青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
いや、驚きですなぁ。
事件から数日。
ゲヘナ学園・風紀委員会本部の会議室では、商業区で起きた一連の事件について、改めて情報の整理が行われていた。
負傷者の状況。現場から回収された資料や機材。以前調査した物流倉庫から辿った記録との一致。そして、本物のガイアメモリを使用して異形へ変貌したカイザーの幹部。
アコは端末に表示された報告書へ目を通しながら、順に確認していく。
「今回の施設については、以前調査した物流倉庫から辿った記録と複数の点で一致しています。現場にいた人物についても、カイザー側の幹部であることを確認しています」
「じゃあもう、カイザーがやったってことでいいじゃんか」
椅子に座ったイオリが眉を寄せた。
「ここまで揃ってるのに、まだ足りないのか?」
「現場にカイザーが関与していたと判断するには、十分です」
アコはそこで一度言葉を切った。
「ですが、カイザーコーポレーションという組織全体の意思決定によって行われたものだと証明するには足りません」
「……面倒くさいな」
「巨大な組織を相手にする以上、必要なことです」
隣では、チナツが被害状況と治療経過に関する資料を整理している。
「現場に残されていた記録だけでは、研究計画がどこまでの範囲で共有されていたのか、命令系統までは辿れそうにありません」
「あの幹部を確保できていれば、もう少し話は進んだかもしれないけど」
ヒナが静かに言った。
商業区での戦いの最後、優先したのは逃げる幹部の追跡ではなく、その場に残された生徒と市民の救助だった。
けれど、ヒナの声にその判断を悔いる色はない。
イオリも同じなのだろう。悔しそうに舌打ちこそしたものの、それ以上は何も言わなかった。
「それでも、押収できたものはある」
「はい。無駄ではありません」
アコが頷く。
「今回の件については、事件当日のうちに万魔殿へ正式な報告を上げています。連邦生徒会にも、同様の事件が自治区外へ広がる可能性を考慮し、概要を送付済みです」
「連邦生徒会も動くのか?」
「それは別の話です」
イオリの問いに、アコは即座に答えた。
「ここはゲヘナ自治区です。現場での捜査と治安維持は、引き続き私たち風紀委員会が担当します。カイザーへの組織的な抗議や、他組織との正式な交渉については万魔殿の管轄です」
「……あいつらに任せるのかよ」
「私たちは風紀委員会だよ、イオリ」
ヒナが言う。
「ゲヘナの政治まで全部引き受ける組織じゃない」
「……分かってるよ、委員長」
納得はしている。
気に入っているかどうかは、また別らしい。
「連邦生徒会からは?」
「現時点では受領確認のみです。現在の向こうの状況を考えれば、すぐに大きな動きがあるとは考えにくいでしょう」
アコが別の資料を開く。
「ですので、こちらはこちらで調査を継続します。カイザーに関連する物流経路や施設についても、引き続き警戒を」
「分かった。こっちはこっちで続けるんだな」
イオリが頷く。
そこで、アコの指が止まる。
「それと、もう一点」
「まだあるのか?」
「あります」
画面が切り替わった。
表示されたのは、一人の外部協力者についての記録。
風間翔。
その名前とともに記された変身時の暫定識別名には、これまで通り『黒い戦士』の文字が残っている。
「今回から、この暫定呼称を変更します」
イオリも画面を見る。
「ああ……本人が名乗ったからか」
「はい」
アコが入力欄を操作する。
『黒い戦士』の文字が消えた。
そして、新しい名称が記録される。
仮面ライダー。
「本人が自ら名乗った名称を、そのまま採用します」
「……仮面ライダー、か」
イオリが、まだ少し聞き慣れない響きを確かめるように口にする。
「なお、『ジョーカー』及び『ヒート』については、使用するガイアメモリに応じた変身形態の識別名として扱います。『仮面ライダー』という本人の呼称とは分けて記録します」
「その方が分かりやすいと思います」
チナツが頷いた。
「今までの『黒い戦士』では、ヒートの姿を含めて呼ぶことができませんから」
「ああ、それならそっちの方が分かりやすいな」
イオリも納得したように腕を組む。
ヒナはしばらく、画面に表示された文字を見つめていた。
「……翔がそう名乗ったなら、それでいいと思う」
「では、そのように」
アコも異論なく、記録を確定した。
「万魔殿と連邦生徒会へ送る追補資料についても、以降はこちらの表記に統一します」
これで、風紀委員会の記録から『黒い戦士』という暫定的な名前は消えた。
「ただし、風間さん本人と仮面ライダーとの関連については、引き続き外部非公開とします」
「当然だろ。わざわざカイザーに教えてやる必要なんてない」
「本人の身元が一般へ広まれば、『ひだまり』や周辺の方々にも影響が及ぶ可能性があります」
チナツの言葉に、ヒナも頷いた。
「本人の同意なく、私たちから明かす理由はない」
「問題は――」
アコが小さく息を吐いた。
「『仮面ライダー』という名称そのものについては、もう隠しようがないことでしょうね」
商業区での戦いには、多くの目撃者がいた。
戦闘を記録した映像も、すでにいくつか出回り始めている。
何より――あの場で、翔自身が名乗った。
誰かに与えられた呼び名ではない。
自分の意志で。
――仮面ライダー、と。
* * *
「カイザーめ……!」
万魔殿の会議室に、低く押し殺したマコトの声が響いた。
机の上には、風紀委員会から送られてきた報告書と押収資料の一覧が広げられている。
「我々ゲヘナの領内で市民を実験に使い、挙げ句の果てには商業区であれだけの騒ぎを起こしただと……!」
次の瞬間、マコトは机を叩いて立ち上がった。
「ふざけおって! この大ゲヘナ学園を何だと思っている!!」
「あ、それについては同感です」
イロハは淡々と資料をめくった。
「風紀委員会から押収品の一覧も届いています。連邦生徒会へ追加の資料を送るなら、まとめておきますよ」
「管理記録の方も調べているわ、マコトちゃん」
サツキも端末へ目を落としたまま言う。
「ただ、風紀委員会の報告を見る限り、カイザー全体の指示だったと証明できるところまでは行ってないみたいね」
「ぬぬぬ……小賢しい真似を!」
マコトは忌々しそうに報告書を睨みつけた。
「いいだろう! ならばこちらも徹底的に調べてやる! ゲヘナを敵に回したこと、後悔させてくれるわ! キキキッ……!」
「余計なことはしないでくださいね」
「何だと、イロハ!」
「普通に調べるだけなら何も言いません」
「ふん! このマコト様を何だと思っている!」
「それに答えると長くなるのでやめておきます」
「おい!」
その横で、チアキが風紀委員会から送られてきた追補資料へ目を通していた。
「マコト先輩。例の方についても、追加の報告がありますよ」
「例の?」
「以前から風紀委員会と一緒に行動している、黒い仮面の方です」
「ああ、あいつか!」
マコトが振り返る。
「ヒナたちと何度も現場に現れているという、正体不明の戦士だな!」
「まだ秘密兵器だと思ってるんですか?」
イロハが呆れたように言った。
「外部の協力者だと、前から説明されているじゃないですか」
「だが、ヒナが何か隠している可能性は捨てきれん!」
「何でそこだけ頑ななんですか……」
「それで、今回は何が分かったのだ?」
マコトがチアキの持つ資料を覗き込む。
「呼び方ですね」
「呼び方?」
「はい。これまで風紀委員会でも暫定的に呼んでいたみたいですけど、今回の戦いで本人が自分から名乗ったそうです」
チアキが該当箇所を指した。
「――『仮面ライダー』」
「……仮面ライダー?」
マコトがその文字を読み上げる。
「これが、あの黒い戦士の名前か?」
「正確には本人が名乗った呼称、ということみたいですね」
イロハが補足する。
「ジョーカーとヒートは、使うガイアメモリによる姿の違いとして整理されています」
「ほう……」
マコトが腕を組む。
「仮面ライダー、か」
その言葉を聞いていたイブキが、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、あの人の呼び方が分かったの?」
「そうみたいですよ、イブキ」
イロハが答える。
イブキの表情が明るくなる。
「よかった! イブキ、前からあの人にありがとうって言いたかったんだ!」
以前、風紀委員会から話を聞いた時からそう言っていた。
名前も、どこの誰なのかも分からない。
それでも、誰かを助けるために戦っている人なら、一度会ってお礼を伝えたいと。
「そういえば、そんなこと言ってましたね」
イロハが小さく頷く。
「はい!」
イブキは嬉しそうに笑った。
「仮面ライダーさんっていうんだね!」
「映像も追加で届いてますよ」
チアキが端末を操作する。
「今回の商業区で撮られたものです。前よりかなり分かりやすく映ってます」
「見たい!」
イブキがすぐに端末へ寄る。
「私も見せろ!」
何故かマコトも反対側から身を乗り出した。
「マコト先輩、近いです」
「細かいことを言うな!」
画面に、商業区で撮影された映像が映し出された。
黒い仮面。
紫を差し色とした姿が、氷に覆われた通りを駆け抜けていく。
「あ、この人!」
イブキはすぐに分かったらしい。
「ヒナ先輩たちと一緒に戦ってた人だ!」
やがて映像の中で、黒い姿が深い赤へ変化した。
「わあっ!」
イブキの瞳がさらに輝く。
「赤くなった!」
「これがヒートという姿みたいですよ」
チアキが資料を確認しながら答える。
「すごい……!」
イブキは画面に見入っていた。
「仮面ライダーさん、かっこいいね!」
「うむ!」
何故かマコトまで力強く頷く。
「以前の報告だけでも只者ではないと思っていたが、こうして見るとなかなかどうして――」
胸を張る。
「実に見どころのある者ではないか!」
「何でマコト先輩が偉そうなんですか」
「私は万魔殿の議長だぞ!」
「関係ないと思いますけど」
映像はさらに進む。
黒い姿へ戻った仮面ライダーが、氷の怪人へ向かって走り出す。
ヒナの機関銃による連続射撃が正面の氷を削り、イオリの狙い澄ました射撃が亀裂を深く穿つ。
開かれたその一点へ、仮面ライダーが跳んだ。
『これが――』
『俺の――!』
『ライダーキックだぁぁぁッ!!』
伸ばされた右脚が、真正面から怪人へ叩き込まれる。
「わああっ!」
イブキが思わず声を上げた。
「ライダーキック!」
顔いっぱいに笑みが広がる。
「すっごくかっこいい!」
「うむうむ!」
マコトも満足そうに頷いていた。
「チアキ先輩、もう一回見たい!」
「もちろんですよ、イブキちゃん」
「私もだ!」
「マコト先輩もですか?」
「当然だろう!」
映像が少し巻き戻される。
もう一度、ライダーキックが怪人へ炸裂した。
イブキは楽しそうにそれを見つめていたが、やがて思い出したように顔を上げた。
「……やっぱり、会ってみたいな」
その声は先ほどより少しだけ静かだった。
「ちゃんと、ありがとうって言いたい」
その言葉を聞いた瞬間。
マコトの動きが止まった。
「…………」
「マコト先輩?」
イロハが嫌そうな顔をする。
「何ですか、その顔」
「決めたぞ」
「何をです?」
マコトは勢いよく立ち上がり、片腕を掲げた。
「仮面ライダーを万魔殿へ招待する!!」
「やっぱりそうなるんですね……」
「本当!?」
イブキがぱっと顔を明るくする。
「仮面ライダーさん、ここに来てくれるの?」
「任せておけ、イブキ!」
マコトは胸を張った。
「このマコト様が招待すれば一発だ!」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「そしてその暁には――」
マコトの両腕が大きく広がる。
「万魔殿直属・仮面ライダーとして盛大に迎えようではないか!!」
「何でそうなるんです?」
「専用の席も用意するぞ!」
「いりません」
「専用車両はどうだ!」
「本人に聞いてすらいません」
「仮面ライダー専用の旗も――」
「もっといりません」
「イブキ、仮面ライダーさんと虎丸に乗ってみたい!」
「おお! それだイブキ!」
「それだ、じゃありません」
イロハが即座に止める。
イブキは楽しそうに笑っていた。
「仮面ライダーさん、来てくれるといいね!」
「うむ! 必ず連れてきてみせるぞ!」
「だから本人の意思をですね……」
「待って」
その時、サツキが口を挟んだ。
「マコトちゃん。肝心の招待先は?」
「……む?」
サツキが報告書を示す。
「風紀委員会は今まで通り、仮面ライダー本人の素性を伏せているわよ」
「何だと!?」
マコトが資料を見直す。
「外部協力者という扱いまでは以前と同じですね」
イロハも確認する。
「今回分かったのは『仮面ライダー』という呼称と、ジョーカー、ヒートという形態の整理まで。本人の身元は非公開です」
「やはりヒナめ! 仮面ライダーを自分だけの秘密兵器に――」
「だから違いますって」
「では何故隠す!」
「カイザーに狙われる可能性があるからでしょうね」
イロハが即答する。
「今まで以上に相手から注目されてもおかしくありません。そんな状況で、こっちが大々的に正体を探し始めたらどうなると思います?」
「……」
「こちらからカイザーに情報を渡すようなものです」
「……なるほど」
マコトが黙った。
数秒。
「ならば正体を探らずに招待すればいいではないか!」
「そうなりますよね」
イロハが肩を落とした。
「風紀委員会に渡せばいいのだ! 本人まで届けろとな!」
「まあ、それなら正体を探る必要はありませんけど」
「キキキッ! 完璧だ!」
その時、イブキがぱっと手を上げた。
「じゃあ、イブキもお手紙書く!」
「手紙?」
「うん!」
イブキは嬉しそうに頷く。
「この前助けてくれてありがとうって書くの!」
そして少し考え、
「それから、万魔殿にも遊びに来てねって!」
「おおおおっ!!」
マコトが震えた。
「なんという完璧な作戦だ、イブキ!」
「えへへ」
「チアキ! 最高級の便箋を用意しろ! 金箔付きだ!」
「イブキちゃんのお手紙なら、普通の可愛い便箋の方がいいと思いますよ?」
「サツキ! 必ず来たくなる催眠術を――」
「それをやったらお礼の手紙じゃなくなるわよ、マコトちゃん」
「イロハ! 虎丸を磨いておけ!」
「何でですか」
「仮面ライダーが来た時のためだ!」
「はぁ……」
話はすっかり別の方向へ走り始めていた。
それでも、連邦生徒会へ送る追加資料の準備も、カイザー関連の記録照合も止まってはいない。
必要な仕事は進んでいる。
その一方で――
以前から正体の分からない協力者として知られていた一人の戦士は、この日から万魔殿でも新しい名前で呼ばれるようになった。
――仮面ライダー。
そしてイブキは、その仮面ライダーへ渡すための「ありがとう」の手紙を、本気で書き始めることになる。
* * *
事件から数日が経った商業区には、まだあちこちに戦いの痕跡が残っていた。
割れた窓には応急処置の板が打ちつけられ、ひしゃげた看板は取り外されて店先へ立てかけられている。道路脇には撤去を待つ瓦礫がまとめられ、その間を資材を積んだ車両や復旧作業にあたる人々が行き交っていた。
それでも、あの日とは違う。
閉ざされていた店のいくつかはすでに営業を再開し、通りにも少しずつ人の声が戻り始めている。
「翔くん、悪いね。そっち持ってくれるか?」
「これ?」
「ああ、その棚。まだ使えそうだから、いったん外に出したくてさ」
「分かった」
翔は壊れた木製棚の片側へ回り込んだ。
向かい側を持つのは、普段「ひだまり」の買い出しで何度も顔を合わせている犬の獣人の店主だ。
「せーの」
二人で持ち上げると、中身を失った棚は思ったより軽かった。傾いた足元に気をつけながら店の外まで運び、壁際へゆっくり下ろす。
「この辺でいい?」
「ああ、十分だ。いやあ、助かったよ翔くん」
「いつも買い出しで世話になってるし、これくらいなら」
「こういう時まで律儀だねえ」
店主が苦笑する。
その声を聞きつけたのか、二軒ほど先の店先から年配の獣人女性が顔を出した。
「翔ちゃん! そっち終わったら、ちょっと寄ってきな!」
「何?」
「昨日入ったのが残ってるから、何か持ってきな!」
「いや、いいって」
「こういう時くらい遠慮しないの!」
有無を言わせない勢いに、翔は少し困った顔をする。
「……じゃあ、マスターの分も」
「はいはい、二人分ね!」
「結局もらうんだな」
犬の店主が笑った。
「断っても持たされるんだよ」
「それだけ気に入られてるってことだろ」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
何でもないやり取りだった。
買い出しへ来れば声を掛けられ、新しい商品を勧められ、ときには余ったものを持たされる。
最初からそうだったわけではない。
けれど気づけば、そんなやり取りも当たり前になっていた。
「風間さん」
聞き慣れた声が背後から届く。
振り返ると、端末を手にしたチナツが通りを歩いてきていた。
「チナツ」
「……やはり、ここにいたんですね」
「何だよ、その『やっぱり』って」
「来ていると思っていましたから」
「被害状況の確認?」
「はい。それと、治療を受けている方々の経過確認も兼ねています」
「そっか」
そこで翔は一拍だけ黙った。
聞きたいことは最初から決まっていた。
「キララとエリカは?」
「キララさんもエリカさんも大丈夫です」
すぐに返ってきた答えに、翔の肩から僅かに力が抜けた。
「急激な低温に長く晒された影響がありますから、しばらく無理は禁物ですが、ヘイローにも異常は確認されていません」
「……よかった」
「キララさんは、もう普通に動き回りたそうでしたけど」
翔が思わず眉を寄せる。
「やっぱりキララか」
「はい」
「エリカまで付き合わされてなきゃいいけど」
「エリカさんも、ずっと大人しくしているつもりはなさそうでしたよ」
「……似た者同士か」
無事だと分かったからこそ出てくる呆れだった。
翔は少し笑ってから、もう一つ気になっていたことを尋ねる。
「他の人たちは?」
「重傷者はいます。ただ、今のところ死亡者は確認されていません。キララたちの近くにいた方も治療中ですが、命に別状はありません」
「そっか……」
今度こそ、翔は長く息を吐いた。
あの時助けられた人たちが、その後どうなったのか。
戦いが終わってからも、ずっと胸の片隅に残っていた。
「人工メモリを使わされてた人たちは?」
「治療は続いています。身体への負担が大きかった方については、まだ経過観察が必要です」
チナツが手元の端末を見る。
「ただ、押収した装置に残っていた出力履歴や身体負荷の記録が、治療方針を考える上で参考になっています」
「……あいつらが集めてたデータが?」
「はい」
翔の表情が僅かに険しくなる。
使えるかどうか。
どこまで耐えられるか。
壊れるまでに、どれほどのデータを取れるか。
カイザーが人をそんな尺度で測るために集めた記録だった。
けれど今は、その数字を見ながら、医療に携わる者たちが傷ついた人を治そうとしている。
「……変な話だな」
「そうですね」
「でも、使えるなら使った方がいいか」
「私もそう思います」
チナツは短く頷いた。
「それと、以前T-REXのガイアメモリを使用した方についても、状態は安定しています」
翔が顔を上げる。
「……あの人も?」
「はい」
「そっか」
初めてあの異形を目にした時には、何が起きているのかさえ分からなかった。
苦しんでいる誰かを助けたいと思っても、自分には何もできなかった。
それからロストドライバーを手にして、ジョーカーで戦い、ヒートという新しい力も使えるようになった。
けれど――だからといって、翔一人ですべてをどうにかできるようになったわけではない。
視線を上げれば、通りでは風紀委員たちが危険箇所を確認し、その脇では店主たちが壊れた店を片づけている。負傷した人々は病院で治療を受け、戻ってきた者たちは少しずつ日常を取り戻そうとしていた。
「……俺だけじゃないんだな」
「何がですか?」
「人を助けるの」
チナツが翔を見る。
「俺が怪人を倒せば、それで全部終わりってわけじゃないだろ」
翔は、先ほど棚を一緒に運んだ店へ目を向けた。
店主はもう別の荷物を運び始めている。
「風紀委員が避難させて、チナツたちが治療して、街の人たちは自分たちで店や道路を戻そうとしてる」
少しだけ笑う。
「やっぱ、助ける方法って一つじゃないんだな」
「はい」
チナツも復旧作業の続く通りへ目を向ける。
「誰か一人だけで、全部できるわけではありませんから」
「……そうだな」
「ですから風間さんも、何でも一人でやろうとしないでくださいね」
翔が横を見る。
「そこに繋げる?」
「大事なことです」
「分かってるって」
「本当に分かっている人は、もう少し信用できる返事をすると思います」
「……厳しくない?」
「これまでの実績を考えています」
返す言葉がなかった。
翔が視線を逸らすと、チナツの口元がほんの僅かに緩む。
二人の前を、修復用の資材を運ぶ車両がゆっくり通り過ぎていった。
戦いが終わったからといって、壊れたものがすぐ元通りになるわけではない。
傷ついた人が、すぐ元気になるわけでもない。
それでも、閉じていた店が一つずつ開き、人の声が戻り、止まっていた街がまた動き始めている。
翔はその光景を眺めた。
「……戻ってきてるな」
「はい」
チナツも静かに頷く。
「少しずつですけど」
まだ傷跡の残る通りに、日常は確かに戻り始めていた。
* * *
商業区を離れる前、翔は頼まれていた買い物を済ませるため、もう一度大通りへ戻っていた。
復旧作業の続く道を歩いていると、前方から何人かのゲヘナ生が話しながらやってくる。
「ねえ、この辺だったんでしょ?」
「何が?」
「この前のやつ。ほら、氷の怪人が出たところ」
「ああ。私も動画見た」
翔は特に気に留めず、その横を通り過ぎようとした。
「それでさ、あの黒い人――『仮面ライダー』っていうんだって」
足が、ほんの僅かに止まりかけた。
止まらなかったことにして、そのまま歩く。
「へえ。名前あったんだ」
「本人がそう名乗ったらしいよ」
「でも途中で赤くなってなかった?」
「なってたなってた」
「じゃあ黒いのと赤いので二人いるんじゃないの?」
「いや、同じ人でしょ。目の前で変わってる動画あるし」
「黒い方がジョーカーで、赤い方がヒートだったっけ?」
「たぶん」
「たぶんって」
話している本人たちも、まだ正確には把握していないらしい。
翔は少しだけ歩調を速めた。
ところが。
「風紀委員会の新しい戦力って話もあるよね」
「それは違うらしいよ。外から手伝ってる人だって」
「じゃあ何でヒナ委員長たちとあんなに息合ってるの?」
「知らないって」
「そもそも何者なの、あの人」
「だからそれが分からないんじゃん」
好き勝手に推測が飛び交っている。
――まあ、そうなるよな。
正体の分からない誰かが、突然怪人と戦っているのだ。
警戒されても不思議ではない。
「でも、悪い人ではないんじゃない?」
一人が言った。
「何で?」
「友達があそこにいたんだけど、怪人と戦ってる途中なのに、倒れてた人を助けに来たって」
「戦ってる途中に?」
「うん。敵を追うより先に」
「……へえ」
翔の歩調が、今度は僅かに緩んだ。
けれど振り返らない。
「まあ、助けてもらった側からしたらヒーローだよね」
「ライダーキックもしてたし」
「そこ関係ある?」
「あるでしょ。ヒーローっぽいじゃん」
楽しそうな声が背後へ遠ざかっていく。
「……ヒーロー、か」
翔は小さく呟いた。
自分では、そんな大層なことをしているつもりはない。
あの時も、目の前に助けられそうな人がいたから動いただけだった。
それでも――助けられた側には、また違う見え方がある。
さっきマスターから聞いたわけでもないのに、そんなことを考えてしまう。
「ライダーキック!」
「おっ?」
今度は横から声が飛んできた。
通り沿いの店先。
小さな犬の獣人の子どもが、少し離れた位置から助走をつけ、勢いよく跳び上がっていた。
「とおっ!」
右脚を前へ突き出す。
当然、映像のようには飛べない。
着地した勢いで二、三歩たたらを踏み、危うく転びそうになる。
「危ない!」
近くにいた親が慌てて支えた。
「もう、店の前で飛ばないの!」
「だって仮面ライダーみたいにやりたかったんだもん!」
「怪我したら仮面ライダーも困るでしょ!」
「……はーい」
子どもは少しだけしょんぼりしたものの、すぐにまた笑った。
「でも、かっこよかったよね!」
「はいはい」
翔は思わずその場で立ち止まっていた。
顔を覆う仮面。
画面の向こうから聞こえてきた声。
父親の隣で、何度も見た飛び蹴り。
昔は自分も、ああいうものを見ていた側だった。
「…………」
何とも言えないむず痒さに、翔は頬を掻く。
「……まさか、そっちまで真似されるとは思わなかったな」
誰にも聞こえない程度に呟き、再び歩き出す。
さらに先では、別の生徒たちが端末を囲んでいた。
「これこれ! この蹴り!」
「爆発すごっ」
「これほんとに同じ人?」
「だからジョーカーが黒で、ヒートが赤なんだって」
「『仮面ライダー・ジョーカー』じゃないの?」
「違うらしいよ。仮面ライダーが名前で、ジョーカーとヒートは姿の呼び方だって」
「へえー」
どうやら、少しずつ正確な情報も混ざり始めているらしい。
それでも。
「あの人の素顔ってどんな感じなんだろ」
「男の人って噂なかった?」
「どこ情報?」
「知らない」
「じゃあ信用できないじゃん」
肝心なところは、まだ何も知られていない。
翔は小さく息を吐いた。
安心したような。
そうでもないような。
自分の名前は知られていない。
風間翔と、仮面ライダーが繋がっていることも知られていない。
けれど――
仮面ライダーという名前だけは、確かに街の中を歩き始めていた。
翔自身の知らないところで。
誰かがその名を口にして。
誰かが戦いを語って。
誰かが、助けられた時のことを覚えている。
昨日まで存在しなかった名前が、少しずつこの街の日常の中へ混ざっていく。
「……なんか、変な感じだな」
翔は買い物袋を持ち直した。
それでも、嫌ではなかった。
そのまま、いつもの帰り道を「ひだまり」へ向かって歩いていった。
* * *
その日の夕方。
喫茶店「ひだまり」の扉についたベルが、軽やかな音を鳴らした。
「翔っちー!」
聞き慣れた声が店内へ飛び込んでくる。
カウンターの内側でグラスを拭いていた翔は顔を上げ、入ってきた二人を見るなり眉を寄せた。
「お前ら、もう出歩いて大丈夫なのか?」
「第一声それー?」
キララが頬を膨らませる。
その後ろから入ってきたエリカも、呆れたように笑った。
「まあ、そう言われるとは思ってたけど」
「チナツにも、しばらく無理するなって言われてただろ」
「大丈夫だって! ほら!」
キララは両腕を広げ、その場でくるりと回ろうとする。
「回るな回るな」
「えー」
「そこで転んだら笑えないからな」
「翔っち心配しすぎー」
「この前あんな目に遭ったばっかだろ」
翔が真顔で返すと、キララもさすがに勢いを少し落とした。
「……まあ、それはそうだけど」
「今日は本当に無茶しないから」
エリカが横から補足する。
「少し出かけて、ここに寄っただけ」
「ならいいけど」
翔は二人の歩き方や顔色をさりげなく確認する。
少なくとも、見た限りでは大きな問題はなさそうだった。
それだけで、胸の奥に残っていたものが少し軽くなる。
「いつもの席でいい?」
「うん!」
「私は何か温かいの」
「了解」
二人が席につくのを確認し、翔が注文を取りに向かおうとした時だった。
「あ、そうだ!」
キララが思い出したように端末を取り出した。
「翔っち、これ見た?」
「何?」
「これこれ!」
差し出された画面を見る。
「…………」
映っていたのは、氷に覆われた商業区。
そして、その中に立つ黒い仮面の戦士だった。
「……ああ」
「反応薄っ!」
「いや、何て言えばいいんだよ」
「もっとこう、あるじゃん! 『うわ、すげえ!』とか!」
「街で散々見たからな」
「あー、そっか」
キララはすぐ納得した。
「もう結構広まってるもんね」
「広まりすぎだろ」
「知ってた?」
「買い出ししてるだけで聞こえてくる」
「へえー」
エリカも画面を覗き込む。
「でも、この人の名前まで分かったのは最近だよね」
「そうそう!」
キララが画面を翔へ向け直した。
「この前うちら助けてくれた人――『仮面ライダー』っていうんだって!」
「……らしいな」
「何その言い方」
「噂で聞いただけだって」
「ふーん?」
エリカが少しだけ怪しむように翔を見る。
「何だよ」
「別に」
そう言いながら、エリカは完全には視線を外さない。
翔は何となく落ち着かなくなり、注文票へ目を落とした。
「で、何飲む?」
「話逸らした?」
「逸らしてない」
「翔っち、分かりやすーい」
「いいから注文」
「じゃあカフェラテ!」
「私はホットココア」
「了解」
今度こそ離れようとした翔の背中へ、キララの声が飛んでくる。
「ねえ翔っち!」
「まだあるの?」
「仮面ライダーって、普通にめっちゃカッコよくない?」
翔の足が一瞬止まった。
「……俺に聞く?」
「聞く!」
即答だった。
仕方なく振り返ると、キララは端末の映像を再生している。
黒い姿が、氷に覆われた通りを駆ける。
「ほら、ここ!」
映像の中で、黒い姿から深い赤へ変化する。
「途中で赤くなるじゃん?」
「ヒートって呼ばれてるみたいだね」
エリカが言う。
「黒い方はジョーカーだっけ?」
「そうそう。黒がジョーカーで、赤がヒート!」
キララは楽しそうに指を折る。
「同じ人なのに姿変わるの、なんかすごくない?」
「まあ……そうだな」
「翔っち、反応淡泊すぎない?」
「そう言われても」
自分の変身映像を本人の前で解説される経験など、さすがに元の世界でもなかった。
翔は何とも言えない顔で厨房へ向かった。
その様子をカウンターの奥から見ていたニャン次郎は、何も言わない。
ただ僅かに口元を緩めたように見えた。
「マスター」
「何だ」
「今笑った?」
「気のせいだ」
「絶対笑っただろ」
「注文は?」
「……カフェラテとホットココア」
「なら手を動かせ」
「はいはい」
飲み物を用意し、二人の席へ運ぶ。
「お待たせ」
「ありがとー!」
「ありがと、翔」
翔が離れるより先に、キララがまた端末を操作した。
「それでさ、やっぱこれだよね!」
「……何となく予想つくけど」
画面の中で黒い仮面の戦士が走る。
氷の怪人へ向かって跳び上がり――
『ライダーキックだぁぁぁッ!!』
右脚が真正面から叩き込まれ、爆発が広がった。
「これ!」
キララが満面の笑みを浮かべる。
「めっちゃカッコいい!」
「……音量下げて」
「何で翔っちが恥ずかしそうなの?」
「恥ずかしそうじゃない」
「そう?」
エリカが翔の顔を見る。
「耳、少し赤くない?」
「店内が暑いんだよ」
「普通だけど」
「……エリカ、今日やけに突っ込むな」
「何となく」
エリカは少し楽しそうだった。
翔は逃げるようにカウンターへ戻ろうとした。
「でも」
今度はエリカの声が、翔を止めた。
「本当に助かった」
先ほどまでの軽さが、少しだけ消えていた。
翔が振り返る。
エリカは端末の映像ではなく、テーブルの上へ視線を落としている。
「氷もそうだけど……あの上から落ちてきたやつ」
崩れ落ちてきた巨大な氷と鉄骨。
あの時の光景が、翔の脳裏にも蘇る。
「……うん」
キララも静かに頷いた。
「あれ、ほんとヤバかったよね」
「チナツにも、かなり危なかったって言われた」
「そっか」
翔の声が自然と低くなる。
「でもさ」
キララはすぐに少し笑った。
「仮面ライダー、怪人の方じゃなくて先にうちら助けに来たじゃん」
翔は黙った。
「敵倒せそうだったのに」
キララが続ける。
「それでもこっち来てくれたから」
「……そうだね」
エリカも小さく頷く。
「だから、カッコいいっていうのもあるけど」
キララは端末に映る黒い仮面を見つめる。
「アタシ、やっぱヒーローっぽいなって思った」
翔はすぐには答えられなかった。
あの時、自分は怒っていた。
目の前の幹部へ拳を向けかけた。
ヒナの声で、助けるべき相手を見た。
そして、自分で決めた。
それだけだ。
そんな自分を、助けられた側はヒーローと呼ぶ。
「……そっか」
ようやく出たのは、それだけだった。
「何その返事」
「いや」
翔は少しだけ笑った。
「そう思ってるなら、それでいいんじゃないか」
「翔っちはどう思うの?」
「俺?」
「うん」
少し考える。
「……助かったなら、それで十分なんじゃない?」
「誰にとって?」
「仮面ライダーにとって」
二人が同時に翔を見る。
「何で分かるの?」
キララが首を傾げる。
「想像」
「またそれ?」
「だって、助けようとして戦ってたんだろ」
翔は肩をすくめた。
「なら、助けた相手が無事なら、それが一番だと思う」
エリカが少し目を細める。
「……やっぱ詳しくない?」
「だから想像だって」
「ふーん」
「その顔やめろ」
「何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
キララが二人のやり取りを見て笑う。
「でもさー」
また少し声を落とした。
「アタシ、ちゃんとありがとうって言いたかったな」
翔がキララを見る。
「あの時、ほとんど何も言えなかったし」
「私も」
エリカが続ける。
「気づいたら、また怪人の方へ戻ってたから」
「……」
「次に会えたら、ちゃんと言いたい」
キララはそう言って笑った。
「助けてくれてありがとうって」
翔は一瞬、言葉を失う。
それから、視線を少し逸らした。
「……たぶん」
「ん?」
「伝わってると思うよ」
「何で?」
「二人が今こうして元気にここにいるなら」
翔は二人の前に置かれた飲み物を見る。
「それで十分だと思ってるんじゃないか」
キララは少し不思議そうに翔を見ていたが、やがて笑った。
「そっか」
「うん」
「でも、会えたらちゃんと言うけどね!」
「好きにすればいいだろ」
「翔くんも一緒に言う?」
「俺が何で?」
「何となく」
「何となくで巻き込むなよ」
エリカが小さく吹き出す。
重くなりかけた空気は、すぐにいつものものへ戻った。
「あ、そうだ!」
キララが急に顔を上げる。
「今日デザートサービスして!」
「何でそうなる」
「快気祝い!」
「自分で要求するものじゃないだろ」
「じゃあ凍ったお見舞い!」
「意味分からない」
「エリカも食べるよね?」
「……食べる」
「いるんじゃん」
「そこは別でしょ」
「何が別なんだよ」
三人の声が店内へ広がる。
カウンターの奥では、ニャン次郎が黙々と仕事を続けていた。
キララの端末には、停止した黒い仮面の姿が残っている。
助けられた二人は、仮面ライダーをヒーローだと言った。
ありがとうと伝えたいと言った。
翔はまだ、その言葉を正面から受け取ることはできない。
それでも。
二人がこうしていつもの席で笑っている。
今は、それだけでよかった。