青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
午後の「ひだまり」は、昼時の慌ただしさを越え、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
窓から差し込む陽射しが床を照らし、カウンターの奥ではニャン次郎が洗い終えたカップを一つずつ棚へ戻している。
「翔っち、これ追加ー」
「はいはい」
テーブルから上がった声に、翔は空になった皿を片手に振り返った。
夜桜キララがメニューを開いたまま、楽しそうに手を振っている。その向かいでは旗見エリカが呆れたように頬杖をついていた。
「さっき食べたばっかだろ」
「デザートは別腹じゃん?」
「その言葉、便利すぎない?」
「でも翔っちのとこのケーキ美味しいし」
「そこまで言われたら断りづらいな……」
「ほらねー」
「翔、甘やかさなくていいから」
エリカが口を挟む。
「キララ、今日このあと買い物行くって言ってたでしょ。また時間なくなるよ」
「あ、そうだった」
「忘れてたの?」
「忘れてない忘れてない。ちょっとケーキが強かっただけ」
「どういう意味だよ、それ」
翔が苦笑しながら皿を下げると、キララが楽しそうに笑う。
こうしたやり取りにも、いつの間にか随分慣れた。
初めて二人が店へ来た頃なら、目の前にいるというだけで必要以上に意識していたかもしれない。
今は違う。
キララはキララで、エリカはエリカだ。
店に来て、くだらない話をして、時々こちらを振り回してくる友人。
それでいい。
「翔っちも来る?」
「俺、仕事中」
「終わってから!」
「その頃にはもう帰ってるだろ」
「じゃあ次ね」
「切り替え早いな」
「予定はいっぱい作った方がお得だから」
意味が分からないような、分かるような。
翔が笑いながらカウンターへ戻ろうとした、その時だった。
ポケットの端末が震えた。
画面を見る。
表示されたのは風紀委員会からの連絡だった。
翔の表情が僅かに変わり、それに気づいたニャン次郎も手を止める。
「……仕事か?」
「たぶん」
翔は通話を繋いだ。
「もしもし」
『風間さん。アコです』
聞こえてきた声は、いつもより僅かに速い。
『以前確認した物流経路から、新しい搬送先を特定しました。場所はゲヘナ外縁の旧輸送施設です』
「カイザー?」
『関連する管理記録が複数一致しています。ただし、現段階ではカイザーコーポレーション全体の指示と断定できる状態ではありません』
「分かった」
『ヒナ委員長、イオリ、チナツが先行しています。可能なら協力をお願いします』
「すぐ行く」
通話を切ると、その様子を見ていたキララが首を傾げた。
「翔っち、出かけるの?」
「ちょっと用事」
「仕事中なのに?」
「……まあ、そんな感じ」
「怪しい」
エリカがじっと翔を見る。
「最近そういうの多くない?」
「気のせい」
「絶対気のせいじゃないでしょ」
「マスター、悪い」
翔は追及をかわすようにニャン次郎へ声を掛けた。
「ああ。こっちは気にするな」
エプロンを外し、小型の片耳通信機を耳へ装着する。腰にはロストドライバー。すぐ手の届く小さなポーチには、ジョーカーとヒート。
店の出口へ向かう途中、キララが背後から声を飛ばした。
「翔っちー!」
「ん?」
「危ないことじゃないよね?」
一瞬だけ答えが遅れた。
「……たぶん」
「その間なんなの!?」
「じゃあな」
「あ、逃げた!」
エリカの「やっぱり怪しい」という声を背中に聞きながら、翔は店を出た。
その時はまだ、数十分後にあの二人をあんな場所で見ることになるとは思っていなかった。
* * *
旧輸送施設は、かつて大型貨物を中継するために使われていた場所らしい。
錆びたコンテナと使われなくなった搬送レーン、巨大な倉庫群が広い敷地を埋め、その間を縫うように風紀委員会の生徒たちが展開している。
「翔」
施設入口で待っていたヒナが呼ぶ。
「ヒナ。アコから聞いた。何か見つかった?」
「中にいる」
答えたのはイオリだった。
「しかも、今回は今までみたいな実験の残りカスだけじゃなさそうだ」
その表情は険しい。
チナツも頷いた。
「施設内部から稼働中の設備反応が確認されています。それと……搬出途中と思われる人工メモリの部品が大量に残されていました」
『こちらでも確認済みです』
通信越しにアコの声が入る。
『以前調査した物流倉庫で確認した管理方式と一致しています。ここが研究拠点そのものか、中継拠点かはまだ判断できませんが……無関係とは考えにくいでしょう』
「逃げる途中だったのか」
『その可能性が高いです』
翔は施設の奥を見た。
妙に静かだった。
人工メモリ事件で何度も感じた、あの嫌な空気。それに似ているのに、今日は何かが違う。
「行こう」
ヒナの言葉に、翔たちは内部へ入った。
倉庫の奥には開け放たれたコンテナが並び、黒い人工装置、壊された記録端末、焼却処理された書類が至るところに残されている。撤収を急いだ痕跡は明らかだった。
そして、中央の広い搬送区画。
そこに一体のロボットが立っていた。
キヴォトスでは決して珍しい存在ではない。しかし周囲に配置されたカイザーPMCの兵士たちとは明らかに違う。外装は落ち着いた色合いで整えられ、余計な装飾もほとんどない。それでも、この場にいる誰よりも上位の立場にいる存在だと分かった。
「予定より早かったな」
機械音の混じる声が響く。
ヒナが一歩前へ出た。
「カイザーの関係者ね」
「否定する必要もないだろう」
『……照合しました』
アコの声が低くなる。
『カイザー内部の複数記録に登場する幹部クラスの人物です』
「やっぱりか」
イオリが銃を構える。
だが、幹部は動じない。
「ゲヘナ風紀委員会。予定外ではあるが、悪くない」
「悪くない?」
「取得できるデータが増える」
その言い方に、翔の眉が僅かに動いた。
「……データ?」
「君たちにも随分協力してもらった」
幹部の視線が翔たちを順番に捉える。
「外部機構への攻撃。装甲追加への対応。配置変更への対応。そして複数使用者による相互防護」
イオリの顔色が変わった。
「まさか……」
「実戦データは有用だった」
「こっちは助けようとして戦ってたんだぞ!」
「結果としてデータが得られた。それで十分だ」
返答はあまりにも平坦だった。
嘲笑もない。
罪悪感もない。
だからこそ、気味が悪い。
翔が口を開く。
「前にここから運ばれた人たち」
「何の話だ?」
「金を払うって言われて、人工メモリを使わされた人たちだ」
幹部は僅かに沈黙した。
「ああ。試験協力者か」
思い出したという程度の反応だった。
翔の目が細くなる。
「倒れたまま置いていっただろ」
「稼働試験は終了していた」
「治療するって説明されてた」
「こちらが恒久的な保護を約束した覚えはない」
「……報酬は?」
「必要なデータが取得できなかった者も多い。契約条件を満たしたと判断するかは担当部署の裁量だ」
イオリが一歩踏み出した。
「ふざけんな!」
チナツも静かな声で続ける。
「危険性を正しく説明していなかったのであれば、それを契約とは呼べません」
「安全を保証できる実験など存在しない」
「それを知らせずに参加させたと言っているんです」
「判断を誤ったのなら、参加者自身にも問題があるだろう」
生活に困っていた者。
金を必要としていた者。
安全だと言われ、短時間の仕事だと思っていた者。
その人たちを思い浮かべながら、翔の右手が静かに握られる。
「役割は果たした」
幹部は言った。
「それ以上の価値はない」
「……役割が終わったら、捨てるのか」
「回収する価値がなければな」
その返答で、翔の中に残っていた僅かな疑問が消えた。
話が通じないわけではない。
この男は、本気でそう考えている。
種族も、立場も関係なく。
使えるか。
使えないか。
その違いしか見ていない。
「初期の実験では、出力に対して制御性が不足していた」
幹部が続ける。
「模造品へ移行したことで安定性と量産性は改善された。外部機構という問題も判明した。そして君たちのおかげで、その弱点に対する対策も試せた」
翔の脳裏に、巨大な顎を持つ異形の姿が過った。
T-REX。
あの時、メモリに飲み込まれ苦しんでいた変身者も。
この男にとっては。
ただの「初期の実験」なのか。
「だが、その方式も終わりだ」
幹部の胸部外装が小さく開いた。
金属板がスライドし、その奥に現れたものを見て、翔の呼吸が止まる。
黒い挿入口。
機械の身体へ後付けされたそれは、周囲の構造とは明らかに異質だった。
「……生体コネクター」
ヒナが翔を見る。
「前に言ってたもの?」
「うん。今までの人工メモリにはなかった。本物のガイアメモリを直接使うためのものだ」
幹部の手には一本のメモリがある。
人工物とは違う。
見間違えようがない。
スイッチが押された。
《ICEAGE!》
低い電子音。
翔の顔が強張る。
「……アイスエイジ」
「知っているのか?」
幹部が初めて翔へ明確な興味を向けた。
「何故――」
問いが終わる前に、メモリが胸部のコネクターへ差し込まれる。
直後。
空気が変わった。
白い霜が床を走り、凍結が金属床から搬送レーン、コンテナの壁へと一気に広がっていく。
「離れて!」
ヒナの声に全員が飛び退いた直後、さっきまで立っていた場所から巨大な氷柱が突き上がった。
その中心で、カイザーの幹部だったものが冷気を纏う異形へ変貌している。
ICE AGEドーパント。
人工メモリ使用者とは違う。
身体が崩れていない。
苦しんでもいない。
ただ、安定した異形としてそこに立っていた。
「装置は!?」
イオリが即座に敵の身体を確認する。
「外にない!」
翔が叫ぶ。
「今までみたいに撃って止めるのは無理だ!」
飛来した氷塊へ、ヒナが機関銃を向ける。
短い連射。
数発の弾丸がほぼ同じ位置へ集中し、氷塊の中心へ亀裂を走らせる。続けて叩き込まれた弾幕がそれを真正面から粉砕した。
その横をイオリが抜け、ICE AGEドーパントの側面へ回り込む。
「だったら本体を止める!」
イオリの射撃に続き、ヒナも機関銃を構え直す。
今度はICE AGEドーパントの上半身へ長めの連射を浴びせた。
連続する着弾に異形の身体が押され、表面を覆う氷が次々と弾け飛ぶ。
確かに効いている。
だが、砕かれた場所へすぐ白い霜が走り、新しい氷が覆い直していった。
「再生してる……!」
「違う! 氷で覆い直してる!」
翔は腰のロストドライバーへ手を掛け、黒いメモリのスイッチを押す。
《JOKER!》
「変身!」
メモリをドライバーへ差し込む。
冷気の中に、黒い仮面の戦士が現れた。
ICE AGEドーパントの視線が止まる。
「……なるほど」
「何だよ」
「君だったのか」
これまで人工メモリ実験へ何度も介入してきた黒い戦士。その正体を、幹部はようやく理解した。
「なら、なおさら都合がいい」
冷気が爆発する。
ジョーカーは床を蹴った。
凍っていく足場を見ながら突き出す氷柱をかわし、一本を踏み台にして距離を詰める。右拳をICE AGEが腕で受け、砕けた氷片の向こうへ左拳、肘、膝と連撃を重ねた。
だが、踏み込んだ床が一瞬で凍る。
「っ!」
足を取られた隙にICE AGEの腕が振り抜かれ、ジョーカーの身体がコンテナへ叩きつけられた。
「翔!」
ヒナが機関銃を構え、ICE AGEの肩から胸元へ一気に弾幕を叩き込んだ。
連続する衝撃に異形の身体が揺れ、翔へ向かいかけていた追撃が逸れる。
「大丈夫!」
翔はすぐに立ち上がった。
イオリの射撃が足元の氷を砕き、後方ではチナツが風紀委員たちへ避難誘導を指示している。
一人で戦っているわけじゃない。
それでも、冷気は止まらなかった。
施設の外へまで白い霜が伸び始める。
『委員長!』
通信へアコの声が飛び込んだ。
『温度低下が施設外でも確認されています! このままでは隣接する商業区まで――』
ICE AGEが腕を広げる。
次の瞬間、爆発的な冷気が倉庫の壁を突き破った。
「まずい!」
翔が振り返る。
白い奔流が施設外へ流れ出していく。
その先には。
人がいる。
「追う!」
ヒナが即座に走り出し、翔たちも後を追った。
* * *
商業区は、数分前までの日常を完全に失っていた。
通りを白い氷が覆い、街灯や看板、車両までが凍りついている。市民たちが逃げ惑う中、風紀委員が避難路を確保し、チナツが負傷者を安全な場所へ誘導していた。
ジョーカーも走りながら倒れた市民を起こし、風紀委員へ引き渡していく。
「こっちへ! まだ温度が下がっています! 立ち止まらないでください!」
チナツの声が通りに響く。
その後方からICE AGEドーパントが歩いてくる。
ゆっくりと。
まるで、この光景さえ実験の続きでしかないように。
その時。
「――――この人置いてくとか無理でしょ!!」
聞き覚えのある声が届いた。
翔の身体が止まる。
通りの向こう。
キララがいた。
エリカもいる。
二人で倒れた獣人の市民を支え、避難路へ運ぼうとしていた。
「キララ……エリカ……」
思わず名前が漏れる。
しかし今の自分はジョーカーだ。
二人は翔だとは気づかない。
「エリカ、この人先に!」
「分かってる! キララも早く!」
「うん!」
その瞬間、ICE AGEドーパントが片腕を向けた。
「やめなさい!」
ヒナが機関銃を跳ね上げる。
狙いを絞った短いバーストがICE AGEドーパントの腕へ集中し、冷気を放とうとしていた腕を横へ弾いた。
だが、その直前に漏れ出した冷気が地面を走る。
「っ!?」
キララとエリカの足元から氷が一気に膨れ上がった。
「なにこれ!?」
「キララ、動いて!」
「動かないって!」
氷は膝を越え、太腿から腰近くまで二人を呑み込んでいく。
エリカが銃を抜いて自分の足元へ撃ち込んだ。氷片が飛び散るものの、砕いた場所へすぐに白い霜が走り、再び塞いでしまう。
「また……!」
冷気が止まっていない。
さらに二人の近くには、避難しきれなかった犬の獣人男性が倒れていた。
「エリカ!」
「分かってる!」
自分たちが拘束されているにもかかわらず、エリカは身体を伸ばして男性の服へ手を伸ばし、キララも届く限り腕を伸ばす。
「もうちょっと……!」
その姿を見た瞬間。
翔の胸の奥で、何かが強く脈打った。
また誰かが。
自分より先に、他の誰かを助けようとしている。
「攻撃を止めて」
ヒナの声が低くなる。
「そこにはまだ生徒と市民がいる」
ICE AGEドーパントはキララたちへ視線を向けた。
「確認している」
「なら止めなさい」
「その必要はない」
冷たい返答だった。
「キヴォトスの生徒は頑丈だ。多少の攻撃で簡単に動けなくなるほど脆くはない」
「限度がある」
ヒナの声から温度が消える。
「あのまま冷却を続ければ、あの子たちのヘイローが壊れる」
それでもICE AGEは腕を下ろさない。
「なら、そこまでにどれだけ耐えるのか確認できる」
「……何?」
翔の声が漏れた。
「本物のガイアメモリによる低温環境。生徒を対象にした実測値はまだない」
キララの身体が震えている。
さっきまで明るく笑っていた顔から血の気が引いていた。
「……これ、さすがにヤバいかも」
「喋らなくていい」
エリカも呼吸が荒い。
「キララ、意識ちゃんと保って」
「それエリカもね……」
氷はさらに厚くなる。
それを。
目の前の男は。
「想定より耐えるな」
観察している。
苦しんでいる二人を見ているのではない。
測っている。
「自身も危険域にありながら、他者の救助を優先する。合理性に欠ける行動だ」
翔の拳が震えた。
「……黙れ」
ICE AGEドーパントがこちらを見る。
「感情変化を確認」
「黙れって言ってんだよ」
仮面の奥から出た声は、自分でも聞いたことがないほど低かった。
その時、キララたちの頭上から嫌な音が響く。
凍りついた大型連絡通路。
急激な冷却と戦闘の衝撃を受けた支持部が、悲鳴のような金属音を上げていた。
「上!」
イオリが叫ぶ。
巨大な氷と鉄骨の塊が傾き始めた。
二人は逃げられない。
腰まで氷に呑まれている。
それでもエリカは倒れた市民へ腕を伸ばし、キララも自分の身体を捻って男性を引き寄せようとする。
「この人だけでも――!」
ICE AGEドーパントはそれさえ見ていた。
「興味深い」
翔の中で何かが弾けた。
ジョーカーメモリを引き抜く。
黒い姿は消えない。
すぐに次のメモリを手に取り、スイッチを押した。
《HEAT!》
ドライバーへ差し込む。
赤。
熱。
深紅の姿へ変わった瞬間、翔の周囲を覆っていた氷が一斉に音を立てて融け始めた。蒸気が立ち昇り、水滴が凍結した路面を流れていく。
「出力上昇」
ICE AGEが言う。
「感情による変動か。ならばその状態を維持しろ。さらにデータを――」
「黙れ」
翔は一歩踏み出した。
視線の先にはICE AGEドーパントがいる。
殴りたい。
今すぐ。
右拳が強く握られ、溢れそうな熱が集まっていく。
その時。
『翔!』
片耳通信機からヒナの声が飛び込んだ。
落ち着けとも。
怒るなとも。
言わない。
翔が視線を動かす。
少し離れた場所にいるヒナは、ただキララたちの方を見ていた。
逃げ遅れた市民。
身体を氷に呑まれた二人。
そして、今にも崩れ落ちようとしている巨大な構造物。
翔の拳が止まる。
「……っ」
怒りは消えない。
少しも。
それでも握っていた拳がゆっくりと開いた。
翔はICE AGEドーパントへ背を向ける。
「イオリ!」
「分かってる!」
赤い身体がキララたちへ走り出す。
同時にヒナが大型連絡通路の支持部へ機関銃を向け、短い連射を叩き込んだ。
連続する着弾が凍結した接合部を削り、亀裂を大きく広げる。
その反対側へ、イオリが狙い澄ました数発を撃ち込んだ。
完全に落下を止めることはできない。
それでも二人の射撃で支持部の崩れ方が変わり、巨大な構造物の落下方向が僅かに外へずれる。
『翔、今!』
翔はキララたちの前へ滑り込んだ。
「え――」
キララが赤い仮面を見上げる。
「赤い……人?」
「動かないで」
翔は氷へ手を当てた。
全身から熱が溢れそうになる。
だからこそ抑える。
広げない。
キララの身体へ直接触れている部分ではなく、その外側だけ。
指先で短く熱する。
すぐ離す。
場所を変えて、また一瞬。
次はエリカ。
その次は倒れている市民。
「……っ」
焦る。
早くしろと胸の奥の熱が叫んでいる。
それでも急ぎすぎない。
ここで間違えれば、助けるための力が二人を傷つける。
距離。
時間。
角度。
場所。
そして、止めること。
あの訓練場で覚えた一つ一つを、怒りの中でも手放さない。
氷に細い亀裂が走った。
「今!」
翔が割る。
キララの身体が自由になる。
「エリカ!」
「私はまだ――」
「すぐやる!」
頭上から巨大な鉄骨が落ちてくる。
ヒナがすぐさま銃口を切り替えた。
落下する構造物へ長めの連射を浴びせ、表面にこびりついた巨大な氷塊を次々と砕いて重量を削る。
その間にイオリが残った接合部へ数発を正確に撃ち込み、最後の一点を破壊した。
軌道を変えられた鉄骨が数メートル横へ落下し、地面を大きく揺らす。
「っ……!」
それでも翔は手を止めない。
エリカを拘束する氷を短く熱し、亀裂へ力を加えて割る。
「立てる?」
「……たぶん」
「キララは無理」
「エリカもでしょ……」
まだそんなことを言える。
それだけで、胸の奥に僅かな安堵が生まれた。
「チナツ!」
「はい!」
駆け寄ってきたチナツへ、翔は三人を託す。
「二人と、この人を頼む」
「任せてください」
翔は立ち上がり、振り返った。
ICE AGEドーパントは変わらずそこにいる。
「理解できない」
幹部の声。
「今の出力なら、私へ攻撃を集中させるべきだった」
翔は黙って向き直る。
「勝機を捨ててまで、利用価値のない者を救助する合理的な理由がない」
「……利用価値?」
「ゲヘナには同等の戦力がいくらでもいる。仮に二名が失われたとしても、代替は――」
空気が変わった。
ヒナがICE AGEドーパントを見る。
「……今の言葉」
静かな声だった。
「訂正した方がいい」
「事実だ」
翔も歩き出す。
「違う」
「何がだ?」
「あいつらは代わりじゃない」
赤い身体の周囲で、熱気が揺らめく。
「俺の友達だ」
ICE AGEドーパントは答えない。
「それに」
翔は構えた。
「友達じゃなくたって同じだ」
「……?」
「助けられるなら、助ける」
「合理性がない」
「そうかもな」
翔は否定しなかった。
「でも、お前に分からなくていい」
ICE AGEドーパントが腕を振る。
巨大な氷壁が立ち上がり、そのまま冷気の奔流が押し寄せる。
翔は真正面から前へ出た。
HEATの熱を氷壁全体へぶつけるのではなく、それを支える薄い一点へ短く集中させる。
「ヒナ!」
「うん」
翔が熱で脆くした箇所へ、ヒナが短いバーストを叩き込む。
数発がほぼ同じ位置へ集中し、細かった亀裂が一気に広がった。
「イオリ!」
「任せろ!」
イオリが別角度から射線を通し、残った支点へ数発を撃ち込む。
氷壁の一角が大きく崩れ、翔は開いた隙間を駆け抜けた。
ICE AGEドーパントの拳を避け、赤い拳を腹部へ叩き込む。
砕けた氷が舞う。
返ってきた腕を受けた瞬間、冷気が翔の腕を凍らせた。翔は一瞬だけ熱を高め、自分を覆った氷だけを融かして離れる。
「制御精度が上昇している」
「まだ分析してんのかよ」
「価値のある現象は記録する」
「……最後までそれか」
怒りは消えていない。
むしろ強くなる。
だが、動きは乱れなかった。
ジョーカーで積み上げてきた足運びも、間合いも、相手の重心を見る感覚も、HEATになったから失われるわけではない。
右へ誘う。
ICE AGEドーパントが氷柱を伸ばす。
半歩ずれる。
掌で根元だけを熱する。
崩れた氷柱の向こうをイオリの弾丸が抜け、ICE AGEが体勢を崩す。
その瞬間、ヒナが機関銃を肩へ引きつけた。
逃げ道を潰すように短く連射し、ICE AGEドーパントの上半身へ弾丸を集中させる。
連続する着弾に押され、異形の巨体がさらに後退した。
「ぐ……!」
初めて幹部の声に明確な焦りが混じった。
周囲から氷が集まり始める。
一枚。
二枚。
さらにその外側。
何重もの氷壁がICE AGEドーパント自身を包み、巨大な要塞のような形を作り上げていく。
「無駄だ」
内側から声が響く。
「全面を融解させる前に、お前の方が限界へ達する」
全面。
全部。
翔は氷壁を見上げた。
ふと、炎を器用に使い分けていた温泉開発部の作業班長と、その横で得意げに語っていた部長の姿が頭を過る。
力とは、最大出力だけではない。
距離。
時間。
角度。
どこへ作用させるか。
全部壊す必要なんてない。
「……そうだよな」
「何?」
「全部融かす必要ないんだ」
翔は氷壁の端へ指先を当てた。
短く熱する。
離す。
少し位置を変え、また短く。
内部へ向かって細い亀裂が走る。
「ヒナ!」
ヒナは即座に照準を合わせた。
無駄に弾幕を広げず、亀裂の一点へ短い連射を集中させる。
複数の弾丸が同じ箇所を削り、亀裂が奥まで一気に伸びた。
「イオリ!」
「分かってるっての!」
イオリがその先に残った支点を正確に撃ち抜く。
氷壁の一角だけが崩落した。
人一人が通れる程度。
それで十分。
翔が走る。
「馬鹿な――」
HEATの身体が狭い隙間へ飛び込み、腕を構えたICE AGEドーパントの目前まで迫る。
そこで翔はヒートメモリを引き抜いた。
赤い姿は崩れない。
すぐに黒いメモリへ切り替える。
《JOKER!》
深紅から漆黒へ。
翔の原点となった姿へ戻る。
「なぜ出力を落とす!」
ICE AGEの拳をジョーカーが受け流す。
「落としてない」
肩へ潜り込み、身体を入れる。
「変えただけだ!」
重心を崩されたICE AGEの巨体が地面へ叩きつけられた。
翔は起き上がる隙を与えず距離を詰める。
右拳。
左拳。
肘。
低い蹴り。
氷を生成しようと肩が動いた瞬間には、もうそこから外れている。
伸びた腕を逸らし、そのまま懐へ入る。
ICE AGEドーパントが後退した。
「何故だ」
周囲の冷気が荒れる。
「何故それほど怒っていながら、攻撃が乱れない!」
翔の拳が一瞬だけ止まった。
「……怒ってるよ」
仮面の奥から、低い声が落ちる。
「今も」
キララとエリカ。
捨てられた人工メモリ使用者たち。
メモリに飲まれ、苦しんだT-REXの変身者。
利用されて。
使われて。
役目を終えれば捨てられた人たち。
思い出せば、今だって腹の底が熱くなる。
消えたわけじゃない。
消すつもりもない。
「でも――」
翔は構え直した。
「この怒りをどうするかは、俺が決める」
「……何?」
「誰を助けるかも、この力を何に使うかも」
黒い拳を握る。
「俺が決める!」
「理解できない……!」
ICE AGEの周囲で冷気が激しく渦巻いた。
「何故そこまでする! 何故自分より他者を優先する! 何故その力で、私を破壊しようとしない!」
ICE AGEドーパントが両腕を広げる。
苛立ちを露わにした声が、凍りついた街へ響いた。
「お前は――」
膨れ上がった冷気が周囲を震わせる。
「お前は一体、何なんだぁッ!?」
翔は答えなかった。
ほんの一瞬だけ。
昔、その名前は画面の向こう側にあった。
父と並んで見た、一人のヒーロー。
傷ついても。
苦しくても。
誰かを助けるために立ち上がる者。
あの頃の自分は、その背中をただ見ていた。
けれど今は。
腰にはロストドライバーがある。
手にはジョーカーがある。
そして何より。
助けたいと思う人たちが、この場所にいる。
翔はICE AGEドーパントを真っ直ぐ見た。
「……仮面ライダーだ」
「何……?」
今度は、はっきりと言う。
「俺は――」
黒い仮面の奥から、翔の声が響いた。
「仮面ライダーだ!」
誰かから与えられた称号ではない。
資格があると認められたわけでもない。
それでも。
今まで何のために戦ってきたのか。
これから何のために、この力を使うのか。
その答えを込めて、翔はその名を選んだ。
「仮面……ライダー……」
ICE AGEドーパントには、やはり理解できないらしい。
「そんな名称に、何の意味がある!」
「お前には分からなくていい」
翔はジョーカーメモリへ手を掛けた。
「俺は分かってる」
メモリをマキシマムスロットへ装填する。
《JOKER! MAXIMUM DRIVE!》
紫の力が全身を駆け抜ける。
ICE AGEドーパントも両腕を広げ、残る冷気を一点へ集中させた。
巨大な氷塊が形成されていく。
「翔!」
ヒナが機関銃を構える。
翔は走った。
ICE AGEドーパントが氷塊を撃ち出す。
ヒナの機関銃が長い連射を叩き込み、迫る氷塊の表面を猛烈な勢いで削っていく。無数の着弾によって亀裂が走り、その中心へイオリが狙い澄ました数発を撃ち込んだ。
「行け!」
氷塊が大きく砕ける。
道が開いた。
翔は止まらない。
踏み込む。
そして――跳ぶ。
砕け散る氷の間を抜け、漆黒の身体が高く宙へ舞い上がった。
紫の力が右脚へ集まっていく。
ICE AGEドーパントが見上げる。
そこにいるのは、もう名前のない黒い戦士ではない。
翔は空中で身体を捻った。
「これが――」
右脚をICE AGEへ向ける。
「俺の――!」
怒りで相手を壊すためではない。
これ以上、誰かを傷つけさせないために。
この戦いを終わらせるために。
「ライダーキックだぁぁぁッ!!」
一直線に。
右脚が、ICE AGEドーパントの胸部へ叩き込まれた。
「ぐおおおおおッ!?」
次の瞬間。
凄まじい衝撃とともに爆炎が弾けた。
冷気が吹き散らされ、周囲を覆っていた氷が一斉に砕ける。
爆発の中からICE AGEドーパントの身体が弾き飛ばされ、凍結した路面を大きく滑った。
翔も蹴りの反動から地面へ降り立つ。
「な……何だ、これは……!」
ICE AGEドーパントの身体から紫の光が溢れ、生体コネクターへ差し込まれていたメモリが弾き出された。
宙を舞うICE AGEメモリ。
一本の亀裂。
それが瞬く間に広がり。
メモリは、空中で砕け散った。
冷気が止まる。
異形の身体が崩れ、カイザーの幹部が元のロボットの姿へ戻っていく。
胸部外装の奥には、黒い生体コネクターだけが残されていた。
翔はゆっくりと立ち上がる。
肩で息をしながら、倒れた幹部を見る。
「……理解できない」
幹部の機械音声には大きな乱れが混じっていた。
「私を破壊したいのではないのか」
翔の拳が握られる。
殴ろうと思えば殴れる。
この男がやってきたことを思えば。
あと一発くらい。
そう思う自分が、いないわけじゃない。
その時。
「助けて!」
遠くから声が上がった。
凍結が解除され始めたことで、氷に支えられていた建物の一部が崩れようとしている。風紀委員たちが市民を避難させているが、まだ人手が足りない。
翔はそちらを見る。
倒れた幹部を見る。
自分の拳を見る。
そして。
開いた。
「……もう、お前との戦いは終わった」
踵を返す。
「待て」
幹部の声を背中に、翔は救助を求める人たちの方へ走った。
ヒナも同じ方向へ向かう。
その時、施設側から黒いカイザーの回収車両が飛び出した。
「委員長!」
イオリが振り返る。
「奴を回収する気だ! 追えばまだ間に合う!」
ヒナは一瞬だけ車両を見た。
次に、倒れた市民と崩れかけた建物、救助を続ける生徒たちへ視線を移す。
「追わない」
「でも!」
「今は救助を優先する」
翔がヒナを見る。
ヒナもこちらを見る。
ほんの一瞬。
言葉はなかった。
それでも、十分だった。
「……分かった」
イオリも銃を下ろし、救助へ向かう。
カイザーの回収車両は遠ざかっていった。
誰も追わない。
今、守るべきものは。
ここにいる。
* * *
騒ぎが落ち着き始めた頃。
翔は人目のない建物の裏で変身を解いた。
全身には疲労が残っている。
それでも、痛みより先に確認したいことがあった。
通りへ戻ると、チナツが負傷者の状態を確認している。その近くで休んでいたキララが、翔を見つけた。
「あ」
「翔っち!」
立ち上がろうとしたキララを見て、翔は慌てて駆け寄る。
「待て待て待て! 今無理して立つな!」
「えー、大丈夫だって」
「さっきまで腰まで凍ってた奴が言うな!」
「見てたの?」
「……近くで救助手伝ってたから」
エリカがじっと翔を見る。
「また?」
「何が」
「危ないところにいたの」
「それは……」
「翔っち絶対そういうとこあるよねー」
「いや、今回はお前らもだろ」
翔は二人の顔を見た。
さっきまでの怒りとは違う。
今度は、本当に心配から出た声だった。
「何で逃げなかったんだよ」
エリカが少しだけ目を丸くする。
「だって」
そして、当たり前のように答えた。
「目の前に助けられそうな人がいたんだから、仕方ないでしょ」
翔が言葉に詰まる。
キララも頷いた。
「翔っちだって絶対同じことするじゃん」
「……」
「ね?」
「……そうだけど」
「ほらー!」
「だからって心配するのは別だろ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
キララとエリカも一瞬だけ黙る。
翔は視線を逸らさなかった。
「……無事でよかった」
短い言葉。
でも、それ以上は必要なかった。
キララが少しだけ柔らかく笑う。
「うん」
エリカも小さく息を吐いた。
「心配かけたなら、ごめん」
「次からもっと早く逃げろ」
「翔もね」
「……それは」
「ほら」
「何で俺だけ言い返せないんだよ」
ようやく。
三人の間に小さな笑いが戻った。
その様子を少し離れた場所から見ていたヒナが、翔へ近づく。
「翔」
「ヒナ」
「今日はかなり無茶した」
「……やっぱり?」
「うん」
「即答だな」
「でも」
ヒナは一度言葉を止める。
「ちゃんと戻ってきた」
翔も少し黙った。
以前交わした言葉を思い出す。
「そっちもな」
「私はいつも通り」
「それが一番信用できないんだけど」
「……ひどい」
ほんの少しだけ、ヒナの表情が緩んだ。
やがて彼女は翔を見上げる。
「怒ってたね」
「……うん」
否定しない。
「今も?」
翔は少し考えた。
胸の奥。
まだ熱い。
「少し」
「そう」
ヒナは、それ以上何も言わなかった。
怒るなとも。
忘れろとも。
翔も言い訳はしない。
「でも」
翔は救助の続く通りを見る。
「やることは、間違えなかったと思う」
ヒナも同じ方向を見た。
「私もそう思う」
その一言が。
妙に嬉しかった。
怒りは消えていない。
あの幹部の言葉を思い出せば、今でも腹の底が熱くなる。
たぶん、すぐには消えない。
でも。
消さなくてもいい。
怒ったままでも、誰かを助けることはできる。
力を振るうこともできる。
拳を止めることもできる。
その熱が、勝手に翔を動かしたわけじゃない。
殴るのか。
助けるのか。
誰のために、その力を使うのか。
決めるのはメモリじゃない。
怒りでもない。
自分だ。
そして今日。
もう一つだけ、自分で決めたものがある。
仮面ライダー。
昔は父と一緒に、画面の向こう側で見ていた名前。
今、その名前を名乗ることが正しいのか。
まだ翔には分からない。
それでも。
少なくともあの時、自分が何者なのかを問われて。
他の答えは浮かばなかった。
誰かを助けるために戦う。
そのために、この力を使う。
なら。
今はそれでいい。
胸の奥に残る熱を抱えたまま、翔は仲間たちのいる方へ歩き出した。
その熱を、誰のために使うのか。
今の翔には。
もう、分かっていた。