青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
翌朝。
いつもよりずっと早い時間に、シロコはアビドス高等学校へ来ていた。
昨日の夜、屋上で聞いた会話が頭から離れなかったからだ。
病院で柴大将を見舞っていた時から、ホシノの様子には小さな違和感があった。電話を受けて病室を出ていき、戻ってきた時にはいつもの気の抜けた笑顔を浮かべていた。口調も態度も普段と変わらなかったが、シロコには何となく分かった。
ホシノは何かを隠している。
だから会議が終わった後も、ホシノが一人で学校に残ったことが気になった。さらに翔が屋上へ向かったため、シロコは二人の後を追った。
階段の陰へ身を置き、最初から話を聞くつもりで。
そこで耳にした。
『自分一人が何とかすれば、周りの人にはもう手を出さないって言われたら?』
『一人なら勝手に決められるのにね』
具体的な事情までは分からなかった。
けれど、ただの例え話ではない。
そう感じたからこそ、シロコは今朝、普段より早く学校へ来た。
もしホシノが何かしようとしているのなら、人が集まる前に動くかもしれない。
そんな予感があった。
自転車を停めて校舎へ入り、まだ朝の静けさが残る廊下を進む。窓から差し込む朝日は薄く積もった砂を照らしていたが、人の少ない校舎に足音だけが響く様子は、いつもの学校よりひどく広く感じられた。
対策委員会の教室へ近づいたところで、シロコの足が止まる。
中から、微かな物音がした。
「……」
扉が僅かに開いている。
シロコは足音を殺して近づき、その隙間から中を覗いた。
ホシノがいた。
左腕に装着する盾も、愛用のショットガンも携えている。装備だけ見れば、いつもと何も変わらない。
ただ、その手には一枚の紙があった。
ホシノは自分の机の前に立つと、紙をそっと置いた。
朝日の中で、その上部に記された文字が見える。
――退学届。
シロコの目が僅かに細くなった。
嫌な予感が、形になった。
ホシノはすぐには机から離れなかった。
誰もいない教室を見回す。
アヤネの席。
ノノミの席。
セリカの席。
そしてシロコの席。
いつもなら、少しすればここへ皆が集まる。騒がしくなり、誰かが何かを言えばセリカが怒り、ノノミが笑い、アヤネが話をまとめる。シロコが変なことを言えば、また誰かが突っ込む。
そんな場所を眺めながら、ホシノはほんの少しだけ目を伏せた。
「……ごめんね」
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
そのまま踵を返し、教室を出ようとする。
シロコはもう隠れなかった。
扉の前まで歩き、真正面に立つ。
出てきたホシノの足が止まった。
「……」
「……」
二人の視線が合う。
ホシノの方が先に、いつもの調子で笑った。
「おはよう、シロコちゃん。今日はずいぶん早いねえ」
「ん。おはよう」
シロコも普段通りに返した。
だが、そこから退くことはなかった。
「どこに行くの?」
ホシノの笑顔が、ほんの僅かに固まった。
「ちょっとお出かけ」
「それを置いて?」
シロコが教室へ視線を向ける。
「……見えちゃった?」
「見えた」
「いやあ、参ったねえ」
ホシノは頭を掻いた。
それでも、誤魔化せたとは思っていないようだった。
「戻って」
「まだ学校の中だよ?」
「教室に」
「それはちょっと難しいかなあ」
ホシノが一歩進む。
シロコも同じ方向へ動いた。
左右どちらへ行こうとしても、進路を塞げる位置だった。
「シロコちゃん?」
「通さない」
眠たげだったホシノの目が、ほんの少しだけ開く。
「……どうしたの?」
「昨日から変だった」
「おじさん、いつもこんな感じだと思うけど」
「違う」
シロコは即座に否定した。
「病院から戻ってきた時も。会議の時も」
一度言葉を区切る。
「昨日の夜も」
そこで初めて、ホシノの表情から笑みが薄れた。
数秒、二人の間に沈黙が落ちる。
「……聞いてたんだ?」
「ん」
シロコは隠そうともせず頷いた。
「ホシノ先輩が気になったから、後をつけた。翔と屋上に行ったから、階段で話を聞いてた」
ホシノが目を瞬いた。
「……それ、普通に盗み聞きって言うんだよ、シロコちゃん」
「分かってる」
「そこは否定しないんだねえ」
「ごめん」
シロコは素直に謝った。
だが、視線は逸らさない。
「でも、放っておけなかった」
「……そっかあ」
ホシノが困ったように息を吐いた。
「おじさんとしては、後輩の教育について少し考えた方がいいのかなあ」
「今はそれより、ホシノ先輩のこと」
「容赦ないなあ」
いつもの調子を残した苦笑。
それでもシロコは、ホシノが少しだけ困っていることに気づいていた。
「だったら、なおさら分かるでしょ?」
「分からない」
「シロコちゃん」
「自分一人で何とかするってところだけは分かった」
シロコは一歩も譲らない。
「だから止める」
「……翔くんと同じこと言うんだねえ」
「翔も止めた?」
「昨日はね」
「なら二人」
「多数決?」
「違う」
シロコは首を横に振る。
「ホシノ先輩が間違ってる」
「厳しいねえ」
「何があったの?」
「……」
「昨日の電話?」
ほんの僅か。
ホシノの目が動いた。
それだけだったが、シロコには十分だった。
「やっぱり」
「シロコちゃんは鋭いなあ」
「誰から?」
「……」
答えはない。
ホシノは笑っている。
だが、答えないということ自体が答えになっていた。
シロコは端末を取り出した。
「みんなに連絡する」
「それは困るかな」
ホシノの声音が少し低くなる。
シロコの指が一度だけ止まった。
「何で?」
「みんなを巻き込みたくないから」
「もう巻き込まれてる」
迷いなく返す。
「柴大将たちも」
「……だからだよ」
その返答だけは、いつものホシノではなかった。
軽さが消えていた。
「これ以上、巻き込みたくない」
「一人で行けば終わる?」
「終わらせる」
「誰がそう言ったの?」
「……」
「その人を信用してる?」
「してないよ」
今度はホシノが即答した。
シロコが僅かに眉を寄せる。
「なら、なおさら一人で行くのおかしい」
「信用してなくても、使える話なら使うしかない時もあるんだよ」
「分からない」
「そうだろうねえ」
「でも」
シロコは端末へ目を落とす。
「分からないまま行かせる方が嫌」
対策委員会のグループへ短いメッセージを送った。
――今すぐ学校に来て。
続けて、もう一つ。
――ホシノ先輩が退学届を置いた。
「シロコちゃん」
「送った」
「早いなあ」
「消さない」
「もう送ったなら消せないでしょ」
「ん」
ホシノが長く息を吐く。
「困った子だねえ」
「ホシノ先輩に言われたくない」
「そう?」
「ん」
シロコは廊下の中央から動かなかった。
ホシノも無理に突破しようとはしない。
二人はそのまま、誰かが来るのを待つように向かい合っていた。
* * *
「ホシノ先輩!」
最初に飛び込んできたのはセリカだった。
校舎へ駆け込んだ勢いのまま廊下を曲がり、シロコとホシノの姿を見つける。その少し後ろからノノミ、さらにアヤネも息を切らしながらやってきた。
「シロコ先輩、どういうことですか!?」
アヤネの問いに、シロコは教室を指した。
「これ」
セリカが真っ先に中へ入る。
机の上に置かれた紙を見つけ、手に取った。
「……退学届?」
一瞬、理解できなかったように目を瞬く。
次の瞬間、表情が一変した。
「はぁ!?」
勢いよく振り返る。
「何よこれ、ホシノ先輩!」
「見た通りだよ~」
「見た通りで済むわけないでしょ!」
セリカは思わず紙を握り潰しかけ、途中で気づいて力を緩めた。
退学届をもう一度見る。
書かれている名前は間違いなく小鳥遊ホシノ。
冗談でも、書きかけでもない。
必要なところは埋められている。
「何よ……これ」
さっきより小さな声だった。
「何でこんなの書いてるのよ」
「セリカちゃん」
「いきなりこれ置いて、どこ行くつもりだったの!?」
「ちょっとね」
「だから、どこよ!」
セリカの怒声に近い声を、ノノミが静かに遮った。
「セリカちゃん」
普段なら笑いながら宥めるところだが、今のノノミに笑顔はなかった。
ホシノを見る。
「ホシノ先輩。私たちにも説明してください」
「……」
「お願いします」
柔らかな口調は変わらない。
けれど、その目には明確な不安があった。
アヤネも退学届を確認すると、すぐホシノへ向き直った。
「何かあったんですよね?」
「何もないよ」
「何もない人が退学届なんて置いていきません!」
いつもまとめ役に回るアヤネらしくないほど強い声だった。
ホシノは少しだけ困ったように笑った。
「みんな朝から元気だねえ」
「誤魔化さないで!」
セリカが即座に返す。
「ホシノ先輩、一人で何かしようとしてるんでしょ!」
「それは――」
「してる」
シロコが遮った。
全員の視線が集まる。
「昨日の夜、翔と話してたよね」
ホシノがシロコを見る。
「ちょっと、シロコちゃん」
シロコは構わず続けた。
「ホシノ先輩がこう言ってた」
昨夜聞いた言葉を、そのまま繰り返す。
「『自分一人が何とかすれば、周りの人にはもう手を出さないって言われたらどうする』って」
セリカの表情から怒りが一瞬消えた。
「……何よ、それ」
ノノミとアヤネも顔を見合わせる。
シロコはホシノを見たまま尋ねた。
「誰かに、そういう話をされたの?」
「……」
「昨日、病院で電話してた相手?」
ホシノは答えなかった。
その沈黙で、今度は全員に伝わった。
「ちょっと待って」
セリカが退学届を手にしたままホシノへ近づく。
「誰かがそんなこと言ってきたの? ホシノ先輩が一人で行けば、私たちには手を出さないって?」
「シロコちゃん、そこまで聞こえてたんだねえ」
「ん」
「昨日って……」
ノノミが眉を寄せる。
「病院から戻ってきた時から、ホシノ先輩が変だった」
シロコが答えた。
「だから会議の後も様子を見てた。翔と屋上に行ったから、後をつけて話を聞いた」
セリカが目を瞬く。
「……シロコ先輩、それって盗み聞きじゃない?」
「ん。そう」
あっさり認めた。
ホシノが肩を落とす。
「ほらあ。セリカちゃんにも言われてるよ」
「でも、聞いてよかった」
「反省してる?」
「ん。悪かったとは思ってる」
シロコは一度だけ頷いた。
「でも、ホシノ先輩を放っておく方が嫌だった」
「……」
ホシノはしばらくシロコを見つめる。
やがて、小さく息を吐いた。
「そういう真っ直ぐなこと言われると、おじさん困っちゃうなあ」
軽い調子だった。
それでも、いつもの笑顔とは少し違って見えた。
セリカは手元の退学届へ目を落とした後、もう一度ホシノを見る。
「それで今日これ?」
紙を持つ手が僅かに震える。
「ふざけないでよ……」
「セリカちゃん」
「勝手に一人で決めて、こんな紙だけ置いていくつもりだったの?」
「……」
「私たちには何も言わずに?」
「話したら、止めるでしょ?」
「当たり前じゃない!」
即答だった。
「ホシノ先輩が何しようとしてるのかも分からないのに、はい分かりましたって見送るわけないでしょ!」
「だから話せなかった」
「それで納得すると思ってるの!?」
「思ってないよ」
あまりにも静かな返答だった。
セリカが言葉を失う。
「納得してもらおうとも思ってない」
「……何よ、それ」
「怒っていいよ」
ホシノは笑わなかった。
「でも、行く」
「ホシノ先輩……」
アヤネの声が揺れる。
ホシノは後輩たちを順番に見た。
「柴大将たちは助かった」
その名前が出た瞬間、空気が変わった。
「他の二人も助かった。今回はね」
ホシノはそこで一度言葉を止める。
「でも、次も助かるとは限らない」
誰も返さない。
「おじさんたちと関わってる。それだけの理由で、普通に暮らしてる人が連れていかれて、あんなものを身体に入れられた」
「……」
「これからも同じことをされたら?」
「だったら皆で止めればいい!」
セリカが返す。
「今回だって助けられたじゃない!」
「うん」
「だったら!」
「でも、もし次は間に合わなかったら?」
セリカの口が止まった。
ホシノは責めるようには言わなかった。
むしろ静かすぎる声だった。
「柴大将じゃなくてもいい。別の店の人かもしれない。おじさんたちに物を売ってくれた人かもしれない。たまたま話したことがある人かもしれない」
昨夜までのホシノなら、ここで一度笑って誤魔化したかもしれない。
今はしなかった。
「その人が戻ってこなかったら、おじさんはたぶん後悔するよ。自分が行けば止められたのにって」
「だからって!」
セリカが声を上げる。
「ホシノ先輩がいなくなればいいって話にはならないでしょ!」
「おじさん一人で止められるなら、なるよ」
「ならない!」
セリカの声が廊下へ響く。
「ホシノ先輩がいなくなるのだって、私たちにとっては同じでしょ!」
ホシノの目が僅かに揺れた。
「誰かが犠牲になるのが嫌だからって、自分が犠牲になればいいなんて……そんなの全然違うじゃない!」
シロコも静かに頷いた。
「ん。違う」
ノノミが一歩前へ出る。
「私もそう思います」
その声音は穏やかだったが、いつもの柔らかさの奥に強い意志があった。
「ホシノ先輩が私たちを守ろうとしてくれているのは分かります。でも、それでホシノ先輩を失ってもいいと思っている人は、ここには誰もいません」
「私だってです!」
アヤネも続く。
「ホシノ先輩一人を差し出して、それで全部解決したことにするなんて……そんなの、対策委員会じゃありません!」
そこでアヤネは一度唇を噛んだ。
「五人でここまでやってきたんです。勝手に一人だけ抜けないでください」
「……」
ホシノは何も言えなかった。
ほんの数秒だけ。
それから、いつものように目を細める。
「……困った後輩たちだねえ」
「困ってるのはこっちよ!」
セリカが即座に返した。
その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
「ホシノ!」
最初に姿を見せたのは翔だった。
その後ろから先生も駆けてくる。
「みんな!」
二人が到着したのを見て、ホシノは少し目を丸くした。
「先生と翔くんまで呼んだんだ」
「私が連絡しました」
アヤネが答える。
「ホシノ先輩が退学届を残して一人で出ていこうとしてるって」
「仕事が早いなあ」
「褒めても駄目です」
「アヤネちゃんまで厳しいねえ」
翔は息を整えるより先に、机の上へ置かれた退学届を見た。
そしてホシノを見る。
昨日の夜。
あの屋上で交わした会話が、一気に頭の中で繋がった。
「昨日の話……」
「うん」
ホシノは否定しなかった。
「やっぱり、そういう意味だったんだな」
「半分くらいはねえ」
「半分じゃないだろ」
翔の声音が強くなる。
「自分一人が行けば周りには手を出さないって言われたらどうする、って……あれ、お前自身の話だったんだろ」
「そうだよ」
「何で黙ってた」
「昨日言ったでしょ?」
ホシノは少しだけ笑った。
「話したら止めるから」
「止めるに決まってるだろ!」
「うん。知ってる」
その返答に、翔は言葉を詰まらせた。
怒っている。
なのに、怒鳴りつけたいわけではなかった。
昨夜、ホシノは最後に何か言いかけていた。
『もし……』
そこから先を口にせず、笑って誤魔化した。
今なら分かる気がした。
「……昨日」
翔が低く言う。
「最後に何か言おうとしただろ」
ホシノの表情が僅かに止まる。
「何でもないって言ったよ?」
「あれも本当に何でもなかったのか?」
「……」
「ホシノ」
返事はなかった。
代わりに先生が一歩前へ出た。
「まず、全部聞かせて」
声は穏やかだった。
だが、普段の軽さはない。
「誰と何を約束したの?」
「まだ約束はしてないよ」
「まだ?」
「これから正式に話をするところ」
「なら、なおさら一人で行く必要はない」
「行かなきゃ条件も決まらないからねえ」
「どんな条件?」
ホシノは少し黙った。
「おじさんが向こうへ行けば、アビドスと対策委員会、それから先生や周りの人たちへの直接的な手出しを止めるって」
先生の眉が動く。
「“直接的な”?」
ホシノもその言葉の意味には気づいている。
「……うん」
「かなり限定された言い方だね」
「分かってるよ」
「だったら、その条件をそのまま信用するのは危険」
「信用してない」
ホシノははっきり答えた。
「だから、これから直接会って正式な条件を確認する」
「それを一人で?」
「そのつもり」
「相手の場所で?」
「うん」
「それを危ないって言ってるんだけどなあ」
先生は困ったように息を吐いた。
それでもホシノは退かない。
「相手は誰?」
「……」
「カイザー?」
「カイザーそのものじゃないよ」
初めて、ホシノは明確に否定した。
後輩たちも彼女を見る。
「じゃあ誰なの?」
セリカが尋ねる。
ホシノは僅かに迷った。
もうここまで話せば、名前だけ隠す意味もない。
「……黒服」
「黒服?」
セリカが聞き返した。
「そう名乗ってる男がいるんだよ」
先生の目が細くなる。
「その黒服って人が、ホシノに取引を持ちかけてきた?」
「うん」
「いつから?」
「前にも一度」
「前にも……?」
アヤネが息を呑む。
「何で黙ってたんですか?」
「断ったから」
ホシノは短く答えた。
「その時は、話す必要ないと思ったんだよ」
「何を要求されたの?」
先生の問いに、ホシノは一瞬だけ翔へ視線を向けた。
ほんの一瞬。
だが、その視線には昨日までとは違う意味が混じっていた。
「おじさん自身か――」
少し間を置く。
「仮面ライダーさん」
翔の胸が微かに強張る。
「仮面ライダーを!?」
セリカが声を上げる。
「何であの人まで!」
「そこまでは知らないよ。ただ、向こうは仮面ライダーさんにも興味があるみたい」
ホシノは再び翔を見る。
まだ確信はない。
けれど、地下施設。
人工メモリ事件。
何度も重なった不自然な一致。
昨夜の言葉。
翔が危険へ向かう人間であること。
どれも決定的ではない。
それでも、もし自分の疑いが正しかったなら。
なおさら、黒服へ彼を渡すという選択だけはなかった。
「もちろん、どっちも断ったよ」
「じゃあ今回は?」
先生が尋ねる。
ホシノは後輩たちを見る。
「おじさんが向こうへ行けば、黒服からカイザー側へ働きかけて、アビドスや周りの人たちへの直接的な実力行使を止めさせるって」
「そんなの信用できるわけないでしょ!」
セリカが言う。
「分かってるよ」
「だったら!」
「でも、何もしないよりはいい」
ホシノの声は静かだった。
「条件に残せるなら、少なくとも今みたいに誰が次に狙われるか分からない状態は止められるかもしれない」
「かもしれない、で自分を差し出すの?」
シロコが聞く。
「……」
「それでホシノ先輩がどうなるの?」
「分からない」
「何をされるかも?」
「うん」
「帰ってこられる?」
「それも分からない」
「なら行かせない」
シロコは即座に答えた。
ホシノが小さく息を吐く。
「そこ退いて、シロコちゃん」
「嫌」
「おじさん、本気だよ」
「私も本気」
シロコは真っ直ぐホシノを見る。
「今朝ここに来たのも、止めるため」
「……」
「ホシノ先輩が何を考えてるか全部は分からない。でも、一人でいなくなるのは駄目」
セリカもその隣へ立つ。
「私だって退かないわよ」
「セリカちゃん」
「柴大将のことを理由にするなら、なおさらよ!」
セリカは退学届を胸元で握る。
「柴大将が、ホシノ先輩に自分を犠牲にしてほしいなんて思うわけないでしょ!」
ホシノの目が微かに揺れた。
「ノノミちゃんも?」
「もちろんです」
ノノミは柔らかく笑った。
けれど、そこに迷いはなかった。
「ホシノ先輩が私たちを大切に思ってくれているのと同じように、私たちもホシノ先輩を大切に思っていますから」
「アヤネちゃんは?」
「聞くまでもありません!」
アヤネが珍しく声を張る。
「それに私は後方支援担当です。ホシノ先輩が勝手なことをしようとしたら、シロコ先輩たちを全力で支援して止めます!」
「うへぇ……」
ホシノが僅かに肩を落とす。
「包囲されちゃったなあ」
「自業自得よ!」
セリカの言葉に、いつもなら笑って返していたかもしれない。
今のホシノは、後輩たちをゆっくり見回しただけだった。
先生。
翔。
四人の後輩たち。
自分が守ろうとしている人たちが、揃って目の前へ立ちはだかっている。
昨夜の翔の言葉が蘇る。
『一人じゃないから、勝手に決めちゃ駄目なんじゃないか?』
「……ほんと」
ホシノは小さく笑った。
「昨日、翔くんが言ってた通りだねえ」
「何がだよ」
「一人じゃないと、勝手に決められないってこと」
「だったら――」
「でも」
ホシノは翔の言葉を遮った。
その目から、今度こそ笑みが消える。
「今回は、勝手に決めさせて」
「嫌だ」
最初に答えたのはシロコだった。
間髪入れず、セリカも続く。
「私も嫌」
「私もです」
ノノミも一歩前へ出た。
アヤネは端末を握り締める。
「絶対に行かせません」
ホシノは四人を見る。
「……そっか」
声は穏やかだった。
ほんの少しだけ、寂しそうでもあった。
「それじゃあ、おじさんも困っちゃうなあ」
背中へ手を回す。
盾を左腕へ固定する。
右手にはショットガン。
その動きを見た瞬間、空気が変わった。
「ホシノ先輩……?」
セリカの声から勢いが消える。
「まさか、本気で――」
「うん」
ホシノは静かに答えた。
「今日はどうしても行かないといけないんだ」
シロコの手がライフルへ伸びる。
「なら、通さない」
「シロコちゃん」
「言ったよ」
シロコは銃を構える。
「力ずくでも止める」
セリカも一瞬だけ躊躇した後、武器を取った。
「……本当にやる気?」
「できればやりたくないよ」
ホシノは答える。
「みんなを傷つけたいわけじゃない」
「こっちだって同じよ!」
「うん。知ってる」
ノノミもシロコたちの横へ並ぶ。
アヤネは直接前へ出るのではなく、すぐに端末を操作して支援体制へ切り替えた。
『通信、繋ぎます。皆さんの位置情報も共有します』
先生が四人を見た。
「みんな」
その声音だけで、シロコたちの意識が一斉に先生へ向く。
「ホシノを傷つけるために戦うんじゃない」
先生はホシノから目を逸らさない。
「連れ戻すために止めるよ」
「……先生まで」
ホシノが困ったように笑う。
「本当にずるいなあ」
「それ、今言う?」
「だって、おじさんの後輩たちを指揮して、おじさんを止めるんでしょ?」
「うん」
先生も退かなかった。
「先生だからね」
「そっかあ」
ホシノは一度だけ目を閉じた。
そして、開く。
その瞬間にはもう、アビドス対策委員会の最上級生として、幾度も危険な戦場を切り抜けてきた小鳥遊ホシノの目になっていた。
シロコが僅かに重心を落とす。
セリカが射線を取る。
ノノミが後方で機関銃を構え、アヤネが全員の状態を端末へ表示する。
先生は一瞬で廊下と教室の位置関係、遮蔽物、退路を確認していた。
翔はそのさらに後ろで、拳を強く握った。
昨日は言った。
一人で決めるな。
残された方は困る。
それでもホシノは、自分たちを守るために一人で行こうとしている。
「ホシノ」
翔が呼ぶ。
彼女の目が僅かにこちらへ向いた。
「まだ止まれる」
「……うん」
ホシノはほんの少しだけ笑った。
「知ってるよ」
それでも、盾を下ろさなかった。
「だから、ごめんね」
シロコが一歩前へ出る。
「謝るなら戻って」
「それはできないかなあ」
「なら」
ライフルの銃口が僅かに上がる。
「止める」
ホシノは、そんな後輩たちを見つめた。
困ったように。
少しだけ嬉しそうに。
そして、どうしようもなく寂しそうに。
「……困った後輩たちだねえ」
アビドス高等学校。
いつも五人で集まっていた教室のすぐ外で。
同じ学校を守るために肩を並べてきた先輩と後輩たちは、初めて互いを止めるために武器を構えた。
* * *
最初に動いたのはシロコだった。
引き金が絞られ、乾いた銃声が廊下へ響く。
狙いはホシノ自身ではない。進路を限定するため、足元と左右の壁際へ短く弾を散らす。ホシノが咄嗟に盾を構えた瞬間、セリカも反対側から射線を重ねた。
「先生!」
「シロコはそのまま正面。セリカは右へ。ホシノを出口に近づけないで!」
「ん!」
「分かった!」
先生の指示を受け、二人がすぐに散る。
ここは普段から使っている校舎だ。廊下の幅も、教室の位置も、階段までの距離も全員が知っている。
当然、ホシノも。
「いきなり容赦ないねえ」
盾へ弾丸が次々と当たり、金属音が連続する。
ホシノは慌てない。
前面から来るシロコの射撃を盾で受けながら、セリカの射線が通る瞬間だけ身体の角度を変える。足を止めているように見えて、少しずつ位置をずらしていた。
「セリカ、三歩下がって!」
「え?」
先生の声と同時に、ホシノが動いた。
盾を前へ押し出し、一気に間合いを詰める。
「うわっ!」
セリカが後ろへ跳ぶ。
ほんの一瞬前まで彼女がいた場所を盾が通り過ぎた。
「先生、今の分かったの?」
「ホシノがさっきからセリカの射撃間隔を見てた!」
「そんなところまで!?」
「話は後!」
シロコが横から割り込み、ホシノの進路へ弾幕を張る。
ホシノはすぐに追撃を諦めた。
盾の縁で銃弾を弾きながら身を翻し、そのまま教室の扉を利用して一度射線を切る。
「逃がさない」
シロコが追う。
「シロコ、待って!」
先生の制止より僅かに早く、教室の陰からショットガンの銃口だけが覗いた。
発砲。
シロコは即座に身を捻った。
散弾は直撃を避け、彼女の進行方向に広がる。足を止めざるを得なかった一瞬に、ホシノが教室から飛び出した。
「……やっぱり」
シロコが銃を構え直す。
「私の動き、知ってる」
「そりゃそうだよ~」
ホシノは盾越しに答える。
「何年一緒にいると思ってるの、シロコちゃん」
その言葉にシロコの眉が僅かに動いた。
ホシノはシロコが前へ出る時の癖を知っている。
セリカが焦ると連射時間が長くなることも。
ノノミが仲間を巻き込まないよう射線を取るまで一拍待つことも。
アヤネが後方から何を優先して見るのかも。
いつも一緒に戦ってきた。
だからこそ、知っている。
「それなら――」
先生が静かに言った。
「普段と違う動きをすればいい」
ホシノの視線が先生へ向いた。
「シロコ。今度は追わないで」
「ん」
「セリカはシロコより前。ノノミ、廊下の奥をお願い」
「はい!」
重量のある機関銃を構えていたノノミが、一歩前へ出る。
銃身が回転を始めた。
その音だけでホシノが盾の角度を変える。
「おっと」
次の瞬間、激しい弾幕が廊下を埋めた。
真正面から受ければ、いかにホシノでも無視できない。
盾を立てて受ける。
衝撃が連続し、ホシノの身体が僅かに押し戻された。
「今!」
先生の指示。
だが、飛び出したのはシロコではない。
「そこっ!」
セリカだった。
ノノミの射撃が一瞬途切れた隙間を抜けて接近し、盾の外側へ回り込む。
ホシノの目が少し見開かれた。
「セリカちゃん?」
「いつまでも同じ動きすると思わないでよ!」
近距離から発砲。
ホシノは盾を振って銃口を逸らし、そのままショットガンを向ける。
しかし、撃たない。
セリカとの距離が近すぎた。
「……っ!」
「捕まえた」
代わりに盾を押し当て、セリカの身体を壁際へ押し込む。
「ちょ、離しなさいよ!」
「ごめんねえ」
ホシノが距離を取ろうとした瞬間。
「今度は私」
シロコが背後へ回っていた。
銃声。
ホシノは反射的に盾を戻す。
その隙にセリカが拘束から抜けた。
「っ、もう!」
「大丈夫?」
「平気!」
「二人ともそのまま離れて!」
先生がすぐに次の指示を飛ばす。
翔はその少し後方から戦いを見ていた。
思わず拳に力が入る。
ホシノは強い。
分かっていたつもりだった。
実際に何度も戦う姿を見てきた。
だが、これは今までとは違う。
敵を倒すための戦いではない。
誰も傷つけたくない。
その条件の中でなお、ホシノは四人を相手に戦線を維持している。
盾はただ銃弾を防ぐためのものではなかった。射線を隠し、相手を押し込み、通路を塞ぎ、時には自分の次の動きを隠す壁になる。
ショットガンも同じだ。
致命的な距離では撃たない。
床や壁、進路へ撃ち込み、相手を動かす。
その一つ一つが、長い時間この学校を守ってきた経験に裏打ちされていた。
「……強いな」
翔の口から思わず零れる。
「うん」
先生はホシノから目を離さなかった。
「でも、ホシノはもっとやれる」
翔が先生を見る。
「今は?」
「全然本気で撃ってない」
分かっている。
それが、かえって厄介だった。
先生はすぐに視線を戻す。
「ホシノはみんなを傷つけられない。そこは変わらない」
「先生、それって……」
アヤネが通信越しに反応する。
「うん。その条件を使う」
敵なら決して選ばない方法だった。
だが、相手はホシノだ。
「シロコ、セリカ。もう少し近くへ。ノノミは二人の後ろから射線を維持」
『近づくんですか!?』
アヤネが驚く。
「ホシノは近距離が得意。でも今はショットガンを私たちへまともに撃てない」
ホシノが遠くから苦笑した。
「先生、そういうこと本人の前で言っちゃう?」
「駄目だった?」
「いやあ……先生って結構ひどい大人だなあって」
「ホシノを連れ戻すためだから」
「ずるいなあ」
「さっきも聞いたよ」
先生が僅かに笑う。
次の瞬間、その目つきが変わった。
「行って!」
三人が同時に動く。
シロコが左。
セリカが右。
ノノミが正面。
一方向なら盾で止められる。
二方向でもホシノなら対応する。
だが三方向。
しかも先生の指示でタイミングが意図的にずらされている。
「……これは」
ホシノが初めて後ろへ下がった。
シロコの射撃を盾で弾く。
セリカが死角へ入る。
身体を捻ってかわすと、正面からノノミの弾幕。
盾で防ぐ。
そこへ再びシロコ。
逃げ道を限定され、ホシノが徐々に廊下の中央へ押し込まれていく。
「いける!」
セリカが叫んだ。
「そのまま!」
先生も畳み掛ける。
「ホシノを教室側へ押し戻して!」
数秒。
確かに、流れは後輩たちへ傾いた。
だからこそ。
ホシノは一度、大きく息を吐いた。
「……先生」
「何?」
「やっぱりすごいね」
盾の陰から覗く瞳が変わる。
「でも――」
シロコが気づいた。
「先生、下がって!」
ホシノが踏み込んだ。
それまでとは速度が違った。
「っ!」
ノノミの弾幕が途切れる直前。
そこへ合わせた。
盾を前へ出し、真正面から距離を潰す。
ノノミは機関銃を持ったまま横へ避けようとするが、ホシノはその進路へ一歩先に入った。
「ごめんね、ノノミちゃん」
「きゃっ!」
盾を身体へ直接叩きつけるのではなく、機関銃の銃身と腕の間へ差し込み、そのまま押し上げる。
銃口が天井へ逸れた。
ホシノはノノミを傷つけることなく体勢だけを崩し、横を抜ける。
「ノノミ!」
「大丈夫です!」
セリカが撃つ。
ホシノは振り返らない。
盾だけを背後へ回し、弾丸を防いだ。
「何よそれ!」
「長く一緒にいるって言ったでしょ?」
そのまま階段へ。
「シロコ!」
「ん!」
シロコが先回りする。
だがホシノは階段を下りなかった。
一段目へ足を掛ける直前に方向転換。
「……!」
シロコが反応した時には、ホシノは彼女の横へ戻っている。
「シロコちゃんは先回りすると思ったよ」
盾がライフルを押さえる。
シロコもすぐに銃を引き、空いた手でホシノの腕を取ろうとする。
ホシノはそれをかわし、肩を入れて体勢を崩した。
「っ……!」
倒れそうになったシロコは自分で床へ手をつき、すぐに起き上がる。
その頃には、ホシノはすでに廊下の先へ進んでいた。
「ホシノ先輩!」
アヤネの声が通信へ響く。
『正面玄関へ向かっています!』
「追うよ!」
先生が走り出す。
「翔!」
「ああ!」
全員がその後を追った。
* * *
戦場は、そのまま校舎前へ移った。
正面玄関を抜ければ校門。
そこから先は自治区へ続く道路だ。
ホシノは校舎を出たところで足を止めた。
追ってきた後輩たちが再び散開する。
「まだやる?」
ホシノが尋ねる。
「やる」
シロコが即答した。
「当然でしょ!」
セリカも銃を構える。
「ホシノ先輩が戻ってくれるまでです」
ノノミも引かない。
『皆さん、無茶はしないでください!』
アヤネの声が届く。
「先生」
シロコが短く呼ぶ。
「うん」
先生は校門までの距離を見る。
ホシノの目的は自分たちを倒すことではない。
突破すること。
なら、勝敗の条件はこちらも同じだ。
「校門を通さなければいい」
先生が告げる。
「シロコとセリカは左右。ノノミは門を守って。ホシノがどこへ動いても、一人で追わない」
「ん」
「了解!」
「はい!」
ホシノはその配置を見ると、少しだけ困った顔になった。
「先生、だんだんおじさんの扱いに慣れてきてない?」
「褒め言葉として受け取っておくね」
「褒めてないんだけどなあ」
言い終わるより早く、ホシノが駆ける。
シロコが撃つ。
セリカが続く。
ホシノは盾で受けながら、一度右へ大きく振った。
「セリカ、追わない!」
「分かってる!」
以前なら追った。
だが今は先生の指示に従う。
ホシノがそれを確認した瞬間、今度は左へ。
シロコも動かない。
「……成長してるねえ」
「ホシノ先輩に教わった」
シロコの返答に、ホシノが一瞬だけ目を細めた。
「そういうこと言うの、反則だと思うなあ」
「知らない」
再び銃声。
ホシノが盾を上げる。
ノノミの弾幕も加わった。
三方向から完全に校門への道を塞がれる。
ホシノは無理に突破しなかった。
地面を蹴り、校舎側へ一度後退する。
「逃げる気?」
「違うよ」
ホシノはショットガンを地面へ向けた。
先生が即座に察する。
「散って!」
発砲。
地面が弾け、砂と埃が一気に舞い上がった。
視界が遮られる。
「煙幕代わり!?」
セリカが腕で顔を庇う。
「シロコ、音を見て!」
「ん!」
シロコが目を細める。
砂埃の中から足音。
右。
「右!」
銃口を向ける。
だが、出てきたのはホシノの盾だけだった。
「囮――」
反対側。
ホシノ本人が抜ける。
「ノノミ!」
「はい!」
機関銃が向く。
しかし、ホシノは既に射線の内側へ踏み込んでいた。
「また……!」
「ノノミちゃんの武器、近すぎると取り回しづらいからねえ」
盾で銃身を押し上げる。
そこへセリカ。
「今度こそ!」
ホシノの背後へ回る。
だがホシノは、視界に入っていないはずのセリカの動きへ身体を合わせた。
「え――」
「セリカちゃんは、ここで来ると思った」
ショットガンの銃身がセリカの武器へ触れる。
撃たずに、横へ払う。
「っ!」
手から銃が離れ、地面を滑った。
セリカが取り戻そうとした時には、ホシノはもう離れている。
「待ちなさい!」
「待てないかなあ」
そのまま校門へ。
「ホシノ先輩!」
シロコが正面へ回り込む。
二人が向かい合う。
ホシノは止まらない。
シロコも退かない。
「退いて」
「嫌」
「怪我するよ」
「ホシノ先輩は撃たない」
足が止まった。
ほんの一瞬。
シロコはそこを逃さない。
「撃てないんじゃなくて、撃たない」
「……」
「だから止められる」
「シロコちゃん」
「戻って」
ホシノの目が細くなる。
「本当に、強くなったねえ」
次の瞬間、両者が同時に動いた。
シロコが射線をずらしながら接近する。
ホシノは盾を正面へ。
ライフルと盾がぶつかる。
シロコは押し負ける前に横へ回ろうとした。
そこまでホシノは読んでいる。
盾を引く。
シロコの身体が僅かに前へ流れた。
その瞬間、ホシノが足を入れ替え、シロコの重心を崩す。
「っ!」
シロコが地面へ膝をついた。
ホシノは彼女へ銃を向けない。
ただ、横を通り過ぎる。
「ごめんね」
「待って……!」
シロコが手を伸ばす。
届かない。
校門まで、あと僅か。
「ホシノ!」
先生の声。
ホシノは振り返らなかった。
「先生。みんなのこと、お願いね」
「嫌」
「先生までシロコちゃんみたいになってるなあ」
「ホシノが戻ればお願いされなくて済む」
「それはできないよ」
ホシノが再び歩き出す。
「待てよ」
今度は翔の声だった。
ホシノが足を止める。
翔は先生の横を抜けた。
「翔!」
「危ないよ!」
先生が腕を掴もうとする。
翔は止まらなかった。
「このまま行かせられない」
「翔くん」
ホシノが振り返る。
「戻って」
「それはこっちの台詞だ」
「翔くんは戦えないでしょ?」
「……」
表向きなら、その通りだった。
風紀委員会から派遣された調査協力者。
人工メモリについて詳しいだけの、ヘイローを持たない少年。
銃撃を受ければ、生徒たちのようには済まない。
だから、ここで前へ出る理由などない。
けれど。
このままならホシノは行く。
シロコたちは既に押し切られた。
先生がどれほど優れた指揮官でも、動かす生徒たちがこれ以上戦えば、今度こそ誰かが無理をする。
なら。
翔の手が、ゆっくりと自分の懐へ伸びた。
ホシノの目が、その動きを追う。
「……」
翔は迷った。
ここには先生がいる。
シロコも。
セリカも。
ノノミも。
アヤネも通信越しに見ている。
ここで使えば、今まで守ってきたものが全部崩れる。
正体を隠してきた意味も。
マスターや風紀委員会と決めてきたことも。
それでも。
ホシノを一人で行かせるよりは。
「……悪い」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
翔の指が服の内ポケットへ入り、冷たい金属へ触れる。
引き出す。
黒と銀を基調とした、アルファベットのLを思わせる形状。
ロストドライバー。
すべてを取り出すより先に。
ホシノの目が大きく開いた。
「……」
その形。
何度も見た。
黒い仮面の戦士の腰に装着されていたもの。
地下施設。
人工メモリ事件。
翔がいなくなった後に現れたジョーカー。
ジョーカーが去った後に戻ってきた翔。
そして今。
ばらばらだった違和感が、初めて一本に繋がった。
「……やっぱり」
小さな声だった。
「え?」
翔が顔を上げる。
その瞬間には、ホシノが目の前にいた。
「な――」
速い。
翔がドライバーを引き抜くより先に、ホシノの左手が彼の手首を押さえた。
盾は身体の向きを隠すように立てられ、後方にいる先生たちから翔の手元を遮っている。
「ホシノ……?」
至近距離。
ホシノだけが、翔の手の中にあるものをはっきり見ていた。
「本当に翔くんだったんだねえ」
囁くような声。
翔の表情が固まる。
「お前……」
「地下の時から、ちょっとだけ変だと思ってた」
「……」
「この前ので、もっと怪しくなって」
ホシノはほんの少しだけ笑った。
「今ので答え合わせ」
翔が何か言おうとした。
その前に、ホシノがさらに身体を寄せる。
「待て、ホシノ。だったらなおさら――」
「だからだよ」
「何?」
「翔くんは渡せない」
低い声。
後ろには届かない。
「黒服は、仮面ライダーでもいいって言った」
翔の目が見開かれる。
「おじさんが行かなかったら、今度は翔くんが狙われるかもしれない」
「そんなの――」
「分かってるよ」
ホシノの表情から笑みが消えた。
「翔くんなら、自分から行きかねないってことも」
「……!」
昨夜の会話。
危ないところへ行くこともある、と認めた翔。
助けられるなら助ける、と言った翔。
今も正体を晒してでも自分を止めようとしている。
「だから、ごめん」
ホシノが翔の手からロストドライバーを押し戻す。
服の内側へ。
外からは見えない位置へ。
「何する気だ」
「ちょっと寝ててもらうだけ」
「待て!」
翔が抵抗するより、ホシノの方が早かった。
一瞬で懐へ入り、逃げ場を奪う。
翔は腕を振りほどこうとしたが、ホシノの技量は生身の格闘でも遥かに上だった。
「ホシノ!」
先生が異変に気づき、駆け出す。
ホシノは翔の身体を受け止めるように抱え込み、意識を落とすための一撃を最小限の力で入れた。
「っ……」
翔の身体から力が抜ける。
倒れる前に、ホシノが支えた。
「翔!」
先生たちが駆け寄る。
ホシノはゆっくり翔を地面へ寝かせた。
「何したのよ!」
セリカが叫ぶ。
「大丈夫。気を失ってるだけ」
「大丈夫じゃないでしょ!」
シロコが翔の側へ膝をつく。
「息はある」
「当たり前だよ。そんなに強くやってないから」
「ホシノ!」
先生の声に、ホシノが振り返る。
その顔に、もう迷いはなかった。
「先生」
「……何?」
「翔くんのこともお願い」
「自分でお願いして」
「それは無理かなあ」
ホシノは少しだけ笑った。
そして、意識を失った翔へ視線を落とす。
誰にも聞こえないほど、小さく。
「先生と、みんなのこと……お願いね、翔くん」
そこに続く言葉を、ホシノは飲み込んだ。
仮面ライダーさん。
今ここでそれを口にすれば、翔が守ってきた秘密を自分が壊すことになる。
だから言わない。
代わりに、ほんの一瞬だけ翔へ目を向ける。
ロストドライバーは、誰にも見えていない。
ホシノは立ち上がった。
「待って」
シロコも立とうとする。
だが、先ほどまでの戦闘で呼吸が荒い。
セリカもノノミも同じだった。
先生は翔の状態を確認するため、その場を離れられない。
ホシノは皆を見回した。
「……ありがとう」
「何で今それ言うのよ!」
セリカの目に涙が滲む。
「お礼なんかいいから戻ってきなさいよ!」
「ごめんね、セリカちゃん」
「謝らないで!」
ノノミも唇を噛む。
「ホシノ先輩……」
「ノノミちゃんも、アヤネちゃんも」
『ホシノ先輩!』
端末からアヤネの声が響く。
「ちゃんとみんなで学校守ってね」
『嫌です! ホシノ先輩も一緒に――』
「シロコちゃん」
最後に、ホシノはシロコを見る。
「……」
シロコは何も言わない。
ただ、真っ直ぐホシノを見ていた。
「そんな顔しないでよ」
「戻って」
「……」
「まだ間に合う」
昨夜、翔がホシノへ言ったのと同じ言葉だった。
ホシノは少しだけ目を伏せる。
「うん」
そして、笑う。
「知ってる」
それでも。
今度こそ、背を向けた。
誰も追ってこられないように。
それでも誰一人、必要以上に傷つけることなく。
ホシノは校門を抜けていく。
シロコは追おうとして、一歩踏み出した。
足が止まる。
先生の腕の中には、まだ意識を失った翔がいる。
セリカもノノミも傷こそないが、戦闘の疲労が大きい。
追えばいい。
それでも追いついたところで、また同じことになる。
「……ホシノ先輩」
握った拳が震える。
砂を含んだ朝の風が校門を通り抜ける。
その向こうで。
小鳥遊ホシノの背中が、少しずつ遠ざかっていった。
* * *
アビドス高等学校を出てから、ホシノは一度も振り返らなかった。
端末に送られてきた座標を頼りに、人気のない道を歩いていく。背後に学校が遠ざかっていくにつれ、さっきまでの声も少しずつ聞こえなくなっていった。
それでも、最後に見た翔の姿だけは妙に鮮明に残っている。
服の内側から取り出しかけた、ドライバー。
「……本当に、翔くんだったんだねえ」
あの場で変身させなくてよかった、とホシノは思った。
正体を隠してきたはずなのに、それを捨ててまで自分を止めようとしたのだ。あのまま放っておけば、きっと最後まで止まらなかった。
「困った人だなあ」
誰のことを言っているのか、自分でも分かっている。
指定されたのは、アビドス自治区の外れに残る古い事務施設だった。
砂に削られた看板を横目に建物へ入り、薄暗い通路を進む。使われなくなって久しい施設のはずだが、奥の一室だけは人を迎える準備が整えられていた。
机の向こうに、黒服が立っている。
「お待ちしておりました、小鳥遊ホシノさん」
「どうも」
黒服の視線が、ホシノの盾に残る新しい弾痕へ向いた。
「少々、時間が掛かったようですね」
「後輩に見つかっちゃってねえ」
「なるほど」
「詳しく聞かないんだ?」
「貴女がここへ来た。それで十分です」
ホシノは僅かに目を細める。
「じゃあ本題にしよっか。昨日の話、本当に守れるんだよね?」
「条件が成立すれば」
「その条件を確認しに来たんだよ」
「ええ。ですから、こちらを」
黒服が机上の端末を操作する。
契約書が表示された。
ホシノは椅子へ座らず、そのまま内容を読み始める。最初の数ページを流したところで、指が止まった。
「……これじゃ駄目だね」
「どの部分でしょう?」
「アビドス高等学校と対策委員会への攻撃を止める。それだけじゃ足りないよ」
「と、仰いますと?」
「柴大将たちは学校の生徒じゃない」
黒服は黙って続きを促した。
「先生も違う。学校に協力してくれてる人もいるし、アビドスで普通に暮らしてる人だっている。またそこを狙われたら、おじさんがここに来た意味がないでしょ?」
「対象範囲を拡大しろ、と」
「うん」
「かなり広範囲になりますが」
「嫌なら帰るよ」
ホシノは端末から顔を上げた。
しばらく二人の視線がぶつかる。
「……よろしいでしょう」
黒服が条項を書き換え始めた。
「アビドス高等学校、対策委員会構成員、シャーレの先生、自治区内の一般居住者。そして同校との継続的な協力関係が確認される個人及び事業者。こちらでいかがでしょう」
「誘拐も駄目だよ」
「もちろん武力行使に含まれます」
「誰かにやらせるのも」
黒服の手が一瞬だけ止まる。
「昨日みたいに、連れ去って変なものを身体に入れるのもなし。カイザーが直接やらなくても、金を払って他の連中にやらせたら同じだからね」
「……随分と念入りですね」
「一回やられてるからねえ」
「承知しました」
新たな文言が追加される。
ホシノは変更された部分を確認してから、次へ進んだ。
「それと、仮面ライダー」
今度は黒服がホシノを見る。
「彼も対象に?」
「うん」
「アビドスの所属ではありませんが」
「何度も助けてもらってるからね」
「以前、貴女自身の代わりとして提示した相手でもあります」
「だから何?」
声は穏やかだった。
しかし、その目に揺らぎはない。
「仮面ライダーは渡さないよ」
「……なるほど」
黒服は少し間を置き、条項を追加した。
「では、カイザー側から仮面ライダーを捕獲、研究、実験等の目的で積極的に追跡する行為も停止対象としましょう。ただし、彼自身がカイザー施設への攻撃などを行った場合は例外とします」
「向こうから何もしなければ狙わない。それならいいよ」
「私についても同様の条件をご希望で?」
「あんたはカイザーじゃないからね」
「用心深いことで」
「信用してないって昨日から言ってるでしょ」
「ええ」
黒服は楽しげに頷いた。
「では私から積極的に捕獲を試みることも控えましょう。彼が自ら私の前へ現れた場合までは保証いたしかねますが」
「……分かった」
ホシノはそれ以上を求めなかった。
翔なら、来るかもしれない。
その考えが浮かんだが、すぐに契約書へ意識を戻した。
数ページ進めたところで、また目が止まる。
「これは残るんだ」
「何がでしょう?」
「借金」
そこには債権回収、担保権の実行、土地及び施設の明渡しなど、いくつもの項目が並んでいた。
「当然です」
「攻撃はしない。でも、学校の土地は取りに来る」
「債務契約は今回の件とは別問題ですから」
「随分きっちり分けるんだねえ」
「企業ですので」
黒服は平然としている。
ホシノはしばらく条文を眺めていた。
「……ここは変えられない?」
「カイザーが受け入れないでしょう」
「そっか」
それ以上は言わなかった。
学校まで守れる契約なら、それに越したことはない。
だが、最初からそこまで都合のいい話だとは思っていなかった。
「みんなに直接手を出さない。それだけは絶対なんだよね?」
「契約に記された範囲であれば」
「……ならいい」
ホシノは次の項目へ進んだ。
今度は、自分について書かれていた。
契約成立後は指定施設へ移送され、検査及び研究に協力すること。許可のない外出や通信は禁止。研究内容について原則として拒否権を持たない。
ホシノは最後まで読み、黒服へ視線を向けた。
「いつ帰れるの?」
「お約束はできません」
「研究が終わったら?」
「その時点で判断されます」
「じゃあ、帰れる保証はなし」
「はい」
「正直だねえ」
「ここで偽る必要もありませんから」
「それもそうか」
ホシノは小さく息を吐いた。
「今なら、まだ契約前です」
「帰ってもいいって?」
「ええ」
「それ言って、おじさんが帰ると思ってる?」
「確認ですよ」
黒服の声は変わらない。
「貴女自身が選んだという事実は重要ですので」
「……趣味悪いなあ」
「そうでしょうか?」
「褒めてないよ」
署名欄が表示される。
ホシノはそこへ指を伸ばしかけ、一度止めた。
シロコの顔が浮かぶ。
セリカも、ノノミも、アヤネも。
先生も。
そして最後に、ロストドライバーへ手を伸ばした翔。
『一人じゃないから、勝手に決めちゃ駄目なんじゃないか?』
「……ごめんね」
「何か?」
「何でもないよ」
ホシノは黒服を見る。
「最後に確認するね。おじさんがこの契約を受ければ、対策委員会にも、先生にも、アビドスの人たちにも直接手を出さない。誘拐も、昨日みたいな実験も、外部の連中を使うのもなし」
「はい」
「仮面ライダーも、向こうから仕掛けない限りは追わない」
「その通りです」
「借金の取り立ては別」
「ええ」
「……分かった」
ホシノは署名欄へ指を置いた。
短い認証音が鳴る。
「契約成立です」
それを合図にしたように、部屋の奥の扉が開いた。
カイザーの警備要員が数名現れる。
ホシノは彼女たちを一瞥した後、自分からショットガンを机へ置いた。盾を外す時だけ、動きが少し止まる。
「装備はこちらで預かります」
「ちゃんと返してよ?」
「返却できる状況になれば」
「そういうところだけ正直だなあ」
最後に端末を取り出す。
画面にはいくつもの通知が並んでいた。
セリカ。
アヤネ。
先生。
そして、その一番上に新しく表示された名前。
翔。
「……起きたんだ」
内容は開かなかった。
開けば、何が書いてあるか何となく分かる。
ホシノは画面を伏せるようにして机へ置いた。
「それでは参りましょう」
「はいはい」
武器も盾も端末も残し、奥の扉へ向かう。
「小鳥遊ホシノさん」
「何?」
「後悔は?」
ホシノは少し考えた。
「するんじゃない?」
「それでも進むと」
「もう署名しちゃったからねえ」
いつものように笑ってから、少しだけ声を落とす。
「それに……後悔するなら、みんなが無事な方がいいよ」
黒服は何も返さなかった。
ホシノも答えを求めず、そのまま扉の向こうへ進む。
背後で扉が閉まり始めた。
狭くなっていく隙間の向こうに、砂に覆われたアビドスの街が見える。
ホシノは最後までそこを見ていた。
「……怒ってるだろうなあ」
扉が閉じる。
今度こそ、外の光が見えなくなった。