「じゃあ、行ってみようか」
俺が岩壁へ近づくと、それまで何もなかった場所に細い亀裂が走った。
音もなく左右へ石壁が開き、その奥から新しい通路が現れる。
「本当に隠してあったんですね」
依織が恐る恐る内部を覗き込む。
「皇牙様にしか見えない情報を受け取っていなければ、入口の存在すら気づけませんでしたわね」
「管理者同士だから使える道なのか、それともフォルネウスが俺のために作ったのか。そこも気になるな」
『気にするところはそこではなかろう』
アスモダイは相変わらず警戒している。
けれど、中へ入ってしばらくすると、俺の興味はフォルネウスより横浜ダンジョンそのものへ向いていた。
通路の横を流れる水は、ただの地下水じゃない。
【虚素】が一定量含まれているうえ、水路ごとに流量が細かく調整されている。
分岐の先では水門のような石壁が開閉し、水棲モンスターが別区域へ移動しないよう制御されていた。
「なるほど。水路そのものを柵代わりにしてるのか」
「何がです?」
依織が俺の隣へ寄る。
「向こうの水棲モンスター。こっち側には来ないだろ?」
少し離れた水路では、魚に太い四本脚を生やしたようなモンスターが泳いでいる。しかし俺たちが歩く通路へ上がってくる様子はない。
「水の成分が区域ごとに違う。自分に合った環境から出たがらないようにしてるんだ」
「そんな使い方もできるんですね」
「うちでも応用できそうだな」
『貴様は何をしに来たのだ』
(見学も大事だよ)
さらに進むと、一般探索者が使う区域と再び接続した。
そこでようやく、このダンジョンに人が集まっている理由も見えてくる。
「よし、今日はここまでにしよう。次の採取区画が開くの夕方だし」
「明日また来ればいいだろ。横浜は無茶しなきゃ結構稼げるんだから」
すれ違った探索者たちが、採取した鉱石を袋へ詰めながら話していた。
別の場所でも、
「西の水路、今閉まってるぞ」
「潮が下がれば開く。先に薬草取ってこようぜ」
という声が聞こえる。
俺は水路へ【解析】を通した。
一定時間ごとに水量を変え、通れる場所そのものを入れ替えている。
同じ採取場所へ探索者が集中しすぎないようにする仕組みらしい。
採取物の再生時期まで区域ごとにずらしてある。
「うちよりずっと経営が上手いな」
『感心するな!』
「いや、これは参考になるよ。新宿でも探索者を散らすのに使える」
「皇牙様、完全に勉強する側になっておりますわね」
詩乃が楽しそうに笑う。
「良いものは真似しないともったいないからね」
「そういうところは昔から変わりませんわ」
「詩乃さん、また昔の皇牙さんの話ですか?」
依織がすぐ反応した。
「ええ。皇牙様は幼い頃から、人のやり方を見て良いと思えばすぐ取り入れておりましたもの」
「……私の知らない皇牙さんですね」
「知りたい?」
そう聞くと、依織は少しだけ間を置いてから頷いた。
「知りたいです。もっと」
「でしたら、わたくしがお教えいたしますわ」
「なんで詩乃の口から? あまり人の恥ずかしい黒歴史とか教えないでよ?」
「何か問題でも?」
会話だけ聞けば穏やかなのに、二人とも妙に譲らない。
その横で水路の底が光った。
「ん?」
しゃがみ込んで、水中から青緑色の小さな結晶を拾い上げる。
【解析】。
名称は【潮晶】。
周囲の水と一緒に【虚素】を吸収し、内部へ蓄積する性質を持つらしい。
「これ面白いな」
俺はすぐ【保存】する。
「何に使えるんですか?」
「小さいけど【虚素】を溜めておける。新宿の防衛設備に繋げれば、一時的な予備の燃料にできるかもしれない」
前回の【凶行者】襲撃では、防衛のために大量の【虚素】を消費した。
こういうものを各設備へ配置しておけば、急な攻撃を受けても最初から本体の蓄えを削らずに済む。
『人の領地から勝手に持ち帰るつもりか?』
「だからまず情報だけだよ。現物が必要なら交渉する」
『妙なところだけ律儀だな』
「勝手に盗ったら外交にならないだろ?」
その時、水路が大きく揺れた。
水の中から長い影が三つ浮かび上がる。
背中に硬い鱗を持つ、大型の水棲モンスターだった。
「来ますわ!」
詩乃が前へ出る。
一体が水中から飛び上がり、長い尾を叩きつけてきた。
依織の周囲へ【
「まとめて消します!」
「待って。水まで食べたら潮晶も巻き込む」
「えっ」
黒球が止まった。
次の瞬間、依織の表情が変わる。
「メンドイなー。じゃあ、敵だけ食えばいいんでしょ?」
裏人格だ。
小型化した黒球が水面すれすれを走り、一体の前脚だけを削り取る。
モンスターが体勢を崩したところへ、詩乃が言葉を放った。
「【
迫ってきた二体がそのまま直進できず、大きく迂回するように方向を変えた。
「今!」
「分かってる!」
依織の黒球が一体ずつ急所だけを抉り、残った一体を俺が蹴り飛ばす。
三体が動かなくなるまで、それほど時間はかからなかった。
「お見事」
俺が言うと、依織が得意そうに笑う。
「皇牙に戦い方を教えてもらったからね」
「わたくしもおりますけれど?」
「詩乃も役に立ってたよ」
「『も』は余計ですわ」
その時だった。
『なるほど』
フォルネウスの声が響く。
『アスモダイよりは、人間の扱いを理解しているようだな』
『なんだとフォルネウス!』
「やっぱり見てたんだ」
『当然だ。お前を我の領域へ入れたのだからな』
「これも試験?」
『半分はな』
半分。
なら、残り半分がある。
『そこから先へ来るのであれば、一つ頼みたいことがある』
「内容次第かな」
『我のダンジョンへ入り込んだものを、取り除いてもらいたい』
フォルネウスの声から、それまでの余裕がわずかに消えた。
『天使の残滓をな』