青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
休日の朝、喫茶店「ひだまり」の裏手から、低く響くエンジン音が聞こえてきた。
黒い大型バイクに跨った風間翔は、しばらくアイドリングの音に耳を傾けてから、エンジンを切った。
「……うん。問題なさそうだな」
久しぶりに触れる愛車だった。
アビドスから帰還して以来、左肩の怪我もあって、バイクにはほとんど乗っていない。風紀委員会の整備班に頼んで各部の状態を確認してもらい、自分でも点検を重ねてきたが、実際に走らせるのは今日が久しぶりだった。
もっとも、いきなり遠出を決めたわけではない。
先日、ゲヘナ救急医学部で再診を受けた際、セナから運転を再開しても問題ないことを確認していた。その後も近場で何度か試走し、クラッチやアクセル、ブレーキを操作した時に肩へ無理な負担が掛からないことを確かめている。
そして今日、ようやく少し遠くまで走ってみることにしたのだ。
「……おっ、いい感じ」
翔はハンドルから手を離し、車体を眺めた。
黒を基調としたスポーティな外観に、少し高めの車高と、荒れた道にも対応できる足回り。舗装路での走りやすさを残しつつ、風紀委員会の整備班がアビドスでの調査に合わせて調整してくれた、大切な一台だ。
あの時は移動手段として必要だったが、今日は違う。
行きたいところへ、自分の好きな道を走っていく。
ただ、それだけのためにバイクへ乗る。
元の世界で免許を取った頃から、いつか自分のバイクでそんな旅をしてみたいと思っていた。思いがけない形ではあったものの、今ではその願いが叶っている。
「翔。準備はできたのか?」
背後から声を掛けられ、翔は振り向いた。
裏口から出てきたのは、ひだまりのマスターであるニャン次郎だった。
「ああ。あとは荷物を積んだら出発できるよ」
「そうか。どこまで行くんだったな」
「山の方にある温泉。ほら、昨日見せたところ」
翔は携帯端末を取り出し、目的地の案内を表示した。
ゲヘナ自治区の外れから山間部へ進んだ先にある、小さな温泉地だった。古くから湯治場として知られ、肩や腰の古傷を気にする人も訪れるという。自然に囲まれた露天風呂も評判で、休日にはツーリング客も立ち寄るらしい。
もっとも、翔の一番の目的は、温泉の効能そのものというよりも、久しぶりに遠くまでバイクを走らせることだった。
「景色のいい道もあるみたいだし、途中で寄れそうな展望台も見つけたんだ。せっかくだから、のんびり行こうと思って」
「なるほど。温泉はついでか?」
「いや、温泉もちゃんと楽しみだよ。最近、肩が凝ることもあったし」
「温めれば何でも治るわけじゃない。無理はするなよ」
「分かってる。セナにも言われたしな」
翔が答えると、マスターは小さく頷いた。
「ならいい。帰りは?」
「夕方には戻るつもり。遅くなるようなら連絡するよ」
「分かった。店のことは気にせず楽しんでこい」
「ありがと、マスター」
翔は笑って頷き、荷物を確認した。
財布と携帯端末、飲み物、雨具。それから、万が一のための簡単な工具と救急用品。日帰りなので、荷物はそれほど多くない。
最後に、ポケットからバイクの鍵を取り出した。
鍵には、新しい黒い革製のキーホルダーが付いている。
先日、先生とD.U.へ遊びに行った時、青空市で一緒に選んだものだった。
「……似合ってるじゃないか」
マスターがそれに目を留める。
「これか? 先生と出掛けた時に買ったんだ」
「そうか。失くすなよ」
「もちろん」
翔は鍵を差し込み、ヘルメットを被った。
グローブを装着し、もう一度車体の周囲を確認する。タイヤの状態、灯火類、荷物の固定。昨夜のうちに点検は済ませていたが、出発前にも一通り確かめておいた。
「それじゃ、行ってくる!」
「ああ。気をつけてな」
マスターに見送られ、翔はゆっくりとバイクを発進させた。
ひだまりの裏手を抜け、朝の商店街を通り過ぎる。
まだ開店準備をしている店も多く、普段より少し静かな街並みが流れていった。
交差点を曲がり、大通りへ出る。
アクセルを穏やかに開くと、エンジンが心地よく応えた。
……よし。行くか!
翔は前方へ視線を向け、朝の日差しが降り注ぐ道を走り始めた。
* * *
ゲヘナの中心部を離れるにつれて、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
背の高い建物が減り、道路沿いには広い空き地や緑が増えていく。さらに郊外へ進むと、遠くに見えていた山々が、次第に大きくなってきた。
翔は一定の速度を保ちながら、気持ちよく道路を走っていた。
今までこのバイクで遠出する時は、目的地へ急ぐ必要があることも多かった。ブラックマーケットの調査や、風紀委員会から依頼された仕事で自治区の外へ向かう時には、景色を楽しむ余裕など、あまりなかったものだ。
今日は急ぐ理由がない。
気になる場所があれば休憩し、景色のいい道を選んで走っても構わない。
山間部へ入る手前で、翔は道路脇に設けられた休憩所へ立ち寄った。
バイクを駐車場に停め、ヘルメットを脱ぐ。
「……ふう。いい天気だな」
少し高い位置にある休憩所からは、走ってきた道と、遠くの街並みが見渡せた。
翔は自動販売機で飲み物を買い、展望スペースへ向かった。
遠くに見える建物の集まりが、今朝出発してきたゲヘナの中心部だろうか。その先には、薄い霞に包まれた街並みが続いている。
反対側へ目を向けると、山々の間を縫うように一本の道路が伸びていた。
これから走る道だ。
「……いいな、こういうの」
翔は手すりに軽く寄り掛かり、しばらく景色を眺めていた。
元の世界では、自分専用のバイクを持ったことがなかった。免許を取ってから何度か大型バイクに乗る機会はあったものの、好きな時に好きなところへ走りに行ける生活は、ずっと憧れていたものだった。
今は、マスターから譲ってもらったバイクがある。
風紀委員会の整備班のおかげで、長距離の移動にも耐えられるようになった。先日購入した整備の本を読みながら、少しずつ自分でも手を入れられるところを増やしている。
そうして付き合っているうちに、この車体の重さや、エンジンの音にも随分と馴染んできた。
翔は飲み物を飲み終えると、駐車場へ戻った。
バイクの横に立ち、これから走る道を確認する。
ここから先は緩やかなカーブが増え、山の斜面に沿って道路が続いているらしい。
「……よし。もう少し走るか」
ヘルメットを被り、再びエンジンを掛ける。
休憩所を出ると、道路は少しずつ山の中へ入っていった。
木々の間を抜ける風は街中よりも涼しく、ヘルメットの中へ流れ込んでくる空気まで違って感じられた。
右へ左へと緩やかに曲がる道を、無理のない速度で走っていく。
カーブの先に見える山の稜線。木々の隙間から覗く青空。時折、道路の向こうに現れる小さな川。
どれも、ただ通り過ぎてしまうには惜しい景色だった。
翔は自然と口元を緩めた。
……やっぱり、バイクっていいな。
アクセルを開き、次のカーブへ向かう。
目的地の温泉は、もう少し先だった。
* * *
目的地へ到着したのは、昼前のことだった。
山間の小さな温泉地は、翔が想像していたよりも落ち着いた雰囲気だった。山の斜面に沿って古い旅館や土産物店が並び、道の脇には湯気の立ち上る小さな水路が流れている。少し先には、目的の温泉施設の看板も見えた。
翔は建物の脇にある駐車場へバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。
「……着いた!」
大きく息を吐き、周囲を見渡す。
山々に囲まれた温泉地には、街中とは違う静かな空気が流れていた。近くの川からは水の流れる音が聞こえ、どこからともなく、温泉特有の匂いが漂ってくる。
翔はグローブを外し、左肩を軽く動かしてみた。
長距離の走行だったが、痛みは出ていない。途中で休憩を取ったこともあり、身体の調子は良好だった。
……うん。このくらいなら大丈夫そうだな。
車体を一通り確認し、荷物を取り出す。
今回目当てにしていた温泉施設には、日帰りで利用できる貸切風呂がある。キヴォトスでは男性客向けの設備が充実している場所ばかりではないので、ここを選ぶ際にも、その点はきちんと確認しておいた。
もっとも、せっかく山奥まで来たのだから、入浴前に少しだけ温泉街を歩いてみるつもりだった。
翔は駐車場を出て、湯気の漂う通りへ向かった。
土産物店の軒先には地元の菓子や工芸品が並び、通りの奥には小さな橋が架かっている。橋の向こう側には遊歩道があり、山の景色を眺めながら散策できるらしい。
そんな案内板を眺めていた時だった。
「……おや?」
背後から、どこか聞き覚えのある声がした。
「こんなところで、珍しい顔に会うものだな」
翔は振り向いた。
そこに立っていたのは、白衣を羽織った小柄な少女だった。
その隣には、作業着姿の少女が、大きな鞄を片手に立っている。
「……カスミ? メグも?」
「はーっはっは! やはり君か! 久しぶりだな、翔くん!」
鬼怒川カスミが、楽しそうに笑った。
「おっ、翔だ! 久しぶり!」
隣の下倉メグも、嬉しそうに手を振っている。
翔は二人の顔を見比べ、思わず苦笑した。
「……まさか、こんなところで会うとはな」
以前HEATの訓練の際に一度出会って以来、二人と顔を合わせるのは久しぶりだった。
温泉開発部の部長と、その作業班長。
彼女たちがどれほど温泉に情熱を注いでいるかは、以前の出会いで十分に理解している。
そして、ゲヘナで暮らしている以上、温泉開発部が各地で起こす騒動についても、当然ながら耳に入っていた。
……いや、待てよ。
翔は改めて、二人が持っている荷物へ目を向けた。
カスミの手には、何やら書き込みの多い地図。メグの鞄からは、測定器らしきものが覗いている。
「……もしかして、お前らも温泉に入りに来たのか?」
「ふっふっふ。半分正解、といったところだな」
カスミは得意げに地図を広げた。
「我々は、この山に眠る新たな源泉を探しに来たのだよ!」
「……やっぱりか」
翔は思わず額に手を当てた。
その反応が面白かったのか、カスミは愉快そうに笑った。
「おいおい、何だねその顔は! 温泉地へ来たからには、さらなる温泉を求めるのは当然だろう?」
「いや、別に温泉を探すのはいいんだけどさ……」
翔は背後にある温泉施設へ目を向けた。
「一応聞くけど、あの施設を壊したりしないよな?」
「む? なぜ、あの立派な温泉を壊さねばならんのだ?」
カスミは不思議そうに首を傾げた。
「すでに良質な湯が湧き、客も楽しんでいる。実に結構なことではないか!」
「……ああ、そういう認識ならよかった」
「我々が求めているのは、その先に眠っている新たな源泉だ。あそこを破壊したところで、掘り当てられるわけでもあるまい」
カスミは地図の山側を指差した。
「この温泉地の周辺には、まだ誰も利用していない地熱の高い場所がいくつかあるらしい。今日は、その下見というわけだ」
「そうそう! まだ温泉になってないところを見てきたんだよ!」
メグが嬉しそうに続けた。
「さっきも山の方で測ってたんだけど、結構面白そうな場所があってさ!」
「へえ……。じゃあ、今日はまだ掘ってないのか?」
「うん! 今日は場所を探す日だからね!」
メグが頷くと、カスミも満足そうに笑った。
「無論、有望な場所が見つかれば、次は本格的な開発だ! まだ見ぬ温泉が、我々を待っているのだからな!」
相変わらずの勢いだった。
けれど、今日の二人はあくまで新しい源泉を探しに来ているらしい。翔の目当てである温泉施設には、特に何の問題もなさそうだった。
「……それなら、俺も安心して温泉に入れるな」
「む? そういえば、翔は何をしに来たのだ?」
「見てのとおり、温泉に入りに来たんだよ。今日は休みだから、バイクでツーリングがてらな」
「おお! バイクで来たのか!」
メグが目を輝かせた。
「いいねえ! 山道を走るの、楽しそう!」
「楽しかったぞ。途中の景色もよかったし、いい道だった」
「へえ~! 私たちも、今度バイクで来てみようかな!」
「……メグ」
カスミが隣から口を挟んだ。
「君が運転するとなると、目的地へ到着する前に山道が更地になりかねんぞ」
「えーっ、そんなことしないよ!」
メグは笑いながら答えた。
翔は二人のやり取りを聞き、思わず苦笑した。
「……まあ、普通に走る分には楽しい道だぞ」
カスミは満足そうに頷くと、改めて翔へ目を向けた。
「それで、君はこれから温泉へ?」
「ああ。そのつもり」
「それなら、ちょうどいい! 我々もそろそろ昼食にしようと思っていたところだ。せっかく再会したのだし、少し一緒にどうだね?」
翔は少し考え、温泉施設の看板へ目を向けた。
入浴の予約時間までは、まだ余裕がある。
「……そうだな。せっかくだし、昼飯くらい一緒に食うか」
「決まりだな!」
カスミは嬉しそうに笑い、メグも大きく頷いた。
「やった! じゃあ、あそこのお店に行こうよ! さっき見たら、結構美味しそうだったんだ!」
メグが指差したのは、通りの向こうにある小さな食事処だった。
翔は二人と並び、温泉街を歩き始めた。
……まさか、久しぶりのツーリング先で温泉開発部に会うとはな。
もっとも、今回は仕事でもなければ、彼女たちを追い掛けているわけでもない。
ただ、温泉を楽しみに来た者同士。
たまには、こういう再会も悪くないかもしれなかった。
* * *
三人が入った食事処は、温泉街の通りに面した、木造の小さな店だった。
店先には手書きの品書きが掛けられ、暖簾をくぐると、出汁の香りがふわりと漂ってきた。窓際の席からは、先ほど翔が歩いてきた小さな橋と、その向こうを流れる川が見える。
「おっ、空いてる! あそこの席にしようよ!」
メグが窓際を指差した。
三人は席に着き、それぞれ品書きを開いた。翔は山菜蕎麦に目を留めたが、メグは早くも大きな定食の写真を眺めている。
「うわっ、美味しそう! 私、これにしようかな!」
「……メグ。随分と量が多そうだが、大丈夫か?」
「大丈夫だよ! さっきまで結構歩いたし、お腹減っちゃった!」
「なら問題ないな。午後もまだ歩くことになるだろうし」
カスミは納得したように頷くと、温かい蕎麦を注文した。
翔も注文を済ませ、窓の外へ目を向ける。山の斜面に沿って建物が並び、ところどころから白い湯気が立ち上っていた。
「それにしても、いいところだな。もう少し賑やかな観光地かと思ってたけど」
「ふっふっふ。山間の温泉地には、こういう場所も多いのだよ。豊富な湯量だけではなく、周辺の環境も温泉の魅力の一つだからな」
カスミは得意げに答え、窓の外を指差した。
「見たまえ。あの山の斜面から、川沿いへ続く地形を。地上に見えているのは、地下にある大きな仕組みの、ほんの一部にすぎん!」
「……地下の仕組み?」
「そうとも! 温泉は、ただ地面を掘れば湧き出すものではない。地下水が熱を受け、岩盤の割れ目を通って地表へ上がってくる。その経路を探し当てるところから、我々の仕事は始まるのだ!」
カスミは鞄から地図を取り出そうとして、途中で手を止めた。
「……まあ、食事が来てからでは落ち着いて説明もできまい。続きは後ほどとしよう」
「へえ。何だ、ちゃんと考えてるんだな」
翔が素直に感心すると、カスミは不服そうに眉を上げた。
「おいおい。君は我々を何だと思っているのかね?」
「……思い立ったら、すぐ掘り始める連中?」
「はーっはっは! それは否定できんな!」
あっさり笑い飛ばされ、翔もつられて笑った。
「でも、カスミ部長はすごいんだよ!」
メグが嬉しそうに口を挟んだ。
「私、温泉がありそうな場所を見つけたら、すぐ掘りたくなっちゃうんだけどさ。部長は、どこから掘ればいいか、ちゃんと考えてくれるんだ!」
「ほう。今日は随分と持ち上げてくれるではないか、メグ」
「えっ? いつも思ってるよ?」
メグが不思議そうに答えると、カスミは少しだけ笑った。
「……そうか。ならば、今日も君が思い切り掘れる場所を見つけねばならんな」
「うん! 楽しみ!」
二人のやり取りを聞きながら、翔は改めてカスミへ目を向けた。
温泉のためなら周囲の迷惑も顧みない、厄介な問題児集団。それが、風紀委員会から聞かされている温泉開発部の姿だ。
実際、以前顔を合わせた時にも、二人の行動力には随分と驚かされた。
けれど、こうして話していると、彼女たちが温泉を探し当てることそのものを、心から楽しんでいるのが分かる。
特にメグは、新しい源泉を掘る話になると、先ほどからずっと嬉しそうだった。
「……そういえば、メグは温泉に入るのも好きなのか?」
「もちろん! 掘った後のお風呂は最高だよ!」
メグは即答した。
「ずっと作業してるとさ、身体も疲れるし、汗もかくでしょ? それで温泉が湧いたら、みんなで入るんだ! あれが気持ちいいんだよね!」
「へえ。自分たちで掘った温泉に入れるっていうのは、確かにいいな」
「でしょ! 翔も今度、一緒に掘ってみない?」
「いや、俺は遠慮しとくよ。温泉に入るだけで十分かな」
「えーっ、楽しいのに!」
メグは少し残念そうにしたが、すぐに笑顔へ戻った。
「まあ、いいや! 今日はゆっくりしていってね!」
「おう。そうさせてもらうよ」
そこで、注文していた料理が運ばれてきた。
湯気の立つ蕎麦と、大きな定食。それぞれの前に料理が並ぶと、メグはさっそく嬉しそうに箸を手に取った。
「いただきまーす!」
翔も手を合わせ、温かい蕎麦を一口すする。
出汁の香りが口いっぱいに広がり、山菜のほどよい苦味が、歩いてきた後の身体に心地よかった。
「……美味いな、これ」
「だろう? 地元の食材を楽しむのも、温泉巡りの醍醐味というものだ!」
カスミも満足そうに頷いた。
食事の間は、山道の景色や、途中で翔が立ち寄った休憩所の話になった。
メグは展望台から見える山並みに興味を示し、カスミは翔が選んだ道を聞いて、近くに別の温泉地があることも教えてくれた。
仕事の話になるかと思っていたが、気がつけば三人で、次に訪れてみたい温泉について話していた。
……温泉の話をしてる時は、本当に楽しそうなんだよな。
翔はそんな二人の姿を見ながら、温かい蕎麦をもう一口すすった。
* * *
食事を終えて店を出ると、カスミが川沿いの遊歩道を指差した。
「さて、我々はもう少し調査を続けるつもりなのだが……翔くん、君はどうする?」
「俺は、もう少ししたら温泉に入ろうと思ってる。予約までちょっと時間があるし、その辺を散歩してからかな」
「なら、途中まで一緒にどうだね? この先に、山を見渡せる場所があるのだよ」
「おっ、いいな。行ってみたい」
「決まりだな! メグ、出発するぞ!」
「はーい!」
三人は川沿いの遊歩道へ向かった。
道の片側には木製の柵が設けられ、その向こうを澄んだ川が流れている。反対側には緑の斜面が続き、木々の隙間から、時折白い岩肌が覗いていた。
少し歩くと、川沿いにある小さな展望スペースへ出た。
眼下には温泉街の建物が並び、その向こうには、翔が走ってきた山道が見えた。
「……おお。これはいい景色だな」
翔は手すりのそばへ歩み寄った。
遠くの稜線が幾重にも重なり、山の間を縫うように道路が伸びている。今朝はあの道を走ってきたのだと思うと、何となく不思議な気分になった。
「翔、あっちから来たの?」
メグが道路を指差した。
「ああ。途中で休憩しながらな。結構走りやすかったぞ」
「へえ~! 私もあそこから景色を見てみたいな!」
「帰りに寄ってみたらどうだ? 車でも行けるはずだし」
「いいね! カスミ部長、帰りに寄ろうよ!」
「ふむ……。今日の調査が予定どおり終われば、悪くないな」
カスミはそう答えながら、鞄から地図を取り出した。
「さて、せっかくここまで来たのだ。翔にも我々の調査成果を少し見せてやろう!」
「おっ。さっき言ってた源泉の話か?」
「そうとも!」
カスミは地図を広げ、いくつかの地点に書き込まれた数字を示した。
どうやら、午前中に測定した地表付近の温度らしい。川沿いや山の斜面に沿っていくつかの地点が記され、それぞれの温度が書き込まれている。
「ここが、現在の温泉施設だ。そして、こちらが我々の注目している斜面だな」
「……へえ。結構離れてるんだな」
「うむ。あちらの斜面には、周辺よりも地温が高い場所がいくつかある。地下に別の熱水の通り道がある可能性は十分だ」
翔は地図を覗き込み、少し考えた。
「じゃあ、そこを掘れば新しい温泉が出るかもしれないってことか?」
「可能性はある。だが、まだ確定ではないな」
カスミは楽しそうに笑い、測定結果へ指を滑らせた。
「だからこそ、調べる価値があるのだよ! 誰も知らない源泉を、自分たちの手で見つけ出す。その瞬間のために、我々は各地を巡っているのだからな!」
「……なるほどな」
翔は地図から顔を上げ、山の斜面へ目を向けた。
自分から見れば、ただ緑に覆われた普通の山だ。けれど、カスミたちにとっては、その地下にどんな温泉が眠っているかもしれない、期待に満ちた場所なのだろう。
「メグは、掘る場所が決まったらすぐにでも始めたいのか?」
「もちろん!」
メグは元気よく答えた。
「でも、まだどこを掘るか分かんないからね。今日はもう少し調べて、カスミ部長と相談するつもり!」
「へえ。じゃあ、まだしばらくは調査か」
「うん! 早く掘りたいけど、場所が違ったら温泉が出ないもんね!」
そう言って笑うメグの姿は、食事処で見せていたものと変わらず、実に楽しそうだった。
翔は小さく頷いた。
「……いいところが見つかるといいな」
その言葉に、メグはぱっと顔を明るくした。
「うん! 見つかったら、翔にも教えてあげるね!」
「おお。楽しみにしてるよ」
カスミも満足そうに頷いた。
「ふっふっふ。ならば、いつの日か我々が新たな温泉を完成させた暁には、ぜひ入りに来たまえ!」
「その時は、ちゃんと普通に入れる温泉にしてくれよ?」
「当然だ! 我々は、温泉を作るために掘っているのだからな!」
カスミは胸を張って答えた。
翔は苦笑したものの、それ以上は何も言わなかった。
今の彼女たちを見ていると、今回の温泉探しを楽しんでいることは十分に伝わってくる。
それに、せっかくの休日だ。
今日くらいは、余計な心配をせずに、二人の話を聞いていてもいいだろう。
やがて、翔は時計を確認した。
「……っと。そろそろ予約の時間だな」
「おお。そういえば、君は温泉に入りに来たのだったな!」
「ああ。今日はこっちが本命だからさ」
「ならば、我々も調査へ戻るとしよう。メグ、行くぞ!」
「はーい! 翔、また後でね!」
「おう。二人とも気をつけてな」
翔は二人に手を振り、来た道を戻り始めた。
振り返ると、カスミはすでに次の測定地点について説明し始めており、メグは嬉しそうに頷きながら、その隣を歩いている。
相変わらず、温泉のことになると元気な二人だった。
翔は小さく笑い、温泉施設へ向かった。
* * *
温泉施設の受付で手続きを済ませると、翔は案内された貸切風呂へ向かった。
木製の扉を開けると、目の前に石造りの露天風呂が広がっていた。
「……おお」
思わず声が漏れる。
浴槽の周囲には大小の岩が配置され、その向こうには、緑に覆われた山の斜面が続いている。高い位置にあるため、柵の向こうには遠くの稜線まで見渡すことができた。
そして何より、静かだった。
聞こえてくるのは、湯が浴槽へ注がれる音と、山の木々が風に揺れる音くらいだ。
翔は身体を洗い、湯の温度を確かめてから、ゆっくりと浴槽へ入った。
「……はぁーっ」
自然と、大きな息が漏れた。
肩まで浸かると、温かな湯が身体を包み込んだ。今朝からずっとバイクに乗っていたせいか、思っていた以上に身体が冷えていたらしい。
しばらくそのまま目を閉じ、湯の温かさを楽しむ。
……ああ。これは、来てよかったな。
目を開けると、湯気の向こうに山々が見えた。
吹き抜ける風が頬を撫で、火照り始めた身体に心地よい。
翔は浴槽の縁へ背中を預け、左肩へ目を向けた。
アビドスで負った怪我は、時間を掛けて少しずつ回復していた。以前ほど痛みを感じることもなくなり、今日も無事にバイクを走らせることができた。
それでも、傷がなかったことになるわけではない。
無理をすれば、また痛みが出ることもあるだろう。今日の温泉も、それだけで怪我が治ると思って来たわけではなかった。
ただ、こうして身体を休めていると、普段より少しだけ肩の力が抜ける気がした。
「……気持ちいいなあ」
誰もいない露天風呂で、翔は小さく呟いた。
思えば、キヴォトスに来てから、色々なことがあった。
最初は、知らない世界でどうやって暮らしていけばいいのかも分からなかった。
それが今では、こうして自分のバイクで遠出して、温泉でのんびり過ごしているのだから、不思議なものだ。
……いや、今は余計なことを考えるのはやめよう。
翔はもう一度、山の方へ目を向けた。
湯気の向こうに見える景色は、先ほどの展望台から眺めたものとも、バイクで走っている時に見たものとも違っていた。
同じ山でも、見る場所が変われば、随分と印象が変わるものだ。
そのことが何となく面白くて、翔は小さく笑った。
しばらくして、もう一度ゆっくりと湯へ浸かる。
今日は、温泉へ来てよかった。
また別の場所へ走りに行く時も、目的地の近くに温泉がないか調べてみよう。
そんなことを考えながら、翔は山の景色と、心地よい湯の温かさを存分に楽しんだ。
* * *
入浴を終えた翔は、休憩所の自動販売機で冷たい牛乳を買った。
窓際に置かれた椅子へ腰を下ろし、一口飲む。
「……うまっ」
思わず声が出た。
温泉上がりの身体に、冷たい牛乳が心地よかった。窓の外には、先ほどまで入っていた露天風呂とは少し違う角度から、山々の景色が広がっている。
翔はしばらく休憩所でのんびり過ごし、土産物の並んだ棚を眺め始めた。
すると、背後から聞き覚えのある声がした。
「おや、翔くん! もう入浴を終えたのかね?」
振り向くと、カスミとメグが施設の入口から歩いてきたところだった。
「おっ、二人とも。調査は終わったのか?」
「うむ! ひとまず、今日予定していた地点は調べ終えたところだ」
カスミは満足そうに頷いた。
「もっとも、まだ調べたい場所は残っているがな。続きは次の機会としよう」
「私、もうちょっと歩けるんだけどね!」
メグが元気よく言うと、カスミは小さく笑った。
「君が元気なのは知っているとも。だが、調査結果を整理する時間も必要だろう?」
「そっか! じゃあ、次は掘る場所も決められるかな!」
「ふっふっふ。そう簡単に決まるとは限らんが……期待しておきたまえ!」
翔は二人のやり取りを眺めながら、飲み終えた牛乳の瓶を返却口へ置いた。
「それで、二人もこれから温泉に入るのか?」
「もちろん! せっかくここまで来たんだからね!」
メグが嬉しそうに答えた。
「調査の後の温泉は最高なんだよ! 翔も気持ちよかったでしょ?」
「ああ。来てよかったよ。景色もすごく綺麗だったし」
「でしょ! 私たちも楽しみ!」
メグはそう言って、カスミの方へ顔を向けた。
「カスミ部長、早く入ろうよ!」
「おっと、待ちたまえ。まずは受付だ。私たちはまだ手続きすら済ませていないぞ」
「あっ、そうだった!」
メグが笑いながら受付の方へ向かう。
カスミはその後ろ姿を見送り、改めて翔へ目を向けた。
「さて、翔。君はもう帰るところかね?」
「ああ。もう少し休んだら、そろそろ出発しようと思ってる。帰りも結構距離があるからな」
「なるほど。では、ここでお別れか」
「そうなるな。今日はありがと。まさか、二人と会えるとは思ってなかったよ」
「ふっふっふ。こちらこそ、なかなか楽しかったぞ!」
カスミは笑い、手元の地図を軽く持ち上げた。
「それに、今日は君という新たな温泉愛好家にも、我々の活動を知ってもらえたわけだからな!」
「いや、俺は普通に温泉に入りに来ただけなんだけど……」
「それで十分ではないか! 温泉を楽しむ心こそ、何より大切なのだから!」
胸を張るカスミに、翔は思わず笑った。
「……そうだな。そこは同感だよ」
すると、受付を済ませたメグが戻ってきた。
「カスミ部長、準備できたよ! ……あれ、翔はもう帰るの?」
「ああ。そろそろな」
「そっかあ。じゃあ、またね!」
メグは元気よく手を振った。
「今度、新しい温泉が見つかったら、絶対入りに来てよ!」
「おう。楽しみにしてるよ」
翔が頷くと、カスミも満足そうに笑った。
「その時は、我々が最高の温泉を用意してみせよう!」
「……ああ。ただし、今度は風紀委員会に追い掛けられるようなことはするなよ?」
「はーっはっは! 何のことやら!」
「……おい」
翔が苦笑すると、メグは楽しそうに笑った。
「大丈夫、大丈夫! 温泉ができたら、ちゃんと教えるから!」
「……まあ、連絡は待ってるよ」
翔は二人へ手を振り、休憩所を後にした。
背後からは、温泉へ向かうメグの弾んだ声と、それに応えるカスミの笑い声が聞こえてきた。
……本当に、相変わらずだな。
そう思いながらも、翔の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
今日は、新しい源泉を探しに来ていただけの二人。
次に会う時には、またどこかで温泉を掘り当てているのかもしれない。
その時は、完成した温泉にも入ってみたいものだ。
* * *
温泉街の駐車場へ戻ると、翔は愛車のそばに立ち、しばらく山の景色を眺めていた。
空は少しずつ夕方の色へ変わり始めている。
帰りの道も、まだ明るいうちに走れそうだった。
「……さて。帰るか」
荷物を積み、車体の状態を確かめる。
ヘルメットを被る前に携帯端末を取り出し、マスターへ短いメッセージを送った。
『温泉を出た。これから帰るよ』
ほどなくして返信が届く。
『分かった。気をつけて帰ってこい』
翔は小さく笑い、端末をしまった。
グローブを装着し、エンジンを掛ける。
低く響くエンジン音が、静かな駐車場に広がった。
翔はゆっくりと車体を動かし、温泉街を後にする。
帰り道は、来る時と同じ山道を走ることにした。
ただし、景色は少し違って見える。
午後の日差しを受けた山々は、朝とは違う色に染まっていた。木々の影が長く伸び、道路の向こうには、柔らかな光に包まれた稜線が続いている。
翔は無理のない速度でカーブを抜け、山の斜面に沿って走っていった。
今日一日を振り返ると、思いがけない再会もあった。
カスミとメグ。
二人とも相変わらず温泉のことばかり考えていたが、その情熱は、話を聞いていると少し羨ましくなるほどだった。
自分にも、ああいうふうに夢中になれるものがある。
今こうして乗っている、このバイクだ。
知らない道を走り、初めて見る景色を楽しむ。目的地に着いたら、気になった場所へ立ち寄って、のんびり過ごす。
今日のような休日を、これからも時々作れたらいい。
翔はヘルメットの中で小さく笑った。
次は、どこへ行こうか。
海沿いの道もいいし、別の山道を走ってみるのも楽しそうだ。
せっかくなら、まだ行ったことのない温泉を目的地にするのも悪くない。
そんなことを考えながら、翔は緩やかなカーブを抜けた。
山の向こうには、夕日に照らされたゲヘナの街並みが、少しずつ近づいてきていた。
アクセルを穏やかに開く。
愛車のエンジンが心地よく応え、翔は夕暮れの道を走り続けた。
今日は、久しぶりにバイクを走らせ、温泉でゆっくり休み、思いがけず懐かしい顔にも会えた。
何か特別な事件が起こったわけでも、大きな出来事があったわけでもない。
それでも、翔にとっては、十分に満足できる一日だった。
そして、また時間ができたら、どこかへ走りに行こう。
そんな小さな楽しみを胸に、翔はゲヘナへの帰路についた。