青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
早朝。
まだ人通りも少ない時間帯。
風間翔は、指定された運動場へ足を踏み入れ――その場で立ち止まった。
「…………」
見慣れたはずの場所だった。
以前もスミレとの訓練で何度か使っている。
だが。
今日は何かがおかしい。
地面には一定間隔で並べられたカラーコーン。
その先には低いハードル。
さらに向こうには、重りの入ったバッグ。
地面へ引かれた何本もの白線。
短距離走用のスタート地点。
折り返し地点。
マット。
水分補給用のボトル。
そして。
一番端には。
何周したかを記録するためなのか、数字の書かれたボードまで置かれていた。
「……何これ」
「本日のトレーニングコースです」
「うわっ!?」
すぐ横から声がして、翔は肩を跳ねさせた。
振り向けば。
いつからそこにいたのか。
乙花スミレが立っていた。
「おはようございます、風間さん」
「……おはよう」
「今日は早いですね」
「言われた時間には来たよ」
「素晴らしいです」
爽やかな笑顔。
片手にはストップウォッチ。
もう片方にはクリップボード。
「…………」
翔はもう一度、運動場全体を見る。
「スミレ」
「はい」
「確認なんだけど」
「何でしょう?」
「これ全部使うの?」
「はい」
即答。
「今日?」
「はい」
「俺一人で?」
「私も一緒に行いますよ」
「ああ、それなら――」
少しだけ安心する。
「ただし、風間さんのフォーム確認がありますので、私は適宜別の位置から見ます」
「安心した俺が馬鹿だった」
「?」
「何でもない」
スミレは気にせず、ストップウォッチを確認した。
「では、始めましょう」
「もう?」
「時間は有限ですから」
「その言葉、朝一番に聞くと怖いな……」
「まずはウォームアップです」
「了解」
そこは。
いつもと同じだった。
少なくとも。
最初の五分間は。
* * *
「肩を回してください」
「はい」
「次、股関節」
「はい」
「足首」
「はい」
「そのまま軽くジョギング。外周二周です」
「二周ね」
走り出す。
まだ楽だ。
一周。
二周。
戻る。
「次、腿上げ」
「はい」
「次、サイドステップ」
「はい」
「次、バックステップ」
「はい」
「次、ダイナミックストレッチです」
「……ウォームアップ長くない?」
「もう少しです」
「もう少し?」
嫌な言葉だった。
「次、スクワット二十回」
「ウォームアップで!?」
「自重ですので」
「自重ならウォームアップ扱いなの!?」
「はい。始めます」
スミレがストップウォッチを押した。
「一」
「え、もう!?」
「二」
「待って待って!」
「三」
「数えるの止めないんだな!」
仕方なく翔も動き始める。
腰を落とす。
戻る。
もう一度。
「膝の向きは問題ありません」
「四……!」
「背中も以前より安定していますね」
「五……!」
「呼吸を止めないでください」
「分かってる……!」
「六」
「スミレが数えてるから俺は数えなくていい?」
「構いません」
「助かった」
「七」
「全然助かった感じしないな!」
それでも。
動きは崩れない。
二十回を終える。
「はい。次はランジです」
「休憩は?」
「ウォームアップ中ですよ?」
「…………」
翔はスミレを見る。
スミレも翔を見る。
「どうしました?」
「今の質問は忘れて」
「はい」
左右。
前。
斜め。
ランジ。
その後にプランク。
そして再び短いジョギング。
ようやく。
「以上でウォームアップ終了です」
「…………」
翔は膝へ手を置いた。
「これ、前にやってたメニューの半分くらい入ってなかった?」
「そうですね」
「じゃあ前までの俺」
「はい」
「ウォームアップで一日終わってたの?」
「初心者向けでしたので」
「嘘だろ」
「本当です」
スミレは平然としていた。
翔は静かに空を見上げる。
朝日は綺麗だった。
「それでは」
スミレがクリップボードをめくる。
「状態を確認します」
「今ので確認じゃなかったの?」
「今のは準備運動です」
「……そうだったね」
もう逆らわないことにした。
* * *
スクワット。
ランジ。
体幹。
短距離走。
急停止。
方向転換。
着地。
何度もやった動作。
だが。
スミレの目は細かい。
「もう一度」
「了解」
翔が走る。
コーンの手前で方向を変える。
右。
左。
急停止。
「今の止まり方、以前より良いですね」
「本当?」
「はい。踏み込んだ時に上半身が流れなくなっています」
「お」
少し嬉しい。
「もう一度お願いします」
「はい」
走る。
切り返す。
今度も止まる。
「やはり安定していますね」
「成長した?」
「しています」
「おお……」
素直に嬉しかった。
「特に横方向への重心移動と、体勢を崩した後の立て直しがかなり速くなりました」
「そこまで?」
「はい」
スミレは翔の足運びを見る。
「最近、回避動作の練習でもしていますか?」
「…………」
翔の動きが止まった。
「どうして?」
「以前より、咄嗟に身体を逃がす動きが自然になっています。それに」
スミレが指を折る。
「転びそうになった時の受け身」
「……うん」
「着地した直後の姿勢」
「うん」
「衝撃を受けた後の立て直し」
「…………」
「かなり実践的です」
(そりゃ最近、何回吹っ飛ばされたと思ってるんだ……)
もちろん。
口には出せない。
怪人に殴られた。
氷で吹き飛ばされた。
地面を転がった。
壁へ叩きつけられたこともある。
その全部を説明するわけにはいかない。
「まあ……色々と身体を動かす機会があって」
「なるほど」
「その『なるほど』怖いな」
「自主トレーニングですね」
「いや、ちょっと違――」
「素晴らしいです」
「最後まで聞いて!」
だが。
遅かった。
スミレの目が輝いている。
「これなら問題ありません」
「何が?」
「今日から次の段階へ進みましょう」
「次の段階?」
「はい」
爽やかな笑顔。
嫌な予感。
スミレが運動場の端を示す。
「コースをご覧ください」
「……さっきから見えてるよ」
カラーコーン。
ハードル。
重り。
白線。
マット。
そして数字のボード。
「本日は、これらを順番に回ります」
「順番に?」
「はい」
スミレがクリップボードを見せる。
「第一ステーション。負荷付きスクワット」
「うん」
「第二ステーション。プッシュアップ」
「うん」
「第三ステーション。短距離ダッシュと急停止」
「……うん」
「第四ステーション。方向転換走」
「うん……」
「第五ステーション。ハードル越え」
「はい」
「第六ステーション。バッグを持って往復」
「…………」
「第七ステーション。体幹」
「まだある」
「第八ステーション。バーピー」
「待って」
「第九ステーション――」
「まだあるの!?」
「あります」
翔は紙を見る。
その下にも。
文字。
文字。
文字。
「……スミレ」
「はい」
「これ、今日全部?」
「はい」
「前の三倍くらいない?」
「そうですね」
「そうですね、じゃないんだけど!?」
「ですが」
スミレはごく真面目な顔で答えた。
「今の風間さんであれば、この程度の負荷へ移行しても問題ありません」
「この程度!?」
「はい」
「今さらだけど、スミレの『普通』って信用しちゃ駄目なんだな……」
「?」
「何でもない」
スミレがストップウォッチを構える。
「では」
「え」
「第一ステーションへ」
「ちょっと心の準備を――」
「開始します」
電子音。
「待って!」
「スタートです、風間さん」
「本当に始まった!」
* * *
「二十七!」
腰を落とす。
「二十八!」
戻す。
「二十九!」
脚が熱い。
「三十!」
「終了です。次」
「休憩は!?」
「移動時間があります」
「十秒くらいしかない!」
「有効に使ってください」
「厳しい!」
次。
プッシュアップ。
「フォームを崩さないでください」
「はい……!」
「あと五回」
「まだ五回!」
「あと四回」
「減ってるだけありがたい!」
「三」
「スミレ!」
「二」
「聞いてる!?」
「一」
「終わった!」
「次です」
「余韻がない!」
立ち上がる。
短距離走。
「位置について」
「待って、息が――」
「呼吸は走りながら整えてください」
「そんな無茶な!」
「始めます」
電子音。
「うわっ!」
走る。
全力。
白線。
急停止。
「もう一度」
「早い!」
反対へ。
止まる。
「姿勢が高いです」
「分かった!」
「もう一度」
「はい!」
次。
コーン。
右。
左。
切り返し。
「足元ばかり見ないで」
「見ないと踏みそうなんだけど!」
「前を見ながら位置を把握してください」
「難易度上がってる!」
「できます」
「言い切った!」
次。
ハードル。
跳ぶ。
着地。
「音が大きいです」
「着地に音まで!?」
「衝撃を逃がしてください」
「はい!」
もう一度。
今度は膝を柔らかく。
「良いです」
「よし!」
「続けて五回」
「褒めた直後に増やすな!」
「増やしていません。最初から五回です」
「もっと逃げ場がない!」
次。
重りの入ったバッグ。
「持ってください」
「何キロ?」
「持てる重さです」
「数字を教えて!」
「持てていますね」
「そういう確認方法!?」
「往復してください」
「はい!」
「走って」
「走るの!?」
「はい」
走る。
重い。
腕だけで持つと辛い。
身体全体で抱える。
「腰に気をつけて」
「了解!」
「折り返しです」
「まだ半分!」
戻る。
置く。
「次」
「待って!」
「体幹です」
「一回横になっていい?」
「プランクなので横にはなりません」
「知ってる!」
マットへ。
姿勢を作る。
秒数が始まる。
「三十秒」
「はい……!」
「残り二十五秒」
「細かく言わなくていい!」
「残り二十秒」
「聞いてない!」
「残り十五秒」
「長い!」
「残り十秒」
「あとちょっと!」
「五」
「はい!」
「四」
「はい!」
「三」
「はい!」
「二」
「はい!」
「一。終了」
「っはぁ……!」
「立ってください」
「まだ床にいたい!」
「次はバーピーです」
「人の心!」
「ありますよ?」
「その返しが一番怖い!」
立つ。
しゃがむ。
脚を伸ばす。
戻す。
跳ぶ。
「一!」
「あと何回?」
「十五回です」
「今の一回込み?」
「はい」
「よかった」
「残り十四です」
「全然よくなかった!」
* * *
何度目か。
翔は分からなくなっていた。
走った。
跳んだ。
持ち上げた。
伏せた。
立った。
また走った。
スミレの声だけが、妙にはっきり聞こえてくる。
「あと三回です」
「はい!」
「フォームが崩れています」
「直す!」
「良くなりました」
「はい!」
「次です」
「はい!」
もはや返事が条件反射になっていた。
そして。
「はい。終了です」
「…………!」
翔はその場で膝へ手をついた。
「終わった……!」
汗が顎から落ちる。
息が荒い。
脚が重い。
腕も重い。
だが。
終わった。
「……やった」
思わず笑う。
「俺、全部やったぞ」
「はい」
スミレが時計を見る。
「一周目です」
「…………」
沈黙。
「スミレ」
「はい」
「今、何て?」
「一周目です」
翔はゆっくり顔を上げた。
「さっき一周終わっただろ!?」
「はい」
「じゃあ何で『一周目』って言ったの!?」
「二周目がありますので」
「二周目!?」
「はい」
「聞いてない!」
「今お伝えしました」
「そういう問題じゃない!」
「では」
スミレが数字のボードへ手を伸ばす。
《1》
ぺらり。
裏返す。
《2》
「二周目です」
「そのボード何のためにあるのかと思ってたよ!」
「分かりやすいでしょう?」
「分かりやすすぎて絶望してる!」
「位置についてください」
「休憩は!?」
「一周終了後は二分あります」
「二分!?」
「水分補給を」
「ありがとうございます!」
翔はものすごい勢いでボトルを取った。
「一気に飲まないでください」
「はい!」
「ゆっくり呼吸を整えて」
「はい!」
「座らないでください」
「はい――え?」
ベンチへ向かいかけた脚が止まる。
「軽く歩きましょう」
「座っちゃ駄目なの?」
「急に動きを止めるより、軽く身体を動かして回復させます」
「……正しい」
「はい」
「正しいこと言われると何も返せない……」
「あと一分二十秒です」
「休憩中にも時間言うの!?」
「あと一分十五秒」
「減ってる!」
「時間は減るものです」
「知ってる!」
歩く。
呼吸。
水。
軽いストレッチ。
「あと三十秒です」
「もう!?」
「準備してください」
「休憩って何だったんだ……」
「回復する時間です」
「休む時間じゃないんだな……」
「似ていますが少し違います」
「今日一番勉強になったよ」
電子音。
「二周目、開始です」
「はい!」
* * *
二周目。
明らかに違った。
「二十一……!」
脚が重い。
「二十二……!」
呼吸も一周目より速い。
「背中」
「っ……!」
伸ばす。
「良いです」
「二十三……!」
続ける。
スミレは止めない。
ただし。
無茶もさせない。
「一度止まってください」
「え?」
「右膝が内側へ入りました」
「あ」
「十秒だけ整えましょう」
翔は呼吸を整える。
「痛みは?」
「ない」
「違和感は?」
「大丈夫」
「では再開できます」
「了解」
そこだけは。
徹底していた。
きつい。
容赦がない。
だが。
身体を壊すようなやり方ではない。
スミレは翔が耐えられる限界を押し上げようとしている。
限界を無視しているわけではない。
だから。
余計に逃げられない。
「次、ダッシュです」
「はい!」
走る。
止まる。
切り返す。
「良いです」
「はい!」
「もう一本」
「はい!」
自分でも驚く。
まだ動く。
脚は重い。
身体も熱い。
それでも。
動ける。
(前だったら)
以前の自分なら。
一周目の途中でフォームが崩れていた。
二周目など。
考えたくもなかった。
「次、ハードル」
「はい!」
跳ぶ。
着地。
以前より静かに。
「良い着地です」
「よし!」
次。
また次。
そして。
「終了です」
電子音。
「…………」
翔は立ったまま。
しばらく動けなかった。
「……終わり?」
「はい」
「本当に?」
「二周目は終了です」
「その言い方やめて」
「?」
「三周目があるみたいに聞こえる」
「今日はありませんよ」
「今日は!?」
未来の話は聞かなかったことにした。
* * *
「では、休憩しましょう」
「今度こそ……!」
ベンチを見る。
「歩いてください」
「ですよね!」
もう分かっていた。
ゆっくり歩く。
呼吸を整える。
水分を取る。
スミレもその隣を歩いている。
「……スミレ」
「はい?」
「何で普通に喋れるの?」
「普通に?」
「同じようなメニューやってたよね?」
「はい」
「疲れないの?」
「もちろん疲れますよ」
「……よかった」
少しだけ安心する。
「疲労した状態でも正しいフォームを維持することは大切なトレーニングですから」
「聞かなきゃよかった」
「疲れた時ほど、普段身につけた動作が――」
「説明は今度でいい」
「そうですか?」
「今は脳まで疲れてる」
「では後で説明しますね」
「覚えてるんだ……」
しばらく歩く。
呼吸が落ち着いてくる。
「それにしても」
スミレが翔を見る。
「予想以上でした」
「何が?」
「二周目の後半です」
「……ああ」
「疲れている状態でも、以前ほどフォームが崩れませんでした」
「本当?」
「はい」
スミレは素直に頷く。
「着地も安定しています。体勢を崩しても、次の動作へ移るまでが速い。それに最後まで止まりませんでした」
「…………」
「かなり成長していますよ、風間さん」
その言葉だけは。
疲れた身体にも。
真っ直ぐ入ってきた。
「……そっか」
「はい」
嬉しい。
単純に。
毎日の訓練。
走ること。
身体を動かすこと。
スミレに教えられた基礎。
そして。
何度もの実戦。
倒され。
転がされ。
それでも立ち上がった経験。
全部が。
確かに自分の身体へ残っている。
「俺」
翔は自分の手を見る。
「前より、ちゃんと動けるようになってるんだな」
「その通りです」
「……きつかったけど」
「はい」
「今日やってみて、分かった」
少し笑う。
「ありがとう、スミレ」
「どういたしまして」
スミレも微笑んだ。
爽やかな。
いつもの笑顔。
「これなら、次回からも問題ありませんね」
「うん」
翔も頷く。
「……ん?」
何か。
引っかかった。
「次回から?」
「はい」
スミレがクリップボードをめくる。
「もう少し負荷を上げましょう」
「…………」
翔の笑顔が止まった。
「待って」
「はい」
「今日が次の段階じゃなかったの?」
「今日は移行メニューです」
「…………」
静寂。
遠くで鳥の声がした。
「……これで?」
「はい」
「この」
翔は運動場を指す。
コーン。
ハードル。
重り。
マット。
走路。
周回数のボード。
「これ全部やって?」
「はい」
「二周して?」
「はい」
「移行?」
「はい」
スミレは爽やかに頷いた。
「次回からは三周を基本にしてみましょう」
「三周!?」
「慣れれば、各ステーションの負荷も少しずつ上げられます」
「待って待って待って!」
「大丈夫です」
「その言葉がもう信用できない!」
「今日、二周できましたから」
「できたら増えるシステムなの!?」
「成長に合わせて負荷を上げるのは当然ですよ?」
「正論なのが一番困る!」
「それから、もう少し長い持久走も取り入れたいですね」
「まだ増える!?」
「はい」
「あと方向転換も――」
「スミレ」
「はい?」
「一個だけ確認していい?」
「どうぞ」
「俺って今日」
一拍。
「ステップアップしたんだよね?」
「はい」
「それって喜んでいいことだよね?」
「もちろんです」
「……そっか」
翔は空を見上げた。
青空。
気持ちの良い朝。
つい数時間前まで。
ステップアップ。
その言葉は。
努力が実を結んだ証のように聞こえていた。
「では次回も頑張りましょう」
「……はい」
今では。
どうしてだろう。
それが。
新しい訓練地獄への入場許可証のように聞こえていた。