青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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第58話 胸に残した言葉

 

 

 柴大将たちが搬送されてから数日後。

 

 アビドス自治区に残る小さな医療施設の一室には、窓から午後の柔らかな光が差し込んでいた。

 

「だから、なんでそんなに早く店の心配してるのよ!」

 

 病室にセリカの声が響く。

 

 ベッドの上では、柴大将が上体を起こしていた。

 

 顔色にはまだ疲労の色が残っているものの、意識ははっきりしている。首筋には生体コネクターを設置された痕が残っており、その周囲には治療用のガーゼが当てられていた。

 

「店を閉めっぱなしにもしてられねえからな」

 

「まだ退院も決まってないでしょ!」

 

「決まったら開ける準備をしねえとな」

 

「その前に休みなさいって言ってるの!」

 

 柴大将は困ったように笑った。

 

「分かってるよ。すぐに厨房へ戻るなんて言ってねえだろ」

 

「今にも言いそうだから言ってるの!」

 

「セリカちゃん、少し落ち着きましょう?」

 

 ノノミが苦笑しながら間に入る。

 

「だってこの人、さっきから店の話しかしてないんですよ!」

 

「気になるものは仕方ねえだろ」

 

「ほら!」

 

 そのやり取りを見て、先生が小さく笑った。

 

「元気そうで安心したよ」

 

「先生たちには迷惑かけちまったな」

 

「迷惑なんてことはないよ」

 

 先生は首を横に振る。

 

「無事だった。それで十分」

 

「……そうか」

 

 柴大将は短く答えた。

 

 その横で、シロコはベッド脇に置かれた紙袋へ目を向けた。

 

「それ、差し入れ?」

 

「うん。アヤネちゃんが選んでくれたの。病院でも食べられそうなものをって」

 

「そうなんだ」

 

 シロコは紙袋を一度見てから、柴大将へ視線を戻した。

 

「食べられそう?」

 

「ああ。食欲は戻ってきてるよ」

 

「よかった」

 

 短いやり取りを終えると、シロコはそれ以上騒ぐことなく元の位置へ戻った。

 

 少し離れた場所に立つ翔も、ようやく肩の力を抜く。

 

 事件直後に見た姿とはまるで違う。

 

 生体コネクターの痕こそ残っているが、それ以外はいつもの柴大将に戻っていた。

 

「翔くんも来てくれたのか」

 

「まぁアビドスに来てから、何度か世話になってるし。顔見ておきたかったから」

 

「心配かけたな」

 

「それはセリカに言った方がいいと思う」

 

「ちょっと、何で私なのよ!」

 

「一番心配してたから」

 

「べ、別に一番ってわけじゃないわよ! いつも世話になってる人があんな目に遭ったら、心配するのは普通でしょ!」

 

 柴大将が喉の奥で笑う。

 

「ありがとな、セリカちゃん」

 

「……急に真面目に言わないでよ」

 

 セリカが視線を逸らした。

 

 耳が少し赤くなっている。

 

「ちゃんと元気になって、店開けてくれればそれでいいから」

 

「ああ」

 

 柴大将は穏やかに頷いた。

 

「戻ったら、また頼むよ」

 

「……言われなくても行くわよ」

 

 その返事を聞いて、柴大将は満足そうに笑った。

 

 病室には、事件の直後には想像できなかったほど穏やかな空気が流れていた。

 

 ホシノも壁際でその様子を眺めながら笑っていた。

 

「いやあ、よかったよかった。これなら柴関ラーメンの復活も近そうだねえ」

 

「ホシノ先輩まで! まず完治してからです!」

 

「もちろん分かってるよ~」

 

 普段通りの気の抜けた返事。

 

 だが、その笑顔の奥で、別の考えが消えることはなかった。

 

 柴大将は助かった。

 

 他の二人も順調に回復している。

 

 今回は間に合った。

 

 それは間違いなく喜ぶべきことだ。

 

 なのに、その先を考えると胸の奥が重くなる。

 

 もし、次があったら。

 

 もし、今度は助けるのが間に合わなかったら。

 

 昨日まで普通に話していた人が、次の日には戻ってこなくなったら。

 

 そんなことを考えていた時だった。

 

 ポケットの中で端末が震えた。

 

「……」

 

 画面を確認した瞬間、ホシノの目から僅かに笑みが消えた。

 

 表示された番号に見覚えがある。

 

「ホシノ?」

 

 先生が気づく。

 

「んー、ちょっと出てくるねえ」

 

「電話?」

 

「そんなところ」

 

 それだけ言うと、ホシノは病室を出た。

 

 廊下には人影がほとんどない。

 

 少し離れた窓際まで歩き、病室の声が聞こえなくなったところで通話を繋ぐ。

 

「……もしもし」

 

『お久しぶりです、小鳥遊ホシノさん』

 

 聞き覚えのある声。

 

 ホシノの表情が冷える。

 

「またあの話?」

 

『さて。どの話を指しているのでしょう』

 

「とぼけなくていいよ」

 

 窓の外へ視線を向ける。

 

「おじさんか、仮面ライダーを差し出せって話でしょ」

 

『ええ。覚えていていただけたようで何よりです』

 

「だったら答えも前と同じ」

 

 ホシノは即座に言った。

 

「どっちも嫌だよ」

 

『そうですか』

 

「用がそれだけなら切るね」

 

『よろしいのですか。本当に?』

 

 端末から手を離しかけたホシノの指が止まる。

 

「……何が?」

 

『柴関ラーメンの店主。貴女方へ物資を提供していた業者。そして、輸送に関わっていた人物』

 

 ホシノの目が細くなる。

 

『三名とも無事だったそうですね。実に幸運でした』

 

「……あれも、あんた達がやらせたの?」

 

『私が、と申し上げるのは正確ではありません』

 

 否定でも肯定でもない返答だった。

 

『ですが、それほど重要な点でしょうか?』

 

「重要に決まってるでしょ」

 

『では質問を変えましょう』

 

 黒服の声は、どこまでも落ち着いている。

 

『今回、彼らが何故選ばれたのか。貴女にはもうお分かりなのでは?』

 

 ホシノは答えなかった。

 

『いずれもアビドスと関係を持つ者たちです』

 

「……」

 

『学校へ物を運ぶ者。協力する者。日々の生活を支える者。そして、貴女方が大切に思う者』

 

「何が言いたいの」

 

『この先も、同じことが起こらない保証はありません』

 

 ホシノの手に力が入る。

 

「脅してる?」

 

『いいえ』

 

 即答だった。

 

『事実をお伝えしているだけです』

 

「同じことでしょ」

 

『そう捉えるのであれば、それも仕方ありません』

 

 黒服は淡々と続ける。

 

『ですが、私は解決策もご用意しています』

 

「……解決策?」

 

『貴女が以前の提案を受け入れるのであれば、私からカイザー側へ働きかけましょう』

 

 ホシノの眉が動く。

 

「何を?」

 

『アビドス高等学校、対策委員会、その関係者。そして周辺住民に対する、直接的な実力行使を停止させます』

 

 廊下が急に静かになったように感じた。

 

「……本当に?」

 

『私とカイザーは目的を共有しているわけではありませんが、取引関係にはあります。この程度の条件であれば交渉は可能です』

 

「カイザーが素直に従うとは思えないけど」

 

『それは私が考えることです』

 

 黒服の声色は変わらない。

 

『少なくとも、契約が有効である限り、今回のような方法を取らせないよう条件を設けることはできます』

 

「……」

 

 柴大将の姿が頭に浮かぶ。

 

 人工メモリに身体を変えられ、それでもセリカへ手を出さないよう必死に抗っていた姿。

 

 さらに、病室でセリカへ笑い掛けていた顔。

 

『もちろん』

 

 黒服が続ける。

 

『貴女自身でなくとも構いません』

 

 ホシノの表情が変わった。

 

『仮面ライダーをこちらへ引き渡していただけるのであれば、同様の条件を提示できます』

 

「それは駄目」

 

 今度の答えには、一瞬の迷いもなかった。

 

 黒服が僅かに間を置く。

 

『……ほう』

 

「仮面ライダーは渡さない」

 

『理由を伺っても?』

 

「今回も助けてくれたから」

 

 先生を。

 

 セリカたちを。

 

 柴大将を。

 

 それだけではない。

 

 これまでだって、何度も。

 

 そして今、ホシノの胸には別の疑念も残っている。

 

 翔が姿を消す。

 

 仮面ライダーが現れる。

 

 仮面ライダーが消える。

 

 翔が戻ってくる。

 

 偶然かもしれない。

 

 まだ確かなことは何一つない。

 

 だからこそ、なおさら差し出すことなどできなかった。

 

「少なくとも、おじさんたちを助けてくれた人を、代わりに差し出す気はないよ」

 

『なるほど』

 

 黒服の声音に、ごく僅かな興味が混じった。

 

『では、残る選択肢は一つですね』

 

「……」

 

『小鳥遊ホシノさん』

 

 名前を呼ばれる。

 

『貴女がこちらへ来てくださるのであれば、今申し上げた条件を正式な契約へ含めましょう』

 

 ホシノはすぐには答えなかった。

 

 病室の方から、微かに声が聞こえる。

 

 セリカの声。

 

 ノノミの笑い声。

 

 シロコもいる。

 

 先生も。

 

 翔も。

 

 みんな、すぐ近くにいる。

 

『いかがでしょう』

 

「……おじさんが行けば」

 

 ようやく声が出た。

 

「みんなには手を出さない?」

 

『条件の範囲は明文化いたします』

 

「先生も?」

 

『直接的な実力行使の対象から外すよう求めましょう』

 

「柴大将たちみたいな、アビドスと関わってる人たちも?」

 

『ええ』

 

 黒服は答えた。

 

『契約へ含めることは可能です』

 

 ホシノは窓の外を見た。

 

 砂に飲まれつつある街。

 

 それでも、まだここで暮らしている人たちがいる。

 

 学校に通う後輩たちがいる。

 

「……」

 

『今すぐ結論を出していただく必要はありません』

 

 黒服が言う。

 

『ですが、次も今回と同じように間に合うとは限らない』

 

 その一言だけが、妙に鮮明に残った。

 

 ホシノの目が僅かに伏せられる。

 

 自分でも考えていたことだった。

 

 今回は間に合った。

 

 次は?

 

「……条件を聞かせて」

 

『承知しました』

 

 黒服の声に、満足とも違う静かな響きが混じる。

 

『正式なお話は、改めて直接行いましょう』

 

「場所は?」

 

『追ってお伝えします』

 

「……そう」

 

『では、その時に』

 

 通信が切れる。

 

 ホシノはしばらく端末を耳に当てたまま動かなかった。

 

 やがて画面を落とし、ポケットへ戻す。

 

 病室の方から、またセリカの声が聞こえた。

 

「だから退院してすぐ店開けるのは駄目だって言ってるでしょ!」

 

 柴大将の穏やかな返事が続く。

 

 ホシノは目を閉じた。

 

「……ほんと、元気だねえ」

 

 小さく呟く。

 

 それから、いつもの笑顔を作った。

 

 病室の扉を開く。

 

「お待たせ~」

 

「ホシノ先輩、遅かったですね」

 

「ごめんごめん。ちょっと長引いちゃって」

 

「誰からだったの?」

 

 先生が何気なく聞く。

 

「んー?」

 

 ホシノは少しだけ笑った。

 

「大した用じゃないよ」

 

 そう答えて、何事もなかったように皆のところへ戻る。

 

 けれど。

 

 胸の中では、先ほどの言葉が何度も繰り返されていた。

 

 次も、今回と同じように間に合うとは限らない。

 

 その可能性を、ホシノは否定できなかった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 その日の夕方、対策委員会はアビドス高等学校へ戻ると、そのまま教室で今回の事件について情報を整理した。

 

 机の上には、廃物流施設から回収した三本の人工ガイアメモリの写真と、現場設備の記録が並べられている。現物は直接触れないよう隔離したうえで保管され、後日さらに詳しい解析へ回すことになっていた。

 

「やっぱり、今までのものとは違うんだね」

 

 アヤネが端末へ表示された画像を見ながら言う。

 

「ああ」

 

 翔が頷いた。

 

「これまで確認されてた人工メモリは、身体の外から一部分へ能力を作用させるものだった。でも今回のは生体コネクターを使って、全身へ力を回してる。真正のガイアメモリに近い使い方を、人工物で再現しようとしてるんだと思う」

 

「それって……かなり進歩してるってこと?」

 

 セリカの問いに、翔の表情が僅かに険しくなる。

 

「少なくとも、俺が知ってる人工メモリよりは」

 

「嬉しくない進歩」

 

 シロコが短く言った。

 

「ほんと、それよ」

 

 セリカも同意する。

 

 先生は別の資料へ目を落としていた。

 

「技術のことも気になるけど、もう一つ確認しておきたい」

 

 画面へ三人の情報が表示される。

 

 柴関ラーメンの柴大将。

 

 アビドスへ資材を納入していた業者。

 

 以前から物資輸送を請け負っていた人物。

 

「三人とも、対策委員会と継続的な関係があった」

 

 ノノミの表情から笑みが消える。

 

「やっぱり、偶然とは考えにくいですよね……」

 

「うん」

 

 先生が頷く。

 

「対象の選び方に共通点がありすぎる」

 

「学校そのものじゃなくて、周りから狙ってきた……」

 

 アヤネが呟いた。

 

「そう考えるのが自然だと思う」

 

 先生の言葉を聞きながら、ホシノは椅子の背へ身体を預けていた。

 

「嫌らしいことするねえ」

 

 普段通りの緩い声音だった。

 

 けれど、午後に聞いた黒服の声が脳裏に蘇る。

 

 ――この先も、同じことが起こらない保証はありません。

 

「今のところ、他に連絡が取れなくなっている人はいません」

 

 アヤネが続ける。

 

「アビドスと取引のある業者や、自治区内で普段から私たちと接触している方にも確認しました。現時点では異常ありません」

 

「しばらくは定期的に確認しよう」

 

 先生が言う。

 

「何か起きてからじゃ遅いから」

 

「はい」

 

 その言葉に、ホシノは僅かに目を伏せた。

 

 何か起きてからでは遅い。

 

 それは分かっている。

 

 だからこそ――。

 

「ホシノ?」

 

「ん?」

 

 先生に呼ばれ、ホシノはいつもの笑顔を戻した。

 

「どうかした?」

 

「いやあ、ちょっと疲れたなあって。おじさん、今日はいっぱい働いたからねえ」

 

「一番前で二人も押さえてたからね」

 

「そうそう。だからそろそろ労働時間終了を要求しまーす」

 

「はいはい」

 

 先生も軽く笑い、会議を切り上げた。

 

 翌日以降の警戒方法や連絡手順だけを確認し、それぞれ帰る準備を始める。

 

 セリカとノノミが先に教室を出て、シロコもアヤネと一緒に資料を片付けてから帰っていった。先生も最後にもう一度ホシノたちへ無理をしないよう言い残し、校舎を後にする。

 

 翔だけは、ゲヘナへ送る調査報告を簡単にまとめるため、しばらく教室へ残った。

 

 作業を終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

「……こんな時間か」

 

 端末を閉じ、立ち上がる。

 

 校舎の中は静かだった。

 

 人の少ない学校だけに、皆が帰った後は昼間以上に広く感じる。廊下の照明も必要な場所だけが点いており、その先には暗い教室が並んでいた。

 

 翔は荷物を持って昇降口へ向かいかけた。

 

 その途中、階段の上から僅かに風の音が聞こえる。

 

 屋上へ続く扉が少し開いていた。

 

「……?」

 

 気になって階段を上がる。

 

 扉を押すと、夜の乾いた風が頬を撫でた。

 

 屋上のフェンス際に、人影がある。

 

「ホシノ?」

 

 声を掛けると、小さな影が振り返った。

 

「ん?」

 

 ホシノだった。

 

「翔くん。まだいたんだ」

 

「報告まとめてた。ホシノこそ、帰ったんじゃなかったのか?」

 

「ちょっと夜風に当たりたくてねえ」

 

「こんな時間まで?」

 

「おじさんにも色々あるのです」

 

「高校生だろ」

 

「細かいなあ」

 

 ホシノが小さく笑う。

 

 翔もそれ以上は何も言わず、少し離れたフェンスへ背を預けた。

 

 屋上からは、夜のアビドス自治区を遠くまで見渡せた。

 

 かつて街だった場所の多くは既に砂に覆われている。それでも完全に灯りが消えたわけではなく、遠くにはぽつぽつと建物の明かりが残っていた。

 

「静かだな」

 

「夜はいつもこんな感じだよ」

 

「そっか」

 

 会話が途切れる。

 

 気まずい沈黙ではなかった。

 

 風がフェンスを抜け、二人の間を通り過ぎていく。

 

 しばらくして、ホシノが口を開いた。

 

「ねえ、翔くん」

 

「ん?」

 

「ちょっと変なこと聞いていい?」

 

「内容による」

 

「そこは普通、いいよって言わない?」

 

「変なことって予告されてるからな」

 

「慎重だねえ」

 

 ホシノは笑ってから、再び街へ視線を向けた。

 

「もしさ」

 

 今度の声は、少しだけ静かだった。

 

「自分のせいで、誰かが危ない目に遭ったらどうする?」

 

 翔はすぐには答えなかった。

 

「……急だな」

 

「変なこと聞くって言ったでしょ」

 

「まあ、そうだけど」

 

 翔も夜の街を見る。

 

「まず、本当に自分のせいなのか考えるかな」

 

 ホシノが横を見る。

 

「そこ、“俺が何とかする”じゃないんだ?」

 

「何でもかんでも自分のせいにしてたら、キリがないだろ」

 

「でも、自分が関わってなかったら、その人は狙われなかったかもしれないよ?」

 

 先ほどより問いが具体的になる。

 

 翔は少し考えた。

 

「それでも、悪いのは狙った奴だ」

 

 ホシノの目が僅かに動く。

 

「自分と知り合いだったから巻き込まれたとしても、それで『俺が全部悪い』にはならないだろ。そんなこと言い始めたら、誰とも関われなくなる」

 

「……そっか」

 

「もちろん、助けられるなら助けたいし、止められることなら止めるけどな」

 

 翔はそこで一度言葉を切った。

 

「でも、自分一人で全部払えば終わるって考えるのは、多分違う」

 

 ホシノは何も返さなかった。

 

 黒服の声が、また胸の奥へ浮かぶ。

 

 ――貴女がこちらへ来てくださるのであれば。

 

「例えば」

 

 ホシノが続ける。

 

「自分一人が何とかすれば、周りの人にはもう手を出さないって言われたら?」

 

 翔が眉を寄せた。

 

「……ずいぶん具体的になったな」

 

「例えばの話だよ~」

 

「本当に?」

 

「本当に本当に」

 

 ホシノはいつもの調子で笑う。

 

 翔は少し納得していない顔をしたものの、答えた。

 

「信用しない」

 

「即答だ」

 

「そんな条件を出してくる奴が、本当に約束を守る保証もないし」

 

「もし守る相手だったら?」

 

「それでも一人では決めない」

 

 今度も迷いはなかった。

 

「周りに話す」

 

「反対されたら?」

 

「話し合う」

 

「それでも自分が行くしかないと思ったら?」

 

「止められると思う」

 

「誰に?」

 

「周りの奴らに」

 

 ホシノが僅かに目を伏せる。

 

「……面倒だねえ」

 

「何が?」

 

「人付き合い」

 

「今さら?」

 

「一人なら勝手に決められるのにね」

 

 その言葉に、翔はホシノを見る。

 

 ホシノは街を見たままだった。

 

「でも」

 

 翔が言う。

 

「一人じゃないから、勝手に決めちゃ駄目なんじゃないか?」

 

 ホシノの表情が止まった。

 

「残された方は困るだろ」

 

「……困る?」

 

「当たり前だろ」

 

 翔は少し呆れたように言う。

 

「突然いなくなって、『これでお前たちは安全だから』って言われても、はいそうですかって納得できるわけない」

 

 ホシノは笑わなかった。

 

「ホシノなら、なおさらじゃないか?」

 

「何でおじさん?」

 

「アヤネたち見てれば分かる」

 

 翔は肩を竦める。

 

「みんな、ホシノのこと頼りにしてるだろ」

 

「そんなことないよ。最近はみんなしっかりしてるし」

 

「しっかりしてるのと、いなくなって平気なのは別だろ」

 

 返事がない。

 

 翔は少しだけ声を柔らかくした。

 

「一人で何でも背負おうとするの、格好いいとは思わないぞ」

 

「……厳しいなあ」

 

「そうか?」

 

「そこはもっとこう、『自己犠牲って格好いいよな』みたいな」

 

「思わない」

 

「即答二回目だ」

 

 ようやくホシノが小さく笑った。

 

 その笑顔を見て、翔も僅かに息を吐く。

 

「翔くんって、意外とそういうこと言うんだねえ」

 

「さっきも言ってたけど、その『意外』って何なんだよ」

 

「もっと勢いで危ないところに突っ込むタイプかと思ってた」

 

「……」

 

 翔の反応がほんの僅かに遅れた。

 

 ホシノはそれを見逃さなかった。

 

「ん?」

 

「いや」

 

「翔くん?」

 

「必要なら危ないことする時もあるよ」

 

「へえ」

 

「何だよ、その顔」

 

「別に~」

 

 ホシノは楽しそうに目を細める。

 

 けれど、その胸の中では別のものが動いていた。

 

 危険な場所へ入る。

 

 人工メモリについて妙に詳しい。

 

 そして、翔が姿を消した後に現れる黒い仮面の戦士。

 

 考え方まで同じだ、と決めつけるにはまだ早い。

 

 だが、違和感は少しずつ増えている。

 

「じゃあ今度はおじさんから質問」

 

「まだあるのか」

 

「あるよ~」

 

 ホシノはフェンスへ肘を置いた。

 

「翔くんは、どうしてそんなに人を助けようとするの?」

 

 翔は一瞬黙った。

 

「……そういう人を見て育ったから、かな」

 

「そういう人?」

 

「親父」

 

 短く答える。

 

「警察官だったんだ」

 

「へえ」

 

「困ってる人を見たら放っておけない人だった。俺も、小さい頃からそれ見てたから」

 

「そっか」

 

 ホシノはそれ以上聞かなかった。

 

 短い沈黙が続き翔が口を開く。

 

「じゃあホシノは?」

 

「おじさん?」

 

「どうしてそこまで後輩を守ろうとするんだ?」

 

 今度はホシノが黙る番だった。

 

「先輩だから、かなあ」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃ駄目?」

 

 翔は少しだけホシノを見る。

 

 いつもの気の抜けた表情。

 

 けれど、その奥にあるものまでは見えない。

 

「……いや」

 

 翔は視線を戻した。

 

「それで十分なら、いいんじゃないか」

 

「聞いといてあっさり引くんだ」

 

「話したくないことまで聞く気はないよ」

 

「そっか」

 

 また風が吹いた。

 

 ホシノの髪が僅かに揺れる。

 

「翔くんって、変なところで優しいね」

 

「変なところは余計だ」

 

「褒めてる褒めてる」

 

「絶対褒めてないだろ」

 

 先ほどまでの重い空気が、ほんの少しだけ和らぐ。

 

 どれくらいそうしていただろう。

 

 翔が端末の時刻を確認した。

 

「そろそろ帰ろう。遅くなるぞ」

 

「翔くん、おじさんを子供扱いしてない?」

 

「同い年くらいだろ」

 

「精神年齢ではおじさんなので」

 

「便利だな、その設定」

 

「でしょ?」

 

 ホシノがフェンスから身体を離す。

 

 二人で屋上の扉へ向かいかけたところで、ホシノが足を止めた。

 

「ねえ、翔くん」

 

「ん?」

 

 翔が振り返る。

 

 ホシノは何か言おうとして、少し迷った。

 

「もし……」

 

 そこまで口にしてから、笑う。

 

「いや、何でもない」

 

「何だよ。そこまで言ったら気になるだろ」

 

「忘れて忘れて」

 

「無理だろ」

 

「細かい男はモテないよ~?」

 

「話を逸らすなよ」

 

「ほら、帰るんでしょ?」

 

 ホシノは先に扉を開け、そのまま階段を下り始める。

 

「まったく……」

 

 翔も後を追った。

 

 数段下りたところで、ホシノは前を向いたまま小さく息を吐いた。

 

 言いかけた言葉は、結局口にはしなかった。

 

 もし、自分が何かおかしなことをしようとしていたら。

 

 止めてくれる?

 

 そんなことを聞けば、本当に止められてしまいそうだった。

 

 それはきっと、困るはずなのに。

 

 なぜか胸の奥には、ほんの少しだけ残念に思う自分もいた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 翔とホシノが屋上を去ってから、しばらくして。

 

 階段の踊り場に残っていた人影が、ゆっくりと壁から離れた。

 

「……」

 

 シロコだった。

 

 最初から二人の話を聞くつもりだったわけではない。

 

 始まりは、病院だった。

 

 柴大将の見舞いの途中、ホシノは一本の電話を受けて病室を出ていった。

 

 それだけなら、何も珍しくない。

 

 けれど戻ってきた時。

 

 ホシノはいつもと同じように笑っていた。

 

 同じように話し、同じようにセリカたちを眺めていた。

 

 それなのに、どこか違った。

 

 何が、と聞かれてもシロコ自身うまく説明できなかった。

 

 ただ、帰り道でも。

 

 学校へ戻った後の会議でも。

 

 ホシノが何かを考えている。

 

 しかも、それを自分たちには話すつもりがない。

 

 そんな気がしていた。

 

 だから会議が終わった後も、少しだけ学校に残っていた。

 

 そして、ホシノが一人で屋上へ向かうのを見た。

 

 しばらくして翔も後を追ったため、様子を見るつもりで階段まで来た。

 

 本当に、それだけだった。

 

 だが――聞こえてしまった。

 

『自分一人が何とかすれば、周りの人にはもう手を出さないって言われたら?』

 

『一人なら勝手に決められるのにね』

 

 ホシノの声。

 

 そして翔の答え。

 

『一人じゃないから、勝手に決めちゃ駄目なんじゃないか?』

 

 そこまで聞いて、シロコは屋上へ出ることができなくなった。

 

 ホシノが何を考えているのか。

 

 まだ全部は分からない。

 

 けれど――嫌な予感だけは、はっきりしていた。

 

「……ホシノ先輩」

 

 誰もいなくなった階段で、シロコは小さく呟いた。

 

 

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