青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

35 / 37
閑話④ 今日の昼食

 

 

 昼前。

 

 ゲヘナ学園・風紀委員会本部。

 

「――じゃあ、今日の確認はこれで終わりね」

 

 ヒナが手元の資料を閉じると、それまで部屋に漂っていた仕事の空気がわずかに緩んだ。

 

「了解」

 

 翔も椅子から立ち上がり、机の上に置いていた資料をまとめる。

 

 今日は最近の騒動について風紀委員会側といくつか情報を共有するため、ゲヘナ学園まで足を運んでいた。

 

 もっとも、特別に大きな話があったわけではない。今後また似たような事件が起きた際の連絡方法や、翔が偶然現場に居合わせた場合の対応について、互いの認識を擦り合わせておく程度のものだった。

 

「風間さん、この後の予定は?」

 

 チナツが資料を整えながら尋ねてくる。

 

「特にないよ。ひだまりに戻るだけ」

 

「でしたら、ちょうど昼時ですね」

 

「ん?」

 

 言われて時計を見ると、思っていた以上に時間が経っていた。

 

「ほんとだ。どっかで食べて帰るかな」

 

 それを聞いたイオリが、手元の書類から顔を上げる。

 

「だったら食堂寄ってけばいいんじゃない? わざわざ外まで出なくても済むだろ」

 

「ああ、それもありか」

 

「ただ、今日は混んでるかもしれないけどな」

 

「ゲヘナの食堂ってそんなに混むの?」

 

「昼時なんだから普通に混むよ」

 

 イオリは少し呆れたように肩をすくめた。

 

「まあ、時間をちょっとずらせばいいんじゃないか?」

 

「そうするかな」

 

 翔はそう答えてから、ふとヒナへ目を向けた。

 

 彼女はもう次の資料へ手を伸ばしている。

 

「ヒナは?」

 

「私はまだ仕事があるから」

 

「昼は?」

 

「後で食べる」

 

「……後でね」

 

 翔がわずかに目を細めると、ヒナもその視線には気づいたようだった。

 

 けれど、特に言い返すこともなく、書類へ目を落とす。

 

「じゃあ、また」

 

「ええ」

 

「帰り、気をつけろよ」

 

 イオリの声に片手を上げて応えた。

 

「風間さん、お疲れさまでした」

 

「チナツも」

 

 翔は風紀委員会本部を後にした。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「……どっちだ?」

 

 翔は廊下の案内板を見上げた。

 

 ゲヘナ学園の中にも少しずつ慣れてきてはいるものの、校舎のどこに何があるのか全て把握しているわけではない。

 

 案内板には食堂を示す矢印がある。

 

「こっちか」

 

 その方向へ歩き始め、しばらくした頃だった。

 

「ジュリ! そっち先にお願い!」

 

「はい!」

 

「それが終わったら食器も出して!」

 

「分かりました!」

 

 廊下の先から、慌ただしい声が飛んでくる。

 

「……何か忙しそうだな」

 

 近づくほどに、鍋の蓋が鳴る音や包丁の音、食器の触れ合う音まで聞こえてきた。

 

 そして。

 

「ちょっと待って、まだ火入れないで!」

 

「えっ、まだですか!?」

 

「今入れたら早すぎるの!」

 

 聞き覚えのある声に、翔が足を止める。

 

 厨房の入口から中を覗くと、黒髪を二つにまとめた少女が大きな鍋の前で忙しなく動いていた。

 

「フウカ?」

 

「え?」

 

 愛清フウカが勢いよく振り返る。

 

「翔!?」

 

 その横では、ジュリが両腕いっぱいに野菜を抱えている。

 

「どうしてここに?」

 

「風紀委員会に用事があって。その帰りに昼でも食べていこうと思って――」

 

 そこまで言ったところで。

 

 フウカの視線が翔の顔から手元へ移り、そのまま厨房全体へ流れた。

 

 そして。

 

「……翔」

 

「何?」

 

「料理できたわよね?」

 

「……できるけど」

 

「じゃあ入って!」

 

「え?」

 

「早く!」

 

「待って、俺まだ昼飯食べに来ただけなんだけど」

 

「食べたいなら作るの手伝って!」

 

「そういう仕組みなの!?」

 

「今日はそうなの!」

 

 有無を言わせぬ勢いでエプロンを押しつけられた。

 

 翔はしばらくそれを見下ろす。

 

「……これ逃げられないやつ?」

 

「逃がすと思う?」

 

「思わない」

 

「なら早く着けて!」

 

「はいはい」

 

 エプロンを身につけ、袖を捲る。

 

 改めて厨房へ目を向けたところで、翔は言葉を失った。

 

 調理台の上には大量の野菜が積まれ、その横には下処理を待つ肉。巨大な寸胴鍋がいくつも並び、壁際には食器が山のように積まれている。

 

 さらに、仕込み表や工程表、配膳開始時刻まで書き込まれた予定表まであった。

 

「……これ全部、二人でやってるの?」

 

「そうよ」

 

「毎日?」

 

「毎日」

 

 翔はもう一度厨房全体を見渡した。

 

「……人手不足ってレベルじゃないだろ」

 

「分かってるわよ!」

 

 フウカが即座に返す。

 

「だから今、翔を捕まえたの!」

 

「捕まえたって言ったな」

 

「言ったわよ!」

 

 ジュリが申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「すみません、風間さん……今日は少し予定が押していて」

 

「ジュリが謝ることじゃないって」

 

「でも……」

 

「手伝うって決めたから大丈夫。で、何すればいい?」

 

 翔が調理台へ近づくと、フウカは一瞬だけ彼を見てから、すぐに仕事の顔へ戻った。

 

「まず、そこの野菜お願い。切り方はこのくらいで統一して」

 

「次の鍋にそのまま入れる?」

 

「そう。終わったらこっちの下処理」

 

「了解」

 

 翔は包丁を手に取る。

 

 そして目の前の量を見た。

 

「……これ全部?」

 

「全部」

 

「何人分?」

 

「聞く?」

 

「……聞かない方がいい?」

 

「覚悟があるなら」

 

 翔は数秒考え。

 

「やっぱりいい」

 

「賢明ね」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 最初のうちは、翔にもまだ余裕があった。

 

 包丁を扱うことには慣れているし、野菜を一定の大きさへ揃えるのも、肉の下処理をするのも問題ない。

 

「翔、早いわね」

 

「家でずっとやってたし、今は店でもやってるから」

 

「助かる」

 

「これくらいなら――」

 

「じゃあ次これ!」

 

「増えた」

 

「それ終わったらこっち!」

 

「……まだあるの?」

 

「ある!」

 

「ですよね!」

 

 問題は、その量だった。

 

 一つの山を切り終えたと思えば次の材料が運ばれてきて、調理台が空になる暇がほとんどない。

 

 しかも、ただ大量に作ればいいわけではなかった。

 

「翔、その鍋見て!」

 

「え?」

 

「沸く前に火弱めて!」

 

「分かった!」

 

「ジュリ! 食器の準備お願い!」

 

「はい!」

 

「あと三十分で配膳始まるから!」

 

「三十分!?」

 

「何で翔が驚くのよ!」

 

「この量見たら驚くだろ!」

 

 ひだまりの厨房なら、客から注文が入るたびに必要な料理を作る。

 

 もちろん混雑すれば複数の注文を同時に進めることもあるが、ここでは最初から大量の料理を、決められた時間までに、決められた人数分すべて揃えなければならない。

 

 しかも、フウカは自分の鍋だけを見ていなかった。

 

「ジュリ、それ先に冷蔵庫!」

 

「はい!」

 

「翔、その鍋あと二分半で火落として!」

 

「二分半!?」

 

「二分半!」

 

「細かいな!」

 

「給食は時間が命なの!」

 

 フウカは鍋を混ぜながら別の調理台を確認し、ジュリの作業を見て、翔が切った材料を確認し、その合間に時計と配膳用の食器の数まで見ている。

 

 翔は手を動かしながら、思わず口にした。

 

「フウカ」

 

「何!?」

 

「さっきから自分で料理してるより指示出してる時間の方が長くない?」

 

「私が全部一人でやってたら間に合わないの!」

 

「そりゃそうか」

 

「だから全体を見ないと駄目なの!」

 

「なるほど……」

 

 単に料理が上手いだけではない。

 

 フウカは自分の手を動かしながら、ジュリの作業も、翔の進み具合も、鍋の火加減も、配膳までの残り時間も見ている。

 

 この厨房そのものを、一人で把握して動かしているのだ。

 

(……料理できるってだけじゃ、これ全部は回せないよな)

 

 翔がそんなことを考えていると、フウカがこちらへ顔を向けた。

 

「翔、そっち終わりそう?」

 

「あ、もう少し」

 

「終わったら次はこっちお願い。ジュリにはその間に別の準備してもらうから」

 

「了解」

 

 翔は手元の作業へ視線を戻し、残っていた材料を手早く片付けていく。

 

 フウカの指示に合わせて一つ終われば次へ移り、ジュリもその横で必要な材料や器具を揃えていく。

 

 三人になったことで多少は余裕が生まれたものの、昼食の時間が近づいていることに変わりはない。

 

 厨房では途切れることなく作業が続いていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 そして、しばらくした頃。

 

「ジュリ、そっちの下ごしらえ終わった?」

 

「はい! こちらは全部終わりました!」

 

 ジュリが綺麗に揃えられた材料を見せる。

 

 大きさもほとんど均一で、必要な分ごとにきちんと分けられていた。

 

 翔が横から覗き込む。

 

「綺麗だな。これジュリが全部やったの?」

 

「はい。下ごしらえは得意なんです」

 

「へえ」

 

「食材の状態を見るのも好きですし、美味しく食べてもらうためには準備が大切ですから」

 

 嬉しそうに話すジュリを見て、翔は少し意外に思った。

 

 先ほどからフウカの指示にもすぐ応じているし、食材や器具の場所も全部把握している。

 

 給食部員としては、明らかに仕事に慣れていた。

 

「じゃあ、こっちの肉もお願いできる?」

 

 フウカが別の調理台を示す。

 

「はい!」

 

 ジュリは張り切って肉の前へ移動する。

 

「少し硬そうですね……」

 

「そうね。だから下処理を――」

 

「でしたら!」

 

 ジュリがぱっと顔を輝かせた。

 

「ダブルバレルショットガンで一気に柔らかく――」

 

「ジュリ」

 

「はい?」

 

「銃は置いて」

 

「ですが、一度にたくさん処理できますよ?」

 

「置いて」

 

「……はい」

 

 迷いなくショットガンへ伸びていた手が、しゅんと下がる。

 

 翔はその一連のやり取りを見ていた。

 

「……今の、本気?」

 

「はい」

 

「本気なんだ……」

 

「時間短縮になると思ったのですが」

 

「ならないから!」

 

 フウカの声が飛ぶ。

 

「普通にやって! 普通に!」

 

「分かりました!」

 

 ジュリは素直に頷き、今度こそ教えられた通りの方法で下処理を始めた。

 

 翔も自分の作業へ戻る。

 

 それからしばらくして。

 

「フウカさん。こちら、終わりました」

 

「ありがとう。じゃあ最後にこの鍋、少し混ぜておいてくれる?」

 

「はい!」

 

 今度は何もおかしなことをしていない。

 

 火加減もそのまま。

 

 調味料を追加したわけでもない。

 

 ジュリはフウカから渡されたお玉を持ち、言われた通りにゆっくり鍋を混ぜる。

 

「これくらいで――」

 

 ぼこ。

 

「……?」

 

 ジュリの手が止まった。

 

 ぼこっ。

 

 もう一度。

 

 翔も音に気づいて振り返る。

 

「……何の音?」

 

「分かりません」

 

 鍋の中身が、不自然に盛り上がった。

 

「…………」

 

 三人の視線が集まる。

 

 ゆっくりと沈む。

 

 そして。

 

 今度は別の場所が、むくりと持ち上がった。

 

「ジュリ」

 

 フウカの声が低くなる。

 

「何か入れた?」

 

「入れてません!」

 

「火は?」

 

「フウカさんに言われたままです!」

 

「混ぜ方は?」

 

「教えていただいた通りに……」

 

 そこまで確認したところで。

 

 鍋の中から、ぬるりと何かが縁へ伸びた。

 

「…………」

 

 翔が目を細める。

 

「これ、料理だよな?」

 

「……さっきまでは」

 

 フウカが答える。

 

「さっきまでは!?」

 

「フウカさん……」

 

 ジュリが今にも泣きそうな顔になる。

 

「私、今回はちゃんと教えていただいた通りに……」

 

「……そうね」

 

 フウカも否定できなかった。

 

 実際、今回は最初から最後まで見ていた。

 

 変なものを入れてもいない。

 

 ショットガンも使っていない。

 

 それでも。

 

 鍋の中では、明らかに料理だったものが自力で縁を越えようとしている。

 

「何で!?」

 

 翔の当然の疑問に。

 

「私が知りたいわよ!」

 

 フウカが叫んだ。

 

「と、とにかく蓋!」

 

「はい!」

 

「翔、そっち押さえて!」

 

「これ押さえるの!?」

 

「逃がすよりいいでしょ!」

 

「料理に使う言葉じゃないだろ、それ!」

 

 三人が慌てて蓋を閉じる。

 

 ごとん。

 

 鍋が一度揺れた。

 

 翔が蓋を押さえたまま、何とも言えない顔でジュリを見る。

 

「……いつもこうなの?」

 

「いつもでは……」

 

 ジュリは少し考える。

 

「……たまに?」

 

「そこ疑問形なんだ」

 

「ごめんなさい……」

 

 俯きかけたジュリへ、翔はすぐ続ける。

 

「いや、ジュリが謝ることじゃないだろ」

 

「でも……」

 

「俺も見てたけど、今は別に変なことしてなかったじゃん」

 

「……」

 

「むしろ、下ごしらえとか俺より場所分かってて早かったし」

 

 ジュリが顔を上げる。

 

「料理以外にも、給食部の仕事いっぱいあるんだろ?」

 

「はい……」

 

「じゃあ、そっちお願い。俺、まだ食器がどこにあるのかも全部分かってないから」

 

「……風間さん」

 

「配膳の準備、ジュリの方がずっと慣れてるだろ?」

 

 ジュリは少しだけ迷うように鍋を見る。

 

「でも、こちらは……」

 

「大丈夫。今は俺が蓋押さえてるから」

 

 そう言ってから、翔は隣のフウカを見る。

 

「……これ、どうする?」

 

「私に聞かないでほしいんだけど……」

 

 フウカも鍋を見下ろす。

 

 蓋の下から、ごとっと鈍い音が響いた。

 

「でも、放っておくわけにもいかないわね」

 

「だよな」

 

「とりあえずこっちは私たちで見るから、ジュリは配膳の準備をお願い」

 

「……はい」

 

 ジュリはまだ申し訳なさそうにしていたが、フウカに促されて、今度はしっかり頷いた。

 

「では、そちらを進めてきます!」

 

「お願い!」

 

 ジュリが厨房の奥へ向かっていく。

 

 その背中を見送ってから、翔はまだ僅かに動いている鍋へ視線を戻した。

 

「……で」

 

「何よ」

 

「本当にどうする、これ」

 

「だから私が知りたいわよ!」

 

 蓋の下で、またごとんと何かが動いた。

 

「少なくとも、開けるのはやめた方がいいよな」

 

「それだけは同感」

 

「料理についてする相談じゃないな……」

 

「私だってしたくないわよ!」

 

 慌ただしい厨房の片隅で、二人はしばらく怪しく揺れる鍋と睨み合うことになった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 配膳開始まで、あと十五分。

 

 厨房はさらに慌ただしくなっていた。

 

「食器足りない!」

 

「今ジュリが持ってくる!」

 

「こっちの鍋まだ仕上がってない!」

 

「翔、味見!」

 

「俺!?」

 

「早く!」

 

「はい!」

 

 翔が小皿に取った料理を口へ運ぶ。

 

「……少し薄い?」

 

「やっぱり?」

 

「うん」

 

「じゃあこれ入れて!」

 

「了解!」

 

 その横からジュリの声が飛んだ。

 

「フウカさん!」

 

「何!?」

 

「予定してた食材が一箱まだ届いてません!」

 

「今!?」

 

 フウカの顔が引きつる。

 

「代わりになるものは?」

 

「在庫確認します!」

 

「お願い!」

 

 翔がフウカを見る。

 

「どうする?」

 

「あるもので調整するしかないわ」

 

「間に合う?」

 

「間に合わせる!」

 

「即答だな」

 

「間に合わせないと全員の昼食がなくなるの!」

 

「そりゃそうだ」

 

「翔、そこの材料半分こっち!」

 

「了解!」

 

 予定が一つ崩れれば、その分だけ別の工程も変わる。

 

 それでもフウカは立ち止まらなかった。

 

 ジュリが代用できる食材を確認し、フウカが献立を組み替え、翔へ新しい工程を任せる。

 

「ジュリ! そっちの在庫で代用できる?」

 

「できます!」

 

「量は?」

 

「少し足りません!」

 

「じゃあ副菜を変更! こっちを少し増やす!」

 

「はい!」

 

「翔!」

 

「今度は何!」

 

「こっちの仕上げお願い!」

 

「分かった!」

 

 翔もすぐに火加減を確認し、指定された調味料を加えて味を整える。

 

「これでいい?」

 

 フウカが一口味を見る。

 

「……うん、大丈夫」

 

「よし」

 

「次!」

 

「休ませて!」

 

「あと十分!」

 

「分かったよ!」

 

 それでも、不思議と嫌ではなかった。

 

 忙しい。

 

 ひたすら忙しい。

 

 けれど、フウカの指示に合わせて動き、自分の担当が次の工程へ繋がっていく感覚は、普段の店とはまた違った面白さがある。

 

 そして。

 

「配膳開始!」

 

 フウカの声が厨房へ響いた。

 

 ぎりぎりだったが、予定時刻には間に合った。

 

「……間に合った」

 

 翔が思わず壁へ手をつく。

 

「まだ終わってないわよ」

 

「え?」

 

「これから昼休み本番!」

 

「嘘だろ」

 

「本当よ!」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 食堂には、すでに生徒たちの長い列ができていた。

 

 料理を作り終えたら終わりではない。

 

 今度は配膳が待っている。

 

 翔もそのまま臨時の配膳係へ回された。

 

「次」

 

「はい」

 

「次」

 

「はい」

 

「翔っち!?」

 

「ん?」

 

 聞き慣れた声に顔を上げる。

 

 列の先頭にキララとエリカが立っていた。

 

「何してんの!?」

 

「見て分かんない?」

 

「給食部じゃん!」

 

「今日だけ!」

 

 エリカも目を丸くする。

 

「翔くん、転職したの?」

 

「してないって」

 

「でもエプロン似合ってる」

 

「ありがとうって言っていいのか?」

 

「翔っち料理できるもんねー」

 

「できるけど、今日のこれは想定外」

 

 後ろからすぐにフウカの声が飛んできた。

 

「キララ! エリカ! 列止めない!」

 

「はーい」

 

「ごめん、フウカ」

 

 キララが笑いながらトレーを受け取る。

 

「あとで感想言うね、翔っち!」

 

「俺だけで作ったわけじゃないからな!」

 

「分かってるってー!」

 

 エリカも軽く手を振り、二人は席へ向かっていく。

 

「次」

 

「はいはい」

 

 しばらくして。

 

「お前……何やってるんだ?」

 

「その質問今日何回目だろ」

 

 今度はイオリだった。

 

 隣にはチナツもいる。

 

「いや、だって風紀委員会出た時は普通だったじゃんか」

 

「俺も普通に昼食べるつもりだったんだよ」

 

「それが何で配膳側になってるんだ?」

 

「フウカに捕まった」

 

「……何となく分かった」

 

「分かるんだ」

 

 チナツが小さく微笑む。

 

「風間さん、かなり馴染んでいますね」

 

「馴染みたくてこうなったわけじゃないんだけどな」

 

「でも、似合っています」

 

「チナツまで」

 

 翔は二人分の給食を渡した。

 

 その時。

 

 列の向こうへ視線を向ける。

 

 風紀委員会の生徒は何人か来ている。

 

 けれど。

 

「……ヒナは?」

 

 翔が尋ねると、イオリとチナツが一度顔を見合わせた。

 

「委員長なら本部だよ」

 

「まだ?」

 

「仕事残ってるからな」

 

 チナツが続ける。

 

「恐らく、まだ昼食も取られていないかと」

 

「……やっぱり」

 

 翔が小さく息を吐いた。

 

「朝からあのまま?」

 

「おそらく」

 

「また『後で食べる』ってやつか」

 

 チナツが苦笑する。

 

「ヒナ委員長は忙しい時ほど後回しにされますから」

 

「そっか」

 

 翔は少し考えてから、厨房へ振り返った。

 

「フウカ!」

 

「何!?」

 

「一人分、持っていけるようにできる?」

 

「誰の?」

 

「ヒナ」

 

 フウカの手が止まる。

 

「……また食べてないの?」

 

「多分」

 

「もう……」

 

 深いため息をついたものの、断る様子はない。

 

「分かったわ。少し待って」

 

「助かる」

 

「普通に今日の給食詰めるだけよ」

 

「それでいい」

 

 フウカが容器を用意し、翔も隣から手伝う。

 

 特別なものを作るわけではない。

 

 今日、食堂でみんなが食べている昼食を、そのまま食べやすいように詰めるだけだった。

 

「これでいい?」

 

「十分」

 

 翔は容器を受け取り、チナツへ差し出した。

 

「チナツ、これヒナに持ってってくれる?」

 

「ヒナ委員長に?」

 

「うん」

 

 チナツが受け取る。

 

「風間さんから、と伝えておきますね」

 

「いや、そこまで言わなくても」

 

「でも、持たせようって言ったのはそっちだろ?」

 

 横からイオリが口を挟んだ。

 

「俺だけで作ったわけじゃないし」

 

「それでも、用意しようって言ったのはお前じゃんか」

 

「そうだけど」

 

 フウカも横から頷く。

 

「私は詰めただけよ」

 

「フウカまで!?」

 

「事実でしょ」

 

 チナツが少しだけ笑った。

 

「では、きちんと伝えておきます」

 

「……まあいいけど」

 

 翔は一度だけ念を押すように付け加える。

 

「忙しいからって昼飯抜いていい理由にはならないから、それも言っといて」

 

「はい」

 

 チナツが頷く。

 

 その横で、イオリも少し呆れたように息を吐いた。

 

「まあ、委員長は放っとくと本当に後回しにするからな」

 

「やっぱり?」

 

「忙しい時は特にね」

 

「なら頼むよ、チナツ」

 

「分かりました」

 

 そこでイオリが列の後ろへ目を向ける。

 

「おい、そろそろ後ろ詰まってるぞ」

 

「あっ」

 

「フウカに怒られる前に戻った方がいいんじゃないか?」

 

「……その通りだ」

 

 翔は慌てて配膳へ戻った。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 長かった昼休みが終わり、最後の生徒が食堂を出ていく。

 

 ようやく厨房へ静けさが戻った頃。

 

「……疲れた」

 

 翔は椅子へ腰を下ろした。

 

「お疲れさまでした」

 

 ジュリが水を差し出してくれる。

 

「ありがとう、ジュリ」

 

「いえ。今日は本当に助かりました」

 

「俺の方こそ色々勉強になったよ」

 

 翔は水を一口飲み、改めて厨房を見回した。

 

「店の昼ピークの方がまだ楽かもしれない」

 

「比べないでよ」

 

 フウカが呆れた声を出す。

 

「いや、本当に」

 

「慣れれば大丈夫よ」

 

「慣れだけじゃないだろ」

 

「何が?」

 

 翔は大量の鍋と調理台、配膳口、片付けを始めているジュリへ順番に目を向ける。

 

「俺、料理なら結構できるつもりだったんだけどさ」

 

「実際できてたじゃない」

 

「自分の担当だけならね」

 

「?」

 

「フウカは全部見てたじゃん。鍋も時間も食材も、ジュリの作業も俺の作業も、配膳の方まで」

 

 フウカの手が少し止まった。

 

「……それが仕事だから」

 

「それでもすごいよ」

 

「普通よ」

 

「普通じゃないって」

 

 翔は即答した。

 

「俺だったら途中で絶対どれか忘れる。料理上手いだけじゃ、こんな人数分回せないんだな」

 

「……」

 

「フウカが全体見てるから何とかなってるんだろ、これ」

 

 フウカは一瞬言葉を失い、少しだけ顔を逸らした。

 

「……何よ、急に」

 

「思ったから言っただけ」

 

「そう」

 

 少し間が空いてから。

 

「……まあ」

 

「うん?」

 

「今日は助かったわ」

 

「本当?」

 

「思ってたより使えた」

 

「褒め方」

 

「褒めてるわよ!」

 

「もうちょっと分かりやすく褒めてもいいだろ」

 

「十分分かるでしょ!」

 

「いや、最初に『思ってたより』が付いてる時点で微妙だろ」

 

「じゃあ言い直せばいいの?」

 

「そこまで要求してないけど」

 

 フウカは少しむっとしたように翔を見る。

 

「料理もちゃんとできてたし、私が言ったこともすぐ分かってくれたし……初めて入った厨房であれだけ動けたなら十分よ」

 

「……お」

 

「何よ」

 

「今度はちゃんと褒められた」

 

「もう! 言わせたの翔でしょ!」

 

 翔が笑う。

 

 フウカは少し頬を膨らませた後、視線を厨房へ戻した。

 

「でも、本当に助かった」

 

 今度は先ほどより小さな声だった。

 

「一人増えるだけで、かなり違うから」

 

 その言葉を聞いて、翔も厨房へ目を向ける。

 

 普段はここを、フウカとジュリの二人で回している。

 

 今日、自分が入っただけであれだけ忙しかったのだ。

 

「また人足りなかったら呼んで」

 

 翔が何気なく言う。

 

 フウカが振り返った。

 

「……本当に呼ぶわよ?」

 

「毎日は無理だけど」

 

「分かってるわよ」

 

「予定合えば手伝う」

 

「……そう」

 

 フウカの表情が少しだけ柔らかくなる。

 

「覚えておくわ」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「そういえば」

 

 翔がふと顔を上げる。

 

「俺、まだ昼食べてない」

 

「……私もよ」

 

「フウカも?」

 

「いつ食べる暇があったのよ!」

 

「それもそうか」

 

 ジュリも少し申し訳なさそうに笑った。

 

「私もまだです」

 

「じゃあ三人で食べよう」

 

「そうね」

 

 残っていた給食を三人分用意する。

 

 特別な料理ではない。

 

 さっきまで食堂で生徒たちが食べていたものと同じ昼食だ。

 

 翔が一口食べる。

 

「……美味い」

 

「当たり前でしょ」

 

 フウカが胸を張る。

 

「今日何人分作ったと思ってるのよ」

 

「聞かない方がいいって言われた」

 

「あれは作る前の話!」

 

「今なら聞いてもいい?」

 

「やめときなさい」

 

「じゃあやめる」

 

 ジュリが小さく笑った。

 

「風間さん、本当に料理がお上手なんですね」

 

「家でずっと作ってたからね」

 

「包丁もすごく早かったです」

 

「ジュリも配膳とかめちゃくちゃ早かったじゃん」

 

「え?」

 

「食器の準備も片付けも。俺、どこに何があるか全然分かんなかったし、ジュリが用意してくれなかったら結構止まってたと思う」

 

 ジュリは少し驚いたように瞬きをした。

 

「……ありがとうございます」

 

「こっちこそ。途中、何回も助かったよ」

 

「えへへ……」

 

 ジュリが少し嬉しそうに笑う。

 

 フウカもその様子を見てから、翔へ視線を向ける。

 

「翔」

 

「ん?」

 

「また来る時は」

 

「うん」

 

「昼前は避けた方がいいわよ」

 

「手伝わせる気満々じゃん」

 

「人手が増えるなら助かるもの」

 

「正直だな」

 

「何よ」

 

「いや、フウカらしい」

 

「それどういう意味?」

 

「そのまま」

 

「もう……」

 

 少しだけ賑やかな。

 

 遅い昼食だった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 同じ頃。

 

 風紀委員会本部。

 

 ヒナは机の上に積まれた書類へ目を通していた。

 

 昼休みはすでに始まっていたが、朝からほとんど変わらない調子で次の資料へ手を伸ばしている。

 

 その時。

 

 扉を叩く音がした。

 

「ヒナ委員長」

 

「入って」

 

 チナツが部屋へ入り、その手に持っていた容器を見て、ヒナが僅かに目を細める。

 

「昼食です」

 

「……頼んでないけど」

 

「はい」

 

「?」

 

 チナツは机の空いている場所へ容器を置いた。

 

「風間さんからです」

 

 書類を捲ろうとしていたヒナの指が止まる。

 

「……翔が?」

 

「はい」

 

 視線が自然と容器へ移った。

 

「給食部で用意していただいたものです。今日の昼食を持ち帰れるようにしてもらったそうですよ」

 

「……そう」

 

 ヒナは短く答え、もう一度書類へ目を戻そうとする。

 

「風間さんも給食部を手伝っていたそうです」

 

 その言葉で、視線がまた容器へ戻った。

 

「翔も?」

 

「はい。フウカさんたちと一緒に調理されていました」

 

「……そうなんだ」

 

 先ほどより、ほんの少しだけ声が柔らかい。

 

 チナツはその変化に気づいたようだったが、何も指摘しなかった。

 

「それと」

 

「……まだ何かあるの?」

 

「『忙しいからって昼飯抜いていい理由にはならないだろ』とのことです」

 

「…………」

 

 ヒナは数秒黙った。

 

「……余計なお世話」

 

 そう言いながらも、先ほどまで手をつけようともしなかった昼食を、自分の方へ少し引き寄せる。

 

 チナツの口元が僅かに緩んだ。

 

「そうですね」

 

「チナツ」

 

「はい?」

 

「……何でもない」

 

「食べないのですか?」

 

 ヒナはまだ残っている書類へ目を向け、それから自分の前に置いた昼食を見る。

 

「……翔は?」

 

「はい?」

 

「翔は、ちゃんと食べたの?」

 

 チナツが少し意外そうに瞬きをした。

 

「恐らく、給食部の方々と後ほど食べるのではないでしょうか」

 

「……そう」

 

 短く答えると。

 

 ヒナはペンを机へ置いた。

 

「少しだけ休憩する」

 

「はい」

 

 チナツが部屋を出ようとしたところで。

 

「チナツ」

 

「何でしょう?」

 

 一度呼び止める。

 

 ヒナは僅かに迷うように視線を動かしてから。

 

「……翔に」

 

「はい」

 

「ちゃんと食べたって、伝えておいて」

 

 チナツが小さく微笑んだ。

 

「分かりました」

 

「……それだけだから」

 

「はい」

 

 扉が閉じる。

 

 一人になった部屋で、ヒナは改めて容器を見る。

 

 特別な料理ではない。

 

 今日、食堂で皆が食べているものと同じ給食。

 

 それでも。

 

 自分が食堂へ来ていないことに翔が気づき、わざわざフウカへ頼んで、チナツに持たせてくれた。

 

「……本当に、余計なお世話」

 

 口ではそう言いながらも、その声には先ほどまでの硬さがなかった。

 

 蓋を開け、箸を取る。

 

 一口。

 

 ヒナの表情が僅かに和らぐ。

 

「……おいしい」

 

 もう一口。

 

 今度は先ほどより自然に箸が進んだ。

 

 机の端にはまだ大量の書類が残っている。

 

 けれど、少なくとも今だけは。

 

 ヒナはそちらへ手を伸ばさなかった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「じゃあ、俺そろそろ戻るよ」

 

 午後。

 

 片付けまで一通り終わったところで、翔はエプロンを外した。

 

「今日は本当にありがとうございました」

 

 ジュリが頭を下げる。

 

「こちらこそ」

 

「何がこちらこそなの?」

 

 フウカが聞く。

 

「昼飯」

 

「働いた分でしょ」

 

「じゃあ賄い?」

 

「給食よ!」

 

「細かいなぁ」

 

「細かくない!」

 

 翔が笑う。

 

「また人足りなかったら呼んで」

 

「……本当に呼ぶわよ?」

 

「その時は覚悟しとく」

 

「言ったわね?」

 

「言った」

 

「忘れないから」

 

「はいはい」

 

 ジュリが手を振る。

 

「お気をつけて」

 

「二人も」

 

「またね、翔」

 

「うん。またな、フウカ。ジュリ」

 

 翔が食堂を出ていく。

 

 少しして、厨房にはいつもの静けさが戻った。

 

 フウカは最後の確認を始める。

 

「火元よし」

 

「食材も片付けました」

 

「食器は?」

 

「終わってます」

 

「うん」

 

 ジュリと一緒に厨房を見渡す。

 

 予定外のトラブルはあった。

 

 食材も一部届かなかった。

 

 途中から翔まで急遽手伝うことになった。

 

 それでも大きな騒ぎにはならず、昼食も無事に終えられた。

 

 少なくとも。

 

 ゲヘナ基準では。

 

「……今日は本当に平和だったわね」

 

「そうですね」

 

 ジュリも頷く。

 

 

 その時。

 

 

 外から車両の止まる音が聞こえた。

 

「?」

 

 フウカが顔を上げる。

 

 食堂の外。

 

 こちらへ向かって歩いてくる見覚えのある一団が見えた。

 

 黒舘ハルナ。

 

 赤司ジュンコ。

 

 鰐渕アカリ。

 

 獅子堂イズミ。

 

 美食研究会。

 

「…………」

 

 フウカの顔から、すっと力が抜ける。

 

「フウカさん?」

 

 ジュリも窓の外を見た。

 

「あ……」

 

 フウカは両手で顔を覆った。

 

「……嘘でしょ」

 

 朝から続いていた忙しさが、ようやく終わったと思った直後だった。

 

「せめて明日にしてよ……」

 

 穏やかだった本日の給食は。

 

 どうやら、まだ完全には終わっていなかった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。