青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
ゲヘナ自治区へ戻ってきた頃には、すでに日が傾き始めていた。
見慣れた街並みを車窓から眺めながら、翔は小さく息を吐いた。
アビドスを離れてから数時間。帰路の途中、アコから事件の報告や今後の予定について何度か話を振られたものの、怪我人ということで、大半の時間は休ませてもらっていた。
「……やっぱり、戻ってくると落ち着くな」
「随分と余裕そうですね、翔さん」
運転席から、アコの声が返ってくる。
「まあな。ずっとアビドスにいたから、なんか久しぶりって感じがする」
「実際、かなりの日数を空けていますからね。風紀委員会としても、報告していただきたいことが山ほどあります」
「うっ……帰って早々、それか」
「当然です。ですが、今日のところは休んでいただきます。ヒナ委員長からも、そう指示されていますので」
「……ああ。助かるよ」
珍しく素直に礼を言うと、アコは少しだけ意外そうな顔をした。
「何ですか、その反応。最初から大人しくしてくだされば、私だって無理に仕事をさせたりしませんよ」
「いや、いつも世話になってるなって思っただけ」
「……そういうことは、もう少しご自身の行動を振り返ってから仰ってください」
そう言いながらも、アコの口調はどこか柔らかかった。
翔は苦笑しつつ、携帯端末を取り出した。
アビドスを出る前、ホシノにはゲヘナへ着いたら連絡すると約束している。短いメッセージを送ると、思いのほか早く返信が届いた。
『おかえり~。無事に着いてよかったよ。今日はちゃんと休むんだよ、翔くん』
続いてシロコからも、肩が治ったらサイクリングの予定を決めようという連絡が届く。
……あいつ、本当に楽しみにしてるんだな。
思わず笑みを浮かべていると、隣からアコが声を掛けてきた。
「随分と楽しそうですね。アビドスの皆さんですか?」
「ああ。無事に着いたら連絡するって約束してたから」
「そうですか。それだけ心配してくださる方が増えたのですから、これからは一層、ご自身の身体を大切にしてくださいね」
「……耳が痛い」
「まだまだ言い足りませんけど?」
「勘弁してくれって……」
翔の情けない声を聞いて、アコは小さく笑った。
* * *
ゲヘナに到着した翔が最初に連れていかれたのは、風紀委員会の執務室ではなく、救急医学部の医務室だった。
「翔さんの診察については、事前に手配してあります。アビドスでの診療記録も送っていただきましたので、改めて詳しく確認してもらいましょう」
「……なあ、アコ」
「何でしょう?」
「これ、もしかして最初から決まってた?」
「当然です。まさか、あの状態で帰ってきた翔さんを、そのままお帰しすると思っていたんですか?」
「……ですよね」
どうやら、今日の予定に関して翔の意見が反映される余地は、最初からほとんどなかったらしい。
そんなことを考えながら医務室の扉を開けると、白衣を纏った少女が、端末に表示された診療記録を確認していた。
「……お待ちしていました」
顔を上げたのは、ゲヘナ学園救急医学部の部長、氷室セナだった。
「お久しぶりです、翔さん。今回も負傷されたと伺っています」
「……久しぶり、セナ。また世話になるよ」
「はい。では、早速診察を始めましょう。そちらへお掛けください」
セナはいつもと変わらない無表情で椅子を示すと、翔の左肩に巻かれた包帯へ視線を向けた。
「……以前も申し上げたと思いますが、あまり無理はなさらない方がよろしいかと」
「……はい」
「今回は特に、相当な負担が掛かっていたようですね。診療記録によると、負傷した後も戦闘を継続されたとか」
「いや、その……色々あってさ」
「そうですか。事情はともかく、傷の状態を確認させていただきます」
セナは淡々と答えると、包帯を外し、慎重に患部を診始めた。
痛みの有無や腕を動かせる範囲を確認しながら、アビドスでの診療記録と照らし合わせていく。翔も尋ねられたことには素直に答えていたが、肩を少し動かしたところで顔をしかめた。
「……っ!」
「痛みがありますね」
「ああ。ちょっとだけ」
「ちょっと、ですか」
セナが端末へ何かを入力する。
その横で、アコがじっと翔を見つめていた。
「……何だよ」
「いえ。何でもありません」
「絶対何か言いたそうだろ」
「セナ部長の診察が終わってから、まとめてお話ししましょう」
「……勘弁してくれ」
二人のやり取りを聞いていたセナが、淡々と口を開いた。
「アコさん。今のところ、傷の回復は順調です。ただし、まだ激しい運動は控えていただく必要がありますね」
「やはり、そうですか」
「はい。今の段階で無理をすれば、治癒が遅れる可能性があります」
セナは包帯を巻き直すと、改めて翔へ向き直った。
「しばらくは安静にしてください。重い物を持ったり、肩に負担の掛かる運動をしたりすることも避けていただきたいところです」
「了解。しばらくは店の仕事も控えるよ」
「……以前も、似たようなことを仰っていた気がしますが」
「うっ……」
翔が言葉に詰まる。
「今回は本当に大人しくしてるって」
「そうしていただけると助かります。私も、同じ患者さんを何度も搬送するのは避けたいので」
セナは表情を変えずに答えた。
すると、隣にいたアコが小さく頷く。
「安心してください、セナ部長。翔さんが無茶をしないよう、こちらでもしっかり確認しておきますので」
「ありがとうございます。それなら、私も安心ですね」
「……二人とも、俺のこと信用してなさすぎじゃない?」
「これまでの行動を思い返してから仰ってください」
「……はい」
アコの即答に、翔は肩を落とした。
その様子を見たセナは、最後に診療記録を保存すると、いつもの落ち着いた声音で告げた。
「それでは、診察は以上です。次回の診察まで、くれぐれも安静になさってください」
「ああ。ありがとう、セナ」
「いえ。お大事にしてください」
翔が椅子から立ち上がると、アコがすかさず荷物を持ち上げた。
「では、翔さん。次は委員長のところへ向かいましょう」
「……まだどこか行くの?」
「当然です。帰ってきたことくらい、ご自身で報告してください」
「……分かったよ」
どうやら、ひだまりへ戻るまでには、もう少し時間が掛かりそうだった。
* * *
風紀委員会の庁舎へ戻ると、翔とアコは、そのままヒナの執務室へ向かった。
扉を開けると、書類に目を通していたヒナが顔を上げた。
「……翔」
「ただいま、ヒナ」
翔が声を掛けると、ヒナは一瞬だけ目を見開いた。
それから、いつもの落ち着いた表情で席を立つ。
「……おかえり。身体の具合は?」
「ああ。さっきセナにも診てもらった。傷は順調に回復してるってさ」
「……そう。よかった」
その声には、わずかな安堵が滲んでいた。
ヒナは翔の左肩へ目を向け、少しだけ眉を寄せる。
「昨日までの報告は読んだわ。先生たちを助けてくれたことも、ホシノを救出できたことも聞いてる。でも……」
「……分かってる。ちょっと無茶しすぎた」
「ちょっと、で済む話じゃないと思うけど」
「うっ……」
翔が言葉に詰まると、ヒナは小さくため息をついた。
「……まあ、今はいいわ。ちゃんと帰ってきてくれたんだから」
「……ヒナ」
「詳しい話は、身体が回復してから聞かせて。今は休むこと。それから……」
ヒナは一度言葉を切り、少しだけ声を落とした。
「マスターにも、ちゃんと顔を見せてあげて」
翔はその言葉に、自然と笑みを浮かべた。
「ああ。これから帰るつもりだよ」
「そう。……なら、気をつけて」
「ありがとう、ヒナ」
ヒナは小さく頷くと、アコへ視線を向けた。
「アコ。今日はもう、翔の仕事は入れないで」
「はい。承知しています、委員長。これから、ひだまりまで送り届ける予定です」
「お願いね」
「……まったく。二人とも、俺が一人じゃ帰れないみたいな扱いだな」
「その肩で、よくそんなことが言えますね」
アコが即座に言い返す。
ヒナも、呆れたように翔を見つめていた。
「……翔。今は大人しく言うことを聞いて」
「……はい」
結局、二人を相手にする翔に勝ち目はなかった。
* * *
喫茶店「ひだまり」の前に到着した頃には、すっかり夕方になっていた。
アコが車を停めると、翔は窓の外へ目を向けた。
見慣れた店の看板。通りに面した大きな窓。そして、入口の扉に掛けられた、いつもの営業中の札。
アビドスでの出来事が、随分と遠い昔のことのように感じられる。
「……帰ってきたな」
「翔さん。お荷物はこちらで持ちますので、先にお入りください」
「ああ。ありがとう」
アコから紙袋だけを受け取り、翔は店の扉を開けた。
からん、と軽やかなベルの音が響く。
「いらっしゃい……翔か」
カウンターの向こうから声を掛けたのは、黒猫の店主、ニャン次郎だった。
翔の姿を認めたマスターは、持っていた布巾を置き、厨房から出てきた。
「ようやく帰ってきたな」
「……ただいま、マスター」
「ああ。おかえり」
いつもと変わらない、落ち着いた返事だった。
しかし、マスターの視線は真っ先に翔の左肩へ向けられていた。
「……随分と派手にやられたようだな」
「いや、これでもだいぶ治ったんだって」
「そうか。なら、明日から仕込みを手伝ってもらってもいいな?」
「……すみません。しばらく休ませてください」
「最初からそう言え」
マスターは静かに答えると、翔の右肩を軽く叩いた。
「無事に帰ってこいと言っただろう。……まあ、帰ってきただけでもよしとするか」
「……ああ。心配かけたな」
「分かっているなら、今度からもう少し自分の身体のことも考えろ」
「……はい」
翔が素直に頷くと、マスターはようやく表情を緩めた。
「説教は後だ。飯は食べたのか?」
「いや、まだだけど……」
「なら、座って待っていろ。すぐに用意する」
そう言って厨房へ戻りかけたマスターが、ふと足を止めた。
「……そちらは?」
「あっ、失礼します」
翔の荷物を運んできたアコが、店内へ入ってきた。
「ゲヘナ風紀委員会の天雨アコです。翔さんをお送りしました」
「ニャン次郎だ。この店の店主をしている。わざわざ送ってきてくれて、ありがとう」
「いえ。こちらも、翔さんには色々とお世話になっていますので」
「そうか。……何か迷惑を掛けなかったか?」
「いえ……まあ、色々とありましたが」
「アコ!?」
「事実でしょう?」
「……否定できない」
翔が肩を落とすと、マスターは小さく笑った。
「なるほど。随分と世話になったようだな」
「……お世話しているつもりはありませんが、少なくとも、翔さんには今後もう少し慎重に行動していただきたいところです」
「それについては同感だ」
「ちょっと待って。二人とも、初対面なのに意気投合してない?」
「まともなことを言っているだけだ」
あっさりと返され、翔は言葉を失った。
それを見ていたアコが、思わず小さく吹き出す。
しばらくぶりに戻ってきたひだまりは、やはり、いつもと変わらない場所だった。
* * *
翔がいつもの席へ腰を下ろすと、マスターは慣れた手つきで厨房へ戻り、鍋に火を入れた。ほどなくして漂ってきた料理の香りに、翔はようやく空腹を思い出した。
「……ああ、この匂い。久しぶりだな」
「何日留守にしていたと思っている。大げさだな」
「いや、アビドスにいる間、結構ここの飯が恋しくなってたんだよ」
「……そうか」
マスターは短く答えると、温めていた料理を皿へ盛り付けた。
「なら、しっかり食べておけ。今日は何もしなくていい」
「……ありがとう、マスター」
「礼は元気になってから、仕事で返してもらう」
いつものやり取りに、翔は思わず笑みを浮かべた。
テーブルへ運ばれてきた料理を口にすると、自然と肩の力が抜けていく。何度も食べてきたはずの味なのに、今日は妙に懐かしく感じられた。
「……うん。やっぱり、マスターの飯が一番落ち着くな」
「そうか。それならよかった」
そんな二人を、向かいの席に座ったアコが少し意外そうに眺めていた。
「……翔さん、普段はこんな感じなんですね」
「ん? どんな感じ?」
「いえ。随分と寛いでいらっしゃるな、と」
「そりゃ、家だからな。ここ」
何気なく返した言葉に、マスターがちらりとこちらを見た。
けれど、何も言わずに再び厨房へ戻っていく。
「……そうですか」
アコもそれ以上は何も言わず、運ばれてきたコーヒーへ口をつけた。
しばらくして、翔が食事を終えた頃だった。
「翔。帰ってきたら話があると言ったのを覚えているか?」
「ああ。……説教じゃなかったのか?」
「それもある」
「やっぱりあるのか……」
翔が項垂れると、マスターは呆れたように息を吐いた。
「そうじゃない。カイザーの件だ」
その一言に、翔は顔を上げた。
アコもカップを置き、マスターへ視線を向ける。
「……カイザー、ですか?」
「ああ。アコさん、頼みがある」
「何でしょうか?」
「風紀委員長に伝えてくれないか。閉店後で構わないから、一度ここへ来てほしいと」
「ヒナ委員長に?」
アコが訝しげに眉を寄せた。
「一体、何のご用件でしょうか?」
「昔の話を、少しな」
マスターは静かに答えた。
「今回捕まったカイザーの理事についても、もしかしたら役に立つ話ができるかもしれない」
翔は、その言葉を聞いて目を見開いた。
「……マスター。それって」
「ああ」
マスターは短く頷いた。
「そろそろ、俺も黙っているわけにはいかないだろうからな」
* * *
閉店後のひだまりは、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
入口の札はすでに裏返され、店内には柔らかな照明だけが灯っている。カウンターの奥ではマスターが最後の片付けを済ませており、翔はその様子を自分の席から眺めていた。
ほどなくして、入口のベルが鳴った。
「……こんばんは。遅くなってごめんなさい」
店へ入ってきたのはヒナだった。その後ろには、仕事用の端末を携えたアコの姿もある。
「いらっしゃい。わざわざ来てもらってすまないな」
「いえ。アコから、カイザーに関してお話があると聞きました」
「ああ。とりあえず、座ってくれ」
マスターはカウンターから出ると、二人を奥のテーブル席へ案内した。
ヒナが席に着くと、アコはその隣へ腰を下ろし、端末を開く。
「それで、どのようなお話でしょうか。事前に詳しい内容を伺っていなかったものですから」
「……その前に、一つ頼みがある」
マスターは二人の顔を順番に見た。
「これから話すことは、できるだけ限られた人間の間に留めてほしい。もちろん、捜査に必要な情報まで隠してくれとは言わない。ただ、俺の過去を必要以上に広めたくはないんだ」
「内容によっては、正式な記録を残す必要がありますが……」
「それは構わない。必要な相手に、必要な範囲で伝えてくれればいい」
アコがヒナへ視線を向ける。
ヒナは少し考えてから、静かに頷いた。
「分かりました。まずはお話を聞かせてください。その上で、情報の扱いについても相談しましょう」
「ああ。助かる」
マスターは二人の向かいに腰を下ろした。
一度だけ翔の方へ目を向けると、彼は小さく頷いてみせる。
それを確認したマスターは、改めて口を開いた。
「俺は昔、カイザーで研究員をしていた」
「…………」
店内に、しばしの沈黙が落ちた。
アコは目を見開き、思わずマスターを凝視した。
「……カイザーの、研究員ですか?」
「ああ。あの会社が発掘した遺物を調べていた」
「……翔。あなたは、このことを知っていたの?」
ヒナの問いに、翔は頷いた。
「ああ。マスターから聞いてた。ただ、本人の許可もなく話せることじゃなかったからさ……」
「そうだったのね……」
「翔を責めないでくれ。黙っていてほしいと頼んだのは俺だ。風紀委員会に話さなかったのも、俺自身の判断だ」
マスターが静かに口を挟む。
ヒナは小さく頷くと、改めて彼へ向き直った。
「それで、あなたはカイザーで何を研究していたの?」
「……ガイアメモリだ」
マスターは静かに答えた。
「もっとも、俺がいた頃には、今のような疑似メモリ兵器なんてモノは無かった。研究していたのは、発掘された本物のガイアメモリと、それを人工的に再現するための技術が中心だったな」
「……なるほど」
ヒナが小さく息を吐く。
彼女の視線が、翔へ向けられた。
「それで、翔が使っているドライバーやメモリのことも……」
「ああ。翔に渡したのは俺だ。あの技術がどれだけ危険なものかも、よく知っているつもりだ」
「……そうだったのね」
ヒナは納得したように頷いた。
一方、アコはまだ驚きを隠せていなかった。翔が仮面ライダーとして戦うための装備を、カイザーの元研究員から受け取っていたとは思いもしなかったのだ。
「……では、翔さんが使用しているロストドライバーやガイアメモリも、元々はカイザーが保有していたものなのですか?」
「ああ。俺が会社を離れる時に持ち出したものだ」
「なるほど……。それなら、現在カイザーが進めている研究についても、何か手掛かりをご存じなのでは?」
「昔の研究についてなら説明できる。ただ、今のカイザーが何を作り、どこへ流しているのかまでは知らない。俺が会社を離れてから、随分と時間も経っているからな」
「……そうですか」
アコは一度考え込むように視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「それでも、当時の研究について詳しい方のお話を伺えるのは、非常に助かります」
「ああ。俺に分かることなら話そう」
マスターは頷いたが、そこで一度言葉を切った。
「ただ、その前に……俺が今まで黙っていた理由も、話しておくべきだろうな」
その声音が、わずかに低くなる。
翔は黙ってマスターを見つめた。彼が何を話そうとしているのか、既に察していた。
「俺には、昔、親友がいた。同じ研究所で働いていた奴だ」
マスターは、カウンターの方へ目を向けた。
「研究熱心で、料理も上手い奴だった。この店で出している料理にも、あいつから教わったものが多い」
「……そうだったんですね」
アコが静かに相槌を打つ。
マスターは小さく頷いたが、その表情に笑みはなかった。
「だが、あいつはもういない。……カイザーに殺されたんだ」
「……!」
アコが息を呑んだ。
ヒナも表情を引き締めたが、口を挟まずに続きを待った。
「それ以来、俺はあの会社と二度と関わりたくないと思っていた。研究からも離れて、ここで店を始めた。できれば、昔のことはもう思い出したくなかったんだ」
マスターは淡々と語っていた。
しかし、翔には分かっていた。こうして過去を口にするだけでも、彼にとっては簡単なことではないのだろう。
カイザーでの出来事について話す時、マスターはいつも必要なことだけを短く伝え、それ以上は語ろうとしなかった。翔も、無理に聞き出そうとしたことはない。
「……それなのに、今回の事件を知った」
マスターは顔を上げ、ヒナとアコを見た。
「あの会社は、今度は生徒を誘拐し、危険な研究に利用した。翔も、そいつらと戦ってこんな怪我をして帰ってきた」
「……マスター」
「正直に言えば、今でもカイザーとは関わりたくない。あいつらの名前を聞くだけでも、昔のことを思い出す」
マスターは一度言葉を切った。
「だが、俺が黙っていたところで、あの会社が同じことを繰り返すなら……もう、知らない顔はできないだろう」
翔は何も言わなかった。
マスターがこれまで、自分にどれだけ多くのことを教え、力を貸してくれたのかを知っている。そんな彼が、自らの過去を風紀委員会へ明かすという決断を、軽い気持ちでしたはずがなかった。
「俺はもう、あいつを取り戻すことはできない。だが、今の俺にもできることはある」
マスターは、改めてヒナたちへ向き直った。
「だから、俺の知っていることが捜査の役に立つなら、協力したい。そう思ったんだ」
「……分かりました」
ヒナは静かに頷いた。
「辛いお話をしてくださって、ありがとうございます。いただいた情報は、責任を持って扱います」
「ああ。頼む」
マスターは短く答えた。
アコも、それまでの驚きを収め、真剣な表情で口を開いた。
「……マスターさん。私からも、ありがとうございます。ご事情を知らず、先ほどは失礼しました」
「気にする必要はない。今まで黙っていたのは事実だからな」
「それでも、今回こうしてお話しいただけたことには、感謝しています」
マスターは小さく頷いた。
その様子を見届けたヒナが、改めて本題へ戻る。
「それじゃあ、お願いしてもいいかしら。今回押収した疑似メモリ兵器について、あなたに確認してほしい資料があるの」
「ああ。見せてくれ」
アコが端末を取り出し、押収された兵器の資料を表示する。
マスターは差し出された端末を受け取ると、しばらく黙って画面を見つめた。
表示されているのは、ゲヘナで押収された疑似メモリ兵器の外観と、内部構造の一部だった。
「……なるほど」
「何か分かりますか?」
「少なくとも、俺がいた頃の研究が元になっているのは確かだろうな。ただ、随分と改良されている」
マスターは画面を拡大し、装置の一部分を指差した。
「ここだ。制御媒体の接続部に、小さな刻印があるだろう?」
「……ええ。識別番号のようですが」
「昔の研究所で使っていた管理方式によく似ている。装置の型番ではなく、試験記録を管理するための番号だ」
アコが眉を寄せた。
「……試験記録?」
「ああ。新しい装置を作る時には、どの研究成果を使っているのか、後から追えるようにしていた。今も同じ管理方式を使っているなら、これと対応する試験記録が残っている可能性がある」
マスターは端末をアコへ返した。
「ただし、同じ方式を使い続けているとは限らない。そこは、実際の記録と照らし合わせる必要があるだろうな」
アコは、すぐに別の資料を開いた。
「……委員長。地下施設から回収したデータの中に、まだ照合できていない研究記録があったはずです」
「ええ。連邦生徒会側でも、解析を進めていると聞いているわ」
「その記録と、今の番号を照合できれば……」
「ああ。製品として流れた装置が、どの研究から生まれたものなのか分かるかもしれない」
マスターは頷いた。
「俺の記憶だけでは証拠にならないが、調べる場所を絞ることくらいはできると思う」
「……それでも、十分に価値のある情報です」
ヒナは真剣な表情で答えた。
「今まで別々に調べていた記録を、繋げられる可能性があるもの」
「なら、協力させてくれ。昔の研究資料について、俺に分かることなら説明する」
「……ありがとうございます」
ヒナが丁寧に頭を下げた。
マスターは少しだけ首を振った。
「礼を言われるようなことじゃない。むしろ、もっと早く話しておくべきだったのかもしれないな」
「……事情があったのでしょう」
ヒナは静かに言った。
「でも、今こうして話してくれたことには意味があるわ。必要な手続きは、こちらで進める」
「……頼む」
短く答えると、マスターは小さく息を吐いた。
その様子を、翔は黙って見つめていた。
これまでマスターは、自分の過去を必要以上に語ろうとはしなかった。翔には多くのことを話してくれたが、それでも親友を失った時のことや、カイザーとの決別については、触れたがらない部分もあった。
そんなマスターが、今は自分の意思で、その過去を風紀委員会へ明かしている。
翔は、少しだけ背筋を伸ばした。
今回の事件で、自分一人ではできなかったことを、何度も周囲の人たちに助けてもらった。マスターもまた、自分の過去と向き合うことで、新たな一歩を踏み出そうとしている。
……俺も、いつまでも守ってもらってばっかりじゃいられないな。
そんなことを考えていると、マスターがこちらへ顔を向けた。
「……翔。何を考えている?」
「いや。なんでもない」
「また余計なことを考えているんじゃないだろうな」
「……何で分かるんだよ」
「お前の顔を見れば分かる」
あっさりと返され、翔は苦笑した。
そのやり取りを見ていたヒナが、小さく笑みを浮かべる。
「……翔がここを気に入っている理由、少し分かった気がする」
「だろ?」
「……だからといって、無茶をしていい理由にはならないけど」
「結局そこに戻るの!?」
翔の抗議に、アコまで頷いた。
「当然です。今日のところは、そもそも安静にしていただく予定だったんですから」
「あっ……」
「……翔。もう遅い時間だし、先に休んで」
ヒナにまで言われ、翔は降参したように両手を上げかけた。左肩が痛み、慌てて右手だけに直す。
その様子を見た三人の視線が、一斉に険しくなった。
「……はい。寝ます」
マスターは呆れたようにため息をついた。
「今日はもう休め。片付けは俺がやる」
「……分かったよ。ヒナ、アコ。今日はありがとな」
「ええ。ゆっくり休んで」
「お休みなさい、翔さん。明日も、無理は禁物ですよ」
「ああ。おやすみ」
翔が居住スペースへ続く階段を上がっていくと、店内には再び静けさが戻った。
マスターはその背中を見送り、ぽつりと呟く。
「……あいつも、随分と知り合いが増えたな」
「……ええ」
ヒナは、少しだけ表情を和らげた。
「アビドスでも、みんなに慕われていたみたい」
「そうか。……それならよかった」
マスターは静かに頷いた。
アコは、そんな二人を見比べながら、小さく息を吐いた。
「……どうやら、翔さんを心配しているのは、私たちだけではないようですね」
「当然だ。あいつは、この店の大事な従業員だからな」
そう言ったマスターの声には、いつもの落ち着いた調子が戻っていた。
「……それに」
マスターは、翔が上がっていった階段へもう一度目を向けた。
「あいつには、ちゃんと帰ってこられる場所が必要だからな」
ヒナはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「……そうね。私も、そう思う」
短いやり取りの後、三人は再び卓上の資料へ目を向けた。アコが確認すべき研究記録を整理し、ヒナは連邦生徒会とヴァルキューレへの正式な情報提供について話し始める。
マスターも、かつての管理方式について、記憶している範囲で補足を加えた。
これまで誰にも明かさずにきた過去が、初めて現在の捜査へと繋がろうとしていた。
それが亡くなった親友への償いになるのか、マスター自身にも分からない。
ただ、今度こそ、カイザーが誰かの大切なものを奪うのを、黙って見ているつもりはなかった。
* * *
翌日。
風紀委員会の執務室では、アコが朝から端末と睨み合っていた。
机の上には、ゲヘナで押収された疑似メモリ兵器の資料と、アビドスの地下施設から回収された研究記録の一覧が並んでいる。
昨夜、マスターから教えられた管理方式を手掛かりに、照合すべき資料を洗い出したのだ。
「……やはり、ありました」
アコが、端末の画面を拡大する。
「委員長。昨日の識別番号ですが、地下施設の研究記録にも、対応するものが確認できました」
「……本当?」
ヒナが席を立ち、アコの隣へ歩み寄った。
「ええ。まだすべての記録を確認できたわけではありませんが、少なくともゲヘナで押収された装置と、アビドスの地下施設で使われていた装置は、共通の研究系列に属していた可能性が高いです」
「……なるほど」
ヒナは、画面に表示された番号を見つめた。
「それなら、カイザーの現地責任者が関与していた研究と、ゲヘナへ流通した兵器の間にも、繋がりが見えてくるかもしれないわね」
「はい。ですが、これだけでは、まだ決定的とは言えません」
「分かってる。正式な照合が必要ね」
ヒナは自分の端末を取り出した。
「リン首席行政官へ連絡して。ヴァルキューレが押収した資料と、こちらの記録を照合したいと伝えて」
「承知しました」
アコがすぐに連絡を始める。
その日の午後には、連邦生徒会とヴァルキューレの担当者を交えた正式な情報共有が行われた。
マスターも、元研究員として知っている範囲の説明を求められた。個人的な記憶と実際に確認できる資料を区別しながら、かつて使用されていた管理方式について証言する。
その結果、押収された研究記録の一部に、これまで見落とされていた関連性が見つかった。
ゲヘナで流通していた疑似メモリ兵器の一部は、カイザーの地下施設で進められていた研究成果を基に製造されていた可能性が高い。そして、その研究計画の承認記録には、拘束された理事が管理していた部門の名前が残されていた。
これまで理事は、問題の兵器について、外部業者や現場の独断によるものだと主張していた。
しかし、研究記録と承認履歴を照合したことで、その説明には新たな疑問が生じることになった。
* * *
その夜。
ひだまりでは、いつもどおりの営業時間が終わろうとしていた。
カウンター席に腰を下ろした翔は、マスターが淹れてくれた温かい飲み物を口にしながら、端末に届いたアコからの連絡を確認していた。
「……おっ」
「どうした?」
「アコから。昨日の話、捜査の役に立ったみたいだぞ」
「……そうか」
マスターは短く答えた。
翔が端末を置くと、彼はいつものようにカップを磨きながら、静かに口を開いた。
「……少しは、あの頃のことに決着をつけられたかもしれないな」
「……マスター?」
「独り言だ。気にするな」
翔は少しだけ首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
マスターが自分から話したくなった時に、聞けばいい。今はそれで十分だった。
「でも、ありがとな。マスター」
「……何の礼だ?」
「ヒナたちに協力してくれて。結構、勇気が要ったんじゃないか?」
マスターは手を止め、翔へ目を向けた。
「……お前に心配されるとはな」
「いや、真面目な話なんだけど」
「分かっている」
そう答えたマスターは、しばらく黙っていた。
「……俺は、あの会社から離れて、もう二度と関わらないつもりだった。だが、結局、今のカイザーがやっていることを見過ごすわけにはいかなかったんだろうな」
「……そっか」
「ああ。それに……」
マスターは、少しだけ笑った。
「お前があそこまで身体を張ってきたのに、俺だけいつまでも知らない顔をしているわけにもいかないだろう」
「……マスター」
「勘違いするなよ。お前に無茶をしてこいと言っているわけじゃないからな」
「……分かってるって」
「なら、よし」
マスターは満足そうに頷くと、磨き終えたカップを棚へ戻した。
翔は、温かい飲み物をもう一口飲んだ。
アビドスでの戦いは、確かに終わった。けれど、カイザー本体はまだ健在であり、疑似メモリ兵器の流通も完全には止まっていない。黒服が持ち去った情報や、真正ガイアメモリの行方についても、分からないことばかりだった。
それでも、今回の出来事によって、少しずつ変わり始めたものがある。
マスターが自らの過去を明かし、ヒナやアコと協力するようになったことも、その一つだった。
「……なあ、マスター」
「何だ?」
「これから、ヒナたちがここに来ることも増えるかもな」
「客が増えるなら、俺は歓迎するぞ」
「いや、仕事の話ばっかりになったら、あんまり休まらないんじゃ……」
「だったら、仕事が終わった後に何か食べていけばいい。ここは喫茶店だからな」
何でもないことのように答えるマスターを見て、翔は思わず笑った。
「……そっか。そうだよな」
「ああ。だから、お前も早く怪我を治せ。いつまでも俺一人に店を任せておくつもりか?」
「分かってるって。早く仕事に戻れるようにするよ」
「だからといって、無理はするな。……セナに何と言われた?」
「……安静に」
「なら安静にしていろ」
「マスターまでそれ言うのかよ……!」
「まともなことを言っているだけだ」
結局、最後はいつもの説教になってしまった。
それでも、翔は不思議と嫌な気分にはならなかった。
窓の外では、ゲヘナの街が夜の賑わいを見せ始めている。そんな街の片隅で、ひだまりの灯りは今日も変わらず、暖かく灯っていた。
かつての過去を打ち明けたマスターと、新たな仲間たちに支えられながら帰ってきた翔。
これから先も、きっと様々な事件に巻き込まれることになるだろう。だが、どれだけ遠くへ行ったとしても、ここには自分を待っている人がいる。
翔は、すっかり空になったカップをカウンターへ置いた。
「……ごちそうさま、マスター」
「ああ。今日はもう寝ろ」
「うん。おやすみ」
いつもと変わらないやり取りを交わし、翔は自分の部屋へと向かった。
その背中を見送ったマスターは、店内の照明を一つずつ落としながら、小さく呟いた。
「……本当に、手の掛かる奴だ」
けれど、その声はどこか嬉しそうだった。
最後に入口の札を裏返すと、彼は今日もまた、ひだまりの一日を終えた。