青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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日は跨いだけど連続投稿や!


第5話 ひだまりのレシピ

ゲヘナ学園――風紀委員会室。

 

 朝。

 

 机の上には、いくつもの書類が積み上げられていた。

 

「……また?」

 

 書類に目を通していたアコが、思わず眉をひそめる。

 

「はい」

 

 向かいに立つ風紀委員が答えた。

 

「昨夜から連絡が取れなくなった生徒が一人。これで今月に入ってから、確認できているだけで六人目です」

 

「六人……」

 

 アコは書類をめくる。

 

 名前。

 

 所属。

 

 最後に確認された場所。

 

 そこには、それぞれ違う情報が並んでいる。

 

「学年も所属もばらばらですね」

 

「はい。最後に目撃された場所にも共通点はありません」

 

「トラブルに巻き込まれた可能性は?」

 

「今のところ、それを裏付ける証拠はありません」

 

「喧嘩や事件の記録も?」

 

「ありません」

 

 アコは腕を組んだ。

 

「……それなら、家出とか?」

 

「可能性としては考えています。ただ――」

 

 風紀委員が言葉を濁す。

 

「何か気になることでも?」

 

「いえ。確証はないんですが……」

 

「言ってみて」

 

「失踪した生徒たちが、最後にどこにいたのかを調べてみたんです」

 

 風紀委員が数枚の資料を机へ並べる。

 

「こちらは繁華街」

 

「こっちは住宅区画」

 

「そして、この子は学園の近くですね」

 

「……本当にばらばらね」

 

 アコが資料を見比べる。

 

 その時。

 

「でも」

 

 静かな声が室内に響いた。

 

 部屋の奥。

 

 ソファに座り、報告書へ目を通していた少女が顔を上げる。

 

 ゲヘナ風紀委員会の委員長――空崎ヒナ。

 

「ばらばらだからって、関係がないとは限らないよ」

 

「ヒナ委員長」

 

 アコたちが一斉に視線を向ける。

 

 ヒナは手元の資料を閉じた。

 

「六人」

 

「……はい」

 

「一人や二人なら偶然かもしれない。でも、同じ月に六人も消えてる」

 

 淡々とした声だった。

 

 けれど、その言葉には明確な警戒が滲んでいる。

 

「ゲヘナの中で、何か起きてる可能性はあると思う」

 

「ですが、今のところ事件性を示す証拠がありません」

 

「分かってる」

 

 ヒナは立ち上がる。

 

「だから、まだ大事にはしない」

 

「はい」

 

「ただ、見つかった情報は全部集めて」

 

「了解です」

 

「最後に確認された場所。交友関係。普段の行動。何でもいい」

 

 ヒナは資料へ視線を落とす。

 

「何か一つでも共通点が見つかったら、すぐに教えて」

 

「分かりました」

 

 風紀委員が頷く。

 

 アコも資料をまとめながら口を開く。

 

「ヒナ委員長。自治区内にも聞き込みを広げますか?」

 

「お願い」

 

「はい」

 

「それと……」

 

 ヒナは少しだけ考える。

 

「生徒たちを不必要に怖がらせないように」

 

「分かりました」

 

「今の段階では、ただの失踪事件」

 

 ヒナはそう言って、窓の外を見る。

 

 朝のゲヘナは、いつもと変わらない。

 

 騒がしい声。

 

 行き交う生徒たち。

 

 どこかで起きている小さな騒ぎ。

 

 いつもの日常。

 

 ――その裏側で。

 

 誰かが消えている。

 

「……何もなければ、それでいいんだけど」

 

 ヒナが小さく呟く。

 

 けれど。

 

 彼女自身も、薄々感じていた。

 

 これはただの偶然ではない。

 

 そんな気がする。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 同じ頃。

 

 ひだまりでは、いつも通り朝の支度が進んでいた。

 

 カウンターを拭く翔。

 

 厨房では、ニャン次郎が仕込みをしている。

 

「翔っちー!」

 

 扉が開く。

 

 聞き慣れた声。

 

「お、来たか」

 

 翔が顔を上げる。

 

「おはよー!」

 

「おはよう、キララ」

 

 その後ろからエリカも入ってくる。

 

「おはよう、翔くん」

 

「おはよ、エリカ」

 

「今日は早いね」

 

「だって、今日は寄りたいところがあったから」

 

 キララは楽しそうに席へ向かう。

 

「この前言ってたスイーツのお店?」

 

「そうそう!」

 

「朝から?」

 

「朝だからいいんじゃん。焼きたてがあるらしいよ」

 

「また食べるんだ……」

 

 エリカが呆れたように笑う。

 

「いいじゃん!」

 

「まあ、キララらしいけど」

 

 翔も思わず笑った。

 

「そういえば、あの店ならここから少し歩いたところだよ」

 

「え、本当に?」

 

「ああ。大通りを抜けて、右に曲がったところ」

 

「さすが翔っち!」

 

「この辺で働いてるからな」

 

「じゃあ、今度一緒に行こうよ!」

 

「俺も?」

 

「だって翔っち詳しいじゃん」

 

「案内役ってことか?」

 

「そう!」

 

「まあ、暇な時ならいいけど」

 

「やった!」

 

 キララが嬉しそうに笑う。

 

 エリカも微笑みながら席に座った。

 

「最近、完全に常連になってるね」

 

「そう?」

 

「うん」

 

「じゃあ、常連さんにはサービスしないとな」

 

 翔が冗談めかして言う。

 

「ほんと!?」

 

「冗談」

 

「翔っちひどーい!」

 

「いや、普通に働いてる店員だからな?」

 

 そんなやり取りをしていると。

 

「朝から騒がしいな」

 

 厨房からニャン次郎の声が飛んできた。

 

「マスター、おはよ」

 

「おはようございます」

 

「今日は何にする?」

 

「いつもの!」

 

「いつものじゃ分からん」

 

「えー?」

 

 キララが笑う。

 

「じゃあ、甘いやつ!」

 

「それも分からん」

 

「マスターなら分かるでしょ?」

 

「……分かった」

 

 ニャン次郎はため息をついた。

 

「キララ、何食べたい?」

 

「パンケーキ!」

 

「最初からそう言え」

 

「さすがマスター!」

 

 翔は苦笑する。

 

「完全に注文を読まれてるな」

 

「常連とはそういうものだ」

 

 ニャン次郎が淡々と答える。

 

 そんな、いつもと変わらない朝だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 しばらくして。

 

 キララたちと翔は、最近の街の話をしていた。

 

「そういえばさ」

 

 エリカがふと思い出したように口を開く。

 

「最近、行方不明の子が増えてるって話、知ってる?」

 

「行方不明?」

 

 翔が顔を上げる。

 

「うん。学校でもちょっと話になってた」

 

「そうなんだ」

 

「なんか、帰ってこない子が何人かいるらしくて」

 

 キララも頷く。

 

「この辺でも?」

 

「詳しいことは分からないけど、ゲヘナ全体でちょっと騒ぎになってるみたい」

 

「物騒だな……」

 

 翔は少し考えた。

 

「風紀委員会が動いてるなら、そのうち見つかるんじゃないか?」

 

「だといいんだけどね」

 

「まあ、ゲヘナだし」

 

 キララが肩をすくめる。

 

「変なことなんていくらでも起きるし」

 

「それで片付けていいのか……?」

 

「いいんじゃない?」

 

「よくないだろ」

 

 翔が苦笑する。

 

 その時。

 

 カラン――。

 

 店の扉が開いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 翔が顔を上げる。

 

 入ってきたのは、四人の少女だった。

 

「……あれ?」

 

 キララが振り返る。

 

「美食研究会じゃん」

 

 エリカも四人の姿を見る。

 

「本当だ」

 

 先頭を歩くのは、銀髪の少女。

 

 姿勢は真っ直ぐで、歩き方にもどこか優雅さがある。

 

 その後ろには、赤い髪の少女。

 

 さらに、柔らかな笑顔を浮かべた少女と、店内へ入った瞬間から何かを探すように鼻を動かしている少女。

 

「……いい匂いがしますねぇ」

 

 イズミが、ふわりと鼻を鳴らした。

 

「何か作ってるのかな?」

 

「まだ注文もしてないでしょ」

 

 ジュンコが呆れたように言う。

 

「でも、いい匂いするよ?」

 

「それは分かるけど……」

 

 ジュンコも厨房から漂ってくる香りに気づき、ちらりとそちらを見る。

 

「ふふ」

 

 アカリが小さく笑った。

 

「お腹が空いてきちゃいますね」

 

「アカリも?」

 

「うん。ちょっとだけ」

 

「絶対ちょっとじゃないでしょ」

 

「そうかな?」

 

 アカリは首を傾げる。

 

 その様子を見て、ジュンコがため息をついた。

 

「……まあいいけど」

 

 ハルナは三人の会話を聞きながら、静かに店内を見回していた。

 

「……なるほど」

 

「ハルナ、何か分かった?」

 

 イズミが尋ねる。

 

「ええ」

 

 ハルナの視線が、厨房へ向く。

 

「この香り……家庭料理とは少し違いますわね」

 

「そう?」

 

「ええ。香辛料の使い方が控えめなのに、香りがしっかり立っています」

 

 ハルナは目を細める。

 

「油の扱いも丁寧なのでしょう。焦げた匂いがありませんもの」

 

「へえ……」

 

 ジュンコが感心したように呟く。

 

「そこまで分かるんだ」

 

「美食を求める者として、当然ですわ」

 

 ハルナは当然のように答えた。

 

「だったら早く食べようよ!」

 

 イズミが元気よく言う。

 

「イズミさん。まだ料理は出てきていませんわ」

 

「分かってるよ」

 

「分かってるなら待って」

 

「はーい」

 

 イズミは素直に返事をする。

 

 しかし、その視線は厨房から一度も離れていない。

 

「……イズミ、そんなに見ても料理は早く出てこないから」

 

「分かってるってば」

 

 ジュンコが呆れたように言うと、イズミは頬を膨らませた。

 

「でも、料理が出来ていくところを見るのも楽しいじゃん」

 

「それは……まあ、分からなくもないけど」

 

「でしょ?」

 

 イズミが笑う。

 

 アカリもその様子を眺めながら、楽しそうに微笑んでいた。

 

「イズミさん、厨房を見るの好きだもんね」

 

「うん!」

 

「作るのも好きだしね」

 

「もちろん!」

 

 イズミは胸を張った。

 

「食べるのも作るのも大好き!」

 

「……その『作る』がちょっと怖いんだけど」

 

 ジュンコがぼそりと呟く。

 

「なんで?」

 

「なんでもない」

 

 そんなやり取りをしながら、四人は空いている席へ向かった。

 

 翔はそれを見ながら、僅かに苦笑する。

 

 もちろん、四人のことは知っている。

 

 元の世界で遊んでいた『ブルーアーカイブ』。

 

 その中で何度も見た、美食研究会のメンバーたち。

 

 黒舘ハルナ。

 

 鰐渕アカリ。

 

 獅子堂イズミ。

 

 赤司ジュンコ。

 

 名前も性格も、ある程度は知っている。

 

 けれど、実際にこうして目の前で見ると、やはりゲームとは違う。

 

 画面の中では一つの会話だったものが、今は四人の声として聞こえてくる。

 

「……まあ、仕事だ」

 

 翔は小さく息を吐いた。

 

 今は客として接すればいい。

 

「こちらへどうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 ハルナが軽く頭を下げる。

 

 四人が席につく。

 

 翔はメニューを渡した。

 

「ご注文が決まりましたら呼んでください」

 

「はーい」

 

 イズミがメニューを受け取る。

 

「何があるのかなー」

 

「イズミ、変なの頼まないでよ?」

 

 ジュンコが釘を刺す。

 

「変なのって何?」

 

「この店にないような料理」

 

「えー」

 

「えー、じゃない」

 

「ふふ」

 

 アカリが笑う。

 

「でも、普通のお料理も美味しそうですよ」

 

 アカリはメニューを眺めながら、穏やかに言った。

 

「私はこれにしようかな」

 

「私はこれ!」

 

 イズミが即座に指を差す。

 

「……決めるの早すぎ」

 

「お腹空いてるから!」

 

「それ理由になってないでしょ」

 

「じゃあジュンコは?」

 

「私は……これ」

 

 ジュンコが少し悩んでから指を差す。

 

「ちゃんと美味しそうなやつ」

 

「私もそれ気になります。とりあえず十皿ほどお願いします」

 

 アカリが覗き込み注文を。

 

「……私もそれにしようかな」

 

 イズミまで加わる。

 

「結局みんな同じの頼むの?」

 

「だって美味しそうだから」

 

「まあ……確かに」

 

 ジュンコも苦笑する。

 

「ハルナは?」

 

「私は……」

 

 ハルナはメニューを閉じた。

 

「本日のおすすめをお願いしますわ」

 

「おすすめ?」

 

「ええ」

 

 ハルナが厨房を見る。

 

「この店の料理人が、一番自信を持って出せるものを」

 

 翔は少し驚いた。

 

「……分かりました」

 

 その注文を聞いて、カウンターの奥にいたニャン次郎がちらりとハルナを見る。

 

「変わった注文をする客だな」

 

「マスター、作れる?」

 

「ああ」

 

 ニャン次郎は短く答えた。

 

「任せろ」

 

 翔も厨房へ入る。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 しばらくして。

 

 厨房から、香ばしい匂いが広がり始めた。

 

「……!」

 

 イズミの鼻がぴくりと動く。

 

「来た!」

 

「まだ出来てないでしょ」

 

 ジュンコが呆れる。

 

「でも、さっきよりもっといい匂い!」

 

 アカリも小さく頷いた。

 

「本当ですね」

 

 そして。

 

「……これは」

 

 ハルナが静かに目を細める。

 

 香りだけで、何かを読み取ろうとしているようだった。

 

 やがて。

 

「お待たせしました」

 

 翔が料理を運んできた。

 

 皿をテーブルへ置く。

 

「本日のおすすめです」

 

「……」

 

 ハルナはすぐには手を伸ばさなかった。

 

 まず、料理全体を見る。

 

 皿の中央に盛り付けられた料理。

 

 彩り。

 

 食材の配置。

 

 ソースの量。

 

 付け合わせとのバランス。

 

 どれも派手ではない。

 

 しかし、無駄がない。

 

「……美しいですわね」

 

 ハルナが呟いた。

 

「え?」

 

 イズミが料理を見る。

 

「そう?」

 

「ええ」

 

 ハルナは皿から視線を離さない。

 

「派手さを求めた盛り付けではありませんわ。それでも、食材の色がきちんと映えるように配置されている」

 

 指先を顎に添える。

 

「主役が何なのかも明確です」

 

「へえ……」

 

 ジュンコも改めて料理を見る。

 

「そう言われると、確かに」

 

「それだけではありませんわ」

 

 ハルナは料理へ少し顔を近づけた。

 

 目を閉じる。

 

 ゆっくりと香りを吸い込む。

 

「……」

 

 数秒。

 

「焼いた食材の香ばしさ」

 

 さらに一度。

 

「それから、野菜の甘み」

 

 もう一度。

 

「そして……」

 

 ハルナの表情が僅かに変わる。

 

「これは……」

 

「何?」

 

 イズミが身を乗り出す。

 

「香草をほんの少し使っていますわね」

 

「分かるの?」

 

 アカリが尋ねる。

 

「ええ。強く主張するほどではありませんが、後ろに残る香りがあります」

 

 ハルナは目を開けた。

 

「この香りなら、味付けもかなり繊細なのでしょう」

 

「……そこまで分かるんだ」

 

 ジュンコが思わず感心する。

 

「食べる前からそこまで分かるなら、すごいね」

 

 アカリも穏やかに笑う。

 

「でも、ちょっと楽しみになってきました」

 

「私も!」

 

 イズミが元気よく手を挙げる。

 

「早く食べようよ!」

 

「そうですわね」

 

 ハルナが箸を取る。

 

「では――」

 

 一口。

 

「……」

 

 静かに咀嚼する。

 

 イズミもすぐに続いた。

 

「ん!」

 

 目が輝く。

 

「美味しい!」

 

 アカリも一口。

 

「……うん」

 

 柔らかな笑顔になる。

 

「美味しいですね」

 

 ジュンコも続く。

 

「……!」

 

 一瞬、言葉を失った。

 

「……これ、かなり美味しい」

 

「でしょ?」

 

 イズミが嬉しそうに笑う。

 

「もっと食べたい!」

 

「イズミ、食べるの早いって」

 

「だって美味しいんだもん!」

 

 イズミはもう一口。

 

 そして、さらに一口。

 

「これ、何が入ってるの?」

 

 翔が答える。

 

「季節の野菜と鶏肉、それから――」

 

「この香りのやつは?」

 

「香草です」

 

「やっぱり!」

 

 イズミが嬉しそうに笑う。

 

「これ好き!」

 

「イズミさん、そういうものも好きなんですね」

 

 ハルナが尋ねる。

 

「うん!」

 

 イズミは迷いなく答えた。

 

「食べたことないものって、食べてみたくならない?」

 

「……イズミらしいわね」

 

 ジュンコが苦笑する。

 

「私はちょっと怖いけど」

 

「えー、もったいないよ」

 

「イズミが平気で食べてるものを基準にしないでよ!」

 

 アカリがくすくす笑う。

 

「でも、イズミさんらしいですよね」

 

「でしょ?」

 

 イズミは嬉しそうに頷く。

 

 その隣では、アカリが黙々と料理を食べていた。

 

「……」

 

 一皿をすでに平らげ二皿目に入ろうとしていた。

 

「アカリ、食べるの早くない?」

 

 ジュンコが気づく。

 

「そうですか?」

 

 アカリはいつもの穏やかな笑顔。

 

「美味しいから、つい」

 

「……まあ、いいけど」

 

 ジュンコは苦笑した。

 

 ハルナはそんな三人を気にすることなく、もう一度料理を味わっていた。

 

「……なるほど」

 

「どう?」

 

 イズミが尋ねる。

 

 ハルナはしばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「素晴らしいですわ」

 

 はっきりとそう言った。

 

「本当に?」

 

 ジュンコが驚く。

 

「ええ」

 

 ハルナは翔を見る。

 

「最初に見た時点で、丁寧な料理だとは思いました」

 

 そして、もう一口。

 

「香りも繊細でしたわ」

 

 さらに一口。

 

「ですが、実際に口にすると……想像以上です」

 

 ハルナの目が細くなる。

 

「火の通し方が絶妙です。食材それぞれの食感を残しながら、全体として一つの料理にまとめている」

 

「……」

 

「味付けも濃すぎない。それでいて、物足りなさがない」

 

 ハルナは料理を見つめた。

 

「これは……料理をかなり勉強している方の仕事ですわね」

 

 翔がニャン次郎を見る。

 

「マスター、すごいじゃん」

 

「俺は普通に作っただけだ」

 

「普通に作ってこれなんだ……」

 

 翔が苦笑する。

 

「いいお店でしょ?」

 

 なぜかキララが得意そうに胸を張った。

 

「キララのお店じゃないでしょ」

 

 エリカがすかさず突っ込む。

 

「でも、アタシもう結構来てるし!」

 

「それは関係ないって」

 

 二人のやり取りに、翔も小さく笑った。

 

 そんな声を聞きながらも、ハルナの視線は料理から離れなかった。

 

 もう一度、ゆっくりと味わう。

 

 そして、今度は厨房へ視線を向ける。

 

「店主さん」

 

「何だ?」

 

 ニャン次郎が顔を上げた。

 

「この料理を作ったのは、あなたですわね?」

 

「ああ」

 

「やはり」

 

 ハルナは満足そうに頷いた。

 

「ぜひ、一度お話を伺ってみたいですわ」

 

「俺に?」

 

「ええ」

 

 ハルナは真剣な目をしていた。

 

「これほどの料理を作れる方が、どのようにしてこの味へ辿り着いたのか……非常に興味がありますの」

 

「…………」

 

 ニャン次郎は少しだけ目を細める。

 

 だが、すぐにいつもの調子へ戻った。

 

「料理を食べに来たんだろう?」

 

「もちろんですわ」

 

「なら、まずは食べろ」

 

「ふふっ。それもそうですわね」

 

 ハルナは素直に料理へ向き直った。

 

 それ以上、ニャン次郎も何も言わない。

 

 その横では――。

 

「ねえねえ!」

 

「今度は何だ?」

 

「これ、おかわりできる?」

 

「え……もう食べたのか?」

 

 翔が皿を見る。

 

 ついさっき料理を置いたばかりなのに、イズミの皿はほとんど空になっていた。

 

「うん!」

 

「早すぎるだろ……」

 

「だって美味しいんだもん!」

 

 イズミは当然のように答える。

 

「もう一皿!」

 

「分かった分かった」

 

 翔が苦笑する。

 

「アカリも食べる?」

 

 イズミが隣を見る。

 

「そうですねぇ」

 

 アカリは穏やかな表情のまま、自分の前に積まれた皿を見る。

 

 すでに何皿か空になっていた。

 

「では、私も追加でお願いします」

 

「……アカリも結構食べてるよね?」

 

 ジュンコが呆れたように言う。

 

「そうですか?」

 

「そうよ!」

 

「美味しいですから、つい」

 

 アカリは何でもないことのように微笑む。

 

「最初に十皿頼んでなかった?」

 

「ええ」

 

「まだ追加するの!?」

 

「せっかく美味しいお料理ですから」

 

「その身体のどこに入るのよ……」

 

 ジュンコが頭を抱える。

 

「ジュンコはおかわりしないの?」

 

 イズミが尋ねる。

 

「私は――」

 

 ジュンコは自分の空になった皿を見る。

 

「…………」

 

 少し迷ってから。

 

「……もう一皿だけ」

 

「食べるんじゃん!」

 

「うるさい!」

 

 イズミが楽しそうに笑う。

 

 アカリも口元を押さえて、くすくすと笑った。

 

「では、私も追加をお願いしますわ」

 

「ハルナまで!?」

 

 ジュンコが振り返る。

 

「当然ですわ」

 

 ハルナは平然としていた。

 

「一度味わっただけでは、まだ十分とは言えませんもの」

 

「絶対普通に気に入っただけでしょ……」

 

「さて、どうでしょう?」

 

 優雅に微笑むハルナ。

 

「……結局全員か」

 

 翔は注文を書きながら肩を落とした。

 

「マスター。追加、四人分」

 

「聞こえている」

 

 厨房からニャン次郎の声が返ってくる。

 

「それとアカリさんは……」

 

 翔が注文票を見る。

 

「……まだいる?」

 

「お願いします」

 

 アカリはにこやかに答えた。

 

「了解……」

 

 翔は思わず遠い目をした。

 

「翔っち、頑張って!」

 

「キララは他人事だと思って……」

 

「だってアタシもう食べ終わったし」

 

「そういう問題じゃないだろ」

 

 エリカが吹き出す。

 

 そこからのひだまりは、しばらく戦場のような忙しさになった。

 

 料理を作るニャン次郎。

 

 皿を運ぶ翔。

 

 次々と注文する美食研究会。

 

 その様子を面白そうに眺めるキララとエリカ。

 

「こっち追加!」

 

「はいはい!」

 

「こちらもお願いします」

 

「アカリさん、何皿目!?」

 

「数えていませんねぇ」

 

「数えろよ……!」

 

「ねえねえ! これに何か変なの足したらどうなるかな?」

 

「イズミ、それはマスターの料理だから勝手に改造するな!」

 

「えー」

 

「えーじゃない!」

 

「ジュンコさん、そっち取って!」

 

「何で私まで手伝ってるのよ!」

 

「まあまあ」

 

 アカリが笑う。

 

「賑やかで楽しいじゃないですか」

 

「楽しんでるのアカリだけでしょ!」

 

「私も楽しいよ!」

 

「イズミは黙って食べてなさい!」

 

 そんな声が店内を飛び交った。

 

 そして。

 

 どれほど時間が経っただろうか。

 

「ごちそうさまでした」

 

 最後にハルナがナプキンを置いた。

 

 テーブルの上には、信じられない数の空いた皿が並んでいる。

 

「大変素晴らしい時間でしたわ」

 

「美味しかったー!」

 

 イズミが満足そうに伸びをする。

 

「私、まだちょっと食べられそう」

 

「嘘でしょ……?」

 

 ジュンコがアカリを見る。

 

「ふふ。冗談ですよ」

 

「アカリの場合、冗談に聞こえないのよ!」

 

 アカリは楽しそうに笑った。

 

 ハルナが改めてニャン次郎を見る。

 

「店主さん」

 

「何だ?」

 

「先ほどのお話……いずれ改めて伺わせていただいても?」

 

「料理の話ならな」

 

「もちろんですわ」

 

 ハルナの笑みが深くなる。

 

「では、また訪れさせていただきます」

 

「またね、翔っち!」

 

 イズミが大きく手を振る。

 

「また来ますね」

 

 アカリも穏やかに会釈する。

 

「……ごちそうさま。美味しかった」

 

 ジュンコは少し照れくさそうに言った。

 

「ありがとうございました」

 

 翔が四人を見送る。

 

 カラン――。

 

 扉が閉じた。

 

「…………」

 

 静寂。

 

 さっきまでの騒がしさが嘘のように、ひだまりが静まり返る。

 

 翔はしばらく扉を見つめていた。

 

「……嵐だったな」

 

「うん……」

 

 エリカも思わず頷く。

 

「でも楽しそうだったじゃん」

 

 キララは笑っている。

 

「見てる側はな」

 

「翔っち、ずっと走り回ってたもんね」

 

「誰のせいだと思ってるんだよ……」

 

「美食研究会?」

 

「正解」

 

 翔は空いた皿を重ねる。

 

 その数を見て、改めて顔を引きつらせた。

 

「……アカリって、マジでどこに入ってるんだ?」

 

「それ、アタシも思った」

 

「考えるだけ無駄だ」

 

 ニャン次郎が厨房から出てくる。

 

「世の中には、理解できないこともある」

 

「料理人が諦めるなよ」

 

「現実を受け入れているだけだ」

 

「そういうもんなのか……?」

 

 翔は苦笑しながら皿を運ぶ。

 

 ふと。

 

 さっきのハルナとの会話が頭に浮かんだ。

 

「そういえば、マスター」

 

「なんだ?」

 

「ハルナが言ってたやつ」

 

「料理の話か?」

 

「ああ」

 

 翔は重ねた皿をカウンターへ置く。

 

「確かに俺も気になってたんだよな」

 

「何がだ?」

 

「マスターって、料理どこで覚えたんだ?」

 

「…………」

 

 ニャン次郎の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 キララとエリカも何となくそちらを見る。

 

「そういえば」

 

 キララが頬杖をついた。

 

「マスターって料理めっちゃ上手いけど、昔から料理人だったの?」

 

「いや」

 

 答えは短かった。

 

「違うの?」

 

「ああ」

 

 ニャン次郎は布巾を手に取り、カウンターを静かに拭き始める。

 

「昔は研究に関わる仕事をしていた」

 

「研究?」

 

 翔が少し意外そうに眉を上げた。

 

「マスターが?」

 

「何だ、その顔は」

 

「いや……ちょっと意外だっただけ」

 

「失礼な奴だ」

 

「ごめんって」

 

 翔が笑う。

 

 キララも興味を示した。

 

「じゃあ、料理は趣味だったの?」

 

「俺の場合はな」

 

「俺の場合?」

 

 ニャン次郎は少しだけ黙った。

 

「……昔、一緒に仕事をしていた奴がいた」

 

 先ほどまでと、ほんの少しだけ声の調子が違った。

 

 懐かしいものを思い出すような。

 

 どこか遠くを見るような声だった。

 

「そいつも研究者だったんだが……料理が妙に上手くてな」

 

「研究者なのに?」

 

 キララが首を傾げる。

 

「あいつに言わせれば、別に不思議なことではないらしい」

 

「どうして?」

 

「よく言っていた」

 

 ニャン次郎は静かに目を細める。

 

「――科学と料理は似ているからね、とな」

 

「科学と料理?」

 

 翔が聞き返す。

 

「ああ」

 

 ニャン次郎は指先でカウンターを軽く叩いた。

 

「分量。温度。時間。材料の組み合わせ。条件を少し変えるだけで、結果も変わる」

 

「なるほど……」

 

「同じ手順でも、ほんの少し違えば同じ結果にはならない。だから面白いんだそうだ」

 

 翔は少し考える。

 

「言われてみれば、確かに似てるかもな」

 

「だろう?」

 

 珍しく、ニャン次郎の口元に少し笑みが浮かんだ。

 

「そいつは仕事より料理をしている時の方が楽しそうだった」

 

「へえ」

 

「その人、料理人になりたかったの?」

 

 エリカが尋ねる。

 

「いずれはな」

 

 ニャン次郎の手が再び動き始める。

 

「早いうちに仕事を辞めて、自分の喫茶店を開く。それが夢だと言っていた」

 

「いいじゃん!」

 

 キララが笑う。

 

「その人っぽい夢って感じ」

 

「……そうだな」

 

 ニャン次郎も静かに頷いた。

 

「暇さえあれば、新しい料理を作っていた。失敗作まで俺に食わせてな」

 

「マスター、味見役だったんだ」

 

「押しつけられていただけだ」

 

「でも食べてたんだ?」

 

「……まあな」

 

 翔が笑う。

 

 けれど。

 

 そこで一つ、気づく。

 

 ニャン次郎が使う言葉は、ずっと過去形だった。

 

「じゃあ……」

 

 翔が厨房を見る。

 

 今日、美食研究会に出した料理。

 

「今この店で出してる料理も?」

 

「ああ」

 

 ニャン次郎は頷いた。

 

「全部ではないが、かなりの数はあいつのレシピだ」

 

「そうだったんだ……」

 

「俺なりに多少変えているものもあるが、基本は変えていない」

 

 ニャン次郎はカウンターへ視線を落とす。

 

「せっかく残っているものを、わざわざ捨てる必要もないからな」

 

 その声音は穏やかだった。

 

 キララが少し首を傾げる。

 

「その人って、今は?」

 

「…………」

 

 ほんの短い沈黙。

 

 さっきまで動いていたニャン次郎の手が止まった。

 

「……もういない」

 

 それだけだった。

 

「……そっか」

 

 キララの声も自然と小さくなる。

 

「ごめん」

 

「謝ることじゃない」

 

 ニャン次郎は再び布巾を動かす。

 

「昔の話だ」

 

 エリカも、それ以上は何も聞かなかった。

 

 翔も同じだった。

 

 どうして亡くなったのか。

 

 いつのことなのか。

 

 どこで一緒に研究をしていたのか。

 

 聞こうと思えば聞ける。

 

 けれど。

 

 今のニャン次郎の顔を見れば、それ以上踏み込むべきではないことくらい分かった。

 

 ただ一つ。

 

 翔は厨房に並ぶ料理を見た。

 

 今日まで何度も食べてきた味。

 

 マスターが当たり前のように作っていた料理。

 

 その多くが。

 

 会ったこともない、一人の研究者が残したものだった。

 

「……じゃあさ」

 

 キララが静かになった空気の中で口を開く。

 

「その人が考えた料理、今もいっぱい食べてもらえてるんだよね?」

 

「ああ」

 

「だったら」

 

 キララはいつものように笑った。

 

「その人の夢、ちょっとだけ叶ってるみたいじゃん」

 

「…………」

 

 ニャン次郎がキララを見る。

 

「喫茶店をやってるのはマスターだけどさ」

 

 キララは店内を見回した。

 

「その人が考えた料理は、この店にちゃんと残ってるわけだし」

 

「……そうだな」

 

 しばらくして。

 

 ニャン次郎は、ほんの僅かに笑った。

 

「そう考えるのも……悪くないかもしれん」

 

 ひだまりには再び、いつもの静かな時間が戻っていた。

 

 けれど翔にとって。

 

 いつも食べていた料理の味は、その日からほんの少しだけ違う意味を持つことになった。

 

 

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