青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
数日後。
昼の混雑が落ち着いた喫茶店「ひだまり」では、窓から差し込む午後の日差しの中、穏やかな音楽だけが静かに流れていた。
翔は使い終えたカップを洗い、乾いた布巾で水気を拭き取って棚へ戻していく。
「翔」
カウンターの奥から声を掛けられた。
「どうした、マスター」
「それ終わったら、ちょっと来い」
「分かった」
残っていた食器を片づけ、手を拭いてからカウンターの奥へ回る。
そこにはニャン次郎と、数枚の古びた資料があった。
翔にも見覚えがある。
ニャン次郎の亡くなった友人が残した資料の一部だ。
「また何か見つかった?」
「見つかったってほどじゃない。今まで意味が分からなかった記号が、別の資料と照らしたら繋がった」
ニャン次郎が一枚の紙を前足で示す。
劣化した地図の一部に、いくつかの数字と管理記号が書き込まれている。
隣には現在の地図が置かれていた。
「場所?」
「ああ」
示されているのは、現在ではほとんど使われていない旧工業区の外れだった。
「今の地図なら、この辺りになる」
「何があるんだ?」
「古い保管区画らしい。何を置いてたのかまでは残ってない」
「保管区画……」
翔は資料を覗き込む。
書かれているのは管理番号らしいものと、短い記号ばかり。そこに何があったのかを直接示す言葉は見当たらない。
「マスターの友達が残してたんだよな」
「ああ」
「なら、何か理由があって取っておいたんじゃないか?」
「かもしれん」
ニャン次郎はあっさり答えた。
「ただ、あいつの残した紙切れ全部に重大な秘密が書いてあると思うなよ。整理する前の資料が紛れただけかもしれん」
「それは分かってる」
翔はもう一度、場所を確認した。
何もない可能性は十分ある。
それでも。
ガイアメモリについて調べていた人物が残した資料の中に、用途の分からない保管区画の位置が残されている。
「……俺、見てこようか」
ニャン次郎が翔を見る。
「そう言うと思った」
「駄目?」
「駄目って言ったらやめるか?」
「ちゃんと危ない理由があるなら」
「そういうところだけ妙に素直だな」
「だけってなんだよ」
ニャン次郎は小さく息を吐いた。
「今も使われてる施設って情報はない。ただ、長年放置されてるなら崩落の方が怖い」
「分かった」
「中に入るなら足元と天井を見ろ。それと、妙なものがあってもすぐ触るな」
「それは……見てから決める」
「そこで濁すな」
「何があるか分からないだろ」
「お前はそうやって目の前に何かあると近づくから言ってるんだ」
「でも、調べに行くのに何も見ないで帰るのも変だろ」
「触るなと言ったんだ。見るなとは言ってない」
「……はい」
言い返せなくなった翔へ、ニャン次郎が折り畳んだ地図を差し出す。
「危険だと思ったら戻れ。確認だけで十分だ」
「了解」
地図を受け取り、ポケットを確認する。
風紀委員会から貸与された端末も入っている。
今の段階では、何があるかも分からない。
だから連絡することもない。
ただ、もし本当にガイアメモリに関係するものを見つけたなら。
以前とは違う。
自分一人で情報を抱えたままにする必要はなかった。
* * *
旧工業区の外れへ来ると、人通りはほとんどなくなった。
使われなくなった建物が点在し、ひび割れた道路の両脇には錆びた柵や看板が残されている。遠くでは新しい建物も見えるが、この一帯だけ時間から取り残されたようだった。
翔はニャン次郎から渡された地図と周囲を見比べながら歩き、やがて斜面の陰に半ば埋もれるように残された構造物を見つけた。
「……ここか」
古い。
だが、ただ古いだけではなかった。
現在のキヴォトスで見慣れた建物とは造りが異なり、外壁には何のために使われていたのか分からない装飾や溝が残されている。
入口の扉は壊れていた。
翔はすぐに中へ入らず、その周囲を確認する。
「誰も来てないってわけじゃなさそうだな」
長い年月で生じた劣化とは別に、扉の一部には比較的新しい損傷が残っている。
何かを差し込み、強引にこじ開けたような跡だ。
誰が入ったのかは分からない。
カイザーかもしれない。
まったく別の誰かかもしれない。
今ある傷だけで決めつけることはできなかった。
翔は端末で現在地を確認した後、入口を抜ける。
内部は薄暗かった。
崩れた天井の隙間から差し込む光の中を埃が漂い、床には長い年月をかけて積もった汚れが残っている。
だが、その一部は乱れていた。
何か重いものを運んだのか、床を引きずったような跡がある。
壁沿いには収納棚らしき設備が並んでいる。
ほとんどが空だった。
「……先に持っていかれたのか?」
何かを置いていた形だけが埃の中に残り、場所によっては収納設備そのものが取り外されている。
翔は資料に残っていた管理番号と壁面の文字を照らし合わせながら先へ進んだ。
途中、通路の一部が崩れていた。
無理に真ん中を通らず、翔は足場の残っている壁際へ身体を寄せ、崩れかけた床を一歩ずつ慎重に越えていく。
ロストドライバーを使えば、もっと簡単に進めるだろう。
それでも、今は戦う相手もいない。
必要のない変身をする理由はなかった。
やがて、一つの小さな保管室へ辿り着いた。
「ここだな」
資料の番号と一致している。
扉は既に開いていた。
中も荒れている。
壁へ設置された収納区画の多くは空で、一部には砕けた容器の破片だけが残っていた。
翔は一つずつ確認していく。
何もない。
次も空。
さらに隣も。
「何を置いてたんだ……?」
当然、答えはない。
資料にも中身までは記されていなかった。
これ以上は何もないか。
そう思って踵を返しかけた時だった。
「……ん?」
部屋の奥。
倒れた収納棚と壁の間に、僅かな隙間が見えた。
棚そのものはかなり昔に崩れたらしく、床へ食い込むように斜めに倒れている。その陰に隠れるように、小さな保管スペースが残されていた。
翔は無理に棚を動かさず、身体を横へ入れて覗き込む。
半壊した扉。
その奥に。
赤いものが見えた。
「……まさか」
翔の表情が変わる。
すぐには手を伸ばさなかった。
周囲を確認し、外からその形を見る。
細長い本体。
上部のスイッチ。
そして中央に刻まれた文字。
見間違えるはずがなかった。
「……ヒートメモリ」
赤いガイアメモリ。
HEAT。
一瞬、遠い記憶が蘇った。
まだ元の家にいた頃。
テレビの前。
父親と並んで見た映像。
黒と赤。
炎を纏いながら戦う姿。
あの時は、画面の中にしか存在しないものだった。
「本当に……あるんだな」
ジョーカーメモリだけではない。
知っている別のガイアメモリが、現実のものとして目の前にある。
それでも翔は、興奮に任せてスイッチへ触れたりはしなかった。
ガイアメモリが何を引き起こすのか。
それはもう、嫌というほど知っている。
翔は慎重に指を伸ばした。
赤いメモリへ触れる。
「……?」
ほんの一瞬。
指先から掌へ、微かな温かさが伝わった気がした。
熱いわけではない。
痛みもない。
長く放置され、冷え切っていたはずの空間の中で、それだけが僅かな温度を持っていたような感覚。
翔はヒートメモリを持ち上げる。
「…………」
もう一度確かめる。
だが今度は、特に何も感じなかった。
硬いメモリの感触が掌にあるだけだ。
(気のせい……か?)
周囲が冷えていたから、そう感じただけかもしれない。
少なくとも。
ジョーカーメモリを初めて手にした時とは違った。
あの時のような、説明のつかない強い感覚はない。
それでも。
「……ちょっと温かかったよな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
気のせいと言われれば、それまでの小さな感覚だった。
翔はスイッチへ触れないよう注意しながら、持ってきた布でヒートメモリを包んだ。
その後もしばらく部屋を調べたものの、他にガイアメモリらしきものは見つからなかった。
残っているのは空になった収納場所ばかり。
最初から空だったのか。
誰かが持ち去ったのか。
それも分からない。
「……帰るか」
施設の外へ出る。
そこで翔はポケットから風紀委員会の端末を取り出した。
連絡先を開き、少し考える。
選んだのはアコだった。
『古い保管区画で、ガイアメモリと思われるものを一本見つけた。使用者はいない。今のところ異常もない。持ち帰って確認する』
経緯や場所まで書くことはしなかった。
その部分にはニャン次郎と、亡くなった友人の事情が関わっている。
ただ、ガイアメモリを見つけたという事実まで隠すつもりもなかった。
送信する。
少しして返信が届く。
『確認しました。安全性が分かるまで使用しないでください。詳細については、話せる範囲で後ほど共有をお願いします』
翔は文章を読み、小さく息を吐いた。
「……使うつもりないって」
少しだけ苦笑して、端末をポケットへ戻した。
* * *
夕方。
翔が「ひだまり」へ戻った時には、店内にまだ数人の客が残っていた。
いつも通り仕事へ戻り、注文を運び、空いた皿を片づける。
ようやく店が落ち着いた頃、翔とニャン次郎は店の奥で向かい合っていた。
「これが残ってた」
翔は持ち帰った赤いメモリを、包んでいた布ごとテーブルへ置いた。
ニャン次郎の目が細くなる。
「……ガイアメモリだな」
「ヒートメモリ」
「ヒート?」
「たぶん間違いない」
ニャン次郎はメモリより先に翔の顔を見た。
「文字を読んだから名前が分かった、って顔じゃないな」
翔は僅かに黙る。
「……まあ」
「そのメモリが何をするかも分かってるのか?」
「大体は」
「どの程度だ」
「熱を扱う。炎も出せる。少なくとも、俺が知ってるヒートなら」
ニャン次郎の耳が僅かに動いた。
「『お前が知ってるヒートなら』、か」
「そこ拾う?」
「拾う」
即答だった。
「前から引っかかってたんだよ。ジョーカーも、ロストドライバーもそうだ。初めて見たはずなのに、お前は名前だけじゃなく使い方まで知ってた」
翔は黙って聞く。
「生体コネクターのことも知ってた。今度は、初めて持って帰ってきたメモリの名前と能力まで分かってる」
「……うん」
「ただ詳しいって話じゃないだろ」
否定はできなかった。
ニャン次郎は少し待ってから尋ねる。
「どこまで話せる?」
以前なら。
翔はここで曖昧に笑って、話を逸らしていたかもしれない。
だが。
目の前にいるニャン次郎を見る。
キヴォトスへ来て何も分からなかった自分を拾い、住む場所を与えてくれた。
仕事も。
今の生活も。
そして、戦うための力も託してくれた。
今、この世界で一番信頼できる相手は誰かと問われれば。
少なくとも翔にとって、その答えを迷う必要はなかった。
「……マスターには、少し話しておいた方がいいかもしれない」
ニャン次郎の表情が変わる。
「無理に話す必要はないぞ」
「いや」
翔は首を振った。
「俺が話したい」
ニャン次郎は何も言わず、続きを待った。
翔は一度、言葉を整理する。
「俺がいた場所には、ガイアメモリはなかった」
「……何?」
「ロストドライバーも。ジョーカーもヒートも。本物はなかった」
ニャン次郎が眉を寄せる。
「じゃあ、なんで知ってる」
「話として知ってたんだ」
「話?」
「映像作品」
翔は少しだけ懐かしむように目を細めた。
「『仮面ライダーW』って作品があった。そこにガイアメモリも、ロストドライバーも出てきた」
ニャン次郎はすぐには口を開かなかった。
「……仮面ライダー」
「うん」
「お前が黒い姿になってる、あれも?」
「俺の知ってるものにかなり近い」
「かなり?」
「全部が同じかどうかまでは分からない。こっちにあるものが、俺の知ってる設定通りだって保証もないから」
翔はヒートメモリを見る。
「だから、知ってるからって何でも分かるわけじゃない」
「それでも名前や能力は知ってる。まぁ、大まかにだけど……」
「どこでそんなもんを見てた」
今度の問いに、翔は少しだけ笑った。
「父さんが好きだったんだ」
「親父さん?」
「小さい頃から、一緒によく見てた。家にDVDとかBlu-rayもあってさ」
そこには、もう戻れない家がある。
テレビの前に座っていた父親がいる。
子供だった自分が、その隣にいる。
「俺も好きだったから、結構覚えてる」
ニャン次郎はしばらく翔の顔を見ていた。
「……なるほどな」
「信じるの?」
「信じる信じない以前に、他に説明がつかん」
ニャン次郎が赤いメモリへ視線を落とす。
「お前のいた場所じゃ、物語の中にしかなかったものが、こっちじゃ本物として存在してる」
「そうなる」
「しかも古い遺物としてな」
「俺も理由は分からない」
「偶然?」
「ジョーカーだけなら、そう思おうとしたかもしれない」
翔は赤いメモリを見る。
「でも、ヒートまで出てきた」
「偶然で片づけるには一致しすぎてる、か」
「うん」
ニャン次郎は考え込む。
研究者だった頃の癖なのだろう。視線がメモリへ向いたまま、何かを組み立てるように耳だけが僅かに動いている。
「じゃあ」
やがて顔を上げる。
「お前が知ってたのは、ガイアメモリのことだけか?」
翔の表情が僅かに止まった。
ニャン次郎は見逃さなかった。
「……そういう顔するってことは、他にもあるな」
「マスター」
「分かった」
それ以上を続けようとした翔より先に、ニャン次郎が言った。
「今日は聞かん」
「……いいの?」
「一つ話したから全部吐け、なんて言うつもりはない」
ニャン次郎の視線は真っ直ぐだった。
「お前が自分から話した。それで十分だ」
翔は少し黙る。
「ありがとう」
「ただし」
ニャン次郎の声が僅かに低くなる。
「ガイアメモリの危険性や、お前自身の命に関わる知識なら話は別だ。そこを隠されちゃ困る」
「それは隠さない」
「ならいい」
ニャン次郎はそこで話を切り替え、テーブルのヒートメモリを見る。
「で、こいつを見つけた時に何かあったか?」
「一つだけ」
「何だ」
「手に取った時、少し温かかった気がした」
ニャン次郎が翔を見る。
「熱かった?」
「いや。そこまでじゃない。本当にちょっとだけ」
「その後は?」
「何ともない」
「貸せ」
翔から受け取ったヒートメモリを、ニャン次郎はスイッチに触れないよう慎重に確認する。
表面。
接続部。
本体の状態。
しばらく見た後、ニャン次郎は首を傾げた。
「……今は熱を持ってないな」
「じゃあ、気のせいかな」
「分からん」
「即答だな」
「分からんものを勝手に分かったことにする方が危険だ」
「今日それ、二回目だぞ」
「大事だからな」
ニャン次郎はヒートメモリをテーブルへ戻した。
「手に取った時の感覚は覚えとけ。ただ、それだけで意味を決めるな」
「相性がいいとか?」
「そういう答えを勝手につけるなって言ってる」
「聞いただけだって」
「俺にも分からん」
「はいはい」
翔は赤いメモリを見つめる。
あの一瞬の温かさ。
本当に気のせいだったのかもしれない。
そうでなかったとしても、今の二人にはその意味を判断する材料がない。
「これ、ロストドライバーで使えると思う?」
「規格だけなら、合う可能性は高い」
「規格だけ?」
「ガイアメモリ用のドライバーだ。形状が同じなら、スロットそのものは受け付けるだろう」
「じゃあ――」
「ただし」
ニャン次郎が遮る。
「ドライバーが受け付けることと、お前が使えることは別の話だ」
翔は口を閉じた。
「ジョーカーが使えたからって、別のメモリまで同じように扱える保証はない。それに、いつからあそこにあったかも分からん。まともに動く状態なのかも確認できてない」
「……そうだよな」
翔はヒートメモリへ手を伸ばさず、そのまま眺める。
もし自分の知っているヒートと同じなら。
強力な力だ。
熱。
炎。
ジョーカーにはないもの。
だからこそ。
「試しに使うのは、なしだな」
「当たり前だ」
「俺もそのつもり」
「なら聞くな」
「使えるか気になるのは仕方ないだろ」
「気になるのと試すのは別だ」
「分かってるよ」
翔は少し笑った。
ジョーカーメモリとは違う。
あの黒いメモリを手にした時は、目の前で助けを求める人たちがいた。
戦うと決めて。
そのために手を伸ばした。
ヒートには、まだその理由がない。
使えるかどうかも分からない。
何のために使うのかも決まっていない。
「今は、置いとこう」
「ああ」
ニャン次郎が用意したケースへ、ヒートメモリを収める。
赤い本体がその中へ静かに横たわった。
スイッチは押されない。
電子音も響かない。
ただ、冷えた保管室で手にした時の僅かな温かさだけが、翔の記憶には残っていた。
その熱が何を意味していたのか。
今の翔には、まだ確かめる必要はなかった。