青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
それから、さらに一週間ほどが過ぎた。
店を開ける前、翔はひだまりの二階にある自室で、ゆっくりと右腕を頭上まで伸ばした。
肩を回す。
身体を左右へ捻る。
次に腰へ手を当て、少し深めに身体を倒してみる。
「……うん」
痛くない。
T-REXドーパントとの戦いで負った傷は、ようやくそこまで回復していた。
傷跡そのものはまだ残っているし、朝一番には身体の右側が少し硬く感じられる時もある。しかし、仕事中に食器を運んだり、買い出しの荷物を持ったりする程度なら、もう意識することもほとんどない。
無理をして痛みを我慢しているわけでもなかった。
むしろ、そろそろ身体を動かさない方が気になるくらいだった。
翔は腕を下ろし、鏡に映った自分を見る。
あの戦いで、初めてジョーカーへ変身した。
人の身体では到底出せない力。
速さ。
跳躍力。
怪物の攻撃を受け止められる頑丈さ。
だが、それらを手にしたからといって、自分まで急に戦い慣れたわけではない。
むしろ最初は散々だった。
高く跳びすぎた。
踏み込みすぎた。
勢いを殺せず、身体が流れた。
拳を振るえば必要以上に大きく振りかぶり、避けようとすれば大きく動きすぎる。
そして。
「…………」
翔の脳裏に、嫌でも一本の街灯が浮かんだ。
勢いを止められず、正面からぶつかったあの街灯である。
「……あれは忘れよう」
誰に言うでもなく呟いた。
幸い、あの時は自分が痛い思いをしただけで済んだ。
けれど、止まれなかった先に誰かがいたら。
もっと危険な場所へ飛び込んでいたら。
笑い話では済まなかった。
戦いの後半では、少しずつ無駄を減らすことができた。
力任せに動くのではなく、必要な時に必要なだけ動く。
そこまでは実戦の中で掴んだ。
だからこそ、余計に思う。
一回できたからって、身についたわけじゃない。
それに。
翔が鍛えたいと思った理由は、ジョーカーだけではなかった。
変身する前の自分。
何も持っていなかった自分。
怪物を目の前にして、助けたいと思ってもできることがほとんどなかった。
それでも逃げ遅れた誰かへ手を伸ばすことはできたし、その行動に意味がなかったとも思っていない。
だが。
変身できなければ何もできない。
そんな人間のままでいるのも違う気がした。
翔は時計を見る。
「よし」
今日は少し長めの休憩をもらうつもりだった。
* * *
「身体を動かしてくる?」
昼前のひだまり。
客足が一度落ち着いたところで、翔から予定を聞いたニャン次郎は、カップを拭く手を止めた。
「うん」
翔はすでに仕事着から着替えている。
動きやすいTシャツにパンツ。足元は使い慣れたスニーカーだった。
「前に端末で調べたら、一般でも使えるトレーニング施設があったから」
「傷は?」
「もう痛くない。さっき一通り動かしてみたけど問題なかった」
「だからって、初日から張り切るなよ」
「分かってるって」
即答すると、ニャン次郎がじっと見てきた。
「……何?」
「お前の『分かってる』は信用していいのかと思ってな」
「最近、俺の信用低くない?」
「自業自得だ」
「ひどいな」
そう言いながら、翔自身にも反論しづらいところはあった。
キララとエリカにも、似たようなことを言われたばかりだ。
「別に限界までやるつもりじゃないよ。どういう運動すればいいのか見てくるくらい」
「ならいいが」
ニャン次郎は再びカップを拭き始めた。
「夕方には戻れよ」
「了解」
翔は小さな鞄を肩へ掛ける。
「行ってきます」
「ああ。行ってこい」
扉のベルを鳴らし、翔は外へ出た。
* * *
目的の施設は、ひだまりから少し離れた場所にあった。
特定の学校の部活動専用ではなく、受付で料金を支払えば一般でも利用できるスポーツセンターである。
最近は翔自身、一人で行動する範囲が少しずつ広くなっていた。
必要なものを買いに行く。
公共端末を利用する。
知らない道を歩いてみる。
キヴォトスへ来たばかりの頃には、何も分からず歩いていただけだった。
今では目的地を調べ、自分で交通手段を選んで向かう。
そんな小さな違いもあった。
受付で初回利用の説明を受け、更衣スペースへ荷物を置く。
水。
タオル。
財布。
それから、普段から買い物や用事を書き留めるために使っている小さなメモ帳。
必要なものだけを持って、翔はトレーニングスペースへ足を踏み入れた。
「……思ったより本格的だな」
横一列に並んだランニングマシン。
重さを細かく調節できる器具。
広い鏡。
ストレッチ用のスペース。
黙々と身体を動かしている利用者たち。
元いた場所でも、本格的なトレーニング施設を利用した経験はほとんどない。
体育の授業とは、当然ながら勝手が違った。
「何からやるんだ……?」
少し考え。
翔はランニングマシンを見る。
「とりあえず、走るか」
分からないなら、まず身体を温める。
最初から重い器具へ触るよりは安全だろう。
低い速度から始め、歩く。
少しずつ上げる。
やがて、軽いジョギングへ。
久しぶりにまともな運動をしている感覚だった。
足裏が一定の間隔でベルトを踏む。
呼吸が深くなり、額にじわりと汗が浮かんでくる。
以前傷めた部分にも意識を向けてみる。
痛みはない。
身体を庇って走っている感じもない。
ただ、思ったより早く脚が重くなる。
「……運動不足だな」
ここしばらくは怪我もあって、まともに走っていなかった。
無理に速度を上げず、十分ほどで徐々にペースを落とす。
最後は歩いて呼吸を整えた。
マシンから降りる頃には、程よく身体が温まっている。
「ここまでは問題なさそう」
軽くストレッチを済ませてから、翔は自重トレーニング用のスペースへ移動した。
そこで改めて困る。
「……で、何を鍛えるんだ?」
戦うため。
それだけなら腕や脚を鍛えればよさそうに思える。
だが。
あの戦いを思い返す。
走る。
踏み込む。
止まる。
跳ぶ。
その全部で脚を使っていた。
「まず下半身かな」
壁に掲示されている初心者向けの説明を見る。
その中に、見慣れた運動があった。
「スクワット」
これなら知っている。
体育でもやったことがある。
足を開く。
腰を落とす。
「こんな感じか」
一回。
二回。
三回。
思ったより簡単だ。
「これなら――」
「すみません」
「ん?」
突然、横から声を掛けられた。
「その姿勢のまま続けると、膝に負担が掛かると思います」
「え?」
翔は動きを止め、声のした方を見る。
トレーニングウェア姿の少女が立っていた。
鍛えられた身体に、落ち着いた表情。
見覚えのある顔に、翔は一瞬だけ目を瞬かせた。
乙花スミレ。
その名前を認識した直後。
翔の頭に浮かんだ言葉は、一つだった。
――筋トレ狂。
「…………」
まずい。
いや。
身体を鍛えるために来たのだから、これ以上ないほど適任ではある。
適任ではあるのだが。
何事にも限度というものがある。
「膝?」
「はい」
翔が密かに警戒しているとも知らず、スミレはごく真面目な表情で彼の姿勢へ視線を落とした。
「もし良ければ、もう一度同じようにやってみてもらえますか?」
「……こう?」
恐る恐る、先ほどと同じように腰を落とす。
「そこで止めてください」
「ん」
「膝が少し内側へ入っています。それと、重心も前へ寄りすぎですね」
スミレは少し横へ移動し、翔の足元を確認する。
言われてみれば、体重がかなりつま先側へ乗っていた。
「これ、まずい?」
「一度や二度ですぐ怪我をするとは限りません。でも、このまま繰り返せば負担は大きくなります」
「なるほど……」
「少し直してみましょうか?」
「お願いします」
即答した。
筋トレ狂であろうが何であろうが、膝を壊すよりは遥かにいい。
「まず、足をもう少しだけ外へ」
「これくらい?」
「はい。膝とつま先の向きを合わせます」
スミレが自分で姿勢を取ってみせる。
動きに一切のぐらつきがない。
「それから、膝を曲げるというより、腰を後ろへ引くようにしてください」
「腰を後ろ」
「背中は丸めずに」
翔も真似をする。
「こう?」
「少し胸を起こしてください」
「……これくらい?」
「はい。そのまま、ゆっくり下ろしてみましょう」
腰を落とす。
「…………」
途中で、翔の表情が変わった。
太腿。
尻。
腹部。
先ほどまでとは違う場所へ、一気に負荷が掛かる。
「……あれ?」
「どうしました?」
「さっきよりきつい」
「正しく筋肉を使えているからです」
「こっちが正しいのか……」
もう一度。
今度は足の裏を意識する。
腰を落とす。
身体が前へ流れないように。
「そうです」
「地味なのに結構くるな……」
「正しい姿勢を維持するだけでも、色々な筋肉を使いますから」
スミレは翔の動きを確認しながら説明を続ける。
「力を出すことだけを考えても、身体は上手く動きません。姿勢が崩れていれば、本来出せる力も上手く伝わりませんから」
「力を出すだけじゃ駄目……」
「はい。重心や呼吸も大事ですよ」
「呼吸まで?」
「もちろんです」
息を止めすぎない。
身体を支える。
足の裏で床を押す。
翔は一つずつ言われた通りにやってみる。
ただしゃがんで立つだけ。
それなのに、意識するだけで身体の感覚がまるで違った。
ふと。
ジョーカーとして戦った時のことが頭をよぎる。
大きすぎた踏み込み。
余計な力の入った拳。
自分の勢いに身体を持っていかれた。
戦いの後半で無意識にやり始めたことを、今は言葉にして教えられている。
――これか。
「……なるほど」
「何か分かりましたか?」
「ちょっとだけ」
翔は立ち上がる。
「力を出せればいいってわけじゃないんだなって」
スミレが小さく頷いた。
「その通りです」
――あれ?
翔は少しだけ思った。
普通にすごくまともだ。
というか。
めちゃくちゃちゃんとしている。
何を警戒していたんだ、俺は。
* * *
スクワットの次は、ランジだった。
「片足を前へ出してください」
「こう?」
「少し歩幅が大きいですね」
「これでも?」
「はい」
翔は足を戻し、先ほどより小さく踏み出す。
「そのまま腰を落として」
「……っと」
身体が僅かに前へ流れる。
「そこで止めましょう」
「止める?」
「はい」
スミレは翔の足元を示す。
「前へ出ることだけではなく、出た後に姿勢を維持できることを意識してください」
「…………」
「風間さん?」
「いや」
街灯。
また浮かんだ。
「それ、すごく大事だなと思って」
「そうですね。動きを制御できなければ、余計な負担も掛かりますから」
「……本当に大事だ」
今度は慎重に。
一歩。
腰を落とす。
止める。
戻る。
もう一度。
最初ほど身体は流れない。
「さっきより良いです」
「お」
もう一回。
今度は少し調子に乗って大きく踏み出した。
「大きいです」
「はい」
すぐ戻した。
* * *
続いて、軽い体幹トレーニング。
床に敷いたマットの上で身体を支える。
「お腹に力を入れて、身体を一直線にしてください」
「入れてる」
「肩にも力が入っています」
「え?」
「肩はもう少し楽に」
「力入れながら、別のところは抜くの?」
「はい」
「難しくない?」
「慣れれば自然にできますよ」
「その『慣れれば』までが遠そうだな……」
それでも。
数十秒。
姿勢を維持する。
「腰が下がっています」
「はい」
「今度は上がりすぎです」
「はい……」
「呼吸を止めないでください」
「……はい」
じわじわと腹部が熱くなる。
派手さはない。
けれど、明らかに効いている。
スミレはただ回数をやらせるのではなく、少し姿勢が崩れればすぐに指摘した。
無理に続けさせることもない。
「一度休みましょう」
「まだいけるけど」
「フォームが崩れ始めています」
「……続けても意味ない?」
「効率は良くないですね」
「分かった」
翔は素直に身体を下ろした。
――本当にまともだな。
筋トレ狂。
そういう印象が強かったせいで、もっと「あと百回です!」のような世界を想像していた。
今のところ。
そんな気配はない。
* * *
「ところで」
少し休んだ後、スミレが翔を見る。
「先ほどから少し気になっていたのですが」
「何?」
「右側を、最近痛めていましたか?」
「……分かる?」
翔は思わず自分の脇腹を見る。
「痛みがあるようには見えません」
スミレは翔の肩から腰までを確認する。
「ただ、左側に比べると、右側の動きが少し小さいです」
「そうなのか」
肩を回す。
身体を捻る。
痛くはない。
けれど、言われて意識すると確かに少し硬い。
「少し前に怪我したんだ。今はもう普通に生活しても痛くない」
「今日走った時は?」
「問題なかった」
「今は違和感がありますか?」
「痛いとかじゃないけど……右だけ少し硬いかも」
「分かりました」
スミレはすぐ頷いた。
「でしたら、今日は強い負荷は掛けない方が良いですね」
「やっぱり?」
「はい」
「一応、もう運動できるくらいには治ったと思って来たんだけど」
「運動してはいけないという意味ではありませんよ」
落ち着いた声で説明する。
「痛みがなく、日常生活にも支障がないのであれば、身体を動かしながら可動域を戻していくことも大切です。ただ、治ったばかりの身体にいきなり大きな負荷を掛ける必要はありません」
「じゃあ今日は?」
「フォームを覚えることと、身体を動かすことを中心にしましょう」
「なるほど」
「それから、痛みが出たらその時点でやめてください」
「分かった」
「本当にですよ?」
「……分かってるって」
マスターにも似たような顔をされたばかりだ。
「休むことも、トレーニングには必要です」
「休むのも?」
「身体は鍛えている時間だけで強くなるわけではありません。負荷を掛けた後には、きちんと回復させる時間が必要ですから」
「休むのもトレーニングってことか」
「そう考えてもいいと思います」
スミレは真面目な顔のまま続ける。
「無理をして怪我を悪化させたら、その分だけ次に動ける日が遠くなります」
「…………」
最近。
本当によく言われる。
キララ。
エリカ。
マスター。
そして今度はスミレだ。
「……最近、それよく言われるな」
「そうなんですか?」
「うん」
「でしたら、周りの方の言うことをちゃんと聞いた方がいいですね」
「……はい」
何故か。
今回も反論できなかった。
* * *
それからしばらくして。
ようやく翔は一つ、重大なことに気づいた。
「そういえば」
「はい?」
「まだ名前聞いてなかった」
「…………」
スミレも少し目を瞬かせる。
「そうでしたね」
すでにスクワットを直され。
ランジを教わり。
体幹まで見てもらった後だった。
「俺、風間翔」
「風間さんですね」
スミレは丁寧に頭を下げる。
「私は乙花スミレです」
「スミレさんでいい?」
「はい」
「じゃあ、改めてよろしく」
「よろしくお願いします、風間さん」
そして。
何事もなかったようにトレーニングの話へ戻った。
* * *
その日の内容は、翔が来る前に想像していたものとは随分違った。
重いものを限界まで持ち上げるわけでもない。
息ができなくなるまで走るわけでもない。
軽い有酸素運動。
ストレッチ。
スクワット。
ランジ。
体幹。
肩や股関節の動きを確認する運動。
一つ一つは地味だ。
けれど、姿勢を意識して行えば思った以上に身体へ効く。
「……筋トレって」
一区切りしたところで。
翔は額の汗をタオルで拭いた。
「もっと重いものを持つイメージだった」
「それもトレーニングですよ」
「でも今日は全然やってない」
「今の風間さんには、こちらの方が大事ですから」
「基礎?」
「はい」
即答だった。
「立つ。歩く。走る。しゃがむ」
スミレは指を一つずつ折る。
「どれも身体の使い方です」
「普通にやってることだよな」
「普段なら、それで問題ありません。でも、もっと速く動きたい、強く身体を動かしたい、疲れにくくなりたい。そういう目的があるなら、普段の動きを見直すことも大切です」
「……目的か」
スミレが翔を見る。
「風間さんは、何か目標があるんですか?」
「目標?」
「競技へ出るために鍛えたい、という感じではなさそうなので」
「そんなに分かる?」
「何となくですが」
「すごいな」
翔は少し考えた。
ジョーカー。
ロストドライバー。
それを話すつもりはない。
だが。
嘘を吐く必要もなかった。
「……もっとちゃんと動けるようになりたい」
「ちゃんと?」
「何かあった時に」
翔は自分の手を見る。
「人を助けようとして、逆に足手まといになるのは嫌なんだ」
スミレは何も挟まず聞いている。
「別にスポーツの大会に出たいわけじゃない。単純に、自分にできることをもう少し増やしたい」
「…………」
「それだけ」
しばらくして。
スミレが小さく頷いた。
「でしたら、なおさら基礎からですね」
「やっぱりそこ?」
「はい」
迷いがない。
「最初から何でも出来る必要はありません」
「…………」
「出来なかったことは、トレーニングを続ければ少しずつ出来るようになります」
「少しずつ」
「一度に全部出来るようになろうとすると、無理が出ますから」
今日だけでも。
一つ姿勢を直した。
また崩れた。
もう一度直した。
そうして少しずつ動きが良くなった。
「続けることの方が大切です」
翔は。
その言葉を少しだけ噛み締めてから。
「そっか」
頷いた。
「じゃあ、続けてみる」
「はい」
スミレも微笑んだ。
* * *
「普段は、どんなトレーニングをしているんですか?」
帰る準備を始めた頃。
スミレから尋ねられ。
翔は少し困った顔をした。
「ちゃんとしたのは今日が初めて」
「……今日が?」
「うん」
「それで一人で?」
「来れば何すればいいか分かるかなって」
「…………」
「その顔やめて」
「いえ」
スミレは首を横へ振る。
「声を掛けて良かったと思いまして」
「俺もそう思う」
本当に。
そのまま続けていたら、間違ったフォームで回数だけ増やしていた可能性が高い。
「でしたら、自宅でも出来る簡単なメニューを作りましょうか?」
「いいの?」
「もちろんです」
「助かる」
翔は鞄を開け、小さなメモ帳を取り出した。
「これ使って」
「はい。お借りします」
ペンも一緒に渡す。
スミレは空いているページを開き、几帳面な字で書き始めた。
軽いジョギング。
下半身と股関節のストレッチ。
スクワット。
軽いランジ。
体幹トレーニング。
肩周りの可動域を整える運動。
回数。
目安の時間。
フォームで意識する場所。
翔は横から覗き込む。
「細かい」
「忘れてしまうといけませんから」
「なるほど」
最後に。
スミレが少し大きめの字で一文を書いた。
『痛みや強い違和感がある日は休むこと』
さらに、その下へ線まで引く。
「そこだけ強調するんだ」
「大事なので」
「……はい」
メモ帳を受け取り。
改めて最初から読む。
想像していたより。
遥かに普通だった。
「……思ったよりまともだな」
「?」
「あ」
口に出た。
「どういう意味ですか?」
「いや」
翔は慌ててメモ帳を閉じる。
「もっとこう……走る距離にゼロが一個多いとか」
「?」
「何でもない」
スミレは不思議そうに首を傾げた。
やはり。
知っている印象ほどではなかったのかもしれない。
「まずは、この内容を無理なく続けてください」
「分かった」
「身体が慣れてきたら、次の段階へ進みましょう」
「次の段階?」
「はい」
「もう考えてるの?」
「もちろんです」
「…………」
「慣れてきたらジョギングの距離も伸ばせますし、回数やセット数も増やせます。器具を使ったトレーニングも取り入れられますね」
それまでと同じ。
穏やかな笑顔だった。
「体力がついてきたら、メニューの種類も増やしましょう」
「どのくらい?」
「風間さんの成長次第です」
「……そっか」
「最終的には、もっと色々出来るようになりますよ」
スミレの目が。
ほんの少しだけ。
先ほどまでより輝いている気がした。
「…………」
翔は確信した。
やっぱり。
俺の知っている乙花スミレだった。
* * *
夕方。
ひだまりの扉についたベルが鳴った。
「ただいま」
「おかえり」
カウンターの奥からニャン次郎が顔を出した。
翔を見る。
歩き方。
表情。
「随分疲れてるな」
「……思ってたより大変だった」
翔はカウンター席へ腰を下ろす。
「何やった?」
「走って、ストレッチして、スクワットして、体幹とか」
「それだけで?」
「正しいやり方ですると全然違うんだよ」
「へえ」
「しかも、自分じゃ気づかなかったけど、右側ちょっと庇う癖が残ってた」
ニャン次郎の目が細くなる。
「痛めたのか?」
「違う違う。痛みはない。今日はむしろ無理するなって止められた側」
「ほう」
その言葉で。
露骨にニャン次郎の警戒が少し下がった。
「ちゃんとした奴に教えてもらったみたいだな」
「うん」
翔は鞄からメモ帳を取り出した。
開く。
途中から、自分とは違う几帳面な文字が並んでいる。
「これ」
ニャン次郎が覗き込む。
「結構細かいな」
「だろ?」
翔も改めて見る。
「続けるのか?」
「うん」
答えに迷いはない。
「せっかく教えてもらったし」
それだけではない。
必要だと思ったからだ。
ジョーカーの力を強くしたいわけではない。
そもそも。
あれ以上の力があったとしても。
自分が扱えなければ意味がない。
必要なのは。
まず。
自分自身が、きちんと動けるようになること。
「無茶するなよ」
「分かってる」
「メモにも書いてないか?」
「え?」
ページを見る。
『痛みや強い違和感がある日は休むこと』
「……書いてある」
「じゃあ守れ」
「はい」
翔は苦笑しながらメモ帳を閉じた。
* * *
翌朝。
ひだまりの開店には、まだ少し早い。
翔は店を出る前にメモ帳を開いた。
『軽いジョギング』
その下には。
時間の目安。
姿勢。
呼吸。
そして。
『無理をしないこと』
「……よし」
メモ帳を閉じる。
すぐに走り出さず。
昨日教えてもらった通り。
まず脚を伸ばす。
股関節。
肩。
身体の右側も、ゆっくりと。
痛みはない。
呼吸を整える。
ひだまりの扉を開ける。
朝のゲヘナは。
昼間と比べれば、まだ静かだった。
翔は最初の数分を歩き。
少しずつ速度を上げる。
やがて。
軽い走りへ。
呼吸。
姿勢。
足の着き方。
昨日までなら。
気にも留めなかったことを、一つずつ意識する。
一日走ったからといって。
急に強くなるわけではない。
一度トレーニングしただけで。
ジョーカーを完璧に扱えるようになるわけでもない。
それでも。
一歩。
もう一歩。
昨日できなかったことを。
今日。
少しだけ出来るように。
その積み重ねを続けるために。
翔は朝の道を、自分の足で走っていった。