青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
黒服とジョーカーが交戦を始めた頃、先生たちは研究区画のさらに奥へ進んでいた。
搬送用の設備はほとんど見られなくなり、代わりに強化ガラスで仕切られた観測室や、用途の分からない測定装置が並んでいる。廊下の照明は白く、清潔に保たれた床へ赤い警告灯の光が繰り返し落ちていた。
先頭を進むシロコが角を曲がるたびに周囲を確認し、その後ろからセリカが続く。先生とアヤネを挟むように、ノノミが最後尾を守っていた。
「アヤネ、あとどのくらい?」
「もう少しです。この先の区画だけ、ほかと比べて電力消費がかなり大きいんです。大型の測定設備が動いているのかもしれません」
「……そこにホシノ先輩がいるのね」
セリカの足が速くなる。
「セリカ」
シロコが短く呼びかけた。
「分かってる。勝手に飛び出したりしないわよ」
そう答えたセリカだったが、銃を握る手には力が入ったままだった。
先生は二人の様子を見ながら、端末に表示された通路の配置を確認した。目的の区画へ向かうには、まだ警備室を一つ通り抜ける必要がある。
「シロコ、前をお願い。今度はできるだけ静かに抜けよう」
「ん」
シロコが壁際へ寄り、次の角を慎重に覗いた。
「警備、三人。奥に扉」
「左側に整備用の連絡路があります。そこからなら、警備室の横へ出られそうです」
アヤネの報告に、先生は頷いた。
「それで行こう」
一行は細い連絡路へ入り、壁沿いに進んだ。むき出しの配管が頭上を走り、時折、すぐ向こう側から警備兵の話し声が聞こえてくる。
やがて警備室の脇に辿り着くと、先生は全員の位置を確認した。
シロコとセリカが左右へ分かれ、ノノミがその後ろで大型機関銃を構える。先生が指で合図を送ると、二人はほぼ同時に連絡路から飛び出した。
短い銃声が響く。
シロコが正面の兵士を遮蔽物へ押し戻し、セリカが反対側から回り込む。警備兵たちは突然の挟撃に対応しきれず、ノノミが入口へ銃口を向けた頃には、すでに退路を探し始めていた。
「これ以上、抵抗しないで!」
先生の声が通る。
警備兵たちは互いに顔を見合わせると、銃を下ろして後退した。
シロコが室内を確認し、先生へ合図を送る。
「確保した」
「ありがとう。みんな、先へ行こう」
警備室を抜けた先には、これまでとは造りの違う隔壁が待ち受けていた。分厚い金属製の扉には複数の認証装置が取り付けられ、その上には赤い文字で立入制限を示す表示が灯っている。
アヤネが操作盤へ端末を接続した。
「……かなり厳重です」
「開けられそう?」
「少し待ってください」
画面に認証要求が現れる。アヤネは素早く操作を続けたが、何度試しても拒否を示す赤い表示が消えなかった。
「もう、じれったいわね……!」
セリカが扉を睨む。
「壊しちゃ駄目なの?」
「内部の安全装置まで作動するかもしれません。何があるか分からない以上、それは最後の手段にしたいです」
「……そっか」
先生はアヤネの隣へしゃがみ、画面を覗き込んだ。
「今まで通ってきた区画と、ここの設備は完全に別なの?」
「隔壁の制御は独立しています。でも、非常時の保安設備だけは施設全体と繋がっています」
「じゃあ、そっちからは?」
アヤネは一瞬目を見開くと、すぐに画面を切り替えた。
「……非常退避用の解錠信号!」
今度は、すぐに反応があった。
赤く灯っていた認証表示が黄色へ変わり、扉の向こうから重いロックの外れる音が響き始める。
「開きます!」
セリカが息を呑んだ。
分厚い隔壁がゆっくりと左右へ動き、その向こうに広い実験室が姿を現した。
白い床にはいくつもの機材が並び、天井から吊り下げられた大型の走査装置が低い音を立てている。室内の中央には、そこから伸びる無数のケーブルと測定用のセンサーが、一脚の椅子を取り囲むように集まっていた。
そして、その椅子には――。
「……ホシノ先輩?」
セリカの声が震えた。
椅子に固定されていたのは、小鳥遊ホシノだった。
両手首には拘束具が嵌められ、腰と脚にもベルトが巻きつけられている。いつも持ち歩いているショットガンも盾もなく、制服の上から取り付けられたセンサーが、身体の状態を絶えず測定していた。
先生たちが入ってきても、ホシノはすぐには顔を上げなかった。
「……ホシノ先輩!」
今度こそ、セリカが駆け出した。
その声に、ホシノの肩が小さく動く。
ゆっくりと顔を上げた彼女の目が、セリカを捉えた。次にシロコ、ノノミ、アヤネ。そして先生へと移っていく。
何度か瞬きをした後、ホシノは信じられないものを見るように、もう一度全員の顔を見渡した。
「……え?」
掠れた声が漏れる。
「なんで……みんなが……?」
「なんでじゃないわよ!」
セリカは椅子のすぐ前で足を止めた。
「迎えに来たに決まってるでしょ!」
ホシノは答えなかった。
すぐ近くまで歩み寄ったシロコも、拘束されたホシノの姿を見て、静かに銃を下ろした。
「ホシノ先輩。見つけた」
「シロコちゃん……」
「もう大丈夫ですよ」
ノノミも隣へ進み出た。いつもの柔らかな笑顔を浮かべようとしたものの、目の前の姿を見て、結局うまく笑えなかった。
「……本当に、心配したんですから」
アヤネは端末を胸元へ抱えたまま、しばらく言葉を出せずにいた。
その後ろから、先生がゆっくりと歩み寄る。
「迎えに来たよ、ホシノ」
ホシノは一度俯き、再び顔を上げた。
そこには、再会を喜ぶ表情よりも先に、はっきりとした動揺が浮かんでいた。
「……駄目だよ」
「ホシノ?」
「みんな、帰って」
セリカの動きが止まった。
「……は?」
「おじさんは、ここにいないと駄目だから」
ホシノは拘束された手を僅かに動かした。金属製の器具が、小さく音を立てる。
「私がここにいれば、みんなには手を出さないって……そういう話だったんだよ」
「何よ、それ……」
セリカの表情が強張る。
先生はホシノの目線に合わせて腰を落とした。
「ホシノ。その話なら、黒服から聞いてるよ」
「……先生?」
「あなたが対策委員会を正式に辞めていない以上、あの取引は成立していない。黒服自身が認めたことだよ」
ホシノの目が見開かれた。
「……そんな」
「だから、ここに残る必要はない。あの男が言ったことに、貴方を縛る力なんてないんだよ」
ホシノはしばらく先生を見つめていた。
その言葉を理解するにつれ、表情が少しずつ変わっていく。けれど、やがて何かを思い出したように顔を曇らせた。
「……でも」
小さな声が漏れる。
「約束がなくなったら、あいつら、また別の方法でみんなを狙ってくるかもしれないじゃん」
ホシノは俯き、拘束された手を僅かに動かした。
「柴大将たちだって巻き込まれた。アビドスに関わってくれてる人たちまで、あんな目に遭ったんだよ……」
その声が、徐々に弱くなっていく。
「おじさんが帰ったせいで、また誰かが傷ついたら……今度こそ、取り返しがつかないことになったら……」
「……ホシノ先輩」
「私がここにいれば、それで済むかもしれないんだよ。だったら……」
「済まないわよ!」
セリカの声が、実験室に響いた。
ホシノが驚いて顔を上げる。
「柴大将たちが大変な目に遭ったからって、ホシノ先輩までいなくなっていいわけないでしょ!」
「でも、セリカちゃん……」
「でもじゃない! 私達だって、柴大将達の事は悔しかったわよ! だからって、ホシノ先輩一人に全部背負わせるなんて、そんなの絶対に嫌!」
セリカは目元を乱暴に擦った。
「……ホシノ先輩がいなくなってから、学校に行くたびに、いつも座ってるところが空いてて……。みんな、何でもないみたいにしてたけど、全然そんなことなかったんだから……!」
ホシノは何も言えず、セリカを見つめた。
その隣へ、シロコが歩み寄る。
「私も、嫌だった」
静かな声だった。
「ホシノ先輩がいないのに、いつも通り学校に行くのも。みんなで何かを決める時に、ホシノ先輩に聞けないのも」
「シロコちゃん……」
「先輩が私達を守りたいのは分かる。でも、私達も先輩を守りたい」
シロコはホシノの手首に嵌められた拘束具を見つめた。
「だから、今度は私達の番」
ホシノが僅かに唇を噛んだ。
ノノミはそんな彼女の前へしゃがみ込み、そっと肩に手を添えた。
「ホシノ先輩。ずっと頑張ってくれていたのは、みんな知っています」
「……」
「でも、疲れた時くらい、私達を頼ってください。先輩が一人で背負わなくても、私達はちゃんとここにいますから」
ホシノの目が揺れる。
「……おじさん、一番先輩なのになぁ」
いつもの調子を取り戻そうとするように、弱々しく笑った。
「後輩にばっかり心配掛けちゃって……格好つかないねえ」
「そんなこと、ないです……!」
それまで黙っていたアヤネが、ようやく声を上げた。
抱えていた端末を脇へ置き、ホシノの前へ歩み寄る。
「ホシノ先輩がいてくれたから、今まで頑張ってこられたんです。先輩が学校を守ろうとしてくれたことも、私達のために無茶をしてくれたことも、全部分かってます」
アヤネの目から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「でも……もう、いなくならないでください」
ホシノが息を呑む。
「先輩が帰ってこないかもしれないって考えるの、もう嫌なんです……」
アヤネは両手で目元を押さえた。
その肩を、ノノミがそっと抱き寄せる。
実験室には、測定装置の駆動音だけが残った。
ホシノは俯いたまま、長い間何も言わなかった。
先生はその沈黙を急かさず、ただ傍らにいた。
やがて、ホシノがぽつりと呟く。
「……怖かったんだよ」
今までのどの言葉よりも、小さな声だった。
「また、誰かがいなくなるんじゃないかって。おじさんが何もしなかったせいで、みんなが傷つくんじゃないかって……」
拘束された指先が、小さく震えた。
「だから、一人で何とかしなきゃって思ったんだけど……」
そこから先の言葉が続かなかった。
先生はホシノの目線に合わせたまま、静かに口を開いた。
「うん。怖かったんだね」
ホシノは頷いた。
「でも、ホシノ。私達も怖かったよ」
「……先生?」
「あなたが帰ってこないかもしれないって思ったら、すごく怖かった。だから、みんなでここまで来たの」
先生はホシノの拘束された手に、自分の手を重ねた。
「これからも危ないことはあると思う。黒服もカイザーも、簡単には諦めないかもしれない」
その言葉に、ホシノの目が揺れる。
「でも、それはホシノ一人で考えなきゃいけないことじゃないよ。私もいるし、みんなもいる」
先生は四人を振り返った。
誰一人、帰ろうとはしていなかった。
「ホシノ。みんなと一緒に、帰らない?」
ホシノはゆっくりと顔を上げた。
セリカは涙を拭いながらこちらを見ている。シロコはいつもの落ち着いた表情のまま、じっと返事を待っていた。ノノミはアヤネの肩を抱き、二人ともホシノから目を離さない。
その顔を、一人ずつ見つめる。
ずっと守ろうとしてきた、大切な後輩たち。
自分がいなくても、きっと大丈夫だと思いたかった。
けれど、目の前にいる四人は、それを望んでいなかった。
「……ずるいなあ、みんな」
ホシノが、小さく笑った。
今度は、無理に作った笑顔ではなかった。
「そんな顔されたら……おじさん、帰りたくなっちゃうじゃん」
「だったら、帰ればいいでしょ……!」
セリカが、泣きながら言い返した。
「最初から、そう言ってるじゃない……!」
「……うん」
ホシノは頷いた。
堪えようとしていた涙が、頬を伝って落ちる。
「……帰りたい」
震える声だった。
「みんなと……一緒に帰りたいよ……」
セリカが、とうとう泣き出した。
「もう……! だったら早く言いなさいよ……!」
ホシノは涙を拭こうとしたが、両手はまだ拘束されたままだった。その様子を見たアヤネが慌てて端末を取り上げる。
「す、すぐに外します!」
アヤネは椅子の操作盤へ端末を接続した。拘束具の制御画面を開き、解錠操作を始める。
ほどなくして、ホシノの両手首を固定していた器具から小さな電子音が鳴った。
金属製の拘束具が開き、続いて腰と脚のベルトも外されていく。
「……あ」
自由になった手を、ホシノがゆっくりと持ち上げた。
その瞬間、セリカが飛びついた。
「ホシノ先輩……!」
「わっ……セリカちゃん?」
勢いを受け止めきれず、ホシノの身体が僅かに揺れる。
「ほんとに……ほんとに心配したんだから……!」
「……ごめんね、セリカちゃん」
ホシノはようやく自由になった手を伸ばし、セリカの背中へ回した。
シロコも二人のすぐ隣へ歩み寄る。
「ホシノ先輩」
「うん……シロコちゃんも、ごめんね」
「……おかえり」
その一言に、ホシノはとうとう声を詰まらせた。
ノノミとアヤネも近づき、四人がホシノを囲む。
「おかえりなさい、ホシノ先輩」
「……おかえりなさい……!」
後輩たちの声を聞きながら、ホシノは全員の背中へ腕を回そうとした。けれど、四人を一度に抱きしめるには腕が足りず、結局、みんなに抱きつかれるような格好になってしまった。
「……もう」
涙混じりの笑い声が漏れる。
「みんな、大きくなったなぁ……」
いつものように、少しだけ年寄りぶった言い方だった。
それを聞いたセリカが、ホシノの肩に顔を埋めたまま言い返す。
「……ホシノ先輩だって、まだ子供でしょ」
「……そうだねえ」
ホシノはしばらく目を閉じ、四人を抱きしめた。
先生はその光景を、少し離れた場所から見守っていた。
やがてホシノが顔を上げると、先生と目が合った。
「……先生」
「うん?」
「ありがとう。……迎えに来てくれて」
先生はようやく笑った。
「どういたしまして」
それから、少しだけおどけた調子で付け加える。
「でも、お礼はみんなにも言ってあげてね。私一人じゃ、ここまで来られなかったから」
「……うん」
ホシノは、もう一度四人の顔を見渡した。
「みんな……ありがとう」
誰も、すぐには返事をしなかった。
ただ、セリカが抱きつく腕にもう一度力を込め、シロコが小さく頷く。ノノミは目元を拭いながら笑い、アヤネは泣き笑いのまま、何度も頷いていた。
その様子を見て、先生も静かに息を吐いた。
ようやく、五人が揃った。
けれど、ここはまだ敵の基地の奥深くだった。
先生はしばらく再会の時間を見守ってから、ゆっくりと声を掛けた。
「……みんな。そろそろ帰ろうか」
四人が顔を上げる。
ホシノも頷いたが、椅子から立ち上がろうとしたところで、僅かに身体がふらついた。
「っと……」
「ホシノ先輩!」
すぐにノノミが肩を支える。
「……あはは。ちょっと、座りっぱなしだったからかな」
「無理しないでくださいね。私が肩を貸しますから」
「ありがと、ノノミちゃん」
先生はホシノの状態を確認してから、端末を取り出した。
「アヤネ、地上との通信は?」
「繋がっています。少し不安定ですけど、連絡は取れます」
「じゃあ、ヒナに救出できたことを伝えて。私達はこれから脱出するって」
「はい!」
アヤネが通信を始める間に、シロコとセリカは部屋の入口へ移動し、ノノミはホシノを支えながら立ち上がらせた。
先生は一度だけ、まだ稼働を続けている測定装置を振り返る。
ホシノが拘束されていた椅子の上では、誰も座っていないことなど気にも留めず、走査装置が低い音を立てていた。
先生は操作盤に手を伸ばし、その電源を落とした。
機械の駆動音が止み、実験室に静けさが戻る。
「よし。行こう」
「ん」
シロコが先頭に立つ。
セリカはそのすぐ後ろを進み、アヤネが施設図で帰路を確認する。ノノミに肩を借りたホシノも、ゆっくりと歩き始めた。
実験室の出口へ差し掛かったところで、ホシノが一度だけ振り返った。
さっきまで、自分はあの椅子から動けなかった。
もう帰れないかもしれないと、どこかで思っていた。
けれど今は、すぐ隣にノノミがいる。少し前ではセリカとシロコが先を警戒し、アヤネと先生が帰る道を探してくれている。
ホシノは小さく息を吐き、前へ向き直った。
「……帰ろうか、みんな」
「当たり前でしょ!」
セリカが振り返る。
「今度こそ、ちゃんと一緒に帰るんだからね!」
「……うん」
ホシノは、いつものように笑った。
「おじさん、置いていかれないように頑張らないとねえ」
その言葉に、四人の表情がようやく和らいだ。
先生は全員が通路へ出たことを確かめると、通信機へ手を伸ばした。
地上の防衛線は、まだ戦い続けている。そして翔も、黒服との戦闘を終えたという連絡はない。
それでも、ホシノは取り戻した。
* * *
地下研究区画を出た先生たちは、地上へ続く搬送路を引き返していた。
先頭をシロコが進み、その後ろをセリカが警戒しながら続く。先生とアヤネを挟み、最後尾ではノノミがホシノへ肩を貸していた。
「ノノミちゃん、そんなに支えてくれなくても大丈夫だよ。おじさん、まだ歩けるから」
「駄目です。さっきもふらついてたじゃないですか」
「ずっと座らされてたからねえ。ちょっと足が鈍ってるだけだよ」
「そういうこと言う人ほど信用できないの!」
前を歩いていたセリカが振り返る。
「今は大人しくしてなさい!」
「はいはい……」
ホシノは困ったように笑った。
いつものように後輩たちから小言を言われる姿に、先生も少しだけ表情を緩める。つい先ほどまで、ホシノは自分だけがここへ残ればいいと考えていた。それが今では、こうしてみんなと一緒に帰ろうとしている。
けれど、まだ基地から脱出できたわけではない。
天井の警告灯は赤く点滅し続け、地上の方角からは断続的な銃声が響いている。ヒナたちが搬入口を守ってくれている間に、何としても外へ出なければならなかった。
「アヤネ、帰り道はどう?」
「来た経路なら追えています。ただ……」
アヤネが端末を操作しながら眉を寄せた。
「さっきから、いくつかの隔壁が遠隔操作で閉じられています。完全に封鎖されているわけではありませんが、通れる道が少なくなっています」
「……私たちの進路を絞ってる?」
「その可能性があります」
先生が表情を引き締めた、その時だった。
「先生」
先頭のシロコが足を止める。
「前、静かすぎる」
確かに、研究区画を出てからというもの、追手らしい追手には一度も遭遇していなかった。
ホシノを連れ出されたというのに、カイザー側が黙って見送るとは考えにくい。地上でヒナたちが増援を食い止めているとしても、地下の警備兵まで姿を消しているのは不自然だった。
「……みんな、警戒して」
先生の声に、一行の空気が変わった。
シロコとセリカが銃を構え直し、ノノミもホシノを支えながら、いつでも前へ出られる位置へ移動する。アヤネは端末で周辺の隔壁を確認し、先生はその画面を覗き込んだ。
現在地から地上の搬入口へ戻るには、少し先にある大型の搬送ホールを通過する必要がある。ほかの通路は、すでに閉鎖されていた。
「……やっぱり、待ってるのかな」
先生が呟く。
「だったら、突破するだけ」
シロコはそう答え、再び歩き始めた。
やがて通路が開け、大型車両を搬送するための広いホールが現れた。高い天井にはクレーンが走り、左右には資材を積んだパレットや大型コンテナが並んでいる。その奥には、地上へ続く貨物用昇降機が見えた。
そして、その手前に一人の男が立っていた。
「……やはり、この経路を使ったか」
低い声がホールへ響く。
セリカの表情が強張った。
「……あんた!」
ホシノも足を止める。
「カイザー理事……」
理事は先生たちを順に見渡し、最後にノノミに支えられているホシノへ視線を向けた。
「随分と手間を掛けさせてくれたものだな、小鳥遊ホシノ」
ホシノは答えなかった。
理事は苛立たしげに鼻を鳴らす。
「ようやくアビドスから切り離せたというのに、わざわざ迎えに来るとは」
「……やっぱり、それが目的だったんだね」
先生が静かに問いかける。
「何を今さら」
理事は隠すつもりもない様子で答えた。
「アビドス高等学校は、すでに債務で首が回らん。生徒数も減り、学校としての体力も限界に近い。あとは我々が土地の整理を進めれば、それで済む話だった」
その視線が、再びホシノへ向けられる。
「だが、ただ一人――その女だけは別だ」
「ホシノ先輩を物みたいに言わないで!」
セリカが声を上げる。
「事実を述べているだけだ」
理事は意に介さない。
「小鳥遊ホシノ。アビドスの戦力の中心であり、後輩どもをまとめる厄介な存在だ。貴様が学校から離れたことで、ようやく状況は動き始めたというのに……」
そこで、理事の声が低くなる。
「今さら元に戻されてたまるか」
先生は、奥にある貨物用昇降機へ一度だけ目を向けた。
「……だから、ここで待ってたんだね」
「当然だ」
理事は即答した。
「貴様らが収容区画まで到達した時点で、こうなる可能性くらい考えていた。わざわざ地下の各所で兵を消耗させる必要もない。退路を絞って、ここで押さえれば済むことだ」
アヤネが端末へ目を落とした。
遠隔で閉鎖された隔壁。姿を見せない警備兵。そして、地上へ続く唯一の経路で待ち受けていた理事。
すべて、最初からそのつもりだったのだろう。
「そこを通して」
先生が告げた。
「ホシノは帰るって決めたよ」
「それがどうした?」
あまりにもあっさりとした返答だった。
「本人がどう考えようと、我々の事業には関係ない。貴様らがその女を連れ戻せば、アビドスはまた抵抗を続ける。せっかく取り除いた障害を、みすみす元へ戻すわけにはいかんのだよ」
「……まあ、そうだろうねえ」
それまで黙っていたホシノが、ゆっくりと口を開いた。
ノノミの肩を借りたまま顔を上げ、理事を見つめる。
「おじさんも、さっきまでは自分がいなくなれば全部丸く収まるのかなって思ってたんだけどね」
シロコたちが振り返った。
「でも、どうも違ったみたいだから」
ホシノは小さく息を吐いた。
「帰るよ。みんなと一緒に」
理事のアイセンサーが明滅する。
「……ならば、再びここへ置いていってもらうまでだ」
そう言って一歩踏み出した理事の前へ、シロコが進み出た。
「……通さない」
その隣にはセリカが並ぶ。
「ホシノ先輩は絶対に連れて帰るんだから!」
ノノミもホシノからゆっくりと離れ、二人の少し後ろへ立った。
「ホシノ先輩は、私たちの後ろにいてください」
「……みんな?」
戸惑うホシノに、アヤネがそっと手を添える。
「いつもホシノ先輩が私たちを守ってくれたじゃないですか」
アヤネは、いつものように端末を抱え直した。
「だから、今回は私たちに任せてください」
ホシノは四人を見つめた。
以前なら、真っ先に自分が前へ出ていたはずだった。後輩たちを危険に晒したくないからこそ、盾を構え、銃を手に取り、誰よりも先に敵へ向かっていく。
けれど今、彼女たちは誰一人としてホシノに戦うことを求めていなかった。
「……そっかあ」
ホシノは少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、今回はおじさん、みんなに甘えちゃおうかな」
「最初からそうしてればいいのよ!」
セリカが振り返らずに答える。
先生も頷き、ホシノへ目を向けた。
「アヤネと一緒に下がってて。必ず連れて帰るからね」
「……うん。お願い、先生」
ホシノはアヤネに支えられ、近くの大型コンテナの陰へ移動した。ノノミは二人が十分な距離を取ったことを確認してから、機関銃を構える。
理事はその様子を忌々しげに眺めていた。
「……茶番は終わったかね?」
スーツの内側へ手を伸ばし、一本のガイアメモリを取り出す。
それを見た先生の表情が変わった。
「……ガイアメモリ」
理事はその反応に満足したように鼻を鳴らすと、親指でスイッチを押し込んだ。
『MONEY!』
低い電子音が搬送ホールへ響き渡る。
理事の身体を異様な光が包み、人間の輪郭が崩れ始めた。肥大した胴体を重厚な外殻が覆い、全身に金銭を思わせる意匠が形成されていく。
やがて、異形の巨体が先生たちの前に立ち上がった。
「……さあ、取り立ての時間だ」
マネー・ドーパント。
先生は即座に全員の位置を確認した。
「シロコは右、セリカは左へ! ノノミはホシノを守れる位置から援護して。アヤネ、昇降機を動かす方法を調べて!」
「ん!」
「了解!」
「はい!」
三人がそれぞれの位置へ走り、先生も貨物用の大型コンテナの陰へ移動した。
シロコとセリカが左右から銃撃を加えると、マネーは太い腕で顔を庇った。弾丸が外殻を叩き、火花を散らすものの、その巨体はほとんど揺るがない。
「ふん! その程度の武器で、この私を倒せると思っているのか!」
マネーが腕を振ると、コイン状の光弾が放たれた。
「シロコ、右へ!」
先生の指示とほぼ同時に、シロコがコンテナの陰へ滑り込む。光弾がその角へ命中し、激しい音と共に破片が飛び散った。
「セリカ、今!」
「分かった!」
セリカが反対側から飛び出し、マネーの腕の付け根へ銃弾を集中させる。
巨体が僅かに揺れた。
「……小賢しい!」
マネーがセリカへ振り向いた瞬間、今度はシロコが遮蔽物から姿を現した。
左右から交互に浴びせられる銃撃に、マネーはどちらを先に狙うべきか判断を迫られる。その間にも、二人は一か所に留まらず、次々と射撃位置を変えていた。
先生はその動きを見ながら、相手の攻撃間隔を測っていた。
光弾を連続して放てるものの、腕を振り上げてから発射するまでには僅かな隙がある。身体が大きい分、素早く動くシロコたちを追って方向を変えるのも得意ではないらしい。
「ノノミ、次にシロコが右へ回ったら、左側面をお願い!」
「はい!」
シロコの射撃を追ってマネーが身体を回した瞬間、ノノミの大型機関銃が轟音を響かせた。
側面へ大量の弾丸を浴びせられ、マネーが初めて数歩後退する。
「ぐっ……!」
「効いてる!」
セリカが声を上げる。
しかし、先生は追撃を指示しなかった。
装甲が頑丈なのは明らかで、まだどの程度の攻撃が通用するのかも分からない。何より、ホシノを守りながら、限られた戦力で戦わなければならなかった。
「そのまま距離を維持して! 近づきすぎないでね!」
先生の指示に従い、シロコとセリカが再び左右へ分かれる。
その間にアヤネが昇降機の制御盤へアクセスを試みていたが、すぐに難しい顔になった。
「先生、昇降機が遠隔操作で停止されています! こちらから解除するには、もう少し時間が必要です!」
「分かった。無理に急がなくていいよ」
先生は短く答え、マネーへ視線を戻した。
相手はすでに態勢を立て直していた。
「……なるほど。随分と連携の取れた戦い方をするようだな」
マネーが、シロコとセリカを交互に見据える。
「だが、いくら動き回ったところで、貴様らの攻撃など大した意味はない!」
再び腕が振るわれ、光弾が連続して放たれた。
シロコとセリカがそれぞれ別の方向へ飛び込む。その隙を突いて、マネーは中央に積まれたコンテナへ視線を向けた。
その陰には、ホシノがいる。
「……そうだ。わざわざ貴様らを相手にする必要などなかったな」
マネーの指先に、一枚のコインが現れた。
それまで放っていた光弾とは違う、金属製の小さなコインだった。
「小鳥遊ホシノ! いつまで隠れているつもりだ!」
コインが投げ放たれる。
その狙いに、ノノミがいち早く気づいた。
「ホシノ先輩、危ない!」
ノノミは咄嗟に機関銃の射撃を止め、ホシノたちを庇うように一歩踏み出した。
次の瞬間、飛来したコインがノノミの右肩へ触れた。
「……え?」
ノノミの身体から、淡い光が溢れ出した。
肩に張り付いたコインがその光を吸い上げ、徐々に輝きを増していく。
「ノノミ、離れて!」
先生が叫ぶ。
ノノミはコインを振り払おうとした。しかし、手を肩へ伸ばしかけたところで、その動きが止まる。
握っていた機関銃が床へ落ちた。
「……ノノミちゃん?」
すぐ後ろにいたホシノが、異変に気づいて顔を上げた。
ノノミの膝が崩れる。
そのまま、身体が床へ倒れ伏した。
「ノノミ先輩!」
セリカの叫び声が響いた。
ノノミは返事をしなかった。
マネーの手元へ、光を蓄えたコインが戻っていく。
「ははは! どうだ、これがMONEYの力だ!」
理事は得意げにコインを掲げた。
「ライフコイン。相手の生命力を奪い、私のものとして蓄える! 実に便利な能力だろう?」
そして、コインを自らの腹部へ取り込んだ。
「……ノノミちゃん?」
ホシノが床へ膝をつき、倒れたノノミの肩へ手を添える。
「ねえ、ノノミちゃん。起きてよ……」
何度呼びかけても、返事はなかった。
先生は即座に状況を判断した。
「シロコ、マネーを牽制して! セリカはこっちに来て! アヤネ、ノノミの状態を確認して!」
「ん!」
シロコがマネーの右側へ走り、短い連射を浴びせる。その動きに気を取られた隙に、先生とセリカがノノミのもとへ駆け寄った。
「ノノミ先輩! ねえ、しっかりして!」
セリカが膝をつく。
アヤネは端末を脇へ置き、すぐにノノミの呼吸と脈を確かめた。
「……呼吸はあります。脈もあります! でも、呼びかけても反応しません……!」
ノノミは目を閉じたまま、まったく動かなかった。顔色は青白く、いつもの穏やかな表情からは想像できないほど弱々しい。
「ノノミ……」
ホシノは呆然と呟いた。
自分を守ろうとして、前へ出てくれた。
その結果が、これだった。
ホシノは震える手を握り締め、ゆっくりと立ち上がろうとした。
「……おじさんが、何とか――」
「ホシノ先輩!」
セリカが、その肩を押さえた。
「今はノノミ先輩のそばにいて!」
「でも……!」
「私たちが取り返すから!」
セリカの目には、涙が浮かんでいた。
それでも、ホシノを見つめる目には強い意志が宿っている。
「ノノミ先輩も、ホシノ先輩を守ろうとして前に出たんでしょ? だったら、ホシノ先輩がまた危ないところへ行ったら意味ないじゃない!」
ホシノは言葉を失った。
先生も、そっと彼女の肩へ手を置く。
「ホシノ、ノノミについていてあげて」
「……先生」
「今は、みんなを信じて」
ホシノはしばらく先生を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
先生はアヤネへ向き直る。
「アヤネ、ノノミの状態を見ていて。地上にも連絡して、救護の準備をお願い」
「はい!」
アヤネが端末を操作し始める。
先生は戦場へ視線を戻した。
シロコは一人でマネーの注意を引きつけていたが、相手の攻撃を避けながら戦い続けるのも限界がある。セリカを援護に戻さなければならなかった。
「セリカ、行ける?」
先生の問いに、セリカはノノミを一度だけ振り返った。
「……うん」
銃を握り直す。
「絶対に取り返す」
そう告げて、シロコの援護へ走った。
先生も遮蔽物の陰へ移動し、再び二人の動きを確認する。
「シロコ、左へ誘導して! セリカは反対側から牽制! 無理に倒そうとしなくていいから!」
「ん!」
「了解!」
二人は左右から射撃を加えながら、マネーとの距離を保ち続けた。
しかし、先ほどまでと違って、ノノミの機関銃による援護はない。シロコとセリカが交互に動くことで何とか相手の注意を分散させていたが、決定的な隙を作り出すことは難しくなっていた。
マネーはその様子を見て、得意げに笑った。
「どうした? 先ほどまでの勢いはどこへ行った!」
セリカが歯を食いしばる。
「……うるさい!」
反撃の銃弾がマネーの外殻を叩く。
だが、理事は意にも介さなかった。
「そんなことをしている間にも、あの小娘の生命力は私の中にあるのだぞ!」
その言葉に、先生の表情が変わった。
「……つまり。そのコインを取り戻せばいいんだね?」
「ほう。そこに気付くかね?」
マネーは愉快そうに腹部を叩いた。
「だがどうする? この身体には、ライフコインとして奪った生命力が蓄えられている。私を力ずくで倒せば、そのコインまで砕けてしまうかもしれんなぁ!」
セリカが息を呑む。
「……何ですって?」
「つまり、下手に私を攻撃すれば、あの女を助けられなくなるということだ!」
先生はマネーの腹部へ視線を向けた。
あの中に、ノノミから奪われたライフコインがある。
相手を倒すことだけを考えれば、もっと強引な手段もあるかもしれない。だが、その攻撃でコインを破壊してしまえば、取り返しがつかない。
「シロコ、セリカ! コインを取り戻すまでは、相手を倒そうとしないで!」
「ん!」
「分かった!」
二人は射撃位置を変え、マネーの動きを牽制することに徹した。
マネーはしばらくその攻撃を受け続けていたが、やがて、あることに気づいたように動きを止めた。
「……なるほど」
理事の視線が、戦場全体を見ながら指示を出し続けている先生へ向く。
「貴様がいるから、こいつらはここまで粘れるわけか」
先生は顔を上げた。
マネーが腕を振り上げる。
「ならば、まずは貴様から黙らせてやる!」
「先生!」
シロコが叫んだ。
コイン状の光弾が連続して放たれる。
先生は近くの遮蔽物へ向かって走ったが、一発目が進路を塞ぎ、二発目が足元へ着弾した。
「っ……!」
爆発の衝撃で体勢が崩れる。
三発目が、倒れかけた先生へ真っ直ぐに迫っていた。
シロコとセリカは、どちらも離れた場所にいる。
ホシノは意識を失ったノノミのそばから動けず、アヤネも彼女の状態を確認しながら地上との通信を続けていた。
先生が咄嗟に腕で頭を庇った、その瞬間。
横から飛び込んできた黒い影が、鋭い蹴りで光弾を弾き飛ばした。
軌道を逸らされた光弾が遠くの壁へ激突し、爆発する。
先生の前へ、黒い戦士が着地した。
「……悪い。遅れた」
聞き慣れた声だった。
「ジョーカー!」
仮面ライダージョーカー。
ナスカとの戦いを終えた黒い戦士が、ようやく追いついた。
黒い装甲には戦闘の汚れや僅かな焦げ跡が残り、立ち上がる際には左肩を庇うような動きも見られた。それでも、ジョーカーは先生の無事を確かめると、すぐに周囲へ視線を向けた。
ホシノは救出されている。
シロコも、セリカも、アヤネも無事だ。
だが、ホシノのすぐ隣で倒れているノノミの姿を見た瞬間、ジョーカーの動きが止まった。
「……ノノミ?」
先生がジョーカーの隣へ歩み寄る。
「あいつのライフコインで、生命力を奪われたの。今は意識が戻らない」
「生命力を……?」
「奪ったコインは、あいつの身体の中に取り込まれてる。先に取り戻さないと、ノノミを助けられない」
ジョーカーの視線がマネーへ向けられた。
その向こうでは、理事が黒い戦士の姿を認め、愉快そうな笑い声を上げていた。
「ははは! ようやく現れたか、仮面ライダー!」
ジョーカーは答えず、ゆっくりと拳を握った。
黒服との戦いで負った痛みは、まだ身体に残っている。それでも今は、立ち止まっている場合ではなかった。
「……まずは、ノノミの命を返してもらおうか」
マネーは鼻で笑い、太い腕を広げた。
「できるものなら、やってみるがいい!」
ジョーカーは腰を落とし、マネーの巨体を真っ直ぐに見据えた。
「さぁ……行くぜ!」