青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
AIって便利やねぇ。今後のプロット作りが捗る捗る。とりあえず先の章までのプロットは考えられたので暫くエタる心配はなさそうです。
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午後。
ひだまりの店内には、昼の喧騒が少しずつ遠ざかっていくような、穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む陽射しが、テーブルの端を明るく照らしている。
昼食を終えた客が何人か帰り、残った客もそれぞれ静かに過ごしていた。
カウンターの内側では、翔が洗い終えたグラスを布巾で拭いている。
「……よし」
水滴を残さないように一周させてから、棚へ戻す。
もう一つ。
その隣へ置く。
少しだけ位置がずれていることに気づき、翔は並びを直した。
「……こうだな」
何となく店内を見回す。
テーブルの上は片付いている。
床も汚れていない。
カウンターの調味料も揃っている。
ひとまず、やることはない。
「暇になったな……」
翔が呟いた、その時だった。
ふと。
窓の外に視線を感じた。
「…………」
顔を上げる。
通りを歩いていた生徒が、こちらを見ていた。
目が合う。
すると、その生徒は少し驚いたように顔を逸らし、そのまま歩いていった。
「……?」
翔は首を傾げる。
最近、こういうことが増えていた。
店の前を通る生徒が、こちらをちらりと見る。
中には、一度通り過ぎたあと、わざわざ振り返る者もいる。
何か変なことでもしただろうか。
翔は自分の格好を見下ろした。
シャツにエプロン。
特におかしなところはない。
「……なんだ?」
小さく呟く。
その時。
店の外を二人の生徒が通り過ぎた。
翔からは、二人の会話までは聞こえない。
「……本当にいる」
「うん。あの子でしょ?」
「男の子って、こんな感じなんだ……」
「声、聞いてみたい」
「ちょっと、聞こえたらどうするの」
二人は笑いながら、そのまま通り過ぎていく。
翔は気づかない。
ただ、また視線を感じたことだけは分かった。
「……やっぱり、なんか見られてるよな」
翔は首を傾げた。
その様子を、カウンターの奥で新聞を読んでいたニャン次郎が見ていた。
「最近は多いな」
「やっぱり?」
翔が振り返る。
ニャン次郎は新聞から目を離さない。
「何が?」
「客だ」
「客?」
「ああ」
ニャン次郎は新聞を畳んだ。
「最近、今までとは少し違う客が増えた」
翔は店内を見回す。
「違う客って?」
「若い生徒だ」
「ああ……」
言われてみれば、確かにそうだった。
以前より、生徒の姿をよく見るようになっている。
「店の評判でも広がったのか?」
「それならいいんだがな」
「違うのか?」
「さあな」
ニャン次郎は尻尾を揺らした。
「ただ、店そのものより、お前を見ている客が多いように思える」
「……俺?」
翔は自分を指差した。
「何で?」
「それを私が知るわけがないだろう」
「そりゃそうだけど……」
翔は苦笑した。
キヴォトスへ来てから、何度も似たような視線を受けている。
最初の頃は、それだけで落ち着かなかった。
何しろ、自分がこの世界では珍しい存在だということくらいは分かっている。
だが、ひだまりで暮らすようになってからは、以前ほど気にしなくなった。
珍しいなら、珍しいで仕方がない。
「……噂にでもなってんのかな」
翔が何気なく呟く。
「その可能性はあるな」
「だよなぁ」
翔はため息をついた。
「まあ、変な噂じゃなきゃいいけど」
「お前の場合、何をやらかすか分からんからな」
「俺、そんなに信用ない?」
「そういう意味ではない」
「絶対そういう意味だろ」
翔が笑う。
ニャン次郎も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そんな、いつものやり取り。
その時だった。
店の外に、見覚えのある二人の少女が現れた。
一人は、明るい雰囲気を纏ったピンク系のロングヘアの少女。
もう一人は、その隣を歩く銀色のショートヘアとそこから除く二本の黒い角が特徴的な少女。
翔の手が止まる。
「…………」
見覚えがある。
もちろん、知っている。
ゲームの中で見たことがある。
何度も。
名前だって知っている。
――夜桜キララ。
――旗見エリカ。
「……まさか」
翔は思わず呟いた。
二人は店の前で足を止める。
そして、ガラス越しに店内を覗いていた。
翔はすぐに表情を戻した。
二人にとって、自分は知らない人間だ。
ゲームの中で知っているからといって、それを表に出すわけにはいかない。
「……来るのか?」
そう思った直後。
カラン、と小さなベルが鳴った。
扉が開く。
「いらっしゃいませ」
翔はいつものように声をかけた。
* * *
「ねえ、エリカちゃん」
ひだまりへ向かう道を歩きながら、キララが隣を歩くエリカへ顔を向けた。
「なに?」
「さっきの話、マジだと思う?」
「男の子がいるって話?」
「そう、それ!」
キララの声が弾む。
「ゲヘナの近くにある喫茶店で働いてるんでしょ?」
「噂ではね」
「本当に?」
「そこまでは分からないけど」
エリカは少し困ったように笑った。
「でも、最近その話をする子、増えたよね」
「でしょ?」
キララは嬉しそうに頷く。
「だから気になるんだって!」
少し前から、二人の耳にもその噂は入ってきていた。
ゲヘナ自治区の近くにある小さな喫茶店。
そこに、人間の男の子が店員として働いている。
ただ、それだけの話だった。
けれど、獣人でもロボットでもない。
キヴォトスではほとんど見かけない人間の男性。
だからこそ、そんな話が広まれば、自然と気になってしまう。
「本当にいるのかな」
そんな好奇心から、二人はその店へ向かっていた。
実際に見たことがある生徒もほとんどいない。
だからこそ、噂になれば自然と気になる。
「どんな感じなんだろうね」
「さあ?」
「写真とかないの?」
「そんなの撮ってる人いるの?」
「いないかー」
キララは少し残念そうに頬を膨らませた。
しかし、それも一瞬だった。
すぐに表情を明るくして、前を向く。
「だったら、直接見ればいいじゃん」
「結局それなんだ」
「だって気になるし!」
エリカは苦笑した。
「まあ……私もちょっと気になるけど」
「ほら!」
「でも、変に騒いだら迷惑じゃない?」
「そこはちゃんとするって!」
「本当に?」
「たぶん!」
「たぶんなんだ……」
二人は顔を見合わせて笑った。
そんな話をしているうちに、目的の場所が見えてくる。
「あ」
キララが足を緩めた。
通りの先に、小さな看板が見えている。
――ひだまり。
「ここじゃない?」
「……みたい」
二人はそのまま店へ近づいていく。
大きな店ではない。
派手な看板があるわけでもない。
けれど、窓越しに見える店内には柔らかな明かりが灯っていて、どこか落ち着いた雰囲気があった。
「思ったより普通のお店だね」
「うん」
「……なんか、ちょっと緊張してきた」
「キララが言い出したんでしょ」
「そうだけどさー」
キララは苦笑しながら、ガラス越しに店内を覗き込んだ。
エリカも隣から中を見る。
店内には数人の客。
カウンターの向こうでは、店員らしい少年がグラスを拭いていた。
「あ……」
キララの声が小さくなる。
「……いた」
「本当にいるね」
エリカも目を細めた。
二人とも、しばらく黙って少年を見ていた。
黒に近い髪。
少し跳ねた前髪。
整えすぎているわけではないのに、妙に目に留まる。
エプロン姿で仕事をしているせいか、少年自身が店の雰囲気に自然と馴染んでいた。
「……なんか」
キララが小さく首を傾げる。
「いい感じじゃない?」
「……うん」
エリカも小さく頷く。
「なんか、いいね」
二人とも、それ以上うまく言葉にはできなかった。
ただ、なんとなく目を引く。
そんな印象だった。
「入ってみよっか」
「うん」
二人は顔を見合わせ、店の扉へ向かった。
カラン、と小さなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、少年が顔を上げた。
その声を聞いた瞬間、二人の足がほんの一瞬だけ止まる。
近くで見ると、思っていたより少し背が高い。
髪は自然に跳ねていて、落ち着いた表情をしている。
それでいて、どこか気さくそうな雰囲気があった。
「……こんにちは」
エリカが先に挨拶する。
「こんにちは」
少年も笑って返した。
その笑顔を見て、キララがじっと彼を見る。
「……」
「……?」
少年が首を傾げた。
「どうかしました?」
「あ、いや」
キララは慌てて首を振る。
「なんでもない!」
「そうですか?」
「うん!」
キララは笑ってみせた。
「ね、エリカちゃん」
「うん」
二人は空いている席へ向かう。
「こちらの席、どうぞ」
少年が椅子を示す。
「ありがと」
二人が席につくと、少年はメニューを差し出した。
「ご注文がお決まりになったら呼んでください」
「はーい」
少年は軽く会釈して、カウンターへ戻っていく。
キララはその背中を目で追った。
「……ね?」
「何が?」
「なんか、いい感じじゃない?」
「うん」
エリカは小さく笑った。
「分かる」
「でしょー?」
「でも、思ってたより普通だったね」
「うん」
キララも頷く。
「もっとこう……すごい感じなのかと思ってた」
「どういう感じ?」
「分かんないけど!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「それにしても……」
キララが少し声を落とす。
「本当に男の子なんだね」
「そこは噂通りだったね」
「うん」
二人はもう一度、カウンターの方を見る。
少年は他の客の注文を確認しながら、慣れた手つきで仕事をしていた。
特別なことをしているわけではない。
変わった格好をしているわけでもない。
ただ、普通に働いている。
それが二人には妙に新鮮だった。
* * *
やっぱり。
自分を見に来たのだろうか。
ここ数日、店の前を通る生徒から妙な視線を感じることが増えていた。
さっきも、店の外で何人かがこちらを見ながら何か話していた。
その理由が、この二人なのか。
あるいは、別の噂なのか。
翔にはまだ分からない。
ただ、目の前にいる二人についてだけは、知っている。
どちらも、翔が元の世界で遊んでいた『ブルーアーカイブ』に登場する生徒だ。
もちろん、実際に会うのはこれが初めてだった。
ゲームの中で知っていた姿と、目の前にいる二人の少女。
同じ顔。
同じ声。
けれど、画面越しに見ていた存在が、今はこうして目の前にいる。
改めて考えると、やはり不思議な感覚だった。
「……まあ」
翔は小さく息を吐く。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
客は客だ。
翔は注文を書き留めたメモを片手に、厨房へ向かった。
「キララさんはこれとこれ……エリカさんはこっち、と」
メモを確認しながら、必要な食器を取り出していく。
その横では、ニャン次郎が慣れた手つきで飲み物の準備を始めていた。
「翔、その皿はこっちだ」
「こっち?」
「そう。そちらは別の注文で使う」
「あ、悪い」
翔が皿を戻す。
「飲み物は俺がやる。料理を頼めるか」
「了解」
短いやり取りだけで、それぞれが動き始める。
翔は料理の盛り付けに取りかかり、ニャン次郎はコーヒーを淹れる。
小さな店の厨房に、食器の触れ合う音とコーヒーの香りが広がった。
背後では、二人の話し声が小さく聞こえていた。
「ねえ、エリカちゃん」
「なに?」
「やっぱり、ちょっと気になるよね」
「何が?」
「あの子」
キララがちらりとカウンターを見る。
翔はちょうど食器を取り出しているところだった。
「まあ……気にはなるけど」
「でしょ?」
「でも、あんまりじろじろ見るのも悪いよ」
「分かってるって」
そう言いながらも、キララの視線は何度も翔の方へ向いている。
エリカはそんなキララを見て、苦笑した。
「キララ、こういう時は行動早いよね」
「だって、せっかく来たんだし」
「何をするつもりなの?」
「それは……」
キララは少し考える。
「普通に話してみる?」
「結局それが一番普通か」
「そうそう」
二人がそんな話をしている間に、翔は料理を仕上げていた。
「できた」
「なら、持っていけ」
「了解」
翔は料理をトレーへ並べ、ニャン次郎が用意した飲み物を乗せる。
「じゃ、行ってくる」
「ああ」
翔が二人のテーブルへ向かう。
「お待たせしました」
二人が待つテーブルへ料理を運んでいく。
「わっ、ありがと!」
「ごゆっくりどうぞ」
料理を置き終え、翔が戻ろうとした時だった。
「あの!」
キララが声をかけた。
「はい?」
翔が振り返る。
「ここって、よく来る人多いの?」
「え?」
「ほら、私たち初めて来たからさ。どんなお店なのかなーって」
「ああ……」
翔は少し考えてから答える。
「昼は結構混みますね。近くで働いてる人とか、学生の人も来ますし」
「へえー」
「時間帯によっては結構忙しいですよ」
「そっか」
キララは頷く。
どうやら、それだけでは終わらないらしい。
「じゃあ、翔くん……だっけ?」
「……え?」
翔の動きが止まった。
「なんで名前……」
「あ、これ」
キララがカウンターの方を指差す。
そこには、小さなネームプレートが置かれていた。
「見えたから」
「ああ……」
翔は少しだけ気まずそうに笑った。
「そういうことですか」
「うん。翔くんって呼んでいい?」
「別に構いませんけど」
「じゃあ――」
キララが少し考える。
そして、ぱっと笑った。
「翔っち!」
「……翔っち?」
思わず翔が聞き返す。
「うん!」
「……それ、俺ですか?」
「そうそう!」
キララは楽しそうに頷く。
「ダメ?」
「いや、ダメってわけじゃ……」
「じゃあ決まり!」
あまりにもあっさり決められてしまった。
翔は苦笑する。
「……分かりました。好きに呼んでください」
「やった!」
キララは満足そうに笑った。
「私は夜桜キララ!」
キララが胸元を軽く指して名乗る。
「こっちはエリカちゃん」
「旗見エリカです。よろしくね、翔くん」
「よろしくお願いします」
翔は二人に向かって軽く頭を下げた。
「……」
知っている。
当然、知っている。
ゲームの中で何度も見た名前だ。
けれど、今はそんなことを表に出すわけにはいかない。
翔にとっては知っている人物でも、二人からすれば自分は今日初めて会った店員なのだから。
「じゃあ、翔っち!」
キララがさっそく話を続ける。
「ここで働いてるんだ?」
「ええ。少し前から」
「へえー」
キララは興味深そうに頷いた。
「じゃあ、この辺詳しい?」
「まあ、多少は」
「おすすめのお店とかある?」
「おすすめ?」
「うん。食べ物とか、買い物とか!」
「それなら……」
翔は少し考える。
「この通りを少し行ったところに、スイーツの店がありますよ」
「スイーツ?」
キララが反応する。
「はい。ケーキとかパフェが結構人気で」
「パフェ!?」
キララの目が一気に輝いた。
「あるの!?」
「ありますけど……」
「どんなの?」
「季節によって変わるみたいですけどフルーツを使ったものとか、チョコ系とか。結構種類があったと思います」
「えー、いいじゃん!」
キララが嬉しそうにエリカを見る。
「今度行こうよ!」
「うん。私も甘いもの好きだし」
「よし、決まり!」
「キララ、食べ物の話になるとすぐ食いつくね」
「だって美味しいものは大事でしょ!」
「まあ、それはそうですけど」
翔は思わず笑った。
「夕方くらいになると混んでることもあるので、行くなら少し早めの方がいいかもしれません」
「翔っち、詳しいじゃん!」
「買い出しの帰りに何度か見かけたことがあるだけですよ」
「じゃあさ!」
キララが身を乗り出す。
「またおすすめのお店あったら教えてよ!」
「俺でよければ」
「ほんと? じゃあお願い!」
「はい」
あまりにも自然に話が進んでいく。
翔は少し面食らいながらも、嫌な感じはしなかった。
「じゃあ、また来た時にでも」
「うん!」
キララは満足そうに頷いた。
「絶対また来るから!」
「私も」
エリカも笑った。
「ありがとうございます」
翔はそう言って、空いた皿を下げる。
その様子を見ながら、エリカがふと厨房へ目を向けた。
「そういえば」
「ん?」
「あの猫さんも店員さんなの?」
カウンターの奥で、ニャン次郎が食器を片付けていた。
「ああ、マスターですよ」
翔が答える。
「え、店長さんなんだ」
「はい。俺は雇ってもらってるだけです」
「へえー」
キララもニャン次郎を見る。
「じゃあ、二人でこの店やってるんだ?」
「そんな感じですね」
ニャン次郎が口を挟む。
「俺一人でもできなくはないが、忙しい時はこいつがいると助かる」
「だそうです」
「翔っち、頼りにされてるんだ」
「まあ、そうだといいですけど」
翔が苦笑する。
「おい、余計なことを言うな」
「はいはい」
ニャン次郎が尻尾を揺らす。
キララとエリカは顔を見合わせた。
「……仲いいね」
「そう見える?」
翔が笑う。
「まあ、毎日一緒にいますから」
「そっか」
キララは楽しそうに笑った。
最初は、ただ噂を確かめに来ただけだった。
けれど。
実際に話してみると、思っていたよりずっと普通だった。
気取っているわけでもない。
妙に距離を取るわけでもない。
こちらが話しかければ普通に返してくれる。
それに、店主のニャン次郎とのやり取りを見ていると、なんとなく店の雰囲気まで分かる気がした。
「ねえ、翔っち」
「はい?」
「また来てもいい?」
翔は少し意外そうな顔をした。
「もちろん。普通のお客さんとしてなら」
「普通のお客さんとして、ね」
キララが笑う。
「じゃあ、また来る!」
「私も」
エリカも頷いた。
「ありがとうございます」
翔は笑って答える。
その時の翔には、それが次に繋がる約束になるとは思っていなかった。
ただの客と店員。
今日初めて話しただけの相手。
それくらいに考えていた。
けれど。
キララとエリカにとっては、少し違っていた。
噂で聞いた、人間の男の子。
その存在を確かめるために来たはずだった。
それなのに帰る頃には。
「……また来ようね、エリカちゃん」
「うん」
二人の中には、もう一つ別の理由ができていた。
* * *
――その日の夜。
ひだまりから遠く離れた、キヴォトスの一角。
人通りの少ない区画に建てられた、無機質な施設があった。
表向きには、カイザーコーポレーションが所有する研究施設の一つ。
しかし、その地下深く。
一般には存在すら知られていない実験区画で、一つの試験が行われていた。
白い壁。
無数のモニター。
機械音だけが響く広い部屋。
その中央に、透明な隔壁で囲まれた実験スペースがある。
中にいるのは、一人の獣人の男だった。
「……本当に、これだけでいいんだろうな?」
男が隔壁の向こうにいる研究員へ尋ねる。
「ああ」
研究員は手元の端末を確認しながら答えた。
「短時間の試験です。安全性確認済み。身体への影響は軽微、と募集要項にも記載してあります」
「……そうは見えないけどな」
男の視線の先。
研究員が持っているケースの中には、一本のガイアメモリが収められていた。
黒い外装。
内部に浮かぶ、赤黒い光。
そこに刻まれた文字は――。
《T-REX》。
「それを使えばいいんだな?」
「はい」
「どうやって?」
「身体に直接」
「……直接?」
「メモリを起動させてください」
研究員はそれ以上説明しなかった。
男は不安そうにメモリを見る。
だが。
提示された報酬額を思い出すと、意を決したようにそれを受け取った。
「……終わったら、本当にこの金額を払うんだろうな?」
「契約通りです」
男はメモリを握りしめる。
「なら……やってやるよ」
研究員が記録を開始する。
「試験開始」
男がメモリを身体へ押し当てた。
――カチッ。
メモリが起動する。
その瞬間。
「――ッ!?」
男の身体が大きく震えた。
「ぐ……あ……!」
腕の筋肉が膨張する。
皮膚の下を何かが這うように、黒い血管状の模様が浮かび上がっていく。
「生体反応、急上昇!」
「エネルギー値を記録!」
「はい!」
「おい……!」
男が苦しそうに叫ぶ。
「これ……話が違うぞ……!」
身体が大きく仰け反った。
「ぐああああああっ!!」
次の瞬間。
男の身体から、巨大な影が噴き出した。
それは人間の身体を包み込むように形成され――。
巨大な頭部となった。
白目を剥いた、ティラノサウルス。
巨大な頭蓋。
鋭い牙。
大きく裂けた顎。
その異様な頭部が、男の上半身そのものを覆うように現れる。
そこから伸びるのは、人間大の手足。
片側の腕は爬虫類を思わせる形状へ変化し、鋭い爪が伸びている。
背後には、脊椎を思わせる異形の尾。
手足には、まるで血管のような模様が浮かび上がっていた。
――T-REXドーパント。
「……」
研究員たちは、一瞬言葉を失った。
あまりにも異様だった。
恐竜そのものでもない。
人間でもない。
巨大なティラノサウルスの頭部から、人間の手足と尾が生えている。
そんな奇妙な怪物が、実験室の中央に立っている。
「……変身成功」
研究員の一人が呟く。
「成功……したのか?」
別の研究員がモニターを確認する。
「はい。メモリの起動を確認」
「出力は?」
「……高い」
「どれくらいだ?」
「既存の携行兵器を、大幅に上回っています」
その瞬間。
「グォォォォォォッ!!」
T-REXドーパントが咆哮した。
――ドォンッ!!
空気そのものが震える。
衝撃波が実験室を走り、周囲の機器が一斉に吹き飛んだ。
「うわっ!」
「防壁を!」
「衝撃波です!」
研究員たちが慌てて退避する。
T-REXドーパントは自分でも何が起きているのか分からないように頭を振った。
「グ……ァ……」
そして。
その巨大な顎が大きく開く。
「――グルァァァッ!!」
次の瞬間。
隔壁へ向かって突進した。
――ドゴォン!!
巨大な身体が隔壁へ叩きつけられる。
「隔壁損傷!」
「出力を下げろ!」
「無理です!」
「ならメモリを停止させろ!」
「反応しません!」
T-REXドーパントは止まらない。
巨大な顎を開き、隔壁へ噛みつく。
――ギギギギギッ!!
金属が軋む。
「なんて顎だ……!」
爪が床を削る。
尾が振り回され、機器を破壊する。
そして。
怪物の足元が突然崩れた。
「……?」
床が、まるで泥のように沈み込む。
T-REXドーパントの身体が地面へ潜っていく。
「なっ……!」
「地下へ!?」
モニターの表示が激しく変化する。
「反応が下へ移動しています!」
「速度は!?」
「異常です!」
「地中を移動しているのか……!?」
次の瞬間。
――ドォン!!
実験室の別の場所から、T-REXドーパントが地面を突き破って現れた。
床材と瓦礫が吹き飛ぶ。
「グォォォォッ!!」
再び咆哮。
衝撃波。
施設内の照明が一斉に砕け散った。
「完全に制御不能です!」
「使用者の意識は!?」
「反応ありません!」
「メモリとの適合率は!?」
「低すぎます!」
研究員の一人が息を呑む。
「……力を使いこなしているんじゃない」
「え?」
「メモリに、使われている」
その言葉の直後。
T-REXドーパントが再び咆哮した。
その声には、もはや獣人だった男の意思は感じられなかった。
ただ。
破壊する。
それだけの衝動が残っていた。
* * *
数分後。
別区画。
実験の様子を映したモニターを、カイザーコーポレーションの上層部が眺めていた。
「……凄まじいな」
映像には、暴れ続けるT-REXドーパントが映っている。
「はい」
研究員が答える。
「今まで起動すらできなかった遺物が、これほどの出力を――」
そこで研究員が言葉を止めた。
「……失礼しました」
「何だ?」
「いえ……その」
研究員は一度だけ咳払いをする。
「例の遺物……いえ」
モニターに映る黒い装置へ視線を向ける。
「……メモリが、これほどの出力を発生させるとは予想以上でした」
「メモリ?」
上層部の男が、その言葉を繰り返した。
「はい」
研究員は少しだけ言い淀む。
「資料の一部に、そう呼ばれている記述がありまして」
「なるほど」
男はそれ以上追及しなかった。
ただ、モニターへ視線を戻す。
巨大なティラノサウルスの頭部。
鋭い爪。
脊椎のような尾。
そして、血管のように浮かぶ模様。
T-REX。
その姿は、まるで兵器そのものだった。
「それで」
男が尋ねる。
「兵器として使えるか?」
「火力だけなら十分に」
「問題は?」
「使用者の制御能力です」
モニターの中で、T-REXドーパントが巨大な顎を振り回す。
「現状では、使用者がメモリの力に耐えられていません」
「……つまり?」
「兵器として運用するには、まだ不完全です」
男はしばらく映像を眺めていた。
「だが、使える」
「はい」
「なら、研究を続けろ」
「承知しました」
研究員が端末を操作する。
画面に、これまで回収された資料が表示される。
古い研究記録。
遺物に関する資料。
そして。
人体の一部に刻まれた、黒い接続部の図。
「それと、もう一つ」
研究員が画面を切り替える。
「以前から回収していた資料の中に、今回の実験と関連していると思われる技術がありました」
「何だ?」
「この図です」
画面を拡大する。
人体の一部に刻まれた、奇妙な黒い接続部。
「メモリを人体へ接続するための技術と思われます」
「……メモリを?」
「はい」
研究員は資料を確認する。
「名称は――」
少し間を置いて。
「『生体コネクター』と記載されています」
男はその言葉を繰り返した。
「生体コネクター……」
「詳細はまだ分かっていません」
「なら、調べろ」
「はい」
「今回の実験で分かったのは、メモリそのものは起動できるということだ」
男はモニターへ視線を戻す。
「なら次は――」
暴れ続けるT-REXドーパント。
「どうすれば、あの力を制御できるかだ」
研究員が頷く。
「解析を開始します」
通信が切れる。
その場に残ったモニターには、なおも暴れ続ける怪物の姿が映っていた。
巨大なティラノサウルスの頭部。
鋭い爪。
脊椎のような尾。
そして、血管のように浮かぶ模様。
T-REX。
その姿は、まるで兵器そのものだった。
――だが。
それを兵器として完成させるための研究は、まだ始まったばかりだった。
そしてカイザーは、この実験によって初めて。
自分たちが集めてきた資料の中に眠っていた「生体コネクター」という技術へ、本格的に目を向けることになる。
メモリの力を引き出す方法。
その力を制御する方法。
そして――。
それを、より多くの者へ与える方法。
研究員が資料を閉じる。
誰も、その先に何が待っているのかを知らない。
ただ一つ。
この日、カイザーコーポレーションは。
本来なら、触れるべきではなかった力へと。
確実に手を伸ばし始めていた。
まるで――。
世界を混乱へ陥れる、パンドラの箱を。
自らの手で、開けてしまったかのように。