青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
昼の混雑が一段落した喫茶店「ひだまり」で、風間翔は洗い終えた最後のカップを棚へ戻した。
「マスター、こっちの片付けは終わったよ」
「ああ。なら、そろそろ上がっていいぞ」
カウンターの向こうで、マスターのニャン次郎が時計を確認する。今日は午後から翔に予定があるため、昼までの勤務にしてもらっていた。
「まだ少し時間はあるけど、ほかにやっておくことはないか?」
「ない。あとは俺がやるから、着替えてこい」
「了解。じゃあ、お言葉に甘えて」
翔はエプロンを外し、二階の自室へ向かった。
今日はD.U.で先生と待ち合わせをしている。
数日前、先生から一緒に出掛けないかというメッセージが届いた。アビドスで出会って以来、何度も連絡を取り合っているが、二人きりで遊びに行くのは初めてだ。
先生によれば、D.U.の街を案内しながら、気になった場所へ寄り道しようという計画らしい。
ただし、具体的な行き先を尋ねた際の返信は、少々気になるものだった。
『それは当日のお楽しみ!』
……本当に何か考えてるんだろうな?
そんなことを思いながらも、翔は久しぶりの外出を楽しみにしていた。
着替えを済ませ、携帯端末と財布を確かめてから一階へ戻ると、マスターはちょうど次の仕込みを始めていた。
「それじゃ、行ってくるよ」
「ああ。帰りはどうする?」
「夕飯までには戻るつもり。遅くなりそうだったら連絡するよ」
「分かった。楽しんでこい」
「ありがと、マスター」
翔は笑って手を振り、店を後にした。
左肩の怪我は順調に回復しており、日常生活ではほとんど支障を感じなくなっていた。ただし、まだ無理は禁物だ。バイクに乗るのはもう少し先の楽しみに取っておき、今日は公共交通機関でD.U.へ向かうことにした。
駅へ向かう途中、携帯端末にメッセージが届いた。
『翔、私はもう着いたよ!』
先生からだった。
時計を見ると、待ち合わせの時間までは、まだ三十分ほどある。
「……早くないか?」
翔が思わず呟いたところへ、もう一通。
『楽しみだったから、早く来ちゃった』
添付された写真には、駅前広場の時計が写っていた。どうやら、もう待ち合わせ場所にいるらしい。
翔は小さく笑い、返信を打った。
『今向かってる。あと少し待っててくれ』
すると、すぐに返事が届いた。
『了解! 気をつけて来てね!』
画面をしまい、翔は駅へ向かう足を少しだけ速めた。
* * *
D.U.の駅前広場は、休日を楽しむ生徒たちで賑わっていた。
大きな商業施設が立ち並ぶ通りには、買い物袋を提げた生徒や、友人同士で談笑する姿が見られる。広場の中央には大きな時計があり、その周囲は待ち合わせをする人々で混み合っていた。
翔は改札を抜けると、すぐに見覚えのある姿を見つけた。
「先生!」
声を掛けると、先生はこちらへ振り向き、嬉しそうに手を振った。
「あっ、翔! こんにちは!」
「こんにちは。随分早く着いてたみたいだな」
「いやあ、ちょっと楽しみでね。家を出る時間を間違えちゃった」
「待ち合わせの時間を間違えたんじゃないのか?」
「細かいことは気にしない!」
先生は笑いながら答えた。
今日は普段の仕事着ではなく、動きやすそうな私服姿だ。肩には小さな鞄を掛け、手には駅前で買ったらしい飲み物を持っている。
「それにしても、翔の私服を見るのって、ちょっと新鮮だね」
「そうか? まあ、アビドスにいた時は調査用の服ばっかりだったしな」
「うん。今日は本当にお休みって感じがする」
「先生もな。いつもと雰囲気が違うよ」
「ふふん。今日は仕事のことを考えずに遊ぶつもりだからね!」
先生は胸を張ると、背後の案内板へ目を向けた。
「さて、それじゃあ行こうか!」
「おう。で、最初はどこへ?」
「まずは、あっち!」
先生が指差したのは、広場から伸びる大きな通りだった。
「何か面白そうなものがあるのか?」
「さっき案内板で見つけたんだけど、この先で青空市をやってるみたいなんだ」
「へえ。それは面白そうだな」
「でしょ? ちょっと覗いてみようよ!」
二人は並んで歩き出した。
大通りから一本入ると、街の雰囲気は少しずつ変わっていった。大きな建物の間に小さな商店が増え、窓際に花を飾った喫茶店や、手書きの看板を出した雑貨店が並んでいる。
やがて、通りの先に小さな広場が見えてきた。
広場にはいくつもの屋台が設けられ、手作りの雑貨や絵葉書、観葉植物などが販売されていた。週末限定の催し物らしく、店の前では生徒たちが店員と楽しそうに話している。
「おお……。結構いろんなものがあるんだな」
「ね! どこから見ようか?」
先生は興味深そうに広場を見渡していたが、すぐに絵葉書の並んだ屋台へ目を留めた。
「あっ、これ綺麗!」
翔も隣から覗き込む。
そこには、D.U.のさまざまな風景を描いた絵葉書が並んでいた。夕日に照らされた大通り、雨上がりの路地、街灯が灯り始めた夜の広場。同じ街でも、描かれた時間や場所によって随分と雰囲気が違う。
「へえ。こうして見ると、D.U.も結構綺麗なところが多いんだな」
「うん。普段は仕事で通り過ぎちゃうような場所も、絵になるんだね」
先生はしばらく眺めた後、雨上がりの街を描いた一枚を手に取った。
「私はこれが好きかな。翔は?」
「俺は……こっちかな」
翔が指差したのは、夕暮れの大通りを描いた絵葉書だった。道の向こうまで見渡せる構図で、街並みの奥には遠くの山が小さく描かれている。
「おお。何だか翔らしいね」
「そうか?」
「うん。バイクで走ったら気持ちよさそう、って思ってそう」
「……よく分かったな」
翔が苦笑すると、先生は楽しそうに笑った。
その後も二人は屋台を巡り、さまざまな商品を眺めて歩いた。
先生は小さな鉢植えの並ぶ店で足を止め、シャーレの机に置くならどれがいいだろうかと真剣に悩み始めた。翔が水やりのことを尋ねると、今度は育て方について店員に質問し、結局、今日は買わずに少し調べてから決めることになった。
一方、翔は革製の小物を扱う屋台で足を止めた。手作りのキーホルダーの中に、バイクの鍵に付けるのにちょうどよさそうなものがあったのだ。
「これ、いいな……」
「おっ、翔も何か見つけた?」
「ああ。バイクの鍵に付けようかなって」
「へえ。いいじゃん!」
先生は翔の手元を覗き込み、いくつか並んでいる色違いの品を眺めた。
「……私なら、こっちかな」
「黒か。確かに、バイクにも合いそうだな」
「でしょ?」
翔は少し考えた末、先生が選んだ黒いキーホルダーを購入した。
手のひらに収まる小さな買い物だったが、久しぶりに自分の趣味のために何かを選んだ気がして、少し嬉しかった。
青空市を一通り見て回ると、二人は屋台で売られていた軽食を買い、広場の端にあるベンチで食べることにした。
「……こういうのも、いいねえ」
先生は温かい軽食を頬張りながら、広場を行き交う生徒たちを眺めていた。
「何が?」
「ほら、目的地を決めてから移動するんじゃなくてさ。気になったものを見つけたら、ちょっと立ち寄ってみるの」
「ああ。確かにな。普段は、用事が済んだらすぐ帰ることも多いし」
「うん。今日は知らないお店も見つけられたし、来てよかった」
先生が満足そうに頷く。
翔も、先ほど買ったキーホルダーを鞄へしまいながら笑った。
「俺も。先生が誘ってくれなかったら、こういうところに来ることもなかったかもしれないしな」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいな」
食事を終えた二人は、青空市を後にした。
通りへ戻り、次はどちらへ向かおうかと周囲を見渡した時、翔の耳に懐かしい電子音が聞こえてきた。
大きな看板の下に、ゲームセンターの入口が見える。
「……先生、あそこ寄ってみないか?」
「ん?」
先生が翔の指差した方を見た。
次の瞬間、その表情がぱっと明るくなる。
「ゲームセンター! いいね!」
「俺も、こういうところに来るの久しぶりなんだよな」
「じゃあ、今日は色々遊んでみよう!」
二人は顔を見合わせて笑い、賑やかな店内へ入っていった。
* * *
ゲームセンターの中には、色とりどりの照明と、さまざまなゲームの音が溢れていた。
入口の近くにはクレーンゲームがずらりと並び、奥にはレースゲームや、複数人で遊べるゲームの筐体が設置されている。
「……へえ。結構広いな」
翔が店内を見渡していると、先生は早くもクレーンゲームの前で足を止めていた。
「翔、見て見て!」
「ん?」
「あの黒猫、ちょっと可愛くない?」
先生が指差した先には、丸い目と少し不機嫌そうな口元をした、黒猫のぬいぐるみが置かれていた。
翔はしばらく眺め、思わず笑った。
「……何か、マスターに似てないか?」
「えっ?」
先生はもう一度ぬいぐるみを見た。
しばらくして、じわじわと笑みが広がっていく。
「……あははっ! 確かに、ちょっと似てる!」
「特に、その目つき」
「ふふっ。よし。これ、取ってみよう!」
先生は財布から硬貨を取り出し、クレーンゲームへ投入した。
操作ボタンに指を置き、真剣な表情でアームの位置を調整する。
「……よし。ここだ!」
ボタンを押すと、アームがゆっくりと下りていった。
ところが、ぬいぐるみの耳をかすめたところで止まり、そのまま何も掴まずに上がってくる。
「あっ……!」
先生は思わず声を上げた。
「ううっ。惜しい!」
「いや、今のは結構ずれてたぞ」
「そこは励ましてくれてもいいんじゃないかな!?」
翔は苦笑しながら、ケースの中を覗いた。
「次は、もう少し手前にしてみたらどうだ?」
「なるほど……。よし、もう一回!」
二度目は、ぬいぐるみの胴体をうまく掴んだ。
先生は期待に目を輝かせたが、アームが出口へ向かう途中で、ぬいぐるみはするりと滑り落ちてしまった。
「……ああーっ!」
「でも、さっきより取りやすい位置になったんじゃないか?」
翔が言うと、先生は少し考えてから場所を譲った。
「……次は翔の番!」
「俺?」
「うん。二人で取った方が楽しいでしょ?」
「……まあ、それもそうか」
翔は硬貨を投入し、アームの位置を慎重に調整した。
先生も隣から、ケースの中を真剣に眺めている。
「もう少し右かな。……いや、待って。左?」
「先生、どっちだよ」
「……翔の判断に任せる!」
「責任重大だな……」
翔は笑いながらボタンを押した。
アームがぬいぐるみの胴体を挟み、ゆっくりと持ち上げる。
「おっ……!」
「いける、いける!」
二人が見守る中、アームは黒猫のぬいぐるみを抱えたまま出口へ移動していった。
そして、今度は無事に景品が落ちる。
「……取れた!」
「やったーっ!」
先生が嬉しそうに両手を上げた。
翔も笑って、取り出し口からぬいぐるみを拾い上げる。
「ほら、先生」
「ありがとう!」
先生はぬいぐるみを受け取ると、嬉しそうに顔の前へ持ち上げた。
「……うん。やっぱり、ちょっとマスターに似てる」
「後で本人に見せてみるか?」
「ふふっ。何て言うかなあ」
二人は顔を見合わせて笑った。
先生がぬいぐるみを鞄へしまうと、翔は店内の奥へ目を向けた。
「……次は、あれやってみないか?」
「ん? どれ?」
「レースゲーム。二人で対戦できるみたいだぞ」
「おお! いいね!」
先生はすぐに頷いた。
「じゃあ、翔。勝負しよう!」
「いいぞ。負けても文句言うなよ?」
「ふふん。私だって、やる時はやるんだからね!」
二人は並んだ筐体へ向かい、それぞれ席に座った。
翔がコースを選ぶと、先生は画面を眺めながら、少し考えるように首を傾げた。
「……これ、結構難しそうだね」
「カーブが多いからな。最初はこっちの方が走りやすいと思うぞ」
「なるほど。じゃあ、最初は翔のおすすめで!」
二人は車を選び、スタート画面へ進んだ。
カウントダウンが始まる。
三、二、一。
スタートと同時に、二台の車が勢いよく走り出した。
「おおっ! 速い!」
「先生、前見て! カーブ!」
「えっ、もう!?」
先生の車が大きく外側へ膨らみ、壁に接触する。
翔は笑いながら、手元のハンドルを切った。
「ははっ! 最初から飛ばしすぎだろ!」
「ううっ……。でも、まだこれからだからね!」
先生は気を取り直し、次のカーブへ向かった。
今度は少し早めに減速し、無事に曲がり切る。
「よし!」
「おっ、いいじゃん!」
「ふふん。学習したからね!」
その後、先生は少しずつ操作に慣れ、翔との差を縮めていった。
最終ラップでは二台がほとんど並び、最後の直線へ飛び込む。
「翔! 抜かすよ!」
「させるか!」
二人は同時にアクセルを踏み込んだ。
結果は、ほんのわずかな差で翔の勝利だった。
「……ああーっ! 惜しかった!」
先生はハンドルから手を離し、椅子の背もたれに身体を預けた。
「もう少しだったのに……!」
「危なかったよ。最後、結構追いついてきてたし」
「……よし。もう一回!」
先生はすぐに画面へ向き直った。
翔は思わず笑った。
「いいぞ。次も勝つからな」
「ふふ。今度はそう簡単にはいかないよ?」
二度目のレースでは、先生は最初から安定した走りを見せた。
先ほど苦戦していたカーブも、今度は危なげなく曲がっていく。翔が少し先を走る時間が続いたものの、最後の周回で先生が一気に距離を縮めた。
「……あれ? 先生、結構速くなってないか?」
「ふふん。さっきの反省を生かしたからね!」
「おっと、危なっ!」
翔が次のカーブで少し膨らんだ隙に、先生の車が横へ並ぶ。
そのまま、二台はほとんど同時にゴールラインを越えた。
結果は、今度は先生の勝利だった。
「やったー!」
「うわ、負けた!」
先生は嬉しそうに笑い、翔も悔しそうに頭を掻いた。
「……先生、こういうの覚えるの早いな」
「ふふ。二回目だからね」
「よし。じゃあ、次は別のゲームで勝負だ!」
「おっ、いいね!」
その後、二人は協力して進めるパズルゲームにも挑戦した。
画面の中で二人のキャラクターを操作し、仕掛けを動かしたり、別々の通路を進んだりしながら、ステージを攻略していくゲームだった。
最初は互いの動きが噛み合わず、何度か失敗してしまったが、少しずつ役割を分担するうちに、操作にも慣れていった。
「先生、そっちのスイッチ頼む!」
「了解! ……あっ、ちょっと待って。その前にこっち動かした方がいいかも!」
「なるほど。じゃあ、俺が先に行くから、タイミング合わせてくれ!」
「うん。三、二、一……今!」
画面の中で二人のキャラクターが同時に動き、左右に分かれた通路のスイッチを踏んだ。
閉ざされていた扉が開き、制限時間ぎりぎりで、二人は次の部屋へ滑り込む。
「やった! 間に合った!」
「危なかったな。あと一秒遅かったら、最初からやり直しだったぞ」
「ふふん。私たちの連携にかかれば、このくらい!」
「さっき、先生が一人で先に行って、俺を置いていったのは誰だったっけ?」
「……過去のことは振り返らない主義なんだよ、私は」
「都合がよすぎるだろ!」
二人で笑っているうちに、次のステージが始まった。
今度は、離れた場所にある二つのスイッチを順番に押し、足場を動かして進んでいく仕掛けだった。
翔が先に進んで周囲を確かめ、先生が装置を操作する。途中で役割を交代しながら、二人は少しずつ出口へ近づいていった。
「……あれ? 翔、そっちの道、行き止まりじゃない?」
「いや、こっちに隠し通路がある。ほら、壁の色が違うだろ?」
「本当だ。よく見つけたね」
「こういうゲーム、昔から結構好きだったんだよ」
翔が壁の向こうへキャラクターを移動させると、隠されていた宝箱が現れた。
「おおっ! やるねえ、翔!」
「ははっ。先生、そっちにも何かあるか?」
「ちょっと待ってね。……あ、あった!」
先生の操作するキャラクターも、別の部屋で仕掛けを見つけたらしい。
宝箱を二つ開けたところで、ステージの出口が出現した。
「よし。あとはゴールするだけだな」
「うん。今度は二人一緒にね!」
翔と先生は画面の中で並んで出口へ向かい、無事にステージをクリアした。
華やかな音楽が流れ、画面には二人の成績が表示される。
「……やったー!」
先生が嬉しそうに両手を上げた。
翔も笑って、右手で小さくガッツポーズを作る。
「思ったより難しかったな。でも、面白かった」
「うん! 翔と一緒だと、こういうゲームも楽しいね」
「俺も。先生、結構思い切ったことするから、何が起こるか分からないし」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん」
「本当かなあ……?」
先生は少し疑わしそうに翔を見たものの、すぐに笑った。
時計を確認すると、ゲームセンターへ入ってから随分と時間が経っていた。
「……そろそろ休憩するか?」
翔が尋ねると、先生も頷いた。
「そうだね。さすがに、ちょっと喉が渇いちゃった」
二人は筐体から立ち上がり、出口へ向かった。
その途中、先生は鞄から先ほどの黒猫のぬいぐるみを取り出した。
「……ねえ、翔。せっかくだし、写真撮らない?」
「ん? そのぬいぐるみの?」
「ううん。翔と一緒に」
先生は携帯端末を取り出した。
「二人で取った記念にね」
「ああ、いいな」
近くの店員に声を掛け、二人の写真を撮ってもらうことにした。
翔は先生の隣に立ち、彼女が持っているぬいぐるみへ目を向けた。
「……先生、それだと俺たちよりぬいぐるみが目立たないか?」
「えっ? ……あははっ! 確かに!」
先生は慌ててぬいぐるみの位置を少し下げた。
店員が声を掛け、二人はカメラの方へ顔を向ける。
シャッターが切られた瞬間も、先生はまだ笑っていた。
撮ってもらった写真を確認すると、そこには黒猫のぬいぐるみを挟んで、楽しそうに笑う二人の姿が写っていた。
「……いい写真だね」
先生が呟いた。
「ああ。俺にも送ってくれよ」
「もちろん!」
先生はさっそく写真を翔へ送り、自分の端末にも保存した。
それから、ぬいぐるみを鞄へしまい、店の出口へ向かう。
外へ出ると、午後の日差しは少し傾き始めていた。
「……さて。次はどうする?」
翔が尋ねると、先生は少し考え、通りの向こうへ目を向けた。
「この先に、川沿いの公園があるみたいなんだ。飲み物でも買って、ちょっと休憩しない?」
「いいな。行こうぜ」
二人は近くの店で飲み物を買い、川沿いの遊歩道へ向かった。
* * *
川沿いの公園には、思っていたよりも多くの木々が植えられていた。
遊歩道の脇にはベンチが並び、木陰では本を読む生徒や、友人同士で談笑する姿が見られる。川の向こうにはD.U.の建物が立ち並び、水面には午後の日差しがきらきらと反射していた。
「へえ。こんなところがあるんだな」
翔は景色を眺めながら、ゆっくりと歩いた。
「私も初めて来たけど、いいところだね」
先生は木陰にあるベンチを見つけると、翔の方へ振り向いた。
「あそこで休もうか」
「おう」
二人は並んで腰を下ろし、先ほど買った飲み物を取り出した。
川から吹いてくる風が、少し火照った身体に心地よい。ゲームセンターの賑やかさから離れたせいか、木々の葉が擦れ合う音まで、はっきりと聞こえてきた。
「……ふう。今日は結構遊んだねえ」
先生は飲み物を一口飲み、気持ちよさそうに息を吐いた。
「先生、ゲームセンターじゃ随分はしゃいでたもんな」
「だって、楽しかったんだもん」
「ははっ。それは俺も同じだよ」
翔は笑いながら、手元の飲み物へ口をつけた。
しばらくの間、二人は何も話さず、川沿いの景色を眺めていた。
遠くの橋を渡る車や、向こう岸の遊歩道を歩く生徒たち。時折、風が吹くたびに木漏れ日が揺れ、足元の地面へ複雑な模様を描いている。
やがて、先生が何気なく口を開いた。
「……そういえば、翔」
「ん?」
「この前、ゲヘナで色んな人と話したんだけどさ」
「ああ。キララたちにも会ったんだっけ?」
「うん。風紀委員会のみんなや、マスターとも話したよ」
先生は少し笑った。
「みんな、翔のことになると色んな話をしてくれるんだね」
「……何か、今さらになって恥ずかしくなってきたんだけど」
「ふふ。別に、変な話は聞いてないよ」
「本当か?」
「本当、本当」
先生は頷いた後、少しだけ表情を和らげた。
「ただ、私が知らなかった翔のことを、みんなはたくさん知ってるんだなって思ったの」
「……まあ、先生とはアビドスで知り合ったばっかりだからな」
「うん。だから、今日誘ってよかった」
翔が顔を上げると、先生はこちらを見て微笑んでいた。
「みんなから聞いた話も面白かったけど、やっぱり、一緒に遊んでみないと分からないこともあるね」
「……そうか?」
「そうだよ。例えば、翔がゲームの隠し通路を見つけるのが得意なこととか」
「ははっ。そんなところかよ」
「大事なことだよ? あれがなかったら、宝箱を取り逃がしてたんだから」
先生が大真面目に答えるので、翔は思わず笑ってしまった。
けれど、言いたいことは分かる気がした。
先生と知り合ってから、一緒に行動する機会は何度もあった。彼女がどれほど頼りになる人なのかも、アビドスで十分に知っている。
それでも、今日のように二人で遊んだことはなかった。
「……そういえばさ、先生」
「ん?」
「先生って、休みの日は普段何してるんだ?」
「……私?」
先生は少し意外そうに目を瞬かせた。
「ああ。俺のことは色々聞いて回ってたみたいだけど、そういえば先生自身のことって、あんまり知らないなと思って」
「なるほど……。私の休日かあ」
先生は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「やりたいことは結構あるんだけど、いざ時間ができると、何をしようか迷っちゃうんだよね」
「ははっ。何か、今日の先生を見てると分かる気がするな」
「むむ。そういう翔は、休みの日にちゃんと予定を決めるタイプなの?」
「……いや、俺も結構その場で決めるかも」
「ほら!」
二人は顔を見合わせて笑った。
先生は飲み物をもう一口飲むと、ベンチの背もたれへゆっくりと身体を預けた。
「でも、今日は本当に楽しかったよ。翔と一緒だったから、普段なら入らないようなお店にも寄れたし」
「俺も。あの青空市なんて、先生が案内してくれなかったら知らないままだったと思う」
「……そう言ってもらえると、案内した甲斐があったかな」
「行き先をその場で決めてたのは、ちょっと驚いたけどな」
「それはもういいでしょ!」
先生は笑いながら、軽く翔の方へ顔を向けた。
翔はその表情を眺めながら、ふと気づいた。
今日は、先生が誰かの相談を受けるところも、書類と向き合っているところも、戦場で指揮を執るところも見ていない。
ただ、気になった店へ入り、ゲームに夢中になって、勝てば喜び、負ければ悔しがる先生が隣にいた。
……先生も、こういう時間をもっと楽しんでいいんじゃないかな。
そう思い、翔は何気なく口を開いた。
「先生もさ、たまにはこうして遊びに出掛けたらどうだ?」
「……ん?」
「いつも仕事してるイメージがあるし。せっかく休みが取れたなら、好きなことする時間もあった方がいいだろ?」
先生は少し驚いたように翔を見た後、穏やかに微笑んだ。
「……そうだね。ありがとう、翔」
「いや、別に礼を言われるようなことじゃないけど」
「ふふ。そういうことを言ってくれるのが、嬉しいんだよ」
先生はそう答えてから、川の方へ目を向けた。
「じゃあ、今度はもう少し、行きたいところを考えておこうかな」
「いいな。何か見つかったら、俺にも教えてくれよ」
「もちろん!」
翔は頷き、もう一度川沿いの景色を眺めた。
先生のことを、今日だけで何もかも知れたわけではない。
けれど、また一緒に出掛ければ、きっと新しい発見があるだろう。
そう考えると、次に会うのが少し楽しみになった。
* * *
公園を出た頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
二人は駅へ向かいながら、今日立ち寄った店の話をした。先生は青空市の小さな鉢植えがまだ気になっているらしく、帰ったら育て方を調べてみるつもりだという。
翔も、買ったキーホルダーを取り出して眺めた。
黒い革に小さな金具を組み合わせた、飾り気の少ない品だった。バイクの鍵に付ければ、きっとちょうどいいだろう。
「それ、気に入ってくれた?」
先生が隣から尋ねた。
「ああ。バイクに乗れるようになったら、早速使おうと思ってる」
「そっか。じゃあ、使うのが楽しみだね」
「おう」
翔はキーホルダーを鞄へ戻し、駅前広場へ目を向けた。
朝は待ち合わせをする人々で混み合っていた広場も、今は夕日が差し込み、少し違った雰囲気になっている。
「……あ、ここだね」
先生が足を止めた。
「朝、待ち合わせしたところ」
「そうだな。何か、随分前のことみたいだ」
「ふふ。今日は色んなところに行ったからね」
翔は帰りの便を確認した。ちょうどよい時間の便があり、そろそろ改札へ向かえば間に合いそうだった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ」
「うん。今日は来てくれてありがとう、翔」
「こちらこそ。誘ってくれてありがとな」
翔は笑ってから、少し考えるように口を開いた。
「……そうだ。次は俺がどこか案内しようか?」
「えっ、本当?」
「ああ。先生、まだゲヘナで行ったことのない場所も多いだろ? ひだまりの近くにも、結構面白い店があるんだ」
先生の顔が、ぱっと明るくなった。
「行きたい! ぜひ案内して!」
「ははっ。じゃあ、今度予定を合わせようぜ」
「うん。楽しみにしてるね」
具体的な日程や行き先は、まだ決めなかった。
けれど、今日はそれで十分だった。
「それじゃ、またな。先生も帰りは気をつけて」
「うん。翔もね!」
軽く手を振り、翔は改札へ向かった。
途中で一度振り返ると、先生はまだ広場に立ち、こちらへ手を振っていた。
翔も右手を上げて応え、そのまま改札を抜けた。
* * *
その日の夕方、シャーレの執務室へ戻った先生は、鞄から小さな黒猫のぬいぐるみを取り出した。
机の端に置いてみると、少し不機嫌そうな顔をした黒猫が、書類の山を見張っているようにも見える。
「……ふふっ」
思わず笑ったところへ、シッテムの箱からアロナの声が聞こえてきた。
『先生、おかえりなさい! 今日は楽しかったですか?』
「ただいま、アロナ。うん、すっごく楽しかったよ!」
『よかったです! ……あれ? そのぬいぐるみは?』
「これ? 翔と二人で取ったんだ」
先生はぬいぐるみを持ち上げ、アロナに見せた。
『わあ! 可愛いですね!』
「でしょ? それからね、写真も撮ってもらったんだよ」
先生は携帯端末を取り出し、ゲームセンターで撮った一枚を表示した。
真ん中には黒猫のぬいぐるみ。その両隣で、翔と先生が楽しそうに笑っている。
『……素敵な写真ですね!』
「うん。私も気に入ってる」
先生はしばらく写真を眺めてから、端末を机へ置いた。
先日、翔と親しい人たちに話を聞いて回った時、彼には随分とたくさんの友達がいるのだと思った。
それぞれが語ってくれた思い出は、どれも少しずつ違っていた。翔が誰と一緒にいるかによって、見せる表情も変わるのだろう。
今日の自分も、きっとその一つを知ることができた。
……いや。
先生は机の上の黒猫へ目を向け、微笑んだ。
ただ話を聞いたのではなく、自分も一緒に楽しんで、新しい思い出を作れたのだ。
『先生?』
「ん? どうしたの?」
『何だか、嬉しそうですね』
「ふふ。そうかな?」
『はい!』
アロナが元気よく頷く。
先生は笑いながら、鞄の中身を片付け始めた。
「……さて。それじゃあ、今日はもうゆっくりしようかな」
『はい! 明日のお仕事は、また明日頑張りましょう!』
「うん。そうする!」
先生はもう一度、机の端に置いた黒猫のぬいぐるみを眺めた。
今度は、翔がゲヘナを案内してくれるらしい。
どんな場所へ連れていってくれるのかは、まだ分からない。けれど、今日のように二人で歩けば、きっとまた面白いものを見つけられるだろう。
そんなことを考えながら、先生は窓の外へ目を向けた。
夕日に照らされたD.U.の街には、今日も多くの人々が行き交っている。
その何でもない景色が、今は少しだけ、昨日までとは違って見える気がした。