青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
数日後の午後。
喫茶店「ひだまり」は昼の混雑を越え、ようやく店内の空気が落ち着き始めていた。
翔は空いたテーブルを拭き終えると、回収したカップをトレーに載せてカウンターへ戻る。ニャン次郎が受け取った食器を流しへ運び、翔も次の片づけに取りかかろうとした、その時だった。
ポケットの中から聞き慣れない電子音が鳴った。
「……ん?」
一度手を止め、端末を取り出す。
風紀委員会から借りた連絡用端末。
画面に表示されていた名前は――天雨アコ。
「……鳴った」
「電話なんだから鳴るだろ」
ニャン次郎が呆れたように言う。
「いや、これ貰ってから初めてだから」
「その顔を見る限り、嬉しい電話でもなさそうだな」
「風紀委員会」
「なら出ろ」
「うん」
翔は店内を見回し、客席から少し離れた場所で通話を繋いだ。
「もしもし」
『風間さんですね』
「表示されてるだろ」
『確認です』
「アコらしいな……」
『何か言いました?』
「何も」
一瞬の間を挟み、アコの声が仕事のものへ戻る。
『現在、こちらで例の黒い装置に関係している可能性がある場所を調査しています』
翔の表情が変わった。
「事件?」
『現時点で使用者や負傷者は確認されていません。戦闘ではなく調査です』
「場所は?」
『位置情報を送ります。そこで、あなたにも確認してもらいたいものが見つかっています』
「俺に?」
『ガイアメモリとの関連をこちらだけで判断できませんので』
そこでアコは一度言葉を切った。
『現在、協力できますか?』
命令ではない。
あの会議室で決めた通り、あくまで要請だった。
「ちょっと待って」
翔は通話口を手で覆い、カウンターへ顔を向けた。
「マスター」
「聞こえてた。今なら客も少ない」
「行って大丈夫?」
「ここは俺一人で回せる。行ってこい」
「ありがとう」
「ただし、戻ったら閉店作業は手伝え」
「もちろん」
翔は再び端末を耳へ当てた。
「行ける」
『分かりました。詳細は現地で説明します』
「アコもいるの?」
『私は本部です。現地にはヒナ委員長とチナツがいます』
「了解」
『それと』
「何?」
『調査ですからね』
「分かってるよ」
『本当に?』
「本当に」
『では、お願いします』
通話が切れた。
送られてきた位置情報を確認する。
以前なら、事件が起きたという噂を聞くか、自分で異変を見つけるか。
そうして現場へ向かっていた。
今回は違う。
向こうから連絡が来た。
「……行ってきます」
「ああ」
翔翔はエプロンを外すと、端末と一緒に貸し出されている小型の片耳通信機を耳へ装着した。
現場でいちいち端末を取り出さなくても連絡を取れるよう、風紀委員会から渡されているものだ。
続いて必要なものを確認し、翔は「ひだまり」を後にした。
* * *
指定された場所は、ゲヘナ自治区の外れにある物流区画だった。
現在はほとんど使われていない小型倉庫の前に、数人の風紀委員が配置されている。
翔が近づくと、その中から見覚えのある二人がこちらを向いた。
「来たね」
ヒナだった。
隣にはチナツもいる。
「思ったより早かったですね、風間さん」
「店からそんなに遠くなかったから」
翔は周囲を見る。
「本当に何も起きてない?」
「今のところは」
ヒナが倉庫を見る。
「中に人はいない。危険物の反応も確認できてない」
「じゃあ、何があった?」
「こちらです」
チナツが先導する。
倉庫の内部は既に風紀委員によって最低限の安全確認が済んでいた。
積荷の大半は撤去され、広い空間に空の棚や破棄された梱包材だけが残っている。
ただの使われなくなった倉庫。
一見すれば、そう見える。
「最初に見つかったのはこれです」
チナツが立ち止まった。
作業台の上に、いくつかの黒い破片が並べられている。
翔は手を出さず、近くから覗き込んだ。
「……似てるな」
「何に?」
ヒナが尋ねる。
「前に壊した黒い装置の外側。少なくとも材質と作りはかなり近いと思う」
端末からアコの声が入った。
『こちらでも回収済みの破片と比較しています。外装材の組成は近似していますが、完全一致と断定できる段階ではありません』
「慎重だな」
『当然です』
「悪いとは言ってないよ」
翔は隣に置かれている別の部品へ目を向ける。
金属製の固定具。
身体へ取りつけるためのベルト。
いくつもの可動部を持つ小型の支持具。
形は一つではない。
「これ全部、装置を身体につけるためのもの?」
「その可能性が高いです」
チナツが一つを指す。
「こちらは腰部用と思われます。別のものは胸部、背部へ固定できる構造になっています」
「位置を変えられるようにしてるのか」
翔は少し離れた台を見る。
そこには、湾曲した装甲板のようなものも置かれていた。
厚みはそれほどない。
だが、黒い装置を覆うには十分な大きさがある。
ヒナも同じものを見ている。
「前は外に出ていた装置を撃てば止められた」
「うん」
「だから、守ろうとしてる」
「たぶん」
翔は別の固定具を手で示す。
「それに、同じ場所につけるとも限らなくなってる」
『こちらも同じ見解です』
アコの声が硬くなる。
『少なくとも、外部装置そのものをなくした形跡はありません。位置を変える、装甲で覆う、身体の形に合わせて固定方法を変える。その方向で対策している可能性が高いです』
「やっぱり、外に残るのは変わってないんだな」
『今確認できる範囲では』
その時、通信に別の声が割り込んだ。
『アコ行政官、こっちも確認終わった』
イオリだ。
『どうでした?』
『同じだ。空の固定具と装甲板。あと、装置を背中側に取りつけるための部品らしいのもある』
「イオリ、別の場所にいるの?」
『風間翔?』
「うん」
『もう来たのか』
「呼ばれたから」
『……そうだったな』
一瞬だけ、イオリの声が妙な間を置いた。
これまでなら、現場に翔がいる理由をまず聞かれていた。
今は違う。
『こっちには本体らしいものは残ってない。空箱ばっかりだ』
「数は?」
『一人や二人分じゃない』
空気が変わった。
チナツが倉庫内に残された梱包材へ視線を向ける。
翔も改めて見る。
最初はただのゴミにしか見えなかった。
だが、同じ寸法の箱がいくつもある。
一部は内側の緩衝材だけが残されていた。
「……何人かに同時に使うつもりか?」
『可能性はあります』
アコは断定しない。
『これまで確認された事例は、基本的に単独でした。しかし、ここに残された部品は明らかに一人分ではありません』
ヒナが倉庫全体を見渡す。
「それに、もう中身はない」
「運び出した後ってことか」
「たぶん」
翔は黒い破片を見る。
前回、二つの装置がほぼ同時に使われた。
風紀委員会が二手に分かれた。
イオリが装置を撃ち抜き。
自分がヒナの射線を作った。
あの戦い方を。
「……見られてたんだな」
ヒナが翔を見る。
「何を?」
「俺たちがどう止めたか」
外部装置を狙う。
使用者自身ではなく、そこだけを正確に壊す。
それが通用すると分かった直後に、装甲や位置変更用の部品が作られている。
『その前提で考えた方がいいでしょう』
アコの声にも緊張が混じる。
『こちらの対応を観察し、次の試験へ反映している可能性があります』
「だったら次は、前より狙いにくくなる」
ヒナが言う。
「でも」
翔が装甲板を見る。
「消えたわけじゃない」
「うん」
「どこかには外に残る」
「なら、見つければいい」
ヒナの答えは簡潔だった。
翔も頷く。
「見つけて、狙える形にする」
『それが現時点での対処方針になります』
アコがまとめる。
『ただし、今後は装置の位置を最初から把握できるとは限りません。使用者の身体の変化そのものに隠される可能性もあります』
「撃つ前に見極めないと駄目ってことか」
『そうです』
チナツが静かに息を吐く。
「使用者を傷つけないことが前提なのは変わりませんね」
「そこは変えない」
ヒナが即答した。
翔も同じだった。
「うん」
* * *
倉庫の確認が一通り終わり、風紀委員たちが残された部品の回収を始めた頃。
『風間さん』
通信越しにアコが呼んだ。
「何?」
『先日報告のあったガイアメモリについて、確認してもいいですか?』
「ああ」
翔はすぐに何のことか分かった。
「ヒートメモリのこと?」
ヒナとチナツが翔を見る。
『それが名称ですか?』
「うん。俺が知ってるものと同じなら」
『能力は?』
「熱を操る。炎も出せるはず」
チナツが少し目を見開く。
「かなり危険な能力ですね」
「使い方を間違えれば、たぶん」
ヒナが尋ねる。
「使ったの?」
「いや」
「使えるかどうかは?」
「分からない」
翔は迷わず答えた。
「ロストドライバー自体は規格が合う可能性がある。でも、俺がヒートを使えるかは別の話だってマスターにも言われた」
『では、現状は使用可能な戦力として扱いません』
「その方がいい」
『こちらから使用を要請することもありません』
ヒナも続ける。
「分からないなら、試さなくていい」
「俺もそのつもり」
翔の答えに、ヒナはそれ以上何も言わなかった。
赤いメモリは今も「ひだまり」にある。
手に取った時に感じた僅かな熱。
あれが何だったのかも分からない。
使えるかどうかを確かめたいという気持ちがないわけではなかった。
だが。
ガイアメモリは好奇心だけで試していいものではない。
今のところ、その判断を変える理由はなかった。
* * *
「この箱は回収班へお願いします」
「はい!」
証拠品の整理が進み、チナツも他の風紀委員と一緒に倉庫の奥へ戻っていった。
翔は建物の外へ出る。
夕方の風が、倉庫の中にこもっていた埃っぽい空気を少しだけ洗い流した。
すぐ後ろからヒナも出てくる。
彼女は端末へ目を落とし、届いている報告をいくつか確認していた。
「これで終わり?」
翔が尋ねる。
「ここの調査は」
「ヒナは?」
「本部に戻る」
「その後」
「報告書の確認と、会議が二つ」
「……まだ仕事するの?」
ヒナが端末から顔を上げる。
「いつものことだから」
「いつものことって」
「何?」
「いや……」
翔は言葉を止めた。
その答えには覚えがある。
ずっと忙しい。
誰かが問題を起こせば呼ばれ。
風紀委員会で何かあれば判断を求められ。
強いから。
委員長だから。
ヒナなら何とかできるから。
そうやって仕事が集まってくる。
翔は、それを知識として知っていた。
けれど今、目の前にいるヒナ自身から聞いたことはほとんどない。
「そういえばさ」
「何?」
「風紀委員長じゃない時のヒナって、何してるんだ?」
ヒナが僅かに瞬きをする。
「……急に何?」
「知り合ってから、仕事してるところしか見てないなと思って」
「そう?」
「最初に会った時も事件の最中だったし、その後もずっと風紀委員会絡みだろ」
ヒナは少し考えた。
「……寝る」
「寝る?」
「うん」
「あとは?」
「休む」
「…………」
翔は思わず黙った。
「何?」
「いや」
思っていた通りの答えだったことには触れない。
代わりに、少しだけ笑う。
「それ、趣味っていうより回復じゃないか?」
ヒナの眉が僅かに寄った。
「悪い?」
「悪くはないけど」
「じゃあ何?」
「なんか安心した」
「……何が?」
今度はヒナの方が分からないという顔をする。
翔は倉庫の壁へ軽く背を預けた。
「ヒナでもちゃんと休みたいって思うんだなって」
「私を何だと思ってるの」
「すごく強い風紀委員長」
「…………」
「でも」
翔は続ける。
「強いからって、疲れないわけじゃないだろ」
ヒナの表情が僅かに変わった。
ほんの少し。
冗談を返そうとしていた空気が止まる。
「……私がやらないと、困る人がいるから」
「うん」
翔は否定しなかった。
「それは分かる」
「なら――」
「でも、それと全部一人で抱えるのは別だろ」
ヒナが黙る。
「ヒナが倒れたら、結局もっと困る人が増える」
「…………」
「仕事を投げろって言ってるんじゃないよ」
「じゃあ?」
「疲れた時くらい、疲れたって言ってもいいんじゃないかってだけ」
しばらく返事がなかった。
風の音が、二人の間を抜けていく。
「……誰に?」
やがてヒナが聞いた。
「え?」
「疲れたって。誰に言うの?」
翔は少し考えた。
「アコたちでもいいし」
それから、ごく自然に続ける。
「まあ、俺でもいいけど」
「……あなたに?」
「聞くくらいならできるだろ」
「それだけ?」
「休めって言うくらいなら」
ヒナはしばらく翔を見ていた。
強いから。
頼られる側だから。
何とかする側だから。
そんな前提を、翔は口にしなかった。
ただ疲れることを当然のこととして話している。
「……あなたも同じでしょ」
今度は翔が瞬きをした。
「俺?」
「危ない場所を見つけたら、すぐ入っていく」
「今日の話?」
「今日だけじゃない」
「……まあ」
「自分のことは棚に上げるの?」
「それ言われると弱いな……」
翔は視線を逸らした。
何も言い返せない。
ヒナがほんの少しだけ口元を緩める。
「自覚はあるんだ」
「一応」
翔は苦笑して、少し考えた。
「じゃあ、お互い様ってことで」
「何が?」
「俺が無茶してたらヒナが止める。ヒナが無茶してたら俺が言う」
「……私に注意するつもり?」
「駄目?」
「外部協力者に、そういう権限は渡してないけど」
「じゃあ」
翔は少しだけ笑った。
「友達として」
ヒナの動きが止まった。
「……友達」
「違う?」
深い意味を込めて聞いたわけではなかった。
何度も一緒に人を助け。
正体を明かし。
こうして事件とは少し離れた話までしている。
翔にとっては、それくらいの認識だった。
ヒナは僅かに視線を逸らした後、もう一度翔を見る。
「……別に」
「別に?」
「違わないと思う」
「なら決まり」
「何が決まったの」
「お互い、無茶してたら止める」
「勝手に決めた」
「嫌なら止めない?」
ヒナは少しだけ考える。
「……止めればいいと思う」
「了解」
「でも翔もだからね」
「分かってる」
「本当に?」
「最近それ言われる回数多いな……」
「理由があるんじゃない?」
「否定できない」
小さく笑った翔を見て、ヒナの表情も僅かに柔らかくなる。
その時、ヒナの端末が短く鳴った。
画面を見ると、現実へ引き戻されたように表情が仕事のものへ戻る。
「戻らないと」
「会議?」
「その前に報告が一つ増えた」
「増えてるじゃん」
「いつものこと」
「だから、それをいつものことにするなって」
「……もう注意してる」
「友達だから」
ヒナは一瞬だけ翔を見る。
「そうだったね」
短い返答。
それだけだった。
けれど、どこか先ほどより声が柔らかかった。
「じゃあ俺も戻る」
「うん」
「また何かあったら連絡して」
「分かった」
翔が数歩進んだところで、後ろから呼ばれる。
「翔」
「ん?」
振り返る。
「今日はありがとう」
「俺も知りたかったことだし」
「それでも」
ヒナはそう言った。
翔は少しだけ笑う。
「じゃあ、どういたしまして」
今度こそ背を向ける。
ポケットには、風紀委員会から渡された端末がある。
少し前までなら。
ヒナたちと同じ場所へ向かうには、偶然が必要だった。
今は違う。
連絡が来る。
応える。
同じ場所へ向かう。
それだけのことが、思っていたよりずっと大きな変化なのかもしれない。
* * *
「……風紀委員会が旧物流倉庫へ入りました」
無機質な研究区画。
報告を受けた男は、端末から視線を上げなかった。
「回収されたものは?」
「廃棄予定だった固定具、旧型の外装材、試作マウント。重要なデータはありません」
「なら問題ない」
研究員が僅かに姿勢を正す。
「黒い戦士も現地へ呼ばれたようです」
そこでようやく、男の指が止まった。
「風紀委員会から?」
「はい。現在、両者の間には何らかの連絡手段があるものと思われます」
「なるほど」
男の声に驚きはない。
むしろ、新しい数字を得た研究者のように淡々としていた。
「偶発的な共同戦闘ではなくなったか」
「はい」
「それもデータになる」
端末の画面が切り替わる。
表示されたのは、身体へ装着する複数の黒いユニット。
以前までのものより外装が厚く、固定位置もそれぞれ異なっている。
腰。
背部。
胸部。
別の個体では、変化した身体の陰へ装置を隠せるよう支持部の位置まで調整されていた。
「外部機構の防護は?」
「改善済みです。ただし、完全な内部化には至っていません」
「構わん」
男は即座に答える。
「現状の方式でそこを消す必要はない。撃たれなければいいだけだ」
「黒い戦士が射線を作り、風紀委員会が装置を破壊した例があります」
「なら、射線を作らせなければいい」
画面に別のデータが表示される。
一体。
また一体。
複数の使用者候補。
「単独運用では、こちらが得られるデータにも限界がある」
「試験対象の準備は完了しています」
「配置は?」
「予定地点への搬入を開始しています」
男はようやく端末を置いた。
「一人ずつ試す段階は終わった」
利益。
効率。
制御。
必要なのは、それだけだった。
「次は、同時運用だ」