青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
店の外が、僅かにざわついた。
それまで路地や交差点を押さえていた風紀委員たちが、申し合わせたように姿勢を正した。銃を下げたまま立っていた者も背筋を伸ばし、入口付近の生徒たちが自然と道を空けていく。
誰かが大声で命令したわけではない。
それでも、外の空気が明らかに変わった。
「……え?」
真っ先に気づいたイオリが、暖簾の向こうへ顔を向ける。
チナツも続いて振り返った。
「まさか……」
そして。
さっきまで先生と言い合っていたアコの表情から、すっと余裕が消えた。
「……」
翔は三人の反応を見比べる。
それだけで、誰が来たのか大体察した。
「……来たな」
「誰が?」
先生が首を傾げる。
翔が答えるより早く、外から規則正しい足音が近づいてきた。
暖簾が揺れる。
夕暮れの薄赤い光を背に、一人の少女が店へ入ってきた。
小柄な身体に、長い銀髪。
頭上から伸びる黒い角。
ゆっくりと店内を見回す赤紫の瞳。
声を上げたわけでも、威圧するような仕草をしたわけでもない。
それでも。
先ほどまで騒がしかった店内が、一瞬で静かになった。
「委員長!?」
イオリが声を上げる。
「ヒナ委員長……!」
チナツも反射的に姿勢を正した。
「ひ、ヒナ……?」
アルの顔が露骨に引きつった。
それまでアコ相手には何だかんだと言い返していたのに、今は椅子に座ったまま完全に背筋が固まっている。
ムツキも口元には笑みを残しているものの、さっきまでほど気楽ではない。
カヨコは黙ってヒナの様子を観察している。
そしてハルカに至っては、椅子の上で小さくなっていた。
ヒナは便利屋68にはすぐ目を向けなかった。
最初に見たのは翔だった。
「翔」
「お疲れ、ヒナ」
いつも通りに呼び返す。
ヒナの視線が、頭から足元まで一度だけ翔をなぞった。
ヒナは便利屋68にはすぐ目を向けなかった。
店内を見回した視線が、翔のところで一度止まる。
「翔」
「お疲れ、ヒナ」
「……うん」
短い返事だった。
ヒナはそれ以上何も言わず、そこにいる翔の姿を一度だけ確かめる。
少なくとも、今すぐ気に掛けなければならない様子ではない。
それを見届けると、視線はすぐに別の人物へ移った。
アコ。
その瞬間、アコの背筋が目に見えて伸びる。
「……アコ」
「は、はい」
「説明して」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、先ほどまであれだけ堂々としていたアコが完全に押されている。
店の外では、風紀委員たちが緊張した様子で此方を窺っていた。
「その……」
アコが言葉を選ぶ。
「便利屋68による大規模な武装行動が確認されましたので、風紀委員会として早急に対処する必要があると判断し――」
「便利屋68を追った理由を聞いてるんじゃない」
ヒナが静かに遮った。
アコの口が止まる。
「私は今日、これだけの人数をアビドス方面へ動かす許可を出した覚えがないけど」
「……」
「違う?」
「……いえ」
アコの声が小さくなる。
翔は腕を組みながら、そのやり取りを見ていた。
予想していた通り。
本当に完全な独断だったらしい。
イオリとチナツも何とも言えない表情になっている。
少なくとも二人は、必要な許可までアコが取っているものだと思っていたのだろう。
「便利屋68を確保する必要があると判断したこと自体は分かる」
ヒナは続ける。
「でも、それと無断で部隊を動かしたことは別」
「……はい」
「それから」
ヒナの視線が先生へ向いた。
先生は自分を見られたことに気づくと、軽く手を上げた。
「初めまして」
「……あなたがシャーレの先生?」
「うん」
ヒナは数秒、先生を見つめた。
アコのように露骨な警戒心を見せるわけではない。
ただ、連邦生徒会長から大きな権限を預けられた正体不明の大人を、自分自身の目で確かめるような視線だった。
「ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナ」
「よろしく、ヒナ」
「……よろしく」
先生があまりにも自然に名前を呼んだせいか、ヒナがほんの僅かに瞬きをする。
だが、それ以上気にした様子は見せず、すぐアコへ戻った。
「先生を風紀委員会の保護下へ移そうとしていたみたいね」
「……はい」
「それも私には報告してない」
「……」
「アコ」
「はい……」
今度ははっきり声が沈んだ。
「先生が昨日危険な目に遭ったことは、私も今確認した」
ヒナの視線が一瞬だけ便利屋68へ向く。
アルの肩が僅かに強張った。
「ゲヘナの生徒が関係する戦闘で起きたことなら、風紀委員会として事情を確認する必要はある」
「ですが――」
「でも、先生を風紀委員会の判断だけで連れていこうとするのは違う」
先生が少しだけ目を丸くする。
「先生本人が残ると言っているなら、それを無理に変えさせる理由にはならない」
「拘束するつもりではありません」
「本人が断っているのに、保護という名目で行動を制限したら似たようなもの」
「……」
アコは反論できずに口を閉じた。
その横で先生が、翔へ小声で囁く。
「ヒナ、すごくまともなこと言ってるね」
「先生」
「なに?」
「多分聞こえてる」
「……そう?」
ヒナの目が二人へ向いた。
「聞こえてる」
「ごめんなさい」
先生は素直に頭を下げた。
翔は額へ手を当てる。
初対面からこれである。
ヒナは小さく息を吐いたものの、それ以上先生には何も言わなかった。
今度はアヤネたちを見る。
「それと、アビドスのみんなにも謝る」
「え?」
アヤネが目を瞬く。
「事前の連絡なしに、風紀委員会がこの周辺へ大規模な部隊を展開した。これはこっちの問題」
「でも……」
アヤネは少し迷う。
「さっき、土地の権利関係についてアコ行政官から……」
「土地?」
ヒナがアコを見る。
「……この周辺には、アビドス側が把握していない所有関係が存在する可能性について話しました」
「そう」
ヒナは一度だけ考えるように目を伏せた。
そして。
「それはそれ」
顔を上げる。
「土地の所有者が誰なのかは、後で正式に確認すればいい。でも、それを理由に何の説明もなく部隊を展開していいことにはならない」
「……分かりました」
アヤネもまだ土地の話が気になる様子ではあったが、頷いた。
「こちらでも確認します」
「うん。その方がいい」
ヒナも短く返す。
それから再びアコへ向き直った。
「外の部隊を下げて」
「ですが、便利屋68は――」
「包囲は解除」
「……はい」
アコは明らかに不満そうだった。
それでもヒナの指示に逆らうことはせず、通信機へ手を伸ばす。
「各部隊へ。柴関周辺の包囲を解除します。道路封鎖も終了。一般通行を優先してください」
店の外で、人の動く気配が一気に増えた。
路地の入口を塞いでいた生徒たちが下がる。
交差点にいた部隊も隊列を組み直し、徐々に道が開かれていく。
閉塞していた夕方の通りへ、少しずつ普段の空気が戻ってきた。
その様子を窓越しに見ていたカヨコの目が、僅かに細くなる。
「……」
隣にいたムツキも気づいた。
二人の視線が一瞬だけ合う。
次にアルを見る。
アルは最初、意味が分からないように瞬きをした。
そして。
「……!」
気づいた。
ハルカだけが何も理解していない。
「アル様……?」
「しっ」
珍しくアルが小さな声で止めた。
一方。
ヒナはまだアコから目を離していなかった。
「それから、帰ったら今回の経緯を全部まとめて提出して」
「全部……ですか?」
「全部」
「……はい」
「どうして先生の所在を確認していたのか。便利屋68を確保するために、どうしてこれだけの人数を動かす必要があると判断したのか。誰の許可を取ったのか――取っていないなら、その理由も」
「……はい」
「報告書と」
ヒナが一拍置く。
「反省文」
「……反省文」
アコの顔が引きつった。
「無断で部隊を動かしたんだから当然でしょ」
「……はい……」
さっきまで行政官として堂々としていた姿が嘘のように、アコの声が目に見えて小さくなる。
その横で、イオリがぼそっと呟いた。
「……大変だな、アコちゃん」
「他人事みたいに言わないでください!」
「え?」
嫌な予感を覚えたイオリへ、ヒナの視線が移る。
「イオリとチナツも、今日の状況をまとめて」
「私も!?」
「状況報告だけでいい」
「……それでも書くのか」
「来たでしょう」
「アコちゃんに言われたから来たんだけど……」
「でも現場にいた」
「うぅ……」
イオリが露骨に肩を落とす。
「チナツもお願い」
「は、はい。分かりました」
チナツは素直に頷いた。
そこでアコが顔を上げる。
「どうして私だけ反省文まで……」
「決めたのがアコだから」
「……」
簡潔だった。
翔は思わず口元を押さえる。
「……翔さん」
「何?」
「今、笑いましたね?」
「いや」
「笑いましたよね?」
「ちょっとだけ」
「翔さん!」
ヒナがアコを見る。
「反省文、一枚増やす?」
「すみませんでした!」
即座に翔から視線を逸らした。
今度こそ翔は吹き出した。
「翔」
「悪い」
ヒナに見られ、翔も咳払いして表情を戻す。
「翔からも、後で話を聞かせて」
「ああ。昨日のことも含めて?」
「うん。できるだけ詳しく」
「分かった」
翔に断る理由はない。
もともと風紀委員会から正式な調査を任されている立場でもある。ヒナ本人が状況を確認したいなら、分かっている範囲をそのまま話せばいいだけだ。
その時。
「あれ?」
アコが不意に声を漏らした。
全員の視線が向く。
アコが見ているのは、先ほどまで便利屋68が座っていた席だった。
四つの椅子。
四つの空になった丼。
そして。
人影がない。
「……」
一瞬。
店内が静まり返った。
「便利屋68は?」
ヒナが尋ねる。
「え?」
アコがもう一度席を見る。
視線が左右へ動く。
「……え?」
イオリも振り返った。
「はぁ!?」
チナツが入口を見る。
「いつの間に……」
翔も思わず空席へ目を向ける。
さっきまで、確かに四人揃っていた。
いつ抜けた。
机の端には、食事代だけがきっちり置かれている。
厨房から様子を見ていた柴大将が、それを確認する。
「お、ちゃんと払ってるな」
「そこじゃありません!」
アコが叫んだ。
柴大将はきょとんとする。
「いや、店としては大事だろ?」
「それはそうですけど!」
「ならいいじゃねえか」
「よくありません!」
ヒナは空席を一度見てから、外へ視線を向けた。
すでに包囲は崩れている。
路地も道路も開いていた。
今から追跡を命じることはできる。
だが。
「……もういい」
「委員長!?」
「今日は追わない」
「ですが――」
「便利屋68の件は、正式に整理してから改めて対応する」
「……」
「それに」
ヒナはテーブルの上に並んだ丼を見る。
「少なくとも今、この店で暴れていたわけじゃないんでしょう?」
「それは……そうですが」
「なら、今日はいい」
アコは明らかに納得していない。
それでも、ヒナが決めた以上は従うしかない。
翔は空になった席を眺める。
包囲が解けた瞬間を、カヨコあたりが見逃さなかったのだろう。
「……逃げ足速いな」
「感心しないでください、翔さん!」
「俺に言われても」
「翔」
ヒナがこちらを見る。
「何?」
「知ってて黙ってた?」
「知らないって」
「本当に?」
「本当に。俺も今気づいた」
少なくともそこに嘘はない。
ヒナは数秒だけ翔を見る。
「……ならいい」
「信用ないなあ」
「普段の行動の結果」
「そこまで?」
チナツが小さく笑い、イオリも肩をすくめる。
アコだけは、まだ空席を睨んでいた。
「……便利屋68」
低い声が漏れる。
「次に見つけた時は……」
「アコ」
「はい」
「今日は帰る」
「……はい」
即答だった。
店の外では、すでに撤収準備が本格的に始まっている。
部隊ごとに人数を確認する声。
車両へ戻っていく足音。
夕方の道路から、ゲヘナ風紀委員会の姿が少しずつ減っていく。
イオリとチナツも外へ出て、それぞれ撤収する部隊の確認に向かった。
アコも通信機を片手に店を出ていく。
残ったヒナもその後を追う――。
かと思ったところで。
「翔」
「ん?」
再び名前を呼ばれた。
翔が振り返る。
ヒナは暖簾のすぐ内側で立ち止まっていた。
さっきまでアコたちへ指示を出していた時と同じ、風紀委員長としての落ち着いた顔。
けれど。
今度は周囲へ聞かせるための声ではなかった。
「貴方は、このままアビドスに残るの?」
「ああ」
翔は頷く。
「もう少し調べたい。疑似メモリ兵器の流れもまだ途中だし、土地の話でもカイザーが出てきたからな」
「そう」
短い返事。
ヒナはそれだけ言った。
なのに、外へ向かわない。
店の外では風紀委員たちが忙しなく動いている。
委員長であるヒナがいつまでもここに残っていられるわけではない。
それでも。
「……どれくらい?」
「え?」
「あと、どれくらいこっちにいる予定?」
翔は少し考えた。
「まだ何とも言えないな。何も掴めなかったら数日で一度戻るかもしれないし、何か出たらもう少しかかると思う」
「……そう」
また同じ返事だった。
けれど今度は、その前にほんの僅かな間があった。
翔はヒナを見る。
いつも通りの無表情に近い顔。
その奥にある小さな変化まで分かるようになったのは、ここしばらく何度も顔を合わせてきたからだろう。
「ヒナ?」
「何?」
「いや……」
何となく。
そこで会話を終わらせるのは違う気がした。
翔は少しだけ笑う。
「戻る時は連絡するよ」
「……別に、そこまでしなくてもいいけど」
「じゃあ、しない方がいい?」
「それは……」
ヒナの言葉が止まった。
視線が一瞬だけ横へ逸れる。
「……連絡くらいなら、して」
「ああ。分かった」
翔が頷く。
ヒナも小さく頷いた。
「それと」
「まだある?」
「無茶しないで」
今度は迷わなかった。
「昨日のことも聞いた。先生を心配するのは当然だけど、あなた自身だって撃たれれば危ないんだから」
「分かってるよ」
「本当に?」
「そこ疑う?」
「疑う」
即答だった。
「あなた、そう言って危ないところに行くから」
「……否定しづらいな」
「でしょ」
ほんの少しだけ。
ヒナの表情が和らいだ。
「調査が必要なのは分かってる。止めるつもりもない」
一度言葉を切る。
「だから」
赤紫の瞳が、真っ直ぐ翔を見る。
「ちゃんと帰ってきて」
「……ああ」
今の言葉だけは。
風紀委員長が調査協力者へ出す指示には聞こえなかった。
翔も茶化さずに答える。
「ちゃんと帰るよ」
「うん」
ようやく、ヒナが小さく頷いた。
「それならいい」
そして。
ほんの僅かに残っていた柔らかさが消え、再び風紀委員長の顔へ戻る。
「じゃあ、私は戻る。アコの報告書と反省文も確認しないといけないから」
「……頑張れ」
「私じゃなくてアコに言って」
「確かに」
その時、外から声が飛んできた。
「委員長ー! アコちゃんがさっきからすごい顔してます!」
「イオリ! 余計なことを言わないでください!」
ヒナが小さくため息を吐いた。
「……行ってくる」
「お疲れ」
ヒナが暖簾をくぐる。
一歩。
二歩。
そこで足を止めた。
肩越しに、もう一度だけ振り返る。
「翔」
「ん?」
「……連絡、忘れないで」
「ああ」
今度こそ、ヒナは夕暮れの通りへ歩いていった。
小さな背中が、待っていた風紀委員たちの中へ戻っていく。
すぐに周囲から報告を受け始める姿は、もういつもの風紀委員長だった。
翔はそれをしばらく見送った。
普段は何でも自分で抱え込んで。
誰よりも頼られる側にいて。
弱音らしい弱音もほとんど見せない。
だからこそ。
今の一言くらいは、ちゃんと覚えておこうと思った。
「……へえ」
背後から、妙に含みのある声がした。
翔の眉がぴくりと動く。
振り返る。
先生がいた。
いつから見ていたのか。
カウンターの近くに立ったまま、口元へうっすら笑みを浮かべている。
「何だよ」
「いや?」
「その顔で『いや』は無理があるだろ」
「そんな顔してる?」
「してる」
先生は否定せず、ヒナが去った方向をちらりと見た。
「ずいぶん心配されてるんだね、翔」
「……まあ、色々一緒にやってきたからな」
「ふーん」
「何だよ、その『ふーん』」
「別に?」
「だからその顔やめろって」
先生はますます楽しそうになる。
「でも、ヒナってもっとこう……誰に対しても隙がない感じなのかと思ってた」
「基本はそうだよ」
「翔にはちょっと違うと思ったけど」
「……そうなのか?」
「本人に聞いたら?」
「絶対聞かない」
即答だった。
先生が笑う。
「それにしても」
「まだ何かあるのかよ」
「『ちゃんと帰ってきて』かあ」
「聞いてたのかよ!」
「すぐそこにいたからね」
「盗み聞きみたいに言うなよ」
「してないよ。普通に聞こえただけ」
「それが一番困るんだよ……」
翔が額へ手を当てる。
先生はしばらくそんな翔を眺めていたが、少しだけ笑みを和らげた。
「大事にされてるね」
「……」
今度は、翔もすぐには返さなかった。
茶化されている。
それくらいは分かる。
けれど。
さっきのヒナの声を思い出すと、適当に否定するのも違う気がした。
「……まあ」
翔は少しだけ視線を逸らす。
「心配かけないようにはするよ」
「うん。それがいいと思う」
先生はそこで一度頷いた。
これで終わりかと思ったが。
「帰る時、ちゃんと連絡しないと怒られそうだしね」
「やっぱり茶化してるだろ!」
先生の笑い声が、ようやく静けさを取り戻し始めた柴関ラーメンに響いた。
* * *
風紀委員会が撤収してから、少しして。
夕暮れの通りには、ようやく普段の静けさが戻り始めていた。
さっきまで路地や交差点を塞いでいた風紀委員たちの姿はもうない。残っているのは、時折通りを横切る住民と、店内に漂うラーメンの匂いだけだった。
「……何だったのよ、ほんとに」
セリカが疲れたように椅子へ座り直す。
「ラーメン食べに来ただけだったのに」
「ん。色々起きた」
「色々で済ませないでよ、シロコ先輩……」
向かいでは、先生がまだどこか楽しそうな顔をしている。
その理由が分かっている翔は、あえてそちらを見なかった。
「翔」
「何だよ」
「何も言ってないよ?」
「顔が言ってる」
「気のせいじゃない?」
「絶対違う」
またヒナの話を蒸し返される前に、翔は残っていた水へ手を伸ばした。
そんな二人の横で、アヤネだけは先ほどから端末を見つめている。
画面を操作しているわけではない。
考え込むように、指が止まっていた。
「アヤネ?」
ノノミが声を掛ける。
「どうしました?」
「……さっきの話が気になって」
「土地?」
シロコが尋ねる。
「はい」
アヤネは頷いた。
「アコ行政官が言っていた、『私たちが把握していない権利関係』です」
昼間、翔から土地の名義について確認した方がいいと言われたばかりだった。
そこへ、アコからも同じ部分を指摘された。
「明日、昔の資産記録を確認します」
「明日?」
セリカが眉を寄せる。
「今からじゃ駄目なの?」
「全部確認しようとすると、かなり時間が掛かると思うから……」
「でも、何なのか分からないままなのも気持ち悪いわね」
セリカも腕を組む。
その時だった。
「土地の話か?」
厨房から声が飛んだ。
一同が振り返る。
柴大将が洗い終えた丼を棚へ置きながら、こちらを見ていた。
「大将?」
「さっきから聞こえてたんだけどな」
布巾で手を拭きながら、厨房から出てくる。
「もし柴関の辺りのことなら、俺も少しくらいは知ってるぞ」
「え?」
アヤネが椅子から身を乗り出す。
「何か知ってるんですか?」
「詳しい契約の話までは知らねえけどな」
柴大将は少し困ったように頭を掻いた。
「この店の土地と建物、今はもうアビドス高校の持ち物じゃないんだ」
店内が静かになった。
「……は?」
真っ先に声を漏らしたのはセリカだった。
「何それ」
「何年か前に、昔の生徒会が借金の返済で手放したらしい」
「ちょ、ちょっと待って!」
セリカが立ち上がる。
「ここ、アビドスの自治区でしょ!?」
「自治区かどうかって話は俺には分かんねえよ」
柴大将は苦笑した。
「ただ、店を借りてるこっちには、土地と建物の所有者が変わったって通知が来てる」
「所有者が……」
アヤネの表情が強張る。
「現在の所有者は分かりますか?」
「名前まではうろ覚えなんだけど……」
柴大将は腕を組んで考える。
「カイザー……何とかだったかな」
その名前を聞いた瞬間、翔の中で引っ掛かっていたものが一つ落ち着いた。
(……やっぱりか)
驚きはしなかった。
むしろ、昼から曖昧だった部分にようやく形がついた感覚に近い。
ただ、今のカイザーには土地や借金だけでは済まない動きがある。
疑似メモリ兵器。
セリカの誘拐。
そこまで含めれば、この名前を軽く流す気にはなれなかった。
「カイザー?」
セリカが聞き返す。
「ああ。そんな名前だったと思う」
その時。
店の暖簾が持ち上がった。
「いや~、遅くなっちゃったねえ」
聞き慣れた声。
全員が入口へ振り返る。
「ホシノ先輩!」
セリカが真っ先に声を上げた。
ホシノはいつもと変わらない緩い表情で、片手を上げている。
「ただいま~」
「ただいまじゃないわよ! 夕方には戻るって言ってたでしょ!」
「いやあ、ごめんごめん。ちょっと長引いちゃってさ」
「連絡くらいしてよ!」
「次から気をつけるよ~」
「絶対分かってない!」
セリカの声が店内へ響く。
先生は少し安心したように息を吐いた。
「おかえり、ホシノ」
「ただいま、先生」
翔もホシノを見る。
「用事は終わったのか?」
「まあねえ」
いつもの調子だった。
少なくとも、表面上は。
「それより」
ホシノが店内を見回す。
「何の話してたの? ずいぶん真面目な顔してるけど」
「大変なのよ!」
セリカがすぐに答える。
「この店の土地と建物、もうアビドスの持ち物じゃないんだって!」
「……え?」
ホシノの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「昔の生徒会が、借金の返済で手放したらしいんです」
アヤネが説明する。
「現在の所有者は……カイザー系列かもしれないと」
「……カイザー」
ホシノが小さく繰り返した。
ほんの僅かな変化だった。
すぐに、いつもの眠たげな顔へ戻る。
「へえ……そうなんだ」
先生がホシノを見る。
翔も同じように視線を向けたが、ホシノはそれ以上何も言わなかった。
「それと」
柴大将が話を戻す。
「少し前から、退去についての通知も来てる」
「ええ!?」
セリカがまた声を上げた。
「じゃあ柴関なくなっちゃうの!?」
「落ち着けって」
柴大将が苦笑する。
「通知が来てるってだけだ。明日出ていけって話じゃないし、俺も『はいそうですか』って店を畳むつもりはない」
「……本当?」
「本当本当」
「絶対?」
「絶対って言われると、先のことまでは分からねえけどさ」
セリカの目が険しくなる。
「……大将?」
「分かった分かった!」
柴大将が両手を上げた。
「少なくとも今のところ、柴関ラーメンを閉める気はねえよ。話がつくまでは普通に営業する」
「……ならいいけど」
ようやくセリカが座り直す。
「でも、そんな通知が来てたなら言ってくれてもよかったじゃない」
「お前らも借金だ何だで大変なの知ってるからな。余計な心配増やすこともないと思ってたんだよ」
「そういうところよ……」
セリカは納得していない顔をしたが、それ以上は責めなかった。
アヤネはしばらく何かを考えていた。
やがて、手元の端末を握り直す。
「……やっぱり、今日のうちに一度だけ確認したいです」
「土地のこと?」
先生が尋ねる。
「はい」
アヤネは頷いた。
「詳しい契約内容まで調べ始めたら時間が掛かります。でも、学校の端末なら古い資産台帳と現在の名義くらいは確認できます」
柴関の土地がすでにアビドス所有ではない。
しかも、そこにカイザーの名前まで出てきた。
明日まで何も確認せずに置いておくには、少し気になる情報だった。
「少なくとも、柴関だけなのかどうかは今日のうちに確認しておきたいです」
「私も賛成」
セリカがすぐに言う。
「ここだけなのか、それとも他にもあるのかくらいは知りたい」
「ん」
シロコも頷いた。
「それなら時間もそんなに掛からない」
「そうですね~」
ノノミも同意する。
先生は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、帰る前にそれだけ確認しようか」
「はい」
「ただし」
先生が人差し指を立てる。
「細かい契約内容まで調べ始めるのは明日。今日は大まかなところが分かったら終わり」
「……分かりました」
「アヤネ、放っておくと全部調べそうだからね」
「そ、そんなことは……」
言いかけて。
アヤネが目を逸らす。
「あるんだ」
先生が笑った。
「……少しだけ」
「やっぱり」
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
「ホシノは?」
先生が尋ねる。
「ん~?」
「一緒に戻る?」
ホシノは一度だけ柴大将を見て、それからアヤネの端末へ視線を向けた。
「そうだねえ」
いつもの調子で立ち上がる。
「おじさんも気になるし、行こうかな」
* * *
土地の名義を大まかに確認したところで、その日の調査は打ち切られた。
「今日はここまで」
先生がそう言うと、アヤネはまだ少し名残惜しそうに画面を見ていたものの、素直に端末を閉じた。
「……分かりました。詳しい契約書の確認は明日にします」
「うん。今日は予定外のことまで色々あったからね」
「先生もですよ」
セリカが呆れたように言う。
「朝からずっと動いてたでしょ。ちゃんと休んでよね」
「はーい」
「……返事が軽い」
「でも、ちゃんと休むよ」
「ならいいけど」
セリカはまだ少し疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。
張り詰めていた教室の空気が、ようやく少しだけ緩む。
ノノミは机の上に残っていた資料をまとめ、シロコも使っていた端末を片付け始めた。
翔も椅子を戻して立ち上がる。
「俺もそろそろ宿に戻るよ」
「もうこんな時間ですし、その方がいいですね」
アヤネが時計を見る。
「翔さんも今日はずっと動いていましたから」
「ああ。続きは明日だな」
「明日も来る?」
シロコが尋ねる。
「そのつもり」
「ん。分かった」
翔は軽く手を上げる。
そのまま教室を出ようとして、ふとホシノを見る。
「ホシノ」
「ん~?」
「今度こそ、今日はもう寄り道するなよ」
「何その言い方」
「夕方には戻るって言ってたのに遅くなっただろ」
「いやあ、あれはちょっと予定外でねえ」
「だから心配になるんだよ」
ホシノはくすりと笑った。
「翔くんって、意外と心配性なんだねえ」
「今日は特にな」
「はいはい。おじさんもちゃんと帰りますよ~」
「ならいいけど」
翔はそれ以上追及しなかった。
どこへ行っていたのか。
何をしていたのか。
気にならないわけではない。
けれど、本人が話さないことを無理に聞き出す理由もなかった。
「ホシノ」
今度は先生が呼ぶ。
「なに、先生?」
「今日はちゃんと休んでね」
「先生もねえ」
「うん」
それだけ答えてから、先生は少しだけホシノを見る。
「それと」
「ん?」
「何かあったら話してね」
ホシノが僅かに目を瞬いた。
「急だねえ」
「今日、戻ってきてから少し考え込んでるように見えたから」
「……そう?」
「私の気のせいなら、それでいいんだけど」
先生の声は軽い。
無理に聞き出そうとしているわけでもない。
ホシノは数秒だけ先生を見て、それからいつもの緩い笑みを浮かべた。
「土地の話が結構びっくりだったからねえ。ちょっと考えてただけだよ」
「そっか」
「心配しなくても大丈夫」
「分かった」
先生もそこで引いた。
今の返事をそのまま信じ切ったというより、これ以上踏み込むだけの材料がまだないと判断したようだった。
「じゃあ、帰ろうか」
先生の言葉を合図に、それぞれが荷物を持つ。
「おやすみ、先生」
「おやすみ、ホシノ」
「また明日な」
「うん。またねえ、翔くん」
アヤネが教室の照明を落とす。
全員で校舎を出ると、その後はそれぞれ帰る方向へ別れていった。
* * *
夜。
自宅へ戻ったホシノは、自室のベッドへ腰を下ろしていた。
学校にいる時と違い、誰の声もしない。
静かな部屋の中で、一日の出来事だけが頭の中を行き来していた。
「……」
ホシノは背中を壁へ預ける。
目を閉じると、さっき学校で見た地図が浮かんだ。
アビドスの土地。
柴関ラーメン。
旧市街。
砂に呑まれていった区域。
そして、その多くへ繋がっていた名前。
カイザー。
「……カイザー、か」
ぽつりと呟く。
土地を手放した。
それを企業が買った。
そこまでなら、アビドスが抱えている借金問題の延長でしかない。
けれど。
今日、自分は別の男と会っている。
黒服。
何を考えているのか掴めない、不気味な男だった。
こちらを値踏みするように話しながら、まるで最初から答えを知っているかのような態度を崩さなかった。
そして。
借金を消すことができると言った。
その代わりに。
自分。
あるいは、仮面ライダー。
「……」
ホシノの目から、いつもの眠たげな色が少しだけ消える。
あの場では断った。
迷う理由もなかった。
自分だけならともかく。
セリカを助け、先生を守った相手まで取引材料にするつもりはない。
それ以前に。
あの男へ自分を差し出したところで、本当に借金が消える保証などどこにもなかった。
ただ。
帰ってきてみれば、アビドスの土地の多くがカイザー系列へ渡っていた。
だからといって。
黒服とカイザーが繋がっていると決まったわけではない。
借金のことを知っているだけなら、それだけで関係者とは断定できない。
「……まだ何も分かってないか」
ホシノは小さく息を吐いた。
分からないからこそ、今は下手に動くべきではない。
黒服が何者なのか。
なぜ自分を欲しがったのか。
どうして仮面ライダーにまで価値を見出しているのか。
カイザーとどこまで関係があるのか。
どれも、今の時点では答えがない。
そんな状態で追い掛けても、相手の思う通りになるだけかもしれない。
先生へ話すことも考えた。
アヤネたちへ話すことも。
翔へ話すことも。
けれど、今話せるのは「妙な男から妙な取引を持ちかけられた」ということくらいだ。
それだけで後輩たちまで動かせば、かえって危険な場所へ近づける可能性もある。
セリカはすでに一度、何も知らないまま攫われた。
昨日は先生まで危険な攻撃に晒されている。
不確かな話だけで、また全員を巻き込む必要はない。
「……」
ホシノはゆっくりベッドへ身体を倒した。
天井を見上げる。
先生の声が、ふと頭に残る。
――何かあったら話してね。
「……ほんと、変なところで鋭いよねえ」
小さく笑う。
けれど。
まだ、その時ではない。
何か確かなものが出てからでも遅くはない。
今すぐ外へ出る必要もない。
誰かを問い詰める必要もない。
「もう少し、見てからかな」
カイザー。
黒服。
アビドスの借金。
そして、自分へ持ちかけられた取引。
何か一つでも繋がるものが出てくれば、その時に改めて考えればいい。
今は。
ただ、覚えておく。
見過ごさないように。
ホシノは目を閉じる。
今日はもう動かない。
まだ、その必要はない。
ただ二つの名前だけが、消えない引っ掛かりとして胸の奥に残っていた。
黒服。
そして――カイザー。