「収支は赤字です」
新宿ダンジョンの全体図を眺めていた俺に、
「……いきなり現実を見せてくるね」
「事実ですので」
黒髪の上から猫のような耳を覗かせた小さなαは、表情ひとつ変えずに空中へ数字を並べていく。
先ほどまでの【
それだけではない。
敵を分断するために壁を動かし、依織の戦闘を補助するために床や通路を変形させた。その間、俺自身も管理領域全体を監視し続けていた。
どれも無料でできるわけではなく、ダンジョンに蓄積されていた【
「でもさ、あいつらもいっぱい戦ってたよ?」
「能力も使ってたし、死んだ人もいたでしょ? いっぱい増えたんじゃないの?」
「侵入者九名の生命活動、能力行使、戦闘によって回収した【虚素】。死亡した三名から得た分まで含めています」
「それでも赤字?」
「はい」
「えーっ!」
βが大げさに仰け反った。
その隣では、頭に大きなゴーグルを載せた
「じゃあ次は、もっと強いモンスターを一体だけ作ればいいんじゃない? 壁とかいっぱい動かさなくても、そいつが全部倒してくれるくらい強いやつ!」
「構築時の消費量が増加します」
「だったら倒した敵をいっぱい食べて回収できるようにして――」
「
「まだ最後まで言ってない!」
うん。
こういう時はαの方を信用しよう。
『そもそも貴様らが、我の迷宮を好き勝手に改造するからであろう!』
頭の中からアスモダイの怒鳴り声まで加わった。
(でも前の管理方法だと、侵入者を見つけたら殺すだけだったんだろ?)
『それで何が悪い!』
(今回みたいな相手が何十人も来るたびに全部殺してたら、そのうち人間側も本気になるよ)
『来るならすべて殺せばよい!』
駄目だ。
この前の管理者は経営者というより、縄張りに入った相手へ噛みつく番犬に近い。
「皇牙様。またアスモダイとお話ししておりますの?」
声をかけられ、そちらを見る。
詩乃は黒い金属杖を脇へ置き、俺が広げた新宿ダンジョンの地図を覗き込んでいた。戦闘を終えたばかりだというのに、長い黒髪を整えれば普段の令嬢らしい姿へすぐ戻ってしまうあたりはさすがだ。
「前の経営者が文句を言っていてね」
『誰が前の経営者だ!』
「でしたら、現経営者にはきちんと改善していただきませんと」
『貴様まで認めるな!』
詩乃にも聞かせてあげたいくらい元気だな。
「……でも、赤字なんですね」
依織が心配そうに地図を覗き込んできた。
白い検査着からは着替えさせてやりたいところだが、今は替えの服もない。銀白色の髪にも戦闘でついた埃が残っている。あとで
「私が戦った時も、いっぱい使わせちゃいましたよね」
「依織が気にすることじゃないよ。そもそも敵が来たから使ったんだから」
「でも……」
「それに初めての防衛戦だったんだ。赤字になるくらい試したから、問題点も分かった」
俺は地図の一部を拡大する。
新宿ダンジョンは広い。
そのすべてに強いモンスターを置き、罠を仕掛け、侵入者が来るたびに壁を動かしていたら【虚素】がいくらあっても足りない。
「まず、全部を同じように守ろうとするのをやめよう」
「と申しますと?」
「普通の探索者が使う場所と、稼ぐ場所と、絶対に入ってほしくない場所を分ける」
探索者へ素材や報酬を与え、その活動から【虚素】を回収する一般探索区域。
休憩させて長く滞在させたり、逆に強いモンスターで探索者を殺して一気に
そして研究施設や管理中枢へ繋がる防衛区域。
三つに分ければ、必要な設備も変えられる。
「普通の探索者が歩くところまで罠だらけにしたら、誰も来なくなるからね」
「それは困りますわね」
詩乃がすぐに頷いた。
「それと、皇牙様。通路を頻繁に変えることも避けた方がよろしいかと」
「どうして?」
「地図とあまりにも違う状態が続けば、管理局が大規模な迷宮変動と判断いたします。そうなれば調査隊が組まれるでしょう」
「ああ、それは面倒だな」
今の段階で大勢の管理局職員に調べ回られるのは困る。
「あの……」
今度は依織が遠慮がちに手を上げた。
「閉じ込めるのも、あまり多くしない方がいいと思います」
「閉じ込める?」
「はい。私はずっと研究所で、扉を閉められて生活してたので……急に後ろの道がなくなったら、普通の人はすごく怖いと思います」
なるほど。
俺と詩乃が地図外区画へ落とされた時も、帰り道が消えたこと自体が異常だと判断する材料になった。
「採用」
「え?」
「迷い込んだだけの探索者には、ちゃんと戻れる道を残す。防衛区域は別だけどね」
「……はい」
依織が少しだけ嬉しそうに笑った。
こういうのは俺一人で考えるより、実際に探索する側や閉じ込められた経験のある人間へ聞いた方がいい。
「では、わたくしも意見を申し上げてよろしいのですね?」
「もちろん」
「でしたら、安全地帯には最低限、女性が安心して休める設備も欲しいですわ」
「女性が安心して休める設備?」
「皇牙様が想像していらっしゃるより、女性探索者には困ることが多いのです」
「例えば?」
聞くと、詩乃がじっと俺を見る。
「……それを殿方に一つずつ説明させますの?」
「勉強になるかなって」
「そういうところだけ妙に探究心を出さないでくださいませ」
隣で依織が小さく笑った。
詩乃がそちらを見る。
「依織さんも、今後こちらで過ごされるのでしたら必要になると思いませんこと?」
「えっ。わ、私は皇牙さんの近くなら別にどんな暮らしでも……」
「依織さん?」
「必要です。すごく必要です」
訂正が早い。
俺としては二人が仲良くなってくれるなら助かるんだけど。
そうして意見をまとめているうちに、別の問題に気づいた。
地図を眺めながら、試しに管理領域への意識を薄くする。
すると、離れた場所の情報が急激に曖昧になった。
「……やっぱりこの点が問題だな」
「どうなさいました?」
「今の新宿ダンジョンって、俺がいないと弱すぎる」
侵入者を見つけるのも俺。
相手の能力を【解析】するのも俺。
どの壁を動かすか判断するのも、どのモンスターを送るか決めるのも俺だ。
地上へ戻っている間。
眠っている時。
将来、別のダンジョンへ行った時。
同じ襲撃が来れば、今回ほど上手くはいかない。
「俺が強いだけじゃ意味ないな」
『十分であろう。貴様が殺せばよい』
「俺がいない時は?」
『戻ってから殺せ』
「その間に家を荒らされたら嫌だろ」
『……我の迷宮を家と呼ぶな』
そこはもう諦めてもらおう。
「よし、役割を決めよう」
俺はαたちを見る。
「αは監視と情報整理。侵入者と探索者の行動記録も任せる」
「了解しました」
「βは必要なモンスターや設備の情報を複写できるよう準備」
「いっぱい増やしていい?」
「必要な分だけ」
「ちぇー」
「γは罠と設備の構築。それから壊れた場所の修復」
「改造も?」
「許可を取ってから」
「えー!」
続いて詩乃を見る。
「詩乃は探索者側から見て、危なすぎないか、報酬に魅力があるかを見てほしい」
「承知いたしましたわ」
最後に依織。
「依織は防衛設備のテスト役をお願いできる? 特に殺さず捕まえる方」
「私でいいんですか?」
「【暴食無月】なら装備や能力だけ消せるだろ。対能力者の戦闘テストで参考になる」
「……はい。やります」
依織は胸元で手を握り、今度は迷わず頷いた。
「随分、本格的になってまいりましたわね」
詩乃が半ば呆れたように言う。
「次は俺が寝てても勝てるくらいにしたいからね」
「皇牙様がお休みになっている間は、わたくしがお隣でお守りいたしますけれど」
「じゃあ安心して寝られるな」
「……そういう意味で申し上げたわけでは」
言いながら、詩乃は少しだけ俺から視線を逸らした。
依織がその様子を見て、何とも言えない顔をしている。
その時、ポケットの探索者端末が震えた。
「ん?」
画面を確認する。
送信元は、新宿迷宮管理局。
内容は簡単だった。
地図外区域への侵入。
通信途絶。
大規模な迷宮変動。
当日現場にいた俺と詩乃から、改めて事情を聞きたいらしい。
研究施設については、一言も書かれていない。
「ちょうどいいな」
「何がですの?」
俺は端末を閉じる。
「向こうを調べようと思ってたところだから」
新宿ダンジョンの戸締まりをするなら、まずは誰が鍵を壊そうとしているのか知っておいた方がいい。
今度はこちらから、管理局へ行ってみよう。