った時に確かめればいいしな」
「そうですね」
「ただ」
アコが少しだけ目を細める。
「イオリの場合、その『確かめる』が、いきなり事情聴取にならないかは心配ですが」
「ちゃんと話すって」
「ならいいのですが」
「なんだよ、その言い方」
横で。
チナツが小さく笑った。
「チナツ?」
「いえ。何でもありません」
ヒナは。
机の端に置かれた端末へ視線を向けた。
「映像」
「はい?」
「もう一度見せて」
「分かりました」
アコが記録を呼び出す。
市民から提供された映像。
風紀委員会側の戦闘記録。
複数の角度から。
黒い姿が映し出される。
「何回見ても」
イオリが画面を覗き込む。
「最初の方は結構危なっかしいな」
黒い人物が跳ぶ。
高い。
明らかに。
必要以上に高い。
着地。
しかし。
今度は勢いを止められず。
そのまま――
「…………」
「…………」
街灯へ。
映像の中で。
派手に衝突する。
イオリは。
何とも言えない顔になった。
「これ」
僅かに耳を伏せる。
「普通に痛かっただろうな」
チナツが。
思わず口元を押さえた。
「チナツ」
「はい?」
「今、笑ってなかったか?」
「笑ってませんよ」
「本当か?」
「本当です」
「そこより」
ヒナが画面を少し戻す。
「こっち」
その一言で。
全員の視線が戻る。
「踏み込みが深すぎる」
イオリも。
今度は真面目に見る。
「……ほんとだ」
「避けた後も身体が流れてる」
ヒナの指が。
映像の中の黒い姿を追う。
「力についていけてない」
「じゃあ」
イオリが少し後の場面を指す。
「こっちは?」
「もう違う」
「何が?」
「止まれてる」
ヒナは映像を進める。
「無駄に跳ばなくなった」
さらに。
「攻撃も」
最初は。
身体能力に任せた。
大きな動き。
大きな踏み込み。
必要以上に力んでいる。
けれど。
後半。
少しずつ。
変わっている。
小さく。
速く。
必要なところだけ。
「最初は」
ヒナが言う。
「自分の力に振り回されてた」
「力そのものは強かったんですよね?」
アコが尋ねる。
「うん」
ヒナは映像から目を離さない。
「でも多分」
一拍。
「自分でも、何ができるのか分かってなかった」
イオリが眉を寄せた。
「ちょっと待ってくれ、委員長」
「何?」
「あれで戦い慣れてなかったのか?」
「少なくとも」
ヒナは少しだけ考え。
「あの力では」
「…………」
「戦いながら覚えてた」
アコが。
前半と後半。
映像を見比べる。
「同じ戦闘の中で?」
「うん」
「それって」
イオリも。
改めて見る。
「結構変じゃないか?」
「うん」
「そこは即答なんだな……」
ヒナは気にしない。
最後の映像まで進める。
黒い人物が。
怪物へ向かう。
その直前。
自分が言った。
『周りはこっちで見る』
映像の中。
黒い人物が。
一度だけ。
ヒナの方を見る。
そして。
一言だけ感謝を告げて。
前を向いた。
「それに」
「?」
「少なくとも」
ヒナの声は静かだった。
「あの時は、自分が勝つことより」
負傷した風紀委員。
治療中だったチナツたち。
そして。
怪物の中にいた男。
「他の人を助ける方を選んでた」
「……そうですね」
チナツも頷く。
アコは。
しばらく画面を見ていた。
それから。
「ヒナ委員長」
「何?」
「現時点では」
慎重に。
言葉を選ぶ。
「警戒は継続するものの、敵対対象とは判断しない。そういう扱いでよろしいでしょうか」
「うん」
ヒナが頷く。
「今すぐ敵って決める必要はないと思う」
「では」
アコが続ける。
「協力者として扱いますか?」
「それもまだ」
ヒナは首を振る。
「味方とも決めない」
「……分かりました」
「次に会った時に見ればいい」
イオリが。
少し首を傾げる。
「何を?」
「何をする人なのか」
ヒナは。
停止した映像を見る。
赤い眼。
黒い身体。
その正体は。
まだ何一つ分からない。
「力があることは分かった」
一拍。
「でも、それだけじゃ」
静かな声。
「その人がどういう人なのかは、分からないから」
室内が静かになる。
やがて。
イオリが腕を組んだ。
「じゃあ」
「?」
「次に会ったら、今度こそちゃんと話してもらうからな」
思い出す。
戦闘が終わった後。
去っていく黒い背中。
『次に会った時は、ちゃんと話してもらうからな!』
その時。
返ってきた。
『……覚えとく』
「覚えとくって言ったんだからな」
イオリは。
小さく鼻を鳴らす。
「今度は、もう少しちゃんと話してもらう」
「それなら異論はありません」
アコが答える。
「ただし」
少しだけ。
釘を刺すように。
「最初から武器を向けるのはなしですよ」
「分かってるって」
「念のためです」
「アコちゃんは心配性だな」
「イオリが無鉄砲なんです」
「そこまでじゃないだろ」
今度こそ。
チナツが小さく笑った。
「チナツ」
「すみません」
「ほら、やっぱり笑ってるじゃないか」
そんな三人を。
ヒナは少しだけ眺め。
ほんの僅かに。
口元を緩めた。
机の上には。
停止したままの映像。
名前も。
所属も。
目的さえ。
まだ誰も知らない。
怪物はもういない。
だが。
その事件が残したものまで。
消えたわけではない。
怪物だった一人の男には。
元の姿へ戻された記憶が。
風紀委員会には。
助けられたという事実と。
まだ解けない疑問が。
万魔殿には。
ゲヘナに突然現れた未知の存在への関心が。
それぞれ違う形で。
残っている。
そして。
そのどれにも。
赤い眼をした黒い姿が。
確かに焼き付いていた。