青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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第70話 エピローグ「また逢う日まで」

 

 

 数日後。

 

 アビドス高等学校には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。

 

 校舎の窓から差し込む日差しが廊下を照らし、開け放たれた教室からは生徒たちの話し声が聞こえてくる。

 

 校庭には相変わらず砂が積もっていたが、ここ数日、対策委員会の面々が少しずつ片付けているおかげで、以前よりも随分と歩きやすくなっていた。

 

「……よし。こんなところかな」

 

 風間翔は、机の上に置いていた荷物をまとめた。

 

 左腕はまだ三角巾で吊っており、肩を大きく動かすことはできない。

 

 それでも医師からは順調に回復していると言われ、ようやくゲヘナへ帰る許可が下りたところだった。

 

「翔さん、本当に大丈夫ですか?」

 

 すぐ隣から、アヤネが心配そうに声を掛ける。

 

「大丈夫だって。怪我もだいぶよくなってきたし」

 

「そう言って無理をする人ほど、信用できないんですけど……」

 

「うっ……」

 

 翔は思わず言葉を詰まらせた。今回ばかりは、反論の余地がなかった。

 

「ほら、翔。荷物、こっちに貸して」

 

 セリカが少し呆れたように手を差し出す。

 

「いや、これくらいなら持てるけど」

 

「怪我人が遠慮しないの!」

 

「……はい」

 

 翔が素直に鞄を渡すと、セリカは満足そうに頷いた。

 

「最初からそうすればいいのよ」

 

「なんか、ここ数日ですっかり立場が逆になったな……」

 

「誰のせいだと思ってるの?」

 

 返ってきた言葉に、翔は苦笑するしかなかった。

 

 地下施設から脱出して以降、翔はアビドス高校の保健室で療養していた。その間、対策委員会の面々は交代で様子を見に来てくれたが、少しでも無理をしようものなら、すぐに誰かが飛んでくる始末だった。

 

 特にセリカとアヤネは、こういう時に限って妙な連携を見せる。

 

「翔くん、おじさんとしても今回は二人の意見に賛成だねえ」

 

 教室の奥から、ホシノがのんびりと声を掛けた。

 

 机に突っ伏していた彼女は、大きく欠伸をしながら身体を起こす。拘束されていた間の疲労も随分と抜け、今ではいつもの調子を取り戻していた。

 

「ホシノまで……」

 

「うへへ。病み上がりの人は、大人しくしてなさいってことだよ」

 

「それ、ホシノにも言えると思うんだけどな」

 

「……おっと」

 

 ホシノがさりげなく視線を逸らす。

 

 その様子に、ノノミがくすくすと笑った。

 

「ホシノ先輩も、まだ無理は駄目ですよ~?」

 

「ありゃりゃ。おじさんまで怒られちゃった」

 

「当たり前です! ホシノ先輩だって、まだ療養中なんですからね!」

 

 セリカがすかさず口を挟むと、ホシノは両手を上げて降参した。

 

「はいはい。分かってるってば~」

 

「本当でしょうね……」

 

 疑わしそうなアヤネの声に、教室中で笑いが起きる。

 

 翔もつられるように笑い、それから窓の外へ目を向けた。

 

 数日前まで、この学校には重苦しい空気が漂っていた。ホシノが行方不明になり、カイザーの地下施設で捕らえられていると分かった時には、誰もが余裕を失いかけていた。

 

 それが今では、こうして全員で笑い合っている。

 

 カイザーを巡る問題やアビドスの借金、砂漠化など、解決すべき課題はまだ山積みだった。

 

 それでも、以前とは違うことがある。

 

 少なくとも今は、誰か一人がすべてを背負い込まなくてもいい。

 

「……翔?」

 

 隣から声を掛けられ、翔は振り返った。

 

 シロコが、いつもの落ち着いた表情でこちらを見ていた。

 

「どうした?」

 

「次にアビドスへ来るのは、いつ?」

 

「うーん……まだ決まってないけど、そんなに遠くないうちに来られると思う。カイザーの件で、まだ調べたいこともあるし」

 

「ん。分かった」

 

 シロコは小さく頷いた。

 

「その時は、一緒にサイクリングしよう」

 

「えっ、サイクリング?」

 

「うん。走りやすい道、見つけたから」

 

「いや、俺バイクしか持ってないけど……」

 

「自転車も貸せる」

 

「……もう決定事項?」

 

「ん」

 

 あまりにも迷いのない返事に、翔は思わず笑ってしまった。

 

「分かったよ。肩が治ったらな」

 

「約束」

 

 シロコはどこか満足そうに頷いた。

 

「ちょっと、シロコ先輩! 翔はまだ怪我してるんですからね!」

 

「治ってから」

 

「そういう問題じゃなくて……!」

 

 セリカが慌てて口を挟む。

 

 シロコは平然としていたが、翔には彼女が少し楽しみにしているようにも見えた。

 

「まあまあ、セリカちゃん。次はみんなでお出掛けするのも楽しそうですよね~」

 

 ノノミが微笑みながら間に入ると、セリカは少しだけ口ごもった。

 

「そ、それなら、まあ……別にいいですけど」

 

「おっ、セリカも来るのか?」

 

「なっ……! 別に、あんたと一緒に行きたいって言ったわけじゃないからね!」

 

「まだ何も言ってないって!」

 

 翔が笑うと、セリカはますます顔を赤くした。

 

 そのやり取りを眺めていたノノミが、ふと思い出したように手を叩く。

 

「あっ、そうでした! 翔さん、これを持っていってください!」

 

 差し出されたのは、小さな紙袋だった。

 

「これは?」

 

「みんなで選んだお菓子です! 帰り道で食べてくださいね~」

 

「えっ、いいのか?」

 

「もちろんです。お世話になったお礼も兼ねて、ですよ!」

 

 翔は紙袋を受け取り、少し照れくさそうに笑った。

 

「……ありがとう。大事にいただくよ」

 

「うふふ。例のマスターさんにも、よろしくお伝えください!」

 

「ああ。きっと喜ぶと思う」

 

 喫茶店「ひだまり」のマスターには、帰る日が決まってから連絡を入れてあった。

 

 電話越しのニャン次郎は、普段とほとんど変わらない調子だった。ただし、怪我の具合を伝えた後に「帰ったら少し話がある」と言われた時には、思わず姿勢を正してしまった。

 

 おそらく、帰宅後には長い説教が待っている。それでも、久しぶりに店へ戻れるのは楽しみだった。

 

「翔、そろそろ迎えが来るんじゃない?」

 

 教室へ入ってきた先生が、端末を確認しながら声を掛けた。

 

「あ、もうそんな時間か」

 

「うん。アコから連絡があったよ。学校の近くまで来てるって」

 

「……あいつ、ちゃんと来てくれたんだな」

 

「もちろん。翔を一人で帰らせたら、ヒナに怒られるからね」

 

 先生が悪戯っぽく笑う。

 

 翔は何とも言えない顔になった。

 

「……帰りの車の中でも説教されそうだな」

 

「ふふっ。十分あり得るね」

 

「笑い事じゃないって……」

 

 そうぼやきながらも、翔は立ち上がった。セリカが鞄を持ち、シロコは翔の肩に負担が掛からないよう、紙袋を引き受けてくれる。

 

 先生がその様子を見て、満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、みんなで見送りに行こうか」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 校門の前には、ゲヘナ風紀委員会の車両が停まっていた。

 

 その傍らで待っていたアコは、翔たちの姿を見つけると、すぐに歩み寄ってきた。

 

「翔さん。ようやく帰宅の許可が下りたそうですね」

 

「ああ。わざわざ迎えに来てくれて、ありがとうな」

 

「当然です。あの状態でご自分のバイクを運転して帰るなどと言い出されたら、たまったものではありませんから」

 

「いや、さすがに言わないって……」

 

「本当でしょうね?」

 

「……はい」

 

 アコは疑わしそうに目を細めた。しかし、翔の左腕を吊っている三角巾を見ると、小さく息を吐いた。

 

「……まったく。ヒナ委員長が、どれだけ心配されたと思っているんですか」

 

「……悪かったって」

 

「私に謝られても困ります。戻ったら、委員長へきちんと報告してくださいね」

 

「分かってる」

 

 翔が頷くと、アコはようやく表情を緩めた。

 

「それから、チナツさんにも改めて診てもらってください。帰宅したからといって、勝手に訓練を再開するのは禁止です」

 

「……了解。スミレにも、しばらく休むように伝えておくよ」

 

「当然です!」

 

 相変わらずのやり取りに、先生が笑いを堪えていた。

 

 アコはそんな先生に気づくと、軽く咳払いをする。

 

「……それでは、そろそろ出発しましょうか」

 

「ああ。その前に、みんなに挨拶してもいい?」

 

「もちろんです。お荷物は先に積んでおきますので」

 

 アコが鞄を受け取ると、翔は校門の前に並んでいる対策委員会の面々へ向き直った。

 

「……じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。みんな、色々ありがとう」

 

「こちらこそです!」

 

 アヤネが深々と頭を下げる。

 

「翔さんが来てくれなかったら、どうなっていたか……本当に、ありがとうございました」

 

「いや、俺一人じゃ何もできなかったよ。先生もみんなも、一緒に戦ってくれたから」

 

「それでも、です!」

 

 アヤネは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。

 

「また、いつでも来てくださいね」

 

「ああ。もちろん」

 

「今度は、ちゃんと元気な時に来なさいよね」

 

 セリカが腕を組みながら言った。

 

「いきなり怪我して運ばれてくるのは、もう勘弁なんだから」

 

「……気をつけるよ」

 

「それと、来る時は連絡して。柴関にも寄るんでしょ?」

 

「ああ。柴大将にも挨拶したいしな」

 

「だったら、私も……」

 

 そこまで言いかけて、セリカは一瞬だけ口を閉じた。

 

「……どうせバイトがあるんだし、ついでに案内してあげてもいいわよ」

 

「ははっ。ありがとう、セリカ」

 

「べ、別に! それくらい普通でしょ!」

 

 顔を背けるセリカを見て、ノノミが楽しそうに微笑んでいた。

 

「翔さん、今度はゆっくり遊びに来てくださいね。みんなでお出掛けするのも楽しそうです!」

 

「いいな、それ。今度は仕事抜きで来たいところだ」

 

「ん。サイクリングも」

 

「……シロコ、それは覚えてるから」

 

 翔が苦笑すると、シロコは満足そうに頷いた。

 

 最後に、翔はホシノへ顔を向けた。

 

「……ホシノ」

 

「ん~?」

 

「身体の方、無理するなよ」

 

「うへへ。翔くんに言われちゃった」

 

「いや、本当に。今回は俺も人のこと言えないけどさ」

 

「分かってるよ」

 

 ホシノはいつものように笑った。けれど、すぐに少しだけ真面目な表情へ変わる。

 

「……今度は、一人で何とかしようとしないから」

 

 翔は一瞬、目を見開いた。

 

 ホシノはそのまま、隣に立つ後輩たちを見回した。

 

「おじさんには、こんなに頼りになる後輩たちがいるしねえ」

 

「もう! それ、最初から分かっててくださいよ!」

 

 セリカが頬を膨らませる。

 

「うへへ。ごめんごめん」

 

 ホシノは笑いながら謝り、改めて翔へ向き直った。

 

「だから、翔くんも無茶しないこと。困った時は、おじさんたちにも頼っていいんだからね」

 

「……ああ。そうさせてもらうよ」

 

「約束だよ?」

 

「約束」

 

 翔が答えると、ホシノは嬉しそうに目を細めた。

 

 先生が二人のやり取りを見届け、車両の方へ視線を向ける。

 

「そろそろ行かないと、アコが待ちくたびれちゃうね」

 

「あ、そうだった」

 

 翔が振り返ると、アコは車の脇で端末を確認していた。こちらへ顔を向けた彼女の表情からは、そろそろ出発したいという意思が十分に伝わってくる。

 

「……じゃあ、行ってくる」

 

 翔が車へ向かおうとした、その時だった。

 

「翔くん」

 

 ホシノに呼び止められる。

 

「ん? どうした?」

 

「……ゲヘナに着いたら、連絡してね」

 

 翔は少しだけ意外そうに瞬きをした。

 

「分かった。着いたら連絡するよ」

 

「うん。それと……」

 

 ホシノはそこで一度、言葉を切った。

 

「……また、来てね」

 

 先ほどまでの軽い調子とは違う、小さな声だった。

 

 翔はその顔を見つめ、それから自然と笑みを浮かべた。

 

「ああ。また来るよ」

 

 その答えを聞いて、ホシノはようやく、いつもの眠たげな笑顔を浮かべた。

 

「うへへ。じゃあ、おじさんたちも楽しみに待ってるよ」

 

「ああ。今度は怪我なんかしないで、普通に遊びに来るから」

 

「それ、ちゃんと覚えておくからねえ」

 

 ホシノはそう言って、小さく手を振った。

 

 翔も右手を上げて応えると、今度こそ車両へ向かおうとした。

 

「……あ、そうだ。先生」

 

「ん? どうしたの?」

 

 呼び掛けられた先生が顔を上げる。

 

「今回は本当にありがとう。先生がいなかったら、どうなってたか分からなかった」

 

「それはこっちの台詞だよ。翔が来てくれたおかげで、助かったこともたくさんあったからね」

 

 先生は笑いながら答えると、少しだけ表情を和らげた。

 

「でも、次はもう少し、自分の身体も大切にしてね。生徒を守るのは、私の仕事でもあるんだから」

 

「……分かった。気をつけるよ」

 

「うん。じゃあ、約束ね」

 

 差し出された右手を、翔も握り返した。

 

「それと、翔」

 

「はい?」

 

「今度来た時は、もうちょっとゆっくり変身の話を……」

 

「それはもういいでしょ!?」

 

「ええっ!? だって、今度はちゃんと余裕がある時に聞きたいんだけど!」

 

「先生~。翔くん、帰れなくなっちゃうよ~」

 

 ホシノの間延びした声が割って入り、先生は不満そうに唇を尖らせた。

 

「……仕方ないなあ。じゃあ、それも次のお楽しみってことで」

 

「勝手に決めないでください!」

 

 その様子を見ていたアコが、車両の傍らから声を掛ける。

 

「翔さん! そろそろ出発しませんと、到着が遅くなりますよ!」

 

「ああ、今行く!」

 

 翔は先生の手を離すと、改めて全員へ向き直った。

 

「それじゃあ、みんな。またな!」

 

「はい! また来てくださいね!」

 

「お土産のお返しも、楽しみにしてますからね~!」

 

「ん。またね、翔」

 

「着いたら、ちゃんと連絡するのよ!」

 

 アヤネ、ノノミ、シロコ、セリカが、それぞれ手を振る。

 

 最後にホシノが一歩前へ出た。

 

「……いってらっしゃい、翔くん」

 

 翔は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑顔を浮かべた。

 

「ああ。行ってきます!」

 

 その言葉を残し、翔はアコが開けてくれた車のドアを潜った。

 

 助手席へ腰を下ろすと、運転席に乗り込んだアコがシートベルトを締めるよう促してくる。左肩を庇いながらベルトを引く翔を見て、彼女は小さくため息をついた。

 

「……本当に、帰り着くまで何もしないでくださいね」

 

「分かってるって。さすがにこの状態で何かしようとは思わないよ」

 

「どうでしょうか。翔さんの場合、道端で誰かが困っているのを見つけたら、怪我のことなど忘れて飛び出しそうですけど」

 

「……そんなに信用ない?」

 

「これまでの行動を振り返ってから仰ってください」

 

 即答だった。

 

 翔は反論しようと口を開いたが、思い当たる節がありすぎて、結局そのまま閉じることになった。

 

「……すみません」

 

「まったく、もう……」

 

 アコは呆れたように息を吐き、エンジンを始動させた。

 

 その横顔を眺めながら、翔はふと笑みを浮かべる。

 

「でも、ありがとうな。迎えに来てくれて」

 

「……別に、私が来たかったわけではありません。委員長から頼まれたので、来ただけです」

 

「そっか。それでも助かったよ」

 

「……そうですか」

 

 アコは前を向いたまま、少しだけ声の調子を落とした。

 

「本当に感謝しているのでしたら、これからはヒナ委員長に余計な心配を掛けないでください。今回だって、翔さんが意識を失ったと聞いた時には……」

 

 そこまで言って、アコは一度言葉を切った。

 

「……いえ。とにかく、今度こそ無事に帰っていただきますからね」

 

「ああ。約束する」

 

「……なら、結構です」

 

 やがて車両がゆっくりと動き出した。

 

 翔は窓を開け、校門の方へ右手を振る。

 

 対策委員会の五人と先生が、まだそこに立っていた。

 

 セリカが大きく手を振り返し、ノノミも両手を振っている。シロコはいつもの落ち着いた様子で片手を上げ、アヤネは丁寧に頭を下げていた。

 

 その隣で、ホシノも笑っていた。

 

 車が角を曲がり、校門が見えなくなるまで、翔は手を振り続けた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「……行っちゃったねえ」

 

 車両が見えなくなった道路を眺めながら、ホシノがぽつりと呟いた。

 

「また来るって言ってたじゃないですか」

 

 セリカが答える。

 

「それに、アビドスでの調査だって、まだ完全に終わったわけじゃないんでしょ?」

 

「うん。そうなんだけどねえ」

 

 ホシノは少しだけ名残惜しそうに笑った。

 

 翔がアビドスへ来てから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それなのに、彼がいなくなっただけで、校門の前が少し寂しくなったように感じられた。

 

「ん。次に来たら、サイクリング」

 

 シロコが静かに口を開いた。

 

「シロコ先輩、まだ言ってるんですか!?」

 

「約束したから」

 

「だから、まずは翔の怪我がちゃんと治ってからですって!」

 

「ん。もちろん」

 

 二人のやり取りを聞きながら、ノノミが楽しそうに微笑む。

 

「ふふっ。じゃあ、今度翔さんが来た時は、みんなでお出掛けしましょうか!」

 

「いいですね! 私も、久しぶりにみんなでゆっくりしたいです!」

 

 アヤネも嬉しそうに頷いた。

 

 そんな後輩たちを眺めながら、ホシノは小さく笑った。

 

「うへへ。それじゃあ、おじさんも参加しようかなあ」

 

「当たり前じゃないですか! ホシノ先輩も一緒ですよ!」

 

 セリカが振り返る。

 

 その言葉に、ホシノは一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、どこか嬉しそうに目を細める。

 

「……うん。そうだねえ」

 

 以前なら、自分がいなくなった後のことを考えていたかもしれない。けれど、今は違う。この子たちと一緒に、これからのことを考えられる。

 

 次に翔が遊びに来たら何をしようか。どこへ行こうか。そんな何気ない約束を、当たり前のように交わせる。

 

 ホシノはもう一度、翔を乗せた車が走っていった道へ目を向けた。

 

 次に彼が来る頃には、肩の怪我もすっかり治っているだろうか。その時には、もう少しゆっくり話ができたらいい。そして今度こそ、彼が何かを背負い込もうとした時には、自分たちのことも思い出してくれたら嬉しい。

 

「……ホシノ?」

 

 先生に呼び掛けられ、ホシノは振り返った。

 

「ん~? 何かな、先生?」

 

「そろそろ戻ろうか。今日はまだ、みんなでやることがあるでしょ?」

 

「あ~、そうだったねえ」

 

 ホシノは大きく伸びをすると、後輩たちの方へ歩き出した。

 

「それじゃあ、みんな。学校に戻ろっか」

 

「はい!」

 

 元気よく返事をしたアヤネに続き、ノノミとセリカも校舎へ向かう。シロコは最後まで道路の方を見ていたが、やがて満足したように頷いて歩き出した。

 

 先生は、後輩たちと並んで歩くホシノの背中を見つめた。

 

 借金も、砂漠化も、カイザーを巡る問題も、まだ終わってはいない。それでも、こうして五人が揃って学校へ帰れる日常を、取り戻すことができた。

 

 ホシノが振り返る。

 

「先生~? 置いてっちゃうよ~?」

 

「あっ、待って待って!」

 

 先生が慌てて後を追うと、セリカが呆れたように笑い、ノノミもつられるように声を上げた。

 

 久しぶりに、アビドスの校舎へ賑やかな笑い声が響く。

 

 ホシノはその声を聞きながら、青く晴れ渡った空を見上げた。

 

「……またね、翔くん」

 

 小さく呟いたその声は、砂漠を渡る穏やかな風に溶けていった。

 

 * * *

 

 その頃。

 

 アビドスから遠く離れた、とある場所。

 

 外の景色も時刻も分からない薄暗い空間に、いくつもの異質な存在が集まっていた。

 

 中央に置かれた卓を囲んでいるのは、キヴォトスの神秘や恐怖、崇高といった未知の概念を追い求める者たち。彼らにとって、世界に隠された謎を解き明かすことは、何よりも優先される探求だった。

 

 ゲマトリア。

 

 その一員である黒服は、集まった面々を前に、いつもと変わらない様子で恭しく一礼した。

 

「クックックッ……皆さん。お集まりいただき、ありがとうございます」

 

「……随分と久しぶりだな、黒服」

 

 異形の芸術家、マエストロが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「カイザーとの共同研究に随分と熱心だったようだが……ようやく、こちらへ戻る気になったということか?」

 

「ええ。あちらとの協力関係は、ひとまず終了としました」

 

「ほう。それはまた、急な話だな」

 

「そうでしょうか? 既に当初の目的は十分に達成できましたので、これ以上関係を続ける必要もないと判断したのですよ」

 

 黒服は何でもないことのように答えた。

 

「今回の一件で、カイザーの現地責任者は身柄を拘束されました。連邦生徒会からも正式な追及が行われ、カイザー本体は彼個人を切り捨てることで、事態の収拾を図っています」

 

「それで?」

 

 冷ややかな声が割り込んだ。

 

 ベアトリーチェは退屈そうに黒服を見つめている。

 

「まさか、あなたが協力していた連中の失態を報告するためだけに、私たちを集めたわけではないでしょうね?」

 

「もちろんです、マダム。彼らの経営判断そのものに、さほど興味はありません。私が欲しかったのは、あくまで彼らの組織力と研究設備、そして発掘された遺物に関する情報でしたので」

 

「……利用できるだけ利用して、用が済んだら離れたということですか」

 

「クックックッ……お互いさまですよ。彼らもまた、私から得られる知識に価値を見いだしていた。それだけの関係です」

 

 黒服は少しも動じなかった。

 

「もっとも、連邦生徒会やヴァルキューレの調査が始まった今、あちらで研究を続けるのは得策ではありません。それに、今回の実験で得られたものは、想定していた以上に興味深いものでしたから」

 

「ふむ……」

 

 マエストロが、わずかに身を乗り出した。

 

「貴下がそこまで言うのであれば、単なる兵器開発の成果ではあるまいな?」

 

「ええ。むしろ、ようやく本題に入れるというところでしょうか」

 

 黒服は懐から一本のガイアメモリを取り出し、卓の上へ置いた。

 

「……それが、例の遺物か」

 

「その通りです。ガイアメモリ。かつて別の世界からこのキヴォトスへ持ち込まれ、長い年月を経て遺された技術です」

 

 黒服はメモリを指先で持ち上げた。

 

「これまでは研究資料や実験結果を通じて、その性質を調べてきました。しかし今回は、それだけではありません」

 

「……というと?」

 

「私自身が、実際に使用しました」

 

 マエストロが、興味深そうに動きを止めた。

 

「貴下が? 自ら実験体になったというのか?」

 

「ええ。独自に完成させたガイアドライバーを用いて、NASCAの力を実戦で試しました」

 

「……実戦?」

 

 ベアトリーチェの声に、わずかな関心が混じった。

 

「相手は誰だったのです?」

 

「例の黒い仮面の戦士ですよ。彼らが仮面ライダーと呼ぶ存在です」

 

「……ああ、そうか。あの者か」

 

 マエストロは納得したように頷いた。

 

「貴下がカイザーの研究に協力してまで調べていた存在だったな。そこまでの価値があるのかね?」

 

「それが、まだ分からないのですよ」

 

 黒服は心底愉快そうに答えた。

 

「今回、彼と直接交戦したことで、新たにいくつもの疑問が生まれました。特に興味深かったのは、彼とガイアメモリとの関係です」

 

 黒服の背後に、戦闘記録の映像が映し出された。

 

 そこには、黒一色の装甲を纏った仮面の戦士が、ナスカ・ドーパントと激しく打ち合う姿が記録されていた。

 

「彼が最も高い適合性を示すのは、このJOKERでしょう。あのメモリの特性を十分に理解し、自身の戦闘技術と組み合わせていました。少なくとも、私との戦闘においては、メモリの能力と彼自身の動きに大きな齟齬は見られませんでした」

 

「適合性……ですか」

 

 少し離れた場所から、落ち着いた声が響いた。

 

 そこにいるのは、長いコートを纏い、ステッキを携えた首のない男、デカルコマニー。そして彼の手には、シルクハットを被った男性の後ろ姿が写る、一枚の写真があった。

 

 写真の中から聞こえてきた声の主こそ、非実在を自称するゴルコンダだった。

 

「記憶を内包する媒体と、それを受け入れる使用者。両者の関係によって、現れる力の性質まで変化するというのであれば……なかなか興味深いお話ですね」

 

「そういうこった!」

 

 デカルコマニーが威勢よく相槌を打つ。

 

「ええ。ですが、私が注目しているのは、それだけではありません」

 

 黒服は映像を切り替えた。

 

 今度は、炎を纏う戦士の姿。そして、銀色の身体へ変化した仮面ライダーが、金属製の長い武器を構える姿が映し出される。

 

「彼はJOKERだけでなく、HEATも使用しています。そして今回、私が彼へ渡したMETALも、実戦で使用しました」

 

「……貴下が渡した、だと?」

 

 マエストロが黒服へ向き直った。

 

「自ら戦った相手に、わざわざ新しい力を与えたというのか?」

 

「ええ。彼がそれをどう扱うのか、ぜひ観測したかったのですよ」

 

「……相変わらず、理解し難いことをするのですね」

 

 ベアトリーチェが呆れたように言った。

 

「敵に力を与えて、何の得があるというのです? 捕獲して調べた方が、よほど効率的でしょうに」

 

「おや。私は、彼の力だけを調べたいわけではありませんよ」

 

 黒服は穏やかな調子で答えた。

 

「新たな力を手にした時、それをどう理解し、何のために使うのか。そうした選択もまた、重要な観測対象なのです」

 

「……随分と回りくどいこと」

 

「クックックッ……研究とは、得てしてそういうものでしょう?」

 

 黒服は再び映像へ目を向けた。

 

 そこに映っているのは、カイザーの地下施設に設置されていた監視設備から、彼が独自に確保した記録の一部だった。

 

 銀色の仮面ライダーが、巨体のドーパントを相手に戦っている。初めて扱うメモリであるためか、動作にはそれまでの戦闘とは異なる重さがあり、負傷した身体への負担も小さくなかったはずだ。

 

 しかし、彼はその状態で戦闘を続け、相手を力任せに破壊するのではなく、奪われた生命力を安全に取り戻すために、新たなメモリの性質を利用していた。

 

「……なるほど」

 

 マエストロが低く呟いた。

 

「単なる力の誇示ではない。目的に合わせて、異なる性質の力を選択したということか」

 

「ええ。しかも、彼はあのメモリを手にしたばかりでした。使い慣れたJOKERとは、身体に現れる特性も大きく異なります。それでも、短い戦闘の中で運用方法を修正し、目的を達成した」

 

「だが、それ自体は不可能な現象というわけでもあるまい?」

 

「その通りです。ガイアメモリの技術には、一人の使用者が複数のメモリを扱う運用も存在します。しかし、彼の場合は、最も高い適合性を持つメモリ以外にも、実戦で使用できるだけの適応力を示している。それが、彼自身の資質によるものなのか、使用しているドライバーの制御性能によるものなのか……あるいは、我々がまだ把握していない別の要因が存在するのか」

 

 黒服は映像を止めた。

 

「まだ、判断するには早いでしょう」

 

「ふふ……つまり、答えよりも新たな問いが増えたというわけですか」

 

 写真から、ゴルコンダの声が響いた。

 

「結構なことではありませんか。最初から答えの決まっているものなど、解釈する楽しみもございませんからね」

 

「ええ。実に、素晴らしい結果ですよ」

 

 黒服も愉快そうに笑った。

 

「彼が今後、さらに異なるメモリを手にした場合、どのような変化が現れるのか。そして、今回のように使い慣れていない力を使用し続けた場合、どこに限界が現れるのか……。ぜひとも、引き続き観測したいものです」

 

「なるほど、なるほど。一つの存在が、異なる記憶を受け入れる……」

 

 デカルコマニーが、手にした写真をわずかに持ち上げた。

 

「記憶を一つのテクストとするならば、使用者はそれを読み解く者ということになるのでしょう。ふふ……同じ記憶であっても、読み手が異なれば、そこから生まれる解釈も異なる。あの仮面ライダーが示した結果も、そのように考えれば、なかなか興味深いものですね」

 

「そういうこった!」

 

 デカルコマニーが力強く同意した。

 

 その様子を眺めていたマエストロが、ふと思い出したように口を開いた。

 

「ところで、黒服。貴下自身はどうだったのだね?」

 

「……と、申しますと?」

 

「実際にそのメモリを使用したのだろう? 未知の力を自らの身体で扱うという経験は、貴下に何をもたらしたのか。そちらの話も聞いてみたいものだな」

 

 その問いに、黒服は手元のNASCAメモリを見下ろした。

 

「……ええ。実に興味深い経験でした」

 

 彼は少しだけ間を置いた。

 

「自らの意思で大気を駆け、身体能力の限界を超えた速度で移動し、思考に応じて剣を振るう。研究資料を読むだけでは、決して理解できなかった感覚です」

 

「ほう……」

 

 マエストロの関心が、再び黒服へ向けられる。

 

「そのような力を得たことで、貴下自身には何の影響もなかったのか?」

 

「少なくとも、今回の使用範囲では重大な異常を確認していません。ただし、それをもって安全性が証明されたと考えるのは、早計でしょう」

 

 黒服はメモリを卓へ置いた。

 

「ガイアメモリには、使用者の身体や精神へ悪影響を及ぼす要素が含まれています。私の使用したガイアドライバーは、それらを可能な限り軽減するための装置ですが、あらゆる危険を完全に排除できると証明されたわけではありません」

 

「……何だ。貴下は、その危険を承知で使用したのか」

 

「もちろんです。危険があるからこそ、適切な手順で調べる必要があります」

 

 黒服は平然と答えた。

 

「特に注意すべきは、メモリの適合性と、能力の成長に伴う負荷です。仮に高い適合性を示す使用者であっても、発現した力が急激に増大すれば、それに肉体が耐えられるとは限りません」

 

「ふむ……。能力の成長が、必ずしも使用者にとって望ましい結果をもたらすとは限らないわけだな」

 

「ええ。そして、身体への影響だけではありません」

 

 黒服は、わずかに声を落とした。

 

「実際にあの力を使用した際、私は強い高揚を覚えました。未知の力を自らの意思で扱えるという感覚は、実に魅力的なものでしたよ」

 

「……それで?」

 

 ベアトリーチェが、面白くなさそうに尋ねた。

 

「未知の力を得て喜ぶなど、別段おかしなことではないでしょう」

 

「ええ。おっしゃる通りです、マダム。ですが、それが単に力を得たことへの喜びなのか、メモリとの接続が精神へ及ぼした影響なのか。現時点では、明確に区別できていないのですよ」

 

 黒服は集まった面々を見渡した。

 

「メモリの使用によって、判断や欲求にどのような変化が生じるのか。我々のような存在にも、人間と同じ作用が現れるのか。まだ確認すべきことはいくらでもあります」

 

「ふふ……観測する者が、同時に観測される対象でもある。なかなか面白い構図ですね」

 

 ゴルコンダの声に、黒服が軽く頭を下げた。

 

「その通りです。私自身の変化を見落としてしまっては、せっかくの実験が台無しですからね」

 

「くだらない」

 

 ベアトリーチェが、冷ややかに鼻を鳴らした。

 

「危険があるのなら、それを克服すればよいだけでしょう。せっかく手にした力を前に、いつまでも慎重な議論を重ねるつもりですか?」

 

「おや。私は慎重な議論だけで終わらせるつもりはありませんよ」

 

 黒服は愉快そうに答えた。

 

「むしろ、今後はより積極的に実験を進めたいと考えています」

 

 そう言って、傍らに置かれていた容器へ手を伸ばした。

 

「さて。本日、皆さんにお集まりいただいたのは、報告のためだけではありません」

 

 容器から取り出されたのは、三つの小箱だった。

 

 それぞれに付された識別番号だけが、薄暗い空間の中でかすかに光っている。

 

「カイザーとの共同研究中、私は彼らへ開示していない回収物を、いくつか確保していました。無論、それとは別に、独自の調査によって入手したものもあります」

 

「……ほう?」

 

 マエストロが興味深そうに身を乗り出す。

 

「貴下は、我々にも隠れて随分と収集を進めていたようだな」

 

「クックックッ……彼らにすべての成果を渡してしまっては、私自身の研究が進められませんからね」

 

 黒服は、三つの箱を卓の上へ並べた。

 

「その中には、真正のガイアメモリも含まれています。そして今回、皆さんの性質や研究内容を踏まえ、それぞれに適合する可能性が高いものを選んでみました」

 

「……私たちに?」

 

 ベアトリーチェが、初めてはっきりと関心を示した。

 

「ええ。もちろん、実際の適合性については、使用してみなければ判断できない部分もありますが」

 

 黒服は最初の箱を取り上げ、彼女の前へ差し出した。

 

「マダム。まずは、こちらを」

 

 ベアトリーチェは箱を開き、中身を確かめた。

 

 その視線が、わずかに鋭くなる。

 

「……なるほど。あなたは、私にこれを渡すつもりなのですね」

 

「お気に召しましたか?」

 

「使い道があるかどうかは、私が判断します」

 

「ええ。無論です」

 

 黒服は静かに頷いた。

 

 ベアトリーチェはしばらく箱の中身を眺めていたが、やがて蓋を閉じた。

 

 続いて黒服は、二つ目の箱をマエストロへ差し出した。

 

「あなたには、こちらを」

 

「……私に?」

 

「ええ。あなたの研究内容を考えれば、興味を持っていただけるのではないかと」

 

 マエストロは、ゆっくりと箱の蓋を開いた。

 

 その中身を見た瞬間、彼の動きが止まる。

 

「…………」

 

 しばらくの沈黙が続いた。

 

 やがて、彼の身体から小さな軋みが聞こえ始める。

 

「……なるほど。これは、実に興味深い」

 

 マエストロは、箱の中身を覗き込みながら、ゆっくりと頷いた。

 

「貴下は、なかなか面白い素材を持ってきてくれたようだな。確かに、これならば私の研究にも新たな可能性が生まれるかもしれん」

 

「そう言っていただけると、私としても嬉しい限りです」

 

「だが、どのような可能性が秘められているかは、実際に試さねば分かるまい。芸術とは、素材の性質を理解するだけで完成するものではないからな」

 

 マエストロは箱を閉じ、大切そうに手元へ引き寄せた。

 

「……よかろう。ありがたく受け取っておく」

 

 黒服は軽く頭を下げると、最後の箱を手に取った。

 

「そして、こちらはお二人に」

 

 その言葉に、デカルコマニーがステッキを卓の傍らへ立て掛けた。

 

 空いた手で黒服から小箱を受け取り、蓋を開く。もう一方の手に持たれた写真から、ゴルコンダの声が響いた。

 

「……ほう。わたくしたちに、一本ですか」

 

「ええ。お二人の性質を考慮した上で、選ばせていただきました」

 

 デカルコマニーが箱を少し持ち上げ、写真の方へ向けた。

 

「なるほど、なるほど……」

 

 ゴルコンダは、何やら考え込むように言葉を区切った。

 

「わたくしとデカルコマニーを、それぞれ独立した使用者としてではなく、一組の適合者として捉えたわけですね。ふふ……なかなか興味深い選択でございます」

 

「もっとも、現時点では仮説にすぎません。実際にどのような結果が現れるのかは、今後の検証次第でしょう」

 

「それは結構。結論が先に与えられていては、解釈する楽しみがなくなってしまいますからね」

 

「そういうこった!」

 

 デカルコマニーが威勢よく相槌を打ち、小箱を卓の上へ置いた。

 

「それにしても、黒服。貴方もなかなか愉快なことをなさる。わたくしたちの性質を考慮して、あえてこちらを選ぶとは……しばらく退屈せずに済みそうですね」

 

「お気に召したようで、何よりです」

 

 三つの箱が、それぞれの手元へ渡る。

 

 黒服はその様子を確認すると、改めて口を開いた。

 

「ただし、皆さん。一つだけ、先ほどの話を思い出していただきたい」

 

「……まだ何かあるのですか?」

 

 ベアトリーチェが、不満そうに問い返した。

 

「ええ。お渡ししたメモリを、すぐに身体へ直接使用することはお勧めしません」

 

「……何ですって?」

 

「ガイアメモリには、それぞれ異なる性質と危険性があります。適合性が十分に確認できていない段階で直接使用すれば、どのような影響が生じるか分かりません」

 

 黒服は、自らのガイアドライバーに軽く手を触れた。

 

「今回、私が使用した装置は、メモリの有害な要素を可能な限り抑えながら、その能力を引き出すためのものです。皆さんが使用する場合にも、同様の装置を用意する必要があるでしょう」

 

「……つまり、現時点では、受け取っただけというわけか」

 

 マエストロが確認する。

 

「ええ。私の使用したドライバーの設計を基に、皆さんの特性に合わせた調整を進める予定です。ただし、私自身の実戦データもまだ十分とは言えませんので、完成までにはいくつか検証が必要でしょう」

 

「……随分と手間が掛かるのですね」

 

 ベアトリーチェは露骨に不満そうだった。

 

「これほど興味深い力を前にして、ただ眺めていろと?」

 

「おや。私は、そのようなことを申し上げた覚えはありませんよ」

 

 黒服は、いつもの不気味な笑みを浮かべた。

 

「研究そのものは、既に始めていただいて構いません。メモリの性質を調べ、仮説を立て、必要な装置を整える。その過程もまた、実に興味深いものですから」

 

「……そのような悠長なことをして、何になるというのです?」

 

「貴下には理解し難いかもしれんが、マダム」

 

 マエストロが、静かに口を開いた。

 

「素材の性質を知らぬまま作品へ取り掛かるのは、ただの愚者だろう。芸術家として感心できることではないな」

 

 ベアトリーチェの視線が、ゆっくりと彼へ向けられる。

 

「……何ですって?」

 

「私は、手にした素材がどのような表現を可能にするのか、それを知りたいのだ。単に力を振るうだけでは、あまりにも味気ないではないか」

 

「相変わらずですね、マエストロ。私はあなたの芸術論に付き合うつもりなどありませんよ」

 

「……ふむ。やはり貴下とは、物事の捉え方が異なるようだな」

 

 二人の間に、わずかに険悪な空気が流れ始める。

 

「ふふ……まあまあ、お二人とも」

 

 ゴルコンダの穏やかな声が割って入った。

 

「そもそも、同じメモリを手にしたとしても、何を見いだすかは使用者によって異なるのでしょう。であれば、その扱い方まで一致させる必要はないのではございませんか?」

 

 デカルコマニーが、手にしたステッキを軽く振った。

 

「そういうこった!」

 

「わたくしとしては、黒服が提示した研究の進め方にも、マダムが求める結果にも、それぞれ異なる意味があると考えます。何より、まだ誰も使っていないのですから。互いの結果を比較するのは、実際に使用してからでも遅くはないでしょう」

 

「……ふん」

 

 ベアトリーチェは不満そうに顔を背けたが、それ以上の反論はしなかった。

 

 黒服は、その様子を愉快そうに眺めていた。

 

「クックックッ……皆さんの研究が、どのような結果を生むのか。今から実に楽しみですよ」

 

「……貴下も、相変わらずだな」

 

 マエストロが、呆れたように呟いた。

 

「それほどの危険を理解しておきながら、なお研究を続けようというのだから」

 

「おや。危険があるからといって、未知の現象を放置する理由にはならないでしょう?」

 

 黒服は、卓の上に置いていたNASCAメモリを再び手に取った。

 

「むしろ、今回の一件によって、調べるべきことが増えたのです。私自身への影響、ドライバーの限界、使用者との適合性……そして、あの仮面ライダーが示した、複数のメモリを扱う可能性」

 

 彼は、掌の中のメモリを見つめた。

 

 自らの意思で大気を駆け、剣を振るった時の感覚は、今も鮮明に記憶に残っている。

 

 あの戦いで得られたものは、単なる性能試験の結果などではなかった。

 

 異なる世界の技術が、このキヴォトスに持ち込まれ、長い年月を経て再び動き始めている。そして、その力を手にした仮面ライダーは、黒服の予想とは異なる選択を繰り返していた。

 

 これから、彼はどのような記憶を手にするのだろう。その時、何を守り、何を選ぶのだろう。

 

「クックックッ……」

 

 黒服は、愉快そうに笑った。

 

「さて。皆さんの研究が、どのような結果を生むのか。そして、あの仮面ライダーが次に何を見せてくれるのか……実に、楽しみです」

 

 その場に集った者たちも、それぞれ異なる思惑を抱きながら、手元に渡された小箱へ目を向けた。

 

 カイザーの現地責任者が失脚し、アビドスでの騒動が一つの区切りを迎えたとしても、ガイアメモリを巡る研究が終わったわけではない。

 

 むしろ、彼らにとっては、ようやく新しい探求の準備が整ったところだった。

 

 アビドスの砂漠を離れ、ゲヘナへ帰る一人の少年は、自分の知らないところで再び研究対象として語られていることなど、知る由もなかった。

 

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