青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
いやぁ、ブルアカに新しい風が吹いてきた感じがありますね。未読の方々に配慮してネタバレは極力伏せますが、あの巨大戦艦?都市?が海の上を移動していると考えるとロマンがありますね。
あと、ネームドキャラ達の大渋滞で今回だけで情報量エグ過ぎぃ!って感じでした。
これからのブルアカも非常に楽しみですね。
この回で閑話は一度終了になります。次回からは次章に入っていきますよ。
昼前のひだまりには、午前中の客足が一度途切れたあとの、穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む陽射しが木目の床を柔らかく照らし、開けた窓の隙間から入る風が、カウンターに置かれた紙ナプキンの端を時折揺らしている。
客席に残っているのは、新聞を広げながらコーヒーを飲む獣人の男性と、窓際で遅めの朝食を取っている二人組だけだった。
静かな店内とは対照的に、厨房には昼の仕込みを終えつつある料理の香りが満ちている。
「翔。こっち、もう一回見てくれ」
「ん」
ニャン次郎に呼ばれ、翔は自分が見ていた鍋から離れた。
差し出された小皿を受け取り、赤茶色のソースをスプーンで少し掬う。
口へ運ぶと、最初にトマトの柔らかな酸味が広がり、そのあとから、じっくり火を通した玉ねぎとにんじんの甘みが追いかけてきた。
表面を焼いてから煮込んだ鶏肉の旨味も、ソースへ十分に溶け込んでいる。
翔は二度ほど舌の上で味を確かめた。
「……さっきよりいい。でも、もうほんの少しだけ塩あってもいいかも」
「やっぱりか」
ニャン次郎も自分で味を見ると、ごく少量の塩を鍋へ加え、木べらで底からゆっくりと混ぜた。
今日の昼のおすすめは、鶏もも肉と根菜のトマト煮込みだった。
朝のうちに表面へ焼き色をつけた鶏もも肉を、玉ねぎ、にんじん、マッシュルームと一緒にトマトベースのソースで煮込み、じゃがいもだけは形が崩れすぎないよう時間をずらして加えてある。
ローリエと少量の香草で香りを整え、弱火でじっくりと火を入れた鶏肉は、フォークを差し込めば簡単にほどけるほど柔らかくなっていた。
派手な料理ではない。
けれど、昼食として腹を満たしながら、最後まで重たく感じずに食べられるように考えられている。
「翔の方は?」
「もう大丈夫」
翔は自分が担当していた鍋の蓋を開けた。
中身は、玉ねぎとキャベツのコンソメスープ。
薄切りの玉ねぎを最初にゆっくり炒めて甘みを出し、そのあとでキャベツを加えて煮込んでいる。
主菜のトマト煮込みがしっかりした味なので、スープは塩気を抑え、野菜の甘みを感じられる程度に仕上げていた。
サラダも準備済みだ。
葉野菜に薄切りのきゅうりと赤玉ねぎ。
注文が入ってから、粒マスタードと少量の蜂蜜を使ったドレッシングを薄く絡める。
最後に、表面だけを軽く焼いたパンを添える。
「昼はこれで回せそうだな」
「だな」
翔が鍋へ蓋を戻そうとした、その時だった。
入口のベルが軽やかな音を立てる。
「いらっしゃいませ」
反射的に厨房から顔を出した翔は、入ってきた二人を見てほんの少しだけ目を瞬かせた。
一人は、長い黒髪を二つにまとめた少女。
書類らしいものが入った鞄を手にしており、その表情には、すでにひと仕事終えてきたような疲れが僅かに滲んでいる。
その隣には、店内を興味深そうに見回すもう一人の少女。
見覚えのある顔だった。
愛清フウカ。
牛牧ジュリ。
名前を認識した瞬間こそ少し驚いたものの、翔はそれを表には出さなかった。
「二人?」
「はい!」
ジュリが明るく答える。
「近くまで来ていたので、せっかくだからお昼を食べていこうということになりまして」
「用事が思ったより早く終わったのよ」
フウカも続けた。
「歩いてたら、ここが見えたから」
「じゃあ、好きな席どうぞ。今ならどこでも空いてる」
「ありがとうございます!」
二人は窓際の四人席を選んだ。
翔は水とメニューを持っていく。
ジュリは受け取るなり嬉しそうにメニューを開いたが、フウカはその前に店内へ一度視線を巡らせていた。
客席の配置。
カウンター。
厨房との距離。
翔とニャン次郎が動くための通路。
ただ眺めているというより、どこか動線を確かめるような視線だった。
「……何か気になる?」
「え?」
声を掛けられ、フウカが我に返る。
「あ、いや……その」
少し気まずそうに目を逸らした。
「こういうお店って、どういう風に厨房と客席を回してるのかなって。つい見ちゃっただけ」
「飲食関係?」
「ええ。給食部よ」
「なるほど。それでか」
翔が納得すると、ジュリが横から嬉しそうに口を挟んだ。
「フウカ先輩は、厨房を見るとすぐ色々気づくんですよ」
「ジュリ」
「はい?」
「そういうのは別に言わなくていいの」
「どうしてです?」
「……もういいわ」
フウカが小さく息を吐く。
翔は思わず笑った。
そこで、まだ互いに名乗っていなかったことに気づく。
「そういえば、まだ名前言ってなかったな。俺は風間翔。ここで働いてる」
「愛清フウカよ」
「牛牧ジュリです!」
ジュリが丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします、翔さん!」
「よろしく」
フウカも軽く頭を下げる。
「それで」
翔はメニューの端に挟まれた小さな札を指した。
「今日のおすすめはこれ。鶏もも肉と根菜のトマト煮込み」
「トマト煮込み……」
フウカが札へ目を落とす。
説明欄には、鶏もも肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、マッシュルームと書かれている。
「スープとサラダ、それにパンが付く。煮込みは朝からマスターが仕込んでるから、肉も結構柔らかくなってると思う」
「朝から?」
「弱火でずっと」
「へえ……」
フウカの目が、先ほどまでとは少し違うものになる。
料理をする人間として興味を引かれたらしい。
「スープは?」
「玉ねぎとキャベツのコンソメ。スープとサラダは俺が担当」
「翔さんも厨房に入るんですね」
ジュリが言った。
「一応、それも仕事だから」
「フウカ先輩、これ美味しそうですよ!」
「そうね」
フウカは少しだけ考えたあと、メニューを閉じた。
「じゃあ、それを二つお願い」
「私も同じのでお願いします!」
「了解」
注文を受け、翔は厨房へ戻った。
* * *
鍋の蓋を開けると、湯気と一緒にトマトと香草の香りが広がった。
ニャン次郎が煮込みを深さのある白い皿へ盛りつける。
翔はその横でスープをよそい、サラダを仕上げていく。
ドレッシングは掛けすぎない。
葉野菜の表面へ薄く絡む程度。
パンは表面だけを軽く焼き、外側に僅かな香ばしさを加える。
「二つできた」
「持ってけ」
「了解」
トレーを持って席へ向かう。
「お待たせ」
「わあ……!」
最初に反応したのはジュリだった。
深皿の中央には、大きめに切られた鶏もも肉。
その周囲へ、にんじん、じゃがいも、マッシュルームが赤みを帯びたソースと一緒に盛られている。
長く煮込まれた玉ねぎは半ばソースへ溶け込み、最後に散らした乾燥ハーブの香りが湯気に乗っていた。
隣には淡い黄金色のコンソメスープ。
サラダには緑の葉野菜、きゅうり、赤玉ねぎ。
粒マスタードの粒が見える淡い色のドレッシングが薄く絡んでいる。
軽く焼いたパンからは、香ばしい小麦の匂いが立っていた。
「美味しそうです……!」
ジュリが目を輝かせる。
一方。
フウカはすぐには食べ始めなかった。
まず皿全体へ目を向ける。
「……じゃがいも、崩れてないのね」
「入れる時間をずらしてるってマスターが言ってた」
「やっぱり」
今度は鶏肉。
フォークを差し込むと、ほとんど力を入れていないのに肉の繊維がほろりとほどけた。
「ちゃんと柔らかい……」
「そこまで見る?」
「見るわよ。料理する側なんだから」
当然のように答え。
ようやく一口、口へ運ぶ。
「…………」
フウカの目が僅かに見開かれた。
ゆっくり噛み。
もう一口。
「どう?」
「……美味しい」
素直な答えだった。
「トマトの酸味が強すぎないし、鶏の味もちゃんと残ってる。それに、にんじんも形が残ってるのに中まで柔らかい」
「マスターに言っとく」
「聞こえてるぞ」
厨房の奥から声が飛んできた。
フウカが少し気まずそうに顔を上げる。
「聞いてたの?」
「聞こえただけだ」
「そう……」
次にフウカが手を伸ばしたのはスープだった。
カップを持ち、湯気を避けるように軽く息を吹いてから一口飲む。
「……こっちは?」
「俺が作った」
「へえ」
もう一口。
今度は先ほどよりゆっくりと味を見る。
「優しい味ね。でも、薄いわけじゃない」
「玉ねぎを少し長めに炒めてる。甘み出したかったから」
「ああ、なるほど」
フウカは納得したようにカップの中を見る。
「だからキャベツだけじゃなくて、スープ全体に甘みがあるのね。コンソメも強くしすぎてないし」
「煮込みが結構しっかりした味だから、スープまで濃いとうるさいかなと思って」
「ちゃんと考えてるじゃない」
「一応な」
「こういう味、私は結構好きよ」
「それはどうも」
横で聞いていたジュリが楽しそうに二人を見比べる。
「フウカ先輩、やっぱり料理のことになると細かいですね」
「ジュリだって気になるでしょ?」
「もちろんです!」
「だよね」
そこで翔は、二人が店へ入ってきた時に聞いた言葉を思い出した。
「そういえば」
「何?」
「さっき給食部って言ってたけど、フウカもそこで料理してるの?」
「ええ。私が給食部の部長」
「部長なんだ」
「フウカ先輩はすごいんですよ!」
ジュリがどこか誇らしげに身を乗り出す。
「ジュリ」
「本当のことですよ?」
「そうだけど、自分で説明できるから」
「はーい」
翔は少し感心したようにフウカを見る。
「じゃあ、普段からかなり作る?」
「かなり、というか……ほぼ毎日ね」
「給食ってことは、大人数分?」
「そうね」
フウカはパンを小さくちぎりながら答える。
「その日の人数や献立にもよるけど、少なくとも、こういうお店みたいに一皿ずつ最後まで見ながら作れる量じゃないわ」
「何十人とか?」
「もっと」
「百?」
「もっと多い時だってあるわよ」
「…………」
翔の動きが止まった。
「そんなに?」
「ゲヘナの給食部よ?」
「いや、規模が全然想像できなくて」
翔は厨房の方を見る。
今使っている大鍋でも、十数人分を仕込めば相応の大きさになる。
それを何倍、何十倍。
「それだけの人数分を作るのか……」
「毎日全部同じ人数じゃないけどね」
「それでもすごいな」
「そう?」
「俺、一人分とか数人分なら慣れてるけど、百人単位とか無理だと思う」
「翔さんは、お家でもお料理されてたんですか?」
今度はジュリが尋ねる。
「うん。結構前から自炊してた」
「だから手際がいいんですね!」
「家で作るのと店じゃ全然違うけどな」
「それは給食だって同じよ」
フウカが言った。
「家で数人分作るのと、大人数に決められた時間で出すのじゃ、考えることが変わるから」
「例えば?」
「火の通り方もそうだし、味付けもそう。鍋が大きくなれば、単純に分量を人数分掛ければ同じ味になるってわけでもないの」
「へえ……」
「それに、一品だけ美味しくできても駄目。決められた時間までに全部揃えないといけないし、誰か一人だけ極端に味の違う料理を渡すわけにもいかない」
「なるほど」
翔は素直に感心した。
「俺がやってる料理とは、同じ料理でも結構違うんだな」
「こっちもよ」
「え?」
フウカはサラダへフォークを伸ばした。
「こういう店なら、注文が入ってから一皿ずつ仕上げられるでしょ?」
「まあね」
「食べる人に合わせて少し変えることもできる。さっきみたいに最後に味を見たり、ドレッシングの量を調整したり」
「ああ」
「そういうのは、給食だとなかなかできないから」
もう一口食べ。
フウカは少しだけ笑った。
「ちょっと新鮮」
「じゃあ、お互い結構違うんだな」
「そうみたいね」
知り合ってから、まだほんの少ししか経っていない。
それでも。
料理という共通の話題があるせいか、最初より会話はずっと滑らかになっていた。
その横で。
ジュリは先ほどから、二人の話を興味深そうに聞いている。
フウカが給食部での料理について話せば頷き。
翔が自炊の話をすれば、今度はそちらへ顔を向ける。
やがて。
少しだけ待ちきれなくなったように、身体を前へ乗り出した。
「私も料理は好きなんです!」
「ジュリも?」
「はい!」
話を振られたことが嬉しかったのか、ジュリの顔がぱっと明るくなる。
「私も給食部でお料理をしてるんですよ」
「じゃあ、二人とも同じ給食部なんだ」
「はい! フウカ先輩ほど上手ではありませんけど、私ももっと美味しい料理を作れるようになりたくて」
「ジュリは熱心なのよ」
フウカが言う。
「本当に料理は好きだし、練習もしてるし」
「フウカ先輩……!」
「ただし」
続いた一言に。
ジュリの表情が僅かに固まった。
「思いついたことを、すぐ試そうとする癖は直した方がいいわね」
「うっ……」
「思いついたこと?」
翔が聞く。
「その方がもっと美味しくなるかなって思うと、つい色々試してみたくなるんです」
「なるほど」
「それ自体は悪くないんだけどね」
フウカが小さく息を吐く。
「まず基本通りに作れるようになってからにしなさいって、何度も言ってるの」
「最近はちゃんと気をつけてます!」
「本当に?」
「本当です!」
ジュリは胸を張る。
その姿を見ながら、翔は小さく笑った。
少なくとも。
料理が好きだというのは間違いないらしい。
「じゃあ、今度何か作ったら食べさせてもらおうかな」
「本当ですか!?」
「翔」
なぜかフウカからすぐ声が飛んできた。
「何?」
「……いや」
一瞬だけ何か言いたげな顔をしてから。
「その時は、私も一緒にいる時にして」
「何で?」
「念のためよ」
「フウカ先輩!?」
ジュリの抗議する声に。
翔はまた笑った。
* * *
昼を少し過ぎると、ひだまりの静けさは一気に消えた。
入口のベルが鳴る。
一組。
続けて二人。
少し間を置いて、さらに数人。
「いらっしゃいませ!」
翔は客を席へ案内し、そのまま注文を取る。
「おすすめ二つ、サンド一つ。あとコーヒー一つ」
「了解」
厨房へ戻る。
「マスター、煮込み二つ」
「分かってる」
ニャン次郎はすでに皿を用意していた。
翔はスープをよそう。
サラダ。
パン。
注文票を見る。
「サンド先?」
「そっち先に出せ」
「了解」
またベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
「……急に来たな」
「昼時だからな」
「さっきまで静かだったのに」
料理を運び。
注文を取り。
また厨房へ戻る。
そんな二人の様子を、食事を終えたフウカは席からしばらく見ていた。
客席。
厨房。
注文票。
まだ片づいていない皿。
次に入ってきた客。
「…………」
「フウカ先輩?」
ジュリに呼ばれたフウカは、少しだけ眉を寄せた。
「……見てられない」
「え?」
椅子を引いて立ち上がる。
そのまま厨房の手前まで歩いてきた。
「翔」
「ん?」
「手伝えることある?」
「え?」
翔が振り返る。
「いや、フウカは客だろ?」
「分かってるわよ」
フウカは厨房の状況を見る。
「でも、このままだと注文が詰まるでしょ」
「まあ……」
「厨房には慣れてるから。盛り付けとか、補助くらいならできるわ」
ニャン次郎がフウカを見る。
「本当にいいのか?」
「ええ。ここまで見ちゃったら、座ってる方が気になる」
「なら助かる」
「マスター?」
「助かるのは事実だろ」
「それはそうだけど」
「エプロンはそこの棚だ」
「借ります」
フウカは手を丁寧に洗い、まとめていた髪が邪魔にならないことを確かめてから、貸し出されたエプロンを身につける。
その時だった。
「私もお手伝いします!」
客席からジュリが元気よく立ち上がった。
「…………」
フウカが止まる。
翔も止まった。
ニャン次郎だけが、なぜ二人が同時に黙ったのか分からないように首を傾げる。
「どうした?」
「いや」
翔はジュリを見る。
次にフウカ。
フウカも翔を見る。
ほんの一瞬。
妙な意思疎通が成立した。
「ジュリ」
「はい!」
フウカが慎重に口を開く。
「まずは、簡単なことからやりましょう」
「はい!」
「私か翔に言われたことだけやるのよ?」
「もちろんです!」
「……アレンジは?」
「しません!」
「よし」
フウカが頷く。
翔も心の中で同じことを祈った。
* * *
厨房へ入ったフウカの動きは、翔が想像していた以上だった。
「翔、そのサラダあと何皿?」
「三つ」
「じゃあ、私が二つ盛る。ドレッシングはお願い」
「了解」
「店主さん、煮込み二つ出せます?」
「すぐ出る」
「ジュリ、そのお皿をこっちに三枚お願い」
「はい!」
注文票。
鍋。
皿。
時計。
フウカの視線が次々と動いていく。
手元の作業をしながら、すでに次の作業を考えている。
一つ終わってから次へ移るのではない。
煮込みを待つ間に付け合わせを用意し、その途中で次の注文票へ目を通し、翔がサラダを仕上げる頃には次の皿が並んでいる。
「……速いな」
思わず翔が漏らした。
「これくらい普通よ」
「給食部の普通?」
「そうよ」
「本当に毎日どれだけ作ってるんだ……」
「だから大変だって言ったでしょ」
そう答えながらも、フウカの口元には僅かな余裕があった。
忙しい。
けれど、彼女にとっては慣れた種類の忙しさなのだろう。
「次、スープ二つ」
「了解」
「一つだけ胡椒少なめって書いてあるわ」
「ほんとだ」
小さな備考も見落としていない。
フウカが全体の流れを整える。
翔が一皿ずつ最後の仕上げをする。
ニャン次郎が主菜を出す。
短い時間のうちに、三人の動きが噛み合い始めた。
「……二人とも厨房に置いときたいな」
ニャン次郎がぼそりと言った。
「俺は元からいるだろ」
「フウカの方だ」
「私、給食部なんですけど?」
「残念だ」
「勝手に引き抜かないでください」
フウカが呆れたように返す。
「給食部の方が困るだろ」
翔が言うと。
「分かってるじゃない」
「さっき話聞いたからな」
「むしろ」
フウカは皿へ付け合わせを盛りながら、ちらりと翔を見る。
「こっちとしては、翔の方を給食部に欲しいくらいだけど」
「俺?」
「料理できるし、言ったこともすぐ分かるし。厨房に入っても周りを見ながら動けてる」
「急に評価高くない?」
「即戦力は貴重なのよ」
さらりと言ってから。
フウカの声へ少しだけ実感が混じった。
「本当に」
「……そこだけ妙に重いな」
「人手は多ければ多いほど助かるの」
「切実なんだな、給食部」
「切実よ」
迷いなく返ってきた。
「だから引き抜くなら、こっちが先ね」
「本人の意思は?」
「そこは今から説得するわ」
「しないでくれ」
横からニャン次郎が口を挟んだ。
「翔はうちの従業員だ」
「そっちこそ囲い込まないでください」
「給料は出してる」
「そういう話じゃないです!」
「俺の意思は?」
翔が改めて聞く。
ニャン次郎とフウカが同時にこちらを見る。
「…………」
「…………」
「何で二人とも黙るんだよ」
翔が言うと。
フウカが堪えきれずに小さく笑った。
「冗談よ」
「半分くらい?」
「……半分くらいは本気かも」
「半分もあるのか」
「だって、そのくらい人手が欲しいもの」
「説得力あるな……」
「どうだ? うちの方が楽だぞ」
ニャン次郎が言う。
「そこで張り合わないでください!」
「マスターも乗るなよ」
忙しい厨房の中。
ほんの数秒だけ。
三人の間に笑いが生まれた。
* * *
一方。
ジュリには、翔が一つのボウルを渡していた。
「ジュリ。これお願いしていい?」
「はい!」
「サラダ用のドレッシング」
ジュリの表情が一気に明るくなった。
「お任せください!」
「待って。まず説明聞いて」
「はい!」
翔は材料を一つずつ並べる。
「最初に酢へ塩を入れて、ちゃんと溶かす」
「はい」
「そのあと粒マスタード。蜂蜜はこの量だけ」
「このくらいですね」
「そう。それから油は一気に入れないで、混ぜながら少しずつ足す」
泡立て器を渡す。
「分量は全部ここに書いてあるから」
「分かりました!」
翔は念を押す。
「本当に、その通りで」
「もちろんです!」
少し離れたところからフウカの声が飛んできた。
「ジュリ」
「はい!」
「余計なものは?」
「入れません!」
「よし」
ジュリは真剣な顔で作業を始める。
まず酢へ塩。
きちんと混ぜて溶かす。
粒マスタード。
蜂蜜。
量を何度も確認してから加える。
最後に油。
一度に流し込まず、少し入れては混ぜ、また少し加える。
「…………」
翔は横目で確認した。
今のところ。
何も起きない。
ボウルの中には、ごく普通のドレッシングがあるだけだ。
「翔さん?」
「ん?」
「さっきから見てませんか?」
「いや」
「何か間違ってます?」
「大丈夫。続けて」
「はい!」
数分後。
「できました!」
ジュリがボウルを差し出す。
「どれ」
翔が小さなスプーンへ取った。
一口。
「…………」
止まる。
ジュリの顔へ緊張が走った。
「どうですか……?」
「いや」
もう一口。
酸味。
粒マスタードの香り。
蜂蜜の薄い甘み。
油もきちんと馴染んでいる。
「普通に美味しい」
「本当ですか!?」
ジュリの顔がぱっと明るくなった。
その声を聞いたフウカが勢いよく振り返る。
「翔、本当?」
「うん」
「ちょっと貸して」
フウカも味を見る。
「…………」
一瞬。
目を見開いた。
「ジュリ」
「は、はい!」
「美味しい」
「……!」
「ちゃんとまとまってる」
「本当ですか、フウカ先輩!?」
「ええ」
「やりました!」
ジュリは両手を胸の前で握り、本当に嬉しそうに笑った。
その顔を見て。
翔は少しだけ考える。
料理が上手くいかない。
失敗する。
だからといって、ジュリが料理を嫌いなわけではない。
むしろ。
美味しいものを作りたい。
食べてもらいたい。
上手になりたい。
その気持ちは、きっと本物なのだろう。
「じゃあ!」
ジュリが勢いよく顔を上げた。
「ここから、もっと美味しくするために――」
「待って」
「待ちなさい」
翔とフウカの声が綺麗に重なった。
「え?」
「そのままでいい」
翔が言う。
「でも、もう少し工夫したら――」
「そのままが美味しいの」
フウカが続ける。
「触らなくていいわ」
「でも……」
「ジュリ」
「…………はい」
しゅん、と肩が下がる。
さすがに少し可哀想になり、翔は付け加えた。
「でも、今のは本当に美味しかったよ」
「……本当ですか?」
「うん」
「じゃあ、次も頑張ります!」
「その調子」
ジュリはすぐに笑顔を取り戻した。
フウカだけは。
なぜか少し不安そうな顔をしていた。
* * *
問題が起きたのは、それから十数分後だった。
「翔」
「ん?」
ニャン次郎に呼ばれ、振り返る。
「これ何だ?」
カウンターの端。
そこに、小さなボウルが置かれていた。
「…………」
中には、淡い色の液体。
いや。
液体だったはずのものが。
ぷく。
と膨らんだ。
「…………」
もう一度。
ぷく。
表面が呼吸するように上下する。
翔はジュリを見る。
ジュリもボウルを見る。
次に。
フウカ。
彼女はすでに片手で額を押さえていた。
「ジュリ……」
「ちょ、ちょっとだけなんです!」
「何を入れたの?」
「さっきのドレッシングが上手くできたので、次はもっと香りを良くできないかなって……」
「アレンジしないって言ったわよね!?」
「ご、ごめんなさい!」
ぷく。
また膨らむ。
翔は僅かに距離を取った。
「……何で材料混ぜただけで動くんだ?」
「私が聞きたいわよ!」
「すみません……」
ところが。
一人だけ反応が違った。
「ほう……」
ニャン次郎だった。
目つきが変わっている。
先ほどまで料理をしていた店主の顔ではない。
未知の現象を前にした、研究者のそれ。
「マスター」
「いや待て、翔」
ニャン次郎がボウルへ顔を近づける。
「投入された材料量から考えて、この体積増加は明らかに不自然だ。発酵にしては反応も早すぎる。温度条件も――」
「マスター」
「何だ?」
「分析しなくていいから止めて」
「だが興味深いぞ」
「店の厨房で研究始めないで」
「少しだけサンプルを――」
「取らなくていい!」
フウカまで声を上げる。
「お願いですから普通に処分してください!」
「……仕方ない」
心底惜しそうに。
ニャン次郎が言った。
「すみません……」
ジュリがすっかり落ち込んでいる。
「まあ」
翔は少し考えた。
「最初に作った方は美味しかったんだし」
「……はい」
「次は、成功したらそこで止める方向で」
「はい……」
「本当にね」
フウカが念を押す。
「はい、フウカ先輩……」
* * *
昼の混雑がようやく落ち着き始めた頃。
また入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
翔が顔を上げる。
先頭で店へ入ってきた少女が、店内を見回しながら上品に微笑んだ。
「まあ。今日も良い香りがしますわね」
「また来たんだ」
「もちろんですわ」
黒舘ハルナ。
その後ろから。
鰐渕アカリ。
獅子堂イズミ。
赤司ジュンコ。
美食研究会の四人が揃って入ってくる。
「前に食べた料理、美味しかったからね」
ジュンコが言う。
「今日はしっかりお腹を空かせてきましたよ~」
アカリは柔らかな笑顔。
「今日は何と何を組み合わせようかな?」
イズミは、すでにメニューへ視線を向けていた。
「普通に食べるという選択肢を持ってくれ」
翔が返す。
その時。
厨房からフウカが出てきた。
「…………」
止まった。
美食研究会も気づく。
「…………」
数秒。
「なんであんた達がいるのよ!?」
フウカの声が店内へ響いた。
「まあ」
ハルナは少しも動じない。
「フウカさん。奇遇ですわね」
「奇遇じゃない!」
「フウカさんもこちらのお店へ?」
アカリが笑顔で尋ねる。
「最初は客だったのよ!」
「最初は?」
ジュンコが引っかかる。
「何かあったの?」
「色々あったの!」
フウカは額へ手を当てる。
ハルナは店内を見渡した。
「わたくしたちは、ただ美味しいものをいただきに伺っただけですわ」
「本当に?」
「ええ」
「本当に、本当に?」
「もちろんです」
ハルナは胸へ手を添える。
「少なくとも、本日は」
「最後の一言で全部不安になったんだけど!?」
「フウカ、疑いすぎじゃない?」
ジュンコが呆れる。
「誰のせいだと思ってるのよ!」
「それについては反論できないかも……」
ジュンコが視線を逸らした。
イズミはすでに翔の持つメニューを覗いている。
「チョコソースある?」
「ない」
「辛いソースは?」
「あるけど、何に使うつもり?」
「まだ考えてないよ」
「なら渡さない」
「えー」
そこへ。
「ハルナさん!」
ジュリが厨房から顔を出した。
「あら、ジュリさん」
ハルナが微笑む。
「ジュリさんもいらしたのですね」
「はい! 今日はフウカ先輩と一緒に――」
「ジュリ」
「はい?」
「そこから説明すると長くなるから、今はいいわ」
「そうですか?」
翔は、これ以上入口で話していると店が止まると思い。
「とりあえず座る?」
「ええ」
ハルナが素直に頷いた。
美食研究会が席へ向かう。
その背中へ。
「今日は絶対何も壊さないでよ!」
フウカが念を押した。
「失礼ですわね」
ハルナが振り返る。
「美味しい料理を提供する店を、理由もなく破壊するなどあり得ませんわ」
「理由があったらやるみたいに聞こえるんだけど」
「フウカ、その解釈は多分合ってると思う」
「ジュンコ!」
「私に怒らないでよ!」
アカリがくすくす笑う。
翔もつい笑ってしまった。
* * *
しばらくして。
美食研究会の前にも料理が並んだ。
「本日はこちらですのね」
ハルナがトマト煮込みを見る。
「鶏もも肉と根菜。朝から煮込んでる。パンと、玉ねぎとキャベツのスープ。サラダ付き」
「なるほど」
ハルナはまず煮込みへフォークを入れた。
柔らかくほどけた鶏肉を、少量のソースと一緒に口へ運ぶ。
「…………」
ゆっくり味わう。
「やはり」
満足そうに目を細めた。
「良いですわね」
ニャン次郎がカウンターの奥から視線を向ける。
「そりゃどうも」
「濃厚ではありますが、トマトの酸味が残っているので重たすぎません。それに、野菜ごとに食感が違うのも良いですわ」
「マスター、褒められてる」
「聞こえてる」
「嬉しい?」
「仕事しろ」
「はいはい」
アカリはすでにパンを一つ食べ終えていた。
「おかわりできますか~?」
「早くない?」
ジュンコが驚く。
「一皿目、まだ始まったばっかりじゃない!」
「美味しい時に食べないともったいないですよ?」
「そういう問題?」
イズミはスープへパンを浸している。
「これに辛いソース入れたら美味しいかも」
「普通に飲みなさいよ!」
「普通に飲んでから入れるよ?」
「そういう意味じゃない!」
フウカが厨房の入口で頭を押さえる。
「相変わらずね、あんた達……」
その横で。
ジュリは、先ほど自分で作ったドレッシングを見ていた。
もちろん。
余計なものを加える前の方だ。
「……フウカ先輩」
「何?」
「これ」
ジュリが少し遠慮がちにボウルを見る。
フウカも気づいた。
少し考える。
「……出してみる?」
「え?」
「最初に作った方よ」
「いいんですか?」
ジュリの声が明るくなる。
「余計なものを入れる前の方」
「はい!」
「絶対に間違えないで」
「大丈夫です!」
翔も頷く。
「俺も食べたけど、あれなら大丈夫」
小皿へサラダを取り分け。
ジュリのドレッシングを絡める。
それを美食研究会のテーブルへ運んだ。
「これもよかったら」
「こちらは?」
ハルナが尋ねる。
ジュリが緊張したように両手を胸の前で握った。
「ジュリが作った」
フウカが答えた。
「あら」
ハルナの目がジュリへ向く。
「ジュリさんが?」
「は、はい!」
ハルナは小さく一口取った。
「…………」
ジュリが完全に固まった。
「フウカ先輩……」
「私を見ないで」
「でも……」
「ハルナが食べてるんだから待ちなさい」
数秒。
ハルナがフォークを置く。
「悪くありませんわ」
「!」
ジュリの顔が上がる。
「酸味と油のバランスも取れていますし、粒マスタードの香りも強すぎません」
もう一口。
「何より、野菜そのものの味を邪魔していないのが良いですわね」
「本当ですか!?」
「ええ」
アカリも食べる。
「あら、美味しいですね~」
ジュンコも一口。
「……普通に美味しいじゃない」
「ありがとうございます!」
ジュリが嬉しそうに笑う。
フウカも、どこか自分のことのように嬉しそうだった。
「今日はちゃんと手順通りに作ったのよ」
「翔さんに教えてもらいました!」
「私は横から止めてただけだけどね」
「でもフウカ先輩も!」
二人が話している横で。
イズミはサラダを眺めた。
「これにチョコソース掛けたらもっと美味しそう」
「やめなさい!」
フウカの声が即座に飛んだ。
「どうして?」
「今、美味しいって話してたでしょ!」
「だからもっと美味しくしようと思って」
「その発想、今日もう一人見た!」
「え?」
ジュリが首を傾げる。
翔は思わず吹き出した。
「翔さん?」
「いや、ごめん」
「どうして笑ってるんですか?」
「何でもない」
ジュンコも意味を察したらしく、少し同情したようにフウカを見る。
「……フウカ、苦労してるのね」
「分かってくれる?」
「そこだけは」
「そこだけ!?」
店内へ笑い声が広がった。
* * *
昼のピークが完全に過ぎた頃。
フウカとジュリも、ようやく客席へ戻ることができた。
「疲れた……」
フウカが背もたれへ身体を預ける。
「結局かなり手伝わせちゃったな」
翔が冷たい水を置いた。
「悪い」
「今更よ」
フウカはグラスを受け取る。
「私が勝手に入ったんだし」
「放っておけなかった?」
「そうよ」
即答だった。
「注文が溜まってるの見たら気になるでしょ」
「完全に職業病だな」
「否定はしないわ」
それでも。
怒っているようには見えない。
むしろ、少し楽しそうですらあった。
ジュリは、自分で作ったドレッシングの掛かったサラダを食べている。
「美味しいです」
「自分で言うんだ」
「だって、ちゃんと美味しくできましたから!」
「それはそうだな」
「翔さんにも、ハルナさんたちにも褒めてもらえましたし!」
嬉しそうな笑顔。
翔も自然と笑った。
少し離れた席では。
「すみませ~ん。パン、もう一つお願いします」
アカリが手を上げる。
「まだ食べるの!?」
ジュンコが驚く。
「美味しいですよ?」
「私だって美味しいと思ってるけど!」
「ジュンコもデザート見る?」
イズミがメニューを見せる。
「……見るだけ」
「食べるんだ」
「別腹なの!」
「結局食べるのね」
フウカが呆れた声を出す。
ハルナは紅茶を飲みながら、そんな三人を特に止めるでもなく、静かに満足そうな顔をしていた。
「賑やかだな」
翔が小さく漏らした。
「そう?」
フウカが周囲を見る。
「私には、割といつも通りに見えるけど」
「ゲヘナのいつも通りって大変だな」
「今更気づいたの?」
「……確かに」
翔は笑った。
* * *
やがて。
フウカとジュリが帰る時間になった。
「今日はごちそうさまでした」
フウカがカウンター前へ立つ。
「結局、随分長居しちゃったわね」
「こっちは助かったから」
翔が答える。
「むしろありがたいくらい」
「それでも、食べた分は払うわよ」
フウカが財布を取り出す。
「お会計――」
「いらん」
ニャン次郎が即答した。
「……え?」
フウカの手が止まる。
「今日は客に厨房まで手伝わせたんだ」
ニャン次郎は当然のことのように言った。
「そこから飯代まで取ったら、さすがに俺が図太すぎる」
「でも、私が勝手に手伝っただけで――」
「それでも助かったのは事実だ」
「いや、でも……」
「今日はこっち持ち」
ニャン次郎は取り合わない。
「店主さん」
「そういうのは遠慮しなくていい」
フウカが困ったように眉を下げた。
隣からジュリが小さく声を出す。
「フウカ先輩」
「何?」
「こういう時は、素直に受け取った方がいいんじゃないでしょうか?」
「ジュリまで……」
「せっかくですし」
「…………」
少し迷ったあと。
フウカは財布をしまった。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「ああ」
「ありがとうございます!」
ジュリも嬉しそうに頭を下げた。
「それと」
ニャン次郎がカウンターの下へ手を伸ばす。
二つの紙袋を取り出した。
「これ持ってけ」
「え?」
「手伝ってくれた礼」
「まだあるの?」
「飯代は飯代。こっちは働いてくれた分」
紙袋の口から、焼き菓子の甘い香りが僅かに漂う。
中には、その日の朝に焼いた小ぶりのスコーンが数個。
それに、小瓶へ詰めた自家製のベリージャム。
「スコーンは明日の朝でも食える。ジャム付けて食え」
「そんな、ここまでしてもらわなくても……」
「余り物を押し付けてるわけじゃないぞ」
ニャン次郎が先回りして言った。
「まだ何も言ってないんだけど」
「顔に書いてある」
「…………」
「礼ってのは、自分がいらないもの渡してもしょうがないだろ」
フウカは少し驚いたようにニャン次郎を見た。
それから。
紙袋を両手で受け取る。
「……じゃあ、本当にありがたくいただきます」
「ああ」
「ありがとうございます、マスターさん!」
ジュリも紙袋を受け取り、嬉しそうに中を覗き込んだ。
「フウカ先輩、すごくいい匂いがします!」
「帰るまで開けないの」
「一個くらい……」
「駄目」
「はーい……」
ジュリが名残惜しそうに袋を閉じる。
「それじゃ」
フウカが翔へ目を向ける。
「今日はありがとう」
「こっちの台詞だよ」
「今度」
少し考えてから。
「機会があったら、給食部の方にも来れば?」
「いいの?」
「忙しくない時ならね」
「それ」
翔が少しだけ警戒したように目を細める。
「見学?」
「今のところは」
「今のところ?」
「人手不足だから」
「まだ勧誘する気あるのかよ」
「半分くらいはね」
「さっきから減ってないな、その半分」
フウカがくすりと笑った。
「冗談よ」
そして少し間を置き。
「……でも、手が空いてる時に手伝ってくれるなら、本当に助かるけど」
「結局本気じゃないか」
「だから人手が足りないの!」
「分かった分かった」
「翔さん!」
今度はジュリが一歩前へ出る。
「今度は一緒にお料理しましょう!」
「うん」
「次はもっと色々作りたいです!」
「…………」
「翔さん?」
「余計なアレンジなしなら」
「翔さん!?」
フウカが思わず吹き出した。
「その条件は必要ね」
「フウカ先輩まで!」
「だって事実でしょ」
「次は大丈夫です!」
「その自信が一番怖いのよ!」
二人のやり取りは、入口まで続いた。
「じゃあ、また」
「ええ」
「また来ますね!」
ベルが鳴り。
二人は店を出ていった。
* * *
それから少しして。
美食研究会も席を立った。
「本日も大変満足いたしました」
ハルナが丁寧に頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「そりゃどうも」
ニャン次郎が答える。
「また来る?」
翔が聞くと。
「当然ですわ」
ハルナは迷いなく微笑んだ。
「美味しいものがそこにある以上、再び訪れる理由としては十分ですもの」
「次はもっと食べますね~」
アカリ。
「今日も十分食べただろ」
「まだ入りましたよ?」
「どこに?」
翔は本気で疑問に思った。
「私は次、デザート絶対頼むから」
ジュンコ。
「今日も頼めばよかったのに」
「お腹いっぱいになってから気づいたの!」
「それ、普通に限界じゃない?」
「別腹なの!」
「チョコソースも置いておいてね」
イズミ。
「置かない」
「えー」
「普通に食べるなら歓迎する」
「普通にチョコソースを使うよ?」
「その普通が信用できないんだよ」
「ひどい!」
ジュンコが呆れたようにイズミを見る。
「翔の判断、正しいと思う」
「ジュンコまで!?」
最後まで騒がしい。
それでも。
「では」
ハルナが軽く頭を下げた。
「また伺いますわ」
「ああ。また」
ベルが鳴る。
四人の声が遠ざかる。
扉が閉じた。
すると。
ついさっきまで笑い声や食器の音で満ちていた店内が、急に静かになった。
「……すごかったな」
翔が呟く。
客席を見る。
空になった皿。
カップ。
籠に残った僅かなパン屑。
綺麗に食べ切られたサラダ。
忙しかった時間の名残が、そこかしこに残っている。
「疲れたか?」
ニャン次郎が尋ねた。
「ちょっと」
翔は一枚目の皿を手に取る。
「嫌だったか?」
「いや」
少し考え。
笑った。
「楽しかった」
「そうか」
ニャン次郎は、それ以上何も言わなかった。
翔は皿を重ねる。
そこで。
「マスター」
「何だ?」
「さっき渡してたスコーン」
「ん?」
「今日焼いたやつだろ」
「そうだが?」
「結構気に入ってたじゃん」
朝。
味見をしながら。
今回は上手く焼けた。
そう珍しく満足そうにしていたのを覚えている。
「だから何だ?」
「いや。適当に余ったやつ渡すのかと思ってた」
「言っただろ」
ニャン次郎は洗い場へ運ばれた皿を受け取る。
「礼ってのは、自分がいらないもん渡しても意味ない」
「……なるほど」
「何だ、その顔」
「マスターらしいなと思って」
「余計なこと言ってないで皿運べ」
「はいはい」
翔は次のテーブルへ向かう。
皿を重ね。
空になったカップを回収する。
窓から差していた陽射しは、いつの間にか少し傾いていた。
「翔」
「ん?」
「明日のスープどうする?」
「もう明日の話?」
「仕込みは今日からだ」
「それもそうか」
翔は冷蔵庫の中身を思い浮かべる。
「じゃがいも残ってたよな」
「ああ」
「ポタージュとか?」
「牛乳の在庫は?」
「朝の時点で二本」
「足りんな」
「買い足す?」
「頼む」
「了解」
何でもない会話。
明日の仕込み。
足りない材料。
洗わなければならない食器。
今日初めて知り合った相手がいて。
次は給食部へ来いと、半分冗談で誘われて。
また来ると言って帰っていった客がいて。
その人たちが使っていた皿を、今は自分が片付けている。
水の流れる音。
食器の触れ合う小さな音。
まだ微かに残っている、トマト煮込みと焼き菓子の匂い。
「マスター、そっち洗ったら拭くよ」
「ああ」
翔は袖を少し捲り直す。
そして、いつものように。
ひだまりの一日を片付け始めた。