「……なるほど。これは面白い」
右手を開き、指を一本ずつ動かす。
首を回してから胸へ触れると、そこにはもう赤黒い結晶はなかった。
代わりに感じるのは、自分の中へ新しく生まれた巨大な何かとの繋がり。
壁。
床。
この広間を満たす
さらにその向こうへ続く、今まで俺には見えていなかった情報。
(これが、こいつの持っていたものか)
詳しく調べようと意識を向けた瞬間、視界が暗転した。
次に目を開けた時、俺は見知らぬ場所に立っていた。
上下も果てもない、赤黒い空間。
地面らしきものはあるのに、踏んでいる感触はない。
目の前には一人の女がいた。
「へえ。お前、ここだとそんな姿なんだな」
『……なぜだ』
女が低い声を漏らす。
さっき見た悪魔のアスモダイは、男とも女とも言い切れない姿だった。
だが今は違う。
艶のある長い黒髪に、褐色の肌。人間離れして整った顔と、薄い布だけで覆われた豊かな身体を持つ絶世の美女だった。
その頭には赤黒い二本の角が伸びている。
『なぜ、貴様がここにいる!?』
「俺の中なんだから、俺がいてもおかしくないだろ」
『我は貴様の精神を喰らった! 肉体も魂も、すでに我が支配下へ置いたはずだ!』
「そう思ってたのか」
俺は自分へ流れ込んでくる情報へ意識を向けた。
アスモダイ。
神性。
記憶。
権能。
ダンジョンを管理する、赤黒い
そして、新宿ダンジョンの奥深くへ伸びている無数の接続。
まだ全容までは読み切れていない。
だが、こうして直接俺の中へ入ってくれたおかげで、外から眺めていた時とは比較にならないほど解析しやすくなっている。
「ありがとう。わざわざ俺の中に入ってきてくれて」
『……何?』
「このダンジョンの中にあるものは、お前がコントロールしているんだろう? 周囲の虚素が支配されていたおかげで、さっきまで能力を使えなかったんだ。でも今は――俺の支配下の中にお前がいる」
アスモダイの表情が初めて変わった。
『まさか……貴様、我を……』
「【解析】してるよ」
その言葉と同時に、アスモダイの周囲へ赤い光が走った。
『やめろ!!』
怒声とともに、空間そのものが歪む。
次の瞬間、数え切れないほどの黒い腕が地面から伸びてきた。触れる前から頭の奥が痺れ、身体の内側から何かを引きずり出されそうになる。
(精神そのものへ干渉する技か)
あえて一本を腕で受ける。
黒い指が皮膚へ食い込み、猛烈な不快感が頭へ流れ込んだ。
同時に構造が見える。
どこから虚素が流れ、何へ作用し、どうやって対象の欲望と恐怖へ入り込んでいるのか。
「なるほど」
『死ね、人間!!』
二本目が伸びてきた。
今度は触れさせない。
さっき読み取った構造を利用し、こちらから干渉する。黒い腕が俺へ触れる寸前で止まり、そのままアスモダイの方へ向きを変えた。
『なっ……!』
「面白いな。もう一回やってよ」
『ふざけるな! 私は古代の神であるぞ!!』
アスモダイの周囲から赤黒い炎が噴き上がる。
一つ前とはまったく別の攻撃。
俺は避けずに見た。
異世界でも似たような術はあったが、仕組みが少し違う。炎そのものより、触れた相手の生命力へ作用して燃え広がるらしい。
一度見れば十分だ。
俺の手の中にも、同じ赤黒い炎が生まれる。
『我が権能を……!?』
「ちょっと違う」
そのまま構造の一部を書き換える。
生命力だけでなく、虚素そのものを燃料にするよう変更。俺の炎がアスモダイの炎を呑み込み、そのまま向こう側まで押し返した。
『あり得ぬ! 我の力を見ただけで、なぜそこまで!』
「使いにくそうだったから直しただけだよ」
『貴様……!』
さらに何度か攻撃が続いた。
幻覚。
精神支配。
感覚への侵入。
どれも普通の人間なら一度受けただけで終わるだろう。
けれど、異世界では精神を壊してくる魔物とも、記憶を書き換える魔術師とも、神を名乗る化け物とも戦った。
今さら一つ増えたところで困らない。
むしろ新しい仕組みを見られる方がありがたい。
やがてアスモダイは膝をついた。
荒い呼吸を繰り返しながら、俺を睨み上げている。
『……この程度で、我を支配したつもりになるな』
「まだやる?」
『当然だ。我はアスモダイ。欲望を司り、人を堕落させ、あらゆる快楽を知る者。戦で勝ったからといって、我が人間などに屈するものか』
立ち上がったアスモダイが、今度は俺へ身体を寄せてくる。何をするつもりなのかは、説明されなくても分かった。
「それも勝負なの?」
『欲望を支配する我に勝てると思うなよ。堕落した貴様を、この手で残忍に痛めつけ、絶望の沼底へ沈めてやる』
「いいよ。俺も色々試してみたいことがあるし」
『……舐めるなよ、人間が』
自分から言い出しておいて、なぜ怒るんだろう。
まあいい。
売られた勝負を断る理由もなかった。
………………
…………
……
『……殺す』
「へぇ、まだ抗う余裕があるんだ」
『絶対に殺す……いつか必ず貴様の身体を奪い、魂まで喰らってやる……!』
しばらくして。
アスモダイは床へ横たわったまま、先ほどよりずっと弱々しい声で俺を
褐色の肌には玉のような汗が浮かび、長い黒髪も乱れている。
俺が近づくと、びくりと肩が動いた。
『触るな!』
「何もしてないだろ、今は」
『近寄るなと言っている!』
何を怒っているのだろうか、この悪魔は。
ただ異世界で覚えたものの、使いみちが無かった性技のスキルや感度を弄る魔法を少し試しただけなのに。
『この程度で我はまだ屈せぬ……!!』
「おぉ、それは助かるよ。まだ試せてない魔法が沢山あってさ」
『……は?』
「一分を千年にまで時間を圧縮した空間に閉じ込める魔法とか、快楽物質を出すスライムを召喚する魔法とか。お前には実験台になってもらいたいんだ。もちろん偉大な悪魔なら耐えられるよな?」
『な、今のを、千ねん……?』
そう言った瞬間。瞳に宿っていた力強さがふっと消え、怯えた少女のような表情へと変わった。
◆
『も、無理……壊れりゅ……』
『やめて……頭いじらにゃいれ……お゛っっ!!』
『お゛っ、お゛っ!……お゛おっ!!』
◆
「そろそろか……お帰り。サービスして一万年にしてみたけど、どうだった?」
『この、アク魔、め……』
目のハイライトは消え、腹は大きく膨らみ、濡れていないところはないのではないかと思えるほど乱れた姿になったアスモダイが、かすれた声で呟く。
酷いなぁ、悪魔はそっちの方だろうに。
「戦っても駄目で、そっちも駄目だったんだから、とりあえず大人しくしてれば?」
『……!?!? だ、誰が貴様などに従うか!』
「別に今すぐ従順になれとは言ってないよ。俺を殺したいなら好きに狙えばいい」
どうせ俺の中にいる。
何かすれば分かる。
それより興味があるのは、こいつが持ち込んだ情報の方だった。
「しばらくここにいて。まだ読み終わってないから」
『我を辞典のように扱うな!!』
怒声を聞きながら意識を現実へ戻す。
次の瞬間、薄暗い石造りの広間が視界に戻った。
倒れたアーマービートル。
壁際で眠っている詩乃。
そこまでは先ほどと変わらない。
だが、俺に見えているものはまるで違っていた。
壁の向こうにある通路。
流れている虚素。
配置されているモンスター。
閉ざされた区画。
さらに、そのすべてを繋いでいる巨大な情報の流れ。
(これは……ダンジョンの管理情報か)
ほんの少し意識を向けただけで、周囲の壁が自分の手足の延長のように感じられる。
どうやらアスモダイ(とデーモンコア)を取り込んだことで、面白いものまで手に入ったらしい。
『き、貴様……我のダンジョンを管理する権限まで奪ったのか!?』
(もう俺の中にあるんだから仕方ないだろ)
『返せ!! それは我の魂でもあるのだぞ!!』
頭の中で騒ぐアスモダイを無視していると、背後で衣擦れの音がした。
「……皇牙、様?」
振り返る。
詩乃がゆっくり身体を起こしていた。
紫がかった瞳が俺を捉えた途端、その表情が固まる。
落としていた黒い金属杖へ手を伸ばし、震える指で握り締めた。
無理もない。
彼女が最後に見たのは、アスモダイが俺の身体を奪ったところなのだから。
詩乃は警戒するように俺を見つめたまま、静かに問いかけた。
「……あなたは、本当に皇牙様ですの?」