0時0分0秒 作:おじさん。
渋谷の居酒屋は、金曜日の夜らしい騒がしさに包まれていた。
オーストラリアから来た六人の学生は、掘りごたつの席に押し込まれるように座り、ビールと焼き鳥を囲んでいた。
男三人、女三人。
その中で、マークだけは日本旅行に最後まで乗り気ではなかった。
「俺、日本人ってあんまり好きじゃないんだよな」
何度目かの話だった。
「またそれ?」
向かいに座るエミリーが笑った。
「だって捕鯨するじゃん」
「日本人全員が?」
「まあ……そういう文化なんだろ」
「じゃあオーストラリア人全員がカンガルーを食べると思われてもいいの?」
「それは違うだろ」
「どう違うのよ」
笑い声が起きた。
マークも笑った。
政治的な話というより、旅行中によくある軽口だった。
そのとき、店員の女性が六人の横を通った。
白いシャツ。
黒いスカート。
右手には空になった皿が何枚か載った盆。
彼女がちょうど六人のテーブルを通り過ぎた瞬間だった。
時計が、0時を示した。
音がしたわけではない。
光ったわけでもない。
何かが爆発したわけでもない。
ただ、女性の服だけが、そのまま前へ進んだ。
身体が消えたことを理解するより先に、白いシャツが一瞬だけ空中に浮いた。
まるで、そこに人間がまだいるかのように。
慣性に引っ張られるように、ほんの少しだけ前へ進み――
ふわり、と床に落ちた。
盆が床にぶつかった。
ガシャン。
焼き鳥の皿が割れた。
店の中から、音が消えた。
六人は誰も動かなかった。
目の前に、服だけがある。
「……What?」
ジェームズが言った。
誰も答えない。
床には白いシャツと黒いスカートが落ちている。
その中には何もない。
数秒前まで、そこに人間がいた。
その事実だけが、全員の頭に残っていた。
「どこ……?」
エミリーが立ち上がった。
椅子が後ろに倒れた。
その音をきっかけに、店内のあちこちから声が上がった。
「え?」
「何?」
「店員さん?」
「どこ行ったの?」
厨房から誰かが走ってくる。
その人間も、途中で消えた。
白いエプロンだけが床に落ちた。
一拍遅れて、悲鳴が起こった。
今度は一人ではなかった。
何人もの人間が同時に叫び始めた。
テーブルが倒れる。
椅子がぶつかる。
誰かが出口へ走る。
誰かがスマートフォンを取り出す。
誰かが泣きながら日本語で何かを叫んでいる。
その中に、外国人らしい店員が二人いた。
彼らは消えていなかった。
しかし、何をすればいいのか分からないらしく、互いの顔を見ていた。
「外へ!」
誰かが英語で叫んだ。
六人は反射的に立ち上がった。
階段を駆け下りる。
後ろから人が押し寄せてくる。
店の外へ出た。
渋谷の夜が、目の前に広がった。
最初の数秒、主人公のダニエルには、何も変わっていないように見えた。
巨大な交差点。
看板。
信号。
タクシー。
コンビニ。
ビルの照明。
いつもの渋谷。
ただ、騒音の中に妙なものが混じっていた。
悲鳴。
クラクション。
怒鳴り声。
そして、遠くから聞こえてくる衝突音。
次の瞬間、交差点の向こうで車が突っ込んだ。
鈍い音。
金属が潰れる。
煙が上がる。
さらに後ろから来た車が止まれず、その車に衝突した。
クラクションが鳴り続ける。
しかし、誰も運転席から出てこない。
「事故……?」
サラが呟いた。
ダニエルは交差点を見た。
おかしい。
事故だけではない。
道路を走っている車のいくつかが、突然おかしな動きをしている。
蛇行する車。
止まらない車。
中央分離帯に乗り上げる車。
そして、運転席に――
誰もいない。
「待って」
ダニエルが言った。
「何?」
「車じゃない」
彼は周囲を見た。
コンビニ。
店員がいない。
タクシー。
運転手がいない。
交差点。
警察官がいない。
さっきまで大量にいたはずの人間が、街から抜け落ちている。
そのときだった。
マークがスマートフォンから顔を上げた。
さっきまで日本を馬鹿にしていた男の顔から、血の気が引いていた。
「……日本人がいない」
誰も答えなかった。
マークはもう一度言った。
「日本人が……いない」
ダニエルは周囲を見回した。
確かにそうだった。
外国人はいる。
自分たちもいる。
外国人観光客もいる。
外国人の店員もいる。
なのに、日本人だけがいない。
「そんな……」
エミリーが口元を押さえた。
遠くでまた車が衝突した。
その向こうで、何かが爆発した。
黒い煙が夜空へ上がっていく。
サイレンが聞こえた。
しかし、そのサイレンは近づいてこなかった。
どこかで鳴り続けているだけだった。
ダニエルはスマートフォンを取り出した。
ニュースアプリを開く。
まだ何も出ていない。
SNSを開く。
一つ目の投稿。
英語だった。
**「東京で人が消えた」**
二つ目。
**「何が起きている?」**
三つ目。
動画だった。
空港の監視カメラ。
日本人らしい男性が歩いている。
時計表示が、0:00:00になる。
次の瞬間。
床に服だけが落ちる。
ダニエルは息を止めた。
別の動画。
シンガポール。
別の動画。
シドニー。
そして――
ロサンゼルス。
「……日本だけじゃない」
誰かが言った。
ダニエルは画面をスクロールした。
世界中から同じ映像が上がっている。
日本人だけが。
同じ時刻に。
消えている。
その瞬間、渋谷のどこかでガラスが割れた。
続いて、また悲鳴が聞こえた。
六人は誰も動かなかった。
午前0時17分。
まだ誰も、この夜が終わると思っていなかった。