新宿ダンジョンへ足を踏み入れて最初に感じたのは、空気の違いだった。
巨大な隔壁を一枚越えただけなのに、地下施設特有の機械音は遠ざかり、代わりに湿った石と土の匂いが鼻に届く。天井まで五メートルほどある石造りの通路には管理局が設置した誘導灯が並んでいるものの、その先は暗く、東京の地下にいるという感覚はほとんどなかった。
「いかがですか、
「思っていたより広いね。地上の地下施設とは完全に別の空間だって話は聞いていたけど、実際に入ると印象が違うな」
「お気持ちは分かりますわ。わたくしも最初は、入口を振り返って本当に新宿なのか確認してしまいましたもの」
詩乃が少し懐かしそうに笑う。
俺は足を進めながら、壁や床へ視線を巡らせた。
詩乃には初めてダンジョンに驚いている新人に見えているだろう。
実際、興味深い。
ダンジョン内部には地上より濃い【虚素】が満ちている。モンスターや固有能力にも関わっている未知のエネルギーだが、【データ化】を通して見れば、それはただ漂っているだけではない。
壁の内部にも流れがあり、場所によって密度も違う。
異世界で見てきた魔力とは似ているようで、構造は別物だった。
(やっぱり面白いな。地球には地球の仕組みがあるらしい)
「皇牙様?」
「いや、何でもないよ。詩乃は初級区域には何度も来てるんだろ?」
「ええ。ただ、今日は皇牙様がおりますので、普段より慎重に進むつもりです。何か気になるものがございましたら、勝手に触る前にわたくしへ教えてくださいませ」
「子供じゃないんだから、そこまで心配しなくても大丈夫だよ」
「皇牙様は興味を持ったものに関しては、子供とあまり変わりませんわ」
「ひどい評価だな」
「幼馴染としての正当な評価です」
言い切られてしまった。
昔からよく見ている。
だからこそ、俺が見せている【解析】だけでは説明できない部分にも、なんとなく気づいているのだろう。
もっとも、今の俺がどこまでできるのかは、詩乃どころか俺自身もまだ試していない。
その時、前方の岩陰で何かが動いた。
「皇牙様、わたくしの後ろへ」
詩乃の声から柔らかさが消える。
現れたのは、人間の腰ほどの高さがある猿に似たモンスターだった。灰色の毛の隙間から石のような皮膚が見え、三体が壁や柱へ素早く飛び移っていく。
「ストーンエイプです。初級区域では珍しくありませんけれど、高い場所から石を投げてきますので気をつけてくださいませ」
「なるほど。あれを投げるのか」
俺が見上げた先で、一体の手の中へ【虚素】が集まった。
何もなかった場所から拳ほどの石が作られる。
直後、三方向から礫が飛んできた。
詩乃が俺の前へ出て、静かに口を開く。
「【
俺たちの前で虚素の流れが変わった。
透明な何かに触れたように礫の勢いが急激に落ち、足元へ転がっていく。
「へえ、それが詩乃の固有能力【
「皇牙様、感心している場合ではありませんわ。もう来ます」
ストーンエイプの一体が柱を蹴って飛びかかってきた。
詩乃は腰に差していた黒い金属杖を抜く。
「【鬼に金棒】」
杖を包んだ虚素が、一瞬で密度を増した。
詩乃は細い身体を踏み込みに合わせて回転させ、そのまま杖を振り抜く。
鈍い音がして、ストーンエイプが床を転がった。
(なるほど。結構便利な能力だな)
ことわざや慣用句の意味を、現実の現象として成立させる能力。
【暖簾に腕押し】なら、ぶつかった力を受け流す。
【鬼に金棒】なら、武器を持った自分へさらなる優位を加える。
もっと単純な能力だと思っていたが、想像以上に応用が利きそうだ。
(保存しておこう)
【データ化】で情報を読み取り、流れていく虚素の構造を記録する。
今すぐ使うつもりはない。
初日から婚約者の能力を真似してみせたら、【解析】しかできない新人という設定が台無しになる。
「皇牙様、もう一体来ます!」
詩乃が声を上げる。
残っていたストーンエイプが柱から飛び降り、そのまま詩乃へ向かってきた。
先ほどまで高所から礫を投げていた個体とは動きが違う。長い腕を大きく広げ、明らかに接近戦を仕掛けようとしている。
「【鬼に金棒】」
詩乃が黒い金属杖を構えると、再び虚素が杖を包み込んだ。
飛び込んできたストーンエイプへ向けて振り抜く。
だが、今度の相手は避けなかった。
両腕を交差させ、真正面から杖を受け止める。
「っ!」
鈍い衝撃音が響いた。
強化された杖を受けたにもかかわらず、ストーンエイプは吹き飛ばない。それどころか両手で杖を掴み、そのまま離そうとしなかった。
「詩乃、杖を離して」
「え?」
「早く」
詩乃がすぐに手を離す。
次の瞬間、金属杖を覆っていた虚素が乱れ、【鬼に金棒】によって加えられていた強化が急激に薄れていった。
ストーンエイプは弱体化した杖を横へ放り捨てる。
「今のは……わたくしの【鬼に金棒】が急に弱体化を?」
「直接触ったものに干渉しているようだ。あいつが掴んでいた間だけ、杖にかかっていた能力が阻害されていたよ」
「では、【浸蝕】系の能力を持っているのですね」
「そう考えるのが自然だろうね。さっきの個体とは別物みたいだ」
無から炎や氷などの現象を生み出す【具現】。
すでに存在する物や現象へ働きかける【操作】。
触れた対象の性質を書き換える【侵蝕】。
詩乃の【言実化】は、言葉の意味を現実へ生み出す【具現】を基本としている。
対して目の前の個体は、接触した対象を変化させる【浸蝕】。
それなら今の現象にも筋が通る。
「……少々面倒ですわね。【鬼に金棒】を使っても、また武器を掴まれれば同じことになりますわ」
「たぶんね。だけど相性は悪くないはずだよ」
この三つの系統はジャンケンと似た関係にある。
具現化したものは【操作】の影響を簡単に受けてしまうし、浸蝕されたものは【操作】しにくい。そして直接触れないものを具現化されると、【浸蝕】は変化させられない。
(ジャンケンと違う点は、能力の強さや使い方しだいで勝負の結果が変わること。それでも詩乃の能力なら……)
ストーンエイプが床を蹴る。
詩乃は落とされた杖を拾おうとしたが、その進路を塞ぐように相手が回り込んだ。
(さて、詩野はコイツの攻略法に気づくかな?)
相手が【浸蝕】できるのは、触れた対象だけ。
なら、そもそも触れさせなければいい。
詩乃は三度目の攻撃を受け流しながら相手の横を抜ける。落ちていた杖には目もくれない。どうやら気づいたようだ。そのまま振り返ることなく、短く言葉を紡いだ。
「【飛んで火に入る夏の虫】」
虚素が収束し、空中に小さな火の粒が生まれる。
それは瞬く間に膨れ上がり、制御を失ったかのように業火へと変貌した。ストーンエイプは、まるで夏の夜に群がる虫のように揺らめく炎に呑み込まれる。
『――ギャアアアッ』
次の瞬間、轟と空気が焼ける音が響いた。
業火に包まれた巨体は一瞬で黒く炭化し、そのまま崩れ落ちるように灰へと変わっていった。
「お見事。浸蝕されるまえに押し切ったね」
「皇牙様にそう言っていただけるのは嬉しいですけれど、途中から完全に試されていた気がいたしますわ」
「ちゃんと自分で答えを出したんだから、いいだろ?」
「それはそうですけれど……」
詩乃は杖についた汚れを払いながら、疑わしげに目を細めた。
「ですが、妙ですわね。皇牙様は、今回が初戦闘なんですよね?」
「うん」
「それで、こんなにも冷静に戦況を把握されたのですか?」
「……詩乃なら任せて大丈夫だと信頼していたからね」
詩乃はしばらく黙っていた。
やがて呆れたように息を吐く。
「やはり皇牙様は、わたくしが知っている探索者とは少し違いますわ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「誤魔化されました」
「気のせいじゃない?」
「そういうところです」
不満そうに言いながらも、詩乃の口元には笑みが残っていた。
俺としても収穫は十分だ。
【言実化】の基本構造は読めた。
完全ではないが、保存もできている。
地球の固有能力も【データ化】の対象になる。
それが分かっただけでも、探索者になった価値はあった。
「では、そろそろ先へ進みましょうか。初日ですし、今日は無理をせずに一周したら戻りましょう」
「そうだね」
詩乃と並んで歩き始める。
その時だった。
周囲を流れている虚素が、ほんのわずかに乱れた。
足を止める。
「何かございましたか?」
「まだ分からない。ただ、この辺りだけ少し変だ」
詳しく確かめようとした瞬間。腰の探索者用スマホ端末から、管理局職員の声が響いた。
『
詩乃が端末を見る。
「現在位置でしたら、初級区域の第四通路ですけれど」
数秒の沈黙。
返ってきた声には、明らかな困惑が混じっていた。
『……お二人が現在いる場所ですが、地図に存在していません』