「白馬の王子様……?」
自分の口から零れた言葉に、依織自身が一番驚いたようだった。
赤紫色の大きな瞳を何度か瞬かせながら、すぐ目の前にある俺の顔をじっと見つめている。
さっきまで浮かんでいた好戦的な笑みは完全に消えており、銀白色の髪の隙間から覗く顔には、状況についていけていない戸惑いだけが残っていた。
「……えっと」
依織は俺の顔を見たまま一度言葉を止め、それからようやく自分の身体へ視線を落とした。
俺の腕が肩へ回り、倒れないよう支えている。
「どうして私は皇牙さんに抱かれて……というか、この状況は……」
そこで依織の目が周囲へ向いた。
中央を大きく削り取られた金属棚。拳ほどの穴が空いた壁。脚の一部を失って横倒しになった実験台。床には破壊された研究器具や金属片が散乱している。
依織の表情が変わった。
「って、そうだ! もう一人の私が出たんですよね!?」
「うん」
「何かしませんでしたか!? 誰か傷つけたり……!」
自分の身体より先に周囲の被害を気にするあたりは、さっきまでの依織とはずいぶん違う。
「俺を殺そうとはしてたよ」
「えっ……」
依織の顔から一気に血の気が引いた。
「ご、ごめんなさい! あの子、戦うことになると本当に止まらなくて……皇牙さん、怪我は!?」
「してないよ。それに本気で遊べて楽しかったし」
「……楽しかった?」
「うん。
「皇牙様」
少し離れた場所から、詩乃の呆れた声が飛んでくる。
「殺されかけた直後に、その感想が出てくるのはいかがなものかと思いますわ」
「でも、面白かっただろ?」
「わたくしへ同意を求めないでくださいませ」
依織はまだ混乱した様子で俺と詩乃を見比べていたが、そこで改めて自分が俺に支えられたままだと気づいたらしい。
「あ、あの……もう大丈夫です。自分で立てますから」
離れようと足へ力を入れた瞬間、膝が崩れる。
「わっ……!」
その身体を抱き留める。
使い切る寸前まで【
「ほら、まだ無理だって」
「す、すみません……」
さっきまで殺し合っていた人格と同じ身体とは思えないほど大人しくなり、依織は俺の胸元へ収まったまま小さくなっていた。
やがて、破壊された研究施設へ視線を巡らせると、悲しげに眉を下げる。
「……どうやら、実験は失敗だったみたいですね」
「実験?」
「この施設で行われていた、私の固有能力をコントロールするための実験です」
依織は視線を落とした。
「研究員の人たちは、あの子は私じゃないって言っていました。能力の発現によって生まれた異常で、このまま放っておけば本来の私にも悪影響が出るから、治療して消さなければいけないって……」
「……?? なぜだ? 消す必要なんてないだろ」
「え……?」
おそらく依織は、自分の能力を怖がっているのだろう。
能力も、そこから生まれた人格も、人を傷つけてしまうから。
「でも、どっちも依織だよ」
「……え?」
「さっき【解析】したから分かる。外から別の何かが入り込んだわけでも、能力が勝手に人格を作り出したわけでもない。性格や考え方はかなり違うけど、二人とも久我依織だ」
俺には、研究員たちがなぜわざわざ片方だけを異常扱いしていたのか、そのことの方が不思議だった。
「片方だけ消したら、もう依織じゃなくなるんじゃない?」
依織はすぐには答えなかった。
やがて、俺を見上げる。
「……怖く、ありませんか?」
「それも向こうの依織に聞かれた」
「なんて答えたんですか?」
「嫌いじゃないって。能力の使い方を少し教えただけで、すぐ自分で応用し始めたし、一緒に戦ったら楽しそうだった」
「……じゃあ、私は?」
ほとんど聞こえないくらいの声だった。
「今の依織も好きだよ。話しやすいし」
「皇牙様」
間髪入れず、詩乃に名前を呼ばれた。
「女性へその『好き』を無警戒にばら撒くのは、おやめになった方がよろしいかと」
「でも嫌いじゃないし」
「そういう問題ではございません」
依織は俯いてしまったが、俺の服を掴んでいる指だけは離れなかった。
ひとまず、もう一人の自分については後で二人で話せばいい。
「それで、依織はここで具体的に何をされてたの?」
「……訓練、です。能力を制御できるようにするための」
話を聞いていく。
黒球を何個まで維持できるか。どこまで巨大化できるか。大量の虚素を与えられた状態で何秒使えるか。外部刺激で人格を切り替え、もう一人の依織が出た時に命令へどの程度従うか。
モンスターや金属、迷宮由来の素材を【暴食無月】へ呑み込ませる実験も繰り返していたという。
なんだかひたすら出力を上げる、エンジンの負荷耐久実験みたいだな。
――なるほど。
裏人格の依織がやたら高威力な戦闘スタイルだったのも、この実験が原因か。
「っていうかこれ、治療で能力を消すのが目的じゃなくないか?」
「……え?」
俺は床に転がっていた端末を拾った。
研究員が死んだせいか、内部のデータには厳重なロックがかかっている。だが、情報として残っているなら俺には関係ない。
【解析】で読み取り、破損した断片を【保存】。別の端末や研究装置に残る記録と照合しながら、欠けた部分を組み直していく。
表示されたのは【暴食無月】の最大出力、継続時間、外部虚素供給時の変化、対象ごとの分解効率、高濃度虚素生命体への侵蝕率。
「……確かに、患者を治療するための記録には見えませんわね」
「むしろ、能力をもっと使わせるための実験に見えるね」
詩乃が俺の隣から画面を覗き込んだ。
さらに奥へ進むと、同じタイトルの情報が何度も現れた。
【対旧管理者への効果試験】
『……その情報を、もう一度見せろ』
頭の中でアスモダイが口を挟んだ。
情報を共有すると、短い沈黙があった。
『我だ。その研究で標的にされている旧管理者とは、我のことだ』
「なるほど」
「……何が分かったんですか?」
依織が不安そうに尋ねる。
【暴食無月】は何も食べられなければ、莫大な虚素を消費して数秒で消える。しかし対象を呑み込めば、分解して得た虚素を自らの維持へ回せる。
ならば、アスモダイほど大量の虚素を持つ相手ならどうなるか。
一度食らいつけば、食べたアスモダイ自身を燃料にして、さらに食い続けられる。
「やはり、依織を治すための研究じゃない」
俺は端末へ並ぶ記録を見ながら告げた。
「アスモダイ――ダンジョンの悪魔を殺すための兵器研究だ」
「……私が……悪魔を殺すための兵器?」
「たぶん、この施設が新宿ダンジョンの中にあるのもそのためだよ。標的の近くに、兵器を置いておきたかったんだ」
依織が言葉を失う。
『我を殺すために、人間一匹をここまで作り変えたというのか……!』
アスモダイは怒っていたが、俺には別の疑問があった。
なぜ人間が、アスモダイの性質をここまで正確に知っている?
誰がこの研究を命じたのか。どこから技術を持ってきたのか。
俺は研究データだけでなく、施設そのものへ【解析】を広げた。
人格交代を誘発する制御機構。高濃度の虚素を安定供給する装置。そのさらに奥に、機械部品とは明らかに異なる複雑な術式が組み込まれている。
『待て』
突然、アスモダイが言った。
いつもの尊大な声音ではなかった。
『その術式を見せろ』
「これ?」
解析した内部構造を、そのまま意識の中で共有する。
アスモダイが黙った。
「何か知ってるのか?」
返事はない。
人間の技術をあれほど見下していたアスモダイが、珍しく言葉を失っている。
やがて、低い声が漏れた。
『やってくれたな、あのクソ天使どもめ……!』