青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
明日からは仕事なのでここまでの速度で投稿はしないかと思います。
翌朝。
ゲヘナ自治区の近くにある、小さな喫茶店『ひだまり』。
店内には、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいた。
窓から伸びた陽射しが床を照らし、厨房からは包丁がまな板を叩く規則正しい音が聞こえてくる。淹れたばかりのコーヒーの香りと、焼き上がったパンの匂いが混ざり合い、店の中には穏やかな時間が流れていた。
昨日、ゲヘナの街であれほどの騒ぎが起きたとは思えないほどに。
「……よし」
翔は布巾を滑らせ、テーブルを一つ拭き終える。
そのまま次の席へ移り、奥まで拭こうと右腕を伸ばした。
「っ……」
肩に鈍い痛みが走り、思わず腕を引く。
「……まだ痛むか」
厨房から声が飛んできた。
翔が顔を上げると、ニャン次郎が仕込みの手を止めることなくこちらを見ていた。
「これくらいなら平気」
「昨日、救急医学部の生徒に何と言われた?」
「……安静に」
「なら安静にしていろ」
「マスターまでそれ言うのかよ」
「まともなことを言っているだけだ」
「普通に歩けるし、接客くらいならできるって」
「そう言って腕を動かして痛がったのは誰だ?」
「…………」
言い返せない。
翔は布巾を持ったまま黙り込んだ。
「今日は接客だけにしておけ。重い物も持つな」
「はいはい」
「本当に分かっているのか?」
「信用ないなぁ、俺」
「昨日の行動を思い返してから言え」
「……セナにも似たようなこと言われた」
「なら二人目だな」
「それも言われたんだよ……」
翔が苦笑する。
そのまま布巾を置いた。
昨日。
あの怪物の咆哮に吹き飛ばされ。
傷ついた生徒を助けようとして。
そして最後には。
自分が誰かに助けられる側になりかけた。
「…………」
翔の視線が、包帯の巻かれた腕へ落ちる。
助けられた人はいた。
セナもそう言っていた。
それでも。
あの怪物そのものを前にした時。
自分には何もできなかった。
その感覚だけは。
一晩眠っても、まだ胸の奥に残っていた。
その時だった。
『――おはようございます! 朝から少々物騒なニュースのお時間です!』
「ん?」
店内のモニターから妙に元気のいい声が響き、翔が顔を上げる。
画面に映ったのは、見覚えのある街並みだった。
正確には、昨日とはすっかり様変わりしてしまった街並みだ。
砕けた道路。
倒れた標識。
ひしゃげた車両。
割れた窓。
そして、風紀委員会によって封鎖された通り。
その前で、一人の少女がマイクを握り、カメラへ堂々とした笑顔を向けている。
『クロノススクール報道部が誇るアイドルレポーター、川流シノンです! 本日は昨日ゲヘナ自治区を震撼させた、正体不明の怪物についてお伝えしていきます!』
「……シノンだ」
翔は思わず呟いた。
クロノススクール報道部。
川流シノン。
『ブルーアーカイブ』でも、大きな事件が起こればどこからともなく現れていたレポーターだ。
画面が僅かに揺れる。
撮影しているのは、おそらく――。
「マイもいるのか……」
『まずはこちらをご覧ください!』
シノンが大きく腕を広げた。
『道路はこの通り! 見事にボロボロです! 車両は大破! 建物にも多数の損傷! いやぁ、昨日は本当に大変なことになっていたようですね!』
『シノンちゃん、もうちょっと言い方……』
案の定、画面の外から小さな声が拾われる。
『事実をお伝えしているだけですよ、マイ先輩!』
シノンは即答すると、まるで何事もなかったかのようにカメラへ向き直った。
『それでは改めまして! 昨日、ゲヘナ自治区市街地に突如として出現した、この正体不明の敵性存在!』
映像が切り替わる。
「…………」
翔の表情から、自然と笑みが消えた。
遠距離から撮影された映像。
画質は荒い。
それでも、見間違えるはずがない。
白目を剥いた巨大なティラノサウルスの頭部。そこから伸びる人間大の手足。爬虫類を思わせる左腕と鋭い爪。そして、背後から伸びる脊椎状の長い尾。
『こちらがその姿です! ……いや、何なんでしょうね、これ?』
シノンの声が映像に重なる。
『恐竜? 怪物? あるいは何らかの新型兵器でしょうか? 少なくとも、これまでゲヘナ自治区で確認されてきた一般的な騒動とは、かなり毛色が違います!』
『一般的な騒動って何……?』
『ゲヘナですから!』
『それで済ませちゃダメじゃないかな……』
マイの小さな突っ込み。
普段なら、翔も少し笑っていただろう。
けれど今は、画面から視線を離すことができなかった。
「……T-REXドーパント」
小さく、その名前を口にする。
父が好きだった特撮作品。
家には父が集めたDVDやBlu-rayが並んでいて、幼い頃から休日や父の仕事が早く終わった夜には、二人で一緒に何度も見た。
――仮面ライダーW。
その物語に登場した怪人の一体。
昨日、初めて実物を目にした瞬間から疑いようはなかった。
『この怪物に対し、ゲヘナ学園風紀委員会が出動! 市街地で激しい戦闘が発生しました!』
画面の中で、銃を構えた風紀委員たちが一斉射撃を浴びせる。
それでも異形は前へ進む。
『しかし! 撃っても倒れない! 突進する! 咆哮だけで周囲を吹き飛ばす! おまけに地面へ潜る!』
次の映像では、瓦礫や金属片が宙へ浮き上がっていた。
『そして、なんと周囲の金属まで引き寄せ始めました! 何でもありですか、この怪物は!?』
『シノンちゃん、声大きいよ……』
『これくらいでなければ現場の緊迫感は伝わりません!』
『マイクで十分拾えてるから……』
「…………」
翔は画面を見つめ続ける。
磁力。
地中移動。
咆哮による衝撃波。
どれも自分が知っているT-REXドーパントの能力と一致している。
『風紀委員会も苦戦を強いられ、一時は非常に危険な状況となりましたが――そこへ現れたのが!』
映像が切り替わる。
長い銀髪。
小柄な身体。
その身体には不釣り合いなほど巨大な機関銃。
『ゲヘナ学園風紀委員長――空崎ヒナさんです!』
昨日、翔自身はその戦いを最後まで見ることはできなかった。
避難区域へ下がった後、遠くから激しい銃声を聞いていただけだ。
けれど今、その戦いが映像として流れている。
『風紀委員会の通常部隊が苦戦していた怪物を相手に、空崎ヒナさんはなんと単独で交戦!』
終幕:デストロイヤーが火を噴く。
轟音とともに吐き出される凄まじい弾幕を受け、T-REXドーパントの巨体が真正面から押し返されていく。
『あれだけ風紀委員会を苦しめていた怪物を真正面から押し返しています! さすがはゲヘナでも屈指の――』
そこでシノンが横を向いた。
『……はい? 断定的な表現は避ける?』
数秒。
『――ゲヘナでも屈指の実力者と言われる空崎ヒナさん! その実力は伊達ではありません!』
『今、絶対違うこと言おうとしたよね……?』
『気のせいです、マイ先輩!』
「……相変わらずだな」
翔の口元が僅かに緩む。
しかし。
『結果として、怪物は地中へ逃走! 現在も風紀委員会による捜索が続けられています!』
その一言で、すぐに表情が戻った。
「……やっぱり、まだいるんだな」
倒されたわけではない。
ヒナに追い詰められ、逃げただけ。
『そして、ここからが重要です!』
シノンがカメラへ指を向ける。
『この怪物――現時点で正体不明! 名前も不明! 所属も不明! 出現経路も不明! そもそも生物なのか、それとも何者かが作った兵器なのか、それすら分かっていません!』
「…………」
正体不明。
名称不明。
誰も知らない。
少なくとも、表向きは。
『さらに!』
シノンの表情から、少しだけ軽さが消えた。
『最近、ゲヘナ自治区で相次いでいた行方不明事件。風紀委員会は、この怪物との関連についても調査を進めているとのことです』
「行方不明事件……」
キララとエリカから聞いた話。
やはり繋がっている可能性がある。
『なお、風紀委員会からは危険区域への立ち入りを避け、怪物を発見した場合には絶対に近づかないよう呼びかけが行われています』
そこでシノンが少し身を乗り出す。
『つまり! 見つけても「ちょっと写真撮ってみよう」なんて考えてはいけませんよ! 命は一つしかありませんからね!』
『シノンちゃんがそれ言う……?』
『私は報道部ですので!』
『昨日かなり近くまで行こうとしてたよね?』
『取材です!』
『風紀委員会に止められてたけど……』
『…………』
数秒。
『それでは!』
「誤魔化した……」
思わず翔が呟く。
『クロノススクール報道部では、この謎の怪物について引き続き徹底取材していきます! 新たな情報が入り次第、どこよりも早く皆さんへお届けしましょう! 以上! クロノススクール報道部が誇るアイドルレポーター、川流シノンが現場からお伝えしました!』
『シノンちゃん、次の現場――』
そこで映像がスタジオへ切り替わった。
「…………」
翔はしばらくモニターを見つめていた。
正体不明。
名称不明。
誰も知らない。
けれど、自分は知っている。
「T-REXドーパント……」
ならば、その存在がこの世界にいるということは。
「……ガイアメモリも、あるってことだよな」
――カチャ。
「?」
小さな音がして、翔が厨房を見る。
「マスター?」
「……何だ」
ニャン次郎は、いつも通り仕込みを続けている。
「今、何か落とした?」
「調理器具が当たっただけだ」
「そっか」
翔は気にせず、再びモニターへ視線を戻した。
その背後。
ニャン次郎の手が、ほんの僅かに止まっていた。
――ガイアメモリ。
確かに。
翔はそう言った。
聞き間違えるはずがない。
「…………」
包丁が。
一定のリズムで、再びまな板を叩き始めた。
* * *
開店してから、しばらく。
カラン――。
「翔っちー!」
「おっと」
聞き慣れた声に、翔が振り向く。
扉からキララが入ってくる。その後ろには、エリカも一緒だった。
「おはよ、キララ。エリカも」
「おはよー!」
「おはよう、翔くん」
いつもの朝。
いつもの挨拶。
――のはずだった。
「…………」
キララの足が止まった。
「ん?」
「翔っち」
「何?」
「それ」
指差された先。
翔の腕には、昨日の治療で巻かれた包帯が残っている。
「……ああ、これ?」
「これ? じゃないって!」
キララが一気に近づいてくる。
「近い近い!」
「昨日怪我したの!?」
「まあ……ちょっと」
「ちょっとじゃないじゃん!」
エリカも心配そうに翔の腕を覗き込んだ。
「昨日、あの騒ぎがあった辺りにいたんでしょ?」
「ああ」
「やっぱり……」
「大丈夫だよ。打撲と擦り傷くらいだから」
「本当に?」
「本当」
翔は証明するように右腕を上げてみせる。
「っ……」
「ほら!」
「今のは違う」
「何が違うの!?」
「ちょっと肩が痛んだだけ」
「それを大丈夫って言わないの!」
「キララの言う通りだと思う」
「エリカまで……」
「今日は休んだ方がいいんじゃない?」
「今日だけで何人目だよ……」
「何人目?」
「マスターとセナにも言われた」
「セナ?」
キララが首を傾げる。
その横で、エリカが「ああ」と思い出したように口を開いた。
「救急医学部の部長さんでしょ? 氷室セナさん」
「そう、その人」
「翔っち、セナさんに診てもらったの?」
「昨日の避難区域にいたんだよ。それで手当てしてもらった」
「だったら余計に言うこと聞かなきゃダメじゃん!」
「なんで?」
「だって救急医学部の部長さんでしょ!?」
「いや、それは分かってるけど」
「じゃあ休もうよ!」
即答だった。
「店員がいなくなるだろ」
「俺がいる」
厨房からニャン次郎の声が飛んでくる。
「…………」
翔がゆっくり振り向く。
「マスターまで追い打ちかけるなよ」
「事実だ」
「ほら!」
キララが嬉しそうにニャン次郎側へついた。
「マスターの言う通り!」
「なんでキララが勝ち誇ってんだ」
「翔っちが無茶するから!」
「無茶しないって」
「昨日したんでしょ?」
「…………」
「ほら」
「……分かった分かった」
翔は苦笑する。
「今日は大人しくしてる」
「ほんと?」
「接客だけ」
「それ大人しくしてる?」
「俺基準では」
「基準がおかしいよ!」
キララが笑う。
エリカも吹き出した。
「とりあえず座る?」
翔が二人を見る。
「翔っちが?」
「お前らが」
「翔っちも座ったら?」
「俺は店員」
「怪我人でもあるでしょ」
「……今日強いな、お前ら」
「心配してるんだからね?」
「…………」
ほんの一瞬。
翔は言葉を止めた。
「……ありがと」
「うん!」
キララが笑う。
二人がいつもの席へ向かうと、翔も注文を取りに行く。
「今日は何にする?」
「甘いやつ!」
「またそれかよ」
「マスターなら分かる!」
「分からん」
厨房から即答が飛んできた。
「えー!」
「ちゃんと注文しろ」
「じゃあパンケーキ!」
「最初からそう言え」
「エリカは?」
「私はコーヒーと……これにしようかな」
「了解」
注文を厨房へ伝え、しばらくしてテーブルにパンケーキと飲み物が並んだ。
「いただきまーす!」
キララが一口頬張る。
「んー! やっぱ美味しい!」
「朝から元気だな」
「甘いものは別だから!」
「何と別なんだ」
「全部?」
「意味分からん」
「キララだからね」
「エリカちゃんまで!」
いつもの会話。
昨日の騒ぎなど、一瞬だけ忘れてしまいそうになる。
けれど、やはり話題は自然とそこへ戻っていった。
「そういえば」
エリカがコーヒーカップを置く。
「昨日、本当に大変だったみたいだね」
「ああ」
「学校でもその話ばっかりだったよ」
キララも頷く。
「風紀委員会がめちゃくちゃ出たんでしょ?」
「朝のニュースで見た」
「ヒナ委員長まで来たって!」
「ああ」
「すごかったらしいよ。最初、風紀委員会でも全然止められなかったのに、ヒナ委員長が来てから一気に押し返したって!」
「……ゲヘナ最強、か」
「そうそう!」
翔は朝見た映像を思い出す。
あのT-REXドーパントを、一人で押し返していたヒナ。
けれど。
「結局、捕まってないんだよな?」
「うん」
エリカが頷く。
「逃げたままみたい」
「風紀委員会がまだ探してるって」
「……そっか」
「翔っち?」
「ん?」
「やっぱり気になる?」
「まあな」
翔は包帯の巻かれた腕を見る。
「昨日、実際に見たから」
キララが少しだけ心配そうな顔になる。
「無茶しちゃダメだよ?」
「分かってるって」
「ほんと?」
「……多分」
「多分!?」
「冗談だって」
「もう!」
キララが頬を膨らませる。
翔は笑った。
でも、聞きたいことは別にある。
「なあ」
「ん?」
「あの怪物について、他に何か聞いてない?」
「他に?」
「名前とか。正体とか。どこから来たとか」
キララとエリカが顔を見合わせる。
「うーん……」
「私は聞いてないかな」
エリカが答えた。
「風紀委員会も調査中みたいだし」
「名前も?」
「ないんじゃない?」
キララが首を傾げる。
「みんな『昨日の怪物』とか『恐竜みたいなやつ』って呼んでるよ」
「…………」
やっぱり。
「そっか」
「翔っち?」
「何?」
「なんか知ってる?」
「……!」
心臓が、一瞬だけ強く鳴った。
「いや」
翔はできるだけ自然に笑う。
「知らないよ。昨日あんなの見たから、気になっただけ」
「まあ……そうだよね」
キララはそれ以上聞かなかった。
エリカも同じだった。
翔は内心で小さく息を吐く。
――言えるわけないだろ。
俺のいた世界じゃ、あれはテレビの中の怪人だった。
父さんと一緒に見ていた作品に出てきた。
そんな話をして、誰が信じる。
そもそも自分だって、何がどうなっているのか何一つ分かっていない。
そんな三人の会話を、厨房にいたニャン次郎だけが黙って聞いていた。
* * *
昼過ぎ。
キララとエリカが帰り、客足が一度途切れた頃。
翔はカウンター内に置かれている端末へ視線を向けた。
ニャン次郎が仕入れや帳簿、店の情報確認などに使っている店用の端末だ。
「マスター」
「何だ」
「これ、ちょっと借りていい?」
「端末か?」
「ああ」
「何に使う」
「ちょっと調べたいことがある」
「……店の仕事に支障が出ない範囲なら構わん」
「ありがと」
翔は椅子へ座り、端末を手元へ寄せた。
「…………」
翔は検索欄へ文字を入力する。
――T-REX。
検索。
「……まあ、そうなるよな」
恐竜。
ティラノサウルス。
化石。
生物学の記事。
そして昨日の事件に関するニュースがいくつか。
求めている情報ではない。
続けて《T-REX 怪物》と入力する。
表示されたのは昨日の事件、クロノス報道部の記事、個人が撮影した映像、そして掲示板。
『あれ何?』
『恐竜型のロボじゃない?』
『生物でしょ』
『カイザーの新兵器じゃね?』
『それなら風紀委員会が発表するでしょ』
憶測。
噂。
それだけ。
「…………」
次。
――ドーパント。
検索。
該当する情報は、ほとんどなかった。
似た響きの単語。
企業名。
商品名。
自分が知っているドーパントへ繋がる情報は一つもない。
「……やっぱり」
なら。
最後。
検索欄へ触れた指が、ほんの少し止まる。
――ガイアメモリ。
「…………」
検索。
表示されたのは地質関係の記事や、記憶媒体についての情報、全く関係のない商品名。
自分が知っている、あのガイアメモリへ繋がる情報は一つもなかった。
「……マジか」
翔は背もたれへ身体を預ける。
何もない。
T-REXドーパント。
ドーパント。
ガイアメモリ。
誰も知らない。
少なくとも、一般公開されている情報の中には存在すらしていない。
なのに昨日、確かにT-REXドーパントはいた。
「ドーパントがいるなら……」
翔は検索結果を眺めながら、小さく独り言を漏らす。
「絶対、どこかにガイアメモリもあるはずなんだけどな……」
その背後。
厨房から出てきたニャン次郎が、足を止めた。
端末の検索欄には《ガイアメモリ》。
その下には検索履歴として《ドーパント》《T-REX》の文字。
偶然ではない。
朝、思いつきで口にしたわけでもない。
翔は明確にその存在を知っている。
知った上で調べている。
ニャン次郎は何も言わず、静かに厨房へ戻っていった。
翔はそれに気づかなかった。
「……でも」
翔は画面を見つめながら、自分の記憶を辿っていく。
仮面ライダーW。
ガイアメモリ。
ドーパント。
作品の全てを細部まで暗記しているわけではない。昔父と見た作品だ。忘れている設定も、曖昧な記憶もある。
けれど。
一つ。
重要なことを思い出す。
「ドーパントって……」
翔の表情が変わった。
人間がガイアメモリを使い、その力で異形へ変身する。
最初から怪物として存在しているわけではない。
中には。
人がいる。
「…………」
昨日、街で暴れ回っていたT-REXドーパント。
あの姿の中にも。
もし、自分が知っているものと同じなら。
「……誰かがいる」
口にした瞬間。
その事実が、思った以上に重く胸へ落ちた。
昨日。
翔は怪物から生徒を助けようとした。
けれど。
もし、あの怪物そのものも。
本来は誰かだったとしたら。
「……あいつも」
翔が小さく呟く。
「助けられるのか……?」
答えは出なかった。
* * *
同じ頃。
ゲヘナ学園、風紀委員会室。
机の上には昨日の事件に関する報告書や地図、現場写真など、複数の資料が並べられていた。
「……地下から?」
ヒナが顔を上げる。
「はい」
アコが頷いた。
「昨日の戦闘区域を中心として地下区画まで捜索範囲を広げた結果、行方不明になっていた生徒を複数名発見しました」
「状態は?」
「その件は私から」
壁際に立っていたセナが答える。
「数名に脱水症状、軽度の栄養失調、打撲や擦過傷があります。ただし、現時点で生命に関わる状態の生徒はいません」
「……そう」
ヒナの表情が僅かに緩む。
「よかった」
「ですが」
アコが続ける。
「まだ全員ではありません」
「残りは?」
「捜索中です」
アコは机の上へ地図を広げる。
「さらに、発見場所の周辺から多数の痕跡を確認しています」
写真には、地下通路の壁へ刻まれた巨大な爪痕が写っていた。
「昨日の怪物の?」
「はい」
続いて示された別の写真では、地面が大きく抉れ、その奥に巨大な何かが無理やり通過したような穴が残っている。
「戦闘中に確認された地中移動能力と一致します」
ヒナは黙って写真を見る。
「行方不明になった生徒が見つかった場所は?」
「この痕跡のすぐ近くです」
「なら」
「はい」
アコの表情が険しくなる。
「一連の行方不明事件に、あの敵性存在が関与している可能性は非常に高いと考えています」
ヒナはしばらく資料を見つめていた。
「ただ」
アコが別の資料を取り出す。
「不可解な点もあります」
「何?」
「行方不明者の多くには、あの怪物から直接攻撃を受けたと思われる傷がほとんどありません」
ヒナが目を細める。
「……どういうこと?」
「分かりません。連れ去られた可能性も考えましたが、あれだけ理性を失ったような行動を取る存在が、意図的に生徒を連れ去っていたとは考えにくいかと」
「…………」
「地下を移動する際に道路や地下施設を崩し、それに巻き込まれた結果、地下へ取り残された……という可能性もあります」
「そっちの方が自然ね」
「はい」
「昨日逃げた後は?」
「現在まで、地上へ再出現した形跡はありません」
「なら地下に潜伏している可能性がある」
「その可能性が最も高いかと」
短い沈黙の後、ヒナが資料から顔を上げる。
「捜索を続けて」
「はい」
「でも、見つけても無理に戦わないで」
ヒナはアコを見る。
「昨日の部隊だけだと危険だから」
「……承知しています」
「場所を確認したら、すぐ私を呼んで」
「分かりました」
ヒナはもう一度、写真へ視線を落とした。
昨日。
自分の銃撃をあれだけ受けても、なお地中へ逃げるだけの力を残していた怪物。
「次は」
静かな声。
「逃がさない」
* * *
ゲヘナ自治区から離れた場所。
カイザーの研究施設。
薄暗い会議室の大型モニターには、昨日の戦闘記録が映し出されていた。
『ヴァァァァァァァァァッ!!』
T-REXドーパント。
その正面には、巨大な機関銃を構えた空崎ヒナ。
「ここまでが、現在収集できている実戦データになります」
研究員が報告し、映像を停止させる。
「通常の風紀委員会部隊に対しては、高い戦闘優位性を確認しました」
資料が切り替わる。
「銃撃に対する高い耐久性能。突進および咬合攻撃による破壊力。尾を用いた広範囲への攻撃。咆哮による衝撃波。地中移動能力。そして磁場生成」
周囲の金属が一斉にT-REXドーパントへ引き寄せられていく映像が流れる。
「兵器としての出力は、当初の想定値を大幅に上回っています」
「一方で」
別の研究員が口を開く。
「制御に関しては完全な失敗です。命令系統への反応はありません。実験体本人の自我も、現時点では確認できません」
室内が少し静かになる。
「空崎ヒナとの交戦結果は?」
「……敗北です」
短い答え。
「最終的に実験体は戦闘継続を放棄し、地中へ逃走しています」
「そうか」
上座に座るカイザーの幹部。
その声に落胆はなかった。
「それで?」
「……はい?」
「だから何だ?」
研究員が言葉を止める。
「通常の風紀委員に対して、それだけの戦闘能力を発揮した」
「……はい」
「ならば十分だ」
「しかし、制御不能では兵器としての運用は困難です」
「制御できるようにすればいい」
あまりにも簡単な答えだった。
「今回の問題は、遺物――」
研究員が一瞬、言葉を止める。
「……メモリ自体の性能不足ではありません。使用者側の耐久性と制御能力です」
「そうだ」
幹部が頷いた。
「ならば、生体コネクターは?」
「……はい」
「解析状況を聞いている」
「数年前に残された研究資料を含め、現在再解析を進めています」
「再現は?」
「まだです」
「急げ」
「しかし……資料の一部が欠損しています」
幹部の眉が僅かに動いた。
「……数年前の件か」
「はい」
研究員は慎重に答える。
「当時の研究責任者が持ち出した資料の一部は、現在も所在不明です。その中に、生体コネクター関連の重要な情報が含まれていた可能性があります」
幹部はしばらく黙っていた。
やがて。
「残っているものでやれ」
「……はい」
「必要なら一から作り直せ」
「承知しました」
「実験体の回収は?」
「現在も継続中です。ただし、風紀委員会が地下区画の捜索を開始しています」
「先を越されるな」
「はい」
「実験体そのものはどうでもいい」
冷たい声。
「メモリを回収しろ。可能なら変異組織も確保しろ」
「承知しました」
この部屋で。
被験者の名前は一度も呼ばれなかった。
最初から最後まで。
――実験体。
それだけだった。
「それから」
幹部がモニターを見る。
画面には、空崎ヒナの姿が映っている。
「この生徒との戦闘データも詳細に解析しておけ」
「兵器化計画を継続するおつもりですか?」
「当然だ」
幹部はT-REXドーパントの映像へ視線を戻す。
「制御さえできれば、十分な商品価値がある」
そこに。
人を怪物へ変えたことへの後悔など。
欠片もなかった。
* * *
夜。
喫茶店『ひだまり』。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
「明日は普通に仕事するからな」
「肩次第だ」
「もう平気だって」
「俺が判断する」
「俺の身体なんだけど……」
「寝ろ」
「はいはい」
翔は苦笑しながら二階へ上がっていった。
一段、また一段と階段を上る音が遠ざかり、やがて扉が閉まる音を最後に店内は静かになった。
ニャン次郎は一人、いつものように閉店作業を続ける。
照明を落とし、椅子を戻し、食器を片付ける。
毎晩繰り返している、何でもない作業だった。
けれど、その手は途中で止まった。
『……ガイアメモリも、あるってことだよな』
朝、翔が何気なく口にした言葉が、どうしても頭から離れなかった。
昼には店の端末で《T-REX》《ドーパント》《ガイアメモリ》という単語を自ら調べている姿まで目にしている。
偶然にしては、あまりにも具体的だった。
今のキヴォトスで、ガイアメモリという名を知る者はほとんどいない。
まして、昨日初めて現れた正体不明の怪物を見た翌日に、そこまで正確な言葉へ辿り着くなど普通ならあり得ない。
「……なぜだ」
ニャン次郎は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「なぜ、翔があの名前を知っている」
もちろん、返事はない。
しばらく店内に立ち尽くしていたニャン次郎は、やがて何かを決めたように店の奥へ向かった。
厨房を抜け、そのさらに奥。
普段、翔が入る必要のない物置へ足を踏み入れる。
そこには使わなくなった調理器具や古い食器、段ボールなどが雑然と並んでいた。
ニャン次郎はその一角にある棚の前で立ち止まると、静かに棚を動かした。
その奥には、隠すように作られた小さな収納があった。
首元から一本の鍵を取り出し、差し込む。
カチリ。
小さな音とともに扉が開いた。
中に置かれていたのは、一つの古びたケースだった。
表面にはいくつもの傷が刻まれている。
ニャン次郎はそれを取り出して机の上へ置き、しばらく黙って見つめた。
それから留め具へ手を伸ばす。
一つ。
二つ。
ゆっくりと外す。
ほんの僅かな躊躇のあと、蓋を開いた。
中に収められていたのは、黒いベルト型の装置。
片側にのみスロットを備えた、ロストドライバー。
そして、その隣には紫を基調とした一本のガイアメモリが収められていた。
中央に刻まれた文字は――《J》。
ジョーカーメモリ。
「…………」
ニャン次郎は何も言わず、その二つを見つめ続けた。
こうしてまともに見るのは、どれほど久しぶりだろう。
できることなら、もう二度とこのケースを開けるつもりはなかった。
これは研究施設から自分が盗み出したものではない。
奪ったものでもない。
あの日。
死の間際にいた友人が、自分へ託したものだった。
記憶の奥から、掠れた声が蘇る。
『……持っていけ』
血の匂い。
震える手。
荒い呼吸。
もう助からないことなど、見れば分かっていた。
それでも友人は、最後まで研究資料を手放さなかった。
『これは……あいつらに残しちゃいけない』
ニャン次郎は目を伏せる。
忘れたことなど、一度もない。
あの時の声も。
最後に見た顔も。
自分へ押しつけるように渡されたケースの重さも。
『もし、あいつらが……また研究を続けたら……』
一度、友人は激しく咳き込んだ。
それでも言葉を止めなかった。
『これが……必要になるかもしれない』
そこで記憶は途切れる。
「……馬鹿野郎」
ニャン次郎の口から、小さな声が漏れた。
「自分で持っていけと言ったくせに……」
当然、返事はなかった。
友人は最初からカイザーを憎んでいたわけではない。
研究者だった。
未知の遺物を解析し、仕組みを知り、その可能性を理解したい。
純粋な好奇心と探究心から研究を進め、やがて責任者として誰より深くその遺物へ関わることになった。
だが、研究が進めば進むほど、その危険性も見えてきた。
人体を蝕む毒性。
精神への影響。
使用者を異形へ変貌させる力。
そして何より、この技術が大量に複製され、広く流通した場合に何が起こるのか。
それを理解してしまった。
『……俺たちは、開けちゃいけないものを開けたのかもしれない』
かつて、友人がそう言った時の表情を。
ニャン次郎は今でも鮮明に覚えている。
そして友人は、カイザーが収集した遺物の中に二つの特別なものがあることを知った。
ガイアメモリを、生体コネクターを刻むことなく運用するための装置。
ロストドライバー。
そして、それと共に保管されていたジョーカーメモリ。
『もしメモリが世に出たら』
友人は言っていた。
『それを止める手段まで、あいつらに握らせるわけにはいかない』
だから持ち出そうとした。
研究資料の一部。
ロストドライバー。
ジョーカーメモリ。
全てをカイザーの手元から遠ざけるために。
だが、その計画は見つかった。
そして。
友人は殺された。
死ぬ間際。
カイザーに気づかれないよう、友人はそれらをニャン次郎へ託した。
ニャン次郎は、その遺志を抱えて逃げた。
カイザーから。
過去から。
研究の日々から。
それ以来、このケースは誰にも知られない場所で眠り続けていた。
使うつもりはなかった。
誰かに使わせるつもりもなかった。
友人から託されたからこそ、ただ守る。
誰の目にも触れない場所へ隠し続ける。
それだけでいいと思っていた。
けれど。
昨日、T-REXドーパントが現れた。
友人が恐れていた未来が、実際に形を持ってゲヘナの街へ現れたのだ。
そして、もう一つ。
ニャン次郎には理解できないことがある。
翔。
このキヴォトスへ突然現れた少年。
この世界のことを何も知らず、最初は行く場所すらなかった。
そんな翔が、誰にも教えられていないはずの言葉を知っていた。
――ドーパント。
――ガイアメモリ。
「…………」
ニャン次郎の手が、ゆっくりとジョーカーメモリへ伸びる。
紫色の本体。
その表面に刻まれた《J》。
指先が触れそうになり。
そこで止まった。
「……まだだ」
静かな声が物置に落ちる。
「まだ、何も分からん」
翔がなぜ知っているのか。
あのT-REXメモリが、なぜ今になって使われたのか。
カイザーがどこまで研究を進めているのか。
何一つ分からない。
だから。
今はまだ、これを翔へ見せるわけにはいかない。
ニャン次郎は手を引き、ゆっくりとケースの蓋を閉じた。
留め具を戻し、収納へケースを戻す。
鍵を掛け。
棚を元の位置へ戻す。
そこには再び、何もなかったような物置だけが残った。
「…………」
ニャン次郎は一度だけ、二階へ続く階段の方を見た。
その先には翔がいる。
昨日までなら。
知らなくていいと思っていた。
自分の過去も。
友人が何を研究していたのかも。
ガイアメモリも。
ロストドライバーも。
全部、この店とは関係のないものとして、このまま永遠に眠らせておけばいい。
そう思っていた。
けれど。
ゲヘナに現れた一体の怪物。
そして、その怪物を知っていた少年。
その二つが。
長い間止まっていたものを。
少しずつ。
動かし始めていた。