青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
最初の通報が風紀委員会本部へ入ってから、まだ一分も経っていなかった。
「……二件目?」
イオリが大型モニターを見上げる。
アコは返事をするより先に端末を操作し、二つの現場映像を左右に並べた。
「東部商業区と第三物流区。発生時刻の差は四十秒もありません」
一方では、通りの中央で鳥系獣人の男性が蹲っている。
本来その身体に備わっていた両翼は、既に自然な姿を失っていた。羽毛の一部が灰黒色に硬質化し、羽軸も異様なほど太く歪んでいる。翼の付け根から背にかけても硬い隆起が広がり、自然な羽ばたきとはまるで違う動きをするたび、周囲の空気が激しく揺れていた。
男性が恐怖に身を縮める。
その拍子に両翼が大きく動き、直後、強烈な風圧が通りを薙いだ。
道路脇の立て看板やテーブルがまとめて吹き飛び、店舗の窓が次々と割れる。
「本人にも制御できてないみたいだな」
イオリの声が低くなる。
「第二現場も同様です」
チナツがもう一方の映像を示した。
第三物流区では、クマ系獣人の女性が倉庫の壁際で荒い息を吐いている。
肩から両腕にかけて灰黒色の硬質組織が広がり、元々大柄だった上半身がさらに異様な輪郭へ膨れ上がっていた。
よろめいた女性が壁へ身体を預けただけで、鈍い衝突音とともに壁面が大きく凹む。
「これまでの二件と同系統と見ていいでしょう」
アコが映像を拡大する。
東部商業区の男性。その胸元には、翼の動きを妨げないよう胴へ固定された簡素なハーネスがあり、中央に小型の黒い装置が取り付けられていた。
第三物流区の女性も同じだった。
腰部の固定具に、見覚えのある黒い筐体が残っている。
「やっぱり外にある」
イオリが呟いた。
これまで二度、黒い戦士は使用者本人ではなく装置そのものを破壊している。
そして、その直後に身体の異常変化は解除された。
前日のP-10も同じだった。
「今回も同型であれば、優先して狙うのは使用者ではなく装置です」
アコが全員を見る。
「黒い戦士が装置を破壊した直後に身体変化が解除された事例は、既に二度確認されています」
「問題は、あいつじゃなくても壊せるかだな」
イオリが自分の銃へ視線を落とした。
「はい」
チナツが頷く。
「装置そのものが破壊されれば解除されるのか、それとも黒い戦士の攻撃に何らかの意味があるのか。そこまではまだ確認できていません」
「でも、試す価値はある」
ヒナが静かに言った。
「本人を直接撃たずに止められるなら、その方がいい」
「ただし」
アコが念を押す。
「装置は身体のすぐ近くにあります。射線が通らない状況で無理に狙うことは禁止します」
「分かってる」
イオリが答える。
「まず市民を逃がす。その後で、確実に装置を狙える状況を作る」
ヒナも映像を見たまま続けた。
「見えないなら撃たない」
「その方針でお願いします」
アコはそこで、二つの発生時刻をもう一度確認した。
「それから、この二件がほぼ同時に発生したことも無視できません」
チナツが表情を曇らせる。
「偶然ではない、と?」
「可能性は低いでしょう。昨日、新しい個体が一つ確認された直後です。その翌日に、別地点でほぼ同時に二件」
「複数同時に使わせた場合の試験……」
ヒナが呟く。
「それだけではないかもしれません」
アコは二つの現場を見比べた。
「こちらがどれほどの時間で現場へ到着するのか。戦力をどう分散するのか。そこまで観察する意図がある可能性もあります」
「……こっちまで実験材料扱いかよ」
イオリの尾が苛立たしげに揺れた。
「怒るのは後」
ヒナの一言に、イオリが息を吐く。
「悪い、委員長」
「今は止めよう」
「ああ。第三物流区は私が行く。チナツも来てくれ」
「はい」
「私は東部商業区へ行く」
ヒナも立ち上がる。
アコは本部に残り、周辺部隊へ次々と指示を飛ばし始めた。
「他の地区にも警戒を広げます。三件目がない保証はありません」
ヒナは会議室を出る直前、一度だけ振り返った。
「何か分かったら、すぐ共有して」
「もちろんです」
扉が閉じる。
二つの現場へ向けて、風紀委員会が動き出した。
* * *
翔が異変に遭遇したのは、喫茶店「ひだまり」へ戻る途中だった。
片手には買ってきた食材の袋。もう片方には、ニャン次郎から頼まれて受け取ってきた品の入った紙袋。
事件を探しに出たわけではない。
今日はただの買い出しだった。
「これで全部……かな」
紙袋の中身を確認しながら交差点へ差しかかった、その時。
腹の底へ響くような衝撃音が、通りの向こうから轟いた。
「っ!?」
直後、強い風が吹き抜ける。
道路脇の小さな看板が倒れ、空箱や紙くずが宙へ舞った。翔も反射的に身体を横へ向け、紙袋を胸元へ抱える。
「何だ……?」
風が弱まり、顔を上げた。
少し先から、大勢の市民がこちらへ向かって走ってくる。
「逃げろ!」
「向こうに行くな!」
「また変な奴が暴れてる!」
翔の表情が変わった。
逃げてくる人々とは逆方向。
通りの中央に、一人の鳥系獣人男性がいる。
元々あった両翼は、既に自然な姿を失っていた。羽毛の一部が灰黒色に硬質化し、太く歪んだ羽軸同士が擦れ合っている。翼の付け根から背にかけても硬い隆起が広がり、飛ぶための翼が何か別の用途へ無理やり作り替えられたようだった。
そして胸元。
胴へ巻き付けられた簡易ハーネスに、小さな黒い装置が固定されている。
「……また、あれか」
形は前に見たものと少し違う。
それでも、本物のガイアメモリを真似たようなあの装置であることは見間違えようがなかった。
男は周囲を襲おうとしているわけではない。
むしろ必死に叫んでいた。
「来るな! 近づくな! 俺にも止められない!」
両翼を畳もうとしているが、硬質化した羽毛同士がぶつかり、思うように動かせない。
「くそっ……!」
無理に翼を動かした瞬間、空気が弾けた。
目には見えない重い壁が通りを押し流し、店先のテーブルや椅子、立て看板をまとめて吹き飛ばす。
翔の手が反射的に腰へ向かいかけた。
ロストドライバー。
変身すれば――。
「助けて!」
声が聞こえた。
翔の動きが止まる。
横を見る。
先ほどの風圧で商店の庇が崩れ、その下から小さな手が伸びていた。
「……!」
翔は持っていた荷物をすぐ近くの建物の陰へ置き、瓦礫へ駆け寄った。
「聞こえる!? 大丈夫!?」
「……ここ……!」
崩れた庇と支柱の隙間に、小柄な猫系獣人の市民が身体を丸めている。
意識はある。
少なくとも、目立つ出血もない。
「今出すから」
翔は身体を挟んでいる支柱へ両手を掛け、腰を落とした。
「っ……!」
力を込めると、少しだけ浮く。
だが、人が抜けられるほどの隙間にはならない。
「もう一回……!」
握る位置を変えようとした時、乾いた銃声が響いた。
翔の頭上で、今にも落ちそうだった別の看板の固定具だけが撃ち抜かれる。
看板は落下する方向を変え、翔たちから離れた路面へ倒れた。
「……え?」
「そこ、まだ誰かいる?」
声のした方を見る。
少し離れた場所に立っていたのは、空崎ヒナだった。
翔はすぐに彼女が誰なのか分かったが、その名を口にはしない。
ヒナの方も翔を観察するより先に、瓦礫の下へ視線を向けていた。
「いる。一人。意識もある」
「どこが挟まってる?」
「脚。この柱が邪魔で出られない」
ヒナは支柱と瓦礫、その下にいる市民、そして通りの中央で暴れる男性へ短く視線を走らせた。
「分かった。三秒だけあの人を押さえる」
「三秒?」
「足りない?」
翔は柱の位置と隙間を見た。
力を掛ける角度を変えれば。
「……いや。いける」
「じゃあ行って」
ヒナはそれ以上何も言わず、男性へ銃口を向けた。
連続した射撃が、身体ではなく開きかけた両翼の周囲へ撃ち込まれる。硬質化した羽毛へ火花が散り、男性が反射的に翼を畳んだ。
「今」
「分かった!」
翔は支柱へ全身の力を掛ける。
軋みながら、僅かに持ち上がった。
「出て!」
下にいる市民が身体を引きずる。
まだ脚が引っかかっている。
「もう少し!」
腕が震える。
それでも支える。
やがて脚が抜けた。
「出た!」
翔が支柱を離すのと、閉じていた翼が再び開くのはほぼ同時だった。
ヒナが横へ跳ぶ。
強烈な風圧が通りを駆け抜けた。
「っ!」
翔は助け出した市民へ覆い被さり、飛んでくる破片から庇う。その前へヒナが入り、風圧の合間を縫うように射撃を重ねた。
「動ける?」
ヒナは前を警戒したまま聞く。
「俺は大丈夫!」
翔は市民の状態を見る。
「そっちは? 歩ける?」
「……うん」
少し離れた場所では風紀委員たちが避難誘導を続けている。
翔がその方向を指した。
「あそこまで行ける?」
「大丈夫……!」
「なら行って」
市民が足を庇いながら離れていく。
その姿を確認して翔が立ち上がった時、別の市民が崩れた店の入口を指して叫んだ。
「まだ中に一人いる! 戻ってきてない!」
ヒナが即座に聞く。
「場所は?」
「店の奥! 倉庫の手前だ!」
翔も入口を見る。
「入口から奥までは分かる」
ヒナの視線が翔へ向いた。
「案内できる?」
「できる」
「なら来て」
翔は僅かに目を見開いた。
「……いいの?」
「もう行くつもりだったでしょ」
「…………」
「勝手に入られるより、こっちの方がいい」
淡々とした返答だった。
翔は少しだけ驚いた。
危ないから退けと言われると思っていた。
だが、ヒナは翔を止めるより先に、状況の中で翔をどう動かせば安全に救助へ使えるのかを判断していた。
「行くよ」
「うん」
「私より前には出ないで」
「分かった」
二人は半壊した店の中へ駆け込んだ。
* * *
店内は外よりも酷い状態だった。
倒れた棚や散乱した商品が通路を塞ぎ、割れた窓から吹き込む風が紙や包装材を床の上で巻き上げている。
「奥!」
翔が方向を示す。
「……ここ……!」
微かな声が返った。
「聞こえた」
ヒナが先へ進む。
途中、大型の棚が通路を塞いでいた。
ヒナは棚そのものを撃つのではなく、片側を固定している金具だけを正確に撃ち抜く。支えを失った棚が反対側へ傾き、人が通れるだけの隙間が開いた。
「……すご」
「止まらないで」
「はい」
反射的に答え、翔も後へ続く。
厨房と倉庫の境目。
倒れた棚の下に、鳥系獣人の女性が片脚を挟まれていた。
「意識ある?」
翔がすぐそばへしゃがむ。
「ある……」
「どこが痛い?」
「脚……」
ヒナは棚の状態を確認すると、持ち上げられる位置へ手を掛けた。
「上げる」
「俺が引く」
「お願い」
ヒナが棚を持ち上げ、翔が女性の身体を脚へ負担を掛けないよう慎重に引き出す。
「痛っ……!」
「ごめん。あと少し」
完全に抜けた。
翔が身体を支える。
「立てる?」
「なんとか……」
その時、外から再び風圧が押し寄せ、建物全体が大きく軋んだ。
天井から細かな破片が落ちる。
翔が負傷者の身体を支え、ヒナが外の様子を警戒しながら先導する。三人は崩れた入口を抜け、店の外へ出た。
待機していた風紀委員がすぐに駆け寄る。
「負傷者一名!」
「こちらへ!」
女性を引き渡し、翔は安全な場所まで運ばれていく姿を見送った。
「……よかった」
「怪我は?」
横からヒナが尋ねる。
「俺?」
「そう」
「ないと思う」
ヒナは翔の服や腕、足元へ視線を走らせた。
「大丈夫そうね」
「確認するんだ」
「必要だから」
「そっか」
そこで初めて、ヒナは目の前の男子を改めて見た。
「名前」
「え?」
「まだ聞いてなかった」
「ああ。風間翔。近くの喫茶店で働いてる」
「風間翔」
ヒナが一度その名前を口にした。
「私は空崎ヒナ。ゲヘナ風紀委員会」
「……よろしく」
「よろしく」
短い挨拶。
その直後、背後で硬質な羽毛同士が擦れ合う音がした。
ヒナの意識が一瞬で戦場へ戻る。
「来る」
男性の両翼が大きく開き始めていた。
「翔」
初めて名前を呼ばれる。
「避難してる人たちをお願い」
「分かった」
翔も迷わず答えた。
ヒナが前へ向かう。
翔は周囲を見回し、残っている市民を風紀委員と一緒に安全な場所へ誘導した。
今、自分が風間翔としてできることはひとまず終わった。
なら、次にやることは決まっている。
翔は人目のない路地へ入り、周囲を確認するとロストドライバーを腰へ装着した。
《JOKER!》
ジョーカーメモリをスロットへ差し込む。
「変身」
漆黒の身体に紫の意匠が走り、赤い複眼を備えた黒い仮面が翔の顔を覆う。
ジョーカーはそのまま戦場へ駆け戻った。
* * *
その頃、第三物流区でもイオリたちの戦闘は続いていた。
「また来るぞ!」
熊系獣人の女性が大きく身体を振る。
硬質化した両腕が貨物コンテナへぶつかり、轟音とともに金属製の巨体そのものが横へずれた。
「力だけなら、とんでもないな……!」
イオリは飛んできた破片を避けながら位置を変える。
だが、その視線は最初から使用者本人ではなく、腰部の固定具へ取り付けられた黒い装置を追っていた。
「装置は見えてます!」
後方からチナツの声が飛ぶ。
「分かってる!」
撃てないわけではない。
しかし女性は、自分でも制御できないほど激しく身体を動かしている。
腰の装置も絶えず揺れ、少し照準がずれれば弾丸は本人へ当たる。
「第二班、右へ回れ!」
イオリの指示で風紀委員たちが移動する。
女性の注意がそちらへ向いた。
「来ないで!」
恐怖に任せて両腕を振るう。
空気を揺らすほどの衝撃に、周囲の荷物が跳ね上がった。
イオリは撃たない。
まだ射線が悪い。
「イオリ、今です!」
チナツが声を飛ばした。
女性が大きく左を向いた瞬間、腰の装置が遮るものなく露出する。
「見えてる!」
照準を合わせ、発砲。
弾丸が黒い筐体へ命中し、表面に大きな亀裂が走った。
「まだ!」
二射目。
今度は亀裂の中央へ。
黒い筐体が砕け、歪んだ電子音が途中で途切れる。
「……あ」
女性の身体から、一気に力が抜けた。
両腕を覆っていた灰黒色の組織が剥がれ落ちるように消え、膨れ上がっていた輪郭も元へ戻っていく。
「戻った……!」
イオリ自身、一瞬だけ目を見開いた。
「チナツ!」
「はい!」
チナツはすぐに倒れた女性へ駆け寄り、脈と呼吸を確認する。
「聞こえますか? 無理に動かないでください」
「……う……」
「意識あります。呼吸も安定しています」
「……よかった」
イオリが短く息を吐いた。
それから、砕けた黒い装置を見る。
「私たちでも壊せるんだな」
「少なくとも、この型では」
チナツが答える。
イオリは即座に通信機へ手を伸ばした。
「アコ行政官、聞こえるか?」
『聞こえています』
「例の装置を撃ち抜いた。破壊直後に変化が解除された」
『……銃撃で?』
「ああ。こっちの弾でも止められる」
『了解しました。すぐ第一現場へ共有します』
通信が切れる。
イオリはもう一度、砕けた装置を見る。
今までは、黒い戦士でなければ止められない可能性もあった。
だが、少なくともこの黒い装置には、自分たちの銃弾も届く。
* * *
東部商業区。
ヒナは男性と一定の距離を保っていた。
動けば両翼が反応し、強い風圧が生まれる。
胸元には黒い装置がある。
だが、変質した翼が何度もその前を横切り、狙いを定められない。
ヒナなら力で押し切ること自体はできる。
しかし、それでは使用者まで傷つける。
「くそ……!」
男性は苦しげに両翼を畳もうとしている。
「止まれ……頼むから……!」
思いとは逆に硬質化した羽毛が擦れ合い、また翼が開きかける。
その時、建物の上から黒い影が降りた。
「来たのね」
ヒナは驚かなかった。
黒い戦士も余計なことは聞かない。
「状況は?」
「市民はほぼ避難した。あとはあの人を戻す」
「分かった」
それだけで十分だった。
『ヒナ委員長』
通信機からアコの声が聞こえる。
「何?」
『第二現場で、黒い装置の破壊に成功しました』
翔もその声を聞く。
『イオリが銃撃で破壊。直後に身体変化が解除されています』
赤い複眼が男性の胸元へ向いた。
「銃でも壊せるのか」
『少なくとも、向こうの個体では確認できました』
アコが続ける。
『本人を傷つけずに装置だけを狙えるなら、同じ方法を試せます』
「分かった」
通信が終わる。
翔は男性を見る。
胸元の黒い装置には、硬質化した翼が重なっている。
「狙える?」
「今は無理」
ヒナは即答した。
「翼が邪魔。無理に撃ったら本人に当たる」
「じゃあ、俺が射線を作る」
ヒナが黒い戦士を見る。
「できる?」
「やってみる」
「分かった」
ヒナはそれ以上聞かなかった。
翔が右へ走る。
男性の視線が黒い姿を追った。
「来るな!」
右翼が大きく動き、風圧が翔へ向かって放たれる。
真正面から受けない。
身体を低く沈め、風の流れから外れるように横へ踏み込む。
そのまま男性の側面へ回る。
身体が黒い戦士を追う。
だが、胸元にはまだ左翼が被っている。
「もう少し……!」
翔が急に方向を変えた。
今度は反対側。
男性も恐怖から身体を追わせる。
「近づくなって言ってるだろ!」
両翼が大きく開いた。
強烈な風を放とうとして、胸元が完全に露出する。
「今!」
ヒナの銃口は、既にそこへ向いていた。
銃声。
一発目が筐体へ命中し、亀裂が走る。
二発目がほぼ同じ位置へ突き刺さった。
黒い装置が砕け、電子音が途切れる。
「――っ……!」
広げられていた両翼から力が抜けた。
灰黒色に硬質化していた羽毛がゆっくりと本来の姿へ戻り、背中へ広がっていた異様な隆起も消えていく。
男性の身体が前へ傾いた。
「危ない!」
翔が駆け寄り、倒れ込む身体を受け止める。そのまま無理に立たせず、ゆっくり路面へ寝かせた。
「聞こえる?」
「……ああ……」
「無理に動かないで」
男性は、自分の翼へ恐る恐る視線を向ける。
「翼……」
「戻ってる」
「……本当に?」
「ああ」
変質は消えている。
けれど、それだけでは安心できない。
翔は男性の呼吸や様子を確かめながら、こちらへ向かってくる救護班へ目を向けた。
元の姿に戻れた。
まずは、それが何よりだった。
「俺……」
男性が掠れた声を出す。
「誰か、怪我させた……?」
翔は周囲を見る。
割れた窓。
倒れた看板。
救護を受けている市民。
「怪我した人はいる」
嘘はつかない。
男性の表情が歪んだ。
「でも、今のところ命に関わる人はいない」
「……そう」
男性が目を閉じる。
「よかった……」
その声を聞いて、翔の肩から僅かに力が抜けた。
ヒナは、その様子を静かに見ていた。
少し前。
瓦礫から市民を助け出した時。
風間翔も、無事を確認して同じように安心していた。
今、黒い仮面の戦士もまた、自分が戦った相手と周囲の市民の無事を先に気にしている。
似ている。
そう思った感覚が、今度は先ほどよりも少しだけ強く残った。
* * *
医療班への引き継ぎが終わるまで、ヒナと黒い戦士は少し離れた場所から救護される男性を見ていた。
「助かった」
ヒナが言う。
「ああ」
翔も頷いた。
少しして、回収されていく黒い装置の破片へ視線を向ける。
「……銃でも止められるんだな」
「そうみたい」
「それなら、次からできることが増える」
ヒナが隣を見る。
「できること?」
「俺が近づきにくい状況でも、装置が狙えるならそっちから止められる。逆に、狙いにくいなら俺が動かして射線を作れる」
さっきのように、誰かが難しいことを別の誰かが補えばいい。
「今日みたいに同時に起きるなら、なおさらその方がいい」
「……そうね」
ヒナも救護される男性へ目を向けた。
「助ける方法が一つじゃない方がいい」
「ああ」
翔は迷わず頷いた。
黒い装置を壊せる手段が増えた。
それはつまり、これから同じような被害者が出た時、助けられる可能性も増えたということだった。
* * *
それからしばらくして。
第二現場の引き継ぎを終えたイオリとチナツが合流し、アコも本部から現場へ到着した。
簡易ケースの上には、二つの黒い装置の残骸が並べられている。
片方には『P-11』。
もう片方には『P-12』。
「連番ですね」
アコが破片を見下ろす。
「起動時刻の差も四秒以内。偶然とは考えられません」
「やっぱり同時に使わせたんだな」
イオリが腕を組む。
「こっちがどう動くかまで見てた可能性も高い」
「そう考えておいた方がいいでしょう」
アコは否定しなかった。
チナツはもう一つの成果へ視線を向ける。
「ただ、今回分かったこともあります」
「黒い装置は、銃撃でも壊せる」
ヒナが言った。
「はい。二件とも装置が破壊された直後に身体変化が解除されています」
「つまり」
イオリが黒い戦士を見る。
「あんたじゃなくても止められるってことだな」
「助ける手段が増えるなら、その方がいい」
翔は自然に答えた。
「……随分あっさり言うな」
「何で?」
「いや」
イオリは少しだけ目を細める。
「別に」
アコが話を戻す。
「ただし、次回も同じように狙わせてくれるとは考えない方がいいでしょう」
「今日のことを見てるならな」
イオリもすぐ理解する。
「装置に何か被せるとか、狙いにくい場所へ変えるとか」
「十分考えられます。能力発動中以外は装置を覆う構造へ変更する可能性もあるでしょう」
翔も頷いた。
同じ弱点を知りながら、カイザーが何も対策しないとは思えない。
「でも」
チナツが静かに言った。
「これまで確認された装置は、どれも本体そのものが使用者の身体の外側にあります」
ヒナが破片を見る。
「そこは同じ」
「はい」
「なら」
イオリが銃を肩へ掛けた。
「どんなに守ってきても、狙える場所が残ってるならやりようはある」
翔も異論はなかった。
自分には接近して動きを崩すやり方がある。
ヒナやイオリたちには、遠くから正確に装置を狙える技術がある。
同じことをする必要はない。
同じ相手を助けるために、それぞれができることをすればいい。
「それと」
アコの声で翔が顔を上げる。
「もう一つ、そろそろ無視できない問題があります」
「何?」
「あなたです」
「俺?」
「ええ」
アコは真面目な表情で黒い戦士を見る。
「今回は偶然、あなたが第一現場へ現れました」
「まあ」
「こちらから呼んだわけではありません」
「連絡手段ないからね」
「そうです。だから問題なんです」
イオリも頷く。
「今日だって、あんたが全然違う場所にいたら委員長と組めなかっただろ」
「次も二件で済む保証はありません」
チナツが続けた。
「三件、四件と同時に発生した場合、こちらがあなたの居場所を把握できなければ、協力したくてもできません」
翔には反論できなかった。
「毎回、現場で偶然会うことを前提に作戦を組むわけにはいきません」
アコの言葉はもっともだった。
「……うん」
「あなたはどうしたい?」
今度はヒナが尋ねた。
正体を明かせとは言わない。
所属を答えろとも言わない。
ただ、この先も関わるならどうするのか。
その意思を聞いている。
翔は少し黙った。
連絡手段が必要なのは、もう分かっている。
けれど、黒い戦士として使える連絡先などない。
自分のものを渡せば、当然そこから風間翔へ繋がる。
二つの立場を完全に切り離したまま、同じ相手と協力し続けることには限界がある。
「……考える」
「またそれかよ」
イオリが即座に反応した。
けれど今回は、翔自身が少し首を振った。
「今度は、ちゃんと考える」
「…………」
イオリはそれ以上言わなかった。
アコも、チナツも追及しない。
最後にヒナが小さく頷いた。
「分かった」
翔が少し意外そうに彼女を見る。
「いいの?」
「今は」
ヒナは周囲へ目を向けた。
救護されている使用者。
風紀委員。
壊れた黒い装置。
そして、目の前の黒い仮面の戦士。
「あなたが何者なのかは、まだ分からない」
「……うん」
「でも、少なくとも今は同じ人たちを助けようとしてる」
翔は少しだけ黙った。
その言葉が、不思議と素直に胸へ落ちる。
「……そうだな」
今は、それでよかった。
* * *
夕方。
必要な引き継ぎを終えた後、翔は現場を離れた。
人通りの少ない路地へ入り、周囲に誰もいないことを確認してからロストドライバーからジョーカーメモリを抜く。
黒い姿が消えた。
「……疲れた」
翔は息を吐いた。
そこで、ふと思い出す。
「あ」
戦闘が始まる前に慌てて置いてきた買い物袋。
急いで戻って中身を確認すると、野菜は無事だった。
「こっちは……」
もう一つの紙袋を見る。
角が少し潰れている。
「……これは説明しないとな」
ニャン次郎の顔が浮かんだ。
中身を全部駄目にしていないだけまだましだろう。
翔は荷物を持ち直し、ひだまりへ向かって歩き始めた。
陽はもう傾き始めている。
事件のあった通りでは、まだ風紀委員たちが現場確認を続けていた。
邪魔にならないよう少し離れた道へ曲がったところで、前から歩いてきた少女と目が合う。
「あ」
「……風間翔」
ヒナだった。
「覚えてたんだ」
「今日聞いたばかりだから」
「それもそうか」
ヒナの視線が翔の服や手足へ向く。
「怪我は?」
「ないよ」
少し考え。
「今日は本当に」
「そう」
ヒナはそれ以上確認しなかった。
「さっきの人たちは?」
翔が尋ねる。
「大丈夫だった?」
「二人とも命に別状はない」
「そっか」
翔の肩から僅かに力が抜ける。
「……よかった」
ヒナは、その反応を見ていた。
「今日は助かった」
「俺?」
「あなた」
「俺、そんな大したことしてないよ」
「してた」
即答だった。
「最初の人も。店の中にいた人も。あなたがいたから早く助けられた」
「……なら、よかった」
翔が少し笑った。
ヒナはその表情を見ながら、昼間から胸に残っていた感覚を思い返していた。
「風間翔」
「ん?」
「こういうこと、いつもしてるの?」
「事件に巻き込まれるのが?」
「違う」
ヒナが小さく首を振る。
「誰かが困ってたら、自分から行くこと」
翔は少し考えた。
「たぶん」
少し困ったように笑う。
「目の前にいたら」
「……そう」
その答えにも。
やはり、引っかかる。
ヒナはすぐには口に出さなかった。
「じゃあ、俺、店に戻らないと」
「買い物の途中だったの?」
「マスターに頼まれてた」
ヒナが荷物を見る。
「事件の時は?」
「置いてきた」
「中身は無事?」
「ほとんど」
「ほとんど?」
「紙袋がちょっと潰れた」
「怒られる?」
「……どうだろう」
翔が困った顔をする。
ヒナの口元がほんの僅かに柔らかくなった。
「じゃあ、また」
翔が歩き出す。
今日初めて話した相手へ、自然に出た言葉だった。
ヒナも僅かに目を瞬く。
「……また」
短く返した。
翔はそのまま夕方の通りを歩いていく。
ヒナは、遠ざかる背中を少しだけ見送った。
風間翔。
今日、初めて会った男子。
そして、何度か同じ現場で戦った黒い仮面の戦士。
姿も立場もまるで違う。
それでも、誰かが傷つけばまずその人を見る。無事だと分かれば、ようやく力を抜く。自分が何をしたかより、誰かを助けられたかを気にする。
考え方が似ている。
そういう人が二人いるだけなら、それで説明はつく。
けれど。
「……本当に、それだけ?」
小さく呟く。
今日だけで、妙に重なるものが多かった。
現場へ現れたタイミング。
人を助ける時の迷いのなさ。
救助された相手を見た時の反応。
そして、目の前に助けられる人がいるなら動くという、その考え方まで。
確かな根拠はない。
だから、まだ何かを決めつけるつもりもなかった。
ただ。
風間翔と、あの黒い戦士。
二人をまったく無関係だと考えるには、少しだけ引っかかるものが残っていた。