『天使の
フォルネウスの言葉を聞いても、俺はすぐには返事をしなかった。
横浜ダンジョンの奥へ続く通路を見ながら、まずは確認しなければならないことを整理する。
「残滓って、具体的には何?」
『我の管理領域へ送り込まれた異物だ。放置すれば、いずれ横浜ダンジョンの一部を奪われる可能性がある』
「それを俺に取ってほしいと」
『そういうことだ』
「どうして自分でやらないの?」
通信の向こうで、わずかな間が空く。
『天使の力は我らへ強く反応する。我が直接干渉すれば、異物を排除するどころか、こちらの管理情報まで侵食されかねん』
なるほど。
だから悪魔ではない俺を呼んだのか。
『貴様は人間でありながらアスモダイの管理権限を持つ。さらに、天使どもの技術へ干渉する力まで持っているらしいな』
「そこまで知ってるんだ?」
『知らぬから試している』
「やっぱりさっきのモンスター、試験だったんじゃないか」
『半分と言ったはずだ』
『だから、こやつの言葉を信用するなと言っただろう』
アスモダイがすぐ割り込んできた。
『自分では触れられぬ危険物を、貴様に処理させたいだけだ。利用する気しかないぞ』
(別に、それはいいよ)
『何?』
(俺も利用するから)
善意で呼ばれたなんて最初から思っていない。
相手に欲しいものがあって、こちらにも欲しいものがある。それなら、あとは条件の問題だ。
「分かった。じゃあ報酬の話をしようか」
『まだ引き受けるとも決めておらぬのにか?』
「だから先に聞くんだよ。割に合わなかったら帰るし」
隣で詩乃が小さく笑った。
「皇牙様らしいですわね」
「命を張るのに無料は嫌だろ?」
「もちろんです。わたくしの分まで高く見積もってくださいませ」
「私の分も……お願いします」
依織も控えめに手を挙げる。
「じゃあ二人分追加で」
『随分と欲深い人間だ』
「三人働くんだから三人分だよ」
まず要求したのは【潮晶】。
新宿の防衛設備へ使えるか試したいので、必要量を持ち帰れるようにする。
次に、この横浜ダンジョンで確認したモンスターの情報を【保存】する許可。
「勝手に複製して放流したりはしない。新宿で使う場合も、横浜固有種だと分からないよう調整する」
『……そこまでできるのか』
「できるか試したい」
『その返事は不安しかないな』
さらに、横浜の水路を使った管理設備の一部を見せてもらう。
そして最後が一番重要だ。
「天使について知ってることを教えて」
フォルネウスはすぐに答えなかった。
「俺はそれを聞きに横浜まで来たんだ。危険物を片づけて終わりなら、わざわざここまで来た意味がない」
『すべてを話すつもりはないが』
「俺だって、自分のことを全部話すつもりはないよ」
『……よかろう。貴様が残滓を除去できたなら、我の知る範囲で天使について話そう』
「交渉成立だね」
『待て!』
アスモダイだけが納得していなかった。
『せめて我に相談してから決めろ!』
(今してるじゃないか)
『相談とは、全部決まったあとに報告することではない!』
詩乃と依織にはアスモダイの声が聞こえていない。ただ、俺が急に黙ったので察したらしく、詩乃が顔を覗き込んでくる。
「またアスモダイ様が怒っていらっしゃいますの?」
「うん。俺が人の話を聞かないって」
「それについては、少々同意いたしますわ」
「詩乃まで?」
「私も……ちょっとだけ」
依織まで加わった。
味方がいない。
「二人とも、危険だと思ったらすぐ言ってよ?」
「それを先におっしゃってくだされば満点でしたのに」
詩乃が満足そうに俺の隣へ並ぶ。
依織も反対側へ来たので、自然と二人に挟まれる形になった。
「……皇牙さんだけ先に行ったりしないでくださいね」
「分かったよ」
返事をすると、依織は安心したように頷いた。
◆
フォルネウスから示された道をさらに下るにつれて、横浜ダンジョンの雰囲気が変わっていった。
水路が途切れ、人の気配も消える。
壁を照らしていた青白い鉱石も次第に少なくなり、代わりに白いものが目につき始めた。
「……あれですか?」
依織が足を止める。
石壁の表面から、白い結晶のようなものが生えていた。
一つや二つではない。
奥へ進むほど数を増やし、壁や床の隙間へ根を伸ばすように食い込んでいる。
俺は近づきすぎない位置から【解析】を通した。
「これ……」
単なる物質ではない。
周囲から【虚素】を吸い上げ、その一部を自分の維持へ使っている。
それだけなら寄生植物と大差ない。
問題は、その先だ。
「横浜ダンジョンの管理情報に干渉してる」
「管理情報?」
「誰が管理者なのか。どのモンスターをどこへ置くのか。地形をどう動かすのか。そういう命令を通す仕組みに、こいつが少しずつ別の情報を書き込んでる」
今はまだ限定された区域だけ。
けれど放置すれば、この周辺だけフォルネウスの命令が通らなくなる可能性がある。
『だから我は直接触れられぬ』
フォルネウスの声が響く。
『下手に干渉すれば、我自身と管理領域を繋ぐ情報を辿られる』
「なるほどね」
依織をアスモダイへぶつけようとしていた研究施設を思い出す。
天使側は、悪魔を直接殺す方法だけ研究しているわけじゃないらしい。
「ダンジョンそのものを奪う方法まであるのか」
面白い。
そう思ったところで、詩乃が俺の袖を軽く引いた。
「皇牙様」
「ん?」
「お顔が楽しそうになっておりますわ」
「気のせいじゃない?」
「いいえ。こういう時のお顔は昔から存じております」
「……やっぱり嬉しそうなんですね」
依織まで少し呆れている。
「未知の技術が目の前にあるんだから、仕方ないだろ?」
『仕方なくはない!』
アスモダイからも怒られた。
白い構造物を調べながら奥へ進む。
すると、床の隅に人工物が落ちているのを見つけた。
「これは……」
泥を払う。
壊れた携帯端末。
その横には、ダンジョン探索用の小型計測器と、管理局系の装備に使われている識別番号。
悪魔が置くものじゃない。
人間の探索者がここまで来ている。
「フォルネウス」
『何だ』
「この場所に、人間が入ってたこと知ってたよね?」
沈黙。
さっきまで即座に返ってきていた声が止まった。
「依頼の説明に、その話なかったけど」
『……知っていた』
俺は壊れた端末を拾い上げる。
「そっか」
やっぱり、悪魔との取引は一筋縄ではいかないらしい。
「じゃあ、対価が一つ足りないね」