青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
シャーレの執務室に、午前の日差しが差し込んでいた。
机の上には確認を終えた書類と、これから処理しなければならない書類が、それぞれ綺麗に積まれている。女性先生は最後の一枚に目を通すと、署名を済ませ、ようやく椅子の背もたれに身体を預けた。
「……よし。ひとまず終わり!」
『お疲れさまです、先生!』
机の端に置かれたシッテムの箱から、アロナの元気な声が聞こえてくる。
『今日は予定よりも早く終わりましたね!』
「ふふん。やればできる大人だからね、私は」
『昨日も同じことを言って、結局夜までお仕事してませんでしたか?』
「……昨日の私は、今日の私とは別人なんだよ」
『そういう問題でしょうか……?』
アロナのもっともな疑問には答えず、先生は机の上を片付け始めた。
今日は午後からゲヘナへ向かう予定がある。風紀委員会に届ける書類があるのと、以前から一度、翔が働いている喫茶店を訪ねてみたいと思っていたのだ。
アビドスの一件が落ち着いてから、先生も少しずつ普段の仕事へ戻っていた。対策委員会からは時折近況報告が届き、翔からも、ゲヘナへ無事に帰ったという連絡を受け取っている。
彼の怪我も順調に回復しているらしい。
「……そういえばさ、アロナ」
『はい?』
「私、翔のことって、意外と知らないんだよね」
『翔さんのことですか?』
「うん。アビドスではずいぶん一緒にいたけど、あの時は色々あったでしょ?」
初めて会った時、翔はゲヘナ風紀委員会から正式な調査を依頼されて、アビドスを訪れていた。
年齢に似合わず物怖じしないところがある一方で、初対面の自分たちには妙に丁寧な話し方をしていたことも覚えている。後から聞けば、出発前にアコから、失礼のないようにと念を押されていたらしい。
そうした少し意外な一面を知る機会はあったものの、先生が翔と一緒に過ごした時間の大部分は、調査や戦いに関わるものだった。
「普段は喫茶店で働いてるって聞いたけど、休みの日は何してるんだろうね。友達と遊んだりもするのかな」
『そういえば、先生は翔さんとお買い物に行ったこともありませんね』
「そうなんだよ。せっかく知り合えたのに、何か仕事の話ばっかりだった気がして」
先生は椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
「……よし。今日はちょっと、翔の普段の顔も見てこようかな」
『えっ? それは、どういう……』
「ほら、ひだまりに行けば友達が来てるかもしれないし。風紀委員会にも、翔と仲のいい子がたくさんいるでしょ?」
『なるほど! 翔さんのことを、皆さんに聞いてみるんですね!』
「そういうこと。まあ、普通にお喋りしてくるだけだけどね」
そう答えた先生は、書類の入った鞄を手に取った。
『先生、何だか楽しそうですね』
「うん。ちょっと楽しみ」
アロナは嬉しそうに笑うと、ゲヘナまでの移動経路を表示した。
先生はその画面を確認し、シャーレを後にした。
* * *
ゲヘナ自治区へ到着した先生が、最初に向かったのは喫茶店「ひだまり」だった。
翔から場所は聞いていたものの、実際に訪れるのは今日が初めてだった。
通りから少し入った場所にあるその店は、外から見ても落ち着いた雰囲気だった。大きな窓からは柔らかな日差しが差し込み、入口には本日のおすすめメニューが書かれた黒板が置かれている。
先生は店先で一度立ち止まり、黒板を眺めた。
「……ひだまりベリーパフェ、か。いいねえ」
それから扉を開けると、小さなベルが涼しげな音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
店内から聞こえてきた声に、先生は顔を上げた。
「あ、翔」
「……先生?」
エプロン姿の翔が、驚いたように瞬きをしていた。
「どうしたんだ? 今日はゲヘナに用事でも?」
「うん。午後から風紀委員会に行く予定があってね。せっかくだから、翔のお店にも来てみようと思って」
「そっか。来るなら連絡してくれればよかったのに」
「ふふ。びっくりさせようと思って」
「……何だよ、それ」
翔は少し呆れたように笑うと、店内の空いている席を示した。
「まあ、ゆっくりしていってくれよ。今、ちょうど落ち着いてるところだから」
「ありがとう。おすすめ、食べてみようかな」
「ひだまりベリーパフェのこと?」
「うん。入口の看板に書いてあったやつ」
「ああ、あれか。マスターが最近出した新しいメニューなんだ」
翔が嬉しそうに説明していると、窓際の席から、聞き覚えのある明るい声が飛んできた。
「あれっ、翔っち! そっちのお客さん、知り合い?」
先生が振り向くと、二人の少女がこちらを見ていた。
一人は明るい髪色の、活発そうな少女。もう一人は、その隣で飲み物を手にしている少女だった。
「ああ。シャーレの先生だよ」
「えっ、先生!?」
明るい髪の少女が、勢いよく身を乗り出した。
「はろはろ~! あたし、夜桜キララ! こっちはエリカちゃん!」
「旗見エリカです。よろしくね、先生」
「こんにちは。二人とも、よろしくね」
先生が笑顔で挨拶を返すと、キララは興味津々といった様子で目を輝かせた。
「へえ~! 翔っちの知り合いって、先生だったんだ! ねえねえ、先生もよかったらこっち来ない?」
「いいの?」
「もっちろん! 今ちょうど、次の部活で何するか話してたところなんだ~」
「部活?」
先生が興味を示すと、エリカが小さく笑った。
「私たち、最近キラキラ部っていう部活を作ったんだ」
「キラキラ部……!」
先生は思わず名前を繰り返した。
「何だか、すごく楽しそうな部活だね」
「でしょでしょ!? 毎日、キラキラしててワクワクすることをやる部活なんだ!」
「……それ、具体的には何をするの?」
「それを今決めてるところ!」
「なるほど。活動内容を決めるのも、部活動の一環なんだね」
先生が感心したように頷くと、エリカが笑いながら肩をすくめた。
「まあ、そんな感じかな。やりたいことがあったら、その都度やってみようって話になってて」
「面白そうだなあ。私も入っていい?」
「えっ、先生も!?」
キララがぱっと顔を輝かせた。
「いいよいいよ! 先生が来てくれたら、めっちゃ楽しそう!」
「ちょっと待って、キララちゃん。先生、仕事があるんじゃない?」
「あ、そっか!」
エリカの指摘に、キララがはっとした。
先生は二人のやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「ふふ。大丈夫。今日は見学だけにしておくよ」
その様子を見ていた翔が、小さく息を吐いた。
「先生まで入ったら、何かすごいことになりそうだな……」
「えー、いいじゃん! 翔っちも特別ゲストなんだし、先生も特別ゲストで!」
「特別ゲストが増えすぎじゃないか?」
「細かいことは気にしなーい!」
キララが楽しそうに笑うと、エリカもつられたように微笑んだ。
先生は、そんな三人の姿を興味深そうに眺めていた。
アビドスでは、翔が同年代の少女たちとこんなふうに気軽な冗談を交わしているところを見る機会は、あまりなかった。
少なくとも今の翔は、仕事中にもかかわらず、二人と話している時には随分と自然体だった。
「……それじゃ、先生。何か注文する?」
翔が改めて尋ねる。
「あ、そうだった。じゃあ、さっきのベリーパフェと、コーヒーをお願いしようかな」
「了解。少し待っててくれよ」
翔が厨房へ向かうと、先生はキララとエリカの誘いを受けて、二人の席に腰を下ろした。
「先生って、翔っちとはどこで知り合ったの?」
「アビドスだよ。少し前に、仕事で行った時にね」
「あー、そっか! 翔っち、しばらくゲヘナを離れてたもんね」
キララは納得したように頷いた。
「帰ってきてからは、また普通にお店で働いてるけどさ。最初は、ちゃんと休めてるのか心配だったんだよね」
「うん。でも、マスターもちゃんと見てるみたいだし、今は無理してないと思うよ」
エリカがそう答える。
先生は、二人の会話に耳を傾けながら、ふと尋ねた。
「二人は、翔とずいぶん仲がいいんだね」
「うん! 翔っちとは、結構前から友達なんだ~」
キララは嬉しそうに答えた。
「最初はさ、ゲヘナに男の子がいるって聞いて、めっちゃ気になってたんだよね!」
「それで、二人でこのお店に来てみたんだ」
エリカが続ける。
「そしたら、普通に働いてて。何だか思ってたより話しやすかったし、それからちょくちょく来るようになったんだよ」
「へえ……」
「翔っち、結構ノリもいいんだよ! あたしたちが何かやりたいって言うと、面白そうだなって付き合ってくれるし!」
「そうそう。キララちゃんが急に思いついたことでも、とりあえず話は聞いてくれるんだよね」
エリカはそう言いながら、隣のキララへ目を向けた。
「まあ、さすがに無理な時は断るけど」
「えへへ。そーなんだよねー」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
先生も思わず口元を緩める。
「なるほど。二人にとっては、一緒に遊べる友達なんだね」
「そゆこと! 今度も、部活に来てもらう予定なんだよ!」
「何をするかは、まだ決めてないけどね」
エリカが付け加えると、キララは自信満々に胸を張った。
「大丈夫! そのうち、めっちゃいいアイデアが浮かぶから!」
「……まあ、いつものことだしね」
エリカは慣れた様子で頷いた。
そんな二人を見て、先生はもう一度、厨房の方へ目を向けた。
翔はカウンターの向こうで、マスターと何か話しながら、パフェの準備をしているところだった。
手際よく器を並べ、必要なものを揃えていく。途中でマスターから何か指示を受けると、素直に頷いていた。
「そういえば、二人は翔が給食部を手伝ってた時も一緒だったんだよね?」
先生が思い出したように尋ねると、キララは勢いよく頷いた。
「そうそう! 翔っちも手伝ってたし、あたしたちも体験入部したんだよ!」
「……あれは、色々大変だったね」
エリカが苦笑した。
「ジュリちゃんの料理が、またすごいことになってさ……」
「えっ、何それ。料理がすごいことに?」
「そう! 動くの!」
「……動く?」
「うん! もう、めっちゃ元気!」
キララは両手を動かしながら説明し始めた。
どうやら、本当に料理が動き回るらしい。
先生は話を聞いているうちに、少しだけ頭が痛くなってきた。
「……ゲヘナの給食部って、すごいんだね」
「でしょ!? 翔っちも前に手伝ってたから、ああいうのには慣れてるんだけどさ」
「いや、慣れるものなのかな……?」
先生が呟くと、エリカは小さく笑った。
「少なくとも、翔は私たちほど驚いてなかったと思うよ」
「へえ……」
「でも、結構真面目に手伝ってたんだよね。フウカちゃんたちが忙しそうにしてたら、すぐに動いてたし」
エリカはそう言って、厨房の方へ目を向けた。
「……まあ、そういうところもあるかな。普段は普通に友達なんだけど、誰かが困ってると、何となく放っておけないみたいで」
その言葉に、先生は静かに頷いた。
アビドスで見た翔の姿と、少しだけ重なるところがあった。
けれど、二人が語る翔は、何か大きな事件に関わっている時の彼ではない。
気軽に話し掛けられて、一緒に遊んで、時には少し変わった部活動にも付き合ってくれる、ごく普通の友達だった。
「……はい、お待たせ!」
そこへ、翔がトレーを持って戻ってきた。
「ひだまりベリーパフェと、コーヒー。先生の分な」
「わあ、ありがとう!」
先生は目の前に置かれたパフェを眺め、思わず声を上げた。
「……これ、すごく美味しそう!」
「気に入ってもらえたならよかったよ。マスターの新作なんだ」
翔が少し誇らしげに答えると、キララが身を乗り出した。
「ね、先生! あたしたちもこの前食べたんだよ! めっちゃ美味しかったから、おすすめ!」
「そうそう。甘さもちょうどいいし、結構食べやすいんだ」
エリカも頷いた。
先生はスプーンを手に取り、一口食べてみた。
「……んっ! 美味しい!」
思わず頬が緩む。
「翔、これ本当に美味しいね!」
「だろ? マスターも結構自信作みたいなんだ」
翔が嬉しそうに笑う。
先生はその顔を見て、何となく納得した。
彼がこの店で過ごしている時間も、きっと今の生活の大切な一部なのだろう。
そして、キララとエリカが翔と仲よくなった理由も、少しだけ分かった気がした。
* * *
食べ終わる頃には、キララとエリカは次に挑戦したいことを、またいくつも思いついていた。
先生にも意見を求めてきたので、面白そうな案を一つ挙げてみると、キララはさっそく携帯端末に書き込んでいた。
「それ、いいじゃん! ねえエリカちゃん、今度やってみよ!」
「いいけど、先に今考えてることも決めない?」
「あっ、そっか! そっちもあった!」
先生は楽しそうに笑いながら、席を立った。
「じゃあ、私はそろそろ行こうかな。二人とも、今日はありがとう」
「えー、もう行っちゃうの? また来てね、先生!」
「お仕事、頑張ってね」
「うん。またね」
会計を済ませると、翔が入口まで見送ってくれた。
「先生、今から風紀委員会だっけ?」
「そうそう。ちょっと書類を届けてくるんだ」
「ヒナたちに宜しくな。あ、あと……」
「ん?」
「また、普通に飯でも食いに来てくれよ。仕事のついでじゃなくてもいいからさ」
その何気ない言葉に、先生は微笑んだ。
「もちろん。今度は、翔のおすすめを食べさせてもらおうかな」
「任せとけ」
翔は笑って、店の扉を開けてくれた。
先生は彼に手を振り、午後の商店街へ歩き出した。
* * *
風紀委員会本部では、ちょうど午後の巡回部隊が入れ替わる時間だった。
受付で来訪を告げた先生は、案内されるまで廊下の端で待つことにした。外から戻ってきた風紀委員たちが装備を返却し、次の担当者へ連絡事項を伝えている。
その中に、見覚えのある少女の姿があった。
「あれ、先生?」
「イオリ!」
声を掛けると、イオリは抱えていた装備の箱を持ち直し、こちらへ歩いてきた。
「どうしたんだ? 何か用事か?」
「うん。アコに書類を届けに来たんだけど、少し早く着いちゃって」
「ああ、そういうことか。今なら多分、執務室にいると思うぞ」
「ありがとう。ところで、それ、どこまで運ぶの?」
「そこの備品室。さっき点検が終わったところなんだ」
先生は箱の中を覗いた。訓練用の器具や点検を終えた装備が、仕切りごとに整理されている。
「持とうか?」
「いや、別に重くないし……。先生はお客さんなんだから、気にしなくていいって」
「そっか。じゃあ、扉だけ開けておくね」
「ああ。ありがとう」
イオリが備品室へ箱を運び込むと、先生は開けていた扉を支えた。
棚に装備を戻したイオリは、空になった箱を脇へ置き、手元の端末で点検完了の操作を済ませた。
「……よし。これで終わり」
「お疲れさま。そういえば、昨日は買い物に行ったんだって?」
「えっ? 何で知ってるんだ?」
「さっき、ひだまりで翔に聞いたんだ」
「ああ、翔か!」
イオリは納得したように笑った。
「そうなんだよ。チナツと買い物してたら、偶然会ってさ。それで、そのまま一緒に回ってたんだ」
「新しい靴を買ったんでしょ?」
「ああ。前から欲しかったやつ」
イオリはそう答えると、少し嬉しそうに足元へ視線を落とした。
「……今日は履いてないけど、今度の休みに使ってみようと思ってる」
「へえ。楽しみだね」
「うん。翔にも見てもらったんだけど、結構似合ってるって言ってくれてさ」
彼女はそこまで話したところで、ふと先生の顔を見た。
「……何だよ。そんなに笑って」
「いやあ、イオリが楽しそうだなと思って」
「そりゃ、欲しかった靴が買えたんだから、嬉しいに決まってるだろ」
「うんうん。よかったねえ」
「……何か、先生にそう言われると変な感じだな」
イオリは苦笑しながら、備品室の扉を閉めた。
二人が廊下へ戻ると、先生は何気なく尋ねた。
「翔と一緒に買い物するのって、初めてだった?」
「二人でっていうのはないけど、あいつとは普段から結構会ってるぞ。仕事帰りに飯食ったり、ひだまりに寄ったり」
「そうなんだ」
「まあ、最初の頃は一緒に仕事することの方が多かったけどな。今じゃ普通に友達だし」
イオリは何でもないことのように答えた。
「……翔ってさ、ああ見えて結構負けず嫌いなんだよ」
「へえ?」
「前に一緒に訓練した時も、最初はできなかったことがあったんだけど、次に会ったらちゃんと練習してきててさ」
その時のことを思い出したのか、イオリは少し笑った。
「できるようになると、結構嬉しそうな顔するんだよな。ああいうの見てると、こっちも教えがいがあるっていうか」
「なるほど。いい練習相手なんだね」
「……まあな」
イオリは頷いた。
「だから、肩が治ったらまた一緒に走ろうって話してるんだ。今度は仕事抜きでさ」
「それは楽しみだね」
「ああ。……あ、先生も来るか?」
「えっ、私も?」
「走るのが嫌じゃなければ、だけど」
先生は一瞬考えた。
「……応援係じゃ駄目?」
「何だよ、それ」
イオリが呆れたように笑う。
「まあ、無理にとは言わないけどさ。たまには身体動かした方がいいんじゃないか?」
「ぐっ……。正論が刺さる……」
「ははっ。じゃあ、気が向いたら声を掛けてくれ」
イオリはそう言って、空になった箱を抱え直した。
「私はこれを返してから、次の当番に引き継いでくるよ。先生はアコちゃんのところだろ?」
「うん。ありがとう、イオリ」
「ああ。またな、先生」
イオリは軽く手を上げ、廊下の向こうへ歩いていった。
先生はその後ろ姿を見送りながら、何となく口元を緩めた。
翔は、訓練の話をする時にも、こんなふうに嬉しそうな顔をしているのだろうか。
今度会ったら、少し聞いてみてもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、背後から丁寧な声が聞こえてきた。
「あら、先生。いらしていたんですね」
振り向くと、チナツが書類を手に立っていた。
「チナツ、こんにちは」
「こんにちは。今日はどうされたんですか?」
「アコに書類を届けに来たんだけど、少し早く着いちゃってね」
「そうでしたか。でしたら、私がご案内します」
「ありがとう。……あ、そうだ。チナツも昨日、買い物に行ったんだって?」
「はい。イオリと一緒に出掛けたんですが、途中で翔さんにもお会いして」
チナツは少し嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶりに、ゆっくり買い物ができました」
「写真集を買ったって聞いたよ」
「ええ。以前から気になっていた書店があったので、そちらで」
彼女は手元の書類を抱え直した。
「翔さんもバイクの整備に関する本を探していたので、ちょうどよかったんです」
「へえ。そういう本を読んでるんだ」
「はい。風紀委員会の整備班にも教わっているそうですが、自分でもできることを増やしたいとおっしゃっていました」
「翔らしいねえ」
「ふふ。そうですね」
チナツは小さく笑った。
「でも、昨日は私の買い物にも付き合ってくださったんですよ。本の話をしていたら、思いがけず会話が弾んでしまって」
「何の本を買ったの?」
「風景写真が載っている本です。各地の街並みや、その土地で暮らす人たちについて紹介されていて」
「いいなあ。私もそういう本、好きだよ」
「本当ですか? でしたら、今度お貸ししますね」
「ぜひぜひ!」
先生が嬉しそうに答えると、チナツも微笑んだ。
「翔さんにも、読み終わったらお貸しする約束をしているんです」
「……あれ? じゃあ、私はその次?」
「ふふ。順番は、皆さんの都合に合わせますよ」
「よかった。じゃあ、楽しみにしてるね」
二人はそんな話をしながら、廊下を進んだ。
途中、チナツは巡回から戻った委員に呼び止められ、書類について短い確認を行った。先生は少し離れたところで待ち、彼女が戻ってくると再び並んで歩き始めた。
「……チナツって、仕事中は本当に忙しそうだね」
「そうでしょうか。今日は、比較的落ち着いている方ですよ」
「そっか。昨日みたいに、のんびり本屋を回れる時間も大事だね」
「……はい。私も、そう思います」
チナツは穏やかに頷いた。
「翔さんとお話ししていて、普段とは違うことに興味を持つのも面白いなと思ったんです。私は写真を見て街並みのことを考えていたんですが、翔さんは、そこへ向かう道を見ていらして」
「……道?」
「ええ。バイクで走ったら気持ちよさそうだ、と」
先生は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。
「あははっ! なるほど、そういう見方もあるんだ!」
「私も、同じことを思いました」
チナツは微笑んだ。
「今度また、一緒に本を選びに行けたらいいなと思っています」
その言葉は、仕事仲間に対するものというより、気の合う友人への、ごく自然な気持ちのように聞こえた。
先生が頷くと、ちょうど目的の執務室が見えてきた。
「こちらです。では、私はそろそろ失礼しますね」
「ありがとう、チナツ。案内してくれて助かったよ」
「いえ。また何かありましたら、お声掛けください」
「うん。またね」
チナツは丁寧に頭を下げ、廊下の向こうへ戻っていった。
* * *
「先生、お待ちしていました」
執務室へ入ると、アコが立ち上がって迎えてくれた。
「こんにちは、アコ。これ、お願いされてた書類」
「ありがとうございます。確認させていただきますね」
先生が差し出した封筒を受け取ると、アコは中身を取り出し、手早く目を通した。
必要な箇所を確認し終えると、彼女は満足そうに頷いた。
「……はい。問題ありません。わざわざお持ちいただいて、ありがとうございました」
「どういたしまして。これで今日の用事は終わりかな」
「ええ。こちらからお願いしていた分は、すべて揃っています」
アコは書類を机に置き、先生へ向き直った。
「ところで、先ほどイオリとチナツさんにお会いになりましたか?」
「うん。二人とも元気そうだったよ」
「そうですか。……昨日は久しぶりに、買い物を楽しめたようでしたからね」
そう言って、アコは少しだけ笑った。
先生は、その表情を見逃さなかった。
「アコも、昨日は差し入れをもらったんでしょ?」
「ええ。翔さんたちが、わざわざ買ってきてくださったんです」
アコは机の端に置かれた、小さな菓子の箱へ目を向けた。
「委員長も喜んでいらっしゃいましたし、ほかの委員たちにも好評でしたよ」
「へえ。よかったね」
「はい。……私も、嬉しかったです」
アコはそう答えた後、ふと思い出したように携帯端末を取り出した。
「そういえば、翔さんから今朝、こんなものが送られてきまして」
画面には、商店街の地図と、小さな文房具店の場所が表示されていた。
「昨日、買い物のお話をしていたら、私が気に入りそうなお店があったと教えてくださったんです」
「おお。親切だねえ」
「ええ。私も、少し興味がありまして……」
アコは画面を眺めながら、微笑んだ。
「今度、時間が合えば一緒に行きましょうと話していたところです」
「ふふ。楽しみだね」
「はい。……まあ、仕事の都合もありますから、まだ何も決まっていませんけどね」
そう答えるアコの声は、普段の業務連絡をしている時よりも、随分と柔らかかった。
先生はその様子を眺めながら、何気なく口を開いた。
「アコって、翔とは結構長い付き合いなんだよね」
「ええ。最初は調査の協力をお願いするところから始まったんですが、今ではすっかり……」
アコはそこで言葉を切り、少し考えた。
「……そうですね。仕事のことなら、かなり信頼しています」
「仕事のことなら?」
先生が繰り返すと、アコは小さく息を吐いた。
「翔さんは、時々こちらが想定していない行動を取るんです。危険な場所へ自分から調べに行ったり、こちらが気づいていなかった情報を持って帰ってきたり……。報告を受ける側としては、色々と気を揉むこともありまして」
「ああ……。何となく想像できるかも」
「ですが、最近は事前に相談してくださることも増えましたし、調査の結果もきちんと整理して報告してくださいます。こちらの仕事を理解しようとしてくださるので、その点は助かっています」
アコは、机の上に置かれた書類を指先で揃えた。
「それに、何か困ったことがあれば、私にも相談してくださいますから」
「……そっか」
先生は頷いた。
アビドスでの出来事を通して、翔がどれほど無茶をしがちな少年なのかは、先生もよく知っている。
けれど、アコが語る翔は、ただ誰かを助けに行くばかりの人物ではなかった。必要な時には連絡を取り、相手の仕事を理解しようとして、少しずつ頼ることも覚えている。
「……アコも、翔のことをよく見てるんだね」
先生がそう言うと、アコは少し意外そうに瞬きをした。
「それは当然です。風紀委員会の調査協力者ですから」
「うんうん。それに、今度一緒に買い物へ行く友達でもあるしね」
「……先生」
アコはわずかに眉を寄せたものの、否定はしなかった。
「……まあ、そうですね」
そして、少しだけ笑った。
「仕事抜きでお話しする時間も、最近は増えましたから」
そこへ、執務室の奥から声が聞こえてきた。
「……アコ。先生は、もう帰るところ?」
振り向くと、ヒナが書類を手に立っていた。
「あっ、ヒナ。こんにちは!」
「こんにちは、先生」
ヒナは軽く頷き、机の上へ書類を置いた。
「今日は、アコに書類を届けに来たんだって?」
「そうそう。もう用事は済んだところだよ」
「そう。……少し時間ある?」
「うん。大丈夫だけど、どうしたの?」
「私もちょうど一区切りついたから。よかったら、少し休憩しない?」
先生は嬉しそうに頷いた。
「もちろん!」
アコも端末を確認し、二人へ目を向けた。
「委員長、次の定時報告まで少し時間がありますので、私がお茶を用意しますね」
「うん。ありがとう、アコ」
ヒナはそう答えると、先生を応接用の椅子へ案内した。
アコが給湯室へ向かうのを見送り、二人は向かい合って腰を下ろした。
「……翔には、もう会った?」
先に話を切り出したのはヒナだった。
「うん。さっき、ひだまりに寄ってきたところ」
「そう。元気そうだった?」
「うん。エプロン着て、普通に接客してたよ。新しいパフェも食べてきちゃった」
「……そうなんだ」
ヒナは小さく笑った。
「美味しかった?」
「すごく! 今度、ヒナも食べに行くといいよ」
「……うん。翔からも、来てほしいって言われてる」
「へえ。そうなんだ」
「この前、イオリたちが差し入れを持ってきてくれた時にね。新しいデザートができたら、また連絡するって」
ヒナはそう言ってから、少しだけ窓の外へ目を向けた。
「……翔が帰ってきてから、少し落ち着いた気がする」
「ゲヘナの方も?」
「うん。それもあるけど……」
ヒナは一度言葉を切り、先生へ目を戻した。
「また普通に、ひだまりで顔を合わせられるようになったから」
先生は静かに頷いた。
ヒナとはアビドスでも会っている。その時から、彼女が翔のことを気に掛けている様子は、何となく伝わってきていた。
けれど、今のヒナは、誰かを心配している時の表情ではなかった。
「……先生は、翔とアビドスで一緒にいたんだよね」
「うん。色々あったよ」
「そうだよね」
ヒナは少し考えるように視線を落とした。
「翔って、普段は結構普通なんだけど……。何かあると、すぐ自分から動こうとするから」
「……うん。私も、そういうところは見たかな」
「でも、最近は少しずつ、周りに相談してくれるようになった気がする」
ヒナはそう言って、小さく微笑んだ。
「前よりも、私たちのことを頼ってくれるようになったのは……嬉しいかな」
先生は、その言葉を聞いて微笑んだ。
「そっか。……ヒナにとっても、翔は大事な友達なんだね」
「……うん」
ヒナは、少しだけ目を伏せた。
「翔が店にいると思うと、仕事帰りに寄ってみようかなって思うこともあるし。みんなで普通に話してる時間も、嫌いじゃないから」
「ふふ。いいねえ」
「……先生は、何でそんなに嬉しそうなの?」
「いやあ、翔って結構いい友達がいるんだなあと思って」
先生が答えると、ヒナは一瞬きょとんとした後、静かに笑った。
「……そうかもね」
そこへ、アコがお茶を載せたトレーを持って戻ってきた。
「お待たせしました。……あら、何のお話をされていたんですか?」
「翔の話」
ヒナが答えると、アコは少し意外そうに目を丸くした。
「翔さんの?」
「うん。先生、さっきひだまりに行ってきたんだって」
「そうだったんですね。……それなら、キララさんたちにもお会いになりましたか?」
「会ったよ! 二人とも、すごく元気だった」
「ふふ。そうでしょうね」
アコは笑いながら、二人の前にカップを置いた。
「翔さんも、あのお二人と一緒にいる時は、随分楽しそうですから」
先生はカップを受け取り、微笑んだ。
「うん。今日、私もそう思ったよ」
しばらくして、アコも椅子に腰を下ろし、三人は穏やかな午後の時間を過ごした。
ヒナとアコにはまだ仕事が残っているため、それほど長く話していたわけではない。それでも、今日の先生にとっては、十分に楽しい時間だった。
風紀委員会本部を出る頃には、空は少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
* * *
夕方、先生は再びひだまりを訪れていた。
最初に来た時とは違い、店内はすっかり落ち着いていた。窓際には夕日が差し込み、カウンターの向こうでは、黒猫のマスターが食器を片付けている。
扉のベルが鳴ると、マスターは顔を上げた。
「……先生か。また来たんだな」
「こんにちは。さっきはちゃんとご挨拶できなかったから、もう一度寄ってみたんだ」
「そうか。座るといい」
「ありがとう。……あれ、翔は?」
「今日はもう仕事を上がらせた。今は二階で本でも読んでいるんじゃないか」
「ああ、そっか。まだ肩も治りきってないもんね」
「本人はもう少し働けると言っていたが、無理をさせる理由もないからな」
マスターは洗い終えたカップを棚に戻し、新しいカップを一つ取り出した。
「コーヒーでいいか?」
「うん。お願いします」
先生はカウンター席に腰を下ろした。
厨房からは湯を沸かす音が聞こえ、店内にはコーヒーの香りが広がっていく。
先生はその様子を眺めながら、昼間の出来事を思い出していた。
「今日、キララとエリカにも会ったんだ」
「ああ。あの二人は、翔が来てからよく顔を出している」
「すごく仲がいいんだね。部活にも誘われてるって聞いたよ」
「特別ゲストだそうだな。何をするのかは、あいつもまだ分かっていないらしい」
マスターはそう言って、出来上がったコーヒーを先生の前へ置いた。
「それでも、楽しみにしているようだ」
「ふふ。そうみたいだね」
先生はカップを手に取り、一口飲んだ。
昼間、キララとエリカが翔に話し掛けていた時の様子を思い出す。
二人とも、翔が自分たちの誘いに付き合ってくれることを、当たり前のように思っていた。それは決して、彼を便利な相手として扱っているという意味ではない。
ただ、一緒にいて楽しい友達だから、次も一緒に遊ぼうと思う。そんな、ごく自然な関係だった。
「……マスターから見ると、翔ってどんな子?」
先生が何気なく尋ねると、マスターは少し考えるように手を止めた。
「どんな子、か」
「うん。私、アビドスでは結構一緒にいたんだけど、普段の翔のことは、あんまり知らないなって思って」
「なるほどな」
マスターは頷き、カウンターの端に置かれた小さなメモ帳へ目を向けた。
「そうだな……。まず、よく働く」
「おお。頼もしいね」
「ああ。接客も覚えるのが早かったし、料理や家事もできる。今では、俺が言わなくても必要なことを済ませている場合が多い」
「へえ。家事も得意なんだ」
「一人暮らしの経験が長いからな。その辺りは、最初から慣れていた」
マスターはそう答えてから、少しだけ苦笑した。
「ただ、気を抜くと、こちらが頼んでいない仕事まで始める」
「……ああ。何となく想像できるかも」
「店のことは俺がやると言っても、手が空いていれば何かしようとするからな。最近は、休むことも仕事のうちだと言い聞かせている」
先生はカップを置き、思わず笑った。
「マスターも大変だねえ」
「まあ、悪いことじゃない。ただ、あいつが何もかもやる必要はないだろう」
マスターはそう言って、カウンターの内側に置かれた帳簿を片付けた。
「翔がここに来る前は、俺一人で店をやっていたんだ。今だって、必要なら一人で回せる」
「……うん」
「だから、休みの日くらいは友達と出掛けてくればいい。店のことばかり考えていても仕方ないからな」
その言葉を聞いて、先生は少しだけ目を細めた。
ひだまりで暮らすようになってから、翔は随分と多くの友達ができたらしい。
キララとエリカ、風紀委員会の面々。そして、アビドスの対策委員会。
彼が誰かを助けるために行動してきたことは知っている。けれど、その結果として築かれた関係が、今では仕事や戦いとは関係のない時間にも続いている。
「……翔って、ここに帰ってくる時はどんな感じ?」
先生が尋ねると、マスターは少し意外そうに顔を上げた。
「帰ってくる時?」
「うん。友達と出掛けた日とかさ」
「……そうだな。楽しかった日は、だいたい帰ってきてから話をしてくれる」
マスターは小さく笑った。
「この前も、イオリとチナツに会って、一緒に買い物をしたと話していた。ヒナとアコにも差し入れを届けたそうだな」
「うん。今日、みんなから聞いたよ」
「その日は、帰ってきてから随分と楽しそうだった」
マスターはカウンターを拭きながら続けた。
「買ってきた本を見せてきたり、今度また一緒に出掛ける話になったと言ったり。ああいう時は、年相応だなと思う」
「……そっか」
先生は静かに頷いた。
昼間の翔も、確かに楽しそうだった。
キララとエリカにからかわれたり、部活の話を聞いたり、マスターが作ったパフェを嬉しそうに運んできたり。
アビドスで見た彼とは、少し違う姿だった。
「先生」
マスターが静かに声を掛けた。
「翔が、そっちでも世話になったそうだな」
「……ううん。むしろ、私たちが翔に助けてもらったよ」
「そうか」
マスターはそれ以上、詳しく尋ねようとはしなかった。
先生も、あえて話を広げなかった。
今日聞きたかったのは、アビドスで何があったのかではない。あの出来事から帰ってきた翔が、今どんなふうに暮らしているのか。それを知りたかったのだ。
「……あいつは、ここに来てから随分と変わったと思う」
しばらくして、マスターがぽつりと言った。
「最初の頃は、俺の仕事を手伝って、生活に慣れるだけでも精一杯だったはずだ。それが今じゃ、友達と出掛ける予定も増えたし、店にも色々な奴が訪ねてくる」
「うん」
「……いいことだ」
その言葉は短かったが、先生には十分だった。
マスターは翔を、単なる住み込みの従業員として見ているわけではない。
彼が友達を作り、楽しい時間を過ごし、またこの店へ帰ってくることを、心から喜んでいるのだろう。
「……マスターは、翔のことが大切なんだね」
先生が微笑みながら言うと、マスターは少しだけ目を細めた。
「当たり前だろう」
そして、何でもないことのように続けた。
「あいつにとって、ここは働く場所でもあるが、帰ってくる場所でもあるんだからな」
先生はカップを両手で包み、静かに頷いた。
窓の外では、夕暮れのゲヘナに街灯が灯り始めている。
今日も翔は、この店の二階で、きっと何でもない時間を過ごしているのだろう。
買ってきた本を読んだり、友達から届いたメッセージに返事をしたり。
そして明日になれば、またいつものように、マスターと一緒に店を開ける。
先生は、そんな光景を思い浮かべながら、残りのコーヒーをゆっくりと飲んだ。
* * *
翌日。
シャーレの執務室で、先生はアビドス対策委員会とのビデオ通話を繋いでいた。
アロナが接続を確認すると、画面には見慣れた教室の風景が映し出された。
『先生、こんにちは!』
最初に顔を見せたのは、アヤネだった。
「こんにちは、アヤネ。今日はありがとうね」
『いえ。ちょうど皆さんも揃っているところでしたので』
アヤネはそう答えると、手元の資料を確認した。
『それでは、まず先日お送りした報告書についてなんですが……』
「うん。ちゃんと確認したよ。必要な手続きも、こっちで進めておいたからね」
『ありがとうございます!』
アヤネがほっとしたように微笑む。
学校の現状や今後の予定について、二人はしばらく確認を続けた。
大きな騒動は落ち着いたとはいえ、アビドスにはまだまだやらなければならないことが多い。それでも、こうして落ち着いて学校のことを話せるようになったのは、嬉しい変化だった。
必要な連絡を済ませたところで、画面の端から小さな声が聞こえてきた。
『……アヤネ。先生、もう話は終わった?』
「あ、シロコ先輩。はい。ちょうど今、終わったところです」
アヤネが答えると、画面の端からシロコが姿を現した。
『ん。先生、こんにちは』
「シロコ! こんにちは。元気にしてた?」
『うん。元気』
シロコは小さく頷くと、少し考えるように首を傾けた。
『……先生、翔は元気?』
「翔? うん。昨日、ゲヘナで会ってきたよ」
『そうなんだ』
シロコの表情が、少しだけ明るくなった。
『肩は、もう大丈夫?』
「順調に治ってるみたいだよ。まだ無理はできないけどね」
『……そっか』
シロコは頷いた後、少しだけ残念そうな顔をした。
『一緒に走る約束、まだ先かな』
「ふふ。楽しみにしてるんだね」
『ん。今度、アビドスに来たら誘うつもり』
先生は昨日、イオリから聞いた話を思い出した。
「そういえば、イオリとも一緒に走る約束をしたって言ってたよ」
『……イオリと?』
シロコが顔を上げた。
「うん。自転車じゃなくてランニングの方だけどね。肩が治ったら、って」
『……なるほど』
シロコは真剣な表情で頷いた。
『じゃあ、私も予定を決めないと』
「えっ、何の予定?」
『翔がアビドスに来た時の、走るコース』
あまりにも真面目な答えだったので、先生は思わず笑ってしまった。
「あははっ! そっか。じゃあ、楽しみにしておこうかな」
『ん。先生も一緒に』
「……私も?」
『もちろん』
シロコは当然のように頷いた。
先生が少しだけ遠い目をしたところで、画面の向こうから別の声が聞こえてきた。
『ちょっと、シロコ先輩! 先生まで巻き込まないでよ!』
セリカだった。
彼女はシロコの隣へやってくると、画面に向かって軽く手を振った。
『先生、こんにちは』
「こんにちは、セリカ。元気そうだね」
『うん。……っていうか、さっき翔の話してた?』
「してたよ。昨日、ゲヘナで会ってきたんだ」
『へえ……。そっか』
セリカは少しだけ目を伏せた後、何でもないことのように続けた。
『じゃあ、今度こっちに来る時は、ちゃんと連絡してって伝えといて』
「ん? 何か用事でもあるの?」
『別に、大したことじゃないけど……。また柴関ラーメンにでも来ればいいかなって』
先生は小さく笑った。
「なるほど。翔と一緒にラーメンを食べたいんだね」
『なっ……! そ、そういう言い方しなくてもいいでしょ!』
セリカは少し慌てたように声を上げた。
『翔だって、前に来た時は色々忙しかったじゃない。今度は普通に、プライベートとかでゆっくり食べていけばいいと思っただけ!』
「うんうん。いいと思うよ」
『……もう。先生まで変なこと言わないでよね』
そう言いながらも、セリカはどこか楽しそうだった。
すると、少し離れたところから、柔らかな声が聞こえてきた。
『あらあら~。それなら、私もご一緒したいです!』
ノノミが、画面の向こうから顔を覗かせた。
「ノノミ! こんにちは」
『こんにちは、先生~!』
ノノミはにこにこと笑いながら、アヤネの隣へ腰を下ろした。
『翔さん、元気にしていらっしゃるんですね。よかったです』
「うん。ひだまりでも、普通に働いてたよ」
『そうなんですね~。今度、私たちもお店に行ってみたいです!』
「おお、いいねえ。きっと翔も喜ぶと思うよ」
『えへへ。翔さんには色々お世話になりましたから、今度は私たちの方から、楽しいところにご案内したいです!』
ノノミがそう言うと、セリカも頷いた。
『そうそう。せっかくアビドスに来るなら、柴関ラーメンだけじゃなくて、ほかにも色々見せてあげたいし』
『ん。走るコースも』
『シロコ先輩は、そればっかりじゃない!』
セリカが呆れたように言うと、シロコは少しだけ首を傾げた。
『……大事なことだと思うけど』
『そりゃ、シロコ先輩にとってはね!』
先生は二人のやり取りを見ながら、楽しそうに笑った。
アビドスにいた頃も、こうして五人が何でもない会話を交わしている姿を見るのが好きだった。
あの時は色々な問題が重なり、落ち着いて話す時間もなかなか取れなかった。けれど、今はこうして、翔が次に遊びに来た時のことを楽しそうに話している。
『……そういえば、先生』
アヤネが、ふと思い出したように口を開いた。
「ん? どうしたの?」
『翔さん、こちらに来られた時も、色々と調査に協力してくださいましたよね』
「うん。アヤネとも、一緒に資料を確認してたよね」
『はい。あの時、私の話をきちんと聞いてくださったのが、嬉しかったんです』
アヤネは少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
『現地で見つけた情報だけじゃなくて、こちらで整理した資料にも、しっかり目を通してくださって。分からないところがあれば確認してくださいましたし、私の方からも色々と相談できました』
「そっか。アヤネも、翔のことを頼りにしてたんだね」
『……はい。もちろん、先生のこともですけど』
「ふふ。ありがとう」
先生が微笑むと、アヤネも嬉しそうに頷いた。
『ですから、次に翔さんがいらっしゃる時は、私も何かお手伝いできたらと思っています』
『だったら、今度は仕事じゃなくて、みんなで遊びに行きましょうよ~!』
ノノミが提案すると、アヤネは少し驚いたように瞬きをした。
『えっ? あ、はい! それもいいですね!』
『ん。賛成』
シロコも頷いた。
『……先生も一緒に』
「もちろん! 私も誘ってくれると嬉しいな」
先生がそう答えたところで、画面の端から、のんびりとした声が聞こえてきた。
『うへへ~。何だか、楽しそうな話してるねぇ』
ホシノだった。
どうやら、少し離れたところで休んでいたらしい。彼女はゆっくりと身体を起こすと、画面の方へ歩いてきた。
『やっほー、先生。元気してた?』
「ホシノ! こんにちは。うん、元気だよ」
『そっかそっか。おじさんも元気だよ~』
ホシノはいつもの調子で笑うと、アヤネの隣へ腰を下ろした。
『で、何の話してたの?』
『翔さんが次にアビドスへ来られた時、みんなでどこかへ出掛けようって話してたんです』
アヤネが説明すると、ホシノは少しだけ目を細めた。
『おお~、いいねえ。翔くんも、今度はゆっくり遊びに来てくれたらいいのにね』
「うん。私もそう思う」
先生が頷くと、ホシノは小さく笑った。
『この前は、色々あったからねぇ。……まあ、せっかくまた来てくれるなら、今度はおじさんものんびりしたいなあ』
『ホシノ先輩は、いつものんびりしてるじゃないですか!』
セリカが言うと、ホシノは大げさに肩を落とした。
『うへ~、セリカちゃんは厳しいなぁ。おじさんだって、偶にはもっとゆっくりしたいんだよ~』
『それ以上ゆっくりして、どうするんですか……』
アヤネが困ったように笑う。
ノノミも楽しそうに微笑み、シロコはいつもどおり、静かに頷いていた。
先生はそんな五人の姿を眺めながら、ふとホシノへ目を向けた。
「……ホシノも、翔とまた会いたい?」
何気なく尋ねると、ホシノは一瞬だけ目を丸くした。
『……ん? そりゃ、もちろん』
彼女はそう答え、少しだけ視線を落とした。
『翔くんには、色々とお世話になったからねぇ』
「うん」
『……でも、今度は別に、何かしてもらわなくてもいいかな』
ホシノは少し考えるように言葉を切った。
『普通に遊びに来てくれて、みんなでご飯食べたり、街を歩いたり……。そういうのでいいと思うんだよね』
その声は、いつもの気の抜けた調子だった。
けれど、先生には、その言葉が少しだけ特別なものに聞こえた。
アビドスでの出来事を通して、ホシノが何を思い、どんなことを考えていたのか。先生は、そのすべてを知っているわけではない。
それでも、今こうして彼女が、誰かと過ごす普通の時間を楽しみにしていることが、何より嬉しかった。
「……そっか。じゃあ、今度はみんなで、のんびり過ごそうね」
『うん。そうしよっか』
ホシノは穏やかに微笑んだ。
その隣では、セリカが早速、次に翔が来た時の食事について話し始めていた。
『だから、最初は柴関ラーメンでしょ! 大将にも、また来るって言っておくから!』
『その後は、みんなでどこかへ行きたいですね~!』
『ん。走る』
『シロコ先輩!』
いつもの賑やかな会話が始まる。
先生は思わず笑いながら、その様子を眺めていた。
翔が次にアビドスを訪れる時には、きっと今までとは違う時間が待っているのだろう。
誰かを助けるためでも、何かを調べるためでもなく。
ただ、友達に会いに来る。
そんな、何でもない一日を過ごせる日が来たらいいと思った。
* * *
ビデオ通話を終えると、先生は椅子の背もたれに身体を預けた。
「……ふう。楽しかったあ」
『先生、お疲れさまでした!』
シッテムの箱から、アロナの元気な声が聞こえてくる。
『皆さん、とても楽しそうでしたね!』
「うん。何だか、私まで嬉しくなっちゃった」
先生は机の上に置かれた携帯端末へ目を向けた。
ゲヘナへ行く前は、翔が普段どんなふうに過ごしているのか、少し気になっただけだった。
けれど、実際に色々な人と話してみると、思っていた以上にたくさんのことを知ることができた。
キララとエリカにとっては、一緒にいると楽しい友達。
風紀委員会の四人にとっては、共に仕事をしてきた仲間であり、仕事が終わってからも気軽に誘い合える相手。
そして、ひだまりのマスターにとっては、同じ店で暮らし、働く、大切な存在。
アビドスの五人もまた、翔が次に遊びに来る日を楽しみにしていた。
先生が知っていた翔は、危険な場所へも迷わず飛び込み、誰かを助けようとする少年だった。
けれど、それだけが彼のすべてではない。
友達と買い物をしたり、気に入った本を読んだり、部活動の誘いに付き合ったり。時にはマスターから仕事を休むように言われ、それでも何か手伝おうとしてしまう、ごく普通の高校生でもある。
そして、そんな彼を大切に思っている人たちが、たくさんいる。
「……いいなあ」
先生がぽつりと呟くと、アロナが不思議そうに首を傾げた。
『何がですか?』
「翔って、すごくいい友達に恵まれてるなって」
『……そうですね!』
アロナは嬉しそうに頷いた。
『でも、きっと翔さんも、皆さんのことが大好きなんでしょうね!』
「うん。そう思う」
先生は微笑み、携帯端末を手に取った。
「……よし。私も今度、翔を誘ってみようかな」
『お出掛けですか?』
「うん。まだ一緒に買い物とかしたことないしね」
先生は連絡先から翔の名前を選び、短いメッセージを打ち始めた。
『先生、今度はどこへ行くんですか?』
「それは、翔と相談してからかな。……あ、ひだまりでご飯食べるのもいいね」
そう言って、先生は楽しそうに笑った。
今日もシャーレの仕事は、まだ少し残っている。
けれど、今度は自分も、翔と一緒に何でもない時間を過ごしてみたい。
彼がどんな本を選び、どんなものを見て足を止めるのか。友達といる時には、どんな顔で笑うのか。
そんな、アビドスではなかなか見ることのできなかった姿を、今度は自分の目で見てみたいと思った。
先生はメッセージを送信し、机の上へ端末を置いた。
窓の外には、穏やかな午後の日差しが広がっている。
翔が、たくさんの人から大切にされていること。
そして、翔自身もまた、その人たちを大切に思っていること。
それが分かっただけでも、今日の先生にとっては、十分に嬉しい一日だった。