『見つけた』
昨夜、専用の暗号回線越しに聞いた、幼馴染の短すぎる一言。その翌日、研究室では一度は閉じたはずの、一年前の事件に関する資料が再びデスクを占領していた。
彼の手元にあるのは、あの日――スタンリー・スナイダーが、深夜の裏路地で何者かに襲撃された事件の資料だ。
紙の束をめくる指先が止まる。最初に浮かんだのは、事件そのものではなかった。
あの奇妙な事件の後も、スタンは変わらなかった。
少なくとも、軍人としては。
任務成績にも、射撃にも、状況判断にも、目立った変化はない。
だが、あの事件に関してだけは――
例えば、あの夜の経緯。一度は整理したはずのことを、スタンは何度も僕と確かめ直した。
あるいは、事件現場の防犯カメラ映像。僕が解析を終えた後も、スタンは映像を何度も確認していた。
事件に関わる目撃証言にいたっては、一見すれば関係がないと切り捨ててもよさそうな、端切れのような証言まで拾っていた。
今になって思い出すのは、ある日のスタンの言葉だ。
「目は紫…いや、もう少し赤かったな。プラムに近い」
紫で済ませなかった。
わざわざ言い直していた。
当時もそのことが、引っかかってはいた。
しかし、昨夜。
『見つけた』
その一言を思い返しながら、僕はこれまでの仮説を組み直す。
(一年)
(未解決だから、それだけ?)
(……なるほど)
スタンが追っていたのは、事件だけではない。
あの夜の『彼女』そのものだったのだろう。
その日の夜、ゼノはスタンリーから共有されたBARのドアをくぐった。
薄暗い照明とアップテンポなジャズ。フロアの最奥、壁を背にして腰を下ろす。
視線は迷うことなくステージのピアノへと向けられた。
(想像より小柄だな)
(あれが、スタンの追っていた『彼女』か)
(……外見から分かることはないな)
演奏中の彼女に、目立った異常はない。
運ばれてきたグラスを傍らに置き、彼女の一挙一動を観察していく。
一曲が終わっても、拍手はしない。
その時だった。
次の曲へ移る前、彼女がふと客席へ視線を流す。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
その視線がゼノを掠めた。
(偶然か。それとも認識したか)
数曲続いたアップテンポのジャズが終わりを告げると、薄暗い店内は温かい拍手に包まれた。
「シェリー、今日も最高だったよ!」
「ありがとうございますぅ!嬉しい!!」
鍵盤から手を離した彼女――シェリーは、人懐っこい犬のように微笑み、常連客たちとの談笑の輪へ入っていく。
いつも通りの愛想の良い仮面。
演奏を終えた後の、この時間もいつも通り。
穏やかで、完璧にコントロールされた日常。
しかし、ここ数日。一つの引っかかりを感じていた。
(……今日もあの席か)
客たちと笑い合いながらも、視線だけが最奥の席を掠める。
そこに座るのは、特徴的な銀髪の男。
彼は、この店では少し浮いていた。
同じ時間帯にやってきては、同じ最奥の席に腰を下ろす。
(少し気になるが……)
飲み物には口を付ける。
だが、酔った様子はない。
誰かと親しく話す様子もない。
それなのに毎晩ここへ来る。
普通なら、こちらを探っていると考える。
だが、それにしては妙だった。
話しかけてこない。
尾行もしない。
他の客から情報を聞き出す様子もない。
何かを調べているようには見えるのに、それ以上の行動には出ない。
(……何?)
目が合うことはある。
かといって、敵意や嫌悪があるようにも見えなかった。
ただ、こちらを見ているだけ。
(…私に興味がある?)
それにしては好意らしい熱はない。
しかも見ているのは私だけじゃない。
他の客も見ている。
(観察癖のある人?)
(あるいは――)
(研究職?)
特に近づこうとはしない。
まだ店の外で待ち伏せされたこともない。
(……まあ、いい。少なくとも今すぐ接触してくる気はなさそう。)
現状は放置で問題なし。
ステラはそう結論付けると、人懐っこいシェリーの笑顔を崩さないまま、意識を常連客たちへ戻す。
それから、さらに数日が過ぎたが、あの男は変わらず最奥の席に現れた。
話しかけてくることも、店の外まで追ってくることもなかった。
私は――判断を変えなかった。
BARの裏口の重い鉄扉を閉めると、ギィと軋む音が夜の静寂に響いた。
「……ふぅ」
いつもの
今日もいつも通りの夜だった。愛想よく接客をして、ピアノを使った食事も済ませた。空腹で飢餓状態になる心配もない。
あとはこのまま、いつも通りの静かな帰路につくだけのはずだった。
「こんばんは、シェリー」
まるで店内で偶然会ったかのような、それでいてひどく平坦な声が降ってきた。
私はぴたりと足を止め、声のした方へと視線を向ける。
頼りないオレンジ色の街灯の下。
夜の闇に浮かび上がるような特徴的な銀髪。
壁に背を預けて立っていたのは――ここ数日、店で見かけていた、あの少し変わった客だった。
最奥の席から、たまにこちらを見ていた常連客。
注意は払っていた。
だが尾行も接触もない。
それに、見られていたのは私だけではなかった。
だから危険性は低いと、判断していた。
裏口で待っていたことに多少の警戒を抱く。
出待ちされた?何故?
私は即座に『シェリー』へと切り替える。
「あら、こんばんはぁ!こんな時間に珍しいですね!まだ帰ってなかったんですか?」
小首を傾げ、人懐っこい犬のように屈託のない微笑みを浮かべてみせる。
相変わらずその目に好意らしい熱は見えない。
「今日も盛況だったね。素晴らしい演奏だったよ、シェリー」
彼は物静かな微笑みを湛えたまま、まるで世間話でもするかのように語りかけてくる。
「ありがとうございます~!そう言っていただけるなんて、演奏した甲斐がありますねっ」
声を弾ませて、大げさに見えるようお辞儀をする。
どうにも彼の目的が見えない。
一体この男は何がしたいんだ?
「……いや、訂正しよう。演奏そのものは、あまり聞いていなくてね」
「ぇ……?」
「僕には、君が周囲から何かを得ているように見える」
ひどく平坦な声が、夜の路地裏に響く。
「ここ数日間、君をじっくりと観察させてもらったんだ。」
「興味深いことがいくつかあってね。君は毎晩、何曲も続けて演奏している。それなのに、疲労の兆候をほとんど見せない。それどころか回復しているようにさえ見える。」
「単なる体質で片付けるには、少々説明がつかなくてね。」
男は壁から背を離し、私の方へと歩みを進める。
その靴音が、異様に大きく響いて聞こえた。
「そして何より興味深いのは、君の演奏を聴いた客だ。偶然にしては面白いくらい、みんな満足そうな顔で帰っていく。気分が良くなっただけだと説明することもできる。だが、それだけでは説明しきれない違和感が残るんだ。」
「これだけ似た反応が繰り返されるのは、果たして本当に偶然だろうか?」
男は穏やかに微笑んでいる。
それは店で見せていた笑みと同じはずなのに、どこか違って見える。
「君が普通の人間と違うことは、もうほぼ確信しているんだ」
(この男は、一体何を…っ?)
「何故客は落ち着くのか。何故同じ演奏を境に、君は回復しているのか」
「ああ、そうだ。君の演奏を聴いた日は妙に寝つきがいい」
全てではない。
だが、この男は想像していたより遥かに深く踏み込んでいる。
(…どこまで…知られた?)
背筋を嫌な汗が伝った。
「一体何故なんだろうね?」
男はわずかに首を傾げた。
「君は…」
そして――
「何を得て」
「何を失い」
「何を代償に活動している?」
「……っ」
(……この男、最初から)
見ていたのか。
ずっと。
客としてではなく。
私を――
「シェリー」
男は笑みを湛えたまま、まるで親しい友人の名を呼ぶかのように、あまりにも滑らかにその唇を動かした。
「――いや」
「そう呼ぶのは正確じゃないな」
「ステラ」
「っ…!?」
(……なぜ、その名を―――っ!?)
あり得ない。
本名は秘匿している。戸籍も、経歴も、過去も。
今の私へ辿り着けないよう、完璧に偽装したはずだ。
それなのに。
限られた者しか知らない私の名を、目の前の男はあまりにも自然に口にした。
なぜ。
どこで。
どうやって。
頭の中で疑問だけが暴れ回る。
理解が追いつかない。
だが、一つだけわかった。
――この男は危険だ。
今すぐここから離れなければならない。
逃げなければならないのに。
混乱した思考の中で、すぐに行動へ移ることができなかった。
「安心したまえ。君の戸籍は実に見事だったよ。そこも興味深い」
相手はただの人間に見える。銃も、武器も構えていない。
男はただ、異様なほど落ち着き払ってそこに立っているだけだ。
なら能力を使って、自由を奪った隙に逃げ出すべきか。
(いや…この男は何故こんなにも無防備に見える…?)
「……ようやく、僕を警戒してくれたね」
僅かな間を見透かしたように、男は低く楽しげに笑う。
その一言に、心臓が嫌な音を立てる。
(最初から、私がここでどう動くかも、全部計算済みだった……!?)
能力を使うべきか、それとも走って逃げるべきか。その天秤が、ほんの一瞬だけ揺れた。――そして、その一瞬が致命的だった。
「残念だけど、ここまでだよ。ステラ。不確定要素はあらかじめ排除しておくべきだ」
私が次の一手を考えるよりも早く。
背後の闇が、人の形を取った。
背後を見る猶予すら無かった。
ただ、ゾワリと全身の毛が逆立つような感覚が走る。「背後に何かがいる」と理解した瞬間には、もう遅かった。
首元へとしなやかな腕が回される。反射的に身体を捻って逃れようとした瞬間、重心を崩され両足が地面から浮く。
闇から伸びてきた影は、一切声を上げなかった。呼吸音すら静かだ。
(しまっ――能力を、)
体勢を崩されながらも強引に背後を振り返ろうとした。能力を発動させるために。
だが、その動きすらも最初から想定されていたようだった。
視界が、唐突に黒く潰れる。
何が起きたのかを理解するより先に、硬質なフレームが測ったように目元へ収まる。
光が消える。完全な、暗闇。
(……ッ!? 能力の事が……知られている!?)
胸の奥がひやりとする。能力を封じるための対策。
そんな偶然あるはずがない。
私が"これ"を見せた相手なんて、ほとんどいないのに。
能力を理解して、封じに来ている―――!?
一体どこまで知られているんだ……っ!?
「っ、離して……!」
鋭く声を絞り出し、全力の抵抗を試みる。
肘打ちをするも腕を掴まれる。足を振り上げて抜け出そうとしたが、それすら許されない。体勢を崩されたままでは力が乗らず、まともに振りほどくこともできなかった。
振り払えない。肘も入らない。
重心を崩そうとしても、逆に拘束だけが強まる。
どれだけ力を込めても、背後の身体は微塵も揺らがなかった。
(ダメだ…この状態から、物理的に振り切るのは無理か…)
荒れ狂っていた思考が、ゆっくりと冷えていく。
(落ち着け。――少なくとも、今すぐ殺すつもりではなさそうだ)
これ以上、闇雲に抵抗して体力を削るのは非効率だ。
もし殺す事が目的なのであれば、銃弾の一発でも撃ち込めばいい。わざわざ話しかけなくていいし、ここまで入念に調べる必要はないだろう。だが、連中は撃たなかった。
調べていた。
観察していた。
そして今も、拘束するだけだ。
本名を知っていた。能力への対策もしていた。そして、殺さずに捕らえた。
それなら――
(現時点ではまだ、私を調べたいだけ…)
私は静かに身体の力を抜いた。
背後から伝わる体温だけが、静かにそこにあった。
拘束だけは、微塵も緩まなかった。
pixivに投稿しているものと内容は変わっておりませんが、こちらでは構成の見直しをして話を入れ替えたりしております。
もし、pixiv版をお読みになった方がいらっしゃいましたら、きっと違和感があるかもしれませんが、ご了承いただけると幸いです。
ハーメルンさんだとこう…すごく改行目立っちゃってましたね…
前話がとても見ずらくて申し訳…