青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
第13話 模造された脅威
朝のゲヘナは、思っていたより静かだ。
少なくとも、日が昇って間もない時間だけは。
昼になれば銃声の一つや二つは珍しくもなく、どこかで爆発音が響けば「ああ、またか」と流されるような場所でも、早朝まで好き好んで騒ぎを起こす者はそう多くないらしい。
まだ人通りの少ない通りを、翔は一定の速さで走っていた。
息を吸う。
吐く。
速く走ることは意識しない。
足を前へ出し、着地した時に身体がぶれないことを優先する。
しばらく走って角を曲がり、緩やかな上り坂へ入ったところで、翔は自然と歩幅を少し狭めた。
以前なら、そのまま同じ勢いで駆け上がろうとしていたかもしれない。
今は違う。
身体の状態に合わせる。
無理に出力を上げない。
それもまた、乙花スミレから教わったことの一つだった。
「……ふっ」
呼吸を整えながら坂を上りきり、そこで走る速度を落とした。
朝の空気はまだ少し冷たい。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、翔は軽く肩を回す。
右。
左。
以前傷めた側も、今ではほとんど違和感は残っていない。
完全に治った、と勝手に判断する気はなかったが、少なくとも日常生活で庇うことはなくなっていた。
――身体は鍛えている時間だけで強くなるわけではありません。
あの日、スミレに言われた言葉が頭に残っている。
無理をして一日多く動くより、そのせいで三日動けなくなる方が困る。
当たり前といえば当たり前なのだが、何かあれば先に身体が動いてしまう翔には、意識しておかなければ忘れそうになる話だった。
「……帰るか」
まだ店を開けるまでには余裕がある。
ひだまりへ戻ったら軽くストレッチをして、シャワーを浴びて、それから朝の仕込みを手伝う。
そんなことを考えながら、翔は再びゆっくりと走り始めた。
* * *
「翔、そっちの玉ねぎ追加」
「はいよ」
昼前。
喫茶店「ひだまり」の厨房では、鍋から立ち上る湯気と、包丁がまな板を叩く軽い音が続いていた。
翔は薄く切った玉ねぎをボウルへ移し、そのままニャン次郎の横へ置く。
黒猫の店主――翔が「マスター」と呼ぶニャン次郎は、鍋の中を木べらで混ぜながら一度だけ中身を確認した。
「もうちょいだな」
「塩?」
「まだ。先に水分飛ばす」
「了解」
もう説明されなくても、大体何をしようとしているかは分かるようになってきた。
最初から料理そのものはできた。
だが家庭料理と、店で客に出す料理は同じではない。
味だけではなく、仕込みの量、提供する順番、保存、原価、客の回転まで考える必要がある。
その辺りは、ここへ来てから覚えたことの方が多かった。
「そういや、牛乳が思ったより減ってるな」
棚の在庫を確認していたニャン次郎が言った。
「昨日ポタージュ出たからじゃない?」
「だな。悪い、昼の波が来る前に買ってきてもらえるか」
「分かった。他にいるものある?」
「牛乳二本。あと卵。ついでに店先の紙ナプキンも残り少ないから、安けりゃ一袋」
「了解」
翔はメモを取り、エプロンを外した。
こういう小さな買い出しも、今ではすっかり日常の一部になっている。
財布と店の買い物袋を持って裏口から外へ出ると、昼へ向かって街の音は徐々に大きくなり始めていた。
通学中なのか、制服姿の生徒たちが何人か通り過ぎていく。
少し離れた道路では大型車両がクラクションを鳴らし、そのさらに向こうでは何かが破裂したような音が聞こえた。
翔は一度だけそちらを見た。
周囲の誰も反応していない。
「……普通のやつか」
普通の爆発音という言葉が自然に出るようになってしまった自分に、ほんの少しだけ複雑なものを覚える。
それでも足を止める理由はなかった。
その時までは。
* * *
「どけぇっ!」
怒鳴り声と同時に、金属製の看板が宙を舞った。
「っ!」
翔は反射的に足を止めた。
大通りから一本外れた商店街。
数十メートル先で、何かが店先へ叩きつけられる。
甲高い破砕音。
窓ガラスが割れ、悲鳴が重なった。
買い物袋を持ったまま、翔は駆け出していた。
近づくにつれ、状況が見えてくる。
通りの中央に、一人の男が立っていた。
獣人の成人男性。
だが、明らかに普通ではない。
右腕だけが異様に膨れ上がっている。
肩から先を覆う暗灰色の硬質な皮膚。肘の辺りから棘のような突起が何本も伸び、指先は人の手というより、太い鉤爪に近い形へ変形していた。
それ以外の部分は元の姿を残している。
T-REXドーパントのように全身が別物へ変貌しているわけではない。
「何だ、あれ……」
翔は足を止めなかった。
男の近くで、一人の店員が倒れている。
さらに、崩れた商品棚の脇で小さなロボット市民が身動きを取れなくなっていた。
「くそっ……!」
異形の腕を持つ男が頭を抱える。
「聞いてねえ……こんなの……聞いてねえぞ……!」
叫びながら腕を振るった。
道路脇に停められていた小型車両が横から殴りつけられ、タイヤを浮かせながら数メートル滑っていく。
明らかな怪力。
だが、狙って壊しているようには見えない。
男自身も、自分の腕に振り回されている。
翔の視線が、男の左手へ移った。
握られているものがあった。
細長い、小型の器具。
「……メモリ?」
思わず声が漏れた。
形は似ている。
ガイアメモリを知っていれば、真似て作ったものだと一目で分かる程度には。
だが、違う。
ジョーカーメモリとは明らかに造りが違う。
透明部分はなく、外装は安っぽい合成樹脂にも見える。中央にあるはずの意匠も曖昧で、何を模したものなのかすら分からない。
何より。
あれは、翔が知っているガイアメモリの雰囲気とは違った。
「助け……っ!」
倒れていた店員が呻く。
翔は考えるより先にそちらへ走った。
「大丈夫ですか!」
「う……腕が……」
出血は多くない。
瓦礫が腕に乗っている。
翔は買い物袋を放り出し、倒れた陳列棚へ手を掛けた。
「今どかします。動けそうなら、外へ」
重い。
だが以前より、身体の使い方が分かる。
腰を落とす。
腕だけで持ち上げようとしない。
脚で支える。
「っ……!」
棚を僅かに浮かせ、店員が腕を引き抜く。
「行けます?」
「な、なんとか……」
「通りの向こうまで離れて!」
店員が走り出すのを確認する。
次に、倒れているロボット市民。
「待ってろ、今――」
背後で地面が砕けた。
翔は咄嗟に横へ跳ぶ。
直後、さっきまでいた場所へ巨大な拳が落ちた。
「邪魔……すんな……!」
男は苦しそうに顔を歪めていた。
目は充血し、額には大量の汗が浮かんでいる。
翔を狙ったというより、目の前のものへ無差別に腕を振り下ろしただけに見える。
「……これも、暴走してるのか」
T-REXの時とは違う。
でも。
似ている。
力を得た本人が、その力に振り回されている。
翔は周囲を見た。
まだ逃げ切れていない人がいる。
ここで変身すれば、当然見られる。
だが。
「そんなこと言ってる場合じゃないよな」
倒れているロボット市民の身体を引きずり、近くの壁際まで運ぶ。
「立てる?」
『脚部駆動系……損傷……』
「じゃあ、ここにいて。すぐ何とかする」
翔は立ち上がると、路地の角へ走った。
建物の陰。
周囲から直接見えない位置へ入ったところで、服の下へ隠していたものへ手を伸ばす。
黒いドライバー。
腰へ。
ベルトが展開する。
次に取り出すのは、一本のメモリ。
手の中に収まったそれを見ても、もう最初の時のような戸惑いはなかった。
それでも。
使うたびに思う。
これは、自分が好き勝手に振るっていいものではない。
翔はメモリのスイッチを押した。
《JOKER!》
「変身」
メモリをロストドライバーへ挿入。
展開。
黒い装甲が、翔の身体を包み込んだ。
* * *
「ぐ、あぁぁっ!」
男が腕を振り回す。
爪が建物の壁へ食い込み、外壁の一部が大きく抉れた。
次の瞬間。
何かが横から飛び込んだ。
「っ!?」
黒。
赤い複眼。
紫の意匠。
男が反応するより先に、ジョーカーはその異形化した右腕を両手で押さえた。
「止まれ!」
「なんだ、お前……!」
「話は後だ!」
力が強い。
正面から押さえ込もうとすると、靴底が路面を滑る。
翔は奥歯を噛んだ。
以前なら、ここでさらに力を込めて真っ向から押し返そうとしていただろう。
だが。
――力比べする必要ない。
右足を半歩引く。
相手が押してくる力を真正面から受けない。
身体を捻る。
そのまま腕を外側へ流した。
「うおっ!?」
男の身体が前へ泳ぐ。
翔は追撃しようとして。
止めた。
踏み込んだ足を戻す。
姿勢を整える。
相手との距離を取る。
「……よし」
小さく呟く。
初めてジョーカーになった時。
見えているのに身体がついてこなかった。
動けば動くほど、自分の勢いに振り回された。
今だって完璧ではない。
だが、少なくとも。
動いた後に、自分で止まれる。
「お前……あの黒い奴……!」
男が荒い呼吸の合間に言った。
「知ってるのか」
「映像で……!」
「そりゃ、あれだけ撮られてたらな……」
自分でも見た。
画質の悪い映像。
街灯へ突っ込んでいるところまで残っていた。
できれば忘れてほしい。
「そんなことより、その手に持ってるやつを離せ!」
「これを……?」
男が左手を見る。
握られた黒い器具。
「ふざけんな……! これがなきゃ……金が……!」
「金?」
「一回使うだけでいいって言ったんだ……! 簡単な試験だって……!」
翔の目が細くなる。
「誰に言われた」
「知らねえよ! 会社の奴だ! 身体に害なんかないって……!」
異形の右腕が痙攣する。
「なのに……止まらねえんだよ!」
男が叫んだ。
その瞬間。
右腕が本人の意思とは関係なく跳ね上がる。
「っ!」
翔は前へ出た。
爪が振り下ろされる。
避ける。
そのまま懐へ。
一歩。
止まる。
拳。
脇腹へ。
「ぐっ!」
男がよろめく。
追いすぎない。
翔は異形化した腕ではなく、左手にある器具を見ていた。
T-REXの時。
ガイアメモリを破壊すれば、変身者は元へ戻った。
なら。
これも同じ仕組みなら。
「……やってみるしかないか」
男が再び突進してくる。
大振り。
怪力はある。
だが、身体全体の動きは普通の人間に近い。
右腕だけが異常に重いせいで、踏み込むたびに姿勢が崩れている。
翔は男の拳を紙一重でかわした。
風圧が頬を掠める。
すぐに反撃しない。
男の身体が流れる。
止まりきれない。
そこで。
「そこ!」
翔は男の左手首を掴んだ。
「離せっ!」
「そっちが離せ!」
左手を開かせる。
黒い器具が宙へ飛んだ。
だが。
右腕の変化が消えない。
「……駄目か!」
「があぁぁっ!」
男が振り向きざまに腕を薙ぐ。
翔は両腕で受ける。
「っ……!」
衝撃。
身体が横へ飛ばされる。
だが。
着地。
右足。
左足。
膝を曲げる。
以前のように勢いのまま転がらない。
数歩下がったところで、止まった。
「……効くな、やっぱり」
装甲がある。
壊れたわけでもない。
それでも殴られれば痛い。
そこは何も変わらない。
翔は顔を上げる。
地面へ落ちた器具を見る。
まだ微かに点滅している。
男の腕も変わったまま。
なら。
ただ手放せば終わる仕組みではない。
「……壊す」
翔が走る。
男も追いかけようとする。
だが、翔は相手へ向かわない。
地面。
落ちた器具。
踏み込む。
拳を引く。
力任せに殴る必要はない。
狙う。
小さな筐体の中心。
「はっ!」
拳が叩き込まれた。
黒い器具が砕ける。
電子音とも悲鳴ともつかない歪んだ音が一瞬だけ響き、内部から小さな火花が散った。
「ぐ……ぁ……!」
男が膝をつく。
右腕を覆っていた硬質な皮膚が、砂のような粒子となって崩れ始める。
棘。
鉤爪。
膨れ上がった筋肉。
その全てが消えていき。
最後に残ったのは。
傷だらけの、普通の右腕だった。
「戻った……」
翔は息を吐いた。
成功した。
だが。
「……っ、熱……!」
男が右腕を押さえる。
皮膚は赤く腫れ、所々に火傷にも似た損傷が見える。
「おい、大丈夫か!」
「腕……痛ぇ……!」
翔が駆け寄る。
意識はある。
呼吸もしている。
少なくとも、T-REXの変身者ほど酷い状態には見えない。
だが安全とも言えない。
「救護を――」
「その必要はない!」
鋭い声。
翔が顔を上げる。
通りの向こう。
複数の武装した生徒が展開していた。
ゲヘナ風紀委員会。
先頭へ出てきた少女を、翔は覚えている。
銀髪。
角。
鋭い眼差し。
銀鏡イオリ。
その少し後ろから、橙がかった茶髪の少女が医療鞄を手に走ってくる。
火宮チナツ。
「患者を確認します!」
チナツは翔へ警戒するより先に、倒れている男のそばへ膝をついた。
「聞こえますか? 無理に動かないでください」
「……ああ……」
「右腕に熱傷。意識は清明……」
手早く状態を確認していく。
翔は一歩下がった。
救護に関しては、自分より任せた方がいい。
そのまま去ろうとして。
「待て」
止められた。
イオリだった。
「…………」
「また黙って帰る気か?」
銃口は向けられていない。
だが、逃がす気もない。
「いや……」
「前にも言ったよな」
イオリは真っ直ぐ翔を見る。
「次に会った時は、ちゃんと話してもらうって」
覚えている。
T-REXとの戦いの後。
去ろうとした自分へ投げられた言葉。
翔自身、
『……覚えとく』
と返した。
まさか、こんなに早く回収されるとは思っていなかったが。
「覚えてる」
「なら話せ」
「何を?」
「全部」
「範囲広すぎない?」
「じゃあまず、お前は何者なんだ」
当然の質問。
翔は答えに詰まった。
名前を言うだけなら簡単だ。
でも、そうすれば。
ひだまり。
マスター。
キララ。
エリカ。
今の自分の生活へ繋がる。
まだ。
そこまで全部を晒す覚悟はなかった。
「……今は言えない」
イオリの眉が動いた。
「は?」
「でも」
翔は続ける。
「風紀委員会と敵対するつもりはない」
「それを信用しろって?」
「簡単じゃないのは分かってる」
「だったら――」
「それと」
翔は地面に散らばる黒い破片へ視線を落とした。
「俺も、あれを調べたい」
イオリも破片を見る。
「……あれ?」
「さっきあいつが使ってたやつ」
「何か知ってるのか?」
「少しだけ」
嘘ではない。
むしろ。
分からないことの方が多い。
「前に出た怪物と、似た力だと思う」
T-REX。
あれは本物のガイアメモリだった。
今のものは似ている。
だが同じではない。
「ただ……同じものじゃない」
「何で分かる」
「それは……」
答えに迷う。
仮面ライダーWを知っている。
ジョーカーメモリを持っている。
マスターから聞いたこともある。
全部を話せば説明できる。
でも今は。
「見れば分かる、としか言えない」
「お前なぁ……」
イオリのこめかみがぴくりと動いた。
「協力したいのか、したくないのか、どっちなんだよ」
「……協力はしたい」
翔は素直に答えた。
「でも、まだ全部話すのは無理だ」
「都合良すぎるだろ」
「それも分かってる」
言い返せない。
イオリの言っていることは正しい。
自分だけ情報を隠しながら協力したいと言っても、相手からすれば信用できない。
それでも。
今すぐ全部を明かすこともできなかった。
「……怪我人は」
翔はチナツの方を見る。
「命に関わる状態ではなさそうです」
処置を続けながら、チナツが答える。
「ですが、右腕の損傷が妙です。単純な打撲や火傷とは少し違います」
「……やっぱり」
「やっぱり?」
チナツが顔を上げる。
「あ、いや」
翔は言葉を止めた。
T-REXの時も。
メモリを直接使った身体には損傷が残っていた。
ただ今回のものは、本物ですらない。
なのに似た被害が出ている。
「その破片」
翔はイオリへ言った。
「捨てないで調べた方がいい」
「言われなくてもそのつもりだ」
「あと、本人に誰から受け取ったか聞いてくれ。会社の奴に試験だって言われたらしい」
イオリの表情が変わった。
「会社?」
「詳しくは聞けてない」
「……分かった」
イオリは短く答えた。
それから。
「でも、お前の話はまだ終わってないからな」
「…………」
「次も『今は言えない』で済むと思うなよ」
翔は困ったように頭を掻こうとして、今は装甲を纏っていることを思い出して手を下ろした。
「……努力する」
「何を努力するんだよ」
「話せるように?」
「疑問形で言うな!」
チナツが一瞬だけ二人を見る。
「イオリさん。今は周辺の安全確認と患者の搬送が先です」
「……分かってる」
イオリは息を吐いた。
翔へもう一度鋭い視線を向ける。
「今日は行け」
「いいの?」
「こっちは怪我人もいる。お前一人追いかけ回してる暇ないんだよ」
「助かる」
「次は逃がさないからな」
「……覚えとく」
「それ前も聞いた!」
翔は少しだけ笑った。
背を向ける。
その時。
「待ってください」
チナツの声。
振り返る。
「あなたも、先ほど攻撃を受けていましたよね」
「え?」
「かなり強く飛ばされていました」
見られていたらしい。
「大丈夫。これくらいなら」
「そういう自己判断が一番困るんですが」
「…………」
何となく。
スミレに似たことを言われた気がする。
「痛みや違和感が出たら、必ず診察を受けてください」
「……分かった」
今度は素直に答えた。
そして。
ジョーカーは風紀委員会が現場を封鎖し始める中、通りの向こうへ姿を消した。
* * *
人気のない路地まで移動してから、翔は変身を解除した。
装甲が消える。
「……ふう」
右腕を回す。
少し重い。
でも動く。
「帰ったら冷やすか」
チナツの言葉もある。
無理はしない方がいい。
そこで翔は思い出した。
「あ」
路地を飛び出す。
事件現場へ戻るわけにはいかないので、大回りして商店街の反対側へ。
案の定。
騒ぎが起きた場所は風紀委員会によって封鎖されていた。
「…………」
翔は遠目に見る。
道路脇。
倒れた買い物袋。
転がる牛乳。
割れた卵。
「……マジか」
紙ナプキンだけは無事そうだった。
* * *
「遅かったな」
ひだまりへ戻ると、ニャン次郎がカウンター越しに時計を見た。
「ごめん」
「牛乳は?」
「……買い直してきた」
「卵」
「買い直した」
「ナプキン」
「これは最初に買ったやつが無事だった」
「何があった」
「ちょっと」
「翔」
「……事件」
ニャン次郎が目を細めた。
翔は買い物袋を厨房へ置く。
「怪我は」
「少し殴られた」
「どこ」
「腕。たぶん大丈夫」
「たぶんは禁止だ」
「今日それ、二人目」
「誰に言われた」
「風紀委員の救護の人」
「なら三人目に言わせる前に見せろ」
「三人目はマスターじゃないの?」
「細かいことはいい」
翔は苦笑しながら袖を捲った。
ニャン次郎が状態を確認する。
軽い打撲。
大きな腫れはない。
「冷やしとけ」
「うん」
「で」
ニャン次郎の声が少し低くなる。
「何が出た」
翔は一瞬黙った。
「……メモリみたいなもの」
黒猫の耳が僅かに動く。
「みたいな?」
「本物とは違った」
翔は見たものを説明した。
ガイアメモリに似た外見。
片腕だけの異形化。
異常な怪力。
制御できない使用者。
会社の人間から「安全な試験」と説明され、報酬を提示されていたこと。
そして。
器具を破壊したことで、変化が解除されたこと。
ニャン次郎は途中で口を挟まなかった。
最後まで聞き。
「……そうか」
短く言った。
「マスター」
「ん?」
「カイザーだと思う?」
答えはすぐには返ってこなかった。
「可能性はある」
「やっぱり」
「ただし、決めつけるな」
ニャン次郎は静かに言った。
「似たものを作ろうとしてる奴が、他にいないとは限らない」
「……うん」
「実物は?」
「風紀委員会が回収した」
「なら今はそれでいい」
「見なくていいの?」
「見られるなら見たい」
あっさり言った。
「でも、無理して盗んでこいとは言わん」
「それはしないよ」
「ならいい」
ニャン次郎は冷蔵庫から保冷剤を取り出し、布で包んで翔へ渡した。
「当てとけ」
「ありがと」
翔は椅子へ座る。
保冷剤を腕へ当てる。
冷たい。
少しだけ痛みが和らぐ。
視線を落とす。
今日の敵。
T-REXとは違った。
明らかに弱かった。
ジョーカーで戦えば、対応できる相手だった。
それでも。
あの男は苦しんでいた。
安全だと言われた。
金がもらえると言われた。
そして、あの力を使った。
――もし。
ああいうものが。
一つだけじゃなかったら。
「……マスター」
「何だ」
「これ、増えると思う?」
ニャン次郎は少し考える。
「分からん」
「そっか」
「ただ」
鍋へ戻りながら、ニャン次郎は続けた。
「誰かが一個作ったなら、二個目を作らない理由もない」
「…………」
翔は保冷剤を握り直した。
ジョーカーメモリ。
ロストドライバー。
そして今日見た。
ガイアメモリによく似た、偽物。
T-REXとの戦いで終わったわけではない。
むしろ。
あれが始まりだったのかもしれない。
「翔」
「ん?」
「考えるのはいいが、昼の客は待ってくれんぞ」
厨房から声が飛んでくる。
翔は時計を見る。
「あ」
「腕冷やしたら手ぇ洗って戻れ。もう二組来てる」
「分かった!」
立ち上がる。
考えなければならないことは増えた。
それでも。
今、自分がやるべきこともある。
翔は保冷剤を冷凍庫へ戻し、手を洗った。
「いらっしゃいませ」
店内へ戻る。
いつもの昼が始まる。
その一方で。
翔の知らない場所では。
* * *
「試験個体、回収失敗」
無機質な報告が室内へ響く。
並んだモニター。
映し出されているのは、商店街で暴れた男の記録。
右腕の異形化。
出力。
持続時間。
身体への負荷。
そして。
黒い戦士。
ジョーカーが人工メモリを破壊する瞬間で映像が停止した。
「稼働時間は?」
「想定値の七十四パーセントです」
「短いな」
「神経系への負荷が予定より大きく、被験者の制御が先に失われました」
「では次は制限を強めろ」
「出力が低下しますが」
「構わん」
淡々と。
まるで人間の身体を扱っているとは思えない会話。
「本物と同じものを作る必要はない」
画面を見ていた男が言った。
「制御できる兵器であればいい」
モニターに表示された人工メモリの設計図。
そこには。
名前すらなかった。
番号だけ。
試作品。
使い捨てることを前提にした、模造品。
「そして」
映像の中。
黒い戦士が停止する。
「こちらも継続して記録しろ」
「捕獲しますか?」
「まだいい」
即答だった。
「戦闘データが足りない」
画面が切り替わる。
黒い拳。
赤い複眼。
紫のライン。
「我々の製品を相手に、どこまで動けるのか」
男は僅かに口元を歪めた。
「まずは見せてもらおう」
新しい試験番号が。
静かに。
画面へ追加された。