『……お二人が現在いる場所ですが、こちらの地図には存在していません』
「存在していない?」
俺が聞き返すと、通信の向こうで職員が慌ただしく何かを確認する音がした。
『はい。端末から送られてくる映像では通路にいることは確認できます。しかし座標上では、そこには壁しかありません。救助班を向かわせますので、その場から動かず――』
そこで通信が途切れた。
「管理局?」
詩乃が端末を操作する。
「こちら西園寺です。応答してください」
返事はない。
俺の端末も同じだった。通信だけでなく位置情報も消え、地図も読み込めなくなっている。
振り返れば、さっきまで歩いてきた通路まで石壁に閉ざされていた。
「詩乃。こういうことって、ダンジョンではよくあるの?」
「ありませんわ」
即答だった。
いつも余裕を崩さない詩乃が、黒い金属杖を握ったまま周囲を何度も確認している。
「少なくとも、わたくしは初めてです。Dランクになり、中堅の探索者として扱われるようになってからも、このような現象は聞いたことがありません」
「ダンジョンの構造が変わること自体はあるんだよね?」
「ええ。迷宮変動や転移罠もあります。ただし、どちらにも予兆がありますわ。壁が動く、虚素が急激に乱れる、転移陣が現れるなど、何かしらの変化が起きます。先ほどまで普通に存在していた場所が、何の前触れもなく地図から消えるなど……」
詩乃が言葉を切った。
顔から血の気が引いている。
なるほど。
地球の探索者にとっても、これは異常らしい。
俺は閉ざされた壁へ触れ、《解析》を深めた。
壁を動かした痕跡はない。
新しく岩を作ったわけでもない。
通路だった場所そのものが、最初から壁だったかのように変わっている。
(やっぱりそうか)
異世界でも、似た現象を何度か経験したことがある。
岩を壊す。
壁を作る。
人間を別の場所へ飛ばす。
その程度なら上級魔法でも可能だった。
だが、空間や環境そのものへ直接手を加えるとなれば話は違う。
(魔王クラスの魔法使いか、それ以上の使い手がこのダンジョンに居るな)
向こうの世界でも、そんな真似ができる存在は数えるほどしかいなかった。
俺が少し楽しくなってきたところで、前方から重い音が響いた。
「皇牙様、下がってください!」
詩乃が即座に俺の前へ出る。
通路の先にある広間から、巨大な影が姿を現した。
三メートルを超える甲虫型のモンスター。
全身を黒い甲殻で覆い、頭部から太い角を伸ばしている。
「そんな……あれはアーマービートル!?」
「知ってるの?」
「中層以降に出現するモンスターで、Cランク探索者が数人で倒すレベルの強さですわ。初級区域にいるはずがありません」
詩乃の声に余裕がない。
アーマービートルが床を踏むたびに、石の通路へ重い振動が伝わってきた。
「皇牙様」
詩乃が俺を振り返らないまま告げる。
「わたくしがここで足止めします。その間に逃げてくださいませ」
「逃げるって、後ろは壁だけど?」
「どこかに別の道があるかもしれません。わたくしが時間を稼ぎますから、皇牙様は【解析】で出口を探してください」
「詩乃は?」
「後から必ず追いつきます」
嘘だな。
握った杖がわずかに震えている。
自分でも、この相手を一人で止められる保証がないと分かっているらしい。
それでも俺を先に逃がそうとしている。
「詩乃」
「なんでしょう?」
「ここで見たことは、絶対に誰にも言わないって約束できる?」
「……皇牙様?」
ようやく詩乃が振り返った。
「今は冗談を言っている場合ではありませんわ。あれは中層のモンスターです。皇牙様は戦闘能力をお持ちでは――」
「俺は本気だよ」
俺が言うと、詩乃の言葉が止まった。
「約束できる?」
「……はい。皇牙様が秘密にしてほしいとおっしゃるのでしたら、わたくしは誰にも話しません」
「本当に?」
「もちろんです」
「もし俺に嘘をついたら、どうなるか分かるね?」
「え?」
詩乃の首へ手を伸ばした。
細い喉へ指を添え、そのまま少し力を込める。
「皇、牙……様?」
詩乃の紫がかった瞳が大きく見開かれた。
柔らかな首筋から脈が伝わってくる。
さらに少しだけ指へ力を入れると、詩乃の肩が跳ねた。
「約束を破られるのは嫌いなんだ。詩乃が俺を裏切るとは思ってないけど、念のため確認してるだけだよ」
「は、い……絶対に、言いません……」
身体が小さく震えている。
背後では、中層のモンスターがこちらへ近づいているというのに、詩乃の視線は俺から離れなかった。どうやら今は、あの巨大な甲虫より俺の方が怖いらしい。
頭のおかしいサイコパス?
それでいい。
常識や道徳?
そんなもの、異世界に置いてきたさ。
「分かった。詩乃を信じるよ」
「けほっ、こほっ……」
手を離す。
詩乃が自分の首を押さえながら、一歩下がった。
「皇牙様……あなたは、一体……」
「前にも言っただろ。俺が【解析】しかできないっていうのは、世間ではそういうことになってるだけだよ」
アーマービートルが頭を低くする。
突進の構えだ。
俺は詩乃の横を通り、その前へ出た。
「皇牙様、危険です!」
「大丈夫。あれくらいなら、向こうでは雑魚だったから」
「向こう……?」
詩乃の困惑した声を背中で聞きながら、右手を持ち上げる。
久しぶりに使うには、ちょうどいい相手だ。
「見せてあげるよ、詩乃」
指先へ虚素が集まり始める。
「異世界の魔法っていうものを」