『他の
アスモダイの声を聞いた瞬間、さっきまで浮かれていた空気が少しだけ変わった。
俺の前では、
「他のダンジョンと話せるなんて、初耳なんだけど」
『我も教える必要がなかったからな』
「便利そうなのに?」
『便利だからこそ危険なのだ』
アスモダイによれば、ダンジョン同士は深部にある管理系統を通じ、条件次第で互いの存在を感知できるらしい。
ただし接続を許可すれば、こちらの管理領域へ相手の情報が入り込む。
逆に言えば、相手にこちらの情報を探れる可能性もある。だから悪魔同士、お互いに不干渉が基本だったらしい。
「余計に相手の狙いが分からないな……」
「だったら切りますか?」
詩乃が俺の隣へ寄り、表示された情報を覗き込む。
腰まで伸びた黒髪が肩から流れ、その横から依織も顔を出した。
「でも、目的は気になります」
「俺も」
『待て、人間。悪魔同士だからといって仲間とは限らぬ』
「分かってるよ」
人間同士ですらそうなのに、悪魔だけ仲良し集団だと思うほど素直じゃない。
「α。こっちの管理情報はできるだけ閉じたまま、通信だけ許可できる?」
「可能です、
「じゃあそれで」
『おい!』
「大丈夫、話を聞くだけだよ」
接続を許可した直後、頭の奥へ直接響くような低い声が流れ込んできた。
『……アスモダイ、居るか?』
呼ばれた本人が黙る。
『聞こえているのだろう。返事をしろ。フォルネウスだ』
フォルネウス。
たしか、アスモダイと同じく、ゴエティアに登場する悪魔の一人だったか。
ゴエティアというのは、古い魔術書『ソロモン王の小鍵』に収められた、悪魔召喚に関する一編のことだ。
そこには、ソロモン王が使役したとされる七十二柱の悪魔の名前や階級、姿、能力、召喚する際の手順などが記されている。
アスモダイも、その七十二柱の一柱だ。
そしてフォルネウスもまた、その中に名を連ねている。
伝承によれば、フォルネウスは巨大な海の怪物の姿をした侯爵であり、召喚者に言語や弁論、知識を授ける悪魔だという。
ただ、俺が知っているのはそこまでだった。
実際に会ったことがあるわけでもないし、アスモダイから詳しい話を聞いたこともない。
それでも、同じゴエティアに属する悪魔なら、天使について何か知っている可能性はある。
俺は送られてきた情報を【解析】しながら、その声を聞き流す。
「聞こえてるよ」
俺が答えると、今度は相手が黙った。
数秒。
『……人間?』
「そうだけど」
『なぜ人間が応答している』
「今は俺がここを管理してるから」
また沈黙。
『アスモダイはどうした』
「俺の中にいる」
『……何?』
『その説明の仕方をやめろ!』
アスモダイが我慢できずに叫んだ。
依織が口元を押さえ、詩乃も小さく肩を揺らしている。
「別に何も間違ってないだろ?」
『我が貴様に喰われたように聞こえるではないか!』
「だいたい合ってない?」
『合っておらぬ!』
通信の向こうでも、相手がしばらく何も言わなかった。
『……アスモダイ。よもや貴様、人間に取り込まれたのか』
『違う! いや、違わぬが、その言い方も気に入らぬ!』
「面倒だなあ」
『貴様のせいだ!』
少しだけ緊張が薄れたところで、通信相手が再び口を開く。
『なるほど。新宿ダンジョンの様子が突然変わった理由は、それか』
「気づいてたんだ?」
『アスモダイの迷宮は他所からでも感知できるほど、
「言われてるよアスモダイ」
『う、うるさい!!』
どうやら向こうは、新宿ダンジョンの異常をある程度は把握していたらしい。
『さらに、新宿では天使どもの手が入った人間が動いていた』
詩乃の表情から笑みが消えた。
「そこまで知ってるんだ」
『すべてではない。だが天使の匂いくらいは分かる』
『信用するな』
アスモダイが割り込む。
『こやつが何者かも分からぬ。警戒するべきだ』
「それは今のでよく分かった」
『ならばすぐに切れ』
「でも、まだ聞きたいことがある」
他のダンジョン。
他の管理者。
天使。
そして、アスモダイが語ってきた過去とは別の見方。
「そっちは、天使についてどこまで知ってる?」
『その質問に答える前に、こちらから聞きたい』
「何を?」
『人間。なぜアスモダイを殺さなかった』
俺は少し考えた。
「なぜって、別に殺す理由もなかったからだけど?」
『それだけか』
「敵対したから殺しても良かったけど、味方にできそうだったし」
『……ふっ、悪魔を調伏させる人間か。面白い』
『面白がるな!』
通信相手の声に、わずかな笑いが混じった。
『ならば一つ教えてやろう。天使について知りたいのであれば、新宿だけを見ていても何も分からぬ』
「どういう意味?」
『お前が見たものは、新宿で行われていたことの一部にすぎない』
さらに声が続く。
『そして、アスモダイの話だけを信じているなら、なおさらだ』
『貴様……!』
アスモダイの怒気が一気に強くなる。
「やっぱり、言ってることが違うんだ」
『当然だ。起きた出来事は一つでも、それをどう判断するかは同じではない』
その言葉は俺にも納得できた。
アスモダイから聞いている歴史は、あくまでアスモダイが見てきた歴史だ。
だから俺も最初から全部を信じてはいない。
「直接会えば、もっと教えてくれる?」
『来られるのであればな』
αの前へ、新しい情報が一つ送られてくる。
「座標?」
「正確には、横浜にあるダンジョンを示す情報です」
αが答えた。
通信相手の声が低く響く。
『来るがいい、アスモダイを喰った人間』
『だからその呼び方をやめろ!』
『お前が本当に新宿の主なら、こちらまで辿り着いてみせろ』
それだけ残し、通信は一方的に切れた。
静かになった管理室で、詩乃が俺を見る。
「横浜に行かれるおつもりですのね?」
「まだ何も言ってないけど」
「皇牙様のお顔を見れば分かりますわ」
そう言って、詩乃は少し困ったように笑った。
俺のことを昔から知っている彼女には、どうも隠しにくい。
「……私も行きたいです」
依織も俺の袖をそっと摘まむ。
「外のダンジョン、まだ行ったことないので。それに……皇牙さんと一緒なら」
「わたくしも同行いたします」
「詩乃は俺と一緒だから?」
「もちろん、それもございますわ」
即答だった。
依織が詩乃を見る。
「そこは否定しないんですね」
「否定する理由がございませんもの」
『待て! まず我の話を聞け! あやつのところへ行くなど軽々しく決めるな!』
「はいはい。ちゃんと聞くよ」
俺は管理領域を見渡した。
探索者が使う一般区域。
安全地帯。
報酬を置いた区画。
侵入者を段階的に判断する防衛設備。
そして、俺が細かく指示しなくても動けるαたち。
少し前なら、新宿を空けるなんて考えられなかった。
今なら、短期間くらいなら任せられる。
「横浜ダンジョンか……面白そうだね」
俺は送られてきた接続情報を【保存】した。
新宿の外に、俺の知らないダンジョンがある。
そこには、アスモダイとは違うことを知っている管理者がいる。
だったら、確かめに行ってみよう。