「……あなたは、本当に皇牙様ですの?」
詩乃は床へ座り込んだまま、拾い上げた黒い金属杖を両手で握っていた。
眠らせる前と比べて顔色は戻っている。
しかし、紫がかった瞳は明らかに俺を警戒していた。
当然だろう。
詩乃が最後に見たのは、アスモダイの
「俺だよ」
「……そう言うと思っておりました」
「まあ、そうだよね」
俺が一歩近づくと、詩乃の肩がわずかに揺れた。
そのまま反射的に後ろへ下がろうとして、すぐに動きを止める。
俺の視線が、自分の首元へ向いたことに気づいたらしい。
細い喉には、俺が指をかけた時の赤みがまだ薄く残っていた。
「あの時は怖がらせたね。悪かった」
「……皇牙様が、それをおっしゃるのですか?」
「俺だって謝ることくらいあるよ」
「でしたら、もう少し申し訳なさそうなお顔をしてくださいませ」
「難しい注文だな」
詩乃は呆れたように俺を見たものの、警戒はまだ解いていない。俺が本人かどうか確かめる方法を考えているのだろう。
「じゃあ、俺たちしか知らないことを話そうか」
「わたくしたちしか?」
「八歳の時。ウチの庭にあった池に、君が落ちたこと覚えてる?」
詩乃の表情が固まった。
「……なぜ、よりにもよってそのお話を選びますの?」
「詩乃が鯉に餌をあげようとして、身を乗り出しすぎて落ちたやつ」
「違います。皇牙様が後ろから急に声をかけたからです」
「それで泣きながら、俺に助けてって手を伸ばしてきた」
「泣いておりません!」
「その後、着物が透けてるから誰にも見せたくないって言ってさ。乾くまで俺の上着を着たまま一緒にくっついていたよね」
「もう結構です!」
詩乃の頬にさっと朱が差した。
「その話を知っているのは、皇牙様とわたくしだけです。お父様やお母様にも、池へ落ちたことしか話しておりませんもの……」
「じゃあ信じてもらえた?」
詩乃はしばらく俺の顔を見つめてから、ようやく杖を下ろした。
「……はい。悪魔が記憶まで読み取っていない限りは」
『随分と疑り深い娘だな』
頭の中から不機嫌な声が響いた。
(お前のせいだろ)
『黙れ。次は必ず殺す』
元気なことで何よりだ。
「そういえば、あの者はどこへ……?」
詩乃が辺りを見回す。
広間には俺たち以外の人影はなく、巨大なアーマービートルの焼けた死骸が転がっているだけだ。
「あぁ、アスモダイのこと? 躾けて飼っているよ。俺の中で」
「……はい?」
「だけど、さっきからずっと喋っててうるさいんだ。あの悪魔が」
『誰が飼われているだと!? それに我は奪い返す機会を窺っているだけだ!』
「今も、自分は吸収されたんじゃないって怒ってる」
「少々お待ちくださいませ」
詩乃が
「悪魔が皇牙様のお身体を奪おうとして……逆に皇牙様が取り込んでしまった、ということですの?」
「だいたい合ってる」
「だいたいで済ませてよい出来事ではございませんわよ!?」
思ったより大きな声が返ってきた。
「わたくしが眠っている間に何があったのですか!?」
「戦った」
「悪魔と?」
「うん」
「どちらが勝ったのです?」
「俺がここにいるだろ?」
「……聞いたわたくしが馬鹿でしたわ」
詩乃は深く息を吐いた。
けれど、当然これだけでは終わらない。
「それより先ほどの炎です。あれは本当に……異世界の魔法なのですか?」
「本当だよ」
ここまで見せた以上、中途半端に隠す意味もない。
「俺は少し前まで、別の世界にいた」
「ですが皇牙様は、高校にも普通に通っておられましたわ」
「地球で経った時間と向こうで過ごした時間が違うんだ。こっちでは大した時間じゃなかったけど、向こうではずっと長かった」
魔法が存在する世界だったこと。
そこで多くの敵と戦ったこと。
最後には世界を滅ぼそうとしていた存在を倒し、地球へ帰ってきたこと。
一つずつ話していく。
詩乃は最初こそ何度も目を瞬かせていたが、やがて何も言わなくなった。
「じゃあ……皇牙様は、本当に一つの世界を救ったのですか?」
「結果だけ言えばね」
「そのようなことをしておいて、どうして第五等級の新人探索者として登録なさっているのです?」
「異世界帰りなんて言っても、信じてもらえないだろ」
「今のわたくしでも、まだ夢を見ている気分ですわ」
それはそうかもしれない。
「それと、【解析】も本当の能力じゃない」
「……まだございますの?」
「【解析】は【データ化】って能力のごく一部。解析したものを情報として読み取って、保存したり、虚素から構築したりできる。さっきの【獄炎】も、異世界で保存した魔法を地球の虚素で再現したものだよ」
詩乃の【言実化】も、すでに保存してある。
今それまで言えば余計に話が
「だから、詩乃が思っていたよりは色々できる」
「色々という範囲を完全に超えておりますわ……」
詩乃はしばらく呆然としていたが、やがて何か思いついたように自分の喉元へ指を添えた。
「ちなみに皇牙様。異世界の魔法には、人を縛るようなものもございますの?」
「縛る?」
「約束を破れなくする魔法です。契約魔法、とでも申しましょうか」
「あるよ。条件を決めて、違反した時に罰を与えるものなら何種類か知ってる」
答えると、詩乃は迷うことなく俺を見た。
「でしたら、わたくしに使ってくださいませ」
「何のために?」
「皇牙様が異世界から帰還されたことも、【解析】以外の力をお持ちであることも、魔法を使えることも、許可なく他人へ話せないようにしてください」
思わず詩乃の顔を見る。
「いいの?」
「もちろんですわ」
「契約内容によっては、破れば本当に命に関わるよ」
「わたくしのせいで皇牙様へご迷惑をおかけするくらいでしたら、死ぬ方がましですもの」
詩乃は笑顔だった。
冗談を言っている顔ではない。
白い指先で、先ほど俺が掴んでいた自分の喉をゆっくりとなぞる。その頬はわずかに上気していた。
「それに……あの時、魂で感じましたの」
「あの時?」
「皇牙様に首を掴まれた時です」
詩乃はうっとりと俺を見上げる。
「怖かったですわ。本当に。この方なら、わたくしが約束を破れば迷わず殺すのだろうと……でも、それと同時に思いましたの」
喉へ添えられた指へ、少しだけ力が入る。
「死ぬのなら、この手で殺されたい……わたくしの身と心、すべてを捧げたいと」
「……そっち(ドM)に目覚めたの?」
「何のことでしょう?」
満面の笑顔だった。
本人に自覚があるのかないのか分からない。
『この娘も大概ではないか?』
(お前に言われたくないと思うよ)
とはいえ、ここまで覚悟を決めているなら拒む理由もなかった。
「分かった。じっとしてて」
詩乃の喉元へ指を触れる。
保存していた契約術式を地球の虚素へ合わせ、【構築】する。
黒い光が細い首を一周し、艶のある黒革にも似た細身のチョーカーへ変わった。中央には小さな赤い紋章が浮かんでいる。
「俺の許可なく、今話した俺の秘密を第三者へ伝えようとすれば締まる。無理に話し続ければ、そのまま意識を失う」
詩乃はチョーカーへ触れ、嬉しそうに微笑んだ。
「皇牙様からいただいた、初めての首輪ですわね」
「そういう言い方すると別の意味になるからやめようか」
「わたくしは別に構いませんけれど?」
駄目だ。完全に何かがおかしくなっている。
ただし、俺も彼女の覚悟へ一方的に甘えるつもりはない。
詩乃には見えないよう、契約術式のさらに内側へもう一つ魔法を重ねる。
契約を守っている限り、致命傷を一度だけ肩代わりし、肉体を生存可能な状態まで戻す守護術式。
こちらについては本人に伝えない。
自分の命まで差し出すと言ったのだから、それくらい返しておけばいいだろう。
「これで満足?」
「はい。これで皇牙様の秘密を、安心して抱えていられますわ」
詩乃は大切な贈り物でも確かめるように、もう一度チョーカーへ触れた。その姿を見ていると、俺の方が妙な契約をした気分になってくる。
しばらくして、詩乃はふっと目を伏せた。
「わたくしは……皇牙様のことを知っているつもりでした」
声の調子が少し変わる。
「幼い頃からずっと一緒でしたもの。皇牙様が世間で言われているほど頼りない方ではないことも、何かを隠していることも分かっているつもりでした」
「詩乃は昔から妙に勘がいいからね」
「ですが、全然知りませんでした」
黒い金属杖を握る指へ、わずかに力が入る。
「わたくしの知らない場所で、皇牙様は長い時間を過ごしていたのですね。知らない方々と出会って、戦って……わたくしが知らない皇牙様になって帰ってこられた」
責めているわけではない。
それでも寂しそうなのは分かった。
俺は詩乃の前へしゃがみ込む。
今度は逃げなかった。
「詩乃が知ってる俺も嘘じゃないよ」
「……本当に?」
「穏やかにしてるのも俺だし、詩乃と一緒にいた時間を大切に思ってるのも俺。向こうで色々あったから、前より多少変わったところはあると思うけどね」
「多少、でしょうか」
「そこは今後確認して」
そう言うと、詩乃はようやく小さく笑った。
「分かりましたわ。わたくしの知らない皇牙様のことを、これから少しずつ教えてくださいませ」
真っ直ぐ見つめられる。
その言葉が単なる好奇心ではないことくらい、俺にも分かる。
「分かったよ」
「約束ですわよ」
「破ったら詩乃に怒られそうだね」
「当然です」
詩乃は満足したように微笑んだ。
さっきまで俺へ杖を向けていたとは思えない変わりようだ。
まあ、これで秘密を共有できる相手が一人増えた。
「ああ、そうだ。もう一つあった」
「まだ何かございますの?」
「この辺り、今から俺のダンジョンみたいだ」
詩乃の笑顔が止まった。
「……異世界を救ったというお話より、そちらの方が意味が分かりませんわ」
「俺もまだ全部は分かってない。だから試してみようと思ってる」
近くの石壁へ手を置く。
アスモダイから流れ込んだ管理情報へ意識を向け、その中から周囲の構造へ繋がっている部分を選ぶ。
『待て。貴様、何をしている』
(動かせるか確認するだけ)
『確認するな!』
虚素を流す。
直後、重い音を響かせながら、目の前の石壁が左右へ開き始めた。
その向こうには、先ほどまで存在しなかった暗い通路が続いている。
「……皇牙様」
「うん?」
「本当に何をなさったのです?」
頭の中ではアスモダイが絶叫していた。
『勝手に我の迷宮を動かすな!!』
俺は新しく開いた通路を眺めながら笑う。
「じゃあ、他にも何ができるのか試してみようか」