「あぁ、若様のおっきぃ……」
熱っぽい吐息が耳元に触れて、意識がゆっくりと浮上する。視線を上げると、細い銀縁の眼鏡越しに潤んだ瞳と目が合った。
「玲子か……おはよう」
濡れたシーツの感触が、昨夜の記憶を静かに引き戻す。
この女を抱き潰し、性の悦びを教え込んだのは、確かに俺だ。
玲子は二十五歳の美女。
天御門家のメイドであり、実務を取り仕切る側近の一人でもある。
普段の凛とした姿しか知らない者が見れば、今の彼女を同一人物だとはまず思わないだろう。
長い黒髪は乱れ、いつもの黒スーツも身につけていない。生まれたままの姿で、俺に身を預けている。
「……若様、起きてしまわれたのですか」
わずかに身体を動かしただけで、彼女は名残惜しそうに声を漏らした。だが彼女の細い指は俺の股間から離れない。
「そろそろ起きようと思ってね。昨日、九時には新宿へ着くようにって何度も言われたから」
「それは申し上げましたけれど……もう少しだけでしたら、大丈夫です」
そう言いながら、離れるどころか俺の腕へさらに身体を寄せてくる。
普段なら、予定を五分ずらしただけでも小言を言ってくる女だ。
「自分で決めた予定を自分で破るんだ。珍しいね」
「今は勤務時間ではありませんので、多少は大目に見てください」
「その言い分、昼間の君にも聞かせてみたいな」
「絶対におやめください」
真っ赤にした顔を、俺の胸にこすりつけながらお願いしてくる。
仕事中は冷静で、愛想も薄い。俺が間違っていると思えば、使用人の立場でも普通に反対してくる。キッと鋭い目つきで睨む姿は堅物な女教師のよう。
それが今では従順な猫のように甘えてくる。
「若様に求めていただけるだけで、わたくしは十分ですから」
「機嫌を取るために言ってるなら、そういうのはいらないよ」
俺がそう返すと、彼女は少し黙ったあと、枕へ頬を沈めた。
「……若様に触れていただくのが好きです。二人きりになると、もっと近くにいてほしくなりますし、普段の自分が馬鹿みたいに思えるくらい、何も考えられなくなってしまいます」
「ずいぶん素直になったね……夫がいる身だというのに」
「若様がそうさせたのでしょう。もうイかせないで、許してって懇願してるのに、あんなに激しく……私、このひと晩で絶対に孕まされちゃいましたよ?」
恨めしそうに睨んでくるが、離れる気はないらしい。
「殿方に抱かれるのがこんなに幸せなことなんて知らなかったです。女として欲しいものを一番くださるのも、こんなふうに甘えたくなるのも若様だけ。ですから今くらいは、他のことを思い出させないでください」
「分かったよ。ただ、あと五分って言ったのは君だからね。遅れたら俺のせいにはしないでよ」
「……はい」
返事のわりに、腕へ回された手はなかなか離れなかった。
結局五分では済まず、しっかり時間をかけて可愛がった後。涙と涎と汗まみれになった彼女は、どうにかベッドから抜け出した。
眼鏡をかけ、長い髪をまとめ、服を整える。
それだけで先ほどまでの甘えた雰囲気が消える。
「本日は新宿の
「切り替え早いね。さっきまで離してくれなかったのに」
「何のことでしょうか。それより若様も早くお支度ください」
本当に都合がいい。
俺が笑いながらシャツへ袖を通すと、彼女は眼鏡越しにこちらを見た。
「それにしても、若様が今日から新人探索者というのは何度聞いても違和感がありますね」
「僕は《解析》しかできないからね。少なくとも、世間ではそういうことになっているから」
彼女は何も言わなかった。
ただ、その視線だけが少し呆れていた。
◆
東京都新宿区。
高層ビルが並ぶ街の地下には、地上の構造とはまるでつながっていない巨大な異空間が広がっている。
新宿ダンジョン。
世界各地にこうしたダンジョンが現れてから、すでにかなりの年月が経った。内部には地上では見られない植物や鉱石、そして人間を襲うモンスターが存在する。
危険な場所である一方、そこでしか手に入らない資源も多い。
だから現在の日本では、資格を取得してダンジョンへ潜り、モンスターを討伐したり資源を持ち帰ったりする《探索者》も、一つの職業として定着していた。
そして俺、天御門 皇牙も今日からその一人になる。
「天御門 皇牙さん、十八歳。こちらが探索者証になります。紛失した場合は再発行までダンジョンへ入れませんので、お気をつけください」
「ありがとうございます。初日から失くしたら、さすがに恥ずかしいですからね」
新宿迷宮管理局の受付でカードを受け取ると、女性職員が少し笑った。
表面には俺の顔写真と名前、その下に固有能力が表示されている。
《解析》。
それが世間に知られている俺の能力だ。
「能力情報も第五等級《解析》で登録されています。探索中に未知のモンスターや素材を発見した場合には役立つ能力ですが、直接戦闘には向いていません。できるだけ戦闘系の能力者と組んで行動してください」
「分かりました。僕も自分からモンスターと殴り合うつもりはありませんので、無理はしないようにします」
柔らかく答えると、職員は安心したように頷いた。
俺たち能力者が使う固有能力は、ダンジョンと密接な関係がある。
ダンジョンやモンスターにも存在する未知のエネルギー《虚素》に適応した一部の人間だけが、固有能力に覚醒するからだ。
そして能力は原則、一人につき一つ。
俺の場合、それが物や能力を詳しく調べられる《解析》だと思われている。
「天御門って、あの天御門家だよな?」
「跡取りなのに《解析》なんだ。もっと戦闘向きの能力だと思ってた」
「まあ、名家だろうが屑能力者じゃ誰もチーム組みたがらないだろ。ダンジョン行かずに事務でもやってりゃいいんじゃないか?」
待合スペースからそんな声が聞こえてきた。
天御門家は、ダンジョンの存在が明らかになる前から能力者を輩出してきた家系だ。陰陽師や預言者、サイコキネシスなどの異能者として有名になったこともある。嘘か真か分からないが、天皇を裏で警護していた時代もあったらしい。
俺がその家の跡取りだということも、こういう場所ではそれなりに知られている。
だからこそ、《解析》しか持たない俺を物足りなく感じる人間もいる。
(ちゃんとそう見えてるなら問題ないな)
昔からそうなるように振る舞ってきたのだから、今さら腹を立てる理由もない。
探索者証をしまおうとしたところで、急にロビーが騒がしくなった。
「お、おい。あれ……」
「マジかよ」
何人もの探索者が入口の方を見ている。
俺も何事かと視線を向けた。
自動扉の向こうから、一人の少女が入ってくる。
腰まで届く艶やかな黒髪を揺らし、白を基調とした探索服には和装を思わせる意匠が施されている。整った顔立ちと凛と伸びた背筋も相まって、武骨な装備の探索者たちが行き交うロビーではひどく目立っていた。
大和撫子という言葉を、そのまま形にしたような絶世の美少女だ。
「あれって西園寺家のお嬢様じゃないか!?」
「西園寺詩乃だろ? わずか十八歳でDランク探索者まで上り詰めたっていう」
「しかも能力も超レアな第二等級なんだろ? いいなぁ。同じ探索チームなんて贅沢は言わないから、せめて友達になってみてぇ」
「お前じゃ話しかけた瞬間に終わるだろ」
「夢くらい見させろよ!」
好き勝手に騒いでいた男たちへ、少女が静かに視線を向ける。
紫がかった黒い瞳に冷たく見据えられた途端、さっきまでの騒ぎが嘘のように止まった。
「…………」
誰も話しかけない。
なるほど。
相変わらず、知らない人間には容赦がない。
そんな彼女がロビーを見渡し、俺を見つけた。
途端に表情が変わる。
「皇牙様!」
「あぁ、詩乃か」
「……え?」
近くにいた男が間の抜けた声を漏らした。
詩乃は周囲の反応など気にも留めず、長い黒髪を揺らしながらまっすぐこちらへやってくる。
「お待ちしておりました。もう少しかかるかと思っていましたけれど、ずいぶん早く終わったのですね」
「詩乃の方こそ早かったんじゃない?」
「当然ですわ。大切な日ですもの」
先ほど男たちへ向けていた冷たい表情はどこへ消えたのか。
詩乃は見るからに幸せそうに微笑んでいる。
「あ、あの……西園寺さんと天御門って、知り合いなのか?」
「知り合いどころではありませんわ」
詩乃が胸元へ手を添え、何でもないことのように答える。
「婚約者であるわたくしが、皇牙様のお迎えに上がったのです」
「「「婚約者ぁ!?」」」
ロビー中に、驚愕の声が響き渡った。