It's A New Day
その日も、朝はやってきた。
地平線から太陽は顔を出し、眠りについていた街を静かに朝の光で包んでいく。人々は眠気に愚痴をこぼしながら、いつも通りやってきた今日という一日を始めようとしていた。
ピロピロピロピロ――ピッ。
少年が布団から手を伸ばし、スマホのアラームを消す。円香大吾。17歳。彼も、いつも通りの朝を迎えた一人だった。
「大ちゃーん!起きなさーい!」
母親の声が一階から聞こえてくる。
大吾は寝返りを打ちながら、ベッドから落ちるようにして身を起こした。重たい体を引きずるように、洗面台へと向かっていく。鏡に映るボサボサの髪を直しながら、大吾は大きくあくびをした。
身支度を済ませ、一階へ向かうと、テーブルにはトーストとコーヒーが用意されていた。
「ほら、さっさと食べちゃって」
むしゃむしゃとトーストを頬張りながらテレビに目を移すと、いつものモーニングショーが映っていた。画面には、水族館のアザラシの赤ちゃんが飼育員のお姉さんに抱えられながら気持ちよさそうに目を閉じている。
「寝るだけでちゃほやされるなんて、幸せ者だな」
内心思っていたことを、思わず口にする大吾。
母親の一穂は呆れた顔で、
「あんたも赤ちゃんの頃はあぁだったのよ」
と一喝する。何もそんなこと言わなくても、と言いたくなったところを、大吾はそれをコーヒーで流し込んだ。
「ごちそうさま」
大吾は皿とマグカップをシンクに置くと、さっさと家を後にした。
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
外は、雲一つない晴天だった。
夏の暑さがまだ影を残し、道を歩くだけで軽く汗ばんでくる。時折吹いてくる風が、やけに気持ちよかった。駅へと向かう前に、大吾は同級生の酒井健斗の家へ寄った。
「着いた」とラインを入れてから少しして、健斗が眠そうな目をしながら家を出てきた。彼の家が近いので、登校する時は一緒に行くことにしているのだ。
「おぁっす」
「あっす」
『おはようございます』とちゃんと言えばいいものの、面倒くさがって二人はよくわからない挨拶を交わした。
「なんか眠そうだな。またネトゲ?」
「いや最悪だったよ。あと一勝でランク上がれそうだったんだけどさ。チームの奴がフィードしやがって」
「お前さ、夏休み終わったんだからそろそろちゃんと寝ないと死ぬよ?」
「んー…まーなんとか、ね?」
他愛もない、内容の薄い会話を交わしながら、二人はいつもの電車へと乗り込んだ。吊革につかまりながら、大吾は窓の景色をぼーっと見つめた。健斗は、相変わらずスマホのゲームに夢中になっている。
「学校行く時ぐらい、ゲームやめろよな」
「しっ。今キャリーしてんだよ」
ぐい、とカーブを曲がり、東京湾が目の前に広がった。静かに波打つ水面が、朝日をぴかぴかと反射している。
大吾はこの景色が好きだった。いつも目にする光景だが、かすかに揺らぐ海を見ていると、どこか気持ちが落ち着く。規則正しく響く列車のレール音を耳にしながらぼーっとしていると、ふとクラスのあの子のことが頭に浮かぶ。胸の奥がくすぐったいような、苦しいような。心地いいもどかしさに、大吾は口元を少し緩めた。
「ちょっと、あれ見てよ」
自分のことかと思い、咄嗟に声のする方に振り向く。しかし、声の主は窓の外を指さしていた。その先に視線を移すと、静かに波打つ水面の中に、一か所だけぶくぶくと盛り上がってきている場所がある。まるで勢いの弱い噴水のように、海水を持ち上げているようだった。
「おい、健斗」
「あ?」
「おいってば」
「何だよ……ん?」
水面を押し上げるように、海の中から何かが浮き上がってくる。それは収まることなく、徐々に大きさを増していく。周りの乗客もこの事態に気付いたのか、窓に群がってスマホのカメラを向け始めた。
そして―――
「あ、頭?」
誰かの声が漏れる。トカゲのような白い目が、ぎょろぎょろと周りを見渡している。
肩、胸、胴体。
岩のような黒い皮膚に包まれた上半身が、水中から姿を現していく。静まり返る車内。目の前に広がる光景に、誰もが立ち尽くしていた。
そして獣は、そのワニのような口を大きく開くと、この世界での第一声を上げた。
―――全身の毛が、逆立った。遺伝子に組み込まれた生存本能が、けたたましい警音を鳴らす。
きゃああああああああああああああああああ
今までため込まれてきた恐怖が一気に破裂し、車内は一気にパニックになる。
「皆さん、落ち着いてください!次の駅まで1分で到着しますから、それまで…」
車掌のアナウンスには耳も貸さず、乗客はみなドアへと殺到していた。
手で無理矢理ドアをこじ開けようとする者もいる中、大吾はその中に混じった身動きが取れなくなった一人の老婆に気が付いた。
―――電車のブレーキが悲鳴を上げる。
駅のプラットフォームに着き、ドアが開くと同時に、群がっていた人ごみが一気に押し出される。その流れに押され、老婆は倒れこんでしまった。
「大丈夫ですか!?」
大吾は老婆の元へと駆け寄った。足首を抑えながら、うめき声をあげている。さっきの騒動で足首を痛めてしまったのだろうか。
「立てますか?」
大吾の問いに、頭を横に振る老婆。
「あたしゃいいから、早くにげなさい」
「そんなわけには…」
険しい顔をしながら、大吾は健斗の名を呼んだ。一瞬嫌な顔をした健斗だったが、「あーもう、仕方ねぇな」と言いたげに自分も老婆のもとに駆け寄ると、膝に手を回した。大吾は軽くに頷くと、両脇に手を回し、「せーの」と掛け声を上げた。
二人は何とか老婆を電車から担ぎ出し、プラットフォームの上へとゆっくりと下ろした。その様子を見かね、駅員の一人が寄ってきた。
「君たち、ここは任せて早く逃げなさい」
「あの、あれって本当に怪獣ですか」
大吾の質問に、駅員は答える余裕はなかった。
「今はそれどころじゃない。この人は私に任せて、とにかく地下に―――――」
その刹那。
腹に響くような、鈍い爆音が駅員の言葉を遮った。海の方向から、黒煙が空高く昇っていくのが見える。再び響く、あのけたたましい咆哮。
日常が、壊れていく様子を、大吾はただホームの上から目に焼き付けていた。