青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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閑話① 参上!キラキラ部!

 

 

 アビドスから帰ってきて、数日が経った。

 

 ゲヘナ自治区の一角にある喫茶店「ひだまり」では、今日もいつもどおりの朝が始まっていた。

 

 窓から差し込む日差しが店内を明るく照らし、厨房からは食欲をそそる香りが漂ってくる。開店からしばらく経ち、朝食を済ませた常連客たちが帰っていくと、店内には穏やかな時間が流れ始めた。

 

「……よし、終わった」

 

 風間翔は、片手に持っていた布巾を畳み、拭き終わったテーブルを眺めた。

 

 左腕はまだ三角巾で吊っているものの、アビドスにいた頃と比べれば、痛みは随分と落ち着いている。セナからは順調に回復していると言われていたし、普通に歩き回る分には何の問題もなかった。

 

 ただし、それと仕事をさせてもらえるかどうかは別の話だった。

 

「翔。次は何をするつもりだ?」

 

 厨房から声が掛かる。

 

「ん? とりあえず、こっちの食器を片付けようかなって」

 

「それは俺がやる。お前はレジを頼む」

 

「いや、皿くらい運べるって。右手は普通に使えるし」

 

「そう言って、昨日は棚の上にある食器を取ろうとしていただろう」

 

「……見てたのか」

 

「見ていた。医学部部長に何と言われた?」

 

「……肩に負担を掛けるなって」

 

「なら、言われたとおりにしていろ」

 

 反論の余地はなかった。

 

 翔は諦めて布巾を置き、レジのあるカウンターへ戻る。

 

 マスターは小さく息を吐くと、洗い終えた皿を棚へ戻した。

 

「今日は注文と会計だけでいい。疲れたら休め」

 

「分かってるって。……でも、マスターだけに全部任せるのも悪いだろ?居ない間、任せっぱなしだったし……」

 

「お前が居ない間、誰がこの店をやっていたと思っている?」

 

「……マスターです」

 

「なら問題ないな」

 

 いつもの落ち着いた口調で返され、翔は苦笑した。

 

 そのままカウンターの端へ目を向けると、見覚えのある紙袋が置かれていた。

 

「あ、そうだ。昨日渡したお土産、食べた?」

 

「アビドスでもらった菓子のことか?」

 

「ああ。ノノミが、マスターにもよろしくって」

 

「食べたぞ。なかなか美味かった。今度、礼を伝えておいてくれ」

 

「了解」

 

 アビドスを離れる際、ノノミが持たせてくれた焼き菓子だった。店に戻ってから二人で食べたが、まだいくつか残っている。

 

「それにしても、向こうでも随分と世話になったみたいだな」

 

「まあな。アビドスのみんなには本当に助けられたよ。先生にも」

 

「そうか。今度は遊びにでも行ってこい。仕事じゃなくてな」

 

「そのつもり。シロコにもサイクリングに誘われてるし」

 

「なら、その肩を先に治さないとな」

 

「……結局そこに戻るんだな」

 

「当然だ」

 

 翔は笑いながら頷いた。

 

 こうして店の仕事を手伝い、マスターと他愛もない話をしていると、アビドスで過ごした日々が少し遠い出来事のように感じられる。

 

 あちらで知り合った人たちと、これからも会う約束がある。そして、帰ってくれば、いつもどおりの生活が待っている。

 

 どちらも、今の翔にとって大切なものだった。

 

「……さて。今日は昼過ぎまで、そんなに忙しくなさそうだな」

 

 店内を見渡しながら呟いた、その時だった。

 

 からん、と入口のベルが鳴った。

 

「やっほー! 翔っち、いるー?」

 

 聞き慣れた、明るい声。

 

 翔が振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた夜桜キララと、その後ろから顔を覗かせる旗見エリカの姿があった。

 

「おっ、キララにエリカ。久しぶり!」

 

「翔っちー! おかえりー!」

 

 キララは翔を見つけるなり、大きく手を振って駆け寄ってくる。

 

 ところが、その視線が翔の左肩へ向いた瞬間、ぴたりと足を止めた。

 

「……って、えっ!? 翔っち、その腕どうしたの!?」

 

「あー……ちょっと怪我してさ」

 

「ちょっとって、それ全然ちょっとじゃなくない!?」

 

 キララの後ろから近づいてきたエリカも、翔の肩を見て眉を寄せた。

 

「帰ってきたって聞いてたけど、そんな怪我してたんだ。大丈夫なの?」

 

「ああ。もう結構治ってきてるから。心配掛けてごめんな」

 

「もう……帰ってきたなら、ちゃんと連絡してよね」

 

「いや、キララたちにも連絡しようとは思ってたんだけど、帰ってから色々あってさ」

 

「もー! あたしたち、翔っちに話したいこといっぱいあったのに!」

 

 キララが頬を膨らませる。

 

 翔は苦笑しながら、二人をいつもの席へ案内した。

 

「悪かったって。今日はゆっくりできるんだろ? 好きなだけ話していけよ」

 

「……ほんと?」

 

「ああ」

 

 その返事を聞いた途端、キララの顔がぱっと明るくなった。

 

「やった! じゃあ、今日は超重大発表がありまーす!」

 

「……重大発表?」

 

 翔が首を傾げる。

 

 その横で、エリカが早くも苦笑していた。

 

「キララちゃん。それ、注文してからでもよくない?」

 

「あっ、そっか! じゃあ、いつものお願いしまーす!」

 

「はいはい。エリカは?」

 

「私もいつもの。あと、翔もちゃんと座っててね。怪我人なんだから」

 

「……今日、俺の味方いなくない?」

 

「まともなことを言っているだけだ」

 

 厨房から、マスターの声が返ってきた。

 

「マスターまで!?」

 

 キララとエリカの笑い声が、店内に響く。

 

「……今日、俺の味方いなくない?」

 

「まともなことを言っているだけだ」

 

 厨房から、マスターの声が返ってきた。

 

「マスターまで!?」

 

「ちょうど客も落ち着いたところだ。二人の注文は俺が用意するから、お前は少し休憩してこい」

 

「……分かったよ」

 

 キララとエリカの笑い声が、店内に響いた。

 

 翔は注文をマスターへ伝えると、二人が座っているテーブルへ向かった。エリカが向かいの椅子を引き、ここに座れと言わんばかりに手で示している。

 

「はいはい。座ればいいんだろ、座れば」

 

「そうそう! 翔っち、今日はあたしたちといっぱいおしゃべりしよ!」

 

「さっきから、それは伝わってるって」

 

 翔が腰を下ろすと、キララは待ちきれないといった様子で身を乗り出してきた。

 

「ねえねえ! さっき言ってた重大発表なんだけど!」

 

「おっ、そうだった。何かあったのか?」

 

「ふっふっふー! それはね……!」

 

「キララちゃん。せめて飲み物が来てからにしない?」

 

「えー!? もう言っちゃいたいんだけど!」

 

 そんな二人のやり取りを眺めているうちに、マスターが飲み物を載せたトレーを持ってやってきた。

 

「待たせたな。いつもの二つだ」

 

「ありがと、マスター!」

 

「ありがとうございます」

 

 マスターは二人の前にグラスを置くと、翔にも飲み物を用意してくれた。

 

「お前も少し休んでいろ。何かあれば呼ぶ」

 

「ああ。ありがとう、マスター」

 

 翔が礼を言うと、マスターは小さく頷き、カウンターへ戻っていった。

 

 それを見届けたキララが、待ってましたと言わんばかりに胸を張る。

 

「ではでは、改めまして! 翔っちに超重大発表がありまーす!」

 

「おう。今度こそ聞かせてもらおうか」

 

 その隣で、エリカが早くも苦笑していた。

 

「翔、びっくりすると思うよ」

 

「……そんなに?」

 

「うん。キララちゃん、今日ずっとこの調子だから」

 

「ちょっとエリカちゃん! もっと盛り上げてよー!」

 

「はいはい。すごーい。何があったのかなー?」

 

「棒読みじゃん!」

 

 翔が思わず吹き出すと、キララは仕切り直すように一度咳払いをした。

 

「このたび、あたしたちは新しい部活を立ち上げましたー!」

 

「……えっ、部活?」

 

「そう! その名も……キラキラ部!」

 

 キララが両手を広げる。

 

「……キラキラ部?」

 

 翔は少しの間、その言葉を頭の中で反芻した。

 

 名前は聞き覚えがある。ただ何をする部活だったか記憶が朧気で定かではない。 

 

「そうそう! どう? めっちゃよくない?」

 

「いや、名前は分かったんだけど……何する部活なんだ?」

 

「それはね、毎日いろんなキラキラを見つけて、ワクワクすることをいっぱいやる部活!」

 

「……なるほど?」

 

 分かったような、分からないような。

 

 翔が首を傾げると、エリカが笑いながら補足した。

 

「まあ、キララちゃんらしい部活だよね。楽しいことがあったら何でもやってみよう、って感じかな」

 

「ああ、そういうことか。……って、それ、今までとあんまり変わらないだろ?」

 

「翔っちー! そこは言っちゃダメなやつ!」

 

「いや、だって、いつも楽しそうなこと見つけて二人で出掛けてるだろ?」

 

「うん。私も最初はそう思った」

 

「エリカちゃんまで!?」

 

 三人が笑っていると、マスターが追加の水を持ってきた。

 

「随分と楽しそうだな。部活を作ったのか?」

 

「そうなんですよ、マスター! あたしたち、今日からキラキラ部なんです!」

 

「そうか。おめでとう」

 

「やったー! マスターが一番ちゃんとお祝いしてくれた!」

 

「……俺もおめでとうって言おうとしてたんだけど」

 

「じゃあ、言って言って!」

 

「キラキラ部、設立おめでとうございます」

 

「ありがとー!」

 

 キララは満足げに頷くと、グラスに口をつけた。

 

 その様子を見ながら、翔はもう一度尋ねた。

 

「でも、急にどうしたんだ? 二人とも、今まで帰宅部だったよな」

 

「それがさー、最近見た映画が超よくて! 放課後にみんなで集まって、部活に打ち込む青春って、めっちゃキラキラしてるじゃん?」

 

「あー、なるほど。それに憧れたのか」

 

「そうなの! だから、エリカちゃんと一緒に、いろんな部活を体験してきたんだ!」

 

 そこから始まった二人の話は、翔の想像以上に賑やかなものだった。

 

 万魔殿ではイブキと遊び、給食部では料理作りに挑戦し、さらには救急医学部にまで足を運んだらしい。

 

「……ちょっと待て。救急医学部?」

 

「そそ! 翔っちも知ってる? セナさん!」

 

「むしろ、さっきまで話題にしてたくらいには知ってる。こっちに戻ってきた時も診てもらったし」

 

「あ、そっか! 翔っち、今セナさんのお世話になってるんだ!」

 

「お世話になってるっていうか……お世話にならない方がいいんだけどな」

 

 翔が苦笑すると、エリカも頷いた。

 

「それは本当にそう。セナさんのお仕事は大事だけど、翔は怪我しないでよね」

 

「はい……」

 

「でねでね! 給食部もすっごかったんだよ!」

 

「ああ、前に俺が手伝ってたところ、お前らも見に来てたよな」

 

「そそ! 翔っち、あの時めっちゃ忙しそうだったじゃん!」

 

「……まあ、色々あったからな。で、今回は二人も料理を作ったのか?」

 

「うん! フウカちゃんたちに教えてもらいながらね!」

 

 そこで、エリカが何とも言えない表情を浮かべた。

 

「……ジュリちゃんの料理、見てるだけの時と自分で作る時じゃ、全然違うね」

 

「……あー、なるほど」

 

 翔は、その一言ですべてを察した。

 

「動くって分かってても、いざ自分で作ってみると大変だろ?」

 

「そうなの! あたしたち、前に翔っちが手伝ってるところ見てたから、心の準備はできてたつもりだったんだけど!」

 

「実際に体験すると、やっぱりびっくりするよね……」

 

 エリカの言葉に、翔も苦笑した。

 

「まあ、ジュリは普通に美味しい料理を作ろうとしてるんだけどな」

 

「そうなんだよねー! すっごく頑張ってるんだけど、出来上がった料理がさ!」

 

「……元気いっぱいなんだよな」

 

「翔っち、それ褒めてる!?」

 

「一応、褒めてるつもりなんだけどな」

 

 三人は顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。

 

「でも、二人とも楽しめたみたいでよかったよ」

 

「うん! でね、今度は翔っちも一緒に給食部の体験しようよ!」

 

「……俺、もう手伝ったことあるんだけど?」

 

「だからこそだよ! 経験者がいたら心強いじゃん!」

 

「ジュリの料理に経験者も何もあるか!?」

 

 翔の抗議にも、キララは楽しそうに笑うばかりだった。エリカまで乗り気になっているあたり、今後また給食部の手伝いをすることになるかもしれない。

 

「……で、給食部以外はどうだったんだ? ほかにも色々回ったんだろ?」

 

「もちろん! どこもめっちゃ楽しかったよ!」

 

「うん。普段はなかなかできないことも体験できたし、知らなかったこともいっぱいあったよね」

 

 エリカが頷くと、キララも嬉しそうに身を乗り出した。

 

「そうそう! それに、みんな自分の部活が大好きなんだなーって思った!」

 

「へえ。じゃあ、体験してるうちに入りたい部活も見つかったんじゃないか?」

 

「それがねー……」

 

 キララはエリカと顔を見合わせ、揃って苦笑した。

 

「どこも楽しくて、逆に決められなくなっちゃったんだよね」

 

「あー、なるほど。そういうことか」

 

 そんなふうに様々な部活を回った二人だったが、どの部活にもそれぞれ魅力があり、結局一つには決められなかったのだという。

 

「で、キララちゃんが言い出したんだよね。やりたいことがいっぱいあるなら、自分たちで部活を作ればいいんじゃないかって」

 

「だってさ、一つに決めちゃったら、ほかの楽しいことを見逃しちゃうかもしれないじゃん? だったら、全部楽しめる部活を作ればいいんだよ!」

 

「……なるほどなあ」

 

 翔は、改めて二人の顔を見た。

 

 毎日を楽しみたいから、自分たちで部活を作る。あまりにも自由な発想だが、確かに二人らしい。

 

「いいじゃん、キラキラ部。俺は結構好きだぞ、そういうの」

 

「……ほんと!?」

 

「ああ。やりたいことがいっぱいあるなら、最初から一つに絞る必要もないだろ」

 

「でっしょー!?」

 

 キララは嬉しそうにエリカの肩を叩いた。

 

「ほらほら! 翔っちも分かってくれた!」

 

「うんうん。でも、最初から翔も賛成してたと思うよ」

 

「まあな。二人が楽しそうなら、それでいいと思うし」

 

 そう答えると、キララがにやりと笑った。

 

「……というわけで、翔っち!」

 

「ん?」

 

「キラキラ部、入っちゃわない?」

 

「……俺が!?」

 

 思わず大きな声が出た。

 

 その反応が面白かったのか、キララはますます楽しそうに笑っている。

 

「そうそう! 翔っちも一緒だったら、絶対もっと楽しいじゃん!」

 

「いや、ちょっと待て。俺、そもそもゲヘナの生徒じゃないけど」

 

「あ、そっか」

 

「今気づいたのかよ!」

 

 翔が思わず突っ込むと、エリカが口を挟んだ。

 

「じゃあ、特別ゲストってことにすれば?」

 

「それいい! キラキラ部、最初の特別ゲストは翔っちで決定!」

 

「……俺の意見は?」

 

「えー? 嫌なの?」

 

 キララが、わざとらしく寂しそうな顔をする。

 

「いや、嫌とは言ってないけど……」

 

「じゃあ決まり!」

 

「早いな!?」

 

 エリカが楽しそうに笑った。

 

「まあ、正式に入部してもらうわけじゃないし。今までと同じように、一緒に遊びに行けたらいいよね」

 

「それなら全然いいよ。肩が治ってからになるけどな」

 

「もちろん! 今すぐ連れ回すつもりはないから」

 

 エリカが翔の左肩へ視線を向ける。

 

「キララちゃんも、ちゃんと分かってるよね?」

 

「分かってるってば! 翔っちには早く元気になってもらわなきゃだし!」

 

「……ありがとうな、二人とも」

 

 翔が笑うと、キララも満足そうに頷いた。

 

「それじゃあ、これからは三人でキラキラな思い出、いっぱい作ろー!」

 

 キララが拳を突き出す。

 

 エリカも笑いながら、それに自分の拳を軽く合わせた。

 

 翔も右手を伸ばし、二人の拳へそっと触れた。

 

「おう。よろしくな、部長さん」

 

「えへへ! 任せて、翔っち!」

 

 結成したばかりのキラキラ部に、早くも一人の特別ゲストが加わることになった。

 

 もっとも、部室も活動予定も、まだ何一つ決まっていなかったのだが。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 しばらくして、三人の会話が一段落した頃。

 

 マスターが、厨房から小さなトレーを持って出てきた。

 

「ちょうどいい。三人とも、少し試食を頼めるか?」

 

「……試食?」

 

 翔が振り向くと、トレーには小ぶりなグラスが三つ並んでいた。

 

 透明なグラスの中には、白いヨーグルトクリームと、砕いたビスケット、色鮮やかなベリーのソースが層になっている。上には数種類の果実が飾られ、見た目にも華やかなデザートだった。

 

「わっ、何これ! めっちゃ可愛い!」

 

 キララが身を乗り出す。

 

「新しいメニュー?」

 

「まだ試作中だ。少し酸味が強いかもしれないから、感想を聞かせてほしい」

 

「えっ、いいんですか!?」

 

「ああ。ちょうど三人いるからな」

 

「やったー! マスター、ありがと!」

 

 キララは目を輝かせながらグラスを受け取り、すぐさま携帯端末を取り出した。

 

「待って待って! 食べる前に写真撮りたい!」

 

「……やっぱりな」

 

 エリカが笑いながら、自分のグラスをキララの方へ寄せる。

 

「せっかくだし、三つ並べて撮ろうよ」

 

「いいね! 翔っちのもこっち!」

 

「はいはい」

 

 翔がグラスを寄せると、キララは角度を変えながら何枚も写真を撮り始めた。

 

「……あのさ、キララ」

 

「んー?」

 

「もしかして、それもキラキラ部の活動なのか?」

 

「……あっ!」

 

 キララの動きが止まった。

 

 そして、ぱっと顔を上げる。

 

「それだ! ひだまりでのキラキラ部、第一回活動!」

 

「……えっ、俺が言ったの!?」

 

「翔っち、ナイスアイデア!」

 

 エリカも、楽しそうに頷いた。

 

「まあ、結成記念のタピオカはもう飲んできたけどね」

 

「あ、そうだ。二人とも、もう活動してたのか」

 

「そそ! さっきまで飲んでたんだよ! 部活設立のお祝い!」

 

「……じゃあ、今日だけで随分と飲んだり食べたりしてるな」

 

「キラキラ部だからね!」

 

「その理屈、万能すぎないか?」

 

 三人が笑っていると、マスターがスプーンを置いた。

 

「溶ける前に食べたらどうだ?」

 

「あっ、そうだった! いただきまーす!」

 

 キララが最初にスプーンを口へ運ぶ。

 

「……んんっ! おいしー!」

 

 その反応を見て、エリカも一口食べた。

 

「ほんとだ。甘すぎないし、これなら食後でもいけそう」

 

「どれどれ……」

 

 翔も右手でスプーンを持ち、グラスの中身をすくった。

 

 ヨーグルトの爽やかな酸味と、ベリーの甘酸っぱさがよく合っている。砕いたビスケットの食感もアクセントになっており、見た目よりも軽い仕上がりだった。

 

「……うん。美味い。俺は結構好きだな、これ」

 

「そうか。酸味はどうだ?」

 

「俺はこのくらいでいいと思う。キララたちは?」

 

「めっちゃ好き! でも、もうちょい甘くてもいいかも!」

 

「私は今のままでもいいかな。甘い飲み物と一緒に頼むなら、このくらいがちょうどよさそう」

 

「なるほど」

 

 マスターは二人の感想を聞きながら、手元のメモに何かを書き込んだ。

 

「では、クリームの甘さだけ少し調整するか」

 

「あとあと! 名前も考えようよ!」

 

 キララが元気よく手を挙げた。

 

「名前?」

 

「そう! こんなに可愛いんだから、メニュー名も可愛くしたいじゃん!」

 

「……確かに。今のままだと、ベリーとヨーグルトのグラスデザート、だもんな」

 

 翔が呟くと、キララは両手を組んだ。

 

「うーん……キラキラベリーパフェとか!」

 

「……それ、部活の名前を付けただけじゃない?」

 

 エリカが冷静に突っ込む。

 

「えー! 可愛いじゃん!」

 

「可愛いけど、何でもキラキラ付けちゃってない?」

 

「だってキラキラ部だし!」

 

「いや、店のメニューだからな?」

 

 翔も思わず笑ってしまった。

 

「じゃあ、翔っちは? 何かいい名前ない?」

 

「俺?」

 

 突然話を振られ、翔は改めて目の前のグラスを眺めた。

 

 白いクリームに、鮮やかな赤いベリーソース。見た目も華やかだし、せっかくなら一度聞いただけで印象に残る名前がいい。

 

 ……赤、ベリー、衝撃。もう少しこう、響きに迫力が欲しいよな。

 

 考えているうちに、頭の中ではいつの間にか、好きな仮面ライダーの必殺技が参考になっていた。

 

「……クリムゾン・ベリー・ブレイク、とか?」

 

「…………」

 

「…………」

 

 キララとエリカが、揃って動きを止めた。

 

「……ぷっ! あはははっ! 何それ、翔っち!」

 

「ちょっと待って! デザートの名前だよね!?」

 

「えっ、そんなに変か? 結構格好いいと思ったんだけど」

 

「いや、格好いいけどさ! 何かの必殺技みたいじゃん!」

 

 キララはスプーンを構えると、勢いよく振り下ろす仕草をした。

 

「くらえっ! クリムゾン・ベリー・ブレイク!!」

 

「おい、やめろって!」

 

「……あははっ! キララちゃん、それじゃデザートを真っ二つにしちゃうよ!」

 

 エリカも笑いをこらえきれない様子だった。

 

「ねえ、翔。なんで普通のパフェにそんな物騒な名前を付けようと思ったの?」

 

「物騒って……ほら、何かインパクトあるだろ?」

 

「インパクトありすぎだって! 注文する時、絶対恥ずかしいよ!」

 

「えー、あたしはちょっと注文してみたいかも! クリムゾン・ベリー・ブレイク、一つくださーい!」

 

「……だから、普通に言ってくれ!」

 

 キララが楽しそうに笑う一方で、翔は少しずつ自分の失敗に気づき始めていた。

 

 ……しまった。完全にそっちの方向に引っ張られてた。

 

 普段から変身音声や必殺技の名前に慣れ親しんでいるせいか、格好いい名前を考えようとすると、どうしても似たような発想になってしまう。

 

「ふふっ、良いと思うぞ必殺技ならな」

 

 マスターまで、口元を押さえて笑っている。

 

「……マスターまで笑わなくてもよくない!?」

 

「いや。なかなか印象に残る名前だと思うぞ」

 

「絶対そう思ってないだろ!」

 

「注文するには少し勇気が要りそうだな」

 

「ほら、やっぱり!」

 

「翔っち、マスターにも却下されちゃったじゃん!」

 

「分かったよ! もう少し普通の名前にするって!」

 

「えー、でもさ、もしその名前で出すなら、メニューの写真もめっちゃ格好よくしたいよね!」

 

「キララちゃん、本当に気に入っちゃったの?」

 

「うん! 名前だけ聞いたら、どんなデザートが出てくるのか全然分かんないところが面白い!」

 

「……それ、メニュー名としてどうなんだ?」

 

 翔のもっともな疑問にも、キララは笑うばかりだった。

 

 結局、三人でしばらく考えた末、デザートの名前は「午後のベリーパフェ」に落ち着いた。

 

 もっとも、キララは最初の案がよほど気に入ったらしく、その後も何かにつけて「クリムゾン・ベリー・ブレイク!」と叫んでは、翔とエリカを笑わせるのだった。

 

 翔が顔を赤くすると、二人はますます笑い始めた。

 

「……絶対、あとで誰かに言うだろ」

 

「えー? 言わないよー?」

 

「目を見て言ってみろ」

 

「あははっ!」

 

 その反応を見て、翔は諦めたように天井を仰いだ。

 

 今日の出来事は、しばらく二人にからかわれる材料になりそうだった。

 

 ひとしきり笑ったところで、エリカが思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、私たちの話ばっかりしてたけど、翔はアビドスでどうだったの?」

 

「ああ、そうだった! 翔っちのお土産話、まだ聞いてないじゃん!」

 

「お土産話って言ってもなあ……」

 

 翔は少し考えてから、アビドスでの出来事を話し始めた。

 

 どこまでも続く砂漠の景色。今も営業している柴関ラーメンのこと。そして、アビドス高等学校で知り合った対策委員会の面々。

 

「へえー! ラーメン屋さんがあるんだ! 行ってみたーい!」

 

「美味いぞ。そこの柴大将って人が作ってるんだけど、結構世話になってさ」

 

「じゃあ、今度三人で行っちゃう?」

 

「……いや、結構遠いぞ?」

 

「えー、でもさ、せっかくなら行ってみたいじゃん!」

 

 キララは早くも乗り気だったが、エリカが呆れたように笑った。

 

「キララちゃん。まずはゲヘナの中で活動しようよ。いきなり遠出したら、翔の肩も治らないでしょ?」

 

「あ、そっか。じゃあ、アビドスは今度のお楽しみ!」

 

「……もう活動予定に入ってるのか」

 

「もちろん!」

 

 翔が笑うと、キララも楽しそうに頷いた。

 

「ほかにはほかには? アビドスで友達とかできた?」

 

「ああ。さっきも話したけど、サイクリングに誘ってくれた奴がいてさ」

 

「えっ、サイクリング!? いいじゃん!」

 

「シロコっていうんだけど、自転車が好きみたいでな。肩が治ったら一緒に走る約束してる」

 

「へえー。翔っちって、バイクだけじゃなくて自転車も乗れたんだ?」

 

「いや、普通に乗れるだろ!?」

 

「でもでも、バイクと自転車って結構違くない?」

 

「それはそうだけど……まあ、久しぶりだし、ちゃんと走れるようにしとくよ」

 

 キララが楽しそうに笑う。

 

 その横で、エリカが少し考えるように首を傾げた。

 

「……それにしても、結構仲良くなったんだね」

 

「そうだな。最初は仕事で行ったんだけど、向こうのみんなには色々と世話になったし。今度は普通に遊びに行きたいと思ってる」

 

「いいじゃん! そういうの、めっちゃ青春って感じ!」

 

「キララちゃん、最近何でも青春って言ってない?」

 

「だって青春だもん!」

 

 翔は、そんな二人を見ながら笑った。

 

 アビドスでの出来事をこうして何気なく話せることが、少し不思議だった。

 

 砂漠の向こうで知り合った友人たちの話を、ゲヘナで待っていてくれた友人たちに聞いてもらう。それだけで、二つの場所が以前よりも近くなったような気がした。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 午後も半ばを過ぎた頃、ひだまりには数組の客が訪れていた。

 

 翔は二人との会話をいったん中断し、マスターに頼まれてレジの対応へ向かう。怪我をしてからは、こうした軽い仕事を任されることが増えていた。

 

 その背中を見送っていたキララが、ふと口を開く。

 

「……翔っち、元気そうでよかったね」

 

「……うん」

 

 エリカも、静かに頷いた。

 

 先ほどまではあんなに楽しそうに笑っていた二人だったが、翔が席を離れると、少しだけ表情が変わった。

 

「正直、あんな怪我してると思わなかったよ」

 

「だよねー……」

 

 キララは、ストローでグラスの中の氷を軽くかき混ぜた。

 

「帰ってきたって聞いた時はさ、またいつもみたいに、普通にお店にいるんだろうなーって思ってたんだけど」

 

「……うん。私も」

 

 エリカは、カウンターで客の会計をしている翔へ目を向けた。

 

 右手で器用にレジを操作し、客と笑顔で話している。時折、マスターから何か言われては、苦笑しながら返事をしていた。

 

 いつもと変わらない光景だ。

 

 けれど、左肩を吊る三角巾が、彼が普段とは違う状態であることを思い出させる。

 

「……翔、前からそういうところあるよね」

 

「そういうところ?」

 

「困ってる人がいたら放っておけないっていうか。自分が大変でも、先にそっちを助けようとするじゃん」

 

「……あー、分かる」

 

 キララが小さく頷いた。

 

「翔っち、何だかんだ優しいもんね。あたしたちといる時も、結構気に掛けてくれるし」

 

「うん。でも、それで自分が怪我してたら意味ないじゃん」

 

「……だよね」

 

 キララは、少しだけ頬を膨らませた。

 

「せっかく帰ってきたんだし、しばらくは楽しいことして、ゆっくりしてほしいなー」

 

「……そうだね」

 

 エリカも微笑んだ。

 

「また、普通に遊びに行けるようになるといいね」

 

「うん! そのためにも、キラキラ部の活動はしばらくお店でやろっか!」

 

「それ、翔の仕事の邪魔にならない?」

 

「あっ、そっか!」

 

 キララは少し考え込んだ。

 

「……じゃあ、翔っちが休憩してる時に来ればよくない?」

 

「私たちが休憩時間を決めるわけじゃないんだから……」

 

「えへへ。じゃあ、来た時に決めよ!」

 

 結局、いつものキララらしい結論に落ち着いた。

 

 そんな二人のところへ、ちょうど翔が戻ってきた。

 

「お待たせ。……ん? 何の話してたんだ?」

 

「えっ!? いやー、別に?」

 

 キララが、妙にわざとらしい笑みを浮かべる。

 

 翔は、思わず眉を寄せた。

 

「……何だよ、その反応」

 

「翔っち、次の活動いつにしよっかなーって!」

 

「……本当にそれだけか?」

 

「それだけそれだけ!」

 

 隣でエリカまで笑っている。

 

 怪しい。

 

 そう思った翔だったが、二人がそれ以上何も言わないので、結局追及することはなかった。

 

「まあ、いいけどさ。俺の肩が治ってからにしてくれよ?」

 

「もちろん! ……でも、またしばらく遠くに行く時は、ちゃんと連絡してね?」

 

「……ん?」

 

 翔がキララを見る。

 

 彼女は、いつもの明るい笑みを浮かべていた。

 

「だって、翔っちがいないと、遊び相手が一人減っちゃうじゃん!」

 

「……そっか」

 

 翔は少しだけ目を丸くすると、やがて笑った。

 

「ああ。今度はちゃんと連絡するよ」

 

「約束ね!」

 

「おう、約束」

 

 キララが満足そうに頷いた。

 

 その隣で、エリカも少しだけ安心したように微笑んでいた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 夕方。

 

 窓の外が茜色に染まり始めた頃、キララとエリカはようやく帰る支度を始めた。

 

「いやー、今日は楽しかった! 翔っち、久しぶりに会えてよかったよー!」

 

「俺も楽しかったよ。キラキラ部の話も聞けたしな」

 

「えへへ! まだまだこれからだからね!」

 

 キララは、携帯端末を取り出すと、今日撮った写真を次々と翔へ見せ始めた。

 

 新しいデザートの写真。三人のグラスを並べた写真。そして、いつ撮ったのか、少し顔を赤くして抗議している翔の姿まで収められている。

 

「……おい、ちょっと待て。この写真、いつ撮った!?」

 

「翔っちがクリムゾン・ベリー・ブレイクって言った時!」

 

「……消してくれませんかね!?」

 

「えー!? めっちゃいい写真じゃん!」

 

 キララが楽しそうに笑う。

 

 エリカも隣から画面を覗き込み、吹き出した。

 

「……あははっ! ほんとだ。翔、すごい顔してる!」

 

「頼むから、それ誰かに見せたりするなよ!?」

 

「えー? どうしよっかなー?」

 

「キララ!」

 

「冗談冗談! あたしたちだけの思い出にしとくって!」

 

 信用していいものか、非常に怪しい。

 

 翔が何とも言えない顔をしていると、エリカが笑いながら口を開いた。

 

「ほら、キララちゃん。最後に三人でも撮ろうよ」

 

「あっ、それいい! キラキラ部、記念写真!」

 

「……俺、特別ゲストなんじゃなかったっけ?」

 

「細かいことはいいの!」

 

 キララは翔の右側へ回り込み、携帯端末のカメラを起動した。

 

 エリカも反対側から近づき、三人が画面に収まるように位置を調整する。

 

「よーし! 翔っち、もっと笑って!」

 

「……これでいいか?」

 

「もっともっと!」

 

「要求が多いな!?」

 

 そんなやり取りをしているうちに、シャッター音が鳴った。

 

 画面に映っていたのは、満面の笑みを浮かべたキララと、楽しそうに微笑むエリカ。そして、その真ん中で少し困ったように笑う翔の姿だった。

 

「……うん! めっちゃいい感じ!」

 

「ほんとだ。いい写真じゃん」

 

 エリカも満足そうに頷く。

 

「翔にも送っとくね」

 

「おう。ありがとな」

 

 翔が礼を言うと、キララは端末をしまい、改めて二人へ向き直った。

 

「じゃあ、翔っち! 肩が治ったら、今度こそ三人で遊びに行こ!」

 

「ああ。どこ行くか考えといてくれよ」

 

「任せて! もう行きたいところ、いっぱいあるから!」

 

「……多すぎても困るからね?」

 

 エリカが、すかさず釘を刺す。

 

「えー! いいじゃん、いっぱいあっても!」

 

「翔の肩が治ったばっかりなのに、朝から晩まで連れ回すつもり?」

 

「……それはダメか」

 

「当たり前でしょ」

 

 翔は、二人のやり取りを聞きながら笑った。

 

「まあ、無理しない範囲でなら、どこでも付き合うよ」

 

「……言ったね、翔っち?」

 

「……あっ」

 

 しまった。

 

 そう思った時には、すでに遅かった。

 

 キララは満面の笑みを浮かべると、エリカの手を取った。

 

「よーし! じゃあ、次の活動計画、エリカちゃんと一緒に考えとくね!」

 

「……私も巻き込まれてるんだけど」

 

「だって副部長じゃん!」

 

「えっ、私、副部長だったの!?」

 

 翔は思わず吹き出した。

 

「……お前ら、まだそこも決まってなかったのかよ!」

 

「今決まった!」

 

「自由すぎるだろ、キラキラ部!」

 

 店内に、三人の笑い声が響いた。

 

 やがて、二人はマスターにも挨拶をすると、ひだまりの扉へ向かった。

 

「じゃあね、翔っち! また来るねー!」

 

「翔も、ちゃんと怪我治してよね!」

 

「分かってるって! 二人とも、気をつけて帰れよー!」

 

 翔が右手を振ると、キララとエリカも大きく手を振り返した。

 

 からん、と入口のベルが鳴る。

 

 二人の姿が通りの向こうへ消えていくまで見送ってから、翔はようやく店内へ戻った。

 

「……いやー、賑やかだったな」

 

「そうだな」

 

 カウンターの向こうで、マスターが小さく笑った。

 

「楽しそうだったじゃないか」

 

「ああ。キラキラ部、かあ……」

 

 翔は、先ほど二人が座っていた席へ目を向けた。

 

 テーブルはすでに片付けられ、そこにはいつもどおりの光景が広がっている。

 

「……何か、あいつららしいよな」

 

「そうだな。いい友達じゃないか」

 

「……ああ」

 

 翔は、自然と笑みを浮かべた。

 

 キヴォトスへ来てから、随分と多くの人と知り合った。マスターやキララ、エリカ。風紀委員会のみんなに、アビドスで出会った対策委員会の面々。

 

 最初は、知り合いなど誰もいない世界だった。それが今では、少し留守にしただけでも、帰ってきたことを喜んでくれる人たちがいる。

 

 ……何だか、不思議な感じだな。

 

 そんなことを考えていると、携帯端末が短く鳴った。

 

 画面には、キララから送られてきた先ほどの写真が表示されている。

 

『今日はありがとー! 次は元気な翔っちと、もっとキラキラしよーね!』

 

 続けて、エリカからもメッセージが届いた。

 

『ちゃんと肩を治してからだからね。マスターの言うこと聞くんだよ!』

 

「……あいつらまで、それ言うのかよ」

 

 翔が苦笑すると、マスターが不思議そうにこちらを見た。

 

「どうした?」

 

「いや、何でもない。……ただ、早く肩を治さないとなって」

 

「その調子だ。明日も無理はするなよ」

 

「……はいはい」

 

「本当に分かっているのか?」

 

「分かってるって!」

 

 いつものやり取りを交わしながら、翔は携帯端末をしまった。

 

 ひだまりの外では、夕暮れの街を生徒たちが楽しそうに歩いている。店内には、淹れたばかりのコーヒーの香りが漂い、厨房からはマスターが夕食の仕込みを始める音が聞こえてきた。

 

 特別なことなど、何も起こらなかった一日。

 

 けれど、こうして友人たちと笑い合い、また会う約束をして、一日を終えられる。

 

 今の翔には、それだけで十分だった。

 

「……さて、マスター。そろそろ閉店準備、手伝っていいか?」

 

「レジだけだ。それ以外は俺がやる」

 

「……ですよね」

 

 翔の情けない声が、再び店内に響いた。

 

 そして、ひだまりの一日は、いつもどおり穏やかに過ぎていった。

 

 

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