青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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第47話 強盗

 

 

 武器商から教えられた方向へ進んで、十数分ほど。

 

 翔はブラックマーケットの雑踏を歩きながら、行き交う人々の顔を確かめていた。三十分以上前にこの辺りを通ったというだけでは、まだ近くにいる保証はない。すでに別の区域へ移ったか、用事を済ませてブラックマーケットそのものを離れている可能性だってある。

 

「さすがに簡単には――」

 

 見つからないか。

 

 そう続けようとしたところで、翔の足が止まった。

 

 通りの向こう、店先に積まれた武器部品を眺めながら、店主と何か話している犬の獣人がいる。

 

 くすんだ茶色の毛並みに、頭の上へ伸びた二つの耳。着古した上着にはいくつものポケットがついており、ブラックマーケットの雑然とした景色へすっかり馴染んでいる。

 

 横顔しか見えなかったが、見間違えるはずがない。

 

「……いた」

 

 以前、疑似メモリ兵器の流通を追っていた時に、一度だけ話を聞くことができた仲介人だった。複数の販売業者へ品を振り分け、そのさらに上流とも繋がっていた男だ。もう一度話を聞こうとした時には、拠点ごと消えていた。

 

 翔はまだ声をかけず、人混みの隙間を縫うようにそちらへ歩き始める。相手はまだこちらに気づいていない。

 

 距離を詰めていったところで、男が店主との話を終えて振り返った。

 

 目が合った。

 

 男の耳がぴくりと立ち、顔が露骨に引きつる。その直後には踵を返し、何も言わず走り出していた。

 

「やっぱ逃げるか!」

 

 翔もすぐに駆け出す。

 

「おい、待て!」

 

「待てって言われて待つ馬鹿がいるか!」

 

「それもそうだな!」

 

「納得するな!」

 

 男は人混みへ飛び込み、肩をぶつけながら強引に道を開いていく。

 

 翔は同じようには追わなかった。行き交う人の動きを見ながら空いた場所へ身体を滑り込ませ、進路を塞ぎかけた客の脇を抜ける。

 

 前方で男が露店脇に積まれていた木箱を蹴り倒した。中に入っていた金属部品が音を立てて路上へ散らばり、店主の怒鳴り声が飛ぶ。

 

「ちょっ――何しやがる!」

 

 翔は転がってきた部品を一歩だけ進路をずらしてかわし、そのまま速度を落とさず駆け抜けた。

 

 男との差は広がらない。

 

「しつこいんだよ、あんた!」

 

「話聞いたら帰るって!」

 

「その話が面倒なんだよ!」

 

「じゃあ前にちゃんと答えてくれればよかっただろ!」

 

 男が細い路地へ飛び込む。

 

 翔はその背中を追って角へ入る寸前で足を止め、周囲へ視線を走らせた。路地の先へ続く建物と、その脇にある上階への外階段が目に入る。

 

 次の瞬間には進路を変えていた。

 

 二段ずつ階段を駆け上がり、建物沿いの通路を横切る。途中にある低い柵へ片手をついて越え、そのまま反対側の階段へ回り込んだ。

 

 足音を響かせながら階段を下り、最後の数段を飛ばして地面へ着地する。

 

 ほとんど同時に、目の前の路地から男が飛び出してきた。

 

「なっ――!?」

 

「よ」

 

 翔を見るなり、男の耳が再び跳ね上がった。

 

 反射的に方向を変えようとしたところで、その腕を翔が掴む。

 

「離せ!」

 

「だから話だけだって!」

 

 男が振りほどこうとした瞬間、翔は力任せに引き止めるのではなく、引かれる方向へ身体をずらした。勢いを利用されて男の足がもつれ、前のめりになった身体を翔が肩で受け止める。

 

 そのまま腕を押さえ、壁際へ動きを封じた。

 

「くそっ……!」

 

「暴れるなって。転ぶぞ」

 

「誰のせいだ!」

 

「逃げたお前だろ」

 

「追ってきたのはあんただ!」

 

「……それはそうだけど」

 

 一瞬納得しかけてから、翔は首を振った。

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「何なんだよ!」

 

 男は息を切らし、耳を伏せながら翔を睨みつけてくる。

 

 翔の呼吸も多少は乱れていたが、もう追いかけ回す必要はない。相手が無理に抜け出そうとしないのを確かめ、掴んでいた腕を少し緩めた。

 

「逃げないなら離す」

 

「信用できるか」

 

「それ、俺の台詞なんだけど」

 

「……」

 

「前は一回話した後、そのまま消えただろ」

 

 男の表情が僅かに変わった。図星らしい。

 

「別に捕まえてどこかへ突き出そうってんじゃない。聞きたいことがあるだけだ」

 

「またあの変な武器か」

 

「話が早くて助かる」

 

「俺は全然助かってない」

 

 男が深くため息をついた。

 

「……分かった。逃げない」

 

「本当に?」

 

「この状況でどう逃げろってんだよ」

 

「じゃあ離すぞ」

 

 翔が手を放すと、男は腕を擦りながら恨めしそうに翔を見た。

 

「前より面倒になってないか、あんた」

 

「そうか?」

 

「……自覚ないのかよ」

 

 翔は特に気にした様子もなく端末を取り出す。

 

「これを見てほしい」

 

 表示したのは、旧物流施設などで確認された疑似メモリ兵器の記録だった。セリカの誘拐に使われた電磁拘束型や、複数を連動させた大型装置。それまでブラックマーケットへ流れていた品よりも、明らかに規格の揃った機材だ。

 

 男の目が僅かに細くなる。

 

「……どこで撮った」

 

「それは言えない」

 

「こっちには聞くくせに?」

 

「悪いな」

 

「本当にたち悪いな、あんた」

 

 口ではそう言いながらも、男は端末から目を離さない。

 

「見覚えは?」

 

「そのままの形じゃない」

 

「じゃあ、似たものは?」

 

 男はしばらく黙って画面を眺めた後、小さく舌打ちした。

 

「前にあんたが追ってた品とは、ちょっと違う」

 

「やっぱり?」

 

「あの頃市場に流れてたのは、もっとバラつきがあった。作りも仕様も、売ってる奴によって微妙に違った」

 

 翔にも同じ印象があった。ブラックマーケットで確認してきた疑似メモリ兵器は、同じ系統でも外装や部品構成に差がある。

 

 対して、セリカの誘拐で使われたものは違った。

 

「こっちは揃いすぎてる?」

 

「そういうことだ」

 

 男が端末を指先で示す。

 

「同じところで、同じ規格でまとめて用意したように見える」

 

「市場に流してない可能性は?」

 

「ある。最近、そういう話が出てる」

 

 返答が早かったため、翔もすぐに食いつく。

 

「詳しく」

 

「俺も全部知ってるわけじゃない」

 

「知ってるところだけでいい」

 

 男は周囲を気にするように耳を動かしてから、少し声を落とした。

 

「市場にばら撒いてる品とは別に、最初からまとまった数を用意する流れがあるらしい」

 

「大口向け?」

 

「たぶんな」

 

「誰が買ってる」

 

「知らん」

 

「供給元は?」

 

「だから知らんって」

 

 翔は男の顔をじっと見る。

 

「……本当に?」

 

「本当だ。俺がそこまで知ってたら、とっくにこんなところにはいない」

 

「それもそうか」

 

「簡単に納得されると腹立つな……」

 

 男が額を押さえた後、ふと思い出したように続ける。

 

「ただ、前にあんたが嗅ぎ回ってた頃、何社か妙な業者がいただろ」

 

「ああ」

 

 名前だけなら覚えていた。

 

 実体の薄い会社を追えば別の仲介業者へ繋がり、そこからさらに別名義が出てくる。どこまで追っても中心へ届かなかった連中だ。

 

「あの辺が最近、また動いてる」

 

「……どこが?」

 

「全部じゃない。俺が聞いたのは二つだけだ」

 

「名前を教えてくれ」

 

「おい」

 

「頼む」

 

「頼む顔じゃないだろ」

 

「じゃあお願いします」

 

「急に丁寧にされても怖えよ」

 

 男は盛大にため息をついたものの、結局二つの名前を口にした。

 

 翔はすぐに端末へ記録する。どちらも以前の資料に残っており、片方は途中から連絡先が消えた会社、もう片方は追跡先がいくつもの名義を経由した末に途切れた会社だった。

 

「この二つが?」

 

「最近また物を動かしたって話だけ聞いた。何をどこへ送ったかまでは知らねえ」

 

「市場向け?」

 

「そこも分からん。ただ、いつもの小口じゃなかったらしい」

 

「まとまった量?」

 

「そう聞いた」

 

 翔は端末へ視線を落とす。

 

 以前止まった線が、完全に消えていたわけではない。市場を通さない別の流れと、まとまった数。そしてセリカの誘拐に投入された規格化された装備。

 

 まだ一つの線として結ぶには材料が足りないが、確認する価値は十分にあった。

 

「他には?」

 

「これで全部だ」

 

「その二社と繋がってる仲介人は?」

 

「今は知らねえよ。前と同じ奴が使われてるとも限らない」

 

「最近ここに来た奴で――」

 

 その時だった。

 

 遠くで、何かが割れるような大きな音が響いた。

 

 続いて怒鳴り声。さらに少し遅れて、通りの向こうから何人もの生徒が一斉に走ってくる。さっきまで商売を続けていた店主たちまで顔を上げ、通りの空気が瞬く間に変わった。

 

「おい、何だ!?」

 

「銀行だ!」

 

 駆けてきた生徒の一人が、後ろを振り返りながら叫ぶ。

 

「銀行が襲われた!」

 

「はぁ!? あそこを!?」

 

「強盗だよ! 武装した連中が乗り込んだって!」

 

 ざわめきが波のように広がった。

 

 店から身を乗り出す者。逆に慌てて商品を片づけ始める者。面白半分に銀行の方へ向かおうとする者まで現れ、数秒前までいつもの雑踏だった通りが、事件の噂一つで大きく揺れ始める。

 

 犬の獣人もさすがに耳を立て、騒ぎの方角を見た。

 

「……マジかよ。あの銀行に手ぇ出す奴がいるのか」

 

 その言い方に、翔が視線を向ける。

 

「そんなにヤバいところなのか?」

 

「ブラックマーケットの金がどれだけ出入りしてると思ってんだ。あそこを襲うってのは、金だけの話じゃ済まねえぞ」

 

 直後、別の声が飛んできた。

 

「警備が動いたぞ!」

 

「早く離れろ! 巻き込まれる!」

 

 今度は騒ぎから逃げる人間の数が一気に増えた。

 

 翔は眉を寄せ、銀行があるらしい方角を見る。

 

 ただの強盗にしては、周囲の反応が大きすぎる。

 

「……銀行強盗、ねえ」

 

 さっきまで疑似メモリ兵器のことで埋まっていた頭の片隅に、その言葉が妙に引っかかった。

 

 とはいえ、まだ自分に関係があるとは思わない。

 

「おい」

 

「何だよ」

 

「最後に一つだけ」

 

「この騒ぎでまだ聞くのか!?」

 

「これだけ教えてくれたら終わりにする」

 

「さっきも似たようなこと言ってただろ!」

 

 翔は抗議を無視して端末を持ち直す。

 

 その背後では、闇銀行が襲われたという噂が、すでにブラックマーケット中へ走り始めていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「……これで本当に最後だからな」

 

 犬の獣人は念を押すように言った。

 

「ああ。助かった」

 

「次に会っても追いかけてくるなよ」

 

「それはその時次第かな」

 

「そこは約束しろよ!」

 

 最後まで不満そうな声を上げる仲介人に片手を振り、翔は大通りへ戻った。

 

 その頃には、先ほどまで一部でしか聞こえていなかった銀行強盗の噂が、ブラックマーケットのあちこちへ広がっていた。

 

 通りを行き交う者たちは事件の話で持ちきりになっている。店先でも客同士が声を潜め、逆に面白半分で銀行の方向へ向かおうとする者たちは警備関係者に追い返されていた。

 

「本当にやったらしいぞ」

 

「警備を突破したって?」

 

「知らねえよ。俺が聞いたのは、もう逃げたって話だ」

 

 すれ違いざまに聞こえた会話へ、翔は何となく耳を傾ける。

 

 銀行を襲った連中は、すでに建物を離れたらしい。

 

 ブラックマーケットの銀行がどういう場所なのか詳しくは知らないが、先ほどの仲介人の反応を見る限り、相当大胆な真似をしたことだけは分かる。

 

「こっちに来た日に銀行強盗か……」

 

 そう呟きながら歩いていた翔だったが、頭の片隅に妙な引っかかりが生まれた。

 

 ブラックマーケット。

 

 銀行強盗。

 

 この組み合わせには、覚えがある。

 

「……いや、待てよ」

 

 足を緩めたところで、少し先の露店から別の話し声が聞こえてきた。

 

「見た奴がいるらしいぞ。全員、覆面してたって」

 

「強盗なんだから、そりゃ顔くらい隠すだろ」

 

「しかも学生っぽいのが何人もいたらしい」

 

「へえ。何人くらい?」

 

「さあな。四、五人くらいじゃないかって話だけど」

 

 そこで、翔の中にあった引っかかりが一気に形になった。

 

「……おいおい」

 

 思い出したのは、ゲームで見たブラックマーケットでの一件だった。

 

 覆面を被ったアビドスの生徒たちが銀行へ押し入り、金と情報を手に入れる。あまりにも特徴的な出来事だけに、忘れるはずがない。

 

 しかも今、自分たちがいるのはまさにブラックマーケットだ。

 

 翔は足を止め、先ほど先生たちと別れた方向を振り返った。

 

「まさか……本当にやったのか?」

 

 いくら原作で起きた出来事だからといって、今も同じように起きるとは限らない。すでに自分やガイアメモリの存在によって変わっていることはいくらでもある。

 

 だが、先生たちが調べていたのはアビドスから流れ出した金とカイザーの関係だ。その途中で銀行へ辿り着き、中にしかない資料が必要になったのだとすれば――十分あり得る。

 

 そして何より。

 

「……俺、何も聞いてないんだけど」

 

 別行動を始めてから、先生からそんな連絡は一度も来ていない。

 

 翔の口元が引きつった。

 

「人が真面目に仲介人追いかけてる間に何やってんだよ……」

 

 まだ断定はできない。

 

 だが、さっきまでの他人事だった銀行強盗が、急に無視できないものへ変わった。

 

 翔はすぐに端末を取り出し、先生へ発信する。

 

 数回の呼び出し音が続いたものの、応答はない。

 

「出ないし……」

 

 切ってもう一度かけようとしたところで、近くの店からさらに声が聞こえてくる。

 

「そういや、強盗の中に大人もいたって話だぞ」

 

「大人?」

 

「強盗連中に指示出してたらしい」

 

 翔の指が止まった。

 

「……先生」

 

 ほとんど確信に近かった。

 

 知っている展開だけなら、まだ「似た事件」で済ませられたかもしれない。だが、複数の覆面の生徒に加え、大人が一緒にいて指揮までしているとなれば話は別だ。

 

「本当にやったな、あの人……!」

 

 呆れ半分、焦り半分で再び発信する。

 

 それでも先生は出ない。

 

 その間にも噂は勝手に翔の耳へ飛び込んでくる。

 

「一人だけ変な奴もいたんだって」

 

「変な奴?」

 

「頭に紙袋被ってたらしいぞ」

 

 翔はゆっくり顔を上げた。

 

「……紙袋」

 

 そこまで聞けば、もう疑う余地はなかった。

 

「ヒフミまでいるのかよ……」

 

 自分と別れた後に、原作通りヒフミと遭遇したらしい。

 

 銀行強盗まで原作と似た流れになったことにも驚くが、それ以上に翔が呆れたのは、そこまで話が進んでいたのに一度も連絡がなかったことだった。

 

「せめて一言くらい連絡してくれよ……」

 

 こちらも同じブラックマーケットにいる。何かあれば動ける距離だったし、危険なことを始めるなら猶更、知らせてほしかった。

 

 もっとも、連絡を受けていたところで銀行強盗そのものには止めに入っていた気もする。

 

 翔は頭を掻きながら、深く息を吐いた。

 

「……本当に何してんだ、あの人たち」

 

 そこへさらに別の会話が耳に入る。

 

「銀行から何か持ち出したらしいぞ」

 

「現金か?」

 

「いや、書類とか端末だったって話もある」

 

 その瞬間、翔の表情から呆れが引いた。

 

「……資料?」

 

 今朝から調べていた、アビドスから流れ出す金。

 

 カイザーローン。

 

 ブラックマーケット。

 

 もし先生たちが、その流れを裏付ける何かを銀行で見つけたのなら。

 

「……そういうことか」

 

 強盗そのものには頭が痛くなるが、何を目的にそんな真似をしたのかは見えてきた。

 

 翔はもう一度先生へ発信する。

 

 今度はしばらく呼び出しが続いた後、ようやく接続音が鳴った。

 

『――翔?』

 

「先生」

 

『うん』

 

「何してる?」

 

『……』

 

 一瞬、向こうが黙った。

 

 それだけで十分だった。

 

「銀行強盗した?」

 

『…………』

 

「先生?」

 

『その言い方だと、すごく聞こえが悪くない?』

 

「良く聞こえる言い方があるなら教えてくれよ!」

 

 向こうからは走る足音が聞こえている。さらに遠くで誰かが叫び、先生の呼吸も普段より明らかに乱れていた。

 

『いや、その……必要な資料があってね』

 

「やっぱりやったんじゃないか!」

 

『現金を盗むのが目的じゃないよ!』

 

「そこじゃない!」

 

 思わず声を上げたところで、通信の向こうからセリカらしき声が飛んだ。

 

『先生! 早く!』

 

『分かってる!』

 

 翔の表情が変わる。

 

「今、逃げてるのか?」

 

『うん。ちょっと急いでて――』

 

「だったら何で先に連絡しなかったんだよ!」

 

『ごめん! 決まったのが本当に勢いというか流れというか――』

 

「銀行強盗を勢いで決めるな!」

 

 直後、向こうから大きな物音が響いた。

 

『っ……!』

 

「先生?」

 

『ごめん、翔! 今は話してる余裕なさそう!』

 

「待て、今どこ――」

 

『後でちゃんと説明するから!』

 

「先生!」

 

 通信が切れた。

 

 翔はしばらく端末を見つめた後、額へ手を当てた。

 

「……本当に何やってんだよ」

 

 呆れてはいる。

 

 あとで話を聞くつもりもある。

 

 だが、今の通信の様子は単に銀行から逃げているだけには聞こえなかった。

 

 翔は端末をしまい、銀行のある方角へ顔を上げる。

 

「……説教は後だな」

 

 先生たちが何かに追われているのなら、まず無事を確認する方が先だ。

 

 翔は人の流れを避けながら、騒ぎの中心へ向かって走り出した。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 ブラックマーケットの入り組んだ裏通りを、六つの影が駆け抜けていた。

 

『レッド、そっちじゃない! 次の角を右!』

 

「右!? さっき左って言わなかった!?」

 

『それは一つ前の角です!』

 

「紛らわしいのよ!」

 

 耳元の通信機から響くアヤネの声に、赤い覆面を被ったセリカが走りながら叫び返す。

 

 そのすぐ前を青い覆面のシロコが駆け、その後ろには緑の覆面を被ったノノミ、ピンクの覆面を被ったホシノが続く。

 

 そして最後尾近くには先生と――。

 

「ま、待ってくださぁい……!」

 

 頭から紙袋を被ったヒフミが必死になってついてきていた。

 

 紙袋には目の位置に穴が開けられているものの、当然ながら視界が良いとは言えない。何度も足元を確認しながら走る姿は、銀行強盗という単語から想像される迫力とはかなり遠かった。

 

「ファウスト、大丈夫?」

 

「その名前で普通に呼ばないでください、ブルーさん!」

 

「今は本名で呼ばない方がいい」

 

「それは分かっていますけど! せめて別の名前がよかったです!」

 

「もうファウストちゃんで定着しちゃったねえ」

 

「ピンクさんまで!」

 

 ホシノがのんびり返す横で、先生は肩に掛けた鞄を抱え直した。

 

 中に入っているのは札束――ではない。

 

 銀行内から確保した帳簿の写しと、いくつかの記録媒体だった。

 

 もちろん、金庫の中に現金があることも確認している。だが、今回の目的はそこではなかった。

 

「グレー、追っ手は?」

 

 先生が通信機へ問いかける。

 

『今のところ、すぐ後ろにはいません。銀行側の警備もまだ態勢を立て直しているみたいです』

 

 別の場所から周囲を確認しているアヤネの声が返る。

 

『このまま南東側へ抜ければ、人通りの多い区域に出られます。そこで覆面を外して分散すれば――』

 

「逃げ切れる?」

 

『その可能性は高いと思います』

 

「よし」

 

 先生は短く頷いた。

 

 ここまでは、予想していたよりも順調だった。

 

 銀行へ入るまでに多少の紆余曲折はあったものの、目的だった記録は確保できた。警備との交戦も最小限に抑え、今のところ誰も大きな怪我はしていない。

 

 何より、手に入れた情報の中身が大きい。

 

「先生」

 

 前を走っていたシロコ――ブルーが少し速度を落とし、隣へ並ぶ。

 

「さっきの記録、本当にあった?」

 

「うん」

 

 先生は走りながら鞄を軽く押さえた。

 

「今朝見た車両の記録も残ってた。アビドスから回収された支払いが、あの銀行に入っている」

 

 今朝、カイザーローンへ支払ったばかりの利息。

 

 その現金を載せていた輸送車両が、ブラックマーケットの銀行へ入っていくところを自分たちは目撃した。

 

 そして銀行内の記録には、確かに同じ車両の搬入記録が残されていた。

 

「やっぱり間違いじゃなかったのね」

 

 レッドが振り返る。

 

「でも、それだけじゃないよね?」

 

「うん。入金先や移動先には、カイザーと繋がりのありそうな名義がいくつもある」

 

 直接カイザーという名前が記されているものばかりではない。

 

 複数の会社名義、管理口座、仲介先。

 

 それらが何重にも入り組みながら、ブラックマーケットを通して金を動かしている。

 

「まだ全部は確認できてないけど、少なくとも今朝のお金がここに運ばれたことは確認できた」

 

「だったら持ち帰って調べれば、もっと分かるかもしれませんね~」

 

 グリーン――ノノミが言うと、先生も頷いた。

 

「そうだね。アビドスの借金とカイザー、それからブラックマーケットの資金の流れ。これまで別々に見えていたものを繋げられるかもしれない」

 

「……疑似メモリ兵器は?」

 

 ピンクが尋ねる。

 

 先生は少しだけ表情を引き締めた。

 

「そこはまだ分からない」

 

 銀行内の記録には、武器関係と思われる企業名や大口の取引もいくつか残っていた。しかし、それが翔の追っている疑似メモリ兵器へ直接繋がるのかは、現時点では判断できない。

 

「翔が追ってる方の情報と照らし合わせてみないとね」

 

「そういえば翔さん、まだ別行動中なんですよね?」

 

 ファウスト――ヒフミの言葉に、先生の足がほんの少しだけ鈍った。

 

「……うん」

 

「先生?」

 

「いや、その……」

 

 先生は微妙に視線を逸らした。

 

「まだ連絡してないなあって」

 

「今!?」

 

 レッドの声が響く。

 

「何で言ってないのよ!?」

 

「思ったより話が早く進んじゃって……」

 

「後でなんて説明するのよ!?」

 

『レッド、声が大きいです!』

 

 通信越しにグレーから注意され、レッドは慌てて口元を押さえた。

 

「……誰のせいよ」

 

「ごめん」

 

「私に謝ってどうするのよ。翔にちゃんと説明しなさいよね」

 

「うん……それは本当にそう」

 

 珍しく素直に反省する先生に、ピンクが走りながら肩を揺らす。

 

「まあまあ。翔くんも今頃、自分の調査で忙しいんじゃない?」

 

「そうですけど……後で絶対怒られますよ」

 

 ファウストが妙に確信を込めて言う。

 

 先生も否定できず、困ったように笑った。

 

「……だよねえ」

 

 その時だった。

 

 懐に入れていた端末が震える。

 

 画面を見る。

 

 表示された名前に、先生の動きが止まりかけた。

 

「……噂をすれば」

 

「誰?」

 

「翔」

 

 覆面越しでも、レッドが「あっ」という顔をしたのが分かった。

 

「出るの?」

 

「出ないわけにもいかないでしょ……!」

 

 先生は通話を取ろうとして――前方から駆けてきた人影を避けるため、一度端末を下げた。

 

『先生、止まらないでください!』

 

 通信越しにグレーの声が飛ぶ。

 

「分かってる!」

 

 再び走り出す。

 

 その間にも端末は震え続け、やがて一度切れた。

 

「……」

 

「先生」

 

「分かってる、ブルー。分かってるからそんな目で見ないで」

 

「何も言ってない」

 

「言ってないから余計に刺さるんだよ……」

 

 ほどなくして、再び着信が入る。

 

 また翔だった。

 

 先生は一瞬迷った末、今度こそ通話を繋いだ。

 

「――翔?」

 

『先生』

 

 声音が低い。

 

 もう何かを察している。

 

「うん」

 

『何してる?』

 

「……」

 

 先生は走りながら黙った。

 

 横ではレッドが顔を覆い、ピンクは面白そうにこちらを見ている。ブルーは無言。グリーンは困ったように微笑み、ファウストは紙袋の奥から心配そうにこちらを見ていた。

 

『銀行強盗した?』

 

 直球だった。

 

 先生は答えに詰まる。

 

「……その言い方だと、すごく聞こえが悪くない?」

 

『良く聞こえる言い方があるなら教えてくれよ!』

 

 通信機越しでも分かる勢いだった。

 

 先生は申し訳なさそうに眉を下げる。

 

「いや、その……必要な資料があってね」

 

『やっぱりやったんじゃないか!』

 

「現金を盗むのが目的じゃないよ!」

 

『そこじゃない!』

 

 当然の返答だった。

 

「先生! 早く!」

 

 前方のレッドから声が飛ぶ。

 

「分かってる!」

 

『今、逃げてるのか?』

 

「うん。ちょっと急いでて――」

 

『だったら何で先に連絡しなかったんだよ!』

 

「ごめん! 決まったのが本当に勢いというか流れというか――」

 

『銀行強盗を勢いで決めるな!』

 

 反論の余地がなかった。

 

 その時、すぐ後ろの通りから何かがぶつかるような大きな音が響いた。

 

 先生が振り返る。

 

「っ……!」

 

『先生?』

 

 人の流れの向こうで、銀行方面から走ってくる警備員らしき姿が見えた。

 

「ごめん、翔! 今は話してる余裕なさそう!」

 

『待て、今どこ――』

 

「後でちゃんと説明するから!」

 

『先生!』

 

 先生は通話を切った。

 

 後で怒られる。

 

 それはもう仕方がない。

 

「グレー、現在地は?」

 

『そのまま直進してください! 二つ先の交差点を右です!』

 

「了解!」

 

 先生たちは再び速度を上げる。

 

 今のところ、逃走経路そのものに致命的な問題はない。追っ手もまだ距離があり、このまま予定通り人混みへ紛れ込めれば離脱できる可能性は高い。

 

 銀行から持ち出した記録も手元にある。

 

 目的は達成した。

 

 あとは逃げ切るだけだった。

 

 ――少なくとも、この時点では。

 

 

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