『やってくれたな、あのクソ天使どもめ……!』
「……天使が、この研究に関わってるのか?」
俺が聞き返すと、頭の中からアスモダイの低い声が返ってきた。
『間違いない。その術式は奴らのものだ。我が見誤るはずがない』
「天使……?」
依織が不安そうに俺を見上げた。
銀白色の髪にはまだ乾ききっていない血が残っている。赤紫色の瞳には困惑しかなく、研究員たちからそんな話を聞かされていなかったことは明らかだった。
「神様に仕えているっていう、あの天使ですか?」
「人間がそう呼んでる存在ではあるみたいだよ」
俺は依織にも分かるよう、必要なところだけ説明する。
「昔、アスモダイたちと争った連中がいてね。勝った側が今では天使と呼ばれて、負けたアスモダイたちは悪魔と呼ばれてる」
『その言い方では我らがただの敗残兵ではないか!』
「実際、お前の話しか聞いてないからね。どっちが正しかったかは、俺の中ではまだ保留」
『貴様……!』
アスモダイが怒っているが、片方だけの話を信じるほど軽率じゃない。
依織の表情が曇る。
「じゃあ……その天使さん?が私を人間兵器にしようとしたってことですか?」
「断定はできないけれど、依織を使ってアスモダイを殺そうとしたのは確かだろうね」
ただし色々断定するには、天使についての情報が足りなすぎる。
詩乃が少し考えたあと、静かに尋ねた。
「でしたら、管理局へ報告いたしますか?」
「それもまだやめておこう」
「なぜですの?」
「今は誰が味方か分からない。俺たちが天使やこの研究施設の存在を知ったと敵に知られれば、こちらへ危険が及ぶかもしれない」
詩乃はすぐに納得したようだった。
首元の黒いチョーカーへ指を添えながら、俺を見つめる。
「皇牙様が慎重なのは少々意外ですわ」
「俺を何だと思ってるの?」
「秘密を守るか確認するために、幼馴染の首を締める方ですわ」
「まだ覚えてたんだ」
「忘れられる出来事ではございません」
そう言いながら、チョーカーへ触れる指はどこか大切そうだった。
「……?」
「ううん、依織は気にしないで」
そこを説明すると話が長くなりそうなので、黙っておいた。
◇
皇牙たちが新宿ダンジョンの研究施設を調査している頃。
地上では、すでに異変の兆候を捉えていた。
新宿迷宮管理局、支局長室。
広い室内には、普通の役人の執務室とは思えない品々が並んでいた。
壁には歴代総理大臣や東京都知事から贈られた感謝状。新宿ダンジョンで過去に発生した大規模災害を収束させた功績を称える表彰状。海外の要人と握手する写真まで額装されている。
大型のショーケースには、ダンジョン産の希少鉱石や未知の結晶、古代文字らしきものが刻まれた金属板。反対側の壁には、著名な画家が描いた数千万円はくだらない名画まで飾られていた。
この部屋だけを見れば、ここを使っている人物が長年にわたって日本のダンジョン行政へ貢献してきたことは疑いようがない。
だが、その部屋の主は重厚な椅子には座っていなかった。
「……っっ!」
床に正座している。
五十代ほどの男だった。
二メートル近い巨体。探索者と並んでも見劣りしないほど鍛え抜かれた肉体だが、今は何も纏っておらず、両腕を後ろ手に縛られ、目元には黒い布まで巻かれている。
新宿迷宮管理局支局長。
普段なら数百人の職員を指揮する男が、今は顔面を青くし、その筋肉質な身体を小刻みに震わせていた。
パァン!
乾いた音が部屋へ響く。
「ひぃっ……!」
支局長の巨体がびくんと跳ねた。後ろ手に縛られた両腕が無意味に動き、太い首筋から大量の汗が流れ落ちる。
「て、天使様……も、申し訳ございません……!」
豪華な執務机の上には、小さな少女が腰掛けていた。
腰まで伸びた金髪。透き通るような青い瞳。
白い肌と整った顔立ちは日本人というより東欧系に近く、愛らしい外見だけを見れば、誰もが天使のような少女だと表現するだろう。
実際、彼女は天使だった。
少女は白く細い脚をぶらぶらと揺らしながら、手にした細い鞭を弄んでいる。
「『申し訳ありません』だけで済むと思ってるの?」
鈴を鳴らしたような可愛らしい声だった。
少女は机から飛び降りると、支局長の周囲をゆっくり歩き始めた。
コツ、コツ、と靴音が床へ響く。
「研究施設は荒らされた。依織ちゃんも管理下から外れた。しかも、このままだと調べられたくないものまで見つかっちゃうかもしれない」
足音が止まる。
「これってさあ、普通に考えて『失敗』ってことでしょ?」
鞭の先が、支局長の背中をなぞった。
大きな身体が激しく震える。
「ひっ……! も、申し開きもございません……! ですからどうか、お仕置きを……!」
「ふうん? お仕置きされたいんだ?」
「は、はいっ! どうか、この不出来な僕に天使様の
パァン!
鞭が振り下ろされ、背中に赤い線が走った。
「ひぅっ!」
支局長は前へ崩れそうになりながらも、懸命に姿勢を戻す。
苦痛に顔を歪めながら、それでも口元には奇妙な笑みすら浮かんでいた。
「ああ……ありがとうございます、天使様……」
「…………」
「もっと……もっと、この愚かな僕をお叱りください……!」
少女は冷たい目で男を見下ろした。
「きっもちわるい」
「はひぃ……! ありがたきお言葉……!」
「褒めてないんだけど」
「僕など天使様の足元にも及ばない、虫けら以下の存在でございます! ですから、間違いを犯した時には天使様のお手で正していただかなければ……!」
支局長は額を床へ擦りつける。
組織では誰も逆らえないほどの地位を持ち、長年にわたり功績を積み上げてきた男が、目の前の少女には完全に心酔していた。
少女はしばらくその姿を眺めたあと、小さくため息をつく。
「まあいいや。まだ使い道はあるしね」
「ああっ……! ありがたき幸せ……!」
「うるさい。ちょっと黙ってて」
鞭の先が男の頬を軽く打つ。
「んぐっ……!」
「今から大事な話をするから。ちゃんと聞ける?」
支局長は何度も頷いた。
「よろしい」
少女は鞭を机の上へ放り投げると、そのまま腰掛けた。
「失敗した後始末はちゃんとできる?」
「か、必ず……! 研究記録も設備も、証拠となるものはすべて処理いたします!」
「ならいいよ」
あまりにもあっさりとした返事だった。
「……え?」
「今回は許してあげる」
少女は机から降りると、支局長の目隠しを外した。
青い瞳が真正面から男を見つめる。
「新宿は失敗しちゃったけど、他はだいたい順調だし」
「ほか……ですか?」
支局長自身、計画の全貌までは知らされていないらしい。
少女は楽しそうに笑った。
「この前なんて、別のダンジョン支局で管理してる人間の子たちが、一柱ちゃんと調伏したよ」
「悪魔を……?」
「うん」
何でもないことのように頷く。
「だから証明できたんだ。ちゃんと作れば、人間でも悪魔は殺せる」
支局長が息を呑んだ。
自分たちが何年もかけて殺そうとしていたアスモダイと同じ存在を、すでに別の場所では人間が倒している。
その事実を聞かされ、男はしばらく言葉を失っていた。
だが、やがて恐る恐る口を開く。
「天使様……一つ、お願いがございます」
「なあに?」
「今回の研究に関わる記録、施設、関係者。それらはすべて処分いたします。しかし施設内には現在、想定外の侵入者が存在している可能性がございます」
「へえ」
「通常の職員や探索者では、処理しきれない恐れがございます。ですので……その悪魔を倒した者たちを、お借りしたいのですが」
少女はわずかに考える素振りを見せた。
しかし、すぐに笑った。
「いいよ」
支局長の顔に安堵が広がる。
「ありがとうございます!」
「ボクは優しい天使だから、もう一度だけチャンスをあげるね」
少女は愛くるしい笑みを浮かべ、支局長の頬を指先で軽くつまんだ。
「次は失敗しないでね?」
「必ずや、ご期待に応えてみせます!」
支局長は再び額を床へつける。
少女は満足そうに頷いた。
「じゃあ、お掃除よろしく」
◇
「……来たな」
研究資料を調べていた俺は、顔を上げた。
「何がですの?」
「人間。十数人くらい居る」
新宿ダンジョンの管理領域に、複数の反応が入ってきている。
一般探索者には知られていない閉鎖通路。
そこを一切迷うことなく進み、この研究施設へ向かっていた。
詩乃が黒い金属杖を握る。
「ずいぶんと都合のよいタイミングですこと」
「まったくだね」
俺は管理領域越しに一人へ簡易【解析】を向ける。
すぐに異常が見えた。
依織と同等、あるいはそれ以上に改造された形跡。
能力の出力を強制的に増幅し、脳機能へ干渉した痕跡まで残されている。
その結果として、攻撃性も異常なまでに高められていた。
もう一人。
さらにもう一人。
全員同じだ。
「依織より、ずっと乱暴な改造だな」
俺はさらに【解析】を進めていくと――、
「ん、なんだこれ?」
一つの項目が表示される。
【
「……凶行者?」