青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
朝。
ひだまりの店内には、まだ客の姿がなかった。
窓から差し込む柔らかな日差しが、磨かれた床の上に細長く伸びている。
翔はモップを片手に、店の奥から入口へ向かって床を磨いていた。
「……こんなもんか」
最後に店内を見回す。
テーブルの位置。
椅子の並び。
カウンターの足元。
昨日の閉店後に掃除したはずなのに、朝になるとまた細かな埃が目につく。
翔は小さく息を吐き、モップを壁際へ立てかけた。
腰に手を当てて伸びをする。
「朝からご苦労なことだ」
カウンターの向こうから声がした。
新聞を広げたニャン次郎が、こちらを見ている。
「誰のせいだと思ってんだよ」
「店主として当然の仕事を頼んでいるだけだ」
「はいはい」
翔は苦笑する。
もう、このやり取りにもすっかり慣れていた。
ひだまりで働き始めてから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。
それでも。
朝になれば店を掃除する。
開店すれば客を迎える。
注文を取り、料理を運び、皿を洗う。
必要なものがなくなれば買い出しに行き、閉店後には店を片付ける。
そんな生活が、少しずつ自分の中に馴染み始めていた。
キヴォトスへ来たばかりの頃には、考えもしなかったことだった。
あの頃の翔には、今日をどうやって生きるかということしか頭になかった。
どこで眠るか。
何を食べるか。
自分がどこにいるのか。
そして、どうすれば元の世界へ帰れるのか。
何も分からなかった。
けれど。
今は違う。
少なくとも、今日の夜に眠る場所を探す必要はない。
腹が減れば、食事を用意してもらえる。
朝になれば、やることがある。
そして夜になれば、戻ってくる場所がある。
たったそれだけのことなのに。
翔にとっては、それが思っていた以上に大きかった。
「翔」
「ん?」
ニャン次郎が一枚の紙を差し出す。
「買い出しを頼めるか」
翔は紙を受け取った。
書かれているのは、今日必要な食材の一覧だった。
野菜。
パン。
コーヒー豆。
牛乳。
その他、細かな食材がいくつか。
「……結構あるな」
「昨日、客が多かったからな」
「ああ、そういや昼から忙しかったっけ」
昨日の店内を思い出す。
ひっきりなしに注文が入って、皿を洗う暇もなかった。
あの時は大変だったが、今になって思えば悪くない忙しさだった。
「了解。行ってくる」
「頼んだ」
翔はエプロンを外し、買い物袋を手に取った。
「じゃ、行ってきます」
「ああ。気をつけろ」
店の扉を開ける。
朝の風が、翔の頬を撫でた。
「……いい天気だな」
思わず空を見上げる。
青い空。
白い雲。
そして、その空に浮かぶ巨大な輪。
ヘイロー。
キヴォトスへ来たばかりの頃は、あれを見るたびに自分が異世界にいるという事実を突きつけられているような気がした。
今では、少しだけ見慣れている。
銃を持った少女が歩いていても。
動物のような姿をした住民が普通に買い物をしていても。
ロボットが荷物を運んでいても。
以前ほど足を止めることはなくなった。
「……慣れって怖いな」
翔は苦笑した。
最初は何もかもが異常だった。
それが今では、少しずつ「キヴォトスの日常」として受け入れられ始めている。
その事実に、翔自身が一番驚いていた。
* * *
買い出しを終えた頃には、太陽もすっかり高くなっていた。
両手に袋を提げ、翔は商店街を歩く。
「……重っ」
片方の袋を持ち替える。
野菜と飲み物が入った袋が、腕にずっしりと食い込んでいた。
「これ、もうちょっと分けてもらえばよかったな……」
独り言を呟きながら歩いていると、ふと街角に設置された掲示板が目に入った。
学校からの告知。
地域のイベント情報。
自治区のニュース。
様々な紙が所狭しと貼られている。
翔は足を止めた。
「……そういや」
ずっと気になっていたことがある。
――今は、いつなんだ?
キヴォトスへ来てから、何度も考えていた。
だが、最初の頃はそんなことを調べている余裕などなかった。
寝る場所を探す。
食事をどうするか考える。
この世界がどこなのかを確認する。
何より、自分が明日も生きていけるのか。
それだけで精一杯だった。
けれど、ひだまりで暮らすようになってから、少しずつ余裕が生まれた。
今なら、少しくらい自分の置かれている状況を調べてもいいだろう。
「……ちょっと見てみるか」
翔は掲示板へ近づいた。
目を走らせる。
ゲヘナ。
トリニティ。
ミレニアム。
アビドス。
知っている名前が、いくつも並んでいる。
「……やっぱり、あるんだな」
改めて見ると妙な気分だった。
ゲームの中で何度も見た名前。
何度も聞いた名前。
それが、現実の掲示物として目の前にある。
翔は掲示板に貼られた情報を、一つずつ目で追っていった。
学園の行事。
自治区の告知。
生徒向けの案内。
様々な情報が並んでいる。
その中に。
「…………あれ?」
翔の視線が止まった。
もう一度、掲示板を見る。
最初から。
端から端まで。
そして、もう一度。
「……ない」
小さく呟く。
何がないのか。
自分でも分かっている。
「……シャーレ」
ゲームの中では、キヴォトスを語る上で欠かせない名前だった。
連邦生徒会直属の特別な組織。
そして、その中心にいる先生」。
翔は無意識に眉を寄せた。
「……シャーレって、まだないのか?」
だが、すぐに首を振る。
掲示板に載っていないからといって、存在しないとは限らない。
ただ単に、この掲示板に関係する情報ではない可能性もある。
「……じゃあ、先生は?」
今度は、その疑問が浮かんだ。
翔は腕を組む。
ゲームでは、先生がキヴォトスへやって来るところから物語が始まる。
シャーレも、先生が赴任してから本格的に動き始める。
けれど。
「…………」
翔は黙り込んだ。
今まで、そこまで気にしていなかった。
自分がキヴォトスに来たこと。
ひだまりで寝泊まりできるようになったこと。
生活に慣れること。
それだけで精一杯だったからだ。
しかし、改めて考えてみると。
何かがおかしい。
「……先生、まだ来てないのか?」
口にした瞬間。
翔の中に、一つの可能性が浮かんだ。
――まだ物語が始まっていない。
「…………」
翔はすぐに、その考えを否定しようとした。
「いや、待て」
そんな簡単に決めつけていい話じゃない。
シャーレが見つからない。
先生の姿を知らない。
それだけだ。
それだけで「原作前」と判断するのは早すぎる。
「……でも」
翔は掲示板へ視線を戻した。
知っている世界と、知らない世界。
その境目が、少しずつ曖昧になっていく。
「……もしかして」
呟きかけて、口を閉じた。
まだ分からない。
だったら。
「……もう少し調べてみるか」
今すぐ答えを出す必要はない。
翔はそう考えた。
ただ一つ確かなのは。
ここが、自分の知っている『ブルーアーカイブ』と完全に同じ世界だとは、まだ言い切れないということだった。
「……まあ、考えてても仕方ねえか」
翔は買い物袋を持ち上げる。
「まずは店に戻らないとな」
ひだまりには、午後からの営業が待っている。
今の翔にとっては、それもまた大切な日常だった。
* * *
ひだまりの扉を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
ニャン次郎の声が返ってきた。
「買ってきたぞ」
「そこへ置いてくれ」
「了解」
翔は厨房へ向かい、買ってきた食材を一つずつ取り出していく。
「野菜は冷蔵庫?」
「ああ」
「パンはこっちだな」
「そうだ」
「コーヒー豆は?」
「棚の右」
「了解」
一つずつ片付ける。
それが終わる頃には、店の開店時間も近づいていた。
「翔、そろそろ頼むぞ」
「分かってるって」
翔はエプロンを締め直した。
そして、店の扉を開ける。
昼のひだまりに、最初の客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
自然と口から言葉が出た。
注文を取り。
料理を運び。
食べ終わった皿を下げる。
客から「ありがとう」と言われれば、
「どうも」
と笑って返す。
そんなやり取りを繰り返しているうちに、昼の時間はあっという間に過ぎていった。
特別なことは何もない。
それでも。
翔にとっては、その何でもない一日が大切だった。
知らない世界。
知らない街。
知らない人々。
それでも、自分が戻ってこられる場所がある。
その事実だけで十分だった。
* * *
夜。
最後の客を見送った後、ひだまりは静かな店内へ戻っていた。
翔は最後のテーブルを拭く。
「……終わり」
布巾を洗い、カウンターへ戻す。
ニャン次郎が店内を確認している。
「戸締まりは?」
「終わってる」
「そうか」
翔はエプロンを外した。
店の外へ出て、看板を片付ける。
シャッターを下ろす。
ふと、空を見上げた。
「…………」
キヴォトスへ来たばかりの頃。
この空は、知らない空だった。
今も、知らない空であることに変わりはない。
ただ。
少しだけ、見上げることには慣れてきた。
「……明日も、こんな感じかな」
翔が呟く。
「さあな」
後ろからニャン次郎の声がする。
「未来のことなど、誰にも分からん」
「そりゃそうか」
翔は笑った。
「じゃあ、明日のことは明日考えるか」
「ああ」
翔は店の中へ戻る。
ひだまりの明かりが、夜の街を小さく照らしていた。
少なくとも今は。
ここが、自分の帰る場所だった。
* * *
――同じ頃。
キヴォトスのどこか。
人目につかない地下施設。
分厚い扉の向こうで、いくつもの機械が低い音を立てていた。
壁には、カイザーコーポレーションのロゴが刻まれている。
外部には存在すら知られていない、非公開の研究区画だった。
「解析結果は?」
「まだ大きな進展はありません」
「材質は?」
「既存のデータベースには一致しません」
「動力源は?」
「不明です。ただ、内部に高密度のエネルギーが蓄積されていることは確認できています」
研究員の一人がモニターを操作する。
画面には、遺物の内部構造を解析したデータが表示されている。
「年代測定は?」
「正確な測定は困難です。ただ、現在確認されている技術体系よりも古い可能性があります」
「……それで?」
別の研究員が尋ねる。
「兵器転用の可能性は?」
「あります」
即答だった。
「出力そのものは非常に高い。既存の携行兵器と比較しても、かなりの差があります」
「なら、研究を続けろ」
「了解」
彼らにとって、それで十分だった。
それが何のために作られたものなのか。
誰が作ったのか。
どんな歴史を持っているのか。
そんなことは二の次だ。
使えるのか。
使えないのか。
兵器にできるのか。
利益になるのか。
それが重要だった。
「起動試験を行います」
「安全装置は?」
「問題ありません」
研究員が装置へケーブルを接続する。
スイッチが入った。
低い駆動音が響く。
「出力上昇!」
「記録!」
「数値が安定しません!」
研究員たちがモニターを確認する。
その時。
研究室の中に、小さな電子音が響いた。
――《……》
「……今のは?」
一人が振り返る。
もう一度。
今度は、はっきりとした音声が響いた。
――《T-REX》
研究員たちが黙り込む。
「音声機能なんてあったか?」
「確認されていません」
「なら、何だ?」
ケースの中。
奇妙な装置が、ほんの一瞬だけ光を放つ。
「……もう一度だ」
「しかし――」
「データを取るんだ」
研究員が装置へ近づく。
再び起動音が響く。
そして。
――《T-REX》
研究員は装置を見つめた。
「……今の反応を記録しておけ」
「はい」
研究員が慌ただしく操作を始める。
その様子を、少し離れた場所に設置されたモニター越しに見ている者がいた。
現場とは別の場所。
研究室から送られてくる映像を、無言で眺めている。
『それで?』
低い声が響く。
『兵器への転用は可能か』
「現時点では断定できません。ただ、出力だけを見れば既存兵器を上回る可能性があります」
『可能性では困る』
「……研究を続ければ、実用化できる見込みはあります」
しばしの沈黙。
やがて、モニターの向こうから短い返答が返ってきた。
『なら、続けろ』
「了解しました」
『それが使えるなら、価値はある』
それだけだった。
そこに遺物への畏怖も、歴史への興味もない。
あるのは、ただ一つ。
それを兵器として利用できるか。
そして、どれだけの利益を生み出せるか。
カイザーにとって重要なのは、それだけだった。
研究員たちは再び装置へ向き直る。
その背後で、モニターの映像が暗くなった。