青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
少しずつ増えてきて嬉しい限りです。
午後の喫茶店「ひだまり」は、昼時の忙しさを越えて少しずつ落ち着きを取り戻していた。
翔はカウンターで注文された飲み物を用意し、出来上がったグラスを客席へ運ぶ。戻る途中で空いた皿を回収し、そのまま流しへ置いたところで、ポケットの中から短い電子音が鳴った。
何度か聞くようになった音だった。
「……風紀委員会か」
手を拭いて端末を取り出す。
表示されているのはアコの名前。
翔は店内の様子を確認してから通話を繋いだ。
「もしもし」
『風間さん。今、動けますか?』
挨拶より先に来た声で、ただ事ではないと分かった。
「何があった?」
『複数地点で、例の黒い装置によるものと思われる異常を確認しました』
翔の表情が引き締まる。
「複数?」
『現在確認できているのは三件――』
そこで向こうから別の声が入り、アコが僅かに黙った。
『……訂正します。四件です』
「四件……」
『ほぼ同時に発生しています。偶然とは考えにくいでしょう』
以前見つけた倉庫。
そこに残されていた、複数人分の固定具や装甲板。
嫌な予想がそのまま現実になった。
「ヒナたちは?」
『既に分散して対応しています。ヒナ委員長が北側、イオリとチナツが南側へ。残る一件が、あなたの現在地から最も近い商業区です』
「分かった。行く」
『まだ協力要請を――』
「今しただろ」
『……そういうことにしておきます』
「場所送って」
『すぐに』
通話を切り、翔はカウンターへ向き直った。
「マスター」
「行くんだろ」
ニャン次郎は既に話の内容を察していたらしい。
「四ヶ所で同時に出た」
「随分まとめて来たな」
「店、大丈夫?」
「今なら一人でも回る。閉店まで帰ってこなかったら、その分は後で働いてもらう」
「了解」
翔がエプロンを外しかけたところで、ふと視線が店の奥へ向いた。
保管してある赤いメモリ。
ヒート。
数日前、古い施設から持ち帰ったばかりのガイアメモリ。
まだ使っていない。
使えるかどうかも分からない。
翔は少し迷った後、店の奥へ入り、ケースの前で足を止めた。
「……持っていくのか」
後ろからニャン次郎の声がした。
「使うつもりはない」
「なら何で持つ」
「分からない」
翔はケースを開け、赤いメモリを見る。
「でも、今起きてるのはガイアメモリ絡みだ。何があるか分からないのに、ここへ置いていく方が気になる」
ニャン次郎は少し黙った。
「使うなとは言わん」
翔が振り返る。
「ただ、分からない力だってことだけは忘れるな」
「うん」
ヒートメモリを小さな保護ケースへ入れ、鞄の内側へ収める。
ジョーカーメモリとロストドライバーは、いつものように取り出せる位置へ。
「行ってきます」
「ああ。無茶するなよ」
「最近それ言われてばっかりだな」
「言われる理由を考えろ」
「……行ってきます」
二度目は少し早口になった。
* * *
商業区へ近づくにつれ、騒ぎは遠くからでも分かるようになった。
銃声。
警報。
何かが建物へぶつかる鈍い音。
通りの奥から逃げてくる市民たちとすれ違いながら、翔は端末を取り出した。
「アコ、着いた」
『こちらでも位置を確認しました。現場の風紀委員と合流してください』
「相手は?」
『大型の獣人男性です。身体の一部が大きく硬化しており、胸部付近に外部装置が確認されています』
「装置が見えてるなら撃てないの?」
『そこが問題です』
通りを曲がったところで、その意味が分かった。
「……なるほど」
大柄な猪の獣人だった。
元から厚みのある身体がさらに膨れ、胸から肩、両前脚にかけて灰黒色の硬い組織が重なっている。太い牙の間から荒い息を吐きながら、風紀委員の銃撃を受けてもほとんど止まらない。
胸の中央。
黒い装置そのものは確かにある。
だが。
その表面を覆うように、湾曲した装甲板が取りつけられていた。
さらに身体が動くたび、胸部を覆う硬化した組織が重なり、装置を隠してしまう。
『回収した試作部品と同じ系統の防護と思われます』
「前より露骨に守ってるな」
『こちらが外部装置を狙うことを前提にしていると考えてください』
風紀委員の一人が翔へ駆け寄ってくる。
「外部協力者の方ですね?」
「うん。避難は?」
「この通りの西側はほぼ完了しています。ただ、東側にまだ取り残された市民がいます!」
翔は周囲を見る。
変身した獣人が立っているのは、ちょうど避難路を分断する位置だった。
「俺が引きつける。撃てそうなら装置を狙って」
「分かりました!」
「無理に撃たなくていい。本人に当たりそうならやめて」
「はい!」
翔は近くの路地へ入り、人目が切れたところでロストドライバーを腰へ当てた。
ベルトが展開され、腰へ固定される。
黒いメモリを起動する。
《JOKER!》
「変身」
ジョーカーメモリを差し込み、ドライバーを展開する。
漆黒の身体に紫の意匠。
赤い複眼。
黒い仮面。
仮面ライダージョーカーとなった翔は路地を飛び出し、猪の獣人が風紀委員へ突進する寸前、その進路へ割り込んだ。
正面から受け止めるのではなく、伸びてきた前脚へ腕を添えて身体を捻る。
突進の勢いを横へ逸らされた巨体が、道路脇の空箱や看板を巻き込みながら大きくよろめいた。
「やっぱり重いな……!」
獣人が振り向きざまに前脚を振るう。
ジョーカーは上体を沈めて避け、その懐へ潜り込むと腹部へ短い拳を打ち込んだ。
手応えはある。
相手の身体も揺れた。
しかし、胸部を守る硬化組織は崩れない。
『胸部装置、現在露出していません』
「見えてる!」
ジョーカーは返ってきた前脚を受け流し、そのまま肩を押して相手の身体を半回転させる。背中を道路側へ向けさせ、避難中の市民から攻撃方向を外した。
猪の獣人が咆哮する。
胸部の硬化組織が一瞬だけ左右へ開いた。
その奥。
装甲板に覆われた黒い装置が覗く。
「今!」
風紀委員の銃口が一斉に向いた。
数発の弾丸が装甲へ命中する。
火花。
だが。
「弾いた……!」
『防護材が追加されています』
「本当に対策してきたな……!」
胸の装甲が再び硬化組織の下へ隠れる。
ジョーカーは歯を食いしばった。
倒すだけなら、やりようはある。
関節を狙う。
勢いを利用して転ばせる。
強い一撃を重ねる。
時間をかければ、装甲そのものを破壊することもできるかもしれない。
問題は。
「時間がない……!」
通りの向こうには、まだ逃げ切れていない市民たちがいる。
変身した獣人は自分の意思で暴れているようには見えない。
荒い呼吸。
焦点の合わない目。
強化された身体を無理に動かされているような不自然さ。
この相手も助けるべき被害者だ。
だから強引に倒せばいいわけではない。
猪の獣人が再び身体を沈める。
「まずい!」
ジョーカーが前へ出た。
突進を止めるのではなく、横から肩へ飛びついて方向をずらす。
巨体は正面の建物を避けたものの、その前脚が道路脇の古い支柱へ直撃した。
支柱が折れる。
その上に取りつけられていた大きな金属製の庇が、軋みを上げた。
「離れろ!」
風紀委員の声が飛ぶ。
だが、庇の下にはまだ避難途中の市民がいた。
犬の獣人の親子。
幼い子供が、突然の音に足を止めている。
父親が子供を抱えるように身を翻した。
金属が落ちる。
ジョーカーは地面を蹴った。
「っ……!」
大きな破片の一つは両腕で受け止めた。
だが、全部ではない。
崩れた部材の一部が父親の肩から背中へ当たり、そのまま身体を地面へ押し倒した。
「お父さん!」
子供の泣き声が響いた。
その声を聞いた瞬間、翔の胸の奥が強く揺れた。
目の前で子供を庇い、傷ついた父親。
その光景に、翔は自分の父の最期を重ねていた。
高校一年の頃。
警察官だった父は、犯人から幼い少女を庇って命を落とした。
翔自身が、その瞬間を見たわけではない。
それでも、父が最後まで誰かを守ろうとしたことを、翔はずっと忘れたことがなかった。
「……っ」
胸の奥が強く締めつけられる。
同時に、腹の底から熱いものが込み上げた。
まただ。
また、何も関係のない人が巻き込まれている。
誰かが作った力のせいで。
誰かが始めた実験のせいで。
「……こんなこと」
低い声が漏れる。
拳が固くなる。
けれど。
「お父さん! ねえ、お父さん!」
泣き声が聞こえた。
翔はすぐに拳を開いた。
今、向ける場所はそこではない。
ジョーカーは獣人から距離を取り、倒れた親子のもとへ駆け寄った。大きな金属片を持ち上げ、近くの風紀委員と一緒に負傷した父親を引き出す。
「救護班!」
「向かっています!」
父親の胸が動いている。
呼吸はある。
「大丈夫。息してる」
翔は泣いている子供へ声を掛けた。
「本当……?」
「うん。今、治療してもらえるから」
絶対に大丈夫だとは言わない。
それでも、今分かることだけを伝えた。
子供が父親の服を掴んだまま離れない。
風紀委員が二人のそばにつき、翔は立ち上がった。
視線の先。
猪の獣人は再び動き始めている。
その後ろでは、庇が崩れた影響で建物の一部まで歪み始めていた。
『風間さん、北側でも装置の防護を確認しました』
アコの声が入る。
『ヒナ委員長が対応中です。南側もイオリたちが交戦しています』
「こっちも同じ」
翔は猪の獣人を見る。
ジョーカーなら戦える。
負けるとは思わない。
だが。
装甲を剥がすまでに時間がかかる。
その間にまた何かが崩れれば。
次に誰かが巻き込まれれば。
「……間に合わない」
『何です?』
「このままじゃ、止めるまでに時間がかかりすぎる」
拳を見る。
ジョーカーの力が足りないわけではない。
ただ、今必要なのは。
硬い装甲を、使用者自身へ強い衝撃を与えずに崩す方法。
翔の脳裏に、赤いメモリが浮かんだ。
「…………」
『風間さん?』
「アコ」
『はい』
「少しだけ通信切る」
『待ってください。何を――』
返事を待たず、ジョーカーは近くの路地へ飛び込んだ。
変身を解除する。
漆黒の姿が消え、翔は鞄を開いた。
保護ケース。
その中にある赤いメモリ。
ヒート。
使える保証はない。
ニャン次郎にも言われた。
ドライバーが受け付けることと、自分が使えることは別。
しかも、どれほどの力が出るのかも分からない。
翔は一度目を閉じる。
子供の泣き声が、まだ聞こえていた。
「……試したいから使うんじゃない」
自分に言い聞かせる。
時間がない。
他の方法を探している間にも、建物は崩れていく。
「今、必要だからだ」
赤いメモリを握る。
施設で初めて手にした時。
ほんの僅かに感じた温度。
今は。
手の中が確かに熱い。
それがメモリなのか。
自分の掌なのか。
翔には分からなかった。
スイッチを押す。
《HEAT!》
電子音が響く。
何の抵抗もなく起動した。
翔が僅かに目を見開く。
「……いけるのか?」
ロストドライバーへヒートメモリを差し込む。
「変身!」
ドライバーを展開した。
熱気が一気に広がった。
ジョーカーの漆黒とはまるで違う、深い赤を基調とした姿が翔の身体を覆う。輪郭そのものはロストドライバーで変身したジョーカーに近い。
だが。
「……熱い」
火傷するような熱ではない。
身体の内側から、力が一気に外へ溢れようとしている。
拳を握る。
それだけで周囲の空気が僅かに揺らいだ。
「使える……」
驚いている時間はなかった。
赤い戦士となった翔は路地を飛び出す。
猪の獣人がこちらを見る。
身体を沈めた。
突進。
翔も前へ出る。
正面からぶつからず、横へずれながら肩へ掌を当てた。
「っ!」
触れた瞬間。
想像していたより遥かに強い熱が広がった。
硬化した組織の表面が赤く焼け、獣人が大きく身体を振る。
「広がりすぎる……!」
翔はすぐに手を離した。
使える。
だが、ジョーカーとは全く違う。
ジョーカーなら、自分がどのくらい力を込めればどこまで届くのか、戦いの中で少しずつ身体が覚え始めている。
ヒートは違う。
僅かな意識だけで、想定以上の熱が生まれる。
「これじゃ本人まで傷つける」
力任せには使えない。
獣人の前脚が振り下ろされる。
翔は後ろへ下がらず、内側へ踏み込んだ。前脚を肩で受け流し、身体の向きを変えながら脇へ抜ける。
戦い方まで変える必要はない。
新しいのは力の性質だけだ。
なら。
ジョーカーで覚えた動きを土台にする。
翔は獣人の横へ回り込み、腰を押して進路を変える。
壁ではなく、何もない道路側へ。
「こっちだ!」
怒り狂ったように獣人が追ってくる。
胸部の硬化組織が開く。
装甲板。
今。
翔は拳を振り抜かなかった。
代わりに、装甲板の端へ指先を触れる。
「ここだけ……!」
熱を一気に広げない。
狭く。
装甲の継ぎ目だけへ。
しかし。
「くっ……!」
想像より熱が周囲へ逃げる。
金属板の広い範囲が赤く変色した。
それでも、使用者の身体へ届く前に手を離す。
装甲が歪む。
熱膨張した固定部が軋み、片側が僅かに浮き上がった。
「もう一回!」
獣人の前脚を避け、今度は反対側。
短く触れる。
熱。
すぐ離す。
二つ目の固定部が変形した。
胸部の装甲が斜めにずれ、その奥から黒い装置が露出する。
「今だ! 胸!」
待機していた風紀委員が即座に反応した。
銃声。
一発目が装置の外装を砕く。
二発目。
黒いユニットが火花を散らした。
さらに一発。
装置が完全に割れる。
猪の獣人の身体から、灰黒色の硬化が崩れていった。
巨体が前へ倒れかける。
翔はすぐに駆け寄り、肩を支えた。
「ゆっくり!」
近くの風紀委員も加わり、元の姿へ戻った獣人を地面へ横たえる。
「呼吸あります!」
「救護班へ!」
「はい!」
翔はその様子を確認してから、崩れた建物の方へ振り返った。
親子の周囲には救護班が到着している。
だが。
「こっち、まだ取れません!」
負傷した父親の脚の近くに、歪んだ金属枠が食い込んでいる。
持ち上げようにも、建物側と絡み合って動かせないらしい。
翔は駆け寄った。
「退いて」
「でも、これかなり固く――」
「だからやる」
赤い手を金属枠へ伸ばす。
途中で止めた。
近すぎる。
父親の身体まで熱を伝えるわけにはいかない。
「ここじゃない……」
枠の構造を見る。
父親を押さえている部分ではなく、その少し離れた接合部。
「こっちなら」
そこへ手を当てる。
熱を絞る。
さっきより弱く。
狭く。
「……っ」
簡単ではない。
熱が思ったより広がろうとする。
それを意識して抑えながら、接合部だけを加熱する。
金属の色が変わる。
「今、引いて!」
風紀委員が工具を差し込み、力を掛ける。
熱で弱くなった部分が曲がった。
隙間ができる。
「もう少し!」
翔も熱を止め、今度は両手で枠そのものを掴んだ。
風紀委員と一緒に持ち上げる。
父親の脚が抜けた。
「取れた!」
救護班がすぐに担架を寄せる。
泣いていた子供が、運ばれていく父親の横へ走った。
「お父さん!」
父親の目が薄く開く。
痛みに顔を歪めながらも、子供を見て僅かに口を動かした。
翔には声まで聞こえなかった。
それでも。
子供の表情が少しだけ変わった。
翔はようやく息を吐いた。
「……よかった」
まずは。
間に合った。
* * *
それからしばらくして。
残る三地点でも人工メモリ使用者の停止が確認された。
イオリたちは高速で移動する相手を追い込み、装置が背中側にあることを見抜いて射撃で破壊した。
ヒナの側でも、防護された装置が攻撃動作の瞬間にだけ露出することを見抜き、その僅かな隙を撃ち抜いたらしい。
どの現場でも以前より時間はかかった。
それでも。
止められないわけではなかった。
避難誘導と負傷者の搬送が進む中、翔は人目の少ない路地へ入り、ヒートメモリをロストドライバーから抜いた。
赤い姿が消える。
手の中のメモリを見る。
「……本当に使えたんだな」
身体に異常は感じない。
ただ、初めて全力で走った後のような疲労と、まだ掌に熱が残っているような錯覚がある。
「翔」
呼ばれて振り向く。
路地の入口にヒナがいた。
少し離れたところにはチナツもいる。
「終わった?」
「こっちは」
翔は二人の方を見る。
「他は?」
「全部止まった」
「負傷者は?」
「いる。でも、今のところ危険な状態だという報告はない」
「……そっか」
知らずに肩へ入っていた力が抜ける。
ヒナはその様子を見てから、翔の手元へ視線を向けた。
「それがヒート?」
「うん」
「使ったんだ」
「……使った」
ヒナの目が少し細くなる。
「分からないなら試さなくていいって言ったよね」
「言った」
「翔も、そのつもりだって」
「言った」
「じゃあ、どうして?」
責める声ではなかった。
だからこそ、翔も誤魔化さなかった。
「間に合わないと思った」
ヒナが黙る。
「ジョーカーでも戦えた。でも装甲を壊すのに時間がかかって、その間にまた誰かが巻き込まれるかもしれなかった」
翔は少し離れた通りを見る。
救急車両の近く。
先ほどの親子が治療を受けている。
「だから使った」
「使える保証はなかったのに?」
「……うん」
「それ、無茶って言うんじゃない?」
「……そうかも」
「そうかも、じゃない」
少し前。
二人で決めたことを思い出す。
どちらかが無茶をしていたら、もう一方が止める。
翔は苦笑した。
「早速止められたな」
「笑うところじゃない」
「ごめん」
「次も同じことしていいって意味じゃないから」
「分かってる」
「本当に?」
「ヒナまでそれ言うのか……」
「私が一番言っていいと思う」
「友達だから?」
ヒナが一瞬だけ止まる。
「……そう」
短く答えた。
「友達だから」
翔もそれ以上は何も言わなかった。
チナツが二人のそばまで来る。
「風間さん、少し状態を確認させてください」
「俺?」
「初めて使用したガイアメモリでしょう。何もないから大丈夫、とは判断できません」
「分かった」
チナツが簡単に状態を確認していく。
脈拍。
呼吸。
目立った皮膚の異常。
変身解除後の意識状態。
「今のところ、明確な異常は見られません」
「よかった」
「ですが」
「分かってる。安全だって決まったわけじゃない」
「はい」
アコの声が端末から入る。
『ヒートメモリについても、後ほど詳しく報告をお願いします』
「使った感じ?」
『それもです。何ができたのか、何が難しかったのか。特に制御面は重要です』
「……熱の広がり方が分からない」
『具体的には?』
「思ったよりずっと出る。少し熱を出したつもりでも、広い範囲まで熱くなる」
ヒナが言う。
「なら、次に使う前にちゃんと確認した方がいい」
「うん」
翔も素直に頷いた。
「俺もそう思う」
ヒートは使えた。
だからといって。
使いこなせたわけではなかった。
* * *
夜。
閉店後の「ひだまり」で、翔はカウンターの席に座っていた。
目の前には二本のガイアメモリ。
黒いジョーカー。
赤いヒート。
ニャン次郎はカウンターの向こうから赤いメモリをじっと見ている。
「使えたか」
「うん」
「身体は?」
「チナツにも見てもらった。今のところ変なところはない」
「今のところ、な」
「分かってる」
ニャン次郎はヒートメモリを慎重に確認する。
「で、どうだった」
「難しい」
「何が」
「熱の調整」
翔は自分の手を見る。
「思った以上に出る。少しだけって思っても、広がりすぎる」
「ジョーカーと同じ感覚で使ったか?」
「最初は」
「それで?」
「全然違った」
「当たり前だ」
「使う前に言ってくれよ」
「使うなって話はしただろ」
「……それはそう」
何も言い返せなかった。
ニャン次郎はヒートをケースへ戻そうとして、ふと翔を見る。
「他には?」
「他?」
「それだけじゃない顔してる」
翔は少し黙った。
昼間の光景を思い出す。
子供を庇った父親。
倒れる身体。
泣き声。
「……親子が巻き込まれた」
ニャン次郎は何も言わず続きを待つ。
「子供を庇って、父親が怪我した」
翔の視線がカウンターへ落ちる。
「それ見た時、父さんのこと思い出した」
「親父さんを?」
「うん」
少し間を置く。
「父さんも……誰かを庇って死んだんだ」
ニャン次郎の動きが止まった。
翔はそれ以上詳しく説明しなかった。
今は、それだけで十分だった。
「だから」
自分の手を握る。
「腹が立った」
「その親子に?」
「違う」
すぐに否定する。
「こんなことをやってる奴に」
名前はまだ断定できない。
カイザーの可能性は高い。
それでも、自分の目で見ていないことまで決めつけるつもりはなかった。
「また人を使って、また関係ない人まで巻き込んで」
翔は静かに息を吐く。
「……本当に腹が立った」
ニャン次郎はしばらく黙っていた。
「で?」
「で?」
「その怒った手で、何した」
翔が少し考える。
「装甲を壊した」
「その後」
「人工メモリを止めて」
さらに思い出す。
「……親子を助けた」
「なら、今日はそれでいい」
翔が顔を上げた。
「怒るなとは言わないの?」
「言って止まるのか?」
「たぶん無理」
「なら無駄だ」
「それでいいのかよ」
「怒ったことと、何をするかは別だろ」
ニャン次郎はヒートメモリをケースへ収めた。
「今日は助ける方に手を使った。それだけ覚えとけ」
「…………」
翔はケースの中に横たわる赤いメモリを見る。
施設で手にした時には、ほんの僅かな温かさしか感じなかった。
今日は違った。
もっと強く。
もっと激しく。
けれど。
あの熱がヒートメモリのものだったのか。
自分自身のものだったのか。
まだ分からない。
「マスター」
「なんだ」
「ヒート、ちゃんと使えるようになった方がいいと思う」
「今日みたいなことがまたあると思うか」
「たぶん」
翔は即答した。
「ジョーカーだけで足りないって意味じゃない。でも、助け方が増えるなら覚えておきたい」
ニャン次郎は少し考える。
「なら、まずは出力を知るところからだな」
「うん」
「いきなり実戦で覚えようとするなよ」
「それは……もうやった」
「だから言ってる」
「はい」
翔は苦笑した。
ジョーカー。
そしてヒート。
使える力が一つ増えた。
それでも。
力が増えたことより、翔の中に強く残っていたのは別のことだった。
泣いていた子供。
子供を庇った父親。
そして。
あの時、自分が最初に何をしようとしたのか。
怒りは、まだ消えていない。
それでも翔は、その熱より先に。
助けるために手を伸ばしたことだけは、忘れないでいようと思った。