青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
翌日の夕方。
いつもの時間に柴関ラーメンへ向かったセリカは、店の前まで来たところで足を止めた。
「……あれ?」
シャッターが下りていた。
定休日ではない。臨時休業を知らせる貼り紙もなく、この時間なら普段はもう看板に明かりが灯り、店の前までスープの匂いが漂っているはずだった。
今日は、そのどれもない。
通りを抜けていく風が、シャッターの前に溜まった薄い砂をさらっていく。その音だけが妙に耳についた。
「何よ……」
セリカは端末を取り出し、柴大将へ電話を掛けた。
しばらく待つが、応答はない。
もう一度掛けても同じだった。
「柴大将?」
店へ向かって声を掛けてみる。当然ながら返事はなかった。
予定を変えたのなら、連絡の一つくらい寄越すはずだ。少なくとも、今日セリカが来ることを柴大将は知っている。
嫌なものを感じながら店の横を回り、裏手の細い路地へ入る。
裏口を叩いた。
「柴大将ー? いるんでしょ?」
それでも返事はない。
もう一度ノックしようと手を伸ばした時、軽く触れただけの扉が内側へ僅かに動いた。
「……開いてる?」
セリカは眉を寄せた。
表のシャッターは閉まっている。それなのに裏口には鍵が掛かっていない。
少し迷ってから、ゆっくり扉を押した。
「柴大将? 入るわよ」
薄暗い厨房から返ってきたのは、自分の声だけだった。
中は荒らされていなかった。
食器棚にもカウンターにも目立った異常はなく、レジが壊された様子もない。椅子やテーブルも普段の位置に収まっている。
だが、厨房を見るとすぐに別の違和感へ気づいた。
調理台には途中まで切られた葱が残され、包丁もその横へ置かれたままだった。洗いかけの器具が流しに残り、開けた調味料も片付けられていない。大きな寸胴の火は消されているものの、蓋に手を近づけるとまだ微かな温もりが残っていた。
「……途中でいなくなった?」
営業を終えて帰った店ではない。
何かの用事で少し席を外しただけにも見える。けれど、店全体を閉めて出掛けるのなら、こんな状態のままにはしないだろう。
「柴大将?」
さっきよりも小さな声で呼ぶ。
その瞬間、静まり返った店内に振動音が響いた。
「っ……!」
不意を突かれ、セリカの肩が跳ねる。
音のしたカウンターへ目を向けると、置かれていた端末の画面が光っていた。
そこには自分の名前が表示されている。
先ほど掛けた電話だった。
セリカはゆっくり端末へ近づいた。
「これ……柴大将の……」
忘れて出掛けただけ。
そう考えようとしたが、厨房へ目を戻した瞬間、その可能性が急に頼りなく感じられた。
仕込みの途中で、裏口の鍵も掛けず、端末まで置いたまま、何の連絡もなく姿を消した。
いくら考えても、いつもの柴大将とは結びつかない。
セリカはすぐに対策委員会へ連絡を入れた。
* * *
「セリカちゃん!」
店へ最初に入ってきたノノミが、カウンター近くにいたセリカを見つけて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「私は平気。それより柴大将がいないの」
その後から先生、シロコ、ホシノが入り、少し遅れて翔も姿を見せる。
先生はまずセリカに怪我がないことを確かめると、すぐに店内へ目を向けた。
「連絡は?」
「つかない。っていうか、端末はそこ」
セリカがカウンターを示す。
「私が電話したら店の中で鳴った」
先生の表情が変わった。
「裏口は?」
「鍵が開いてた。表は閉まってる」
「中に入った時から、この状態?」
「うん。ほとんど触ってない」
「分かった」
シロコは何も言わず厨房へ入り、調理台の上を順番に確認していく。
「仕込みの途中」
「やっぱりそう見える?」
「ん。片付けて帰った感じじゃない」
ノノミも厨房を覗き込み、いつもとは違う静けさに表情を曇らせた。
「急にどこかへ出掛けなくてはいけなくなった……という可能性はないでしょうか?」
「だったら端末くらい持っていくでしょ」
セリカの返事はすぐに返ってきた。
「それに、柴大将なら私にも一言くらい言うわよ。今日ここに来ることも知ってたんだから」
「そうですね……」
ホシノは会話に加わらず、店内をゆっくり見回していた。
荒らされているわけではない。何かが壊されているわけでもない。
だから余計に、店主だけが抜け落ちた店の姿が不自然に映る。
「ずいぶん綺麗にいなくなってるねえ」
先生がホシノを見る。
「私もそこが気になる」
もし強引に連れ出されたなら、何かしら抵抗の跡があってもおかしくない。ところが店内にそれらしいものは見当たらなかった。
その時、先生の通信機からアヤネの声が入った。
『先生』
「アヤネ。何か分かった?」
『柴大将さんの端末について、確認できる範囲を調べました。最後に通信をしたのは昨夜です。その後、端末から発信された記録はありません』
「最後に位置が動いたのは?」
『柴関ラーメンです。少なくとも端末は、昨夜からずっと店にあったと思います』
セリカがカウンター上の端末を見る。
「じゃあ、端末だけ置いてどこかへ行ったってこと?」
『その可能性はあります。ただ……』
アヤネがそこで言葉を止めた。
「何かあった?」
『柴大将さんとは別に、少し気になることがあるんです』
先生たちの視線が自然と通信機へ集まる。
『今日、普段からアビドスと資材や廃材の取引をしてくださっている業者さんと、受け渡しの確認をする予定でした。でも、朝から連絡が取れていなくて』
「いつもの人?」
ホシノが尋ねる。
『はい』
「そういうこと、前にもあった?」
『連絡が遅れることはあります。でも、約束がある日に一日近く応答がないのは珍しいです』
先生が少し考える。
「仕事場は?」
『さっき確認しました。店舗兼倉庫は閉まっています。今日は営業日のはずなんですが……』
柴関ラーメンの中が、先ほどより静かになったように感じられた。
セリカが先生を見る。
「……二人?」
「まだ偶然の可能性はある」
先生は慎重に答えたものの、顔からはすでに楽観した様子が消えていた。
「アヤネ。普段からアビドスと取引がある人たちに、何人か連絡してみてくれる?」
『分かりました』
「最近会った人を優先して」
『はい』
先生は通信を繋いだまま、店内にいる面々へ視線を向けた。
「シロコと翔は、私と店の周りを確認しよう。セリカとノノミは中をもう一度見てもらえる? 何かなくなっているものがないか、分かる範囲でいいから」
「分かったわ」
「はい」
「ホシノは近所の人に話を聞いてもらえる?」
「昨日の夜に何か見てないか、だねえ」
「お願い」
それぞれが動き始めた。
店の裏手へ回ったシロコは、しばらく地面を見ながら歩いたあと、裏口から数メートル離れた場所でしゃがみ込んだ。
「先生」
呼ばれて先生と翔が近づく。
砂の表面に、薄い轍が残っていた。
「車か」
翔もしゃがむ。
「ん。普通の乗用車より大きいと思う」
シロコが跡の幅を確認する。
轍は路地の入口から伸び、柴関ラーメンの裏口近くで一度止まったあと、再び元の方向へ戻っているようだった。
「配送車の可能性は?」
翔が尋ねる。
「ある」
先生はすぐに答えた。
「この店なら荷物を運ぶ車が来てもおかしくないし、これだけで怪しいとは言えないね」
「でも」
シロコが少し離れた砂地を指す。
「足跡もある」
風でかなり輪郭が崩れているものの、複数の靴跡らしきものが裏口付近へ集中していた。
正確な人数までは分からない。
翔が扉の周囲を見る。
「無理矢理こじ開けた跡はないな」
「店の中も荒れてない」
先生も立ち上がり、裏口へ視線を向けた。
「柴大将が自分で開けたのかもしれない」
「知ってる相手だった?」
「それもあり得るし、普通の客や業者だと思って開けた可能性もある。まだ何とも言えないよ」
証拠らしいものは増えているのに、何が起きたかだけが見えてこない。
そのことが、かえって先生の表情を険しくしていた。
しばらくして、聞き込みへ向かっていたホシノも戻ってきた。
「どうだった?」
「大した話はなかったよ。銃声とか喧嘩みたいな音を聞いた人はいないみたい」
「車は?」
「夜中に大きめの車が通った気がする、って人はいた。ただ、時間までは覚えてないってさ」
「こっちの轍とは繋がるかもしれないね」
「かもねえ」
その時、アヤネから再び通信が入った。
『先生』
先ほどより声が硬い。
「何か見つかった?」
『もう一人、連絡が取れない方がいます』
店内にいたセリカとノノミも会話を聞きつけ、裏口へ出てきた。
『以前、何度かアビドスへ物資を運んでくださった方です。頻繁に会う人ではありませんが、今日は午前中に別の取引先へ向かう予定だったそうです』
「そこにも来てないの?」
セリカが尋ねる。
『先方へ確認しました。来ていないそうです』
先生の表情が完全に変わった。
「アヤネ。三人が最後に確認された時間は分かる?」
『確認します』
少し間が空いた。
『柴大将さんは昨夜の二十一時十二分。取引先の業者さんは二十一時四十七分です』
そこでアヤネが僅かに息を飲む。
『もう一人の方が最後に確認されたのは、二十二時十九分』
セリカが眉を寄せる。
「全部、一時間くらいの間じゃない」
「ん」
シロコが立ち上がった。
「近すぎる」
先生が端末を取り出す。
「アヤネ。三人が最後に確認された場所を地図に出せる?」
『はい。今送ります』
すぐに地図が表示された。
柴関ラーメン。
資材業者の倉庫。
もう一人が最後に確認された地点。
それぞれは少し離れている。
しかし、地図の上で順番に辿ってみると印象が変わった。
「……一本の道で回れるな」
翔が呟く。
「うん」
先生も同じ場所を見ていた。
一件目から二件目。
二件目から三件目。
時間差と移動距離が、妙に噛み合っている。
「一台の車が順番に回ったとしても、おかしくない」
先生の言葉に、セリカの顔から血の気が引いた。
「じゃあ……誰かが最初から狙って?」
「その可能性はかなり高くなった」
今度は先生も、偶然という言葉を使わなかった。
「単なる連絡不通として考えるのはやめよう」
「誘拐?」
シロコが聞く。
「そう考えて動く」
セリカの拳が強く握られる。
「何で柴大将なのよ……」
誰もすぐには答えられなかった。
だが、三人には分かりやすい共通点が一つある。
ホシノが地図を眺めながら、静かに口を開いた。
「みんな、おじさんたちと関わりがある人だねえ」
その言葉に、セリカが振り返る。
「ホシノ先輩……」
「柴大将はセリカちゃんが働いてる店の人。もう一人はうちとずっと取引してくれてる。最後の人も、何度か物資を運んでくれた」
ホシノの声から、いつもの間延びした調子が消えていた。
「たまたま三人とも、って考えるにはちょっと苦しいかな」
「でも、誰が――」
セリカがそこまで言って止まる。
昨日の地下施設。
カイザー。
追撃が来なかったこと。
頭に浮かんだものは、他の皆も似たようなものだった。
「まだ相手は決めないよ」
先生が先に言った。
セリカを見るだけでなく、ホシノにも聞かせるような声だった。
「でも、この三人が選ばれた理由は調べる。まずは無事に見つけることが最優先」
「……分かった」
セリカが頷く。
ホシノも一拍遅れて返した。
「うん」
「アヤネ。三人が消えた時間帯に自治区から出た車を確認して。特に大きめの車両」
『はい』
「映像に残ってなくても、監視端末を通った記録があれば拾って」
『やってみます』
「シロコはこの轍を追えるところまでお願い」
「ん」
「セリカとノノミは、柴大将が昨日誰と会う予定だったか分かるものがないか確認して。帳簿でもメモでもいい」
「分かった」
「お任せください」
先生が指示を出し終え、翔も立ち上がろうとした。
その時、裏口近くの壁際で何かが光を反射した。
「……待って」
翔が足を止める。
「どうしたの?」
「そこ」
砂の中に半分埋まるように、小さな黒い欠片が落ちていた。
翔は不用意に手を伸ばさず、その場へしゃがみ込む。
一見すると、何かの機械部品にしか見えない。しかし表面には細い回路状の溝が走り、砂で汚れていても独特の加工が残っていた。
先生も横へしゃがむ。
「見覚えある?」
「……似た加工なら」
翔の声が少し低くなる。
「どこで?」
「疑似メモリ兵器の内部だ」
セリカが息を呑んだ。
「カイザー……!」
「待て」
翔がすぐに止める。
「同じものだとはまだ言ってない。似てるってだけだ」
「でも!」
「だから調べるんだよ」
先生も頷いた。
「翔の言う通り。これだけで断定はしない」
セリカは黒い欠片を睨むように見つめたあと、何とか頷いた。
「……分かった」
「アヤネ、この部品も記録に追加して」
『はい。回収する場合は直接触れないでください』
「そうする」
先生が答える。
その横で、ホシノは黒い欠片ではなく、柴関ラーメンの裏口を見ていた。
昨日までは、自分たちが危険に晒されていた。
カイザーと戦うのも、銃を向けられるのも、少なくとも自分たちがその場所に立っていたからだ。
柴大将は違う。
他の二人も違う。
彼らはただ、アビドスに残り、自分たちと関わってくれていただけだった。
「……ホシノ?」
先生の声で我に返る。
「ん?」
「大丈夫?」
「おじさんは大丈夫だよ」
反射的にいつもの口調で返したものの、笑顔までは作れなかった。
ホシノは一度だけ閉ざされた店の中を見てから、盾を持ち直す。
「早く見つけよう」
「うん」
先生もそれ以上は何も言わなかった。
店内には柴大将の端末が残り、厨房では仕込み途中の食材がそのままになっている。
大きく荒らされた跡はない。
助けを求めた形跡もない。
昨夜まで確かにそこにいた人間だけが、日常の途中から切り取られたように消えていた。
* * *
日が落ちる頃には、アビドス自治区の空は薄い群青色へ変わっていた。
柴関ラーメンの店内では、アヤネが送ってきた監視記録を先生たちが囲んでいた。古い映像も多く、画質は決して良くない。それでも、昨夜の記録を時間順に並べていくと、一台の大型車両が何度か画面へ映り込んでいることが分かった。
「これです」
アヤネが映像を止める。
画面の端を、箱型の車両が通り過ぎていた。側面に企業名や所属を示すものは見えず、ナンバーも砂で汚れていて判別できない。
「21時20分。柴関ラーメンから北へ向かう道路です」
映像が切り替わる。
「次が21時55分。資材倉庫の近く」
さらに次。
「22時28分。三人目の方が最後に確認された場所から、自治区外縁へ向かっています」
セリカが画面を睨む。
「時間、合ってるじゃない」
「かなりね」
先生も地図へ視線を落とした。
三人が最後に確認された時間と、大型車両が各地点を通過した時刻には大きなずれがない。移動経路も不自然ではなく、順番に対象を回収したと考えれば無理なく繋がる。
「最後はどこへ?」
シロコが尋ねる。
「それが……途中から追えません」
アヤネが地図の一角を拡大する。
「この先は監視設備がほとんど残っていないんです。砂漠化が進んでから使われなくなった区画で、古い物流施設や整備場がいくつか残っています」
「隠れるには都合がいいねえ」
ホシノが画面を覗き込む。
「うん」
先生は地図の道路を指で辿った。
「大型車両が通れる道は?」
「この二つです。ただ、南側は途中で砂に埋もれていて、大型車が通るのは難しいと思います」
「なら北側」
シロコが言う。
「その先に何がある?」
アヤネが地図を移動させる。
「廃物流センター、古い整備工場、それから資材の一時保管に使われていた倉庫群があります。どれも現在は正式な利用記録がありません」
翔が地図を見ながら眉を寄せる。
「電力は?」
「少し待ってください」
アヤネが別の情報を確認する。
数秒後、表情が変わった。
「……あります」
「どこ?」
「廃物流センターです。昨夜二十二時台から、断続的に電力使用が発生しています」
全員が画面を見る。
「今も?」
「はい。量は多くないですが、完全な無人施設の消費量ではありません」
先生が立ち上がった。
「行こう」
「先生」
アヤネが心配そうな声を出す。
「分かってる。中へ飛び込んだりはしないよ。まず外から確認する」
「……お願いします」
セリカはすでに自分の銃を手に取っていた。
「柴大将、そこにいるんでしょ」
「まだ決まったわけじゃない」
先生が言う。
「でも、一番可能性が高い場所ではある」
「なら十分よ」
セリカは迷わなかった。
ホシノも盾を持ち上げる。
「おじさんも異議なしだねえ」
翔は一度だけ柴関ラーメンの厨房を見ると、皆と一緒に店を出た。
* * *
廃物流センターは、自治区中心部から離れた砂漠の端に建っていた。
かつては大型貨物を扱っていたのだろう。倉庫と荷捌き場が一体になった巨大な建物で、錆びたシャッターや折れた照明柱が長い年月を感じさせる。
外から見れば無人だった。
明かりはない。
車両も見当たらない。
だが完全に放棄された場所とは違う痕跡が残っていた。
「これ」
シロコが地面を示す。
新しいタイヤ跡が、裏手にある搬入口まで続いている。
「柴関ラーメンにあったものと幅が近い」
先生が言う。
「ん。たぶん同じくらい」
翔は搬入口の扉を見た。
「錆びてない部分がある」
扉の取っ手付近だけ、砂埃が薄い。
最近使われた証拠だった。
セリカが一歩出る。
「中にいる」
「待って」
先生が腕を伸ばして止めた。
「気持ちは分かる。でも、ここまで痕跡を残してるのが罠じゃないとは限らない」
「……」
「先に周りを確認しよう」
セリカは唇を噛んだが、頷いた。
シロコとホシノが建物の左右へ分かれ、ノノミは少し後ろから周囲を警戒する。翔は先生とセリカの近くに残り、入口付近を確認した。
やがてシロコが戻ってくる。
「裏にも出口がある。でも車はいない」
「逃げた後かな」
「たぶん」
ホシノも反対側から戻った。
「人の気配もあんまりないねえ。ただ、中で何か動いてる音はするよ」
「何か?」
「機械っぽい音かな」
先生が建物を見る。
「アヤネ。中の通信は拾える?」
『ほとんどありません。でも弱い電波反応がいくつかあります。施設の奥です』
「了解」
先生は一度全員を見る。
「入ろう。ただし、何か見つけても勝手に先へ行かない。セリカも」
「分かってるわよ」
名指しされたセリカが不満そうに返した。
搬入口の扉を開ける。
中から冷えた空気が流れてきた。
長く放置された建物特有の埃っぽい臭いに、別のものが混じっている。
油。
薬品。
焦げた金属のような臭い。
翔の表情が変わった。
「……これ」
「何?」
「いや」
すぐには言わず、周囲へ目を向ける。
床には何か重いものを引きずったような跡が残っていた。古い荷物の跡とは違い、その上にはまだ砂埃がほとんど積もっていない。
さらに奥へ進む。
ところどころに新しい電源ケーブルが這い、古い施設の配線とは明らかに違う機材へ繋がっていた。
「誰かが後から持ち込んだものですね」
ノノミが言う。
「うん」
先生はケーブルの先を目で追う。
「しかも、つい最近」
しばらく進むと、広い作業区画へ出た。
そこで全員の足が止まった。
「……何よ、これ」
セリカの声が低くなる。
中央には簡易的な医療設備のようなものが置かれていた。
折り畳み式のベッドが三台。
点滴器具。
機械式の固定具。
使い捨ての手袋や処置用の器具が、慌ただしく撤収されたように一部だけ残されている。
ベッドの一つには、太い拘束ベルトが掛かったままだった。
ノノミが口元を押さえる。
「ここで……何かされたんでしょうか」
セリカがすぐに周囲を見る。
「柴大将!」
声が広い室内へ響く。
「柴大将! いるなら返事して!」
「セリカ」
「でも!」
「探す。だから落ち着いて」
先生の声に、セリカは何とか足を止めた。
翔はベッドの近くにしゃがみ込む。
床に、小さな金属製の筒が落ちていた。
「……」
「翔?」
先生が近づく。
翔は触れずにそれを見る。
「前に見たやつに似てる」
「何が?」
「処置用の機材」
端に細い針のようなものが残っている。
そして側面には、カイザーの研究設備で何度か見た規格番号が刻まれていた。
「ゲヘナの事件で?」
「……ああ」
翔の声がさらに低くなる。
「人工ガイアメモリを使わせる時に、似た設備が使われてた」
先生の顔つきが変わった。
「人工メモリ……?」
その言葉を聞いて、セリカが翔を見る。
「まさか」
「まだ決めつけるな」
翔は言ったものの、目は機材から離れなかった。
嫌な予感がする。
それも、かなり具体的な形で。
「何をされたの?」
セリカが尋ねる。
「分からない」
「でも人工メモリって言ったじゃない」
「似たものを見たことがあるだけだ。本当に同じかは――」
翔の言葉が止まった。
奥から音がした。
何か硬いものが床へ擦れるような、低い音。
全員が一斉にそちらを見る。
暗い通路が続いていた。
「アヤネ」
先生が小声で呼ぶ。
『反応があります』
「人数は?」
『……三つです』
セリカの目が見開かれる。
「三人……」
先生が片手を上げる。
「全員、慎重に」
シロコが銃を構える。
ノノミも安全装置を外し、ホシノが前へ出て盾を構えた。
セリカはその横から暗い通路を見つめている。
「柴大将……?」
返事はない。
代わりに、荒い呼吸音が聞こえてきた。
人間のものにしては低く、喉の奥で引っ掛かるような音だった。
何かがゆっくりこちらへ近づいてくる。
足音は不規則で、ときおり壁へ身体をぶつけているような鈍い音が混じった。
やがて非常灯の薄い光の中へ、一つの影が入る。
セリカの顔から血の気が引いた。
「……柴、大将?」
影が足を止める。
人の輪郭は残っていた。
だが、それだけだった。
身体の一部は異様に膨れ上がり、皮膚のようにも装甲のようにも見える硬質な組織が腕から肩へ広がっている。指先は元の形を失い、顔の半分も人間とは異なるものへ変わりかけていた。
それでも。
残っている片目だけは、確かにセリカを見た。
「……せ……リカ……ちゃ……」
掠れた声が漏れる。
セリカの銃口が僅かに下がった。
「柴大将……!」
一歩踏み出そうとする。
その瞬間、異形となった腕が震えた。
柴大将は自分の腕をもう片方の手で押さえ込み、身体を壁へ叩きつけるようにして動きを止める。
「来る……な……」
「え?」
「来るな……嬢ちゃんたち……!」
声には苦痛が滲んでいた。
セリカの足が止まる。
柴大将の首筋に、黒い刻印のようなものが見えた。
円形に近い奇妙な紋様。
その中心には、何かを差し込むための穴のような窪みがある。
翔の目が見開かれた。
「……生体コネクター」
先生が振り返る。
「何?」
翔が答えるより先に、暗い通路の奥から別の音が聞こえた。
柴大将の後ろに、さらに二つの影が立つ。
アヤネが通信越しに息を呑んだ。
『先生……反応、全部動き始めました!』
ホシノが盾を構え直す。
「三人とも……」
セリカは呆然と呟いた。
昨日まで普通に話していた人たちだった。
自分たちへ物を売り、食事を出し、必要な時には手を貸してくれた人たち。
それが今、自分たちの前で人ではない姿へ変わりかけている。
そして柴大将は、必死に自分の身体を押さえ込みながら、もう一度言った。
「逃げ……ろ……!」
次の瞬間、奥にいた一体が床を蹴った。