青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
ゲヘナの街が静かになることは、滅多にない。
今日も大通りには生徒たちの声が行き交い、商店街では客を呼び込む店員の声が響いている。どこかで小さな喧嘩が始まったかと思えば、その少し先では友人同士が楽しそうに買い物をしていた。
それでも、ここ最近のゲヘナには、以前とは少し違う空気が流れていた。
アビドスでの一件を経て、カイザーが進めていた大規模な作戦は頓挫した。各地で相次いでいた疑似メモリ兵器に関する騒動も、ひとまず落ち着きを見せている。
もちろん、ゲヘナそのものが平和になったわけではない。風紀委員会は今日も巡回を続けているし、何かあればすぐに動けるよう、警戒態勢も維持されていた。
ただ、少なくとも翔が連日のように調査へ駆り出されたり、風紀委員会の面々が新たな事件の報告に追われたりする日々は、いったん途切れていた。
そして今日、風間翔は久しぶりに、何の予定もない午後を迎えていた。
「……それじゃ、ちょっと出掛けてくるよ」
昼の混雑が一段落した喫茶店「ひだまり」で、翔はカウンターの向こうにいるマスターへ声を掛けた。
「ああ。本屋に行くんだったな」
「うん。バイクの整備について、もう少し詳しく書いてある本が欲しくてさ。ついでに日用品も見てくるつもり」
「そうか。今日はもう店のことは気にするな。ゆっくりしてこい」
「ありがと、マスター」
左肩の怪我は順調に回復していたが、まだ完治には至っていない。帰還後にセナの診察を受けてからも、無理をしないよう言われており、ひだまりでの仕事は接客と会計が中心になっていた。
今日も昼まで店を手伝ったところで、マスターから午後は休むように言われたのだ。
翔は右手で上着を取り、携帯端末と財布を確かめた。バイクはまだお預けなので、今日は徒歩で出掛けるつもりだった。
「夕食はいつもどおりでいいか?」
「ああ。普通に帰って食べるよ。何か買って帰ろうか?」
「いや、必要なものは揃っている。自分の買い物を楽しんでこい」
「了解。じゃあ、行ってきます」
「気をつけてな」
マスターに見送られ、翔は店を出た。
午後の日差しは心地よく、歩いているだけでも気分がよかった。特に急ぐ理由もないので、道沿いに並んだ店の看板やショーウィンドウを眺めながら、のんびりと商店街へ向かう。
以前なら、こうして街へ出る時も、何かしら調査の用事があった。風紀委員会から頼まれた資料を取りに行ったり、聞き込みのために店を訪ねたり。少し前までは、目当てのものを買った後も、次の予定を確認していることが多かった気がする。
……たまには、こういうのもいいよな。
翔は大通りを渡り、休日の生徒たちで賑わう商店街へ足を踏み入れた。
* * *
日用品の買い物を済ませ、本屋へ向かおうとしていた時だった。
「……あれ、翔?」
聞き慣れた声に振り向くと、スポーツ用品店の前に二人の少女が立っていた。
銀鏡イオリと、火宮チナツだった。
「おっ、イオリにチナツ! こんなところで会うとはな」
「こんにちは、翔さん」
チナツが微笑み、イオリも軽く手を上げた。
「今日は店の仕事じゃないのか?」
「昼までは働いてたよ。午後は休んでいいって言われたから、ちょっと買い物に来たんだ」
「そうだったのか。肩の具合はどうだ?」
「順調だよ。痛みもだいぶ引いてきたし」
「……そうか。それならよかった」
イオリは翔の左肩を一度見て、安心したように頷いた。
アビドスでの騒動については、既に二人とも報告を受けている。翔がどんな怪我を負ったのかも、今はセナの指示で療養していることも知っていた。
「二人は? 今日は休みか?」
「私たちは、さっきまで仕事だったんです」
チナツが答えた。
「午後の担当をほかの委員に引き継いで、ちょうど帰るところだったんですよ」
「そうそう。せっかく早めに終わったし、買い物でもしていこうかって話してたんだ」
イオリはそう言って、背後のスポーツ用品店へ目を向けた。
「……あ、そうだ。翔、今から何か用事があるのか?」
「いや、本屋に行こうと思ってたくらいだけど」
「だったら、ちょっと付き合わないか? 新しい靴を見ようと思ってるんだけど、一人じゃなかなか決められなくてさ」
「おお、いいぞ。ちょうど時間もあるし」
「私も、この後で寄りたい書店があるんです。翔さんもよろしければ、一緒にいかがですか?」
「もちろん。俺も本を探してたところだから、ちょうどいいよ」
翔が頷くと、チナツは嬉しそうに微笑んだ。
「それでは、まずイオリの買い物からですね」
「ああ。先に私の方に付き合ってもらってもいいか?」
「おう。行こうぜ」
こうして、偶然出会った三人は、そのまま一緒に買い物をすることになった。
何日も前から予定を合わせていたわけでも、特別な約束があったわけでもない。それでも、互いに時間があると分かれば自然と行動を共にする。今では、それくらい気安い間柄になっていた。
店内に入ると、イオリは慣れた様子でランニングシューズのコーナーへ向かった。
「あった。これだ」
彼女が手に取ったのは、白を基調に淡い青色をあしらった一足だった。
全体的にすっきりしたデザインで、普段イオリが履いているものよりも、少し明るい印象を受ける。
「へえ。いい色だな」
「だろ? 前に見つけてから、ずっと気になってたんだ」
「確かに、イオリが普段履いている靴とは少し雰囲気が違いますね」
チナツが隣から覗き込む。
「そうなんだよ。たまには、こういうのもいいかなと思ってさ」
イオリはシューズを持ち上げ、横から眺めたり、靴底を確かめたりしている。
翔も並んで商品を眺めながら、ふと口を開いた。
「せっかくだし、履いてみたらどうだ? 見た目が気に入っても、足に合わなかったら困るだろ」
「そうだな。ちょっと試してみるか」
店員に声を掛けてサイズを確認し、イオリは近くの椅子に腰を下ろした。
翔とチナツも、少し離れたベンチで待つことにする。
「……こうして買い物してるイオリを見るの、何か新鮮だな」
翔が何気なく呟くと、チナツが小さく笑った。
「普段は任務中にお会いすることが多いですからね。でも、イオリはこういうお店も結構好きなんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「はい。以前にも、一緒に運動用品を見に行ったことがあります」
そんな話をしているうちに、試着を終えたイオリがこちらへ歩いてきた。
「どうだ? 変じゃないか?」
翔は彼女の足元へ目を向けた。
「いいじゃん。似合ってるぞ」
「そうか?」
「ああ。色も綺麗だし、普段の服にも合いそうだな」
「私もそう思います。少し明るい色ですが、イオリによく似合っていますよ」
二人の感想を聞き、イオリはもう一度自分の足元へ目を落とした。
「……うん。私も、結構気に入ってる」
そう言ってから、彼女は売り場の空いている場所をゆっくり歩いた。何度か足を運んで感触を確かめ、つま先の辺りを軽く押してみる。
「履き心地も悪くないな」
「ほかのも試してみますか?」
チナツが尋ねると、イオリは少し考えてから頷いた。
「そうだな。せっかくだし、もう一足だけ」
結局、ほかのシューズとも履き比べてみたものの、イオリが選んだのは最初に手に取った一足だった。
「やっぱり、これにする」
「最初から気に入ってたもんな」
「ああ。二人とも、付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして。今度、その靴で走った感想でも聞かせてくれよ」
翔が言うと、イオリは笑って頷いた。
「だったら、翔も肩が治ったら一緒に走るか?」
「いいな。最近まともに身体を動かせてないし、ちょうどいいかも」
「じゃあ、治ったら声を掛けてくれ。休みが合えば付き合うぞ」
「おう。楽しみにしてるよ」
イオリが会計を済ませる間、翔は近くに並んでいたトレーニング用品を眺めていた。
以前なら、運動用の道具を見ても、ここまで興味を示すことはなかっただろう。けれど、ゲヘナへ来てからは身体を鍛える機会も増えたし、イオリたちと一緒に訓練したこともある。
そうした日々のおかげか、今では見慣れた道具も随分と増えていた。
「お待たせ」
買い物袋を提げたイオリが戻ってくる。
「よし。じゃあ、次はチナツの本屋だな」
「はい。ここから、それほど遠くありませんよ」
チナツが通りの奥を指差し、三人は再び商店街へ出た。
* * *
チナツが案内してくれた書店は、大通りから少し入ったところにあった。
大きな窓から店内の本棚が見える、落ち着いた雰囲気の店だった。入口の脇には新刊を紹介する手書きの案内が置かれ、窓際には小さな観葉植物が飾られている。
「へえ。こんなところに本屋があったのか」
「最近できたみたいですよ。以前から気になっていたんですが、なかなか寄る機会がなくて」
チナツは少し嬉しそうに答えると、二人を連れて店内へ入った。
中は、外の賑やかさが嘘のように静かだった。控えめな音量で音楽が流れ、木製の棚には雑誌から専門書まで、さまざまな本が並んでいる。
イオリは入口近くの新刊コーナーを眺め始め、翔は目当ての本が置いてありそうな棚を探した。
「翔さんは、何か探している本があるんですか?」
「ああ。バイクの整備について、もうちょっと詳しく知りたくてさ」
「風紀委員会の整備班の方々にも、いろいろ教わっていましたよね」
「そうなんだけど、何でも任せっぱなしっていうのもな。自分でできることくらいは覚えておきたいんだ」
「なるほど。……翔さんらしいですね」
チナツはそう言って、店内の案内板へ目を向けた。
「乗り物関係の本なら、あちらにあるみたいですよ」
「おっ、ほんとだ。ありがとな」
翔が目当ての棚へ向かうと、チナツも隣の書棚で足を止めた。
旅行記や写真集、哲学に関する本が並んだ一角だった。
彼女は何冊かの背表紙を眺めた後、風景写真の載った一冊を手に取った。
翔が整備の入門書を持って戻ってきた時、チナツはちょうどその本を開いているところだった。
「何かいいの見つかった?」
「あ、翔さん。ええ、こちらなんですが……」
差し出された本の表紙には、緑に囲まれた小さな街の写真が使われていた。
中を開くと、古い石造りの建物や、花の咲く庭、小さな商店街など、さまざまな土地の風景が紹介されている。写真の脇には、その街を訪れた人が書いた短い文章も添えられていた。
「綺麗なところだな」
「そうでしょう? 何となく手に取ったんですが、文章も面白くて」
チナツはページをめくり、一枚の写真を指差した。
「ここなんて、素敵だと思いませんか?」
そこには、川沿いの遊歩道に面した小さな喫茶店が写っていた。木陰に置かれたテラス席では、数人の客が飲み物を楽しんでいる。
「いいなあ。こんなところで、のんびりコーヒーでも飲めたら最高だろうな」
「はい。私も、いつか行ってみたいです」
「チナツは、こういう静かな場所が好きなんだな」
「そうですね。普段はどうしても慌ただしいので、休みの日くらいは、ゆっくり過ごしたくなります」
そう答えるチナツの声は、いつもより少し柔らかかった。
翔も隣から写真を眺める。川沿いの道には木々が並び、その先には緩やかな坂道が続いていた。
「……この辺り、バイクで走るのも気持ちよさそうだな」
「ふふ。翔さんなら、そうおっしゃると思いました」
「はは。分かりやすかったか」
「ええ。景色のいい道を見ると、いつも気にしていますから」
チナツは小さく笑った後、もう一度写真へ視線を落とした。
「でも、同じ景色でも、見る人によって興味を持つところが違うのは面白いですね」
「そうだな。俺はやっぱり道の方を見ちゃうし」
「私は、こういう場所に暮らしている人たちが、普段どんなふうに過ごしているのか気になります」
「……なるほどな」
写真の中には、買い物袋を提げて通りを歩く人々や、店先で談笑している人々の姿もあった。
観光名所として紹介されるような場所ではなくても、そこで暮らす誰かにとっては、きっと何でもない日常の風景なのだろう。
そう考えると、少し前まで翔たちがいたアビドスの街も、誰かにとっては同じような場所だったのかもしれない。
「……こういう本、たまにはいいな。俺も少し興味が湧いてきた」
「でしたら、読み終わったらお貸ししますよ」
「いいのか?」
「はい。翔さんにも、感想を聞いてみたいですから」
「ありがとな。じゃあ、楽しみにしてるよ」
翔が笑うと、チナツも嬉しそうに微笑んだ。
そこへ、イオリが一冊の本を手に戻ってきた。
「二人とも、何かいいの見つかったか?」
「ああ。俺はこれにしようと思ってる」
翔が整備の入門書を見せると、イオリは表紙を眺めて頷いた。
「へえ。自分でも整備するつもりなのか?」
「簡単なところからな。整備班に教わったことも、ちゃんと覚えておきたいし」
「いいんじゃないか。分からないことがあったら、また整備班に聞けばいいしな」
「そうするよ。イオリは?」
「私はこれ。何となく見つけたんだけど、結構面白そうだったからさ」
イオリが見せてくれたのは、各地のスポーツや競技を紹介した雑誌だった。
「へえ。こっちも面白そうだな」
「だろ? 知らない競技も結構載ってるんだ」
「イオリも気に入った本が見つかったようですね」
チナツが微笑む。
「ああ。……チナツは、それ買うのか?」
「はい。せっかくなので、こちらにしようかと思っています」
イオリは写真集を受け取り、ぱらぱらとページをめくった。
「……いいな、これ。こんな場所があるんだ」
「イオリも気になりますか?」
「ああ。今度、私にも貸してくれないか?」
「もちろんです」
チナツが頷くと、イオリは本を返した。
「じゃあ、買い物が済んだら、そろそろ昼飯にしないか? さすがに腹が減ってきた」
「そうですね。私、近くに一度行ってみたかったお店があるんです」
「おっ、どんな店?」
「サンドイッチと軽食が中心のカフェです。この時間なら、少し落ち着いていると思いますよ」
「いいな。そこにしようぜ」
三人はそれぞれの本を購入すると、書店を後にした。
店を出る際、チナツはもう一度、手元の写真集へ目を落とした。今日の帰りに読むつもりなのか、その表情はどこか楽しげだった。
翔はそんな彼女を見ながら、何となく嬉しくなった。
風紀委員会で働いている時のチナツも、もちろんよく知っている。
けれど、こうして休日に好きな本を選んでいる彼女を見るのも、悪くなかった。
* * *
チナツが案内してくれたカフェは、書店から歩いて数分のところにあった。
通りに面した大きな窓と、店先に並べられた鉢植えが目印になっている。店内にはゆったりとした音楽が流れ、窓際の席には柔らかな日差しが差し込んでいた。
「ここ、前から気になってたんです」
メニューを開きながら、チナツが言った。
「仕事帰りに見かけることはあったんですが、なかなか入る機会がなくて」
「いい店だな。結構落ち着いてるし」
翔が店内を見渡すと、チナツは少し嬉しそうに微笑んだ。
「気に入っていただけたならよかったです」
イオリもメニューを手に取り、写真の載ったページを眺め始めた。
「……このサンドイッチ、美味しそうだな」
「あ、それなら私も気になっていました。季節限定だそうですよ」
「へえ。じゃあ、それにしようかな」
イオリはメニューを翔の方へ少し傾けた。
「翔はどうする?」
「俺は……このランチプレートかな。何か、結構腹減ってきたし」
「お前、さっきは本屋に夢中だったもんな」
「そういうイオリも、結構長いこと雑誌見てただろ?」
「まあな。ああいうの、見始めるとなかなかやめられないんだよ」
翔が笑って頷くと、チナツもメニューを閉じた。
「では、私はパスタにします。飲み物も一緒に頼んでしまいましょうか」
三人はそれぞれ注文を済ませ、窓の外を眺めながら料理を待つことにした。
商店街の通りには、休日を楽しむ生徒たちの姿があった。友人と並んで歩く者もいれば、大きな買い物袋をいくつも抱え、どこか満足そうに店を出てくる者もいる。
「……こういうのも、いいな」
イオリが何気なく呟いた。
「何が?」
「いや、仕事が終わってから、こうして買い物して飯を食べてさ。最近、あんまりそういう時間もなかっただろ?」
「ああ……確かにな」
翔も頷いた。
風紀委員会の面々とは、これまで何度も顔を合わせてきた。けれど、少し前までは新しい疑似メモリ兵器の調査や、各地で起こる事件への対応など、仕事の話ばかりだった気がする。
気がつけば、ひだまりでの会話も調査の打ち合わせになっていたり、たまたま街で会った相手から新しい事件の情報を聞いたりすることも多かった。
だからこそ、今日のように何も考えずに買い物を楽しめる時間は、何だか久しぶりだった。
「最近は、私たちも通常の巡回に戻ることが多くなりましたからね」
チナツが静かに口を開いた。
「まだ忙しい日もありますが、以前と比べれば、少し余裕ができたと思います」
「そうだな。今日だって、予定どおりに引き継ぎが終わったから、こうして買い物に来られたわけだし」
イオリも頷く。
「もっとも、委員長とアコちゃんは、今日も本部だけどな」
「ああ。ヒナとアコ、今日も仕事なのか」
「うん。委員長は本部で指揮を執ってる。アコちゃんも、その補佐だな」
翔は、二人の顔を思い浮かべた。
アビドスから帰還した後も、ヒナとアコは何かと忙しそうだった。疑似メモリ兵器に関する大がかりな対応が減ったとはいえ、風紀委員会の仕事そのものがなくなるわけではない。
「……二人とも、ちゃんと休憩できてるといいんだけどな」
「その辺りは、今日は比較的落ち着いていると思いますよ」
チナツが答えた。
「午後の巡回も予定どおりですし、大きな問題がなければ、少しは休めるはずです」
「だったらいいな」
翔は頷き、運ばれてきた飲み物に口をつけた。
その後、話題は自然と今日の買い物へ移っていった。
イオリは購入したシューズをいつから使おうか考えているらしく、休日に走る時の話をしてくれた。チナツも、先ほど買った写真集に載っていた景色の中から、特に気に入った場所をいくつか挙げていた。
「翔さんは、ひだまりの方はいかがですか?」
食事が運ばれてきた頃、チナツが尋ねた。
「ああ。店は順調だよ。最近はマスターも、新しいメニューを考えてるみたいだし」
「新しいメニュー?」
イオリが顔を上げる。
「ベリーを使ったデザートなんだけどさ。この前、キララとエリカが来た時に、三人で試食したんだ」
「ああ、あの二人か。最近、部活を作ったって聞いたけど」
「そうそう。キラキラ部だってさ。二人とも、すごく楽しそうだったよ」
「ふふ。お二人らしいですね」
チナツが微笑んだ。
「今度、俺も活動に付き合うことになっててさ。正式な部員にはなれないから、特別ゲストらしいけど」
「……何でもやってみる部活、だったか?」
「ああ。どんなことするのか、まだよく分かってないんだけどな」
「まあ、いいんじゃないか? 面白そうだし」
イオリはそう答え、サンドイッチを一口食べた。
「……あ、これ美味しいな」
「本当ですか?」
「ああ。チナツも少し食べてみるか?」
「いいんですか? では、一口だけ」
チナツはイオリから小さく分けてもらったサンドイッチを口に運び、満足そうに頷いた。
「……美味しいですね。今度は、私もこちらを頼んでみようかな」
「だったら、また来ればいいじゃん」
翔が何気なく言うと、二人も顔を上げた。
「そうだな。今日だけじゃ、ほかのメニューも試せないし」
「ええ。また時間がある時にでも」
そんな話をしながら、三人はゆっくりと昼食を楽しんだ。
時折、会話が途切れることもあったが、誰もそれを気にすることはなかった。窓の外を眺めたり、運ばれてきた料理の感想を話したり、思い出したように別の話題を持ち出したり。
今では、何も話さずに過ごしている時間でさえ、心地よかった。
昼食を終えた三人は、もう少しだけ商店街を歩くことにした。
イオリが新しく買った靴に合わせる靴下を見つけたり、チナツが小さな雑貨店で気に入った栞を買ったり。翔も途中で立ち寄った文房具店で、ひだまりの仕事に使えそうな小さなノートを購入した。
それぞれの買い物を済ませ、そろそろ帰ろうかという話になった頃だった。
「あ、少しいいですか?」
菓子店の前で、チナツが足を止めた。
「どうした?」
「せっかくですから、委員長とアコ行政官にも何か買っていきませんか?」
そう言って、店先に並んだ焼き菓子を指差す。
「ああ、いいな。それ」
イオリが頷いた。
「二人とも、今日は本部で仕事してるしな。差し入れでも持っていくか」
「だったら、俺も一緒に選ばせてくれよ」
「もちろんです。皆さんで選んだ方が、きっと喜んでいただけると思います」
三人は菓子店へ入り、ショーケースに並んだ商品を眺め始めた。
色鮮やかなタルトや、小さなケーキも美味しそうだったが、本部へ持っていくことを考えると、仕事の合間でも食べやすい焼き菓子の方がよさそうだった。
「委員長には、これなんてどうでしょう?」
チナツが指差したのは、レモン風味の小さな焼き菓子だった。
「いいんじゃないか? 甘すぎなさそうだし」
イオリも賛成する。
「ヒナなら、こういうの気に入りそうだな。前にひだまりでも、似たような菓子を食べてたし」
翔も頷いた。
「じゃあ、そっちは決まりだな。アコには何がいいだろう?」
「アコちゃんなら……ああ、こっちもよさそうだ」
イオリが目を留めたのは、チョコレートとナッツを使ったクッキーだった。
「前にも、こういうの食べてたんだよ」
「そういえば、ひだまりでもナッツ入りの菓子を選んでたな」
「でしたら、こちらにしましょうか」
チナツが微笑んだ。
結局、二人のためにそれぞれ小さな詰め合わせを選び、ほかの当番の風紀委員たちにも分けられるよう、個包装の焼き菓子を一箱追加することにした。
会計を済ませたところで、イオリが時計を確認する。
「……まだ、そんなに遅くないな」
「本部へ寄ってから帰っても、十分間に合いそうですね」
「じゃあ、三人で届けに行くか」
翔の言葉に、二人も頷いた。
* * *
風紀委員会本部に到着した頃には、午後の巡回部隊から定時の報告が入り始めていた。
廊下では資料を手にした風紀委員が行き交い、各部署では通常の業務が続いている。いつもと変わらない光景だが、以前のような慌ただしさはなかった。
翔が顔見知りの風紀委員と挨拶を交わしていると、イオリが隣から声を掛けた。
「翔も、すっかり顔を覚えられたな」
「結構お世話になってるからな。整備班にもまた顔出さないと」
「またバイクの話か?」
「今日買った本を読んでからな。分からないところがあったら聞いてみようと思ってる」
「だったら、私も今度付き合うよ。ちょうど装備の点検で顔を出す予定があるし」
「おっ、助かる」
そんな話をしているうちに、三人はヒナの執務室へ到着した。
イオリが扉をノックする。
「委員長、イオリです。チナツと翔も一緒なんですけど、今よろしいですか?」
「……うん。入って」
扉を開けると、奥の机ではヒナが書類を確認していた。
少し離れた机にはアコがおり、端末に表示された報告内容と手元の資料を見比べている。机の端には空になったカップが置かれていた。
「あ、戻ってきたんですね」
先に顔を上げたのはアコだった。
「お疲れさまです。……翔さんも、こんにちは」
「おう、アコ。仕事中に悪いな」
「いえ。ちょうど巡回部隊の報告を整理し終えたところですから」
アコは端末を閉じ、三人の方へ歩いてきた。
ヒナも顔を上げる。
「……おかえり、イオリ、チナツ。翔も来てたんだ」
「ああ。商店街で二人に会ってさ。そのまま一緒に買い物してたんだよ」
「そう。今日は楽しめた?」
「はい。久しぶりにゆっくり買い物ができました」
チナツが答えると、ヒナは少し表情を和らげた。
「よかった。二人とも、ずっと忙しかったから」
「委員長とアコちゃんのおかげです。午後の方、ありがとうございました」
「気にしなくていい。今日の分は、ちゃんと人員も足りてるから」
ヒナがそう答えると、アコも頷いた。
「必要な巡回部隊は配置していますし、連絡体制にも問題ありません。こちらはご心配なく」
「……それなら、よかった」
イオリは頷き、手に提げていた紙袋を持ち上げた。
「それで、今日は二人に差し入れを買ってきたんだ」
「差し入れ?」
アコが少し驚いたように目を丸くした。
翔は応接用のテーブルに紙袋を置き、中から二つの小さな箱を取り出した。
「買い物の帰りに菓子屋へ寄ってさ。三人で選んできたんだ」
「私たちに、ですか?」
「ああ。委員長とアコちゃんに一つずつ。あと、こっちは当番の委員たちにも」
イオリが大きい方の箱を示すと、アコは三人の顔を見渡した。
「……そうだったんですね。ありがとうございます」
先ほどまで仕事の報告をしていた時とは違い、その声には素直な喜びが滲んでいた。
チナツも微笑む。
「お二人とも、今日は本部にいらっしゃると聞いていましたので。仕事の合間にでも召し上がってください」
「うん。ありがとう」
ヒナは自分の分の箱を受け取ると、包装を眺めた。
「……ちょうど、何か甘いものが欲しかったところ」
「そうだと思ったよ。ヒナ、今日はちゃんと昼飯食べたか?」
「食べたよ。アコが用意してくれたから」
「委員長が食事を抜かれないようにするのも、私の大切な仕事ですから」
アコは当然のように答えたが、ヒナは彼女の机に置かれた空のカップへ目を向けた。
「……そういうアコは、午後になってから何も食べてないでしょ」
「えっ? いえ、私は……」
「さっきから、報告書ばかり読んでたから」
アコは一瞬言葉に詰まった後、小さく息を吐いた。
「……そうですね。少し休憩しましょうか」
ヒナが頷く。
「うん。今なら時間もあるし」
その言葉を聞いた翔が、自然と笑みを浮かべた。
「じゃあ、せっかくだし、みんなで食べようぜ」
「そうだな。私もちょうど喉が渇いたところだし」
イオリが頷くと、アコは立ち上がった。
「では、お茶を用意しますね」
「あ、私も手伝います」
チナツも席を立ち、二人で給湯室へ向かった。
その間、翔とイオリは空いている椅子を寄せ、持ってきた焼き菓子をテーブルに並べることにした。
ヒナは一度、机の端末へ目を向けた。
午後の巡回部隊は予定どおり配置についており、次の定時報告までは少し時間がある。連絡が入ればすぐに確認できるよう端末を手元に置き、彼女も応接用のテーブルへ移動した。
「……こうして五人で座るのも、久しぶりだね」
「確かに。前は集まるたびに何か仕事があったもんな」
翔が答えると、ヒナは小さく頷いた。
「今日は仕事の話をしなくて済みそう」
「だな。せっかくだし、ヒナにも今日の話を聞いてもらおうかな」
「……うん。何を買ったの?」
翔がイオリの方を見ると、彼女は買い物袋から靴の箱を取り出した。
「まずはこれ。前から欲しかったシューズを買ったんです」
ヒナが興味を示し、イオリの隣へ少し身を寄せた。
「見せて」
箱の蓋を開けると、白を基調に淡い青色をあしらったシューズが現れた。
「……いい色だね。イオリによく似合いそう」
「ありがとうございます、委員長」
「翔とチナツにも選んでもらったんだって?」
「はい。いろいろ見たんですけど、結局最初に気になっていたものにしました」
イオリは靴を一足持ち上げ、少し嬉しそうに眺めた。
ヒナはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「良いと思う」
「はい。今度履いてきますね」
ちょうどそこへ、チナツとアコがお茶を載せたトレーを持って戻ってきた。
「お待たせしました」
「イオリ、さっそく見せていたんですね」
「うん。委員長にも見てもらいたくてさ」
イオリは靴を箱へ戻し、自分の席へ腰を下ろした。
アコはカップを配り終えると、ヒナの隣へ座った。
「では、いただきましょうか」
チナツが包みを開き、皆もそれぞれ焼き菓子を手に取った。
窓から差し込む午後の日差しが、テーブルの上を柔らかく照らしていた。
最初に菓子を口へ運んだヒナが、少し目を細めた。
「……美味しい。これ、どこのお店?」
「商店街の奥にある、小さな菓子店です。個包装のものが多かったので、差し入れにもちょうどいいかと思いまして」
チナツの説明を聞きながら、ヒナはもう一度箱の包装を眺めた。
「……覚えておこうかな」
「委員長も気に入ったみたいだな」
イオリが嬉しそうに言うと、ヒナは頷いた。
「うん。ありがとう、みんな」
アコも自分の分の箱を開けていた。チョコレートを使った焼き菓子と、ナッツ入りのクッキーが綺麗に並んでいる。
「あら……。私の方は、こちらなんですね」
「アコちゃん、こういうの好きだっただろ?」
「ええ。よく覚えていましたね、イオリ」
「この前も食べてたじゃないか」
何気なく答えるイオリに、アコは微笑んだ。
「ありがとうございます。せっかくですから、一ついただきますね」
彼女がナッツ入りのクッキーを手に取ると、翔も自分のカップへ口をつけた。
「そういえば、その店、紅茶も売ってたんだよな。今度はそっちも見てみたいな」
「でしたら、次は私も一緒に行きたいですね」
「おっ、アコも?」
「ええ。最近は仕事帰りに寄り道することも、ほとんどありませんでしたから」
アコは一口食べてから、クッキーの箱を丁寧に閉じた。
「こういうお店をゆっくり見て回るのも、たまにはいいかもしれません」
「今日も、アコちゃんが好きそうな店があったぞ」
イオリが言うと、アコは興味を示した。
「どんなお店ですか?」
「文房具とか、小物とか。翔もノートを買ってただろ?」
「ああ。あそこか」
翔は今日買った小さなノートを取り出し、アコに見せた。
「ひだまりで使おうと思ってさ。結構いろんな種類があったよ」
「……へえ。シンプルでいいですね」
アコは表紙を眺め、翔に返した。
「そういうお店なら、少し興味があります。普段使っている文房具も、そろそろ買い替えようと思っていたので」
「だったら、今度案内するよ。場所も覚えたし」
「いいんですか?」
「もちろん。そんな遠くないからな」
「……では、その時はお願いします」
アコはそう答えると、もう一度ノートへ目を向けた。
「それにしても、翔さん。ずいぶん落ち着いたものを選びましたね」
「ん? 仕事で使うからな。書きやすければ、それでいいかなって」
「ふふ。そうですか」
何となく含みのある笑い方だったので翔が顔を上げると、アコは何事もなかったようにお茶を飲んでいた。
これまで何度も調査の打ち合わせを重ねてきたせいか、アコとは仕事に使う道具の話だけでも、それなりに会話が続く。互いに報告書へ書き込みをしたり、地図を広げたりしていた頃のことを思えば、今こうして買い物の話をしているのは少し不思議だった。
「……そうだ、アコ。今度、そっちからも何かおすすめがあったら教えてくれよ」
「私から、ですか?」
「ああ。今日は俺が案内することになったけど、アコが気になってる店にも行ってみたいし」
アコは少し考えてから、静かに頷いた。
「そうですね。……では、探しておきます」
「おう。楽しみにしてるよ」
その言葉に、アコは柔らかく微笑んだ。
「はい。私も楽しみにしています」
隣では、ヒナがイオリの話を聞いていた。
どうやら新しく買ったシューズを、どんな時に履こうか考えているらしい。イオリが普段の訓練とは別に、休みの日にも少し走っていると話すと、ヒナは感心したように頷いていた。
「……休みの日も走ってるんだ」
「毎回じゃないですよ。気が向いた時くらいです」
「そう。……でも、せっかくの新しい靴だし、走るのが楽しみだね」
「はい。翔とも、そのうち一緒に走ろうって話してたんです」
ヒナが翔の方を見る。
「……翔も?」
「ああ。肩がちゃんと治ってからだけどな。最近あんまり身体を動かせてないし、ちょうどいいかなって」
「そうなんだ」
ヒナは小さく頷いた後、イオリへ目を戻した。
「イオリ、翔のことよろしくね」
「はい。任せてください」
翔は二人のやり取りを聞きながら、少し笑った。
「イオリ、結構走るんだろ? 最初は手加減してくれよ」
「分かってる。最初から無理に速く走るつもりはないから、安心しろ」
「それなら助かる」
何気ない会話を交わしながら、翔は二人が笑っている様子を眺めた。
風紀委員会の中でも、イオリは普段から前線へ出ることが多い。ヒナもまた、何かあれば誰よりも早く現場へ向かう。そんな二人が、今日は新しい靴の話をしている。
仕事の話では見られない表情を眺めていると、自分まで少し気が抜けてくるようだった。
その時、チナツが買い物袋から一冊の本を取り出した。
「そういえば、私も今日、気になっていた本を買えたんです」
「……それ、さっき話してた写真集?」
ヒナが目を向ける。
「はい。各地の街並みや風景を紹介している本です。よろしければ、皆さんもご覧になりますか?」
「見たい」
ヒナが答えると、アコも興味深そうに身を乗り出した。
「チナツさん、私も見せてもらっていいですか?」
「もちろんです、アコ行政官」
チナツは本を開き、テーブルの中央へ置いた。
ページいっぱいに広がっていたのは、緑に囲まれた小さな街の写真だった。石畳の通りの両側には昔ながらの建物が並び、奥には小さな川が流れている。
「……綺麗なところですね」
アコが呟いた。
「でしょう? ほかにも素敵な場所がたくさん載っているんです」
チナツは嬉しそうにページをめくった。
「さっき翔さんとも話していたんですが、いつかこういう場所へ行って、ゆっくり過ごしてみたいなと思いまして」
「いいな。休みの日に、何も考えずに歩いてみたい」
イオリが写真を覗き込む。
「……そうね」
ヒナも、テーブルの上の写真集へ視線を落とした。
「景色を見たり、気になったお店に入ったり……。たまには、そういう時間もいいかも」
「ヒナも、こういうところ好きそうだよな」
翔が言うと、ヒナは少し考えてから頷いた。
「……うん。静かなところなら、ゆっくり休めそう」
「それでしたら、いつか皆さんで行ってみるのもいいですね」
チナツが言うと、イオリも賛成した。
「ああ。今度は委員長とアコちゃんも一緒にさ」
アコはヒナへ目を向けた。
「委員長、いかがですか?」
「……そうね。時間が合えば」
「でしたら、その時は私が予定を調整しますね」
「アコも一緒に行くんだから、自分の予定もちゃんと空けておいて」
「……はい。もちろんです」
アコが頷くと、ヒナは小さく笑った。
そのやり取りを聞きながら、翔も写真集へ目を戻す。
少し前まで、五人が顔を合わせる時には何かしらの用件があった。今では、こうして誰かの買った本を囲み、いつか行ってみたい場所について話せる。
同じ場所にいても、過ごしている時間は随分と違うものだ。
写真集を一通り眺め終えると、チナツは本を閉じ、丁寧に買い物袋へ戻した。
「読み終わったら、またお貸ししますね」
「ありがとう、チナツ」
ヒナが答えると、チナツは嬉しそうに微笑んだ。
その後も、五人の会話はしばらく続いた。
今日のカフェで食べた料理の話や、商店街で見つけた店のこと。イオリが購入した靴に合う服を考えたり、アコが気になっている文房具について翔に尋ねたり。
ヒナは時折、巡回部隊から届く報告に目を通していたが、急いで席を立つ必要はなかった。アコも彼女と一緒に必要な確認を済ませると、また皆の会話へ戻ってくる。
いつもと変わらず、本部の仕事は続いている。
それでも、今日の午後には、こうして菓子を囲んで過ごせる時間があった。
* * *
やがて、チナツが時計へ目を向けた。
「……そろそろ、失礼した方がよさそうですね」
つられて翔も時間を確認する。菓子を食べ始めてから、思っていたよりも時間が経っていた。
「本当だ。すっかり長居しちゃったな」
「……もうそんな時間?」
ヒナは時計を見てから、少し名残惜しそうにカップを置いた。
「まだゆっくりしていってもいいけど……三人とも、帰るところだったんだよね」
「ああ。明日も仕事があるし、今日はそろそろ帰ろうかと」
イオリが答えると、アコも立ち上がった。
「でしたら、入口までお見送りしますね」
「アコちゃん、まだ仕事が残ってるだろ? ここでいいって」
「少しくらい大丈夫ですよ。それに、私も少し歩きたいところでしたから」
アコはそう答え、空になったカップを端へ寄せた。
チナツが残った焼き菓子を見ながら口を開く。
「アコ行政官、こちらはほかの委員の皆さんにもお渡しください。個包装になっていますので、当番の方々にも分けやすいと思います」
「ありがとうございます。皆さんも喜ぶと思います」
「委員長も、残りは後で召し上がってくださいね」
チナツの言葉に、ヒナは頷いた。
「うん。ありがとう」
翔は自分の買い物袋を右手に持ち、椅子から立ち上がった。
「今日は急に来たのに、ありがとな。二人とも忙しいだろうと思ってたけど、ちょっとでも顔を見られてよかったよ」
「こちらこそ。差し入れまでいただいてしまいましたし」
アコが穏やかに微笑む。
「翔さんが来てくださるなら、仕事の用事がなくても歓迎しますよ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。また時間がある時に寄らせてもらうよ」
「ええ。ぜひ」
ヒナも席を立ち、三人の方へ歩いてきた。
「……私も、今日はありがとう。久しぶりにみんなで話せてよかった」
「ヒナも、今度ひだまりに来てくれよ。マスターが新しいデザートを試作してるし、完成したら教えるからさ」
「……うん。楽しみにしてる」
翔が頷くと、ヒナも小さく微笑んだ。
「アコも一緒にね」
「もちろんです、委員長!」
アコが嬉しそうに返事をする。
「翔さん、その時はぜひ連絡をお願いします」
「了解。マスターにも伝えとくよ」
五人は片付けを済ませると、揃って執務室を出た。
廊下には夕方の柔らかな日差しが差し込み、窓の外にはゲヘナの街並みが広がっている。巡回を終えた風紀委員たちがすれ違いざまに挨拶を交わし、それぞれの持ち場へ戻っていった。
イオリは買ったばかりのシューズが入った袋を提げ、チナツは写真集を大切そうに抱えている。
「そういえば、翔。今度、また一緒に買い物に行かないか?」
歩きながら、イオリが何気なく尋ねた。
「おう。いいな」
「今日みたいに偶然会うのもいいけど、次はちゃんと予定を合わせてさ」
「それなら、私もご一緒したいです」
チナツも微笑んだ。
「今日の書店、まだ見ていない棚もありましたので」
「そうだったな。俺も気になる本があったし、また行きたいと思ってたんだ」
三人の会話を聞いていたアコが、少し羨ましそうに口を開いた。
「……何だか、皆さんだけで次の予定が決まりそうですね」
「アコちゃんも来ればいいじゃないか」
イオリが振り向く。
「さっきも話してただろ? 次は委員長とアコちゃんも一緒に行こうって」
「……そうでしたね」
アコは微笑み、隣のヒナへ目を向けた。
「委員長も、ぜひ」
「……うん。そうしようか」
ヒナは頷いた後、翔たちの顔を見渡した。
「ただ、私たちが全員いなくなるわけにはいかないから……時間は相談させて」
「もちろん。無理に全員で丸一日出掛ける必要もないしな」
翔が答えると、チナツも頷いた。
「今日のように、仕事を終えた人から合流する形でもいいと思います」
「ああ。それなら、また時間を合わせられそうだな」
イオリが言うと、アコも少し考えてから頷いた。
「では、今度は私の方からも連絡しますね。皆さんの都合が合いそうな日があれば、相談しましょう」
「おう。待ってるよ」
その後は、具体的な日程を決めることもなく、また何気ない話をしながら廊下を歩いた。
次はどこへ行こうか。どんな店に寄ってみたいか。今日見つけた菓子店へもう一度行くのもいいかもしれない。
そんな話をしているうちに、五人は本部の入口へ到着した。
「それじゃあ、委員長。私たちはこれで失礼します」
イオリが振り向くと、ヒナは小さく頷いた。
「うん。二人とも、今日はゆっくり休んでね」
「はい。ありがとうございます」
「アコ行政官も、お疲れさまです」
チナツが頭を下げると、アコも頷いた。
「チナツさんも、お疲れさまでした。イオリも、明日の勤務に遅れないようにしてくださいね」
「分かってるって、アコちゃん」
イオリは軽く手を振った。
翔も、ヒナとアコへ向き直った。
「じゃあ、俺も帰るよ。二人とも、今日はありがとな」
「ええ。また来てくださいね、翔さん」
「……またね、翔」
「ああ。またな!」
三人が並んで歩き出す。
イオリが何かを思い出したように買い物袋を持ち上げ、翔に話しかけた。チナツも二人の会話へ加わり、夕暮れの道をゆっくりと歩いていく。
ヒナとアコは、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
* * *
執務室へ戻ると、アコは最初に巡回部隊からの報告を確認した。
新しく届いたものも含め、急を要する連絡はない。予定していた巡回も順調に進んでおり、次の引き継ぎまでには、まだ少し余裕がありそうだった。
「委員長、現在の巡回は予定どおりです。次の報告まで、特に追加の対応はありません」
「……そう。ありがとう、アコ」
ヒナは机に戻り、先ほど読みかけていた書類を手に取った。
アコも自分の席へ向かったが、その途中で、応接用のテーブルへ目を留めた。
三人が買ってきてくれた焼き菓子が、まだいくつか残っている。
「……そういえば、委員長」
「何?」
「先ほどのお菓子、もう少し召し上がりますか? まだ残っていますけど」
ヒナは顔を上げ、少し考えてから首を振った。
「……後でいいかな。せっかくだし、次の休憩に取っておこう」
「分かりました。では、それまでこちらに置いておきますね」
アコは箱を片付けようとして、ふと手を止めた。
「……今日は、皆さん楽しそうでしたね」
「……うん。いい買い物ができたみたい」
「イオリも、ずっと気になっていたシューズを買えたようですし。チナツさんも、欲しかった本が見つかったみたいで」
アコは箱の蓋を閉じながら、少し笑った。
「翔さんも、ご自分の買い物を楽しまれていたようですね」
「……そうね」
ヒナも、先ほどの翔たちの様子を思い出していた。
イオリは新しい靴を嬉しそうに見せてくれたし、チナツも写真集の話をしている時には、普段より少し表情が柔らかかった。
翔も、二人と過ごした午後の出来事を楽しそうに話していた。
「……アコも、行きたかったんじゃない?」
ヒナが尋ねると、アコは少し意外そうに顔を上げた。
「私ですか?」
「うん。文房具店、気になってるんでしょ」
「……ええ。少し」
アコは小さく微笑んだ。
「でも、今日は皆さんがお土産を持ってきてくださったので。それだけでも、十分楽しかったですよ」
「そう」
ヒナは頷いた後、窓の外へ目を向けた。
夕方のゲヘナでは、授業や仕事を終えた生徒たちが、思い思いの場所へ向かっている。友人と待ち合わせる者もいれば、一人で買い物を楽しんでいる者もいた。
「……今度は、私たちも行ってみようか」
ヒナが何気なく呟く。
アコは一瞬きょとんとした後、嬉しそうに頷いた。
「はい。ぜひ、ご一緒させてください」
「アコの行きたいお店にも、ちゃんと寄ろうね」
「……ありがとうございます、委員長」
アコは微笑みながら、自分の机へ戻った。
仕事はまだ残っている。けれど、今日はいつもより少しだけ、帰った後のことを考える余裕があった。
ヒナも書類へ目を戻し、続きを読み始める。
少しして、アコが自分の席から声を掛けた。
「委員長。先ほどのお菓子、ほかの委員たちにも配ってきますね」
「……うん。お願い」
アコは菓子の箱を手に、執務室を出ていった。
扉が閉まると、室内には紙をめくる音だけが残った。
窓の外からは、遠くを走る車の音や、生徒たちの話し声が聞こえてくる。今日もゲヘナは、相変わらず賑やかだった。
ヒナは少しだけ手を止め、応接用のテーブルへ目を向けた。
そこには、アコが残していった二人分の焼き菓子と、まだ片付けられていないカップが並んでいる。
先ほどまで、あの席には五人が座っていた。
イオリが新しい靴を見せてくれて、チナツが買った本を広げて、翔が二人の買い物の話をしていた。アコも、今度行ってみたい店のことを楽しそうに話していた。
ヒナは小さく微笑むと、再び書類へ視線を戻した。
もう少し仕事を進めたら、アコと一緒に残りのお菓子を食べよう。
そして、次に時間ができた時には、今度は自分たちも商店街へ出掛けてみたい。
今日は、そんな小さな楽しみが一つ増えた午後だった。