夢魔観察計画   作:黑ヱ

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捕縛編
見つけてしまった男


 

 

 

 

 

 

 

大きな任務を終えた夜だった。

 

宿泊先のホテルへ戻る途中、スタンリー・スナイダーは大通りでなんとなく目についた一軒のBARへ足を向けた。

 

 

特別な理由はない。

 

 

任務から意識を切り替えるために、ただ酒が欲しかった。それだけの、ありふれた寄り道だった。

 

店内に一歩足を踏み入れると、薄暗い琥珀色の照明が、漂う紫煙を気だるげに照らしていた。

 

客足はまばらで、喧騒とは無縁の落ち着いたジャズバーだ。

 

ステージから流れるアップテンポなジャズが、静かな店内の空気を軽やかに揺らしていた。

 

 

スタンリーは、軍務で身体に染みついた習慣のまま、店の最奥にある席を選んだ。

 

壁を背にし、フロア全体と出入口を一度に視界へ収められる位置だった。

 

運ばれてきた琥珀色の液体を一口含む。

 

グラスを傾けながら、彼は何気なくステージの演奏者へと視線を向けた。

 

ほんの一瞬のことだった。

 

鍵盤の上で指を躍らせていた女が、ふっと顔を上げた。

 

気まぐれに客席へと向けられた、女の――瞳。

 

 

その視線が交わった刹那、スタンリーの呼吸が止まった。

 

心臓の奥が大きく跳ねる。

 

理屈を超えた衝撃が、全身の神経を一息に駆け抜けた。

 

脳を一瞬だけ乗っ取られたかのように、思考が途切れる。

 

 

 

暗闇。

 

口内に広がった、自分の血の味。

 

だが、それよりも不快だったのは――

 

身体が動かない。

 

胸だけが、浅く上下している。

 

何をされたのか分からない。

 

相手は武装していない。

 

薬物を投与された感覚もない。

 

それでも、気づけば地面に転がされていた。

 

理解できない。

 

理解できないまま、敗北した。

 

直後に聞こえた、小さな声。

 

視界の端で、女が眉を寄せた。

 

 

『……最悪』

 

 

そして――

 

今も、焼き付いて離れない。

 

あの夜、自分を見下ろしていた眼差しだけが――

 

 

 

 

(――違う)

 

 

 

 

次の瞬間、スタンリーは自らの動揺を切り捨てた。

 

小さく息を吐き、グラスを持ち直す。

ただの空似だ。似ているだけだ。

 

そう言い聞かせるように、酒をあおった。

 

だが、否定したはずなのに。

どうしても彼女から視線を外せなかった。

 

やがてアップテンポな曲が終わり、静かな店内にまばらな拍手が起こった。

 

演奏を終えた彼女は、柔らかく愛想のいい笑顔を浮かべ、客席へ礼をした。

その姿は、スタンリーの知る「あの夜のあれ」とは、あまりに違う。

人懐っこく、警戒心など欠片もないように見える。

少なくとも、この場にいる誰一人として彼女を脅威とは思わないだろう。

 

彼女はステージを降りると、カウンターに座る客たちの輪へ入っていった。親しげに言葉を交わし、無邪気に笑う。

すっかり気を許しているようにさえ見える。

 

あまりにも無害なその姿に、スタンリーは目を細めた。

 

それでも見ているうちに、記憶の中の「あれ」と重なる部分が、ひとつ、またひとつと増えていく。

 

歩く時の、独特な重心の置き方。

すっと伸びた姿勢。

言葉の合間にふっと首を傾ける、その角度。

グラスを指先で持つ時の、微かな癖。

 

頭ではまだ否定している。なのに、視線は離れなかった。

グラスの中で氷が傾き、カランと小さく音を立てた。

 

かき乱された記憶の底から、あの不可解な夜よりもさらに古い残像が滲み出してくる。

 

一年前の事件とは別の何かが、記憶の奥で引っ掛かる。

 

 

 

いつだったか―――

 

陽射しの差し込む教室。

 

窓際。

 

本を捲る指先。

 

誰かが顔を上げる気配。

 

 

 

それ以上を思い出す前に、スタンリーは意識的に思考を遮断した。

 

(――関係ない)

 

浮かびかけた記憶の断片を、頭の奥に乱暴に押し戻す。

今さら掘り返す必要も、意味もない。

 

一年前の件は終わってない。

 

ゼノが情報を欲しがっていた。

 

それ以上考える必要はない。

 

スタンリーはそう結論付け、壁に背を預けたまま、無機質にも見える目で、楽しそうに笑う彼女を見つめ続けた。

 

 

無意識にグラスの縁をなぞる指先だけが、かすかな熱を帯びていた。

 

 

喉を潤すために頼んだはずの酒の味は―――

 

 

 

 

もうまったく感じなかった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

カウンターでは、客の一人が彼女へと気さくに話しかけていた。

 

他愛のない雑談。

 

いくつかの笑い声。

 

その和やかな流れのまま、酔った客の手がカウンターに置かれていた彼女の私物へと伸びる。

 

何気なく手に取ったのは、使い込まれたライターと、古いシガレットケースだった。

 

シガレットケースを持ち上げた拍子に、その表面へ琥珀色の照明が滑る。

 

小さく刻まれていた文字が、光の中に浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――『 S.S 』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文字が目に飛び込んできた瞬間、世界からすべての音が消えた。

 

 

瞳の奥にある揺らぎ。

 

服越しにもわかる骨格。

 

低く通る声。

 

歩き方の重心。

 

指先の癖。

 

古い記憶の残像。

 

 

そして、その持ち物に刻まれたモノグラム。

 

点と点が、一本に繋がった。

 

 

(――彼女だ)

 

 

目の前で人懐っこく笑う、無害なピアニストの姿が消える。

 

代わりに浮かんだのは、一年前の夜だった。

 

 

暗闇の中。

 

理由も分からないまま身体の自由を奪われ、地面へ倒されたあの瞬間。

 

そして、自分を見下ろしていた女。

 

 

グラスを握る指に、無意識に力が入った。

 

節が白く浮き、氷が小さく鳴る。

視線は彼女へ固定されたまま。

周囲の客も、流れるジャズも、遠くへ退いていく。

 

耳に残るのは、自分の心音だけだった。

 

スタンリーは静かにグラスを置き、椅子から立ち上がった。

 

彼女へ近づくことも、声をかけることもない。

立ち上がると同時に、視線さえ切った。

 

本人だと分かった。

それなら、次にやることは決まっている。

 

これは仕事だ。

 

確保すべき対象を見つけたのなら、まず報告が先だ。

 

カウンターから上がる賑やかな騒めきを背中で聞きながら扉に手を掛ける。

 

 

「――……シェリーちゃん!」

 

「え~?いいんですかぁ!」

 

「やったぁ!」

 

大げさに弾む声に、笑い声がドッと重なった。

 

 

 

入口脇の灰皿へ、ふと視線が落ちた。

 

積み上がった吸い殻を一瞥する。

 

ほんの一瞬、目が細まった。

 

そのまま扉を押し開くと、夜の冷たい風が肌を撫でた。

 

 

 

 

胸ポケットから煙草を取り出して火をつけ、通りへ出て数歩進んだところで、彼はようやく足を止めた。

携帯端末を取り出し、専用の暗号回線を開く。

 

発信先は決まっている。

 

数回の機械的な呼び出し音の後、聞き慣れた声が返ってきた。

 

『……スタンか。こんな時間に何の用だ』

 

煙草の煙を夜の闇へと吐き出しながら、スタンリーは低く、短く告げた。

 

 

 

 

「見つけた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





pixivでも投稿してるんですけど、多分作品の雰囲気的にこちらの方が合ってるのかなと思ってて。
こちらにもお邪魔しました。

元々はライトな作品にしようと思っていたら、予想外に重たい作品になってしまい、どうしてこうなったんだろうねとちゃっぴーくんと話したところ、
作者が主人公に自己投影していたらもっとライトになったのでは…?って話になりました。

その通りでした…。主人公は完全に作者の被害者…。
ごめんね…そのまま強く生きて…。


下記おまけ





一瞬、重い沈黙が落ちる。


『……ほう。確証は』


「間違いない」


通話の向こうで、微かに空気が変わる。
スタンリーは返事を待たずに空を見上げた。


指の間で燃える煙草は吸った記憶もないまま、大半が燃え落ちていた。




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